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作品所有の欲望について

「基本的歌権の尊重」という批評殺し

まずは、あきれた話。
短歌ムック「ねむらない樹」というのを適当に眺めていたら、批評を殺したがっている若手歌人がいることを知りました。
「ニューウェーブ30年」というシンポジウムで人気歌人の穂村弘が語った話なのですが、
穂村は「基本的に若い人の方の考え方が正しいという発想」だと宣言しつつ、自分の批評が若手の寺井龍哉から「そういう批評はいまは無しなんですよ」と言われて困惑したというものです。


穂村はこの若手の言い分を、書かれた歌にはそれだけの理由があるから、最大限リスペクトして批評する必要がある、という「基本的歌権」みたいなものと理解しています。
僕はこの「基本的歌権」という穂村の言葉には皮肉があるように感じましたが、寺井自身はまったくそうは感じなかったようで、同誌の短歌時評でこう書いています。


それぞれの作品の背後には固有の必然性があり、評者の後追いのさかしらでは推しはかりきれないのものなのではないか、というのは、穂村が前出のシンポジウムで私との対話をもとに提示した「基本的歌権の尊重」なる新語の指す事態である。(原文ママ)

この文章で寺井は、言葉を「個人個人の間で断絶的に所有されるものであるという発想があるのかもしれない」と述べたあとに、服部真理子の文章を例として挙げ、
「言葉は誰のものでもない」と否定的な見解を述べて、批評を「無し」にする態度は自分自身のものではないという書き方をしています。
寺井が(口では)言葉は誰のものでもないと言っていますが、では短歌作品はどうなのでしょうか。
作られた短歌は誰のものでもない、とは寺井は書きません。
穂村の語るエピソードからすると、「基本的歌権」を穂村の意見であるかのように書いている寺井の文章にはどこか欺瞞があるようにしか思えないのですが、
その意見が誰のものであれ、短詩系の作者の一部が批判的な批評をつぶしたがっていることは僕の実体験からもまちがいないと言い切れます。
そこには、作品を自分自身の代理物として、たとえヘタクソでも尊重してほしい、という「甘え」が見え隠れしています。


アバター化する作品

福田若之の『自生地』を読んだ時にも同様のことを感じました。
ネット世代の作り手は自分の作品を自らのアバターのように考えている人が多いのではないでしょうか。
福田は「句集」を自称する作品集を「僕」「句集」「書く」という語を多用した散文に頼って作り上げています。
要するに「僕が書いた句集」ということを散文で宣言することが最大の欲望であったわけですが、こういう「ママ! 僕が作ったものを見て見て!」という姿勢が前面に押し出されたものをマトモな「句集」として扱う俳人が多かったことに僕は衝撃を受けたものです。
(余談ですが、田中裕明賞の選考会で小川軽舟が福田の受賞に強くこだわっていたのは理解不能でした。
『天の川銀河発電所』にご意見番として呼んでもらったときに佐藤文香に感化されたのかと疑いたくなるような、みっともない姿勢だったと言っておきます。
その信念の無さを四ッ谷龍に突っ込まれて言葉に詰まったのは笑いました)


話を戻すと、「基本的歌権」などという発想が取り沙汰されるのは、歌と人とを同等に扱う心理が前提となっているわけですから、
作者自身と作品を一体化する感覚、作品を自分の「分身」と捉える感覚が強くあるはずなのです。
僕はこのような感覚はナイーブすぎると思いますし、理解しきれないところもあるのですが、
SNS時代の精神を考察するならば、このような倒錯的な欲望が起こるのも想像できなくはありません。


自己の内面の表現の承認=自己評価というSNS精神

自らの内面にある考えや想念などは、他人にはなかなか理解されないのはもちろん、自分自身も明確には把握できないものです。
しかし、自分の内面を綴ったり作品化したりすることで、それが「視覚的に」捉えられたり、「物質的に」実在するかのように思えたりします。
その視覚化、物質化された内面が他者から(もっといえば権威から)支持されることで、内面という自分自身にも捉えがたいものが「社会的(ソーシャル)に」承認されたかのように感じます。


特に視覚化されたものに価値を置く社会になると、視覚化、物質化された内面の方が真の自己であるかのような倒錯が起こります。
最も俗っぽいことを言えば、SNSなどで発信した意見などを「いいね」と他者に支持されることによって、自らの内面の在り処を確認するようなことになってしまいます。
(僕も最近ツイッターをやるようになったので、このあたりのメカニズムがわかるようになりました)
そうなると「内面」とは言いながら、自分が抱えている内的なものよりそれを視覚化、物質化したものの方が価値のある自分の「内面」であるかのように思えてしまうのです。
SNSに侵された精神は、内的なプライベートなものの視覚化、物質化への欲求と他者からの承認を存在原理とする共感への服従から逃れられなくなるのです。


一応強調しておきますが、僕はSNSそのものを否定する気はありません。
それが生活における色々な場面で役立つことは十分にあると思います。
ただ、文学や芸術においては話は別です。
SNS精神とアーティスティックな精神をしっかりと分けることができない作り手は、せっかくの作品が自己承認のためにあるだけとなり、芸術的価値のないものになってしまいます。
(念のため言いますが、SNS精神という言い方は比喩ですので、SNSをやらなくてもSNS精神に侵されることはありえます)


SNS精神が求めるものは自己の内面の承認なので、その精神が作り上げたいものは、自分独自の感覚や視点を表現した独特なもの、つまりは個性的なものになるはずなのですが、
承認という他者からの評価を得なくてはならないために、「独自性」がありきたりなものに帰着します。
「独自なのにありきたり」というのは矛盾にも思えるのですが、実は消費資本主義の市場ではこのような「商品」が多数販売されています。
つまりSNS精神が生み出すものとは、長く残り続ける文学作品ではなく、市場で今すぐ売れてたちどころに消費される「商品」となるのです。


「独自なのにありきたり」を実現するパターンの組み合わせ

安直かつ安全な「独自なのにありきたり」を実現する「商品」とはどういうものなのでしょうか。
それは無数のパターンの組み合わせによって構成されるものです。


たとえばNIKEにエアマックスのカスタマイズというものがあります。
スニーカーのデザインパターンの組み合わせで独自のスニーカーを手に入れようと謳うもので、その宣伝文句がこうです。


誕生以来、今なお世界中のスニーカーヘッズを魅了するエア マックス。 キミだけのカラー、キミだけのデザインで、世界に一つだけのオリジナル エア マックスを生み出そう。


世界に一つだけの花ならぬ、世界に一つだけのエアマックスを生み出そうと誘惑するものなのですが、このような「キミだけの」という誘惑が独自性を価値と考える人をターゲットにしているのは明らかです。
こうして成立した独自性が、一人の職人が制作した世界でただ一つのオリジナルの靴とは全く別物であることは誰にでも理解できることでしょう。
職人がオリジナルの靴を仕上げるには、それなりの修行期間を経るのはもちろんのこと、先達から勉強したり、他のものと争って切磋琢磨したり、孤独の中で自分自身と向き合ったりする必要があるわけですが、
パターンの組み合わせによるエセ独自性というものは、修行の必要もなくインスタントに、しかも「ありきたり」であるため横の仲間と一緒になって完成させることができます。
また、職人の仕事は期間を経てやっと完成を見てから評価を受けるもので、すぐに認められるものではありません。


もちろん、これがスニーカーであれば単なる商品なので、気に入った人が買えばいいだけのことなのですが、
文芸作品を書くのにこのような方法論を用いることは勘弁してほしいものです。
これを僕が知っている俳句のことにあてはめてみますが、
俳句は形式が定まっているために、パターンの組み合わせで世界にひとつだけの空気最大俳句がインスタントにできてしまいます。
プレテクストを参照しただけのコラージュ的な作品はもちろん、短詩のデータベースから言葉だけを組み合わせて意外性を出したもの、
自己完結したイメージを手前勝手に組み合わせて意味をズラすもの、などです。
短歌はまた事情が違う印象で、場面の切り取り方や視点において「独自性」を出そうとする一方で、そこから喚起される抒情がひたすら淡く「ありきたり」にとどまることで、「独自なのにありきたり」を成立させている感じがします。
その意味で若い人の短歌はほとんどネタ化しているのではないでしょうか。


どちらにしても、大量生産と希少性を両立させる方法論は消費される「商品」にしかなりません。
時間を超えて残り続けるという文学の使命とはまったく異なった、時間の壁の前に敗れ去る消費の対象にとって、居心地がいいのが「現在」という無時間の同時性に依拠するインターネットという環境になるのは必然です。
かくしてSNS精神は消費対象となって終わるだけの「作品=商品」を作ることに勤しむようになるのです。


流通してナンボの商品にとって批判は絶対悪

残り続ける文学作品を作ろうとする態度と、今消費されるだけの「作品=商品」を生み出し、それに自己を投影する態度とは、このような違いがあるのです。
自己承認を目的とするかぎりでは、重要なのは自分が生きている間ですし、もっとつきつめれば「現在」この瞬間となります。
時代を超えて残るためには、それだけの内容が必要になるので、他者からの批判は自らを鍛えることにつながります。
そういう人にとって自作に対する批評は有意義であるでしょうし、耳が痛いことであっても高い志によって受け入れる力もあるでしょう。


しかし、ただ現在の自己承認を求めて文学もどきの活動をしている人にとっては、
自己のアバターである「作品=商品」を批判されることは自らへの誹謗中傷に等しいうえに、商品の流通を妨害する悪としてしか受け止められないことでしょう。
こういう向上心がない人の行く末を予測するのは難しくありませんが、
ここで僕が言っておきたいことは、自作に対する身内以外の批判をどう受け止めるか、というその人の態度を見るだけでも、その人が何を求めて作品を生み出しているのかがすぐさま理解できるということです。
(本人ではなく、その近しい人物が批判者を攻撃する場合は、その周辺人物を含めた全員がそういう人間であるということです)


批判に対しての反論については、批判が妥当でないと思うかぎりではどんどんやるべきです。
そうではなく、批判や批評そのものを「無し」にしようとする、もしくは批判者自体を悪く言う態度は、自ら文学を語る資格のない人間だと表明しているようなものです。
そういうことに気がつかない人たちがあまりに哀れなので、言うまでもないことではありますが、一応書いておきます。


それから、すでに文学的な志などほとんどなく、自己承認のために作品を流通させる、もしくは自作の商品化に勤しんでいるだけであることが明らかな人を出版社が喜んで起用することについても書いておきます。
僕は出版社の人間の多くは文学についての理解がないと確信しています。
だから、出版社が自社の「文学系商品」の販売促進のために、目的を同じくする売文作家たちと気が合うのは当然で、そういう人を応援して文学を滅ぼしていくことも予測しています。
そのため、僕はもう文学は出版社の思惑とは別のところからしか生まれないのではないかと思っています。
出版社に見向きもされない作品であるくらいの方が、将来の可能性を持っているのかもしれません。


4 Comment

コメントへの返答

どうも、南井三鷹です。
佐部軽男さん、クロさん、コメントありがとうございます。

佐部軽男さん、僕は作品評価の明確な基準を示すのが批評だと思ってやっていますよ。
好き嫌いだって一応は基準です。ただ、それを評価基準にすると社会(もちろん歴史も)という視点が脱落しますし、文学はサブカルに歯が立たなくなるので、誰も目指さなくなるでしょうね。
たしかに『自生地』の表紙はどうかと思います(笑)

クロさん、日本の封建的一方通行文化が対等な議論を産まないというのはその通りだと思います。
権力に接近して、その権威を盾にして批判を封じるというのが日本の豆腐メンタル救済システムです。
その意味でインターネットの登場は中国共産党と同じく日本の権力構造にとっても脅威なのだと思います。
だから旧権力はネットに好き嫌いオンリーの批評不在状態を望んでいます。
そうすれば作品が社会的に有益であるかどうかの価値判断を彼らが独占できるからです。
ネットでなんとかフェアな言論空間を成立させて、彼らの権力を削いでやりたいと僕は思っています。
壮大な交響曲の構想はありませんが、仰るとおり僕の野望は大きいんです。

双方向とは名ばかりで。

前回は、手違いでタイトルも名前もなくなったまま書き込んでしまい申し訳ありません。IPでわかりますよね。
今回も学びの多い論考でした。

思うに、批判して議論して、考えや思想を深めていこうという姿勢が日本にはないのかもしれません。
一方的な押し付けで成り立っているのかもしれない。まるでアイドルと観衆の構造です。
実際、議論という言葉自体、教養のない人ないし非大学人には「スラング」扱いとなっています。

私見ですが、今回の論考まで一貫して日本における批判に対する怯えを腑分けされていると存じます。
クラシックで例えれば、まだ第一楽章なのではとも思います。

>ただ、文学や芸術においては話は別です。
>SNS精神とアーティスティックな精神をしっかりと分けることができない作り手は、せっかくの作品が自己承認のためにあるだけとなり、芸術的価値のないものになってしまいます。

全く同意いたします。

>しかし、ただ現在の自己承認を求めて文学もどきの活動をしている人にとっては、
自己のアバターである「作品=商品」を批判されることは自らへの誹謗中傷に等しいうえに、商品の流通を妨害する悪としてしか受け止められないことでしょう。

同意します。胸がすくような気持ちです。
これは、「なろう」をはじめとするアマチュア世界でも横行しています。彼らは作品以前の作品もどきを溺愛し、醸成させることを自ら拒絶しています。
近代小説までは、かなり踏み込んだことを相手にぶつけるセリフもありましたが、現在は完全に豆腐メンタル。なあなあで一方通行のコミュニケーションが主流。
インターネット媒体は過ぎ越しの性格を持っていますから、後世に残るほどの作品はなかなか誕生しません。

個人的な

俳句作品の良し悪しについては明確な判断基準がないから最終的には人それぞれの好き嫌いだよねー、答えはないよねー、みたいなことになるんだと個人的には思うんですよね。

福田若之句集『自生地』についてはサブカルっぽく振る舞おうと力のこもった内容のわりにタイトルと表紙がなんだか日本野鳥の会みたいなのでその点において大減点でした。これも私の個人的な思いですが。

花田心作さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
心作さん、たびたびコメントありがとうございます。

誰かが明確な言論統制をやらなくても「自粛」という文化があるのがこの国なので、目に見えた言論統制をとらずに空気感のようなもので批判を封じているのかもしれませんね。
大家は評価が確立しているため、空気も味方するし、批判に対しても余裕があるような気がします。むしろ市場での作品流通に固執する若手の方が批判排斥の欲望が強いのではないでしょうか。僕自身が実際に体験したからそう思うのかもしれませんが。

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