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『海の音』 (朔出版) 友岡 子郷 著

真摯さは才能に勝る

これは句集に限ったことではありませんが、文学作品を読むと、書いたその人と会ったこともないのに、まるでその人と親しくつきあっているかのように思えることがあります。
親しく付き合えばその人の良い面も悪い面も知ることになるのですが、そのような理解の上で作品を読むと、書いた人が作品上で実現したがっていることも理解できるようになります。
それが真摯に文学的なものに奉仕しているのか、それともただ功利的な自己愛に根ざしたものなのかを僕は重視しています。
文学には才能というものも当然あると僕は思っていますが、僕自身の批評的評価においては才能が真摯な思いに勝るとは思っていません。
一般に才能があると思われている人を僕が批判するときは、その人に文学的な真摯さが欠けているからだと判断していただいて結構です。


このような前置きを書いたのは、今回取り上げる友岡子郷の句集には目立った才気のようなものは感じないのですが、俳句に対する真摯さがあふれているからです。
僕はこの句集を読んだ時に友岡その人に対しての予備知識は全くありませんでした。
(おそらく相当に年配なんだろうとは想像していましたが)
句集を読むにつれて海の近くに住んでいることや奥さんを先に亡くされたことなどが想像できるようになりました。
文学作品は否応なく書いた人の人生と結びついてしまうのですが、そこから逃げないことが文学に対する第一の姿勢であることを確認させられました。
そう、文学には人生があるのです。
だから個々の作品が独立して語られるのではなく、「作家」や「詩人」というかたちで記憶され語られることになるのです。
自分の貧しい人生から逃避するためにイメージや言葉をこねくり回しても、文学にも詩に結実しない徒労でしかないのですが、
商品化ファシズムを生きる高度成長期以後の世代はそのことを自覚することもないまま、文学と商品の区別もつかずに人生を終えていくことになる運命にあります。


省略の中で語るということ

俳句が世界的に類を見ない短い詩として成立しているのはどうしてなのでしょう?
僕は俳句の一句に純粋な美的世界の確立を見ることには無理があると考えています。
抵抗を感じる人もいるかもしれませんが、美的関心を十全に実現したいのなら俳句ではなく他の形式をとるべきですし、そうでなければ絶対に中途半端なものにしかなりえません。
短い形式であるがために、どうしても圧倒的に大きな存在への「間借り」が必要になってしまいます。
大きな存在とは、自然、人間、社会(もしくはありえるなら神)などが思いつきますが、もっと他のものでもイケるかもしれません。
(関悦史や福田若之などが好むつまらないサブカル的文脈主義はどうしたって内輪=オタク精神の具現化にしかなりません)


大きなものに「間借り」しつつ、短い中で完結してみせるために、絶対に欠かせないものは「他なるもの」への感覚になるでしょう。
短く完結した中で言外の「他なるもの」を感じさせるのが俳句の醍醐味といえると思いますが、技術的なことを言えば、そこでは省略の技法というものが語られるべきだと僕は思っています。
念のため言っておきますが、省略というのは必要のないものを削るということで、短くても言語表現そのものは明瞭でなくてはなりません。
最近は曖昧に書くことと省略表現との違いがわかっていない俳人がいるようなので、このことは明確にしておきたいと思います。


さて、そろそろ友岡の俳句を取り上げようと思います。 僕が見事だと思ったのは、友岡が「他なるもの」、特に「他なる時間」を言外に明確に示す巧みな句を数多く作っていたことでした。

 かのときの勿忘草も小雨降る
 いつかむかしの青空今年竹仰ぎ

一句目は小雨の中の勿忘草を見つめている現在の視点から、「かのとき」の小雨の中の勿忘草へと時間がスライドしていく句なのですが、無駄なものがしっかりと省略されたストイックな表現になっています。
まったく思わせぶりな余計な心情を表現することがないどころか、そこには何一つ心情を表現する要素がないのですが、句を味わうと作り手が抱えている何かしらの心情が伝わってくるような気がするわけです。
(僕はこの悲しみはあの時の悲しみと同じだったなあ、という心情が浮かびました)
俳句とは散文脈による心情の叙述を削ぎ落とすことによって、根源的な心情をそこに宿そうとするものであるのですが、友岡の句は才気に拘泥せず平明であることで、そのような俳句の真髄がわかりやすく表現されていると感じます。


二句目は成長著しい今年竹を仰ぐことで現前性を強く印象付けつつ、その背後に現前から逃れようとするいつかの青空を感じとっています。
こういう相反するものを組み合わせて言葉遊びになることがないのは、「仰ぐ」という身体表現によって句に現実的基盤が与えられているために、昔の青空が想念の上で感じられていることがハッキリわかるからです。
こうすることで、不思議な感じを出そうという曖昧で観念と堕した表現ではなく、現前から自然と脱落していく生の実感から詠まれたことが伝わります。


身体性という実感装置

視覚に偏重した世界で自意識と戯れてばかりいる世代にとって、身体はライザップで「改造」されたり、病院で「培養」されたりして、合理性の支配下に置かれるだけになっています。
しかし、短い俳句が大きなものを召喚するためには、その依り代としての身体というものを無視すると大きな困難に直面します。
逆説的ではありますが、現前性から逃れてなおかつ俳句として成功したければ、身体性に限るわけではありませんが、何らかの実感を導くだけの強度が必要です。
活字化した言語の物質性に寄りかかって言語遊戯や曖昧な詩的イメージの組み合わせをしても、実は言語自体にはそこまでの実在性や即物性は存在しないのです。
言語というだけで物質性を持つと考えるのは、過去の文学の偉業を自明視した倒錯でしかありません。


「他なるもの」への感受性が身体性と結びつくことで、あたりまえの風景がそこでしか生成しない特別なものに塗り替えられます。

 けふはけふの雲ながれゐる苗運び
 病身やすみれはすみれいろに咲き

「他なるもの」への感受性が残ったままこれらの句を味わうと、「けふ」や「すみれ」のくり返しに単なるリフレインではない奥深さが生まれます。
何かしらの不幸に見舞われた作り手が、他でもない今日が今日として新たにあることを実感していることが、「苗運び」によって身体的に表現されています。
二句目も「病身」が示されることによって、あたりまえに思われる健康ではない「他なるもの」が身体的に実感されていることがポイントになります。
そのような「他なるもの」への感受性によって、「すみれはすみれいろに」咲くというあたりまえに思えるものが単なる所与ではなく、今この時に生成されていると感じられるのです。

 一木の蟬そのほかは風に消え
 この朝の水音のごと桔梗咲く

これらの句も「他なるもの」への感受性が支えになっています。
「他なるもの」を感じ取っているからこそ、他でもないそれがいかにかけがえのないものであるかを伝えられるのです。
その意味で、俳句というものは句集の中にあることで違う読まれ方をするということは十分にありえると思います。
言語表現はどう表現するかという技術的な問題だけでは語りきれないものも表現してしまいます。
極端に言うと、文字上では全く同じ表現をしていても、表現する人間によって魂がこもったりこもらなかったりすることもありえると僕は思っています。
(詩は歴史を遡れば明らかに音声の上で流通するものであったことを、現代人は忘れすぎています)


「他なるもの」のない世界は死の存在しない世界

本句集で友岡の句に「他なるもの」の影が色濃く読み取れるのは、やはり大事な人を亡くしたことにあるように思います。
前述したように僕は友岡が実際に奥さんを亡くしたのかどうか知りません。
ただ「桔梗やひとり欠ければ孤りの家」や「弔電の束の向うに冬の波」などの句からそう想像しているだけです。
違っていたら申し訳ないのですが、単なる読者である僕がそのように読むことに問題はないと思います。


ここではない「他なるもの」の世界を考えるとき、サブカル的感性ならばファンタジーの世界に転生したり、同じ日を何度もリバースする世界などになるわけですが、実はこれらはむしろ「他なるもの」の存在しない世界です。
なぜなら真に「他なるもの」とはこの世から去った死者のことであるからです。 友岡にはいつでも身近にあって遠い死者がそばにいます。
その気配をわずかでも感じ取ろうとするために、「他なるもの」への感受性が高まっていくのです。

 世を隔てたるひとと枇杷むきにけり

死者と一緒に枇杷をむけるはずがないので、これは友岡の想念の中の出来事なのでしょうか。
それとも切なる願いが彼に死者とともにいるような実感を与えたのでしょうか。
もちろん句の読みというのはいくらでもあるわけですが、僕は普通に読みました。
つまり、過去の思い出だということです。


かつて友岡は奥さんと一緒にこの食卓で枇杷を一緒にむいて食べたことがあり、今一人でそれを思い出しているというだけの句だと思います。
その時は当たり前の日常風景でしかなかったことが、今はあんなに遠く隔たってしまっている、その遠さをこのように表現したのだと感じています。
これも表現の仕方を取り上げているように見えるかもしれませんが、そうではないのです。
ジメジメと表現されることがないのに、そこに「思い」がある、「願い」があるということが大事なのです。
このような句を鑑賞することで、主体を消すのが俳句だと勘違いしている人が俳句も文学もわかっていないと言われる意味が理解できるでしょうか。

 文手渡すやうに寄せくる小春波

句集が『海の音』と題されているように、友岡は海の近くで生活を営んでいるようです。
小春の波ですので家にいて波の音を聞いているというより、海のそばに座り込んで波を見ているのだと思いますが、
寄せては返すおだやかな小春波が自分へと手紙を渡すように感じられるのは、「他なるもの」が海の遥か遠くにいるように感じるからでしょう。
「手渡す」という身体的表現がここでも効いています。

 冬麗の簞笥の中も海の音

この句は本句集の最後の句ですが、箪笥の中に何があるのかは想像するほかありませんが、僕の父は自分が後を追うまで箪笥の中の母の衣服をそのままにしていました。
父がその箪笥をはたして開けたりしていたのか僕は知りませんが、おそらく開けなかったのではないでしょうか。
すぐ近くの箪笥の中が遥か遠くに思えてしまう、そんな時に遠い海の音が近くに聞こえてくるのかもしれません。
非常に味わいのある句だと思いました。


ここで取り上げなかった句にも味わい深いものがたくさんあったのですが、
取り上げた一部の句から「他なるもの」にも想像が及ぶような書評になっていることを願っています。


8 Comment

HOHさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
なぜ俳句か、とは意外にもあまり訊かれたことがなかったですね。

正直に言えば、僕もここまで俳句界に関わるとは思っていませんでした。
僕の関心は消費資本主義とその配下にあるポストモダン思想の批判と乗り越えにあるのですが、
文学があられもなく商業ポストモダン一色になっていくことに絶望していました。
しかし、その中で俳句がまだポストモダンに毒されきっていないことに気づきました。

すると、俳句の世界でも周回遅れのポストモダン思想を振り回す無教養な俳人が出てきたので、
我慢ができずにその知識のいい加減さを批判をしたら、
こちらが門外漢であることをつべこべ言ってくる俳人がいるではありませんか。
頭にきたので、俳句の土俵でも戦えるようにと俳句を学びました。
そのとき、俳句には現代の体制を超えるものがあると考えるようになったのです。

ファッション俳人が千葉雅也というギガトン級の愚か者を引っ張り出したのを見ても、
彼らが単にポストモダンの潮流に依存しているだけで、己の内発性に乏しかったのはハッキリしています。
他のジャンルはとっくにポストモダン化していますし、
そういうことがやりたければ、そのジャンルに行けばいいのです。
なのに俳句界に執着しているのは、彼らに他のジャンルで成り上がる才がないからです。
ジャンルの差を曖昧にしてファッション化したところで、
他のジャンルにすら及ばない低劣な作品でしかないことが露呈するだけでしょう。

ありがとうございます

南井さん、返信ありがとうございます。

前からお聞きしたかったのですが、南井さんはなぜ俳句にこだわるのですか?
自分は俳人ではないという南井さんの言葉を疑うわけではないのですが、
俳句の純粋な読み手でかつ俳句評論を批判的な視座から書いている人というのは、
一般的に言って現代ではかなり稀な存在だと思います。

だからこそ現代俳句の在り方に疑問を持っている自分のような人間にとって南井さんは貴重な書き手なのですが、
俳句を「やる」私からすると、「やらない」南井さんがどうして
俳句や俳壇のことをこんなに真剣に考えてくれるのか、そのモチベーションはどこにあるのか、個人的に興味を持ってしまうのです。

南井さんにとって俳句とは何なのですか?
どうして俳句に関わろうと思ったのですか?

不躾な質問で申し訳ないのですが、南井さんの思いを聞かせていただけると嬉しいです。

HOHさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
HOHさん、示唆に富むコメントありがとうございます。

動かし難い過去が実体性を持つことがあると僕も思います。
それは自分の胸の中にありながら、「他なるもの」として、
時に懐かしく、時に居心地悪く自分に働きかけるでしょう。

HOHさんが言ってくださったことを、僕は逆からも考えています。
「他なるもの」の感覚を失ったナルシストが歴史や公文書を改竄するのはその通りですが、
実体としての過去を失った情報化社会が、「他なるもの」を機能させることができず、
ナルシストを増殖しているように思えるのです。

俳句は短いですが、それだけに人生のような長い時間を凝縮して示す時にパワーを持つように思います。
凝縮の度合いが句の作者を切り捨てて、句そのものに実体性を宿らせるのではないでしょうか。

良い句集でした

南井さんこんにちは。

先日読了しましたが、とてもいい句集ですね。
『海の音』というタイトルも南井さんのおっしゃる「他なるもの」を象徴しているようで、非常に味わい深く読みました。

海辺に暮らす老人が遠い潮騒を聞きながら来し方を振り返っている。私はこの句集からそんなイメージを持ったのですが、
過去というものももう動かすことができないという意味では「他なるもの」と言えるかもしれませんね。
そういう意味では「他なるもの」への感覚を失ったナルシストが
歴史修正に走るのは必然と言えるのかもしれません。

自己都合に合わせて現実を改ざんしようとする人間に、
「海の音」は決して聞こえない。
そういうことなのかもしれません。




多謝

もったいない言葉をあずかり恐縮です。
僕は学びが人より遅いので、難儀しています。
ゆえに思想的立場も自分でも明らかにできないでいます。

南井さんのように、思考の軸が組み上がった方の文章は論理が明快で素晴らしいと思います。憧れます。
なにより、毎回学びがあり、新たな気づきを与えてくれます。
そういう文章が書ける人は貴重だと思いますし、じぶんも書けるよう学びたいと思います。

クロさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
クロさんのコメントに毎度感謝しています。

クロさんもブックレビューを始めたのですね。
ブックレビューを批評と考える必要はないかもしれませんよ。
批評に明確な定義があるわけではありませんし、僕自身はAmazonレビューを批評だと思って書いてませんでした。
(僕に文句を言う人のほうが「批評家気取り」とか「浅薄な批評家」とか言ってきたので名誉だと思ったものです)
自分が納得できるものを書くまでは時間が必要なので、ゆっくりと続けてください。

批評

こんばんは。
読書管理のため、言葉の訓練のため、本棚サイトでブックレビューを始めましたが、これがなかなかスムーズにいかず、悪戦苦闘しています。
評論家風情に陥らず、批評をする。すんなりとはいきません。
マウンティングも批判もなんだか性に合わない、というところです。
南井さんの批評から学びたいと思います。

花田心作さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
心作さん、コメントありがとうございます。

ツイッターをやればフォロワー数や人々のリアクションが気になるものですよね。
僕も最近始めて、ツイッターに時間をだいぶ取られていると気づきますが、フォロワー数も早々にあきらめましたし、ブログのアクセス分析に年間有料サービスを利用しているのに、気づけばアクセス数さえずっとチェックしていません。
大きく括ればSNS上の人々も「他者」ですが、文学や思想が必要とする「他者」とはそういうものではありませんよね。

心作さんとご両親が仲良くされているのは何よりです。
いつまでも元気というわけにはいかないので、息子が近くにいるだけで心強いと思いますよ。

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