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俳句の終わりを考える【前編】

ジャーナリズムと一体化した文学

僕は俳句を作ることはありませんが、ある不愉快な事件から俳句を学ぶようになりました。
「週刊俳句」というサイトで生齧りの現代思想を身勝手に用いる某俳人を批判したら、当人が応じることを避けるだけでなく、代わりに仲間が不愉快なコメントをしてきたのです。
彼らは自分たちが現代思想をきちんと学ばずに適当なことを書いているくせに、
その批判をした僕に「俳句をやらないなら謙虚でいろ」などと言ってきました。
そんなに偉そうに言うなら、彼らの土俵で論戦してやろうと思って俳句を学んだのですが、
その結果わかったことは、彼らは現代思想どころか俳句についても生半可な知識しか持っていなかったということでした。
俳人の多くはアーティスト気分で俳句を作ることには一生懸命なのですが、案外俳句や俳句史をたいして勉強していないのです。
そのため俳人は自分のアラがバレないように、互いに批判をすることがタブーになっています。
批判は裏アカウントやエアリプで行われ、それほどでもない句であっても表面上は過剰に褒め合う「挨拶」が客観評価として流通する有様です。
批判をする人間は非礼であり悪である、という通念が俳句の世界にはあるのです。
それだけではありません。
当時の「週刊俳句」周辺にいた俳人は、俳句をやっていない人間を差別しておきながら、今や俳句の勉強が必要ない「わからない」俳句を褒めることに執心しているのです。
しかし、こういう連中を出版やマスコミなどのジャーナリズムがありがたがって起用しているのも事実です。
どうしてこんな事態になってしまったのでしょうか?


日本文学の終焉が言われてからだいぶ久しいですが、文学がなぜここまで落ちぶれてしまったのかを真剣に議論する風景は見当たりません。
文学批評が影を潜め、サブカル批評が花盛りになった状況を見るだけでも、今の日本ではサブカルがあれば文学は用無しであり、文学の中身がサブカル的なものばかりになっているのは明らかです。
こうなった理由は、単純にサブカルの方が大衆相手の商業ジャーナリズムに適しているからにほかなりません。
日本文学はジャーナリズムとともにありましたし、ジャーナリズムとともに沈んでいく運命にあります。


近代文学が日本の近代化に一定の役割を果たしたのはその通りですが、それだけに近代文学が「同時代性」を強く刻印されていたことは忘れてはいけないことです。
たとえば国民作家として認知されている夏目漱石のメインステージは、新聞の連載小説でした。
いまだに新聞小説というものが続いているように、文学はジャーナリズムとともに歩むことで地位を築いてきました。
その基本的なあり方は今でも変わっていません。
芥川賞はいまだにジャーナリスティックな話題として、かろうじてテレビニュースの価値を維持しています。
「現代思想」という謎のジャンルも同様です。
現代思想関連の話題は、いつも「新しい」を標語とした最新の西洋思想事情として、商業ジャーナリズムによって提供され続けています。
やたら「現代思想」しか興味を持たない文学人が多いのは、それがともに商業ジャーナリズムに担われた双子のような存在だからです。


日本の文学や思想は、このような商業ジャーナリズムの庇護下にあることで生息を許されてきました。
雑誌という定期刊行物に執筆権を持つことが、一流文学者や一流思想家の証のように思われているのもそのためです。
しかし、このような蜜月関係は、ジャーナリズムが腐敗した途端に文学の命運が尽きることを意味します。
おそらく無意識下では誰もがわかっていることだと思いますが、ハッキリ言って日本のジャーナリズムは腐敗しています。
僕は大手新聞社のベテラン記者から、その原因が受験エリートばかりを採用して官僚化したことにある、という印象的な話を聞いたことがありますが、
おそらく新聞購読者の減少に伴う、広告スポンサーの影響力拡大などの複合的な要因があると思います。
ジャーナリズムの腐敗は、その庇護下にある文学や思想の腐敗を招くことになります。
権力批判のできない忖度ジャーナリズムでは、権力にすり寄る人間だけが出世します。
そうして出世した人物に起用される作家や学者が、同様に権力にすり寄る人間になるのは道理です。
こうして政権批判ができないジャーナリズムの下にある文学や思想は、表面的な反権力のポーズをガス抜きとして提供し、実質的な権力批判を潜在的に弾圧することになるのです。
出版ジャーナリズムを批判する僕に対して、高圧的な弾圧をしてきた千葉雅也やポストモダン俳人たちが、一人残らず出版ジャーナリズムにすり寄っている人間(もしくは編集者!)であるのはわかりやすい図式です。
彼らにとって、出版ジャーナリズムから文学や思想を「独立」させようと目論む僕のような存在は目障りに違いありませんが、
情けないのは、そういう出版ジャーナリズムに依存する連中が、その先兵となって批判言論の弾圧を実行したことです。
出版社が自ら言論弾圧したら大問題になるので、その代わりに弾圧を実行してくれる理性に欠けた自己愛ワンちゃんが手足になってくれるのは大歓迎なのです。
ただ、Amazonレビューは弾圧できても、僕の個人ブログを弾圧できないのは残念でしたね。


ちなみに僕が日本文学がもうダメだと思ったのは、村上龍の『インザ・ミソスープ』(1997年)が現実の凶悪事件とシンクロしたことが話題になった時です。
『インザ・ミソスープ』は酒鬼薔薇聖斗を名乗る少年が引き起こした神戸連続児童殺傷事件の最中に新聞連載されていた小説で、小説の内容と現実の事件が重なったということなのですが、
文学と現実の関わりが、現実の凶悪事件を「先取り」したことに見出されるようになったことに、近代文学の終焉を感じたものです。
この頃には完全に純文学は「今という時代」を切り取る社会学の教材でしかなくなっていました。
阿部和重の芥川賞作品『グランド・フィナーレ』(2005年)も現実の事件を予言したという同じような宣伝を繰り返していましたが、その頃の僕はもう日本文学に興味を失っていました。
この前の芥川賞に選ばれた宇佐美りん『推し、燃ゆ』(2020年)も、アイドル推しや発達障害という「同時代性」を切り取った点が評価されたのでしょう。
性的マイノリティのゲイ小説や、ジェンダーやBLを全面に押し出した俳句なども、ジャーナリスティックな話題を提供するだけに終わっています。
このように、日本文学はとうとう内容まで商業ジャーナリズムの下請けになってしまったのです。
もはや日本人は「文学」という言葉が表すものを、腐敗の中で完全に見失ってしまったと言えると思います。


それもこれも日本近代文学がジャーナリズムの庇護下にあったためなのです。
ここには完全に上下関係が存在しています。
ジャーナリズムが近代文学の父であり、近代文学はその永遠の息子でした。
これが戦後においては、日本がアメリカの庇護下にあったこととパラレルな関係にあったことを見逃してはいけません。
モラトリアムなサブカル文化がアメリカの庇護下にある戦後日本から生まれたものであることを考えると、日本近代文学がサブカル化するのは当然だと言えるのかもしれません。
僕自身は、三島由紀夫や大江健三郎(近代文学)と村上春樹(サブカル文学)の間にある「切断」は、戦前と戦後の「切断」に対応していると感じています。
村上春樹の作品には、日本がアメリカと戦った過去は存在していません。
ということは、歴史が存在していないということです。
戦後の経済成長がもたらした消費資本主義では、市場ネットワークによって自然にヽヽヽ生成されるヽヽヽヽヽ「今」という時間だけが現実なのです。
その消費的な「今」を提供するのが商業ジャーナリズムなのですが、
インターネットという多元的ネットワーク・メディアの登場によって、中央集権的な商業ジャーナリズムの求心力が低下してしまいました。
消費資本主義的な「今」はインターネットの普及によって、マーケティングのコントロールから外れたカオスへと突入していったのです。


本来なら、商業ジャーナリズムとインターネットが消費的「今」をめぐって闘争を繰り広げるところなのですが、
日本の商業ジャーナリズムは安直にインターネット上の流行を取り上げて、インターネットの「今」に追従することを選んでいます。
これはもう、勝負アリです。
今の音楽業界がインターネット上で話題になった新人歌手を次々と追いかけているように、
文学も書籍のデータ化が一般化するようになれば、同じ状況に陥ることでしょう。
「今」を伝えるジャーナリズムに依存した文化はインターネットに屈する運命にあるのです。
そこには絶対的な速度の差があるからです。


俳句の散文化は「速さ」が原因

データのデジタル化という点では、伝統短詩は小説より流通速度において優位に立っています。
短い詩型はインターネット上で簡単に人の目にさらすことができますし、受け手が享受するのに時間も要しません。
「速さ」が要求されるネット・コミュニケーションには適合したジャンルだと言えると思います。
しかし、文芸において「速さ」というものは諸刃の剣です。


小説の場合、読者が作品を読み切るのに時間を要する代わりに、それだけ読者を作品世界に長くとどめることになります。
それが読者の関心を作品そのものへと結びつけることになりますが、
たとえば短詩の場合、読者がすぐに一首や一句を読み終えてしまうので、作品世界を強く印象づけるのは難しくなります。
つまり、小説の場合は、作品そのものを持続していけば、読者を継続的に引きとどめることができるのですが、
短詩の場合はまさしくネット上の情報を見るように、次々と違う人の作品へと目を通していくことになります。
そうなると、小説は作者の存在感がなくても作品の評価という形でフィードバックがあるわけですが、
短詩は単体の作品だけでまともな評価を受けるのは難しくなってしまいます。


これが新聞やテレビなどへの投稿であれば、一首や一句でもそれなりに価値が認められます。
日付に結びつけられた広域的メディアに、自分の名前とともに一首や一句が掲載されれば、自己の存在と結びついた作品への評価が実感できるからです。
ベネディクト・アンダーソンは日付に結びつけられた広域的メディアが、国民という「想像の共同体」を形成する基礎となったと主張していますが、
中央集権メディアからの承認は、模範的な「国民」としての承認を受けたのと同様の効果をもたらします。
しかし、インターネットでの作品流通では、よっぽどバズらないかぎり、そのような気分にはなれません。
「速さ」における流通は、日付と結びつくこともなく、「今」を通り過ぎれば流れ去ってしまうものでしかないからです。


じゃあ旧メディアに投稿すればいいかというと、前述したように商業ジャーナリズムは縮小の一途にあります。
つまりはインフラ自体の広域性が疑われるようになってしまうのです。
新聞なんて誰が読んでいるのか、
テレビなんてもう見ている人はほとんどいない、
雑誌は並んでいるけど買ってまで読まない、
などという事態がこの先どんどん進んでいくのです。


否応なく「速さ」にさらされた短詩作者が、この事態に対処する方法は二つ考えられます。

① 小説のように読者が作品世界に没入するものを作って、作品への評価を獲得するという方法。
② 作者としての評価を獲得することで、読者に自分の作品をあらかじめ差異のあるものとして享受させる方法。

今回は俳句の話をしているので、俳句を例に取りますが、
①をめざすなら、句集や連作という単位で自分の作品を読者に提供することになるでしょう。
②なら、平凡であることを避けて「詩人」や「アーティスト」として個人的評価を獲得する、そこまでの力がなければ人脈等で「才能」「個性」を内輪演出することになります。
もちろん、この両方を同時にめざしても構いません。
インターネットが普及した「今」の時代に俳人が生き残るためには、話題の句集を出版し、「アーティスト」としての評価を得ることがとりあえずのゴールとなります。


しかし、こうした動きは必然的に二つの事態を招くことになります。

① 総合的存在をめざす俳句は、連作化して小説に近づくため、一句一句がどんどん散文化してしまうこと。
② 「アーティスト」としての評価を得るために、短詩でありながら簡単に共有されてはならず、わかりやすさや大衆性から距離を取らなければならない、ということ。

このような「速さ」の影響がもたらす創作事情が、今の俳句界の中心問題だと僕は思っていますが、俳人でこういうことを考える人がいるように見えないので、仕方なく僕が書いています。
メディア露出に勤しむ俳人は、自己の便宜や承認のことばかり考えていて、俳句をとりまく客観的な状況を冷静に見極めることができていません。


しかし、これら二つの方向性が解決策になるかというと、ここで俳句業界の根底に関わる問題が大きな障害になると僕は想像します。
この問題を考えていくためには、近代の俳句史を見直す必要があります。
時代は正岡子規の没後にさかのぼることになるでしょう。
子規の俳句革新のあと、2人の有能な弟子である高浜虚子と河東碧梧桐は、それぞれ別の道を歩むことになりました。
その歴史が、近代俳句の現代的な問題をすでに提示していたのです。


ポストモダンにはクリエイティビティがない

俳句史を振り返る前に、もう少し現状確認をしておきます。
僕の印象なのですが、最近の俳人は俳句というジャンルが確固としたものだと思いすぎているように見えます。
俳人には有季定型という詩型が、強制力を伴った俳句の「伝統」だという了解があるようなのです。
俳句史を振り返れば、その考えは間違いとしか思えないのですが、
五・七・五の音数律と季語という有季定型の「様式」は、彼らの表現を俳句という「詩」にしてくれるものでありながら、
なぜかそれが彼らの表現を束縛する不自由さであるかのように思われているのです。
そのため、従来の俳句様式をズラしたり崩したりすることが、閉塞感を打破する「新しい」表現に思えているようなのです。


しかし、「新しい」ように見えたとしても、それは単なる時代遅れのポストモダン現象でしかありません。
いまだ俳句総合誌では若手俳人のこのような傾向を、正面切って「ポストモダン」と表現したことがないのですが、
彼らがポストモダンの手法を周回遅れで俳句に取り入れただけの、クリエイティビティ(創造性)に欠けた人たちであることはもっと認識されるべきだと思います。
たしかに伝統派の俳人と比べたら「新しい」ことをやっているのかもしれません。
伝統派には季語や文法などの決まり事を過剰に押しつけてくる俳人までいるようなので、それと比べれば何でもクリエイティブではあるでしょう。
決まり事を強く押しつけられれば、反発する気持ちが出るのは道理ですが、
僕がここ何年かの俳句界を観察してきた印象では、ポストモダン的なズラし行為や自己都合のやり方が増えたことへの対処として、決まり事をうるさく言う人が出てきたように感じています。
このような綱引きは近代俳句が否応なく抱え込んだ問題であって、俳人はこの問題の原因がどこにあるのかを知る必要があると思います。


僕は一貫してポストモダン精神を批判しているので、俳句のポストモダン化も同様に困った問題だと思っています。
とりわけ不愉快なのが、クリエイティビティのカケラもないポストモダンの方法論をなぞった人たちが、仲間内でアーティストであるかのような自意識を垂れ流し、業界がそれを後押ししているという腐敗現象です。
僕が特定の俳人を嫌って攻撃していると思いたい人もいるとは思いますが、そんなことをして俳人でもない僕には何の利益もありません。
真にクリエイティブでもないものをクリエイティブであるかのように装う、
クロをシロと言うようなポストモダン的な偽装行為に義憤を抱いているだけなのです。


ここで僕が言うポストモダンとは、高度資本主義経済によって安定した社会状況を所与のものとして自明視して、
その安定した社会の枠の中で「常識」として機能するものを、遊戯的にズラしてその仮設性と相対性を示すことで、自分だけは常識的大衆から抜け出したメタ的人物であると思い込む「自己愛」のあり方のことです。
最近チヤホヤされている俳人は、ほとんど全てこの定義に当てはまると思いますが、
ポストモダン的なズラしなど、社会の安定性へのアイロニカルな信頼表明でしかないのです。
僕は本当に苛立ちを感じるのですが、ポストモダンという欺瞞がいつまでも成立するのは、「自己愛」を手放せない日本人の精神的な弱さが原因です。
深い話をすると、ここにはストイックな自己修養を価値とした朱子学的伝統が、敗戦によって欲望原理へと置き換えられた歴史と関連があるのですが、今回はそこには深入りしません。
とりあえず、ストイックな自己修養が悪とみなされるのが、戦後文化しか知らないポストモダンのあり方なのです。


ポストモダンとは、社会への依存性をメディア的表層によって隠蔽するための〈可視的表層主義スペクタクル〉の技術でしかありません。
表で批判をしている敵と裏で握手するような裏切りを、スキゾフレニックなあり方として肯定しているのです。
大衆の共感性に支えられた俳句の「情趣」を拒否しているわりに、大衆向け俳句の宣伝媒体である俳句総合誌や新聞俳壇、NHK俳句などには喜んで出ていくポストモダン俳人も同様です。
彼らは本質的に業界に反抗できない甘えた連中であり、既存メディアはそれを見透かしているため、安心して彼らを使っています。
要するにポストモダンとは、優等生による「ヤンキーごっこ」なのです。
アウトローを自称していた俳人が、角川の編集者という既存勢力のインサイダーだったりするのは、絵に描いたようなポストモダン現象なのです。
自己演出の部分を無視して、彼らの行動だけを見れば、ただ権力に従順な人たちでしかありません。


その意味で、彼らの「新しい」試みは、決して旧権力の否定にはなりません。
むしろ、旧権力に依存しているのが実情なのですから。
ポストモダン俳人たちは俳句業界によって売り出された「新製品」でしかないのです。
旧来の工場の旧来の機械によって生み出された、製造ラインを同じくする「新製品」としての新しさです。
製菓会社が開発する新たなフレーバー商品と何ら変わりません。
「きのこの山」の白桃味とか、「たけのこの里」のあんバター味とか、そういうものでしかないのです。
要するに、元祖商品が確固としたものであるから成立するだけのものです。
そんな「新商品」を作ったくらいで、商品開発者がアーティスト顔をしていたらバカにしたくなるのも当然ではないでしょうか。


これまでの俳句に否定的であるくせに、彼らが「俳句」「俳句」と大きな枠組みを語りたがる事情もこれでおわかりになると思います。
明太子味の「きのこの山」など、「きのこの山」シリーズとして認知されないと誰も食べてくれません。
ノーブランドのお菓子だと売り上げが期待できないので、自らが「きのこの山」であることについては積極的に主張せざるをえなくなります。
ここが「ポストモダン俳人の矛盾」なのです。
これまでの俳句とは違うのだ、新しいのだ、と言うわりに、俳句の内部には絶対にとどまりたいという矛盾です。
ポストモダンはモダンを批判するのですが、実はモダンを否定してしまうと自らの存在基盤がなくなってしまいます。
これが同一の生産ライン上でしか「新しい」ことを表明できない原因です。
絶対に否定できない聖域を隠蔽しながら、表層的な新しさを強調し、そこに人々の注目を集める〈可視的表層主義スペクタクル〉こそが、ポストモダンの正体なのです。


ポストモダンとは、このような新フレーバーの「劣化商品」を次々と生み出すシステムでしかありません。
(浅田彰→東浩紀→千葉雅也という知の商品劣化が象徴的です)
ポストモダンが資本主義的近代から「切れ」ることができないように、ポストモダンとは近代(モダン)の延長にある「劣化した新製品」たちの世界でしかないのです。
「新製品」が古いものより優秀であることもある、と思う方もいるでしょうが、それは技術的な面に限ります。
文化のクリエイティビティにおいては劣化するのがほとんどです。
なぜなら、元祖を乗り越えるような試みが全て潰えてしまうからです。
「新しい」とは言っても、それは同一の生産ラインにある旧製品を否定するものでしかなく、その製品を生み出す会社を否定することは絶対にありません。
旧製品を生み出した基盤を保存しているため、革命的なイノベーションは起こりません。
それどころか、新規参入の会社が成長して既存メーカーの顔ぶれを変えることすらありません。
ただ、内部で効率化が図られるだけです。
余談ですが、インターネットのアプリ開発には、ほとんどクリエイティビティは必要ないように思えます。
需要と供給のマッチングをデジタルによって効率化し、中間搾取を取り除いた創造性のないものばかりです。
文化や制度にクリエイティビティが必要とされなくなったので、文系の学問が必要ないと言われるようになったのです。


ポストモダン思想の近代批判も、近代の本質的土台(資本主義による個人主義)は否定しません。
ポストモダン精神の特徴は、旧秩序を絶対に破壊することのない範囲で、戯れに秩序をズラして自己顕示をすることにあります。
創造性のない人文学の世界は、ただ自己顕示の売り込みの場へと堕落してしまいました。
本質的土台に対する批判こそが、クリエイティビティが発揮される革命的な仕事なのです。
つまり、定型という本質的土台を保存する俳句には、ズラし行為でごまかそうが真のクリエイティビティは生まれませんし、アートになど天地がひっくり返ってもなれるわけがないのです。
なぜ亀が空を飛ぶことを夢見るような、くだらない妄想を業界挙げて支持しているのでしょうか。


4 Comment

芋村さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
芋村さんのコメントに感謝します。

結社は宗匠システムの延長にあるでしょうが、
捉え方によって類似も差異も見出せる気がします。
僕も虚子は反動だと思っていますが、いまだ俳句文化は虚子の視野の外に出られている気はしません。
そのため、僕には雨蛙さんが言うことと芋村さんが言うことは、特に矛盾していないように思えますね。

結社≒宗匠制度

横から失礼します。
雨蛙さん
結社制度は虚子が作ったというより、要は宗匠制度の援用でしょう。子規は宗匠制度を脱却しようとしたので、そこが虚子が反動といわれる所以ですね。

雨蛙さんへのコメント

どうも、南井三鷹です。
雨蛙さん、コメントありがとうございます。

結社によって俳句文化を維持するという考えは、僕もイメージしていないですね。

僕は虚子の作ったシステムを肯定したいわけではありません。
俳句にとって「読み」が重要であるというのはもちろん、
俳句は「居心地の悪い」ものであるので、子供じみた夢を見ていると滅ぶよ、ということ。
純粋読者のいない世界なので、大衆的な作者に依存してしかアートぶった俳句ができない、
つまりアートや詩をめざしても、大衆的な作者の承認を必要とするため、
「内容」を持つことができず、ジャーナリズムと結託した空疎なペテン読解という「宣伝」に依存する運命になる、
それを避けて芸術的な俳句を実現したいなら、
大衆に支えられた俳句市場などに依存するな、ということが言いたいのです。

読みを含めた訓練システムというのは、いい発想だと思いますが、
どう実現するかが難しいですね。
訓練が理屈によってなされると、新月並俳句だらけになりそうです。

無題

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