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アドルノの文化産業批判【前編】

文化産業とは何か

普通に現代思想の本を読んでいても、「文化産業」という言葉を目にすることは、珍しいのではないでしょうか。
初めて聞いた、という方もいると思います。
この言葉は、フランクフルト学派に属するマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノの共著『啓蒙の弁証法』(1947年)のⅣ章「文化産業」で用いられたものです。
「文化産業」の章は大衆文化(消費文化)に対する本質的な批判になっているので、
消費資本主義に依存した私たちにとっては、かなり耳が痛い内容です。


ホルクハイマーとアドルノが「文化産業 Kulturindustrie」と呼んだものは、複製を基盤とした大衆消費文化の生産者(生産事業者)にあたります。
今で言えば、市場にある文化的な生産物のほとんどが文化産業の手によるものです。
そんな文化の担い手が、なぜ批判されなければならなかったのでしょうか。
簡単に答えるならば、経済システムによって流通する文化生産物は、文化である以上に「商品」でしかないからです。
文化産業には、大衆向け文化を通して人々から主体性を奪い、社会体制にとって都合の良い「労働者」を作り上げる役割があります。
つまり、文化的商品﹅﹅には労働者を支配する側面が隠されているのです。


そのため、文化に関与しているだけなら、政治体制と無関係でいられるという認識は、アドルノたちには通用しません。
産業としての文化は、生産者にそのような意図がなくても、大衆の支配という政治的役割に貢献するものなのです。
ただ、ここで語られている産業資本による労働者の抑圧という図式は、いかにもマルクス主義的です。
そのせいもあって、彼らの文化産業批判は、時代遅れということで片付けられることが少なくありません。


しかし、その評判を真に受けていいものでしょうか。
日本の「現代思想」という文化は、1980年代以降に出版界が主導した大衆ジャーナリズムの一翼に位置していたものです
アカデミズムというより、大衆向けの出版市場で発展したため、マスメディアや消費文化に強く依存しています。
消費文化に依拠している研究者たちが、消費資本主義を批判する思想を好むはずがありません。
本来の〈フランス現代思想〉にはマルクスの影響があるのですが、日本の研究者は巧妙にマルクス色を薄めて大衆消費の道具にしてしまいました。
いわば「現代思想」自体が文化産業になっているので、『啓蒙の弁証法』の文化産業批判に触れたがらないのは当然なのです。


さらに障害となるのは、文化産業批判で主な標的になっているのが、ジャズやハリウッド映画というアメリカ大衆文化だということです。
筋金入りのマルクス主義者がほとんど見られなくなった80年代以降の日本の知識人で、アメリカ文化に喧嘩を売れる人がどれだけいるでしょうか。
日本の「現代思想」は、対米従属文化として発展したサブカルチャーの双生児なので、アメリカ文化批判などやれるはずもありません。
そのため、アメリカ消費文化に依存した社会では、文化産業批判に言及する場合でも、理解不足で一面的だとか、ホルクハイマーは後になって手を引いたとか、さまざまな反論があることを枕に置かずには語られないものになっています。
実質的な内容がアメリカ文化に否定的なわけですから、普通に考えて、アメリカの研究者がそれを支持するのは難しいと思います。
マルクス主義に近いと目されるフレドリック・ジェイムソンでも、アドルノの文化産業批判には否定的な記述しかしていません。


しかし僕が読んだところでは、彼らの批判や反論は『啓蒙の弁証法』の内容に対する論理的で有効な反論というより、
アドルノ個人に「時代遅れ」「芸術エリート主義者」のレッテルを貼って済ませてしまうものがほとんどでした。
たしかにアドルノの言い方には反発を呼び寄せる厳しさがありますが、
消費文化依存やアメリカ依存の気持ちをコントロールできれば、
文化産業批判が重要な真実を解き明かすものであり、今でも変わらず有効な論だとわかるはずです。


ちなみに、僕が文化産業批判をホルクハイマー抜きのアドルノ単体のものとして扱っているのは、
二人の共著であった『啓蒙の弁証法』以降も、アドルノは「文化産業についてのレジュメ」(1963年のラジオ講演)や彼の死後に刊行された『美の理論』(1970年)でも文化産業批判について語り続け、その態度をほとんど変えていないからです。
『啓蒙の弁証法』はホルクハイマーとアドルノの共同討議で完成したものですが、
文化産業批判についてはアドルノが主導したものと考えるのが、半ば常識になっているのではないかと思います。


文化産業批判を見ていく前に、フランクフルト学派について、少しガイドしておきましょう。
ドイツのフランクフルト大学の社会研究所のメンバーが、フランクフルト学派です。
(当人たちの自称ではなく、通称のようです)
社会研究所はマルクス主義研究会を母体として1923年に創設されましたが、
ホルクハイマーが研究所の所長となった1930年以降を、そう呼ぶのが普通です。
中心メンバーにドイツ系ユダヤ人が多いことが特徴で、1933年にナチ党が一党独裁体制を確立すると、
ホルクハイマーは研究所をフランクフルトから、最終的にはニューヨークのコロンビア大学へと移していきました。
フランクフルト学派は、いわばアメリカに居候した異邦人として、活動することを余儀なくされたのです。


今でこそアドルノはフランクフルト学派の顔のように思われていますが、実はフランクフルト学派の初期メンバーではありません。
ホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』を構想したときも、最初はヘルベルト・マルクーゼを相棒にする予定だったようです。
1931年にフランクフルト大学の講師となったアドルノは、クラシック音楽に通じていたために、当初は音楽批評を担当していました。
そこから視野を広げて、社会や文明に対する「批判理論」を展開していきました。


アドルノは文学や詩についての鋭敏な批評家でもあったし、まずまちがいなく、当代きっての最も眩惑的な哲学的精神の持ち主だった。アドルノは否定弁証法という考えに傾倒し、システムや伝統的な物語ナラティヴ解釈には例外なく深い疑いの眼差しを向けた。アドルノが目論んだのは、文明に内在する欠陥性をはっきり描き出しつつ、個人と集団を同一化しようとする試みをことごとく退けることだった。
(スティーヴン・エリック・ブロナー『フランクフルト学派と批判理論』小田透訳)

上のブロナーの紹介文でとりわけ重要なのは、ナチスの台頭を経験したアドルノが「個人と集団を同一化しようとする試みをことごとく退ける」ことをテーマとしていた、というところです。
個々人はそれぞれ様々な考えや事情を持つ異なった存在ですが、それを集団として同一のものに括ろうとする欲望に常に脅かされています。
そのような同一化から、国家や民族という全体的なものを絶対化し、個人はそれに従属するものでしかないという考え方──全体主義が生まれるのです。
全体主義では、求心力のある同族集団が絶対化し、外部に位置づけられた者に容赦のない暴力をふるいます。
ナチス体制では、共産主義者やユダヤ人、ジプシーなどがそうやって排除されていきました。
なぜドイツ社会がこのような野蛮な考えに侵されてしまったのか、
理性を至上の価値としたはずの啓蒙主義から、なぜ非人間的な社会が生まれてしまったのか、
ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』は、その問いに答えるべく書き上げられた書物なのです。


「批判理論」と権威主義

フランクフルト学派の代名詞である「批判理論」について触れておきます。
マルクスの影響についてはすでに述べましたが、
アドルノたちの目的は知的な営為で社会変革を実践することです。
社会変革の前提となる、経済を含む現代社会のあり方全体が、彼らの関心領域なのです。
とりわけ、マルクス思想の根幹にある「疎外」と「物象化」をテーマとして引き継いでいます。
このように言うと「なんだマルクスか」と思うかもしれませんが、「疎外」と「物象化」はマルクスの影響を持ち出すまでもなく、現代社会を批判的に考察するときには避けて通れない問題だと思います。


紙幅の都合により、疎外論と物象化論についてはざっと触れる程度にします。
社会システムによって人間性(や自然)が破壊されていることを問題視するのが疎外論であり、
人間同士の社会的関係を、物と物との関係として可視化する資本主義を批判するのが物象化論です。
もっと正確に理解したい方は、このブログの「芸術疎外論」をご覧いただくか、ご自分で調べてみると良いでしょう。


過去の記事でも触れていますが、日本では柄谷行人や浅田彰が、廣松渉や〈フランス現代思想〉のアルチュセールの影響を受けて、初期マルクスの疎外論に否定的な態度を取りました。
そのため日本のポストモダン思想では、『資本論』に見られる後期マルクスの思想は物象化論であり、疎外論は放棄されたという解釈が力を持っていたのですが、
ポストモダンの政治的事情(つまりは反ヘーゲル)を抜きにしてテキストだけを読むならば、疎外論と物象化論を切り離す『資本論』の解釈はマルクスの意図から外れています。
その意味では、フランクフルト学派のマルクス理解の方が、〈フランス現代思想〉よりも真っ当だと言えるでしょう。


フランクフルト学派が問題視したのは、社会システムの支配力が増すことで、個人の主体性や思考がシステムの中で固定化し、力を失ってしまうことでした。
たとえば文学の価値が、資本が主導する文学賞システムに従属させられてしまうような事態は、
ファシズムの基盤となる「権威主義的パーソナリティ」の拡大に貢献するものです。
そのような事態を回避するためには、既存の価値体系や権威を、絶えず変容させていく必要があります。
「批判理論」はそのための手段として構想されました。
フランクフルト学派にとっては、規範化し固定化したマルクス主義も批判の対象でした。
「批判理論」は既存の価値観を、その秩序の内部から問い直し批判するものなのです。


当然ながら、既存の秩序の支配力を強化したい人にとっては、「批判理論」の存在は目障りでしょう。
日本の〈フランス現代思想〉は、出版マスコミの「消費的権威」や東京大学の「学術的権威」を背景に普及したものです。
「権威」が大好きな現代思想の売文家が、フランクフルト学派の「批判理論」を支持するはずがありません。
また、フランクフルト学派がなかなか取り上げられにくい理由に、ヨーロッパ中心主義的で難解だということもあると思います。
『啓蒙の弁証法』は、理性を重視した近代の啓蒙主義がどうして野蛮を招き入れてしまうのかを解き明かそうとした本ですが、
「啓蒙」というヨーロッパ的な概念を前提としているために、日本人にとって縁遠いものになっていることは否めません。
そのため、僕は「啓蒙」という言葉を用いずに、アドルノたちの意図を整理したいと思います。
自分の属する社会秩序を「正しい」と考えすぎることが、かえって社会を暴力的な方向に向かわせることになる、
これが『啓蒙の弁証法』で考察されている問題の核心です。


ここで重要になるのは、自分たちの社会秩序や価値観が、実は間違っているのではないか、という疑いを持ち続ける態度です。
「De omnibus dubitandum(全てについて疑うべし)」という方法的懐疑がここには生きています。


アドルノ思想の現代的意義

アドルノ個人の思想的テーマについても、簡単に触れておきます。
アドルノ思想は「非同一性の哲学」と言われたりしますが、彼の問題意識の中心に「同一化の暴力」があったことは間違いありません。
同一化した集団が、その周縁に位置する異質なものを排撃する、
それが「同一化の暴力」です。
もちろんアドルノの問題意識には、同化ユダヤ人というアイデンティティが影響していたでしょうが、我々にも関係がない話ではありません。
集団内部にいる異端者を敵視し排除することで、集団の同一化を強める「イジメの構図」が、「同一化の暴力」にあたるからです。
自分たちと異質なものを敵視することが、「同一化の暴力」の始まりなのです。


アドルノやホルクハイマーは「同一化の暴力」の根底に、文明による自然の支配があることを見抜きました。
人間は文明社会を脅かす自然の猛威を、自然科学によって文明の内側に取り入れることで支配しています。
動物を馴致することもそうですが、支配とは異質な「外部」を自分たちの集団へと同一化していくことなのです。


資本主義も同様のメカニズムを持っています。
資本の支配とは、それまで商品化されていなかったもの(外部)を商品化して、交換価値へと同一化することだからです。
(文化の産業化も交換価値への同一化を拡大します)
そこでは商品化して利益を上げることを拒否しているものは「共産主義的なもの」であり、「共産主義者=ユダヤ人」(とナチスは見做した)と同様の迫害を受けるわけです。
市場で商品として売られていないコンテンツには価値がない、と大上段から主張している人をSNS等でたまに見かけますが、
このような人はファシストの素質十分のドラフト1位候補と言えるでしょう。


最近の自然災害の猛威を見てもわかることですが、
どんなに文明が自然の支配に努めたとしても、常に支配しきれない「非同一的なもの」が生じることは避けられません。
内輪集団の同一化に固執して、集団の敵対者を排除することに熱心になると、
イジメが過激化して内ゲバへと陥っていくことは、左翼活動の歴史を見れば明らかです。
排除や敵視による同一化は、実際のところ異質な敵を必要としてしまいます。
同一化の「外部」というものは、同一化を求める運動の中で、その都度作り﹅﹅出さ﹅﹅れる﹅﹅もの﹅﹅なのです。
そのような不毛をなくすには、集団が「非同一的なもの」を受容する以外ありません。


「非同一的なもの」を積極的に認めるアドルノの思想は、一見すると差異を称揚するフランスのポストモダン思想と似て見えますが、
市場の同一性を前提とした上での差異に回収されてしまう俗流化した〈フランス現代思想〉と違って、
アドルノの「非同一的なもの」は、市場はもちろん文明の同一化からも逃れるものを対象としています。


その「非同一的なもの」は、アドルノの芸術論の重要な概念──「ミメーシス」へと引き継がれます。
「ミメーシス」という言葉には「模倣」の語があてられますが、アドルノがその言葉にどのような意味を持たせているのかはハッキリしません。
フレドリック・ジェイムソンは著書『アドルノ』(1990年)で、アドルノの「ミメーシス」を、「ほのめかし」を構成する「謎めいた概念」と揶揄的に語っています。
細見和之は『フランクフルト学派』(2014年)で、「未知のものを未知のものとして経験し認識しうる能力」であり、それによって「非同一的なもの」を認識すると説明しています。
その説明で納得して楽になりたいと思うのですが、本当にそのような理解でいいのかという疑問は消えません。
「ミメーシス」を理解するために浩瀚な『美の理論』を自分で読んでみたのですが、アドルノが述べていることが難解でよくわからなくなります。
試みに一部を引用してみましょう。


芸術は模倣的ミメーシス態度の隠れ処にほかならない。主観は芸術のうちで、変化する自らの自律性の段階に応じて自らの他者と向き合うが、他者から切り離されることはあっても完全に他者から切り離されることはない。芸術は芸術の源である魔術的行為を拒否するが、こうした拒否には同時に合理性が関与している。模倣的ミメーシスなものである芸術は合理的なものの真只中において可能であり、合理的な手段を利用しているということは、管理された世界としての合理的世界がもつ悪しき非合理性に対する反応なのだ。なぜなら自然支配の手段の総体である全合理性が目的とするものは、再び手段となることがないもの、つまり非合理的なものであると言えるから。
(テオドール・W・アドルノ『美の理論』大久保健治訳)

『美の理論』はアドルノが完成させることができずに遺された本ですが、
口述を中心として一旦は完成させたものに、アドルノが訂正と挿入を繰り返した結果、全く原型がなくなり晦渋な文章になっています。
ジェイムソンはアドルノの芸術観を「主観の放逐」であり、美的なものの「客観化」だと述べていますが、
僕にはアドルノがそんな単純なことを言っているようには思えませんでした。
アドルノの言葉には、絶えず弁証﹅﹅法的﹅﹅な前提があると思うからです。


上記の引用文を見るだけでもそれはわかります。
「合理的世界」が「悪しき非合理性」を持つとあるように、アドルノは合理的なものが非合理性を内包していると考えています。
これをそのまま受け取ると、意味不明でしかありません。
その非合理性に反応する芸術の合理性が、模倣ミメーシスという非合理的なものに支えられているという構図も弁証法的です。
こうなると、芸術に関して用いられた「合理的」という語は、非合理的という意味でしかないようにも思えてしまいます。
このような弁証法的な思考を前提とするから、個人の創造的行為である芸術が自然へと接近するミメーシスときに、主観を飛び越えて芸術の客観性へと至るという逆転の発想が可能になるわけです。


自然美から芸術美への移行は、支配の移行として弁証法的なものにほかならない。客観的に形象によって支配されたものでありながら、自らの客観性の力によって支配を乗りこえているものは芸術的に美しい。芸術作品は自然美を与えられる美的態度を、物質労働をモデルとする創造的労働に変えることによって支配を逃れる。芸術は人間によって自由に処理されるものでありながら同時に和解的でもある言語となることによって繰り返し、人間にとっては曖昧模糊としたものである自然の言語に接近しようとする。芸術作品には観念論哲学と共通する多くの点が見られるが、芸術作品は観念論哲学と同様に和解を主観との一致に近づける。
(アドルノ『美の理論』)

上の引用文はかなりわかりにくい日本語で、翻訳の苦労が窺えますが、
アドルノが自然美と芸術美の関係をはっきり「弁証法的」なものとして捉えていることがわかります。
芸術は人間の主観的「自由」によって構成されたものでありながら、それが「和解的な言語」となり客観性を獲得することによって、自身へと同一化することが不可能な自然美へと近づきます。
つまり、あくまで個人の主観的自由をつきつめる中で、自らの中に自然美に通じるような客観性を獲得し、個人の自由を支配する社会の客観性に対抗するのが芸術作品なのです。
ジェイムソンはアドルノが主観性を放逐して客観性へと偏向している点で、主観性を批判する現代思想のトレンドに位置づけられるとしていますが、
アドルノの言う「芸術の客観性」が、主観的自由を基盤とする弁証法的なメカニズムで成立していることを見逃しているとしか思えません。
個人の主観的自由によって世界と対峙するからこそ、芸術をドイツ観念論と同様に捉えているのです。
アドルノが「客観性」を強調しているのは、「模倣ミメーシス」の概念を単なる権威的なもののコピー﹅﹅﹅と解釈されたくないからだと思います。


上記の引用文に「支配を乗りこえている」「支配を逃れる」とありますが、
ここで言われている「支配」とは、何による何に対する支配なのか本文には明確に書かれていません。
唐突に「支配」とだけ語られています。
このあたりがわかりにくいところなのですが、僕は「近代合理社会の非合理性(啓蒙の野蛮さ)」による「個人の自由」に対する支配だと考えています。
間違いなく、アドルノの脳裏にはナチス体制のユダヤ人支配があったはずです。
アドルノは、ファシズム体制という人間社会の作り上げた暴力支配に、対抗できるものを芸術だと考えていたのです。


僕はアドルノの芸術論を「悲痛な叫び」と感じずにはいられませんでした。
彼の芸術論はそのものが一つの詩のようなもので、
『美の理論』がベケットの小説のように、ほとんど改行のない晦渋で断片的な文章へと書き換えられていったのは、
そのような彼の苦闘が詩的に形象化されたからではないでしょうか。
「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という『プリズメン』(1955年)にあるアドルノの言葉は有名ですが、
この言葉は「物象化」による「文化と野蛮の弁証法」が語られた直後にあるものです。


社会がより全体的になれば、それに応じて精神もさらに物象化されてゆき、自力で物象化を振り切ろうとする精神の企ては、ますます逆説的になる。宿命に関する最低の意識でさえ、悪くすると無駄話に堕するおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を語り出す認識を侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。
(テオドール・W・アドルノ『プリズメン』渡辺祐邦・三原弟平訳)

現代で何らかの創作行為を志す人たちは、この文章を何度も反芻して自らに問いかけた方がいいでしょう。
この引用文の直前でアドルノは、文化を役に立たない無意味な「屑」同然にしてしまった「大衆文化の荒稼ぎ屋」に言及しているのですが、
「物象化」がマルクスの『資本論』における大テーマであることを思い浮かべれば、
なぜ「詩を書くことが野蛮」になるかが理解できるはずです。
アドルノは商品経済による「物象化」が、「自己満足」的な文化を増長させ、批判的精神を押し潰していくことに警鐘を鳴らしているのです。
そして、そのような批判の抑圧に「大衆文化の荒稼ぎ屋」が協力しています。


「大衆文化の荒稼ぎ屋」は、文化の中にある政治的な非合理性(=暴力)という弁証法的な問題を押し隠し、
文化に関与している限りは非政治的でいられるかのような嘘を撒き散らしています。
そうすることで、社会の非合理性に対抗する文化の批判精神(=芸術・詩)を、ゴミクズにしていくのです。
あとに残るのは、「自己満足」に奉仕する大衆向けの商品だけです。
非政治的な顔をしている文化が、実は社会の暴力性を助長するという弁証法を理解できず、
文化的な活動をしていれば、それだけで政治的な暴力の批判ができると思っている短絡的な社会服従者=大衆モブが現代には溢れています。
アドルノが批判しているのはこのような大衆です。
モダニズム芸術という「芸術のための芸術」だけを評価するアドルノが、偏狭なエリート主義に見えるとしたら、
ファシズム体制が大衆によって生み出され、支持されたという事実から、目を逸らしているのではないでしょうか。


社会の暴力によって迫害されたユダヤ系の人々が、他人の土地を占拠して国家を建国し、そこに住んでいた人々に激しい攻撃を加えるという弁証法、
攻撃を受けた被害者を擁護する文化生産者が、自分のコミュニティ外部の個人に卑劣な攻撃を加えるという弁証法、
そこには被害者の味方だとアピールすれば、どんな蛮行も許されるという潜在的な暴力の姿勢があります。
三谷幸喜は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、巨大な権力と戦った人たちが、勝利して権力の地位につくとどのように変質するかを巧みに描き出しましたが、
人間のすることは自らの合理的意志に反して、いくらでも非合理的で野蛮な行為に転じうるのです。
そんな「文化と野蛮の弁証法」を、「自分は権力に抑圧される側だから関係ない」と都合のいい自己正当化をしてごまかすのではなく、
一人一人が自分にも起こりうる問題として考えるべきではないでしょうか。


支配を肯定する文化産業の技術信仰

「大衆文化の荒稼ぎ屋」が問題にされていることで、理性的な啓蒙が野蛮な暴力を引き起こす事態に、
なぜ文化的商品を売り出している「文化産業」が関係するのか、理解がやさしくなったことと思います。
大衆を相手に商売する文化産業は、文化的な商品を通して大衆の精神を商売に適した方向へと誘導し、社会体制を根底から変革するような批判の芽を摘んでいくのです。
そのことに気づいたアドルノは、ドイツのファシズム体制と戦って勝利をおさめたアメリカの大衆文化にも、野蛮へと反転する回路があることを指摘しました。
それが『啓蒙の弁証法』にある「文化産業」の章です。


しかし、アドルノ自身が『プリズメン』所収「文化批判と社会」で触れているように、文化批判にはシステマティックな困難が存在します。
文化的な商品を評価する「批評家」は、市場において評価された成功者だという事実です。
市場の利益にかなう考え方を持つ人間だけが成功者としてピックアップされ、そのような市場エリートが作品(文化的な商品)の良し悪しを決定する権限を持つという仕組みになっているのです。
自分の社会的成功を支える市場原理を批判する作品を、誰が好んで評価するでしょうか。
むしろ、自身に対する攻撃と見なすのではないでしょうか。


さらにアドルノは、「文化批判が実際に世にある姿はその内容の如何にかかわらず経済組織に依存する」と指摘します。
文化批判の存在すら、実際には経済組織に依存しているのです。
ならば経済組織の意向の中にしか、文化批判も存在できないことになります。
そのような社会で真剣な文化批判を行うとすれば、その批判内容が簡単に把握できないような難解な表現をするか、
経済組織に依存せずに、自身が経済基盤を持つ形で文化批判を流通させるかしかありません。
幸いにも、インターネットの発達によって、個人の経済力で文化批判を発信することだけはできるので、僕はこのような方法を取っています。
(おかげで「大衆文化の荒稼ぎ屋」や、その欺瞞に気づく力のない人たちに誹謗中傷だとか難癖をつけられますが)


では、アドルノの文化産業批判に入ります。
「文化産業」はアドルノたちの造語ですが、準備稿の段階では「大衆文化」という言葉を使っていたようです。
「大衆文化」をやめて「文化産業」とした理由は、彼が批判しようとする消費文化と民衆の中から自発的に起こった文化を区別するためでした。
文学を例にとれば、結社集団や同人集団が非営利的な雑誌を発行したり、個人が無償で作品をネットに掲載することは、文化産業とは言わないわけです。
文化産業は、既存社会や大衆が消費しやすいように調整され、受容されることを念頭に置いた、体制順応的な文化的商品を売るビジネス全体を意味した言葉です。
(このような定義であれば、「文学フリマ」で愛好家に受容されることをめざた作品も、文化産業に含まれるでしょう。
実際、アドルノは愛好者の代表であるコレクターに、作品を「値踏み」する産業的精神を見ています)


文化産業を批判することは、すなわち資本主義批判を意味するのですが、
念のために言いますが、アドルノが資本主義を憎むあまり、映画やジャズのような大衆消費文化を拒否している、というイデオロギー決定論ではありません。
文化の流通を市場にすべて依存するようになると、個人の自由が奪われていく結果をもたらすことを、アドルノは見事に理論化しています。
文化産業に個人を屈服させ支配を容易にする面があるのは事実です。


こう言うと、「いや、文化産業の作品にだって、資本主義批判や社会批判が表現されているじゃないか」と反論する方がおそらくいるでしょう。
しかし、文化産業の商品においては、批判的なメッセージはお飾り程度のものでしかありません。
なぜなら、ただそのようなメッセージが示されるだけで、その製作者や企業が資本主義と実際に戦う場面を見られるわけではないからです。
そうなると、結局は作中の虚構キャラが「責任主体」の位置を占めるだけとなり、聴衆がその批判的メッセージを現実に実行する際には、責任を取る人はいなくなります。
だから、作中で発せられるメッセージは翌日には記憶から消えて、ただ感動した感覚を残すだけになるのです。
視聴者に本当に作用するのは、メッセージではなく内容﹅﹅です。
作品の内容というのは、値段に見合う技術水準(クオリティ)であり、大衆の欲望を満たす「心的体験」(性的興奮や気晴らしを含む)であり、体制的な価値観への順応(さあ明日もがんばろう)のことです。
文化産業が重視しているのは、この部分なのです。


関係者たちは、文化産業を好んでテクノロジーの観点から説明したがる。その言い分によれば、何百万もの視聴者を相手にする以上、文化産業は複製方式をとらざるをえない。そうなれば、無数の場所で同じ需要に応えるためには規格製品を供給するしか道はない、ということになる。
(ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』徳永恂訳)

文化産業の最大の目的は、自分たちが販売する商品を数多くの人に買ってもらうことです。
多くの人の需要に等しく応えられる商品とは、最大公約数の要求を満たすものになります。
それが計画に則って複製された規格製品であり、最大公約数の凡庸さを志向する点で、既存の価値観や時代風潮から離れることができないという縛りが生まれます。
大衆が与えられた規格品に満足するということは、既存の社会体制や時代風潮を知らず知らずに肯定したことになります。
文化産業が社会に順応したい大衆の欲望を探り当て、その最大公約数に応えられる複製作品を供給すると、
大衆は自分たちの要求をかなえる作品を喜んで消費し、その消費行為の中で自分を疎外した社会に受け容れられたような心的体験を得るのです。


人気漫画をテレビアニメ化し、それがヒットすることで映画化が決定し、そのキャラクターをあしらった飲料水やお菓子が売り出される……、
このように文化産業のヒット作に出版・テレビ・映画・食品メーカーなど多様なジャンルの企業が、「互いに調子を合せ、すべてが連関し合う」ことで利益を上げていきます。
こうして「システムの統一はますます緊密の度を加えていく」ことになります。
この勝ち馬に群がる諸企業を「一つのシステム」として捉え、「文化産業」として括ったのがアドルノ(とホルクハイマー)の功績です。


僕が注目したいのは、このような文化産業の支配システムが、技術的合理性によって支えられているというアドルノたちの指摘です。


技術が社会に対して支配力を獲得する地盤は、じつは経済的な最強者たちが社会に対して持つ支配力にほかならないのだが、これについてはあまり注意されていない。今日では、技術的合理性とは支配そのものの合理性なのだ。
(『啓蒙の弁証法』)

経済力による社会の支配とは技術による社会の支配であり、技術による個人の支配が当たり前になると、人々はその支配が合理的だと感じるようになっていきます。
そうして、個人のかけがえのなさは技術的合理性の前に押し潰されてしまいます。
このアドルノの問題意識は、今日のSNSなどのインターネット技術にも通用するものです。
たとえばSNSでバズった投稿に「いいね」が1万件あったとしたとき、その投稿は巨大な発信力を手に入れることになりますが、
その投稿に「いいね」をしたユーザーは、1万分の1という数字以上のものではありません。
そのユーザーが交換不可能で、かけがえのない一人の人間の痕跡であることを、誰が認識できるでしょうか。
何人の共感を集約したかが瞬時にわかる技術的合理性が、人間疎外を引き起こし、物象化を進めているとアドルノなら言うでしょう。
実際、アドルノはラジオにおいて、聴衆が一人の受動的な存在でしかなく、主体性を剥奪されていることを問題にしています。
文化産業批判で重要なのは、個人の主体的価値を喪失させているものがテクノロジーだという指摘です。


経済による大衆支配は、「技術信仰」によって支えられています。
技術的合理性の追求が経済(=資本)による支配であることをわかりやすくするために、もう一つ例を挙げましょう。
最近の外食産業は人手不足の解決策として、「モバイルオーダー」を採用する店が増えています。
要は客が自分の手持ちのスマホで店のサイトに接続し、そのサイト上で自分のオーダーを送信するシステムなのですが、
このシステムが客と店員との対面的コミュニケーションの機会を奪い取り、メディア技術への隷属を進めていく結果になるのは目に見えています。
企業は経済的合理性からこのシステムの導入を図っているのですが、
資本の増殖プロセスそのものに物象化の原理がはたらいているため、資本家の意図と関係なく人間疎外を引き起こすことになってしまうのです。


同様のことは、外食産業だけでなく文化産業でも起こります。
僕はポール・ヴィリリオ論で、メディア技術と軍事技術との深い関係を示しましたが、
文化産業の作品「クオリティ」は、メディア技術と強い関係を持っています。
この文化産業における技術と「クオリティ」の関係性について、実はアドルノたちは何も語っていません。
ここは僕自身の考えになるので、一応注意意を促しておきます。
ここで言う「クオリティ」は、純粋に技術的な水準のことだと思ってください。
「クオリティ」がいかに技術力に支えられているかは、とりわけ映画やドラマ、アニメ作品を思い浮かべてもらえれば、それが実感できると思います。
最新で優れたメディア技術を作品制作に導入するには、どうしても高額の制作費が要求されるので、
高い制作費をかけた作品ほど「クオリティ」が高い作品になるのが普通です。


制作費と「クオリティ」の因果性が必然化することは、資本主義にとってはこの上なく好都合です。
資本主義はお金を回転させないと縮小します。
走れないと死んでしまう競走馬サラブレッドのようなものです。
そのため、一定のお金を儲けた人たちが、それで商売をやめてしまったら経済は回りません。
金持ちにはもっとお金を使って欲しいのです。
だから資本主義体制の安定には、より高額の資金を市場に投入した人が商売に成功する、という法則を成立させる必要が出てきます。
実際に商売の成功にはギャンブル的な要素があるのですが、成熟した資本主義はそこから不確定な要素を抹消することを求めるのです。


文化産業はこのような資本主義の欲望から全く自由ではいられません。
むしろ、進んで協力をしています。
そのための手段が、メディアの技術革新です。
作品が技術の発展と歩調を合わせることで、作品の「クオリティ」を高めて投資した資本の増殖を確実にしようとするのです。
たとえば、あまり期待されなかった作品がかなりヒットした場合、その第2シーズンが企画されたら、制作費がドカンと増えて、作品の技術水準が格段に上がることは確実です。
そうしたら作品の内容がつまらなくなったりすることもあるのですが、文化産業は制作費増大による技術向上が商売の成功につながると信じているのです。
これは利益回収を確実にしたい、という資本主義の欲望からきているものです。


文学などの文筆業は技術革新や高額制作費とあまり関係ないのではないか、と反論される方もいるかもしれません。
そのような反論に対して、僕は不都合な事実を指摘しなければならないでしょう。
文筆業などに関しては「学歴信仰」が高価な技術費用の代わりを果たしています。
才能の如何にかかわらず、文筆産業では東大卒などの高学歴の書き手を優遇することで、経済的な帳尻を合わせようとするのです。
なぜ高学歴を起用することが、高額な制作費の代わりになるのでしょうか。
それは、最近の日本では子供の学力と親の年収に強い因果関係があるというデータを知っていれば、理解が可能です。
要するに、親が金持ちであるほど、その子供は高学歴になりやすいのです。
もうおわかりでしょうが、高学歴な人はその学歴を手に入れるまでに多額の教育費を投資されているのです。
それは高度な技術に多額の制作費をかけるのと、全く同じプロセスではないでしょうか。
こうして高度経済社会では「技術信仰」と「学歴信仰」が強く結びつきます。
学歴の裏づけのない人が知的商売で地位を安泰にしてしまったら、教育費に多額の投資をするインセンティブがなくなってしまうのです。
不景気になるほど高学歴で才能もない書き手がチヤホヤされるのは、このような経済的事情が影響しています。
恐ろしいのは、その当事者たちは自分の価値観まで、経済に踊らされて狂ってしまっていることに、ちっとも気づくことができないということです。


このあたりでいったん【前編】を終わろうと思います。
今回は最初から記事一つでは終わらないと思っていたのですが、ちょっと中途半端なところで中断してしまったかもしれません。
【後編】も続けて執筆していきますので、少しの間お待ちください。


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