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『人新世の「資本論」』(集英社新書)斎藤 幸平 著

新書大賞という「売り文句」

斎藤幸平の論考やインタビュー本を、僕はだいぶ前から何度か取り上げています。
彼は大昔に僕のAmazonレビューについて千葉雅也とTwitterでやりとりしているので、僕のことも記憶の隅には残っていると思います。
そんな昔馴染みの斎藤の著書『人新世の「資本論」』(2020年)が、今年の新書大賞の第1位に選ばれたというニュースを知って、
発売当初に購入したまま放っておいた本書を読むことにしました。
なぜ今まで読んでいなかったのかというと、僕はすでに斎藤の書いた専門論考をいくつも読んでいるので、だいたい内容が想像できるからです。


『人新世の「資本論」』のテーマは環境問題です。
「資本論」という言葉でわかるように、斎藤は新進気鋭のマルクス研究者です。
一般的にマルクスの思想は、資本主義を超克する共産主義(コミュニズム)を実現する階級闘争の理論だと思われています。
しかし、マルクス思想の射程はそれにとどまりません。
マルクスが書きためて書籍化するまでに至らなかった抜粋ノートというものが残っています。
それを紐解いていくと、晩年のマルクスのエコロジーに対する関心が浮かび上がってくるのです。
(斎藤も執筆した『マルクスとエコロジー』(2016年)についての僕のAmazonレビューで詳しく触れています)
斎藤がマルクスの抜粋ノートから取り出すのは「物質代謝論」というものです。
「物質代謝」とは自然から受け取ったものを自然へと返す循環のことなのですが、念のため本書にある斎藤の説明を引用しておきましょう。


人間は絶えず自然に働きかけ、さまざまなものを生産し、消費し、廃棄しながら、この惑星上での生を営んでいる。この自然との循環的な相互作用を、マルクスは「人間と自然の物質代謝」と呼んだ。(斎藤幸平『人新世の「資本論」』)

この物質代謝を乱しているのが資本主義です。
資本は剰余価値による自己増殖にしか関心がないので、人間と自然の関係など考えてはくれません。
つまり資本主義に適応した欲望を解放すると、自然環境も人間の生活も破壊されていくことになるのです。


斎藤は資本主義では環境問題は解決できないので、「脱成長コミュニズム」をめざすべきだと力説しています。
そう、斎藤は資本主義に否定的なのです。
そして、環境問題を配慮した新テクノロジーへの「消費的」パラダイムシフトでは問題は解決できない、
資本主義的な成長をあきらめて、市民による共有(コモン)を基礎とした「脱成長コミュニズム」によってしか環境対策は実現できないと言っています。
斎藤は一般書では「コモン」という言葉を使いますが、これはマルクスの言う「アソシエーション」に類似するものと考えても問題ないでしょう。


僕の認識では、斎藤幸平は佐々木隆治や隅田聡一郎たちとともに新しい『マルクス・エンゲルス全集』(通称MEGA)の編集委員をしているマルクス研究者です。
しかし、奇妙なことに『人新世の「資本論」』のカバーに書かれた著者経歴には、マルクスのマの字も書いてありません。
新書大賞は中央公論新社が主催なのですが、そこで紹介されている著者プロフィールはこんなふうです。


斎藤幸平(大阪市立大学経済学部准教授)
さいとう こうへい
1987年生まれ。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。「Karl Marx's Ecosocialism:Capital,Nature,and the Unfinished Critique of Political Economy」(邦訳『大洪水の前に』)で「ドイッチャー記念賞」を日本人初、歴代最年少で受賞。
編著に『未来への大分岐』など。


かろうじて『大洪水の前に』の英題にKarl Marxの文字が入り込んでいますね。
今、斎藤幸平のウィキペディアを見てみたのですが、ここにもMEGAに関する記述はありません。
佐々木隆治のウィキペディアには「日本MEGA編集委員」の記述があるので、個人的には不思議な感じがします。
僕の記憶違いかと思って調べてみましたが、斎藤が執筆している『マルクスとエコロジー』(2016年)にも『大洪水の前に』(2019年)の著者経歴にも「日本MEGA編集委員会編集委員」の記述がありました。
しかし、『大洪水の前に』から4か月後に出版されたマルクス・ガブリエルなどへのインタビュー集『未来への大分岐』(集英社新書)では、上記の引用プロフィールとほぼ同じものになっています。
ネットでマルクス研究会のイベントのお知らせを見つけたのですが、2020年のオンライン講座で斎藤幸平のプロフィールはこうです。


講師:斎藤幸平(大阪市立大学准教授)
1987年生まれ。大阪市立大学経済学研究科准教授。日本MEGA編集委員会編集委員。 著書にNatur gegen Kapital: Marx' Ökologie in seiner unvollendeten Kritik des Kapitalismus (Campus Verlag, 2016)、『大洪水の前に』(堀之内出版、2019)、共著に『労働と思想』(堀之内出版、2015年)、編著に『資本主義の終わりか、人間の終焉か? 未来への大分岐』(集英社新書、2019)など。 


ここには「日本MEGA編集委員会編集委員」の肩書きが堂々と載っています。
ということは、別にMEGAの編集委員を辞めたわけではないようです。
そもそも斎藤が史上最年少で受賞した「ドイッチャー記念賞」とは、マルクス主義の論文に与えられる賞です。
また、マルクス・ガブリエルとスラヴォイ・ジジェクの共著『神話・狂気・哄笑』(2015年)の斎藤の経歴には、
「ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミー客員研究員」と書かれているのですが、
ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミー(BBAW)は、MEGAの編集機関である国際マルクス=エンゲルス財団(IMES)の実務面を担当する関係にあります。
ちなみに新MEGAの編集事業は1967年に旧東ドイツのマルクス=レーニン研究所で始まったのですが、政治状況の影響で中断してしまいました。
ベルリンの壁崩壊後の1990年にアムステルダムの国際マルクス=エンゲルス財団に引き継がれて、今にまで編纂事業が続いているのです。
こう考えると、斎藤とMEGAとは切っても切り離せない関係があるはずなので、僕が彼を「日本MEGAの編集委員」と認識していたのは真っ当なことに思えるのです。
しかし、なぜか新書の経歴には載せてもらえないのです。


こんな細かい話はどうでもいい、と思う人は多いでしょうが、斎藤幸平の話をするときに僕はこの点がまさに本質だと思っています。
なぜ集英社や中央公論新社は斎藤幸平がマルクスの研究者であることを隠そうとするのか、ということです。
いや、別に隠したくて経歴から「MEGA編集委員」を消したわけではなく、MEGAなんて一般には誰も知らないから入れないだけだ、と言われれば、そうかもしれないと思います。
しかし、ウィキペディアに記述がないのはどうにも不自然です。


世の中には「そんなつもりはない、それは言いがかりだ」と言えばすむことがたくさんあります。
しかし、人間には嘘をつく能力がありますので、当事者の言が正しいという保証は全くないのです。
(とりわけ当事者の嘘の答弁が国会で頻発しているのが現代日本です)
だから、僕は故意に「言いがかり」をつけることにしています。
「言いがかり」が存在して、それに対して有効な反論(被害意識による文句は問題外)が存在し、どちらが「もっともらしい」かを受け手が判断すればいいと思うのです。
だいたい裁判で決められている「真実」とはそういうものです。
日本人は学者であっても当事者性と権威主義(批判する人はちゃんと読めてない)を振り回して、論理に基づいた有効な反論を示せない無能な人が多すぎます。


僕は集英社や中央公論新社が斎藤幸平の肩書きから「マルクス」を意図的に消去したと思っています。
その理由は、出版ビジネスを考えれば「コテコテの左翼臭」は損だからです。
今は「ネトウヨ」と呼ばれるインターネットを根城にした保守勢力が、出版界に影響を持つ一定の顧客層になっています。
彼らは脊髄反射で生きているので、マルクスとあれば共産主義で、共産主義というものは我らが敵陣営だから悪だと思っています。
もちろん斎藤幸平の本も少し読めばマルクスに依拠しているのはわかるのですが、
マルクス研究者がマルクスについて書いたものと、ニュートラルな知識人がマルクスからヒントを得たのでは、読む人の反応が違います。


まあ、結果として新書大賞になったので、斎藤幸平の「売り出し」に関しては大成功だったと言えるでしょう。
この本の意義はここにしかないと僕は思っています。
斎藤幸平という左翼系の若手論者の「売り出し」ということです。
日本人が定期的に好んでやるアレです。
柄谷行人はマルクスを軸にしていましたし、浅田彰も明らかに左翼系の論者でした。
その後継者である東浩紀や千葉雅也はサブカル・オタク系論者であり、本人がどう思おうとこの系列は保守でしかありません。
(千葉は最近やたらリベラル批判を繰り返しているようですが)
朝日新聞は愚かなので、この手の連中を系譜だけで左翼系だと思い込んで起用していたようですが、頭を使わない人たちだと思っていました。
はっきり言って、今の日本にはもう右とか左とか、知識人とか大衆とか、明確なサイド分けが成立するほどの差異はありません。
ただ凡庸さの支配があるだけです。


平然と矛盾を受け入れるメンタル

僕は『人新世の「資本論」』の内容を詳細に検証する気はありません。
やり始めると長くなるのが僕の常なので、今回は僕の関心だけを取り上げようと思っています。
僕がこの本の書き手とこの本を評価した人に感じるのは、その「平然と矛盾を受け入れるメンタル」は何なのか? ということです。
ちょっと頭があれば、この本にまつわるいろいろなものが矛盾でしかないことに気づけるはずです。
それが矛盾だと言わないだけでなく、新書大賞などと評価してしまう。
矛盾だらけで現実性のない未来像でも、若手論客が未来像を提示しただけで手放しで誉めてしまう。
なぜそうなってしまうのでしょうか?
答えは簡単です。
出版業界が売り上げを伸ばすためには、それが必要だからです。
ハッキリ言って本の内容などどうでもいいのです。
この本の目的は斎藤幸平の「売り出し」でしかないのですから。


そもそも新書大賞がどう決まるかご存知ですか?
主催する中央公論新社ではこう説明しています。


今回の「新書大賞2021」では、2019年12月~2020年11月に刊行された1300点以上の新書を対象に、有識者、書店員、各社新書編集部、新聞記者など新書に造詣の深い方々112人に投票していただいた結果、斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(集英社新書)が 大賞に輝きました。

つまり、この賞に投票するのは業界人ばかりなのです。
(112人しかいないので、大手だけが対象なのでしょうね)
中央公論のホームページに新書大賞の投票内容が一部公開されているのですが、それもなんだか取ってつけた印象しかありません。
たとえば大澤真幸のコメントはこんな感じです。


気候変動に対する解決法は脱成長コミュニズムしかないことを、豊富なデータをもとに明快な論理で説いた本。気候変動に脱成長経済で対処することまでは、多くの人が言ってきた。しかし、資本主義の枠内では脱成長は決して果たせないため、ある種のコミュニズムが必要だと踏み込んで言い切った人は少ない。「コミュニズム」という語を選択し、これにこだわった勇気は称賛に値する。(社会学者・大澤真幸)

大澤は「コミュニズム」にこだわった「勇気」を称賛するのですが、斎藤幸平はマルクス研究者ですよ。
そりゃあコミュニズムにこだわるでしょう。
何を言っているのか、と僕は思ったのですが、これは斎藤幸平の経歴への細工が役立った例かもしれません。


この一年、コロナ禍を通じて、グローバル化の是非や人間と自然の関係を考え直すことになった。資本主義に限界が来ているという予感は、多くの人が共有している。その予感にこの一冊が答えてくれる。(朝日新聞・瀧澤文那)

タイミング良く朝日新聞の人も載っていました。
コロナ禍によるグローバル化の是非と、資本主義と環境問題を扱う本書にどういう関係があるのでしょうか。
「資本主義に限界が来ているという予感」を「多くの人が共有している」ような気がしないのですが、朝日新聞社内ではそうなのかもしれません。
全体的に意味不明なコメントだと感じざるをえません。


明確な問題意識と具体的な将来社会像の提示によって引っ張っていく筆力がすごい。(京都大学名誉教授・竹内洋)

こういう評価があるのも、斎藤の将来ビジョンに共感するからなのでしょう。
斎藤は現在語られている環境問題の対応策では温暖化を回避することはできない、
資本主義を減速し、「脱成長コミュニズム」を達成する必要があるとして、その方法論を「具体的」に示してはいます。
しかし、斎藤が提示した「脱成長コミュニズム」は本当に実現可能なのでしょうか。
あとで詳しく取り上げますが、僕には斎藤の言うことに根本的な疑問が消えませんでした。
そのため、どうにも「脱成長コミュニズム」が杜撰な将来ビジョンにしか思えなかったのですが、
有識者の皆様はこのビジョンが現実的に実現できると本気で思っているのでしょうか。


瑣末なことに思えるかもしれませんが、僕が本書を読んでモヤモヤしたのは原子力発電についての記述がほとんどなかったことです。
コロナ禍については触れていたと思いますが、原発事故による「処理水」は放射性物質を含んだまま海洋放出が検討されているのも「今」の出来事です。
なぜ資本主義と環境(物質代謝)を問題にしておきながら、斎藤は原発問題について触れたがらないのでしょうか。
本書では水道事業や脱炭素社会については書かれていたと思うのですが、原発についての記述は「安全性にも問題が残る」の一文ですまされています。
彼がいたドイツでは日本の東日本大震災の後に脱原発を決めたはずですが、どうして彼からその話が出ないのかが僕には不思議です。
東日本大震災時の福島第一原発の事故によって、放射性物質が環境にどれだけ深刻な影響を及ぼすか多くの人が知るようになりました。
たしかに地球温暖化を考えるときに、原発の扱いが難しいことは理解できます。
CO2の排出量だけを考えれば、ドイツの脱原発はあまりいい結果に結びついていませんが、
斎藤の依拠する「物質代謝」の考えからすれば、放射性物質の産出は無視できない問題だと思います。
実際、斎藤も執筆者として参加した『マルクスとエコロジー』では、隅田聡一郎が『資本論』における技術論として、原子力技術について考察を試みています。
斎藤の危ない橋を避けるようなやり方が、官僚的なバランス感覚に思えて、出世(売り出し)目的の本だと感じさせた部分はあると思います。


出版業界の「平然と矛盾を受け入れるメンタル」を示しているのが、現在の出版業のあり方です。
新書大賞にちなんで新書の話をしますが、2003年に新潮社が新書市場に参入して、養老孟司『バカの壁』で大ヒットを飛ばして以来、
多くの出版社が新書を出すようになり、新書の出版点数はガンガン増えていきました。
明らかに2000年以降の出版市場において、新書は最も資本主義的な成長を見せた部門です。
出版業界が「成長」を求めて市場拡大してきた新書において、「脱成長」を掲げることの矛盾に、なぜ彼らは無関心でいられるのでしょうか。
新書大賞など成長の果実以外の何物でもないのです。
成長の果実に依拠して脱成長を訴えるのは矛盾でしかありません。
食品ロスについては最近注目されるようになりましたが、売れ残った「書籍ロス」については環境問題にしなくて良いのでしょうか。
無駄に印刷物を増やさないことを考えるならば、出版点数を精選する流れになるはずですが、現状は全く逆方向に進んでいるように思います。
つまり、斎藤幸平がどう考えようが、出版業界に環境のために脱成長を実現する気があるようには見えないのです。
「先ず隗より始めよ」ではないですが、身近な業界から脱成長の実現に取り組んだらどうなのでしょうか。


行動する主体はどこにいるのか

僕は以前、政治的無力感の中で現実逃避に勤しむのがポストモダン精神の特徴だと書きましたが、
現代日本は世代を問わずポストモダン精神に侵されています。
行動の主体がいるべき「現場」から距離をとって、媒介を通してしか触れ合うことのないメタ位置に自らを保存するような、高級官僚的なあり方です。
日本のポストモダン精神の理論的裏付けになった〈フランス現代思想〉が、最も高級官僚を生み出す大学に担われたのは偶然ではありません。
〈フランス現代思想〉の思想的基盤は、高級官僚的自己認識(メタ)と動物的欲望(オブジェクト)の絶対矛盾的自己同一にあるのです。
与えられた餌を反射的に欲望する動物でありながら、それら動物を自らが上位から操作しているような自己認識を持つ存在です。
たとえば社畜としてこき使われているのに、自己認識だけは経営者目線であったり、
下層のニートでしかないのに、国家指導者の格差拡大政策を大真面目で支持してしまうようなメンタリティがポストモダン精神なのです。
自分は動員されただけの観客でしかないのに、その映画の記録的ヒットを何やら自分の達成感のように勘違いしたり、
自分は大量に商品購入をしているだけなのに、「推し」の出世に自分が力を尽くしたと勘違いするのも同様です。
つまり、ポストモダン精神では、現実的行動では欲望を満たすことしかしていないのに、自分が社会の欲望を支配的立場から見ているかのように錯覚するのです。


僕は斎藤幸平がやっていることも、このようなポストモダン現象から一歩も出ていないと思っています。
たとえば本書で斎藤は富裕層が大量に二酸化炭素を排出する、という階層問題を書いていますが、
それを指摘したからといって、自分が富裕層に当てはまらないということにはならないのです。
大学の准教授であり、新書大賞で著書の売り上げも伸びるであろう斎藤先生は、多くの人より富裕層の方に近い存在ではないでしょうか。
ここで彼に問うべきことは一つです。
「で、君は環境問題を解決するために何をしているのか?」
僕が聞きたいのはこの答えです。
本書には全くこの答えは書かれていません。


僕自身のことを言えば、僕は自分が批判している出版業界と関わらないことを実践しています。
(実際に出版社から声がかからなければ、無能な人の勘違い発言と区別できないわけですが)
時代に対して反抗するということは、時代をメタ的に批判することではありません。
戦うために自分の欲望や名声をどれだけ犠牲にできるか、という点にあるのです。
自分が今の社会をダメな社会だと本気で思っているのなら、その社会で評価されたいと思うのはおかしなことだと僕は思います。
今の社会が来るべき社会に変化するならば、来るべき社会で評価されることを実践するのではないでしょうか。
なぜ今の社会で評価されることを手放さないのでしょう。
(ここで詳しく説明しませんが、このような歪みはキリスト教が生み出したものです)
今の社会で評価を求めている人は、一人残らず、今の社会がこの先も続くと信じている人ですし、心底今の社会を軽蔑しているわけではないということです。
本人にその気がないのに評価されてしまうのは仕方ないことですが、斎藤幸平には軽薄なメディア露出に対してストイックな印象は全くありませんし、
前述したように、彼は出版業界に「売り出し」をかけられても全く抵抗する様子がありません。
自らが商品化されていることに疑問もない人が、なぜマルクスを読む気になったのか、ちょっと考えると不思議ですが、これこそがポストモダンだということです。
欲望と認識は別、ということなのです。


『人新世の「資本論」』を読んでも、脱成長のために明日から何をすればいいのか全くわかりません。
ただ斎藤はメタ位置から世界の状況を語っているだけです。
そして自らは出版業界の成長市場である新書の売り上げという果実を、遠慮なく貪っているのです。
こういう「行動するほどの危機意識もないのに、危機意識を持っている顔をするインテリ文化」みたいなものをいつまで続けるのでしょう。
このようなポストモダン的なあり方は、「他人からそう見える」ということだけを価値としていることから起きるのです。
自分は実際には何もしないのですが、「危機意識を持っている人」に見えることを求めているのです。
それがポストモダンです。
斎藤幸平はどこからどこまでもポストモダンです。
だから安心してポストモダン精神の大衆に受け入れられているのです。
(僕が狂おしいまでの失望感の中でこう言っていることを、一応理解していただけるとうれしいです)
結局、環境問題解決のための脱成長も、出版業界にとっては新商品を売るためのネタでしかありません。
もちろん、旗振り役が資本主義的に得をするやり方では、資本主義メカニズムを利用ハッキングして、反資本主義勢力を育てる結果に結びつくこともありません。


「希少性」と商品における「価値」

本書の内容にも触れておかないと、読まずに文句を言っていると誤解されるかもしれないので、理論的にクリティカルだと思える一点にだけ触れようと思います。
本書で斎藤は晩年のマルクスが進歩史観を捨てて、「経済成長をしない循環型の定常型経済」によるコミュニズムを構想していた、と述べています。
定常型経済は外部共同体に対して閉鎖的な原始的な共同体をモデルにしています。
それを取り入れてコミュニズムへと飛躍するのが「脱成長コミュニズム」だとして、この最晩年の変化こそ「認識論的切断」だとまで言っています。
環境問題の解決のために、マルクス的な「脱成長コミュニズム」が必要だというのが本書の結論です。


この構想については、あまりに無理がある、というのが個人的な感想です。
資本主義は資本を増殖するシステムなので、必然的に成長を伴います。
脱成長ということは、資本主義をやめることに等しいので、便利さへの欲望や認識拡大への欲望を捨てるということになります。
欲望という人間の本能をどう飼い慣らすか、ということが課題になるわけですが、斎藤がこのことについて考察した気配は全くありません。
欲望の問題を放置した「脱成長コミュニズム」など、典型的な「絵に描いた餅」でしかないのです。
おそらく、斎藤本人もそんな社会が実現するとは思っていないのではないでしょうか。
現実的実現への意欲があれば、絶対に人間の欲望と自発性の問題を考えないわけにはいかないはずなのです。
欲望による自発性によらずに人を真面目に働かせるとしたら、権力による強制が必要になることは、社会主義国家の失敗を見れば明らかです。
脱成長の共同性に貢献する人間に、何らかの餌をあげなければ、誰も自発的に従うわけがないのです。
高邁な理想に親しむだけで人間が功利精神を捨てられるかどうかは、斎藤がフォローしている千葉雅也のツイートを真剣に読み続ければ、すぐに答えが得られると思います。


このような考察の甘さは、学者の本分である理論にも及んでいます。
斎藤はマルクスにのっとり資本主義を次のように整理します。
土地や水は共同体の成員なら誰でも利用できるもの、つまりはみんなが共有する「コモンズ」でした。
しかし、私的所有制により土地の「囲い込み」が起こり、土地を利用するのに地代(レント)を支払う必要が出てしまいました。
「本源的蓄積は潤沢なコモンズを解体し、希少性を人工的にヽヽヽヽ生み出したのだ」と斎藤は述べます。
(斎藤は「本源的蓄積」とは「囲い込み」のことを指す、と書いているのですが、
正確には資本主義的な生産の前提条件を生み出すことになった歴史的過程のことを「本源的蓄積」と呼びます)
簡単に言えば、みんなの共有物を誰かが自分だけのものとして私的に所有し、他の人々から使用料を取るようになった、ということです。
そして、自分で何も所有せず、使用料を払わされる人たちが、その金を得るために自らの労働力を売る賃労働者となったのです。


「希少性を人工的に生み出す」とはどういうことでしょうか。
希少性とは、みんなに行き渡るほどの量がないために価値がある、ということです。
椅子取りゲームでは椅子の希少性が競争を成立させています。
人々が所有する土地も限りがあるものです。
それを所有する者だけが、持たざる者から使用量を取ることで儲けを増やすことができるのです。
石油などの化石燃料も同じです。
埋蔵量に限界があるために、希少性があります。
これらはそもそも量に限界があるため、わざわざ生み出さなくても希少性が備わっています。
しかし、水はそうではありません。
日本では、水はみんなに行き渡るほど潤沢に存在する「コモンズ」です。
しかし、資本主義ではそれさえもミネラルウォーターとして商品化して、誰にでも手に入る物ではなく、希少な物として売り出すのです。
潤沢にあるものをわざわざ希少な商品として売り出すことを、「希少性を人工的に生み出す」と表現しているのだと思います。


斎藤はこの希少性が商品価値の問題と結びつくと述べます。
マルクスの『資本論』では、商品の価値を二重のものとして把握しています。
それは一般に「使用価値」と「交換価値」として表現されているものです。
実際に『資本論』でマルクスの説明を見てみましょう。


人間生活にとって一つの物が有用であるとき、その物は使用価値になる。しかしこの有用性は空中に漂っているわけではない。有用性は商品の身体特性によって生じるのだから、この身体なしには存在しえない。したがって鉄・小麦・ダイヤモンド等々という商品身体は、それそのものが使用価値または財なのである。(カール・マルクス『資本論 第一巻』今村仁司・三島憲一・鈴木直訳)

マルクスによれば、使用価値は有用なものに備わっています。
何かに役立つものであれば、使用価値があると言っていいのです。
ここで注意したいのが、マルクスが使用価値を商品の「身体」(向坂逸郎訳では「商品体」)として捉えていることです。
マルクスは使用価値を商品の物理性もしくは素材から生じるものと考えています。
『資本論』には「使用価値は富の素材的内容をなしている」とも書いてあります。
つまり、マルクスの「物質代謝」の考えは、商品の使用価値が素材にあるという発想から導かれたものであることが想像できるのです。
しかし、商品の使用価値が素材を基盤にしているという考えは、とうに時代遅れなのではないでしょうか。


斎藤幸平も使用価値を有用性という語で置き換えていたりします。
しかし、「物質代謝」にこだわるわりに、斎藤は使用価値が素材的なものから生じるということに言及する気配がありません。
ちなみに、『人新世の「資本論」』ではこのように説明されています。


マルクスの用語を使えば、「富」とは「使用価値」のことである。「使用価値」とは、空気や水などがもつ、人々の欲求を満たす性質である。これは資本主義の成立よりもずっと前から存在している。(斎藤幸平『人新世の「資本論」』)

斎藤の説明では使用価値は「人々の欲求を満たす性質」とされていますので、何も物理的なものに限りません。
僕は専門家ではないので詳しいことはわかりませんが、エンゲルスの死後にマルクスの遺稿を編集したカール・カウツキー版の『資本論』には、
使用価値の有用性が「人間の欲望を充足させる物の属性」だと書かれているようです。
(岩波文庫の向坂逸郎訳の『資本論』では、この記述がジョン・ロックの自然価値に関する記述と似ていることが示されています)


使用価値を商品身体として素材的に把握することが、現代の情報資本主義に不適合な解釈なのは明らかです。
電波の身体性を我々は実感できませんし、身体特性というよりは「効用」において有用性を把握しているのが実態です。
すべての薬物は身体性において大きな違いはありませんが、「効用」によって有用性の差異が判断されているものでしょう。
その意味で、斎藤が「人々の欲求を満たす性質」において使用価値を説明したのは、現代的な判断だと思います。
しかし、そうなると素材の循環を中心に考察されたマルクスの「物質代謝論」によって、使用価値の重視を見出す理論的な説得力は失われるのではないでしょうか。
まず、僕はこの点を疑問に感じました。


それから使用価値を「人々の欲求を満たす性質」と考える場合、そこには大いなる「曖昧さ」が存在します。
「人々の欲求を満たす性質」とあるとき、その「欲求」は誰のものなのでしょうか?
もちろん、商品を購入した購入者の欲求でしょう。
では、その購入者の欲求とは、彼個人の欲求なのでしょうか、そこに社会性はないのでしょうか。
もちろん、どちらの場合もありますね。
僕が曖昧だと思うのは、「人々の欲求」が、個人的に生じたものであるのか、社会的に生じたものであるのか、という違いが考慮されていないことにあります。
どういうことかというと、今あなたがものすごく喉が渇いていたとします。
そのときに自販機を見つけてお茶を買って、喉を潤した場合、このお茶という商品の使用価値はあなた個人の実感です。
しかし、こういう場合ではどうでしょう。
あなたは明日友達とハイキングに行くことになっていて、あらかじめペットボトルのお茶を用意しておこうとコンビニに入ったのですが、
そこで透明なお茶が新製品として入荷していることに気づきました。
これを買っていけば、一つ話のネタになるぞ、と思ってそれを購入した場合、このお茶という商品の使用価値はあなたの喉を潤すだけにとどまりません。
使用価値が「人々の欲求を満たす性質」であるならば、そのお茶の使用価値は、友達との話のネタになる、という欲求を満たすことでも成立します。


こう考えればわかると思いますが、商品の使用価値とはあらかじめ決まったものではありませんし、素材的なものに限りません。
購入者の欲望と連動してその都度生じるものです。
その意味で、商品購入以前には、商品の使用価値は漠然とした予感にとどまります。


商品売買において、より本質的なのは交換価値の方です。
交換価値は『資本論』では次のように説明されています。


交換価値は、まず量的比率として登場する。量的比率とは、一つの種類の使用価値が他種類の使用価値と交換される割合であり、その比率は時と場所に応じてたえず変化する。(カール・マルクス『資本論 第一巻』今村仁司・三島憲一・鈴木直訳)

簡単に言えば、交換価値とは貨幣価値であり、要するに値段のことです。
150円のお茶であれば、交換価値は貨幣1円を単位とした「量的比率」として150円で表されます。
交換価値は他の商品(『資本論』においては使用価値)と交換される前提でしか存在しません。
つまり、商品のネットワーク上にあることで生じるのが交換価値です。
150円のお茶と誰かがネットで売っている150円のnoteの記事は、交換価値としては等価になります。
それを等価なものとしてつないでいるのが貨幣という特別な商品です。


使用価値は個人の実感で成立することがありますが、交換価値は社会的な「取り決め」ですので、純粋に個人的なものにはなりません。
だから、ある商品に値段ほどの価値がない、という意見があっても不思議はありません。
そういう商品は売れなくなり、値段を下げていかざるをえなくなります。
それが資本主義です。


これは余談ですが、この価格調整という資本主義の原理から法的に守られている業界が存在します。
書籍などのメディア的著作物がそうです。
書籍の値段は「再版制度」によって、全国一律に決められているので、流動することはありません。
(電子書籍には価格の流動化が見られますが)
書籍販売は資本主義の原理から守られているのですが、これは原則的に独占禁止法の「不公正な取引方法」に該当するものです。
しかし、独占禁止法に定められた例外として、書籍は値段の変動という資本主義の原理から守られているのです。
本来なら、ある書籍の内容(使用価値)が交換価値にそぐわないものだと購入者がレビューで訴えるのは普通の出来事でしかありません。
しかし、こと書籍となると、それが営業妨害であるかのように受け取る人がいるのは、「例外」に守られた業界であることの自覚がないからなのです。
そのような権力的優遇も知らないのか、商品に低評価をつけられた著者が、購入者を公然と批判したり、陰で嫌がらせをしたりするのは、自分に有利な法律を盾にした「権力による弾圧」ということになります。
本の著者だけが顧客に偉そうな顔ができる理由は、再版制度にあるのです。


さっき僕は「書籍ロス」の話をしましたが、再版制度では売れ残った在庫を安値で捌くことができないため、売れ残りの「書籍ロス」を大量に生み出すことになります。
売れ残って処分された書籍は、焼却されて二酸化炭素を排出します。
食品ロスが問題になるのなら、書籍ロスも問題にした方がいいのではないでしょうか。


それから労働者が生産手段を共有するコモンというビジョンがあるなら、なぜ書籍の執筆者が資本家に頼らずに書籍を発行する印刷所を共有するビジョンを打ち立てないのでしょうか。
資本家の持ち物である出版社など、僕がやっているように批判すればいいではありませんか。
しかし、斎藤幸平がこのようなことを語ることはありません。
まあ、わかっていて黙っているのではなく、そういうことを考えたことがないのだと思いますが。
大学で安穏と過ごしているマルクス研究者などこんなものです。
(僕が狂おしいほどの失望感で書いていることを、一応理解していただけるとうれしいです)


現実的葛藤を避けた社会変革という「優等生の出世ゲーム」

斎藤の『人新世の「資本論」』では「使用価値」と「価値」という言葉は使われていますが、「交換価値」という言葉はどこにも用いられていません。
斎藤は「価値」とは商品につく値段である、と書いているので、彼の用いる「価値」というのは交換価値のことで間違いありません。
『資本論』でマルクスは、労働に媒介されたものを「価値」と考えています。
他人にとって役立つものを労働によって生み出した場合、それを他人と交換して初めて「価値」が認識されるので、その「価値」は交換価値としても問題はないと思います。
以後、わかりやすさを優先して、僕は斎藤の「価値」という言葉を「交換価値」と書くことにします。


斎藤は交換価値と使用価値が対立するというのがマルクスの考えだとして、資本主義では使用価値が交換価値によって貶められている、と述べています。
だから必要なのは使用価値に基づいた社会であり、それを実現するのが「脱成長コミュニズム」なのだ、という論理展開になっていきます。


商品としての「価値」を重視し、「使用価値」(有用性)を蔑ろにする資本主義では、こういうこと(注:売れること最優先)が常に起こる。それでは野蛮状態に陥ってしまう。だから、資本主義に決別して「使用価値」を重視する社会に移行しなければならない。(斎藤幸平『人新世の「資本論」』)

資本主義の価値観を逆転して、使用価値を重視する社会が「脱成長コミュニズム」です。
斎藤が提示する「脱成長コミュニズム」のビジョンを整理してみます。

① 使用価値経済への転換
② 労働時間の短縮
③ 画一的な分業の廃止
④ 生産過程の民主化
⑤ エッセンシャル・ワークの重視

一つ一つ説明してツッコミを入れると掲載ページ量をオーバーするので、興味がある人には実際に本書を読んでもらうとして、
このビジョンの軸となるものが使用価値経済であることは間違いありません。
この使用価値を重視する社会という将来ビジョンが、どうして資本主義との決別に結びつくのかがよくわからないのです。


これまでの説明を思い出してもらえればわかることですが、
使用価値とは人々の欲求を満たすもので、それは物理的な次元から遊離したものでもありました。
人々から欲望されるものには使用価値があるわけですから、たいていの売れる商品には使用価値があることになるのではないでしょうか。
前にも書きましたが、問題にしなくてはいけないのは、人々の「欲望」なのです。
欲望に基づいているかぎり、使用価値のある商品は無限に増え続けますし、その商品が必要となればそのために生産力は増すことになります。
斎藤は「価値増殖だけを目的とした生産力の増大」によって、「社会の再生産にとって、本当に必要なもの」が軽視される、と言うのですが、
その「社会」にとって「本当に必要なもの」は誰が判断するのでしょうか。
「社会」を冠した権力機構によって決定されるのではないのでしょうか。
だったら社会主義国家による計画生産と何が違うのでしょう。
同様に使用価値というものも明確な基準がないものです。
使用価値による生産であるかどうかは、誰が決定するのでしょうか。
社会にとって必要なものが、大衆的欲望でボトムアップに決まるのであれば、それは資本主義とそう変わらない気がします。
このあたりを斎藤は全然詰めようとしないのですが、これで具体的なビジョンと言えるのでしょうか。


「価値増殖だけを目的とした生産力の増大」という言葉には、いかにもマルクス主義者らしい教条主義が刻印されています。
マルクス主義の「生産」重視が、労働力の普遍化という理論によって生じたことを、ボードリヤールが『生産の鏡』で主張したのは1973年のことです。
(『生産の鏡』では、欲望による無意識の生産を語るドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』(1972年)が意識されているように感じます)
ボードリヤールは商品交換が記号の交換となった高度消費社会を前提としてマルクスの生産概念を批判しているのですが、
使用価値は交換価値を排除したところに見出される幻想であり、実際は交換価値の体系によって生み出されたものだと言います。
ボードリヤールの説を検証し始めると、また記事が終わらなくなるので、それは別の機会でやろうと思いますが、
マルクスの思想に対する彼のコンパクトなまとめが強烈なので、そこを引用しておきます。


マルクス自身のことばによれば、彼の理論の革命的な独自性は、労働力というこの概念、その例外的な商品としてのあり方を掘り出したことにある。労働力という商品を、使用価値ヽヽヽヽの資格でヽヽヽヽ生産のサイクルのなかに入れることによってXという要素が導入される。このXという要素は、剰余価値と資本のすべてのプロセスとを生む差異的な超過価値である。(ジャン・ボードリヤール『生産の鏡』宇波彰・今村仁司訳)

ボードリヤールのテキストは直観的すぎて何を言っているのかよくわからないのですが、
マルクス思想のキモが、使用価値としての「労働力」を商品として生産過程に組み込むことにあると言いたいのだと思います。
要するに、マルクスにとって労働力を使用価値として扱うことが重要だったのです。
そのため、商品を使用価値と交換価値の二重性で捉えることが必要になるとボードリヤールは言います。


その考えに触れてから、上に書いた斎藤幸平の「脱成長コミュニズム」のビジョンを見直してみると、見事に使用価値と労働と生産の話しかしていません。
ボードリヤールはマルクス思想における使用価値が、キリスト教的な彼岸だと言っていますが、かなりの慧眼だと思います。


紙幅も少ないので、マルクスに囚われた斎藤幸平の根本的な問題点をわかりやすく提示しましょう。
斎藤は「脱成長コミュニズム」の柱の⑤で、エッセンシャル・ワークの話をしています。
エッセンシャル・ワークとして看護や介護などのケア労働が扱われているので、そういうものをエッセンシャル・ワークと言っているようですが、
斎藤はエッセンシャル・ワークを使用価値の高い労働と見做して、その反対に使用価値をほとんど生み出さない「ブルシット・ジョブ」を置いています。
「ブルシット・ジョブ」とは、デヴィッド・グレーバーが可視化した名目だけの仕事をする高給職のことです。
斎藤は使用価値を重視する社会になれば、エッセンシャル・ワークが評価されるとして、
「経済成長を至上目的にしないなら、男性中心型の生産業重視から脱却し、労働集約型のケア労働を重視する道が開ける」と述べます。


生産中心の思想に依拠している人に、「生産業重視から脱却し」などと言われてどう受け止めればいいのか悩みますが、
僕が指摘したいのは、斎藤が本当にグレーバーの『ブルシット・ジョブ』(2018年)を読んだのなら、
グレーバーがブルシット・ジョブを生み出した原因が、金融資本主義にあると主張していることを知っているはずだということです。
ちなみに、グレーバーも『ブルシット・ジョブ』の中で、労働力を価値の源泉と捉える「労働価値説」には欠陥があると指摘し、
「生産という概念は基本的に神学的なもの」だと述べています。


しかし、斎藤には金融資本の支配という現代資本主義の現状に対する認識が全く見られないのです。
僕が「価値増殖だけを目的とした生産力の増大」という言葉に引っかかったのも同様で、「価値増殖だけを目的とした」ものが金融資本であることは明らかです。
生産業からケア労働への転換という図式に違和感があるのも、間にあるはずの金融資本の暴走がスッポリ抜けているからです。


労働力を基盤にせざるをえないマルクスの『資本論』では、現代の金融資本に対する有効な批判が難しいのはわかるのですが、
だからといって、不都合なものを無かったことのように扱うというのは感心しません。
斎藤に限らないことかもしれませんが、出版資本で仕事をしている社会派のインテリたちは、現代社会と現実的な葛藤を生み出す要素から徹底的に逃避しています。
僕が前に指摘した原発についてもそうですし、出版業の大量生産についてもそうですし、金融資本や株主資本主義についてもそうです。
大量生産と大量消費を推し進めたポストモダンに対する批判の欠如に関してもそうですし、
さらに言えば、経歴からマルクス研究者であることを消去することもそうです。
希少性を批判するなら、万人が利用できるインターネットで有名税を生かして利用料を取るオンラインサロンを、「囲い込み」として批判したらどうなのでしょう。


言い忘れていましたが、僕は斎藤のように希少性が資本主義を駆動しているとは思いません。
だからコモンによって資本主義と決別できるとも思いません。
たとえ万人に共有物が行き渡っても、人間は必ずそこで満足できないからです。
みんなが共通する制服を配給されたとして、強制的な禁止がはたらかない限りは、人と違うアレンジを加えて差をつけようとする人が必ず出てきます。
動物のオスがメスを獲得するのに色々な競争をくり広げるように、自然環境にすでに競争が組み込まれているのです。


斎藤は現実社会の権力的地位にあるものと衝突する要素を巧みに避けています。
誰もが不安に思う環境問題というメタ的な力をダシにして、社会的葛藤を避けながら、自らが依拠するマルクスの権威を復権しようとしているのです。
従来のマルクス思想が権力との闘争であったことを考えると、権力との衝突を避けるマルクス主義とは、たしかに今までにない新しいマルクスなのかもしれません。
しかし、それは本当にマルクスなのでしょうか。
少し常識があればわかることですが、本気で環境問題を解決するために資本主義と決別するなら、現代社会との闘争に次ぐ闘争は避けられません。
それなのに、旧時代を生きてきた人々に新書大賞などとチヤホヤされていることの意味もわからないのですから、
彼がどこまでも現実的葛藤を避けて出世を求めるだけの「優等生」でしかないことがよくわかります。
こういう人を知的な若者のロールモデルにすれば、間違いなく今の社会が変革される心配はないというものです。


マルクス・ガブリエルのような優等生を「哲学界のロックスター」とか言うのも、今の時代のロックだろ、と思いますが、
メタ位置に安住して「気分だけ反体制」でいる優等生が思想界には多すぎて、心底絶望的な気持ちになります。
本書が新書大賞に選ばれたことは斎藤幸平の「売り出し」でしかない、と僕が言うのは、
現実的葛藤を避けた本書の使用価値が、環境のための社会変革の啓蒙ではなく、「優等生の出世ゲーム」にしかないからです。
透明なお茶が人々の話題としての使用価値を持つように、斎藤の『人新世の「資本論」』も注目の若手論客という話題性を使用価値として消費されるのでしょう。
そうです、このように現代社会はきちんと使用価値を重視する経済になっています。
ただ、その使用価値が、金融資本の支配下にあるメディアのマーケティングによって生み出されているだけのことなのです。
社会変革が現状維持のネタにしかならないシステムに積極的に参入して、マルクスの死体に鞭を打つような行為をよく平気でするものです。
それこそが利用できるものは何でも利用し尽くす、という資本主義の精神でしかないと彼が気づくころには、環境問題はもう考えても仕方がない段階になっていることでしょう。


2 Comment

雨蛙さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
雨蛙さん、いつもコメントありがとうございます。

100分で名著がわかるわけがないので、わかった気になる番組なのでしょうが、
こういう番組に学問的に真面目な人は出ないでしょうね。
大衆啓蒙をすれば知識人の役割を果たしているという誤解があるのだと思います。
Amazonで評価されるのも同じで、こういうものが学者の評価だと思われるようでは終わりですね。

すべては「ウケたい」という欲望です。
「ウケたい」気持ちが強いから、欠陥だらけのご都合理論で本を出すのです。

無題

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