- 2021/12/03
- Category : 南井三鷹の【評論】
なぜ日本でポストモダンは「保守」になったのか【後編】
「去勢」された自慰的動物
これまで丁寧に見てきたように、「ポストモダン思想」は、消費行為に依存するオタクを、「思想色」で美化する役割を果たしました。
もはや現代思想は、実態を美しく加工するための「外見修正アプリ」の一種でしかなくなったのです。
そこには思想的な「意味」の正確さも内実も存在していません。
ただ後ろ暗いものを隠蔽するための「粉飾」があるだけです。
たとえば『動物化するポストモダン』で、東はむやみに「シミュラークル」という言葉を濫用しているのですが、その言葉の使い方も正確ではありません。
東が「シミュラークル」と呼んでいるのは、マンガやアニメの「二次創作」です。
東は「二次創作」についてこのように説明しています。
二次創作とは、原作のマンガ、アニメ、ゲームをおもに性的に読み替えて制作され、売買される同人誌や同人ゲーム、同人フィギュアなどの総称である。(東浩紀『動物化するポストモダン』)
東はオタクが二次創作を高く評価していることを根拠に、二次創作をオリジナルとコピーのどちらでもない「シミュラークル」だと説明しています。
たしかにシミュラークルという言葉は、オリジナルとコピーの対立を無効化するものですが、それを二次創作に用いるのは不適切ではないでしょうか。
「二次」と言われている時点で、それがオリジナルでないことはハッキリしているからです。
それに、東はボードリヤールの名前を出してシミュラークルの説明をしているので、それはドゥルーズ的な意味ではなく、ボードリヤールの意味するシミュラークルでなくてはなりません。
ボードリヤールの言うシミュラークルは、シミュレーションによって生み出されたオリジナル不在のコピーのことです。
依拠するオリジナル作品を持つ二次創作に用いる語としては、やはり妥当性に欠けると思います。
では、東は二次創作を「シミュラークル」とする詭弁で、いったい何を隠蔽しようとしているのでしょうか。
一次と二次の区別が明快にあるものを、「シミュラークル」と表現することで一次と同列の扱いにするのは、実際に存在する両者の区別を隠す意図があるからでしょう。
両者の区別は上記の引用文にも示されています。
原作を「おもに性的に読み替えて」いるという点です。
なぜ二次創作ではオリジナルの作品世界を「性的」な文脈へと「読み替え」るのでしょうか。
そこが公的な責任のない、プライベートな個人的領域だからです。
「性」にまつわる趣味嗜好など、本来ならば私的でプライベートな領域になるはずです。
公的には秘匿されるべきプライベートな「性」を扱うので、「地下の世界」である同人誌などで二次創作として表現されていたのです。
要するに、二次創作は世間から隠れて見るようなエロ本に近い存在であったのですが、
東はそれを「シミュラークル」という言葉で偽装し、教養的な新書で扱われる材料に「格上げ」したのです。
重要なのは、「地下の世界」にあるはずの「性」が、市場でオープンに消費されることの意味です。
それがプライベートで個人的な領域を、市場へと売り渡すことにつながるということです。
こうして見ていくと、東の主張がめざす地点がわかると思います。
現代思想を口実にして彼が求めたものは、「去勢された性欲」の世間的承認でしかないのです。
現実に基盤を持たないからという理由で、後ろ暗いロリコン的性欲を「ポストモダン的な趣味」として承認してもらうことなのです。
この「男性補完計画」を歓迎したオタクが多くいたことは、想像に難くありません。
なにしろ後ろ暗い思いを抱いてきたものを、オープンにして構わないことになったのですから。
「萌え」とは、自らの性欲が無力化されていることの自己言及です。
「去勢」されているのだから、性欲をオープンにしてもいいでしょ、という甘えたあり方なのです。
(去勢されていれば性欲をオープンにしていい、というのは、ワクチンを接種していれば行動をオープンにしていい、という管理体制とどこか似ていないでしょうか)
要するに東がやったことは、ポストモダン思想を内実と全く別の仕方で利用して、
自分たち世代が完全に「去勢」されてしまったことを正当化する試みでしかありませんでした。
つまり、オタクとは消費市場に飼い慣らされた自慰的動物でしかないのです。
冷静に分析する力があればわかることですが、彼ら「ポストモダン」のやっていることは、すべてメディアに依存した自己弁護・自己慰安・自己正当化でしかありません。
「萌え」に象徴されるように、「去勢」された「ポストモダン」の欲望は、虚構的な共同体に依拠する自慰的なものです。
性的な欲望は本来なら現実に存在する異性(同性の場合も)の相手へと向けられるものですから、虚構を相手に一人で解消しても虚しさがどうしても残ります。
虚構のキャラクターや絶対に結ばれないアイドルに性的な欲望を抱いても、それは届くものではありませんので、現実では挫折を余儀なくされていることを自覚しないわけにはいきません。
しかし、その虚しい行為を、虚構の共同体の同志たちと一緒になって、共同的にやっていたらどうでしょうか。
共同的な消費行為によって、アイドルがランキング1位になったり、アニメ映画が記録的な観客動員を達成したりすれば、お祭り気分でその虚しさをいっときは忘れられるのではないでしょうか。
こうしてオタクたちは定期的に共同体の「祭り」を求めるようになります。
オタクの「祭り」は、消費に依存した「集団的・共同体的」なやり方でしか存在しません。
彼らの趣味的で虚構的な共同体は、営利企業によって成立しているものですから、それは当然の成り行きです。
営利が中心にある「売れてナンボ」の世界に依存しているため、彼らは「祭り」に多くの人数を動員することが価値だと心の底から信じています。
そのためコミケのような「集団的・共同体的」な大規模イベントを行わずにはいられません。
独りでゲームをプレイした動画を、メディアで集団的に共有する「ゲーム実況」に需要があるのも同じ理由です。
(新刊本の読書会というのも似たような匂いがするので、僕はあまり好きではありません)
そうやって主体を集団的な「消費の場」へと溶解させていくのです。
笑ってはかわいそうですが、僕は笑わずにはいられませんので、笑って言いますが、
オタクたちは他者との葛藤がある現実生活から逃避するために、虚構的な共同体に逃げ込んでいくのですが、
その虚構性が露呈すると彼らは孤独感に苛まれることになります。
それを避けるために、虚構が現実を凌駕することを示さねばならなくなります。
虚構的なものの価値をわかりやすく示すには、売上を伸ばすことが重要です。
こうして、彼らは自分が属する共同体を大きくするために、積極的に消費金額を増やすようになります。
まあ、言ってしまえばカモだということです。
新型コロナ感染の不安の中で孤独感が募る中、『鬼滅の刃』(2019年)という取り立てて語るほどでもない作品が異常ヒットしたのは、
不安な現実を虚構の物語によって凌駕し、孤独を癒すための「祭り」だったのかもしれません。
どれだけ拡大しようと、消費プラットフォームに依存した「祭り」には、真の自主性はありません。
ハロウィンの仮装を披露するプラットフォームとして、渋谷のセンター街が選ばれていますが、
新型コロナ感染拡大という事態で、自然発生的に見える「祭り」も、プラットフォームを管理する自治体によって簡単に潰えてしまうことが証明されました。
オタクたちの「祭り」は個々の強い信念によって成立したものではないので、プラットフォーム権力の管理に抵抗する力はありません。
僕は消費プラットフォームに依存したオタクに、「主体」と言えるほどのものがあるとは思っていません。
商品購買のシミュレーションにおいて、確固たる「主体」は誤差を生む擾乱要素です。
売り手にとっては消費者に「主体」などない方が、マーケティングの管理がしやすいので都合がいいのです。
メディアを流れる広告の要求通りに消費をする人が奪われているのは、手元のお金だけではなく、その人の主体性なのです。
オタクとは趣味的な消費集団の中に「主体」を溶解させた「消費的主体」のことだと言っても構いません。
構造主義やポスト構造主義などの〈フランス現代思想〉が、「主体」の解体に勤しんだ思想だったことが、ここでオタク化と関係してきます。
本場の〈フランス現代思想〉は、「主体」を権力への従属と見なし、権力を擾乱する主体なき多方向の欲動を推奨しましたが、
それを模倣した日本の「ポストモダン」は、〈フランス現代思想〉の「主体」批判を、市場の管理に従順な消費的主体を肯定することに利用しただけでした。
国家権力の擾乱を意図した思想は、市場権力を擾乱する「主体」を排除する広告になったのです。
東の「ポストモダン」論は、まさにこのような「主体の転落」をわかりやすく示しています。
現実的な対象を持たない「去勢された性欲」が、主体性の弱さと結びついていることは明らかです。
こうして、東浩紀は消費的主体の形成を望む日本社会に、大いに歓迎されることになりました。
〈フランス現代思想〉がアカデミズムや出版マスコミなどの権力機関から重宝されたのは、その「主体」批判が日本経済を国家レベルで駆動する「大きな物語」の拡大に役立つからでした。
東のサブカル論によって、思想は決定的に消費へと売り渡されたのです。
この点はしっかりと認識しておかなければなりません。
では、「去勢」された消費的主体から抜け出すにはどうしたらいいのでしょう。
オタクから卒業したらいいのではないでしょうか。
その通りではあるのですが、オタクはそれができないからオタクなのです。
東は『動物化するポストモダン』の中で、オタクの消費的欲望が他者の影響を受けた欲望ではなく、自足的な「動物化」だと主張しました。
前述したように、実際にはオタクの欲望はデータや情報への欲望にあるではなく、営利的プラットフォームに依拠した虚構の共同体への欲望にあります。
つまり「データベース消費」とは、名ばかりの真っ赤な嘘なのですが、
無理のある論理で東がオタクの共同体志向を隠したがることにも、注目する必要があります。
東はオタクの「社交性」は「特定の情報への関心のみで支えられている」と強弁します。
あくまでオタクが関心を持つのは「特定の情報」であって、共同体への所属ではない、というわけです。
その理由は、自分にとって有益な情報を得るための社交性であるため、いつでも「コミュニケーションから離れる自由」を保っているからだと述べます。
現実の必然性はもはや他者との社交性を要求しないため、この新たな社交性は、現実に基盤をもたず、ただ個人の自発性にのみ基づいている。したがって、そこでいくら競争や嫉妬や誹謗中傷のような人間的なコミュニケーションが展開されたとしても、それらは本質的にまねごとであり、いつでも「降りる」ことが可能なものでしかないのだ。(同上)
このように、東はオタクが自由にコミュニケーションから「降りる」ことができると主張し、だから他者との共同性に依存していない、としているのですが、
これはあまりにも夢を見すぎている無理のある主張ではないでしょうか。
もし、東が言う通り、オタクが自発的に「特定の情報への関心のみ」で動いているのなら、
あるアイドルグループから特走の推しメンが卒業してしまったあと、オタクは推しメンがいなくなったグループから関心を失うはずです。
しかし、多数派のオタクはそういう選択をしません。
たいていは同じグループの他のメンバーを推すようになります。
その趣味的共同体との関係維持を必要としているからです。
東自身も『エヴァ』の後釜番組として路線を継承した『機動戦艦ナデシコ』(1996年)などに食いついているようでは、「特定の情報のみ」に反応した態度だとは到底言えないと思います。
消費プラットフォームにズブズブに依存していながら、それは「自発的」な所属なのだと言い募る態度は、
大澤真幸がオウム真理教信者の分析に用いた「アイロニカルな没入」(没入状況を「あえて」やっていると偽装する精神)に通じます。
しかし、そんな難しい概念を用いなくても、東の態度はありふれた言葉で説明できます。
東が語る「自発性」とは、その商品を購入するかどうかという消費者の自発的選択のことでしかないからです。
そりゃあ、いつだって「買わない」(=降りる)という選択はできるわけです。
これを東は「降りる自由」(千葉にとっては「切断」)とか言うわけですが、なんとも消極的な自由ではありませんか。
ディズニーランドのチケットも、オリンピックのチケットも買わない自由はありますし、アル中の人にも酒を買わない自由は確かにあります。
しかし、それらを現実生活を耐えるための支えにしているとしたら、本当に自発的に買わない選択が易々とできるでしょうか。
東は「動物化」を薬物中毒状態に喩えていたのですが、はたして薬物中毒の人に薬物購入から自発的に「降りる自由」などあるものでしょうか。
もちろんこれは揚げ足取りではなく、東の理論の致命的な欠陥です。
オタクが共同体への欲望を持っているか否か、という僕と東の見解の違いは決定的に重要です。
この点について東と論争しても負ける気はしません。
(そもそも「ゲンロンカフェ」のイベントなど、思想言論の消費的コミュニティの可視的な場でしかありません)
オタクは自分の趣味的な嗜好に合う消費プラットフォームに依存した存在です。
それを自らの実存の「場」である擬似共同体として捉えているため、しだいに中毒状態に陥り、知らず知らずに〈プラットフォーム保守主義〉へと傾きます。
その消費プラットフォームは、自分に都合のいい嘘で成立した現実逃避的な「虚構の共同体」です。
そこでは、かつての左翼的なコミュニズム志向が、消費と搾取の動力として利用されています。
資本主義社会で地下に抑圧された共産主義(コミュニズム)への欲望が、地下に抑圧された性欲の共同体への欲望にいつの間にかすり替わったのです。
共同性への志向は、今や消費的な「虚構の共同体」への接続へと変わり、
それは消費プラットフォームに金銭を払って解消する欲望でしかなくなりました。
「虚構の共同体」に必要とされるものは、現実を隠蔽する「都合のいい嘘」でしかありません。
東はオタクのコミュニケーションが「本質的にまねごと」だと言っていますが、
このようなコミュニケーションに対する不誠実さが支配する社会だから、メディア上では「都台のいい嘘」ばかりが求められ、流通していくことになるのです。
「虚構の共同体」と「想像の共同体」の距離は、限りなく近いと言えます。
僕は真実に価値を置く人間なので、「業界」もしくは日本人から嫌われようが、嘘は嘘であるとハッキリ言いたいと思っています。
アメリカに「去勢」された日本人
オタクというポストモダン的主体には、「去勢」が深く刻まれています。
営利的プラットフォームに評価された商品を、自発的に選んでいるかのような気分で、実際は「薬物」を買わされ続けるだけの存在です。
「去勢」に抵抗しないかぎり、いつまでもプラットフォームに流れてくる話題に飛びつくカモでいるしかないのです。
込み入った話をしますが、実はオタク向け作品には、このような支配体制や管理システムを打ち破る英雄を描いた作品が少なくありません。
支配的な管理システム自体の変革を求めるのがマルクス的・左翼的な態度であることは前述しました。
つまり、オタクの中には自分を飼い慣らしているプラットフォームを破壊したい「左翼的な欲求」があるのです。
ヒット映画で言えば、『スターウォーズ』(1977年〜)や『マトリックス』(1999年〜)のシリーズなどはその代表ですが、たいていメシアニズムにしかならないのが問題です。
英雄は人々の救済のために命懸けで戦うのですが、人々は英雄の到来を待つこと以外にやることがありません。
人々の管理への反抗心は、スクリーン上の「英雄物語」の内部でかりそめのカタルシスを得ますが、
シアターの外には、ただ管理システムの欲求に従ってサブカル商品を消費したという現実だけが残るだけです。
こうした「ガス抜き」で、オタクを「去勢」の日常へと差し戻していくのが、サブカルによる慰安ビジネスなのです。
今や「左翼的な欲求」すら消費市場を介してしまうと、資本増殖エンジンの燃料でしかなくなっています。
文芸誌などの出版ビジネスが、「文学」の名のもとでやっていることも全く同じです。
サブカル消費市場でビジネスとして成功するものは、消費者に一時的な慰安を与えて金を出させるものだけです。
オタクたちはこのような閉鎖的状況の中、発信者として社会承認を得られれば勝ち組に回れると信じて、
消費プラットフォームに懸命に貢献する「カモるつもりでカモられているカモ」になりました。
オタクの「去勢」がここまで決定的になったのはなぜなのでしょうか。
東は80年代以降のオタク系文化には「敗戦の心的外傷」があるとしていました。
この指摘が正しければ、オタクが「去勢」された原因は、1945年の敗戦や伝統からの断絶にあるということになります。
しかし、東の分析は日本の戦後史に対する不勉強、もしくは無知からきています。
普通に考えても、80年代として語られる文化のルーツが、40年も前にあるというのはいささか無理があります。
日本の近代史を教科書的に理解するのではなく、もっと深い考察をもって捉えてみると、日本はアメリカの前に二度敗戦していることがわかります。
一度目は言うまでもなく1945年の敗戦です。
圧倒的な物量と現実認識能力の差によって、国土は焦土と化しました。
では、二度目はいつでしょうか。
二度目の敗戦は、全共闘運動に代表される左翼運動の政治的敗北です。
なぜそうなるのでしょうか。
60年安保闘争から70年代の全共闘運動、連合赤軍まで、左翼闘争の敵がアメリカ帝国主義だったからです。
それは左翼運動というかたちで現れましたが、アメリカ支配に対する抵抗戦の面を持っていたことは無視できません。
ここには奇妙なねじれが存在しています。
戦前の愛国者と戦後の左翼運動は、共にアメリカを敵としている点で連続性を持っていたのです。
日本で右とか左とか言うことに意味がないと僕が思っているのは、このことにも関係があります。
つまり、日本には右が左になったり、左が右になったりする「ねじれ構造」があるのです。
日本の保守政治家が靖国参拝にこだわるのは、アメリカに隷属する彼らが、実際は戦前の愛国者にとって「裏切り者」であることを隠蔽したいからです。
だから、靖国参拝に反対などと騒ぐ左翼は、むしろ保守政治家が反対の中でも信念を持って参拝しているかのような印象を生み出して、隠蔽工作を手助けすることになっています。
むしろ、左翼政治家が靖国で保守政治家を待ち受け、アメリカと戦った彼らはお前たちなどに参拝してほしくないと言っているぞ、と言うべきなのです。
もう少しわかりやすい話にしましょう。
日本では現行の社会体制の基盤である憲法を強く改正したがっている勢力が「保守」を自称しているのですが、
それを外国の人にうまく納得させられる日本人がどれだけいるでしょうか。
今の憲法が左翼的な社会を作っているとでも説明するのでしょうが、だったら選挙でなぜ保守政党が圧勝するのでしょうか。
日本人は自分たちのごまかしを、もはやごまかしとさえ認識していないのです。
話を戻しますが、アメリカを敵とした場合、左翼的な政治運動や武装闘争がほとんど根絶やしにされた状態は、二度目の敗北にあたります。
戦後の左翼運動にある程度の大衆的背景があったのは、敗戦後のアメリカ支配に対する民主的な反発感情があったからです。
それが敗北したということは、日本人がアメリカ依存から自立した政治的主体であることに失敗したことを意味します。
だから、80年代に影響する「心的外傷」と言うならば、70年代の政治的敗北について言わなくてはいけません。
この70年代の左翼の敗北が、それ以後のアニメ界に与えた影響がどれだけ強かったは知っている人も少なくないと思います。
左翼運動の「落武者」たちが、アニメ業界に流れ込んで大きな仕事をするようになっていったのです。
たとえばジブリの高畑勲と宮崎駿は労働組合で知り合った左翼系文化人ですし、『ガンダム』の安彦良和などは学生運動に身を投じていました。
ここで誤解してほしくないのは、左翼系の人たちが80年代以降のアニメをリードした、ということではないということです。
社会的に公にできない「抑圧された欲望」は、フロイトを参照するまでもなく、地下に潜るものです。
当時のアニメ界は公的抑圧の目が届きにくい、アングラなマイナー世界でした。
そこに逃げ込むしかなかったのが、政治的敗北を喫した左翼系の人々だった、ということです。
こうして、70年代後半から80年代くらいまでのマンガやアニメには、敗北し抑圧された(左翼的な)社会変革の夢が流れ込みました。
文芸誌に載っている「純文学」よりも、アニメの方が政治的な読解に堪えうる作品があったりするのは、そんな背景があるからでしょう。
しかし、この後に1985年のプラザ合意に端を発するバブル景気がやってきます。
このタイミングが、今の今まで日本人を勘違いさせてきました。
支配者であるアメリカへの民主的抵抗に失敗し、日本人の従順化が進んだ時期に、最高の経済的繁栄を迎えてしまったのです。
日本の経営形態が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と賞賛され、
バブル景気のお祭り気分によって、日本は経済的にアメリカを追い抜いたような幻想に酔いました。
「アメリカの支配に抵抗するなどバカげている。アメリカの支配に従順でいながら、経済的にアメリカを凌駕することだって可能なのだ」
80年代のナルシシズムは、二度も敗北したアメリカに勝利したという幻想によってもたらされました。
多くの日本人はいまだバブル期を成功体験として捉えていますが、
バブル経済を生んだプラザ合意は、アメリカの資易赤字解消のための為替操作でした。
これを容認することは、アメリカの利益のために自らの国益の損失に妥協するようなものでした。
度重なる「去勢」と経済的「慢心」によって、対米従属路線を確立した日本には、アメリカの圧力に抵抗する力はありませんでした。
「虚構重視」の実態なきバブル経済は、いずれ崩壊する運命です。
それ以降、日本が長い長い経済停滞期に入っていったのは誰もが知るところです。
陰の面を抑圧する「とにかく明るい日本」
東浩紀と僕を含む団塊ジュニア世代は、80年代の繁栄の最中に思春期を迎えました。
自らの身体的成長期と日本の経済繁栄期が一体化した「セカイ系」世代です。
彼らの「セカイ」は陰陽入り乱れた不安定な流れの中にありました。
消費分野において経済的、技術的にどこまでも発展し、世界のトップに肩を並べる陽の面と、
アメリカ支配の「前線」として東側の核攻撃にさらされ、一挙に世界が終わる恐怖を抱える陰の面です。
日常的な多幸感の裏には、絶望が隠されている、といった具合です。
しかし、バブルでお祭り気分になった日本人は、陰の面が存在しないかのように振る舞うようになりました。
当然のことながら日本社会の陰の面は、アンダーグラウンドを居場所にしていました。
政治的敗北という陰の面を表現へと昇華したサブカル文化があったのは、主に70年代です。
今から振り返れば、70年代のサブカル文化には「暗さ」がつきまとっています。
しかし、バブル景気で社会全体がお祭り気分になって、社会に陽の面しか存在しないかのようになるにつれて、それは失われていきました。
80年代の歌謡曲から、暗い情念を歌う曲がどんどんと消えていったのもこの時期です。
ただ、80年代の前半までは、表舞台でも陰陽の両面がある程度バランスを保って存在していたように思います。
暗い影を感じさせる山口百恵と明るく無邪気なキャンディーズ、虚構的なピンクレディー。
穢れなき清純派の松田聖子と内に籠る情念派の中森明菜。
スポーツで言えば、陽のセリーグと陰のパリーグ、陽の千代の富士と陰の北の湖。
当時大ヒットした富野由悠季や宮崎駿のアニメにも、陰陽の二面性が目に見えるかたちで保たれていました。
『ガンダム』などの富野由悠季監督作品は、作品内で次々に人が死んでいく陰の顔を持つ戦争アニメですが、次々に消費される兵器の物量的豊かさが陽の面として際立っています。
現実世界のガンダムブームを牽引したのが、次々に発売される兵器のプラモデルであったのは象徴的です。
宮崎駿監督の『未来少年コナン』(1978年)や『風の谷のナウシカ』(1982年〜1994年連載・映画は1984年)も、暗い終末的世界観を舞台としながら、そこを生きる人々がエネルギッシュな力強さを見せています。
バブル経済で「慢心」した日本人が、アメリカに対する二度の敗北を忘れてしまった頃に、サブカル文化から陰の面がひっそりと姿を消すようになっていきました。
文学の世界では村上春樹の人気沸騰がそれを決定づけました。
村上は社会の陰の面を直視することを避け、それを自意識レベルの問題に格下げしたり、メタファーに閉じ込めて、作品をエンタメとして受容させることに成功しました。
誰も言わないのが不思議ですが、日本文学を殺したのは、アメリカに甘えているだけの村上春樹(に依存した出版界)です。
陰の面を居場所とするアイドルはいなくなり、バブル崩壊以後は安室奈美恵や浜崎あゆみのような、「去勢」された陰のシミュラークルがその代替物になるだけでした。
『エヴァ』の庵野秀明は富野由悠季と宮崎駿の後継者の地位にある人ですが、やはり陰の面が自意識を超えて描けているとは思えません。
簡単に言えば、陰の面を直視するものは売れないのです。
売れる商品は、多幸感に溢れた陽のものか、陰の気分を地下から呼び起こさない程度の「陰風味」のシミュラークルだけなのです。
アメリカに対する敗北を乗り越えるのは、高クオリティの商品を売ることだという日本経済の成功神話が、「売れる」ことを社会原理とした売上至上主義へと走らせました。
その結果どうなったでしょうか。
陽の面だけが実在する世界だと信じる「存在論的」な人が増えてしまったのです。
『動物化するポストモダン』が描いているオタクの世界は、そういう「陰の面が存在しない世界認識」の黎明期にあたります。
2000年頃には、アメリカの「去勢」圧力に対するアンダーグラウンドでの左翼的抵抗、という陰の面はすっかり消えてしまいました。
富野由悠季はカルト的な存在へと退き、宮崎駿は子供が安心して見られる牧歌的な作品を作るようなりました。
そして庵野秀明が、「去勢」する父になすすべもなく、母を恋しがるだけの腑抜けなオタクの社会承認を描くだけの作品でブレイクしました。
その時代には、もはや陰の領域にあるものは去勢された政治的主体ではなく、ただ「去勢された性欲」があるだけでした。
90年代以降、政治的な認識は若者の関心の外にあり、左翼思想も政治的主体性も地下で保持すべきものにはなりえず、
ただ「去勢された性欲」を抱えるマザコンたちの不完全燃焼感が主題化されるようになったのです。
現実の対象を求める性欲と違って、「去勢された性欲」は性的魅力を持つ商品によって自慰的に解消されるものです。
なので、「業界」の消費的な共同プラットフォームに依存することになります。
プラットフォームに性欲を管理されたオタクは、永遠に訪れないメシアを待つように、永遠に訪れない性的完全燃焼を求めて今日も消費に勤しむのです。
それは餌を与えられて卵を産む鶏に近い生なので、「動物化」と言うより「家畜化」と呼ぶ方が正確です。
東はアニメキャラとその構成要素のデータベースの二重化を、ウェブのメカニズムで説明していました。
見せるためのウェブページとその設定を書いたHTMLのソースコードを、それぞれ「見えるもの」と「見えないもの」に対応するとして、
パソコンでは「見えないもの」に対応するHTMLを見ることができるため、今や「見えないもの」を見ることが可能になった、と述べています。
この議論はあまりに幼稚なので、よく一般に通用したものだと感心しますが、
HTMLが「見えないもの」であるのは、ウェブを閲覧するだけの人にとってでしかありません。
つまり、東が依拠している「見えるもの」と「見えないもの」の二重化は、製作者側(販売者側)と受け手側(消費者側)の非対称の関係を前提としたものなのです。
そこにあるのは可視化をめぐる階層差異ではなく、売り手と買い手との位相の差異です。
その差異がなくなるのは、インターネットが双方向的なメディアであるからであって、買い手が売り手の製作工程を覗き見できるからではありません。
このような理論的な欠陥を見ると、東の理論はメディア論としても低レベルだと感じてしまいます。
最大の問題は、オタクが依拠する消費的プラットフォームが、それを管理する組織の「意図」によって動かされているということです。
東が本当に不可視化しているのはこの点です。
ウェブページのHTMLという「見えないもの」が可視化できるとしても、そのHTMLを誰がどういう目的で書いたのかという部分は可視化できません。
つまり、システムの構造は可視化できたとしても、そのシステムがどういう「意図」によって作られ、どういう目的で動いているのかは可視化されることはありません。
文系人間が低レベルの技術論を振り回すと、こういうインチキがまかり通るから困ったものです。
東の論が描いているのは、目的を持たない透明なシステムが利用者側の欲望に応えて奉仕してくれる世界ですが、
そんなシステムが現実のどこに存在するでしょうか。
システムは目的をもって設計されますし、また、それと異なった目的で運用されることだってありえるのです。
問題にされるべきはシステムの構造ではありません。
それがどんな目的で利用されているかなのです。
『動物化するポストモダン』がオタクの実存をシステム論として描き出しているのは、
オタクの実存が何を目的としているのかを隠蔽するためです。
オタクが依拠する消費的プラットフォームによる消費行為が「ポストモダン」的であったとしても、
その目的がどこにあるかということは「見えないもの」にされているのです。
ハッキリ書いてしまえば、東の描いた「データベース消費」とは、オタクの「去勢された性欲」が商売に利用されているの図でしかありません。
「去勢された性欲」の商売利用、というプラットフォーム運営側の目的が、東の論には全く出てこないのです。
こうして読み直してみればわかるとおり、『動物化するポストモダン』でも東にはシステムそのものへの批判的視座は全くありません。
むしろ、現行システムを手前勝手に利用して、現実の自己像を加工することに執心しています。
ギャルゲーというシステムについては考察対象にならず、考察するのはゲームの中のシナリオがどう展開するかだけです。
このようなシステム依存的なあり方が、保守的な態度を示すものであることは言うまでもありません。
現代思想の世界でも、アニメの世界でも、敗北した左翼的なものの居場所であったものが、消費システムへの依存心によって保守化していったのです。
なぜかつての左翼の居場所が、自慰的な趣味オタクの居場所として選ばれたかということも重要です。
それは、敗北した左翼が現行社会では自己実現できないと悟り、その場所を現実の圧力に耐えうるシェルターとして作り上げたからです。
前世代が作ったシェルターを、現実と戦うこともできない環境依存的なオタクが、現実逃避の場所として利用したのです。
東のようなSF&アニメオタクが「去勢された性欲」をオープンにするのに、なぜ左翼的なポストモダン思想が使われたのか、という疑問にそろそろ答えようと思います。
それは、政治的な圧力によって「地下」に潜った左翼思想と、父性的な圧力によって「地下」に潜った性欲とが、
「去勢」という状況において一致したからです。
アニメという営利的プラットフォーム上で虚構的に消費されるかぎりは、左翼思想をオープンにしても構わない、というシステムを、
アニメという営利的プラットフォーム上で虚構的に消費されるかぎりは、ロリコン性欲をオープンにしても構わない、ということに応用したわけです。
両者はアニメという趣味世界をシェルターにするという点で、共通していたのです。
そのため、オタクの「去勢された性欲」の共同体に、左翼コミュニズムの論理を用いることができたのです。
しかし、地下とはいえ、アニメが資本主義の管理下にある領域であることは言うまでもありません。
少し議論が複雑になりますが、ここに近代文学の私小説が、世間的に抑圧された性(姦通、不倫)を書くことで「近代的主体」たりえたことが関係します。
日本の「近代的主体」は、公に出せないアンダーグラウンドの領域を描くことで成立したのです。
村上春樹の作品は父が不在であり、むやみに性描写が多いのですが、ここにも「近代的主体」が「性的主体」として成立する面が引き継がれています。
ただ、春樹の場合、その性的行為が男の主体性によらず、女性の方から誘ってくるという母性的サービスに依存するかたちで描かれることに特徴があります。
これが「去勢された性欲」の都合のいい解決法であることは言うまでもありません。
(ちなみに元祖『エヴァ』も春樹の『海辺のカフカ』(2002年)も母親と性的関係を持つ話です)
父性的な共同体の抑圧に対抗する拠点として、私的な性の領域(不適切な性的関係)を母性的に描くことで対抗したのが近代文学です。
このやり方をなぞれば、オタクの私的なロリコン=マザコン的性欲も「文学的なもの」としてオープンにすることができるというわけなのです。
つまり、オタクが自らの「去勢された性欲」の社会的承認に利用したのが、近代文学と左翼思想の遺産だったのです。
近代文学の主流は右寄りですし、左翼思想は当然左ですから、ここにも「ねじれ」があるわけですが、
日本人にとって最も重要なのは、右左のイデオロギーではなく、みんなと同じ共同体に属することですので、
オタクがもう一度「ねじれ」て保守になるのも、何も不思議なことではありません。
ラヴクラフトもそうですが、前の文明の遺産という設定はオタクの好むところです。
それが現実と戦わずに現実の圧力から逃れる安易な方法だからです。
おそらく、短歌や俳句などの古典詩型や文芸誌というシステムも、同じ動機でオタクに利用されています。
そのため、サブカル的なものは過去の遺産を、消費に依存した社会的承認のために食い潰していきます。
オタクとは悪く言えば、自足的な享楽を貪る害虫みたいな存在なので、消費プラットフォームに必要とされない文学的要素や体制を変革する左翼思想としての本質は失われる運命です。
こうして、「ポストモダン」の人々は「消費の快楽」と「自己慰安の社会的承認」のために、文化が自然と持っていた本質を経済推進の原料として明け渡していくのです。
後に残るのはそれこそどこかで見たものの焼き直しで、最新にアレンジされたプルシリーズや綾波シリーズのような「量産型萌え」を個人所有する欲望を抱くだけになります。
思いのほか長くなってしまったので、最後に今回の論の要点を整理しておこうと思います。
① 「ポストモダン」は思想的内実のない、単なる市場支配の全般化とメディアの権威拡大現象。
② 現実的に「去勢」されたサブカルオタクが、アメリカに「去勢」された地下の左翼文化を、自らの慰安のための共同の場(プラットフォーム)として利用したのが「ポストモダン」のサブカル化。
③ オタクが依存しているプラットフォームは、実際は情報のデータベースではなく趣味的で虚構的な共同体。
④ 趣味的な共同体は、現実的な「差異」より趣味的な「同一性」を上位の価値とする。これが現実より虚構を優先する価値観を導く。
⑤ 趣味的な消費市場に依存する「ポストモダン」は、システム(母胎)に対して中毒状態にあり、消費システムの管理者(父)である営利企業や国家に対して従順で保守的である。
⑥ 「ポストモダン」は負の面を嫌うために精神的な成長ができず、「都合の悪い現実」を隠蔽し、「都合のいい嘘」をメディアを通じて多数に共有させようとする。
⑦ 現実より虚構に価値を持たせるため、「ポストモダン」では何よりも「多数派」であることが権力の源泉になる。そのため、マスコミや広告の利用こそが彼らの主要な活動になる。
⑧ 思想や文学は、自分たちにとって都合のいい「虚構の共同体」の同一性を強化するために用いられる道具である。そのため、その同一性を擾乱する批判的な言説が、多数の支持者を獲得しないように露骨に抑圧し弾圧する。
「ポストモダン」のオタクは、現実逃避の心性を趣味的な共同体で支えているため、共同体の「同一性」を基盤とした保守勢力にしかなりえません。
インターネットは趣味的共同体の「同一性」を強化するメディアです。
趣味的であろうが、共同体の同一性を強化する方向性が、本来の〈フランス現代思想〉とはまるで逆の効果になっていることは皮肉と言うしかありません。
黎明期のオタク的同一性が強かったネット時代への郷愁を語り、多様な一般人が利用するようになった最近のネットを批判する東や千葉が、
ポストモダンのお題目である「差異」を蔑ろにして、本心では「同一性」を求めていることに、賢明な人々は気づかなくてはいけません。
ハッキリと断言しておきますが、「ポストモダン思想」の売文家は、本当は〈フランス現代思想〉など全然支持していないのです。
オタクが現実逃避を目的とした虚構に依拠する「商品」の愛好集団であることをごまかすために、
日本に基盤を持たない現代思想を都合よく持ち出しているだけなのです。
現実とリンクしない「商品」の愛好者であるオタクたちの趣味的共同体は、「商品」を購入したり、「祭り」に参加したりする資金がなければ維持できないものです。
そのため、不景気が拡大すると、彼らは「共同体の危機」に見舞われ、孤独感を「現実化」することになってしまいます。
孤独感に耐えられない彼らは、趣味的な「虚構の共同体の危機」と、経済衰退による国家という「想像の共同体の危機」を重ねるようになります。
不景気になることで、趣味的な〈プラットフォーム保守主義〉だったものが、どんどんと国家に依存する政治的保守主義へと転落することになるのです。
以上、左翼的だった現代思想が、「ポストモダン」の正当化に使われるだけとなり、消費プラットフォームに従順な「保守」思想でしかなくなった経緯を示しました。
現代日本の政治的な「保守」化は、愛国を謳う積極的な人だけでなく、消費プラットフォームを根城にした趣味的共同体に依存するオタク志向の人々に担われているのです。
彼らは政治に関心がないので自分を保守と自覚してもいないのですが、支配的システム(アメリカ支配体制を含む)に対して自動的に依存する方向をめざします。
彼らは自身の利益が阻害されれば文句は言いますが、彼らが連帯してプラットフォームの支配者に戦いを挑むことは難しいでしょう。
なぜなら、彼らの趣味的な連帯感は消費的ネットワークで成立したプラットフォームによって生み出された虚構的なものでしかないからです。
残された闘争は、支配的システムの内部で承認を得るためだけになります。
もはや趣味的な承認のためにメディアに出たがる人は、もれなくオタクであり、保守的性向を持っていると見なしても構いません。
つまり、「ポストモダン」に代表される日本の「保守」精神とは、とことん現行システムに依存することしか考えていない、独り立ちできない精神のことなのです。
僕の見るところ、多くの人は消費プラットフォームの管理に疑問を持っていません。
文学も思想も、出版ジャーナリズムの提供する消費プラットフォーム上にないものは、優れた作品でないと決めつける人が跡を絶ちません。
市場にある商品だけが存在であるような「存在論的、流通的」な人たちが、
教養の裏付けもない趣味的な感覚で、文学や思想をわかっているかのように語り、
共犯関係にある出版ジャーナリズムの先兵となって、先人たちの文化を食い潰しています。
社会が理性を失ったこの時代で、消費的な堕落に巻き込まれないためには、残念ながら「マイナー」でいること以外に僕には方法が思いつきません。
営利的な出版ジャーナリズムが文学的、思想的な「真実」を無視して、「都合のいい嘘」による慰安を売って儲けようとしている時代には、
そこに群れ集まってくる人たちが、自己慰安のために社会的な承認を求める人間ばかりになるのは自ずとわかるというものです。
そんな人たちの書くものが「都合のいい嘘」まみれになることは、今回読み直した東浩紀の著書を見れば理解できることだと思います。
僕は出版ジャーナリズムやそれに依存する売文作家たちから「真実」を守るために、地下にいることを重視しています。
価値のわかる人が少数であっても、それが深いレベルでの響き合いであればいいではありませんか。
趣味的な浅瀬で、ただ虚構的な共同意識を互いに確認し合うだけの「符牒」のような作品(これこそがシミュラークル)を作って、消費共同体の一員であることを認められたとしても、
お客様にサービスとして労働を提供して、金銭的に社会承認を得るのと何の違いがあるのでしょうか。
営利企業の消費プラットフォームで認められるために趣味的な作品を書いても、それは有料慰安サービスのための労働の延長にしか存在していません。
ボードリヤールはこう言っています。
「遊びの領域は労働の彼岸にあろうとしながらも、労働の延長のなかにあることによって、労働の束縛を美的に昇華させたものにほかならない」(『生産の鏡』宇波彰・今村仁司訳)
労働を趣味的に昇華させて消費共同体に貢献しても、実際は営利プラットフォームで搾取のための労働をさせられているのです。
いっとき「作家顔」ができるという特典はありますが、虚構の共同体の支えがなくなれば、誰も心底からその人の作品をいいと思っていなかったことが判明するのです。
承認のための作品は、金銭にしか還元されません。
趣味共同体の「符牒」でしかない作品は、瞬間的な欲望を刺激すればいいだけなので、深い意味も人間の真実も必要ありません。
嘘で成立した虚構の共同体に受け入れられることを求めて作品を作れば、どうしたって慰安を求める大衆に媚びた作品しか書けなくなります。
そこで売り渡されるのは、作り手の主体性です。
深いレベルで主体的に作品を作りたい人は、積極的にマイナーであるべきです。
マイナーでありつつスゴい作品を生み出すことが、消費プラットフォームの支配による「去勢」を受けていないことの証明にもなると、僕は信じています。
それこそが「ポストモダン」を克服することであり、管理された共同体に依存する「保守」との違いを示す文学的な生き方なのです。
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4 Comment
白樹烝さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2021/12/30 11:30)
- [コメントを編集する]
城前佑樹(白樹烝)さん、コメントありがとうございます。
非常に妥当なご意見ばかりで、僕の文章をしっかり読んでいただいたことがよくわかりました。
白樹烝さんの論点は、深めるといくらでも面白い議論になるところばかりなのですが、
興奮して長くなりすぎても困るので、この場ではあえて簡単にお答えしたいと思います。
まず、今の共同体がナルシスティックな趣味的なものである、ということはおおむねその通りですが、
僕が最大に問題にしているのは、その共同体が資本に支えられた消費領域にとどまっているという「去勢」についてです。
僕の言う「去勢」は性的な意味だけでなく、資本を離れた現実において機能することを「去勢」されている、ということを含意しています。
その意味では白樹烝さんの言う「趣味的な承認ではない共同体」が必要というご意見には同意します。
(この論点は、おそらく宮台真司の問題意識に近いのではないでしょうか)
僕が「趣味以外の共同体」に冷淡なのは理由があります。
資本の社会的包摂と対抗しうる共同体は、ある程度自立した個人を核にして成立すると思うからです。
伝統的な共同体(たとえば結社)が残っていれば、それを別のものに移行するやり方でも成立するかもしれませんが、
伝統的な共同体を否定することが「正義」だと思っている単細胞では、ただ商売のシステムに依存する以外に手段がありません。
つまり、個人の自立は、伝統的な共同体が崩壊した後に、
「去勢」された趣味共同体ではない別の共同体(アソシエーション)を構成するための前提条件なのです。
(日本でマルクス主義が近代文学の近傍から広がったのは、おそらくそのためです)
ですから、この問題が明治の近代化や近代文学と強く関係しているのは当然です。
白樹烝さんのご指摘は正しいのです。
本当は近代文学史も含めた視野でこの問題を考えたいのですが、
最近の文壇(商業出版界)は近代文学に無知な人(とりわけポストモダンを知の全体領域だと思っている白痴)に担われているようなので、
とりあえず僕はそういう連中に合わせてポストモダン批判を中心にやっている次第です。
ご指摘の「商業ジャーナリズムにも凄い作品はあるのではないか」ということですが、
それは「凄い」の内容によりますね。
エンタメやサブカルにおいて「凄い作品」は今も数多くありますし、僕が好きなものもたくさんあります。
しかし、ある程度主観的にはなりますが、文学や思想において「凄い」作品は、
「今後の」商業ジャーナリズムの流れからは絶対に生まれないと断言できます。
商業ジャーナリズムにも健全性というものはあって、それが機能している時代はそういう作品も生まれたでしょう。
商業出版の裾野は広いですし、真面目な出版社もあります。
出版点数は増えていますし、バグのように「凄い作品」が登場する可能性までは否定しませんが、
大手出版社が売りたがる作品から、「凄い作品」が生まれることはありえません。
バグや事故のようなものから「凄い作品」が生まれることを期待するのは、あまりに偶然的で分の悪い「賭け」だと僕は思います。
現在の出版業界が「凄い作品」の流通率を下げて、既得権を握る凡俗な「著作商売人」の利益を「保守」することを優先しているのは明らかです。
俳句界もそうなっています。
金太郎飴のような俳句しか作れないことを「作家性」と偽装して、
退屈な自己模倣で頻繁に出版商売に勤しみ、メディア俳人としての地位をキープしようとする人ばかりが、
この先何年も既得権をしゃぶり尽くすことになるだけですよ。
非常に刺激になりましたので、白樹烝さんにはぜひ今後もご意見をお寄せいただけるとうれしいです。
拝読させていただきました。
- 城前佑樹(白樹烝)さん
- (2021/12/30 01:53)
- [コメントを編集する]
俳人の白樹烝と申します。
今回の論考、深く感じ入るところがありました。
特に、今の時代の共同体が(南井さんの言う)ナルシシズムを慰めるための趣味的なものになっているのが問題ですね。
私自身の人との付き合いもただの自己慰撫になっているかもしれないと思うと申し訳なく、怖くなるところがあります。
ただ、南井さんは(1945年の敗戦と左翼運動の敗北の)二度の敗戦を現状の日本の根本原因とされていますが、私はさらに根が深いように思いました。
確かに日本におけるポストモダンのどうしようもなさの温床はそこでしょうが、私には明治時代の近代化からこの日本人の脆弱さは変わっていないように思います(不勉強ですが、「ポストモダン」の場合と同じく、輸入する際に科学主義を捨てさった「(日本的)自然主義」と「私小説の流行」などが例に挙げられるでしょう)。
ではどうすればいいのかは私にはまだ分かりませんが、南井さんの言うように個人を自立的にするのは必要であるのと共に、「趣味的な承認ではない共同体」も必要なのではないかと思います。
おそらく、明治以前の日本では、(前時代的なものであれ)そうした共同性が生き生きと根付いていたのではないでしょうか。
また、論考を読んでもう一つ思ったのは、「さまざまな出版ジャーナリズムの中にも実は『凄い作品』が存在する可能性もあるのではないか?」という事でした。
南井さんに反論する訳ではないですが、システムにありながら自律的に文学的な達成をなしている作品もなきにしもあらず、と思います。ならば例示してみろ、と言われると答えられないのですが。
雨蛙さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2021/12/05 07:48)
- [コメントを編集する]
雨蛙さん、記事を読んでいただき、ありがとうございます。
「マイナーであること」がどういうことであるかは、今回の記事の論点ではないので、また詳しく書く必要がありますね。
さすがにシステムの外部にあれ、というのは過酷なので、
雨蛙さんが言うように、システムに属しつつ、そこに同一化しないあり方がメインになるでしょう。
抽象的ですが、とりあえずシステムに依存せず、自立的であろうとする主体的な精神が重要なのは間違いないことです。
ただ、メディア上の趣味的な消費共同体の場合、システムをシステムとして認知できないことが最大の問題です。
僕が今回、システムより「プラットフォーム(共同の場)」という言葉を優先したのはそのためです。
趣味的な話題を共有して、消費をすることで「共同の場」に参加するあり方が、
消費プラットフォームのネットワーク形成に取り込まれることを意味します。
システムという認識ができれば、それが「管理」だと実感しやすいのですが、
メディア上の広告が作る話題や、くり返される「新発売」に自動的に反応することが、
プラットフォームによる「管理」を受け入れている状態だということを、認識できている人は少ないと思います。
つまり、「ポストモダン」においては、広告やメディア的話題に流されて「内容に乏しい新刊本を買う」という行為ひとつが、
管理的プラットフォームへの従属であり、フーコーが言う「従属する主体」の形成に寄与するのです。
日本で人気のある「ポストモダン思想」は、「主体」批判をするくせに、家畜のような消費行為を批判しない欠陥思想なのですが、
いまだに多くの人が「口先ばかりのインチキ思想」の実態を見破ることができていません。
僕自身もこのような「管理」の外部にいるとは思っていません。
メタに立って語るつもりは毛頭なく、自分自身の問題だと思って書いています。
読者の皆様とは、共に悩んで模索を重ねていき、自分の人生を自分のものとして生きる(「自立した主体」でいる)方法を考えていきたいと思っています。
無題
- 名乗る程の者ではないさん
- (2021/12/04 23:33)
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