- 2022/04/06
- Category : 【評論】ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉
ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その4】
映画という兵器
ヴィリリオの思想を初期から見直す記事の4回目です。
ヴィリリオはメディアの本質を、「速度」を生み出す「乗り物」として考えた人です。
乗り物は加速によって、それまでいた場所を置き去りにするので、
乗り手に地上的な生活から離脱した体験をもたらします。
生活の外部に離脱する体験とは、「彼岸」の擬似体験にほかなりません。
日常生活から離れて速度の中にある人間を、僕は〈速度−内−存在〉と名づけました。
速度を媒介として生活領域から離脱する技術は、やがてフィルムを一定速度で回転させてスクリーンに映し出す映像技術へと受け継がれるのです。
映画技術とは速度体制の〈総力戦テクノロジー〉──戦争を全体化する社会体制を維持するための道具です。
ヴィリリオの著書『戦争と映画』(1984年)は、第一次世界大戦以降の総力戦で、映画技術が軍事知覚テクノロジーとして大きな役割を果たしていたことを研究した本です。
非常に重要な本だと思うのですが、僕が見るかぎり、映画を批判する書物というものは現代社会では黙殺の憂き目に遭うようです。
ヴィリリオと同じく映画に批判的なギー・ドゥボールも、フランス現代思想が大好きなはずの日本の現代思想界隈で、ほとんど取り上げられていません。
現代思想分野に限らず、映画について書かれた文章で、ヴィリリオの『戦争と映画』について言及するものにも出会ったことがありません。
「現代思想」2002年1月号は貴重なヴィリリオ特集号なのですが、そこでも『戦争と映画』を扱った記事は一つもないのです。
象徴的なのは、ヴィリリオの著作を時系列的に考察した本間邦雄の『時間とヴァーチャリティー』(2019年)における『戦争と映画』の扱いです。
本間は遠隔現前を扱う第三章で、邦訳されていない『視覚機械』(1988年)を取り上げて語っているのですが、
文庫化までされた『戦争と映画』に対する記述は、たった2ページ(p113〜114)しかありませんでした。
他の章は邦訳のある著書を中心に扱っているだけに、露骨に不自然さが際立っていますし、主著の一つを無視する概説書というのもどうなのでしょうか。
ヴィリリオの仕事を振り返るインタビュー『黄昏の夜明け』(2019年)にも、映画批判の話はほとんど出てきません。
ヴィリリオ自身も『戦争と映画』の序文で、「二十世紀の戦争における映画技術の組織的利用についての研究アプローチはいまだなおほとんど存在していないに等しい」と書いています。
(ちょっとネットで検索してみたら、この本について書かれた文章は数行のAmazonレビューたった一つ以外はほとんど見当たりませんでした)
映画というテクノロジーそのものに対する批判的言説は、不思議なくらい抹消されているのです。
これは商業性や大衆性に基づいた無音の「検閲」と言えます。
この国で消費社会批判やメディア技術批判を主題とする本を探すと、外国人の邦訳本にしか出会うことはありません。
自らが依存しているものに対する不都合な批判を、無言の「空気」による検閲によって静かに消していくのがこの国のあり方です。
(国家権力による目に見える抑圧より、こういう無音の検閲の方が巧妙でタチが悪いものです)
僕自身は映画(技術)嫌いを公言しているのですが、今までに共感されたことはほとんどありません。
好き嫌いはともかくとして、映画の中では戦争や殺し合いが散々描かれています。
これらを禁止したら、どれほどの映画が困ることでしょうか。
つまり、一定数の映画は戦争や殺し合いに依存しているわけですが、それについてあるべき考察が行われているでしょうか。
2020年前期にNHKで放映された『エール』は、作曲家の古関裕而をモデルとした朝ドラでしたが、
主人公は自分が作曲した流行歌が戦意高揚の役割を果たし、何人もの命を戦場で奪う結果になったことに苦しみます。
モデルとなった古関裕而も同様の罪の意識に苛まれたことでしょうが、彼の曲には映画の主題歌だったものもたくさんありました。
しかし、映像技術については、どれほど戦争との関わりが問題にされてきたでしょうか。
映画批判の乏しさは、現代社会の映画依存を浮かび上がらせています。
現実を彼岸へと塗り替える映像技術は、戦争遂行を目論む社会にとって必要不可欠なテクノロジーです。
だから総力戦体制の批判には、映画批判が欠かせないのです。
ヴィリリオは乗り物が発展したものとして映像技術を捉えています。
乗り物が軍事に使われるものであれば、映像技術も同様です。
戦闘手段とカメラを合体させた新たな「兵器システム」の登場によって、映像の兵器としての一面が浮かび上がってきます。
総力戦の始まりである第一次世界大戦中には、偵察機による上空からの戦場のフィルム撮影が行われていました。
上空から撮影された戦場の映像が、現実の視野よりも決定的に重要になっていくのがこの時期です。
戦場の状態を「全体」として把握することが、戦争においてどれだけ重要かは言うまでもありません。
特定の場所から観察した時に見通すことができない部分も、上空から俯瞰して眺めることで敵を丸裸にすることができます。
(その意味で、上空からの映像とはポルノ映像のようなものです)
現実の視野の限定性は、俯瞰映像の全体性によって簡単に乗り越えられてしまうのです。
これをヴィリリオは「実物よりも映像が、空間よりも時間が優位に立つ」と明快に表現しています。
今そこにある実物よりメディア的な映像が優位にある世界では、空間が俯瞰的に支配可能になった分、刻々と変化するメディア上の「今」つまり「リアルタイム」の重要性が高まります。
映画に耽溺している状態とは、まさにこのような「今」の全体性に身を置くことです。
乗り物の速度は現実の重量を削ぎ落として「彼岸」を到来させるものでしたが、
同じく速度に依存した映像技術も、生活の場としての現実を捨て去ります。
実物より映像を、空間より時間的同時性を優位に置くことが、映画というテクノロジーが実現する「革命」です。
より本質的な問題は、この革命が軍事的動機によって実現されていったということなのです。
軍事的知覚の兵站術
古代のエジプトでは、女性は自分の本名を知られないように隠して生活していました。
平安時代の貴族の女性も名前を隠し、自分の結婚相手にしか名前を呼ばせることはありませんでした。
名前というものが自分の存在と同等以上の価値を持っていたのです。
なぜ女性だけが名前を隠したのでしょうか?
それは女性が特定の男性に支配される存在だったからです。
ヴィリリオは女性を最初の乗り物だと言っていましたが、そこで想定されていたのは特定の男性にとっての「専用機」だったのです。
つまり乗り物には、乗る者と乗られる者との間に「支配−被支配」の関係があるということです。
(女性が男性社会による支配から本当に離脱したければ、「専用機」を前提とした結婚制度を否定する必要があります)
映像も同様です。
見る者と見られる者との間には、容易に「支配−被支配」の関係が現れます。
そのため、人は自分が見られることなく、一方的に見るという「窃視者」という支配体制を成立させることに執心します。
川端康成の文学がこのような「窃視」のメカニズムに支えられていることは、前回の記事で確認しました。
盗撮犯は男性に多いようですが、そこに「支配−被支配」の歴史的経緯を見る必要があります。
まず、多くの人が全く理解していない重要な指摘をします。
映像文化には権力的な支配関係が刻印されています。
ジェンダー研究を含めたポストモダン思想は、言説に含まれたイデオロギー的支配意識を問題にしましたが、
そういう人たちが映像文化に刻印された支配関係に全く無頓着なのは、いかに多くの人が既定の路線でしか批判理論を操れないかを示しています。
ドゥルーズやフーコーを持ち出して監視社会を批判する言説は数多く目にするのですが、
「窃視者」という権力形態を問題にする言説はほとんどありません。
僕はすでに〈ネットワーク権力〉を問題にした文章で、
フーコーの『監獄の誕生』(1975年)が扱う「見られる主体」に対する「見る権力」の支配についてまとめています。
支配的権力は、人々の身体を可視的な状態に置く──「見られる主体」を監視する──ことで、権力としての地位を確立します。
つまり、「可視性」こそが権力に「服従する主体」を生み出すのです。
そこでは見られる主体は支配される側であり、見られることなく一方的に見る「窃視者」こそが支配者となります。
映画館の暗闇の中にいる観客が、「窃視者」の位置にあることはわかりやすいと思います。
そうなると、テレビやネットであれば、画面の向こうにいる視聴者が、支配的な位置を占めることになります。
自らを不可視化し、ただ見るだけの「眼」と化したものを、僕は「見る権力」と名づけました。
しかし、この権力メカニズムを監獄の例で示すフーコーのモデルは、人口に膾炙したために誤解されています。
監獄の監視モデルが、視線による監視メカニズムとしてではなく、囚人が監視の視線を内面化した自己規律の養成として心理的に理解されています。
こういう間違った理解がなぜ好まれたかというと、これを心理的な問題として把握すれば、
内面的な規律意識を捨てて欲望を解放すれば、権力の管理から「逃走」できるのだ、という嘘の対処法(ポリコレ批判など)へ誘導できるからです。
「内面の道徳意識を捨て、消費の欲望に生きろ」と、趣味分野における多方向の欲望を肯定するだけで、
政治的権力への対抗運動になるかのような幻想を信じさせたのが、「現代思想」という詐欺商法です。
強調しておきますが、パノプティコンという可視的な監獄の例は、内面心理とは無関係な、身体の監視によって権力の支配を確立するモデルです。
そこでは可視化される──「見られる」ことが、支配されることなのです。
(まあ、フーコーがこのモデルを「規律・訓練」の流れに位置づけたのが間違いのもとではあるのですが)
自らの身体を現前させずに「見る」ことが、権力支配の源泉です。
看守が「見る」ことによって、囚人を屈服させているのは誰にでも理解できることでしょう。
看守の見回りが監視カメラへと置き換わるのは、監視者の身体を不可視化する必要から簡単に説明がつきます。
純粋な一神教には、偶像崇拝の禁止というものがあります。
つまり、神の身体を可視化してはいけない、というものです。
不可視な身体をもつ監視の「眼」が何を由来にしているのかは、これによって理解できるのではないでしょうか。
「それなら映画では観客、テレビでは視聴者が支配的な権力ということになるが、彼らは一般人であって権力者ではないだろう」
そう考える人がいることは、僕も想像しています。
その人は主要マスコミが政府に統括されている日本のエセ民主主義に慣れすぎて、本当の人民主権というものがわかっていないのです。
人民主権というのは、本来は多数の人民が主権者であり権力の源泉である状態を言うのです。
つまり、「物を言う人民」こそが支配権力の位置にあって、自らが選んだ代表者を監視するのが本来の民主主義のあり方なので、
民主主義社会では、観客や視聴者が支配権力の位置にあるのは必然なのです。
(当然ながら、本の著者が読者より偉いと主張する人は、民主的な価値観を理解していない人ということになります)
「見る権力」のあり方を、戦争と映像技術の関係によって照らし出したのがヴィリリオの『戦争と映画』です。
戦争では、知覚することと知覚されることの非対称が極限化されます。
つまり、見ることと見られることの違いが、生と死という極限において現れます。
現代の戦場では知覚する側がいつも勝利し、知覚される側はいつも敗れ去ります。
なぜなら、自分の姿を「見られる」ということは、「標的になる」ということと同義だからです。
アメリカ国防省元副長官W・J・ペリーは「仮に高精度ミサイルおよび集中兵器に関する現時点での議論をひとことで要約するならば、標的の視認がなされれば、ただちにこれを破壊しうるという表現になるだろう」と説明していた。
この発言は新たな戦略地政学的状況を完璧なかたちで表現しており、完全ではないにせよ、一定の軍備削減の根拠を説明するものである。たしかに、知覚されたら一巻の終わりというのであれば、以前は軍備増強に投入していた予算をカムフラージュ工作に回さねばならない。そこにステルス・ミサイルが生まれる自然な経緯があり、「秘密」兵器、「隠れた」手段、レーダー擾乱物の研究開発が軍需産業において重要な地位を占めるようになる理由がある。(ポール・ヴィリリオ『戦争と映画』石井直志・千葉文夫訳)
「標的の視認がなされれば、ただちにこれを破壊しうる」ということは、「見られる」ことは破壊されることと同じだということです。
去る2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻し、現在も凄惨なニュースが伝えられていますが、
アメリカ製の持ち運び可能な対戦車誘導ミサイルFGM-148E「ジャベリン」が、ロシア戦車の進軍を阻んでいることがよく取り上げられています。
このミサイルにはCLU(Command Launch Unit)という赤外線画像で照準を合わせる装置があります。
標的を赤外線画像で捉えれば、発射されたミサイルが自動で標的に誘導され、戦車を装甲の薄い上部から破壊するのです。
この赤外線装置については『戦争と映画』でも触れられています。
同様な例としてはさらに、赤外線と特殊な装置を搭載する弾頭との結合ともいうべき「イメージ・ホーミング・システム」をあげることができる。この装置は目標の赤外線映像を捉える「眼」であって、弾頭は自分の家に帰る(ホーミング)ときと同じたやすさで、この映像、つまり破壊すべき目標をめざすことになる。最新型ミサイルに装備されるこのシステムは、ここでもまた眼と兵器の運命的な融合を明示しているというほかない。(ヴィリリオ『戦争と映画』)
この兵器では、画像で相手を捉えることが、相手の破壊と同じ意味を持ちます。
「見る」ことが対象の破壊を約束するため、メディア抜術としての「眼」は兵器には欠かせないものになります。
いや、もはやカメラは兵器の一部だと言うこともできるのではないでしょうか。
ここでは見る側と見られる側の差異が、生と死を分つことになります。
総力戦体制以後の戦場では、生きることは見ることであり、見られることは死ぬことなのです。
現代戦争では「知覚されたら負け」の状態が先鋭化しているので、敵を知覚するためのレーダーやソナーの能力向上が重要になるばかりでなく、
ヴィリリオが言うように、敵に知覚されないようにカモフラージュすることが重要な意味を持つようになります。
レーダーに探知されにくいステルス戦闘機やステルスミサイル、ステルス艦(日本にもステルスのフリゲート艦がある)などの需要が高まっているのはそのためです。
「戦争の歴史とは、まず何よりもその知覚の場の変貌の歴史にほかならない」とヴィリリオは言います。
戦争では知覚こそが相手の生殺与奪の権を握っています。
いかに相手を破壊するかが、いかに相手を知覚するかにかかっているのです。
そうなると、「ジャベリン」の赤外線画像のように、人間に備わった知覚能力を超えた知覚技術の発達が求められるのは必然です。
映像技術が軍事と密接な関係を持つのはそのためで、ヴィリリオが兵器として映像技術を考察する根拠はここにあります。
相手の像を捉えることと、相手を殺害することの類似性を具現化したものとして、ヴィリリオはエティエンヌ=ジュール・マレーの「写真銃」を取り上げます。
「写真銃」とは、生理学者のマレーが1882年に発明した、ライフル銃そっくりの連続写真撮影機のことです。
マレーはこの写真銃でペリカンを連射して、ペリカンの飛ぶ姿を連続写真として撮影しました。
これが写真銃でなくライフル銃であれば、ペリカンは飛翔することなく血を噴き出して地に落ちたことでしょう。
撮影する行為と殺傷する行為の類似性がよくわかるというものです。
連続写真から映画フィルムへと至るのは必然で、マレーの写真銃は映画撮影機の原型となりました。
こうした事実から、映画撮影が対象を象徴的に破壊する行為であると主張したとしても、特におかしなことには思えません。
「百五十年の間に射撃の場は撮影現場に変わり、戦場は一般市民には長いこと立ち入りが禁止されてきた映画スタジオに変わったのである」
というヴィリリオのレトリックも、大げさだと笑い飛ばすことはできないと思います。
「戦争は映画であり、映画は戦争なのだ」というアナロジーは、「見る」こと──もっと言えば、相手に見られずに見るという「窃視」──が支配権力を支える力であることを理解しないと、実感できないと思います。
「窃視者」の支配的地位が、乗り物に乗ることによってもたらされることを、『ネガティヴ・ホライズン』を参照しながら本記事の【その3】で確認しました。
念のため、ちょっと復習しておきましょう。
乗り物の加速に身をまかせることで、乗る人は生活世界から身を引きはがす「彼岸」体験をします。
そのわかりやすい例が飛行機ですが、操縦席に固定されたパイロットにとって、移動は自らの主体的運動としては知覚されず、
フロントガラスに向かって「到来する」ように知覚されます。
このような知覚のあり方を再現したのが、観客席に身を置きながらスクリーンの映像を見るという知覚形態です。
これが地上を離れて彼岸的な位置を確保する「見る権力」の成立に関係しています。
ヴィリリオは直接に権力論として語りませんが、「見る権力」というフーコー的な支配権力を論じていると理解した方が意義深いと思います。
ヴィリリオがくり返し「光学的」と表現する、視覚優位の「光の支配」が、キリスト教と強く結びつけられることにも注意が必要です。
多神教信仰をしていた古代エジプトで、アメンホテプ4世はエジプトの神々を排斥し、一神教への改革を断行しましたが、
彼が信仰した単一の神はアテンという太陽神でした。
(アテン神はエジプトの他の神々と違い、人間や動物の形ではなく、何本も光線を出す太陽円盤で表現されています)
世界最初の一神教はこうして姿を表すのですが、
一神教の支配力は、光を司る太陽の単一性を根拠としていることがわかります。
ヴィリリオが加速を生み出す「モーター」を「第二の太陽」と呼んでいたことを思い出してください。
一神教が太陽=光への信仰であることについては、とりわけ一神教信者でない人は認識しておくべきでしょう。
ヴィリリオはハッキリとこう述べています。
「光の運動ともいうべき映画は、遅れてきた太陽信仰の再興だ」
そして、映写機というモーターで駆動する太陽は、いくらでも複数化するのです。
ポストモダン思想がどれだけ複数性を称揚しても、メディアによる光学的(視覚的)一元支配を批判しなければ、一神教に基盤を置く西洋近代の支配権力を批判したことにはなりません。
日本の〈フランス現代思想〉が「遊戯」でしかないのは、支配権力にとって無害なことしか言っていないからなのです。
見たい人たちと見られたい人たち
僕が懸念するのは、人民主権を持ち出しても、匿名の窃視者を「権力」と見なすことに抵抗を感じる人が多いのではないか、ということです。
いや、そうは言っても、権力者の方が見られる存在なのではないか、
見られる存在である国王や政治家、実業家や芸能人、芸術家や著者の方が権力者と呼ぶにふさわしい存在ではないか、
一般的にはそう考える人が多いと思うのです。
この疑問にヴィリリオの論で答えることはできないので、これについては僕が代わりに説明します。
哲学的な議論で示すなら、この問題はヘーゲルの『精神現象学』にある「主人と奴隷の論」と関係します。
ヘーゲルの「主奴論」については、「芸術疎外論【その2】」の記事で書きましたので、詳しくはそれを読んでいただきたいのですが、
主人と奴隷の相互承認的にも見える関係は、実際は分裂した意識の姿であり、絶対的なものとの関係を持てない生のモデルを示していました。
この関係が、マルクスにおいて資本家(主人)とプロレタリアート(奴隷)の関係へと変奏され、その関係を逆転することが共産主義革命だと考えられるようになりました。
その後、社会主義の敗北が明らかになるにつれて、主奴論はポストモダン的(『資本論』的?)な展開を見せるようになります。
つまり、資本家=売る側=企業(主人)と労働者=買う側=消費者(奴隷)という対立へと置き換えられます。
主人: 資本家──売る側(商品所有者) → 企業 ⇅ ⇅ 奴隷: 労働者──買う側(貨幣所有者) → 消費者 |
マルクスの『資本論』を読めば明らかなように、商品と貨幣の等価交換において、主導権は貨幣を所有する買う側にしかありません。
わかりやすく言えば、貨幣で商品を買うことはできても、商品で貨幣を買うことはできないということです。
どんなに素晴らしい商品でも、買い手が見つからなければ無価値です。
市場での力関係の優位性は、圧倒的に貨幣を持つ側にあるのです。
それなら、貨幣を持つ消費者は商品を買わないことを通じて、主人と奴隷の地位を逆転させることができます。
生産過程から流通過程への価値転換を求めた柄谷行人の『トランスクリティーク』(2001年)が依拠しているのが、まさにこのポストモダン的発想です。
生産過程においては、資本家と労働者の関係はたしかに「主人と奴隷」である。しかし、資本の「変態」過程は、そのように一面的なものではありえない。資本はこの過程において、一度は、売る立場(相対的価値形態)に立たざるをえないのだ。そして、ここに、労働者が唯一主体としてあらわれる場(ポジション)がある。それは資本制生産による生産物が売られる場、つまり、「消費」の場である。それは、労働者が貨幣をもち、「買う立場」に立ちうる唯一の場である。(柄谷行人『トランスクリティーク』)
消費者の不買運動は、「立場を替えた労働者の運動」だと柄谷は言います。
労働者は消費者として買う側に回った時、主体化して優位に立つとするのです。
しかし、僕が長らくポストモダン思想を批判してきたのは、このような考えが幻想でしかないからです。
残念ながら、柄谷は消費者による商品購入があたかも「主体として」の選択であるかのように思い込んでいますが、
ポストモダン思想が「欲望」による主体性批判を行っていたことについて、考察が不十分だったのではないかと思います。
ポストモダンの価値転換は、マスコミを利用したマーケティング等の、大衆の消費的欲望をコントロールする売る側の手段が、機能しているからこそ起こったのです。
つまり、資本家が自らが売りたい商品を、消費者に欲望させる体制を盤石に築いたからこそ、消費者の側にある程度の選択の自由を与えているにすぎないのです。
家電メーカーや自動車メーカーやお菓子会社や出版社の大手は、僕が生きてきた時代を見ても顔ぶれに大きな変化はありません。
大会社はだいたい大会社の地位を守っています。
消費者に商品本位の選択能力があるなら、どうしてヒット商品によって会社の地位が入れ替わらないのでしょうか。
大会社はいつでも優れた商品を作っているのでしょうか。
そうではありません。
これこそがまさに「流通過程」が価値を生むからこそ起こる保守性なのです。
大会社が大会社であるのは、生産過程で優れた商品を作っているのはもちろんですが、自社の商品を流通させる巨大な流通網を持っていることにあります。
商品の流通網が巨大なほど、多くの消費者がその商品と出会う機会を持つことになります。
どんなに優れた商品でも、その商品と出会うことがなければ、購入する機会そのものがありません。
もしかりに、消費者がある会社の商品を買いたくないと思ったとして、必要な時に店先にその会社の商品しかなかったら、買わざるをえないのではないでしょうか。
消費者の主体的な選択など、商品の流通網の大きさ、購入のしやすさの前では無力です。
場合によっては、そもそも自由に商品の選択ができない場面もあります。
(たとえ我々が原子力発電で供給される電気を買いたくないと考えても、そのような選択はできません)
巨大な流通網を持つ会社の商品は、それだけ多くの人の目に触れて、多くの購入機会を持つので、販売数量を稼ぐことができます。
販売数量が多い商品は、多くの人に承認された優良商品に見えるものです。
消費者はそういった数量評価を鵜呑みにして、商品を買ったりしないでしょうか。
また、中小企業が優れた商品を出しても、流通網が小さいので多くの人の目に触れることはありません。
それが多くの人にじわじわと広がる前に、大企業が類似商品を開発し、素早く自社の流通網を使って利益をかっさらうことになります。
もっと言えば、大企業には広告宣伝費が豊富にあります。
資金力を頼みに宣伝をバンバンと展開すれば、消費者の欲望を喚起することが可能です。
このような社会で、消費者の主体性が企業より優位にはたらくと僕は思えません。
つまり、純粋な二者関係を原則とした商品交換では、消費者の方が販売者より支配的地位にあるのですが、大規模な流通網によってその力関係が逆転できるようになっているのです。
見られる側(主人)が覗き見る側(奴隷)より優位な権力者として振る舞えるのも、これと同様のメカニズムです。
二者関係では、覗き見る側(奴隷)の方が支配的地位にあるのですが、巨大な情報流通網を持つ公的機関やマスメディアによって、見られる側(主人)が支配力を維持しています。
それは、夫より妻の決定権が強い家庭の比率が高くても、男性中心の社会構造が維持されている状態に似ています。
アイドルがアイドルでいられるのはファンに欲望されているおかげなのですが、
多くのファンを持つアイドルになってしまえば、ファン一人当たりの比重は小さなものにとどまります。
つまり、両者の数量的な不均衡が、支配関係の逆転を生んでいるのです。
政治家が政治家でいられるのは有権者に欲望されたからですが、
100万票を集めて当選した政治家1人に対して、投票した有権者は100万分の1の力しかありません。
いくら有権者の方が力関係において上位でも、100万分の1に力を切り詰められたら、ほとんど無力でしかありません。
ヘーゲルの主奴論において、主人と奴隷の関係が弁証法的に逆転できるように思えるのは、そこに数量的な問題を持ち込んでいないからです。
奴隷10人を所有する主人がいた場合、主人は奴隷の存在によって主人の地位が保証されるので、本質的には主人より奴隷の方が自立しているのですが、
その力関係を逆転するためには、奴隷10人が連帯して主人と対峙する必要が出てきます。
もちろん、主人は自らの権力維持のために、奴隷たちの連帯をなんとかして妨げようとするでしょう。
連帯されなければ、奴隷1人の力は10分の1でしかないからです。
著者が読者より偉いように見えるのは、著者が大量生産された本というマスメディアによって、読者の数量を稼いでいるからです。
著書を10万部売れば、読者1人の力は10万分の1に切り下げられます。
しかし、かりにその読者1人が、インターネットというマスメディアを用いてその本を批判し、
その批判に多くの読者が同調したとしたらどうでしょうか。
それは連帯した奴隷のような力を持ち、主人の支配力が幻想であることを示すことになってしまいます。
権力者でありたい著者は、批判者が巨大流通網を持つマスメディア(たとえばAmazon)を使って自らの著書を批判することを、必死で弾圧することになるでしょう。
「こいつはマスメディアで雑文を書いただけで、著者に肩を並べた気になっている!」などと、自己言及のような文句を言ったりするかもしれません。
大量流通を生み出す社会構造を無視して、単に等価交換として捉えれば、本質的には「見られる側」の方が「商品」の位置にあります。
商品ということは、貨幣によって買われなければ価値を持ちませんし、
数量こそが自らの権力を高めるので、大量に買われなければ、社会的な支配力を持つことはかないません。
こうして「見られる側」は、支配権力を手にするために、より多くの人に見てもらおうと努力することになります。
つまり、多くの人に見られることへの欲望とは、権力への意志だということです。
本の著者がSNS上の素人感想をやたらにリツイートしたりするのは、自分の奴隷の数量を示したがる権力への意志でしかありません。
そうすることで、本来は弱い地位にある自分を強く見せたいのです。
(日本人が〈対面的でフェアな関係からの逃避〉をしたがることは、本来的な「個の弱さ」と深い関係があります)
彼らは公的機関やマスメディアや商品の大量流通網に頼らない「剥き出しの個人」では、ひどく脆弱で卑小な存在でしかありません。
そのため、大量の支持を獲得するメディア的社会構造に依存することになり、
しだいに自分を支えるのが「見る側」の人々ではなく、大量流通を生み出す社会のネットワーク構造であると思うようになるのです。
(こうして、すぐれた内容の本を書く人より、大手出版社との関係が深い人の方が権力を持つようになるのです)
マスメディアと大量破壊兵器の切っても切れない関係
では、兵器に話を戻します。
兵器というものは、「見られる側」の本来的な弱い立場を、暴力的に露出させるものだと考えるといいと思います。
権力者が大量破壊兵器を持ちたがるのは、「見られる」ことの弱さへの復讐なのです。
前述したように、戦場では「見られる側」が標的になり、「見る側」が優位な破壊者になります。
これは、普段の社会構造で「見られる側」の方が数量を背景とした権力者になることと、正反対の価値になっています。
もちろん、普段の社会構造の方が本来的な支配関係を逆転させて成立しているので、それを正反対にすることは本来的な状態に戻ることを意味します。
しかし、社会的、文化的に成立した逆転状態を本来的な状態に戻すことは、暴力による文化的破壊をもたらさずにはいられません。
本来は弱い存在である「見られる人(主人)」が、権力者たりえたのは多数の「見る人(奴隷)」の支持があるからでした。
しかし、多数の「見る人(奴隷)」が連帯してしまえば、「見られる人(主人)」の支配的地位はあっけなく滅び去るはずです。
しかし、権力者が一度に多数を殺害できる兵器を持っていたらどうでしょう。
多数の奴隷が連帯しようとも、怖がる必要はないのではないでしょうか。
多数の支持に支えられた権力者が、大量破壊兵器を持ちたがるのはこのような理由です。
権力者が兵器を所持するのは、本質的に自己防衛なのです。
近代戦争のすべてが自衛のためであるのは、このような理由です。
多くの人が受け入れられない真実を、僕は恐れずに書こうと思います。
大量流通のマス・ネットワークと大量破壊兵器は、どちらも権力者を支える道具です。
マスメディアやマス消費があるかぎり、大量破壊兵器がなくなることはありません。
これは数量を基盤とした権力構造上の必然なのです。
世界最大の商品流通力を持つ国と、世界最大の軍事力を持つ国は同じ国です。
つまりはアメリカです。
世界最大の映画大国はどこでしょうか?
やはりアメリカです。
本来、戦争と映画をテーマにしたら、アメリカを批判の対象にしなくてはおかしいのですが、おそらくヴィリリオはそれを意図的に避けています。
その代わりにヴィリリオは、ナチスドイツが映画に執着した例を多く示します。
なぜなら、ナチスドイツほど軍事力とプロパガンダに力を入れたわかりやすい国家体制はないからです。
軍事国家とも言うべきナチスが、メディアによるプロパガンダを巧みに利用していたことは有名です。
ドイツ軍はあらゆる連隊にカメラマンのいるPK(情宣部隊)を組織し、映画−軍隊−プロパガンダの連動体制を作り上げました。
敵を即時に破壊するための知覚技術であるカメラが、ここでは体制のプロパガンダに役立っています。
実は『戦争と映画』では、対象の破壊とプロパガンダの両方に、なぜ同じテクノロジーが利用されるのかは考察されていません。
ヴィリリオは直観的アナロジーで両者を結びつければ事足りると思っていたようですが、僕はそこを理論的に考察してみたくなります。
ここで思い出していただきたいのは、乗り物であるメディアとは、その速度の中で、生活領域から離脱する「彼岸」を到来させるものであった、ということです。
生きながらに「彼岸」の到来を迎えることは、実質的には現実の延長に非現実の世界を体駿すること、つまり生活的現実の「塗り替え」を意味します。
現実を生活的意味を排した非現実へと「塗り替え」ることは、生の世界(現実)をメディアによる「彼岸」の光学的世界(映画)へと置き換えることになります。
現実を映画へと置き換える技術は、真実をプロパガンダへと「塗り替え」ることにも使えます。
最近の話をすれば、ロシア軍に攻撃されるウクライナ市民の映像を、ロシアの報道ではウクライナ軍によるウクライナ市民への攻撃映像として流していました。
NHKがデモ参加者のインタビュー映像を、テロップによって誤情報へと誘導したこともありました。
メディア技術によって現実から切り離された映像は、それまで属していた現実から自立しているため、
いくらでも別の意味を付与することが可能なのです。
こうして「彼岸」の映像世界とは、「自らが信じたいものを信仰する世界」──場合によっては「権力者や大衆が信じたいものを信仰させられる世界」──になるのです。
ヴィリリオは20世紀初頭に宗教の一時的な権威失墜があり、国家の中でも宗教の役割が低下したところで、映画が「彼岸世界へと至る新たな手段」となったと書いています。
第一次大戦は古い宗教と新しい軍事=産業的国家の間の特権的な関係を終焉させた。ソ連の場合のように、公的暴力の上に築かれたこれらの国家は、最大多数によって受容される(法的正当性を得る)ために、新しい形の意志一致を必要とした。そのために大衆に代理信仰を押しつける緊急的な必要が生じたのである。(ヴィリリオ『戦争と映画』)
問題なのは、現実の世界がメディア技術によって「彼岸」の世界へと「塗り替え」られたあと、現実の世界はどうなってしまうのかということです。
現世の人間が「彼岸」へと至ったとしたら、その人は現世では死んでいるはずです。
それと同様に、ある現実の出来事が光学的「彼岸」へと「塗り替え」られたとしたら、その現実は物質的に死んでいることになるでしょう。
つまり、映像技術は、現実を操作可能な光学的存在へと置き換えると同時に、その物質的現実に死をもたらすのです。
メディア技術による知覚は、現実の操作と現実の破壊を同時になしとげる〈総力戦テクノロジー〉なのです。
現在、映画館で人々に売られているのはもはや物質性とは無縁の純然たる幻影にすぎない。映画館は物質非在化をめぐる取り引き、つまり物質ではなく光を生産する新しい産業マーケットの特権的空間と化したのであり、かつての大建築物が誇ったあの巨大なガラス屋根を通過する光が突如、スクリーンの上に集光されることになったのだ。(ヴィリリオ『戦争と映画』)
映画館は物質を非在化し光へと交換するマーケットだとヴィリリオは述べます。
ここに書かれている「かつての大建築物」は、もちろん大聖堂のことです。
もう何度も「彼岸」の話をしていますが、映画館と大聖堂が重ねられていることにも注意を払う必要があります。
映画館において物質は光へと変換され、父なる神のもとに召されるのです。
つまり、映像に記録するということは、現実を記録することではなく、物質的に葬り去ることなのです。
存在の物質性を一瞬にして葬り去る映画撮影のカメラが、大量破壊兵器だと考えることは間違いでしょうか。
光学的マーケットにおける距離と時間の等価交換
映画が現実を「塗り替え」る力として信仰されていたことを示しているのが、ヴィリリオが好んで取り上げる『コルベルク』(1945年)というナチスのプロパガンダ映画です。
ナチスドイツは、総力戦の最終局面でも巨額の予算を必要とする映画制作を続けていました。
中でも1943年に制作が開始された『コルベルク』は、A級映画製作費の8倍にもなる850万マルクが投入され、
ドイツ軍が全面的に後退している状況にもかかわらず、軍には映画制作への協力が命令されていました。
コルベルクはナポレオンの攻撃に住民が抵抗して勝利した町の名前で、その戦いを映画化することでドイツ国民に団結と抵抗を呼びかけようとしたのです。
しかし、コルベルクの街のセットをベルリン郊外に作った時には、本物のコルベルクの町は爆撃されて破壊されていました。
過去の輝かしい歴史を眼前のスクリーン上で再現することで、現実の苦境を「塗り替え」ようとした『コルベルク』というプロパガンダ映画には、
ナチス首脳陣の何か祈りにも似た思いを感じずにはいられません。
過去が現在へと交錯し、遠景が近景へと交錯する映画のスクリーンには、その二重化する力によって、現実を光学的な「彼岸」へと置き換えることが望まれています。
そうした「彼岸」が、繰り返されるべき理想化された過去として現れていること(永遠回帰!)には、注意が必要です。
換言するなら、映画館という名の現代的神殿の内部には、光速度効果によって、新しい集団的記憶の形態、エヴリー・シャッツマンが次のように表現した天文学的な内向現象にも比較しうる事態が創造されていたのだ。「光を観察手段として用い、その伝播速度が有限である場合、物体は遠距離に位置していればいるほど、ますます遠い過去に位置するものとして観察される」。(ヴィリリオ『戦争と映画』)
映画館が光への信仰を司る現代の神殿とされるのは、すでに了解しているところですが、
問題は「新しい集団的記憶の形態~が創造されていた」という部分です。
──記憶が創造される?
過去を示すはずの記憶が、今現在つくられるなら、それは記憶とは言えないのではないでしょうか。
むしろ、歴史修正の最たるものです。
しかし過去と現在を交錯させるスクリーンでは、上映時間中に新しい集団的記憶を難なく生み出すことができます。
それは遠い過去を現前させるとともに、現在つくられたものを過去化するものです。
このメカニズムを、ヴィリリオは天体を例にして説明します。
今日私たちが夜空に見ている遠い星々の輝きは、実際はその星が何百年も前に放った光です。
光による現前が、実際には遠い過去を示すことになるので、私たちは光によって現在上映されている映画を、遠い過去の記憶のように錯覚するというのです。
映画がスクリーン上で新しく集団的記憶をつくりだすことを、メカニズムとして理解するのはなかなか大変です。
ここで前提となるのは、天体の発光とその到達との時差は、天体と地球との果てしない距離に置き換えられるということです。
今目の前にある光学的映像が、実際には遠く離れた場所をルーツとするとき、そこまでの距離感は時間へと変換されます。
つまり、撮影された映像を現在の光景として「前に–立てる」とき、その光景はどこか遠い記憶のように作用します。
このような距離と時間の等価交換こそが映像技術の真の力であり、たとえメディア的同時性によって時差をなくしたとしても、
その光景が本当に同時的な現在のものだと実感することは不可能です。
(生放送の画面にLIVEという表示をしつづけなければならないのは、そのためです)
映像が記憶の再現に思えるのは、撮影されてスクリーンで上映されている映像が、現在見ている場所から離れて撮影されたという事実にあります。
その意味で画面上の映像には、すべて既視感の影を見出すことができます。
2001年のニューヨーク同時多発テロで、旅客機が貿易センタービルに突入する映像を見た人々は、「映画のワンシーンみたいだ」と口にしました。
そう、世界で初めて起こった出来事にもかかわらず、過去に見たことがあるような気がしたのです。
なぜなら、光を記録する映像技術は、本質的に過去を再現することしかできないからです。
映画とはノスタルジーの覇権を高らかに示すものです。
極端な表現をすれば、映画に映された建物はすべてが遺跡であり、映画に映された人々はすべてが死者なのです。
ロシア軍の攻撃にさらされたウクライナの町の風景は、すべてが遺跡のように見えないでしょうか。
戦争は映画であり、映画は戦争なのです。
そこで奪い取られるものは、ベンヤミンならアウラ(一回性)と言うでしょうが、実際は生きた現実なのです。
映画とは、世界から生きた現実を果てしなく遠ざけ、既視感のある懐かしい「彼岸」へと置き換える破壊兵器なのです。
映画の世界破壊によって、人間にとって生きることは夢を見ることになったのです。
VRなどの最新のコンピュータ・グラフィックスでは、これまで見たこともない視覚的体験を生み出すことができますが、
どんなに新しいスペクタクルを生み出そうと、それが既視感のある過去のものであるという印象を消すことはできないでしょう。
しかし、見たことがあるものとは、安心できるものではないでしょうか。
皮肉なことに、そのような映像にまつわる既視感が、どのような過激な映像表現も、娯楽的な視覚刺激として安全に消費されることを保証しています。
画面上の映像は、ある程度慣れてしまえば、ちっとも恐ろしくないのです。
遊園地の絶叫マシーンのようなものです。
映像が娯楽のチャンピオンであるのは、そのような既視感──本質的には距離感に支えられた安全性にあります。
画面上でいくらでも近接できるアイドルのイベントに、遠くから時間をかけて会いにくるファンが多くいるのは、
画面上に現前するものが、いかに本質的に遠距離に存在しているかを立証していないでしょうか。
遠いものとなった女の身体に投げかけられる軍事的征服者の卑猥なまなざしは、戦争によって無人化した領土の上に投げかけられるまなざしと同一のものである。それは、湖や土地の起伏や谷などをもった風景を撮るのと同じようにスターを撮る「映画監督」の覗き見趣味からくるものなのだ。(ヴィリリオ『戦争と映画』)
戦争と映画の接点では、やがて性的魅力を持つスターが必要とされるようになります。
戦場を俯瞰的に撮影することは敵を丸裸にすることであり、それがポルノ映像と言えることを僕はすでに述べました。
イギリスでは、検閲を受けていたストリップが、軍隊によって市民権を得ることになった、とヴィリリオは書いています。
スターとなる女性には兵士の性的慰安の目的はもちろん、極限状況における精神的な「孤立」を和らげることが期待されていました。
しかしながら、技術的な孤立化は、心理的に不安なものである上に、また長時間にわたる影響を残すことから、「戦略空軍」はその無敵艦隊の危険に満ちた遠征を飾り立てることを決定した。爆撃機の迷彩の上に鮮やかな色で漫画の主人公や、いわくありげな名前を持ったピンアップ・ガールの巨大な絵を描いたりしたのである。(中略)甘い声の女性アナウンサーが無線で搭乗員を案内し、そればかりではなく、破壊のイメージに冗談や、打ち明け話や、恋の決まり文句を忍び込ませ、彼らの任務が続くあいだ、心に安らぎを与える役を務めたのである。(ヴィリリオ『戦争と映画』)
例によってヴィリリオは論理的説明をしないので、僕が代わりに理論構築します。
戦場は死の世界であり、映画も死の世界です。
長らくその世界で孤立しつづければ、心理的な不安に強く襲われることになります。
そこで、死と正反対のものをぶつけて、恐怖を打ち消す必要があります。
死の反対物とは生殖です。
死の世界が性的魅力で彩られる必要があるのは、生殖機能を刺激して生の充実感を得るためではないかと思います。
(漫画や性的アイコンを利用した戦場での兵士の精神慰安と、近年のオタクの精神慰安が似ているのは、戦時総動員体制の拡大を示しています)
スター・システムとかセックス・シンボルの創造などは、第一次対戦中にあらゆる領域で進行した視覚の強固な兵站術が生み出したものである。予見しがたい兵站術の規模の拡大のなかで、もともと遊動的であるアメリカは、いまだなお定住性に依拠し、そこから脱却できないでいるヨーロッパにおいて、自分たちの方式が勝利するのを見るであろう。(中略)市場を作り出すのが、もはや消費財ではなく、流通のベクトルであるのはすでに明らかだった。そしてアメリカでは、ニューディール政策よりもだいぶ前の一九二〇年代には、すでにメディアの非中立化、商業的利益を奪い合う経済戦争への利用を図る産業商業資本によるメディアの私物化といった事態が進行していた。すでに見たように、ハリウッド、そして「城塞を取り巻く中世の都市のように、スタジオの周囲に繁殖する」付随的産業を厳しく支配したのは産業資本だったのである。(ヴィリリオ『戦争と映画』)
実はヴィリリオが正面から資本主義に言及することは珍しいのですが、この引用文には数少ない資本についての言及があります。
(ヴィリリオは「すでに見たように」などと書いていますが、彼のアメリカへの言及は具体例にとどまってばかりです)
この引用文の前半は、ヴィリリオが親しかったドゥルーズの思想的内実を暴露しています。
頭の悪い日本の現代思想研究者は、ドゥルーズのノマディズムを素直に遊牧民的なものと解釈しているのですが、
その実態はアメリカの「流通力」のことでしかないことを、ヴィリリオは見抜いています。
僕は長らくフレンチ・セオリーが、農業国の屈折したアメリカ化(それこそが従属する主体)の現れだと思ってきたのですが、それを遠回しでも指摘してくれる人は貴重です。
ハリウッド映画を例にしてもわかることですが、アメリカ製品の「世界的流通力」は、まさに定住性を超克したノマドを体現しています。
スターバックスやマクドナルドは世界中に存在しますし、その無国籍で遊動的な場所はノマドワーカーの休憩地に適しています。
これらを支配しているのは、アメリカの消費的産業資本です。
やがて世界大戦の時代は終わり、アメリカとソビエトが世界の軍事覇権を争うことになりますが、
戦争が映画であるなら、ソビエトに勝ち目はなかったと言えるでしょう。
社会主義陣営は崩壊し、アメリカ資本の流通力が世界を席巻するグローバリズムの時代を迎えます。
こうしてヴィリリオの関心は、映画という可視的文化からインターネットなどの高速情報流通へと移っていきます。
次回はヴィリリオの情報論を読み解いていこうと思います。
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3 Comment
丁寧な返答ありがとうございました。
- 城前佑樹(白樹烝)さん
- (2022/04/08 21:43)
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私も学生時代は色々と目移りしたものですが、もう西洋思想について単純に触れてよろこぶようなことは諦めています。
ましてや現代思想などになると、本質的な部分での西洋を認識できずに弄ぶことはしてはいけないと観念しました。
近代の根本となる思考を立ち上げたデカルトなども、西洋における信仰の問題なしでは簡単に理解できないとなると、日本人である私が迂闊に踏み入ってはいけないものがあります。
少なくとも私が思考出来ることは、自身の俳句の詠じようと、これまでの俳諧〜俳句の歴史に残っているものからしかないのです。
もちろんこれまでの人生に付随して触れてきたものは沢山ありますが、そうした様々な世界に関しても、俳句・俳諧で磨く「眼」から観えてくるものはあると信じやっていくしかないですね。
城前佑樹(白樹烝)さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2022/04/07 09:36)
- [コメントを編集する]
城前佑樹(白樹烝)さん、コメントありがとうございます。
できるだけわかりやすく書いたつもりですが、内容のレベルは落としていません。
僕は金儲け産業や学界の常識への忖度がいらない場を選んでやっているので、
ここに書いた内容は、一般書を含めた批評の最前線だと自負しています。
それが城前さん(変換が楽なので、こちらで呼びます)に届いたことが何よりうれしいです。
実は城前さんが書いてくれた「観る」「観じる」という態度は、
仏教で言う「観照」に当たるのではないかと思います。
これをギリシア思想に変換するとテオーリア、英語にするとcontemplateになりそうですが、
この語の語源にはtemple(切り離された聖所)という語があり、
すでに現世から「切り離す」ことが含意されています。
(さらにtemplumという語源に遡ると、「鳥を観察する」となり、マレーの写真銃と重なるのが面白いです)
東洋思想の多くには人間一人一人の中に聖性があるという考えがあり、
西洋一神教のような神との絶対的距離──服従という前提がありません。
短絡的に西洋思想を東洋に当てはめる前に、両者の本質的な差異を考える必要があります。
とりわけ東洋の伝統詩型で創作する方は、西洋思想をそのまま利用して語るような愚は慎むべきでしょうね。
読ませていただきました。
- 城前佑樹(白樹烝)さん
- (2022/04/06 23:31)
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今回の「映画」批判論は読んでいて胸が熱くなりこちらに感想を書いています。
今の時代、「見る」という基本的な「権力行使」の技術を磨く前に、映画やマスメディアといったテクノロジーによる「情報」に踊らされてしまうところがありますよね。
(私自身単純な評判で流されてしまうところがあるので自戒も込めてですが。
ただ、この流れで次回ヴィリリオの情報論に向かうというのは(冷戦下→グローバリズムの時代情勢の流れとともに)とても納得しました。)
日本人は西洋人が「見る」と言う時の感覚とは別に、「観る」「観じる」と言うべき感覚があったのではないか、と私は思うのですが、これはただの自国偏重主義かもしれませんね。
全てをノスタルジーと変化させ世界を破壊してしまうと南井さんが言う、映画による戦争を生き抜くためには、眼前にある現実の新鮮さをきちんと観じるのが不可欠と最近は思います。
そのような考え方をしていると今の社会に適応することが難しく、ですが「夢を見」たままで一生を終えるよりはマシと考えるしかないのかもしれません。