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「推し」の構造

「萌え」という消費の燃料

Twitterのフォロワーさんから、「推し」がよくわからない、というリプをいただいたので、「推し」について書こうと思ったのですが、
Twitterは論説には向かないメディアなので、ここに書くことにしました。
「推し」は「萌え」と関係が深いので、まずは「萌え」について復習したいと思います。
「萌え」は現実的に結実しない性欲を、社会的に認知してもらおうとする欲動のことでした。
そこでは性欲が現実的な相手に向けられることはなく、架空の対象へと向けられることで去勢されています。
対象と結ばれることのない虚しさを、商品購入やイベントなどの消費行為によって補完し、
性的な趣味的共同体に参入することで癒していくことが「萌え」の本質でした。


前回の記事は東浩紀が現代思想をメディア的にしか理解していないこと、
そのため現代思想の恣意的な援用で、オタク的保守化を正当化する試みでしかなかったことを示すことに主眼があったので、
「萌え」については二次的にしか触れることができませんでした。
ポイントは、性欲の充溢をサブカル的な消費行為によって引きヽヽ延ばしヽヽヽ続けるヽヽヽところにあります。
東浩紀が「萌え」を「ポストモダン」だと詐称することができたのは、
どちらも「ズラす」ことによって普遍的な超越性への「到達」を永遠に引き延ばしていく、消費資本主義のメカニズムに依存しているからです。
神と会うための「掟の門」が、向こうに神の存在を匂わせつつ、死の瞬間まで開門を引き延ばすようなメカニズムです。
しかし、金銭を払う消費行為が、どうして一時的に性欲を満たすことになるのでしょうか。
この倒錯のメカニズムがわからないと、おそらく「萌え」に潜む社会的な罠に気づくことはできないでしょう。
性欲と消費の本質的な関係について、少し考えてみましょう。


モードに操られる消費行為が、欲望を原理として成立していることは、今さら説明するまでもありません。
性欲が欲望の一つであることも言うまでもないことです。
欲望こそが商品購入や消費の原動力なので、性欲が人々を消費行為へと駆り立てることになるのは不思議ではありません。
つまり、消費購買において性欲は恰好の燃料になるわけです。
性欲こそは採掘されるべき化石燃料であり、ウランであるのです。
そう、性欲は天然資源なのです。
性欲という言い方をすると、何やら動物的で卑しいものに思えますが、
性欲は身体が生み出す性的衝動にとどまらず、「モテたい」という社会的な欲望にまで拡張できるものです。
たとえば、有名になりたい、自分の作品を多く売りたい、フォロワーを増やしたい、という欲望は、すべて性欲に還元できるものです。
(自分の子孫を増やしたい欲望と、自分の支持者を増やしたい欲望は結びついています)
ニーチェが「力への意志」と呼んだものであり、フロイトが人間の無意識に見出したものでもあります。


この性欲を基盤とした「みんなにモテたい願望」が、消費資本主義の天然資源である、という認識が重要です。
モテたくてバンドを始めた、というミュージシャンが、売れに売れて有名になることは珍しくありません。
つまり、「みんなにモテたい願望」は、簡単に「売れたい欲望」へと転換します。
性欲の拡張は「売れたい欲望」とつながっているのです。
そうであるならば、どうでしょう。
「売れたい欲望」を満たすことが、性欲の充溢(性的満足)の代償行為にならないでしょうか。
ライブ会場を満員にしたミュージシャンが、そこに来た異性のファンを、自分を求める性的存在と認識したからといって、異常な妄想とは言えないと思います。
異性のファンに囲まれた作家に、「潜在的なハーレム願望が満たせてよかったですね」と嫌味を言ったとしても、本気で反論するのは難しいでしょう。
「売れたい欲望」は「倒錯的なハーレム願望」への還元が可能なのです。
同性にばかりモテる、というケースは、「ハーレム願望」を満たすことにはならないわけですが、
それでも「ハーレム願望」から全く無縁でいることができないのは、同性からも金銭を集められるからです。
同性ファンから金銭を集めれば、その人は「金持ち」になります。
経済力は権力の一つですので、その力によって異性にモテるという目標を達成することができます。
これは非常に重要なことですが、金銭には性別がありません。
(つまり、人間を金銭的存在にすれば、ジェンダーフリーなどは簡単に達成できるのです)
「モテる」度合いを金銭に還元してしまえば、男からの支持も女からの支持も区別する意味はほとんどありません。


つまり、人間の性欲には社会性が含まれるということです。
性欲がなければ、家族も社会も生まれないのですから、当然のことです。
性欲を社会的な関係性を作る力と考えれば、社会的な関係によって満たされる面があっても不思議はありません。
もっと言えば、社会的な関係の物象化である「商品」、その普遍形態である貨幣との深い関係を疑わないのはおかしなことなのです。


こんな話をしなくても、性欲の充溢が消費行為によって代替できることを理解するのは簡単です。
ある女性と一晩寝るために、200万円を払う男性がいた、と想像するのは難しいことではありません。
このケースで男は自分の性欲の充溢のために、200万円という値をつけたことになります。
もし女がこの申し出を受け入れれば、彼の性的満足は200万円という金銭に還元することができます。
その申し出を女が断ったとして、その女が男に200万円を払わせるほどモテるという事実は動かないわけです。
この時、その女を200万円の性的魅力を持つ「商品」だと見なしたとしても、何もおかしなことはありません。


このように、性欲の充溢は金銭的に「交換」できる潜在的なヽヽヽヽ可能性を持ちます。
性欲と金銭との交換可能性は、商品と貨幣との交換可能性に重ねることができます。
ただ、決定的に異なるのは、自立した女性は交換の申し出を断ることができるということです。
自立した女性は、自分が男性の性欲を満足させるための「商品」になるかどうかを自ら選択することができるのです。
しかし、「商品」にはそのような選択権がありません。
マルクスが「商品は物であって、したがって人間にたいして無抵抗である」(『資本論』)と言うように、「商品」には抵抗する力がないのです。
(つまり、自分が「商品」でないことを立証するには、抵抗を示すしかないのです)
金銭さえ支払えば、誰でも手を握ることができる女性とは、「商品」でしかないということです。


抵抗されることを恐怖する「消費者」

商品購買という関係性に慣れきってしまうと、十分な金銭を支払えば「人間的な抵抗」に出会うことがなくなります。
ものすごくモテる女性が、自分の魅力になびかない男にしだいに惹かれてしまう、というラブストーリーが成立するのは、
そこに自分を商品と見なすことのない「人間」を発見するからです。
しかし、性欲の充溢を人間を愛することから切り離してしまうと、「商品」によって性欲の充溢を図る方が好まれるようになります。
なぜなら、そこには「人間的な抵抗」(=振られる)に出会う可能性がなくなるからです。
とりわけ、人間でない「性的商品」を購入して倒錯的に性欲の充溢を図るならば、
振られる可能性はほとんどゼロになるわけです。
もちろん、商品に有限性を持たせることで、擬似的な「振られる」効果を出すことはできます。
限定商品が売り切れたり、ライブのチケットが売り切れたりすれば、擬似的な性欲の充溢が失敗に終わるからです。
性的商品の購入者は、擬似的な失恋を恐れるあまり、その商品に大金を注ぎ込む努力をすることになります。
本来なら異性を口説き落とすためになされる多くの努力が、その関連商品を購入して大金を消費する努力へと置き換えられているのです。


先ほど確認したように「商品」は無抵抗が前提なので、「商品」から拒絶されることはありえません。
消費行為がなぜ楽しいのかというと、そこには拒絶という「抵抗」が本質的に存在しないからです。
在庫不足で商品購入ができないことでも挫折感は生まれますが、拒絶の意志を示される恐怖体験には遠く及びません。
それどころか、次の入荷を心待ちにする心境が生まれます。
「今日はゴドーの入荷はありませんが、明日には入荷します」と店員の子供が告げると、
ウラディーミルとエスドラゴンはゴドーを待ちながら明日を迎えることになるのです。
もちろん、売り手であるベケットカンパニーでは、不人気商品だったゴドーを入荷する予定はないので、
そのうちウラディーミルとエスドラゴンは、ゴドーの粗悪な模造品を自分で作るようになるのですが、
商品の在庫切れには、最終的に自ら模造品を生み出すことで対処することが可能です。
天馬博士が事故で失った息子の模造品を、鉄腕アトムとして生み出すようなものです。
模造品は拒絶による挫折をゆるやかに回避するために存在します。
ユダヤやイスラムなどの純度の高い一神教では、神の模造品を徹底的に禁止しています。
挫折をゆるやかに回避する人たちに、厳格な信仰心など期待できないからです。
その意味で、模造品まみれの資本主義が、キリスト教という中途半端な一神教をルーツとしているのがよくわかります。
キリスト教は神が刻印された複製品を流通させ、信仰のあり方をどんどん世俗化して世界規模に発展した宗教です。
そもそも人間が神の複製であるのですから、複製品をどんどん増やすことに問題があろうはずがないのです。


この話を続けると、テーマと違うところに突入してしまうので、話を元に戻します。
性的欲望を抱いた相手から本質的に拒絶される可能性を回避したのが、性的商品という模造物であるという話をしていました。
商品には拒絶の意志など存在しないからです。
決して相手を拒絶することのない美女がいたら、その人を好きになる人が果てしなく拡大するのは道理です。
商品とは、流通拡大の可能性へと自らを捧げることで、拒絶の意志を捨て去った形態だと定義することもできます。


商品の側に拒絶の意志がないとして、商品を購入しないという選択は、消費者側からの拒絶を示すものではないのでしょうか。
これがそうはならないのです。
商品を購入しない選択とは、つまるところ「無関心」にまとめられてしまいます。
その商品を拒絶しているから買わないのではなく、無関心だから買わないのだと普通は考えるのです。
(なぜなら、無料ならその商品をたいていの人がもらうだろう、と想像するからです)
無関心は、その商品を知らないという無知と区別ができません。
たとえばゴドーという大ヒット商品を買う気がない人がいるとします。
その人に「君はどうしてゴドーを買わないの?」と質問したとしたら、
彼は「いや、別に欲しくないし」と答えるか、「欲しいけど、金を出すほどではないかな」と答えるかするでしょう。
(どちらにしても、市場が評価するほどの価値を感じない、という意味になります)
その時、すでにゴドーを買った人は、この人はゴドーに関心がないと思うか、ゴドーの価値がわからない気の毒な人だと思うわけです。
たいていの場合、購入者は自分が購入した商品の価値を疑おうとはしません。
なぜなら、商品を購入したということは、それに金銭を支払うだけの価値を認めたことであり、
その価値を疑うということは、自分の評価が間違っていたことを認めることになるからです。
では、ゴドーを購入した上で、それに価値がなかったことを論理的に証明し、それを支持する人が一定数出てきたとしたらどうでしょう。
ゴドーを購入した人は、それを評価した自分自身の眼力に疑問を持たれていると不安を感じることでしょう。
とりわけ、ゴドーがヒットしたというだけの理由で購入した人であれば、それを自発的に評価する理由を持たないだけに不安が深刻になります。
そうした不安に駆られた人たちが取る手段は決まっています。
ゴドーを批判し、「拒絶への意志」をあらわにした人を攻撃することです。
その批判者がいかに信用できない人物であるか、果ては悪人であるかを喧伝し、その人の評価が異端であることを示すことに躍起になります。
こういうことが起きた場合、そのゴドーという商品がヒットする現象は、ある種の宗教的現象になっているということです。
自分が信仰する宗教にケチをつけた異端者を排斥する態度と、ほとんど変わらなくなるからです。
僕はマルクスの言う商品の「物神崇拝フェティシズム」というものが、実はイマイチ理解できません。
理論的には理解できるのですが、僕は商品にフェティシズムが宿るということを、リアルに実感することができないのです。
だから、本当はそんなフェティシズムなど無いのではないか、と密かに思っています。
商品のフェティシズムが語られるのは、
集団の大多数が欲望する「商品=媒介物メディア」が、現実的に無価値である(使用価値がない)ほど人々の信仰心を呼び起こすことを説明するのに、便利だったからではないのでしょうか。
つまり、僕は信仰を倒錯的な心理メカニズムとして考えているのです。
(理解しにくいとは思いますが、倒錯的心理だからといって、僕は信仰に全面的に価値がないと思っているわけではありません)


信仰の媒介物は社会的に無価値であるからこそ、社会的に無価値とされた人々を包摂することができるものです。
この市場の特殊メカニズムを単純化して詩に適用すると、無意味で物神的フェティッシュな言葉が詩なのだ、という愚かな主張になります。
地上を離れた天上的なものが普遍的な地位を占めるようになるのも同じ原理です。
つまり、ヒット商品が権力化するメカニズムも、一つの信仰の形態だと言えるのです。
その力の源泉はすべて、その商品を多くの人が欲望している、という一点にしかありません。
こうなると、信仰の競争は数量的な競争に還元することが可能です。
たとえばヒット商品がどれだけの数量を売り上げたとしても、現在の市場全体の中で最大領域を獲得するにすぎません。
時間を超えることはできませんし、市場領域を超えることもできません。
科学技術ではどうでしょう。
科学技術の最大領域は現在の宇宙の一部になります。
やはり時間を超えることはできません。
宗教はどうでしょう。
宗教は人間世界や森羅万象すべての領域に加えて、過去や未来の死者たちをも対象にしています。
数量的な勝負で考えると、宗教がやはり最も強力な信仰を生み出すものになるのです。


本来なら文学も宗教の領域全体をカバーすることができるものです。
むしろ、単体としての宗教を凌駕するものが世界文学と言えるでしょう。
しかし、現在の文学愛好者たちの精神を振り返ってみてください。
ほとんどが狭い市場領域の範囲にあるものしか文学だと思っていません。
これが文学の敗北でなくてなんでしょうか。
市場に規定された出版社の意図にそって雑誌の記事をヒイコラ書いたり、
出版社の依頼を受けるかたちで書かれた著書をヘイコラ出したり、そんなものばかりが文学だと思っています。
前回取り上げた東浩紀は、消費市場で売れたものを文学の評価と見なすことにためらいのない人でした。
そういえば最近出た現代思想の増刊にドストエフスキーの特集号がありましたが、その冒頭のエッセイが東浩紀でした。
いや、ホントに笑うしかないですよ。
受験エリートで拙い若書きがすぐに評価された体制の寵児が、死刑を免れてシベリア送りになった人の文学を切実に必要としたとは思えません。
こういうなんでもゲーム感覚で対処すればいいと思っている人が、現実逃避国家では妙にスター扱いされています。
現代思想オタクの多くはいまだ東浩紀の知的視野の狭さすら理解できない人が多くて、もう相手にする気も起きないのですが、
こんなオタク相手のアイドルを持ち上げる日本の大手出版社の病理については、もう末期状態で治療の施しようもないため、早く成仏してほしいと願っています。


現在の市場で大量に流通するものが文学だと思っている人と、そういう消費精神を重視する出版社によって文学業界が支配されていくと、
文学は現実での自己評価が低い人たちの「癒し」として作用する「商品」でしかなくなります。
今の文学業界で評価される文学商品は、「萌え」の対象となる性的商品と変わらないと僕は言いたいのです。
だからこそ、「萌え」をやたら高尚なものであるように見せかけた人が、文学業界に入り込んで商売をしているのです。


現実の女性を相手に性的な交渉をして、「拒絶」されることを恐れる人たちが、
「拒絶の意志」を剥ぎ取られた性的商品に「癒し」を求める時に、「萌え」が発生します。
「萌え」が「甘え」と手を組んだものであるのは、拒絶が排除されているところにあります。
東浩紀はTwitterで自分に批判的な人物をすぐブロックするのですが、これは自分が「拒絶」されたという事実を主体的な「拒絶」によって塗り替えるための行為です。
それだけ自分が拒絶されることを強く恐れているのです。
所属集団から拒絶されることを何よりも恐れるのが日本人だと言えばそれまでですが、
僕のようにあちこちで拒絶されてきた人間からすると、ひ弱な小学生を見ているような気分になります。
どこかで拒絶されても、別のどこかで受容されればいいと思うのですが、なぜ日本人は現在の所属集団にとことん執着するのでしょうか。
雇用の流動性が低く、一度ドロップアウトすると立ち直れない終身雇用型の社会構造であったことが影響している面はあるでしょう。
しかし、文学に携わる人がドロップアウトを恐れる温室育ち丸出しというのは、やはり笑う以外ないように思えるのです。


「萌え」から「推し」へ

「推し」の説明をしないうちに終わりそうな気配になったので、そろそろその話をします。
前置きが長くなったのは、「推し」の説明には、「萌え」が性欲を消費へと振り向けることで成立したものだという認識が必要だったからです。
身も蓋もない言い方をすれば、「萌え」とは性欲の消費文化的な処理なのですが、そこに趣味的な共同体が介在することを僕は強調しました。
「萌え」は、性的対象が属する消費的共同体への依存によって成り立っています。
架空の趣味的共同体への接続は、消費行為によってしか維持できません。
そのため入場料として、金銭を支払うことが必須になります。
架空の共同体への志向という雑な共通項から、サブカル的なものが現代思想によって正当化される知的退廃が、長らく続いていますが、
現代思想が構想する共同体に、入場料が必要なものなどあるでしょうか。
本来、思想や文学は消費によって入場料を支払うことが、世界参入の前提になるものではないのです。
しかし、「萌え」を成立させるサブカル共同体には、入場料に当たる消費行為が欠かせない構造になっています。
消費行為で成り立つサブカル共同体とは、金銭収奪のシステムであり、最大目的が資本の増殖にあることは間違いありません。
この明らかな事実をごまかして、やれ思想だとか、やれ文学だとか、さらには「資本主義と戦っている」とか語る人に対しては、冷ややかな目で見る必要があります。
消費文化の金銭収奪システムで売り上げを稼ぐ現実逃避テーマパーク的な作品を、
卑しい出自を隠すために、高尚な文学や詩やアートであるかのように語りたがる人たちも同様です。


今回僕がテーマにしている「推し」は、「萌え」の延長にあります。
ちなみに「推し」は、最近では芥川賞に選ばれた作品で取り上げられていました。
宇佐見りんの『推し、燃ゆ』(2020年)です。
この作品では推しアイドルの炎上事件を遠巻きに見守る話ですが、特に「推し」についての本質的な考察が窺える記述は見つけられませんでした。
宇佐見が「推し」についてどれだけ考えたのか、僕は非常に疑問です。
流行の風俗をただ追いかけるだけが文学になってしまったので、もはや考えることすらしないのでしょう。
ネットの辞書で検索すると、次のような説明がされていました。


人やモノを薦めること、最も評価したい・応援したい対象として挙げること、または、そうした評価の対象となる人やモノなどを意味する表現。

近年の美少女アイドルグループのファンの中では自分の一番のお気に入り(のメンバー)を指す表現として「推し」と表現する言い方が定着しており、昨今ではドルヲタ界隈の用語の枠を超えてアニメキャラや球団を対象に「同種のものの中ではこれが一番好き」という意味合いで広く用いられるようになりつつある。

上記の説明はなかなか適切だと思います。
「推し」という行為は、同じ共同体に属するものの中から、自分が評価したものを他人に示すことです。
その評価の対象自体を「推し」と呼ぶ場合もあります。
ここからわかることは、「推し」はその対象を自分が高評価するだけでは成立しないということです。
単に自分が好むものを表現するだけの言葉ではないのです。
推薦する相手となる他人が、潜在的であれ必要になります。
つまり、「萌え」と同じく、評価の基盤は自分にありながら、それを受容する他人や共同体を志向しているのです。
性欲を基盤とした趣味的な共同体を前提としている点で、「推し」と「萌え」は同種のものと言えると思います。


「推し」が「萌え」より進化したのはどのあたりでしょうか。
それは、「推し」が対象の所属する「共同体内の選択」であることがすでに了解されている表現である点です。
グループ自体のファンであるのは語るまでもない大前提として、メンバーの誰が最もお気に入りなのかを示す表現なのです。
簡単に言えば、すでに用意された限定的な選択肢の中で何を選ぶか、という興味によって、「推し」という行為が成立しています。
(これは受験などの選択型試験のメカニズムでもあります)
前回の記事で、東浩紀が「萌え」が共同体的な「大きな物語」に回収されないものだと主張していることについて、僕はそれを誤りだと指摘しました。
つまり、「萌え」においては、その共同体志向はまだ不明瞭であったわけです。
しかし、「推し」を取り上げてみれば、僕の主張が正しかったことは完全に証明されたと思います。
上記の具体的な説明を読めば、それがよくわかります。
アイドルグループやアニメキャラや球団は、すべて複数のメンバーが所属する共同体を前提としているものです。
(アニメキャラにとっては、作品が所属共同体の代わりになります。
『呪術廻戦』の伏黒恵推しと言う場合は、『呪術廻戦』が所属共同体の役割を果たします)


所属集団からあぶれることを何よりも恐れるのが日本人、ということをさっき書きましたが、
自らの趣味的興味を所属共同体をベースにして示すという風習は、いかにも肩書き社会である日本的な現象だと思います。
日本人は肩書きが本当に大好きで、「どこどこ所属の〜」という肩書きがないと真っ当な社会人とは見なされなかったりします。
目の前にいる人を自分で判断するよりも、所属集団や肩書きによって信用を担保する発想が、骨の髄にまで染み込んでいるのです。
それは集団や権力による認定によって人を判断する、前近代的な権威主義的メンタルでもあります。


「萌え」の本質は、趣味的な共同性を前提とした性欲の示し方にありました。
「推し」も趣味的な共同性を前提として成立している点で、「萌え」の延長にあります。
ただ、「萌え」が共同性の構築に主眼が置かれているのに対し、「推し」では共同性はすでに前提となっていて、主眼は評価する対象の「選択」にあります。
ギャルゲーやライトノベルでわんさか出てくるヒロインが、次々に主人公をなぜか好きになっていくのは決定されたお約束であり、
主眼はそのヒロインたちの中で、(プレイヤーや読者が)誰を「選択」することにあるのと同じです。
(主人公は作品当初から決められていた相手を選ぶのが普通です)
言葉の慣用について客観的な記述をするのは難しいので、僕の記憶をもとに語らせてもらうと、
「推し」は当初は「推しメン」という使い方をされていたように思います。
つまり、メンバーの中から選択して誰を応援するか、ということで、
「応援したい集団の中で一人を推薦するならこのメンバー」を略して「推しメン」としていたのではないかと考えます。


その後、2009年に始まった「AKB48選抜総選挙」の影響で、「推し」という言葉には違った意味が付与されるようになりました。
選択した特定のメンバーを「推し」ていくにあたって、そのメンバーへの応援を金銭的消費によって示す活動を伴うようになったのです。
たとえば個別握手会に参加したり、キャラのグッズを購入したりすることで、特定の対象に「投資」するのです。
僕が強調しておきたいのは、「推し」とは「投資」のメンタルによって成立したものであるということなのです。
オリコンの記事ではファンに「タニマチ感」を与える、と書かれています。
「タニマチ感」とすればパトロンのような印象になるのですが、ファンは実際にはCDやイベント入場券、グッズという商品購入をしているだけですので、
パトロンのような裏で活動資金を直接に提供する出資者ではありません。
要するに、ファンにパトロン気分を味わわせて、消費へと誘う新手の商法として「推し」が利用されている面が大きいのです。


「推し」に投資する活動を「推し活」と呼ぶらしいのですが、ファンが「推し活」に資金を投入する動機は、「推しメン」の人気拡大です。
自分が応援したメンバーの人気が高まることが、彼らの喜びなのです。
気合いの入ったファンは、「推しメン」の社会的認知のために自ら宣伝活動を買って出るようになります。
普通の投資家は、投資だけして経営は他人任せにするものですが、
投資をした上に「推しメン」の宣伝活動までしてくれるのですから、こんなありがたい存在はいないでしょう。
ここまでする人は、ただの投資メンタルではすまなくなり、布教に熱心な信仰者に近づいていきます。
「推し活」とは布教活動のようなものと言えますが、問題は信仰者が宗教ほどの救済を得られるのかという点です。
これは実際にやっている人の実感でしかわからないものですが、救済されているといいなと思います。


2014年に金融機関でNISA(少額投資非課税制度)の口座を開設できるようになり、個人投資のハードルが下がりました。
今やスマホを使って100円で投資ができる時代です。
AKB総選挙のCD商法はだいぶひどかったと僕は思っていますが、
あれが大きな問題にならなかったのは、個人の投資メンタルを歓迎する社会風潮と一致したからではなかったか、と僕は疑っています。
直接の関係がなかったとしても、手持ちの金をアイドルやアニメキャラへの投資に注ぎ込むことが愚かだと思われにくい社会風潮になったのが、この10年くらいのことなのは確かです。
「推し」という言葉が一般に広まった時期が、それと重なっているのは偶然ではないと思います。
サブカルやサブカル文学を好む人は、自分の欲望が現実社会と無関係なところにあると信じているようですが、
実際は消費資本主義や金融資本主義の社会的浸透に影響されているのです。
当人がただ気づいていないだけで、彼らの現実逃避は全然現実から逃避などできていないのです。
ただ現実から逃避した気分を、金銭で購入しているだけにすぎません。
人々は金銭を支払うという社会的活動ヽヽヽヽヽによって、現実逃避の「後ろめたさ」から懸命に逃れようとしているのですが、
その「後ろめたさ」が、彼らが逃避したがっている現実をさらに強化する燃料になっていることに、ちっとも思い至らないのです。


クラウドファンディングというゲーム

「推し」についての説明はこれで終わりですが、ついでなのでクラウドファンディングについても書いておきたいと思います。
クラウド(群衆)とファンディング(資金調達)という言葉の合成でわかるとおり、クラウドファンディングは不特定多数の人から手軽に投資的な資金を集める方法のことです。
インターネットの専門サイト上で実現したいプロジェクトを起案して、そのための資金を募り、
そのプロジェクトや返礼となるリターンに魅力を感じた支援者が、資金を提供するという仕組みになっています。
このクラウドファンディングも、特定の人を投資によって支援するという形態において、「推し活」と近いものがあると僕は思っています。


僕はクラウドファンディングに関わったことがないので、ノーレン・ガーツの『ニヒリズムとテクノロジー』(2018年)を参考にして考えていきます。
この本でガーツは、クラウドファンディングを「娯楽経済」の一部に位置づけています。
「娯楽経済」という言葉は彼のオリジナルのようですが、
「テクノロジーを使って自分の能力を拡張・強化し、人助けや他人のサポートをする現象のこと」という定義をしています。
要するに、オンライン上で他人に資金や賃労働の供与・貸付をする経済活動のことで、Uberなども該当します。


クラウドファンディングは、アイドル活動と同じく、一対多の関係を前提としたマス・コミュニケーションの一種です。
アイドルはステージ上で自分をさらすわけですが、観客が何者であるかは謎に包まれています。
クラウドファンディングにも同じ面があって、クリエイターがプレゼンテーションで自分が何者で何を欲望しているかを示すと、
匿名の出資者がそれを眺めて、出資する価値があるかどうかを判定するわけです。
そこでの関係性は、初めから非対称的です。
資金を求めるクリエイターは、その必要性に応じて必死になるわけですが、
出資する匿名の群衆は、人に資金を提供することができる余裕者であり、必死になる必要がありません。
クラウドファンディングで、出資者は自分自身に「与える力」があることを確認することができるのです。


さらにガーツが指摘するのは、資金を必要としている人がいくらでもいるという事実です。
クラウドファンディングで資金を求める人が数多くいる場合、出資者はその中から誰に資金を出すかを「選択」することになります。


しかし、クリエイターに限らず、資金を求めている人は無数にいる。よって出資者は、与える力に加え、判定する力も持っている。誰が本当に困っていて、恵んでやる価値があるかを判定する力を。群衆に神のような力や、ニーチェの言う「支配者」ほどの力はないが、クラウドファンディングの出資者はそれに似た力の味を楽しんでいる。誰の作品を生かし、誰の作品を殺すかを決められるのだから。しかも、前述の調査が示すように、結局のところ出資者が判定するのは制作物の魅力ではなく、クリエイターの魅力なのだ。
(ノーレン・ガーツ『ニヒリズムとテクノロジー』南沢篤花訳)

与える力も判定する力も、その源泉は資金力でしかないのですが、
これをもっとわかりやすくすれば、Amazonプライムで放映された婚活リアリティショーである『バチェラー・ジャパン』の図式になると思います。
経済的成功者である男性「バチェラー」のパートナーの座を得るために、独身女性20人が彼が「選択」する最後の1人なるために競い合う、という人生の選択をゲーム化した番組です。
(僕はAmazonに関わりたくないので、もちろん見たことはないのですが)
「バチェラー」は番組が準備した20人の中から、資産を共有するべき相手を「選択」するのですから、
グループのメンバーの中から誰を「推し」とするかを「選択」するのと、やっていることは似ています。
選択する側に、資金力の優位性があるのは明らかです。
クラウドファンディングの出資者にも「バチェラー」と同じ優位性がある、というのがガーツの指摘です。
とりわけガーツが問題にしているのが、引用文の最後にある、出資者の判定が「クリエイターの魅力」にあるという点です。
ハッキリと「性的魅力」とは言っていませんが、そこに性的魅力も含まれることは言うまでもありません。
ガーツは「娯楽経済」の出資者が優越感を得ることで、人種差別やハラスメントが起こることを問題にしているのですが、もちろん性的ハラスメントも起こりえます。
クラウドファンディングなどの「娯楽経済」は、優越感によるハラスメントを暗々裏に助長させる結果となっているのです。
個人的には、『バチェラー』という番組も、(面白いでしょうが)悪趣味としか思えません。


このような現象を見てわかることは、「推し」という言葉の流行に含まれるものとして、
資金力を背景とした消費的な「選択」が、人間の人生を左右することへ「優越的な喜び」が感じられるのです。
「推し」が利他的な活動として行われるケースを全否定はしませんが、一般的にはそこに資金力による優越性を基盤とした「投資」メンタルを見るべきだと思います。
もちろん投資をして何が悪い、という意見はあるでしょう。
納得してやっているなら、悪いことはないと僕は思います。
僕はそれが良いか悪いかという話をしているのではなく、「推し」に見られる現代社会の精神構造を分析しているのです。


最後に、個人的に気になっていることについて書かせてください。
これも僕自身は体験していないので、情報として知っているだけなのですが、
『ウマ娘 プリティダービー』(2021年配信)というゲームがあります。
僕は競馬を長らくやっているので、このゲームで実在する競走馬が「萌え」的なアニメ少女に置き換えられていることに強い違和感をおぼえました。
その違和感とは、実在ではオスである馬もすべて女性キャラになっていることです。
オタク男子の性的興味を惹くためには、女性キャラをニンジンとしてぶら下げる必要があるのはわかるのですが、
お金で所有される競走馬が、性別に関わらず女性キャラ化されるというのは、
女性が男性に所有される存在であることを暗に許容するものであることは確かです。


このゲームが象徴的だと思うのは、お気に入りの馬を育成してレースに勝利させることと、
お気に入りのキャラを「推し」て売れっ子にすることが、同一の行為として成立していることです。
つまり、ギャンブルの場で勝利することと「推し活」には共通性があるわけですが、その共通点が「投資(もしくは賭博)」メンタルにあることは明らかです。
全く興味はありませんが、そういう流れだと、おそらくウマ娘の人気キャラがアイドルグループを作ったりする展開もあるのではないでしょうか。


最後にまとめます。
僕がこういう記事をなぜ書いているのかというと、消費文化において何が自分のお気に入りであるかを示すことは、
性的欲望に根ざしている場合が多い上に、性欲を消費へと誘導する商売をする企業を肥えさせることになるということです。
風俗などの性的サービスに需要があるように、そういうものにも一定の需要はあっていいと思いますが、
そのようないかがわしい商売がマイルドに領域を拡大していく社会には問題を感じます。
とりわけ、文学や思想の領域をサブカル化していくのには反対です。
文学や思想の領域がサブカル化していくと、文学や思想で資本主義と戦うことはまず不可能になります。
金儲けを目的とする行為の中で、文学的・思想的に価値があるものが生まれることはありません。
なぜなら、金儲けは現行社会の主要イデオロギーでしかないので、それに支配された商品が商品内部で何を主張しようが、その中に身を置いている時にしかリアリティがないからです。
一歩でもその外に出てしまったら、ほとんど意味を持ちません。
(作品内でしか有効でない世界観を現実世界に持ち込んだならば、その人はドン・キホーテのように見えることでしょう)


人気商品としての文学作品は、みんなが騒いでいる時は話題になりますが、話題が他の作品に移るとその作品は忘れ去られてしまいます。
それは本来の文学や思想のあり方ではありません。
心から文学や思想に感動したことがある人も、自分がクリエイターの立場になると商品経済のシステムに疑問を持つことができなくなります。
そういう人たちのせいで、本来の文学や思想がどんどん居場所をなくしています。
これは、資本による文学や思想環境の破壊なのです。
最悪なのは、村上春樹のように「売れる」作品を書いただけの人を、出版ジャーナリズムやマスコミが文学として評価してしまったことです。
多くの人が文学と売上の相関関係に疑問を持たなくなり、東浩紀のように人気や売上で文学の評価ができると考える人が出てきてしまうのです。
もう出版ジャーナリズムやマスコミには、文学や思想の価値がわかる人は存在していません。
今のところ、僕の出版業界批判にはあまり共感が寄せられないのですが、
このような金融資本主義メンタルの一般化は加速する一方なので、
自然環境の破壊と同じく、文学や思想環境の破壊においても、いずれ多くの人が無視できない災厄が訪れると思います。


4 Comment

白樹烝さんへの返答

資本主義に対する抵抗戦を強く意識しなくても、 俳句は資本主義と別様に「物」との関わりを築く手段になるものです。
「伝統」という言葉は、資本主義に軽々しく屈しない、という意味で用いるのがいいと僕は思っています。
白樹烝さんや、周囲の方々の純粋な姿勢は、「物との関係」に基づく俳句に至ることに役立つと思います。
出版ジャーナリズムには疎いままであっていただきたいものです。

良い作品を作ることを純粋に追い求めている方には、ただ「売れたい」人のことは理解しかねるでしょうが、
現実社会で自尊心を満たすことができない人が、俳句を通じて出版メディアで一旗上げようと考えたりするのですよ。
類は友を呼ぶ、なので、そういう人の周囲にはそういう人が集まっています。
近傍の仲間が次々にメディア露出すると、自分もメディア露出しないとダメ俳人に思えてしまうものです。
出版メディアも向こうから寄ってくる人には仕事が頼みやすいので、そういう人ばかりを偏って起用しています。
せっかくの人付き合いも、悪く出るケースがあるので付き合う相手を選ぶのが肝要ですね。

「物」との関わりについて、僕が最近学んでいるのは、朱子学の「格物致知」です。
朱子学についてはそのうち書く予定ですが、
俳句作りの姿勢にも参考にできると思いますので、 その時はまた感想をお聞かせください。

返答ありがとうございます。

返答拝読いたしました。ありがとうございます。

資本主義には自覚の認識は意味がなく、実践的に抵抗しなくてはならないとの言葉、強く響きました。
ただどうすれば良いのかは私にはまだ分からず、南井さんの文章はじめ色々な勉強をしなくてはならないと思いました。
「物との関係」のことに絡めれば、資本主義の社会構造とは全く重ならない関係性を私は「物」への愛着、そこから紡がれる関係に見ます。
少し大上段になりますが、私が俳句を続けているのは「季語」という日本語、そして伝統的な音数律である五・七・五の「定型」をもってこの国の風物、「物」と関わることが出来るからです。

南井さんと比べるのはおこがましい話ですが、
南井さんの資本主義への「抵抗」が、現代の社会の欲望とそれに抵抗できない文学・思想への批判であるならば、
今の私は資本主義に重ならない場において、俳句をはじめとした「物」との交わり・人との付き合いを続けていくことがまずは「抵抗」への足掛かりになるのかなと思っています。

出版ジャーナリズムへ進出している俳句界については少々疎いため私には不明ですが、
私の周りには、名をあげたり句集を出したりといった所とは関係なく純粋に句と向き合っている先輩や後輩が居ます。
自分などより何倍も俳諧、そして人との付き合いを大事にしている人たちの存在があると、
単純に「売れたい」というような下心は恥ずかしくなってくるものですが、どうなのでしょうかね。

白樹烝さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
城前佑樹(白樹烝)さん、コメントありがとうございます。

実は、資本主義に収奪されていることに自覚的であることは、何の免罪符にもならないんですよ。
これは広告資本主義が「アイロニカルな没入」というかたちでの参加を要求するからです。
わかりやすくいうと、「ネタだとわかっているけどノッてやる」というのが基本スタンスです。
多くの人は「所詮は他人の評価」と思って、「じゃあ買ってみようか」という程度の気持ちで買っているのです。
(最近はアイロニカルですらなく、売れるものを本気ですばらしいと思うベタ化が起こっていますが)

つまり、カラクリを自覚をしていることは前提なので、自覚そのものに意味はありません。
資本主義は人間の認識を無視して、資本の増殖という結果だけをむさぼる社会システムです。
ここで問われるのは認識ではなく、実践です。
資本主義には精神的抵抗(イデオロギー)など役にも立たないのです。
(だから共産主義国家でも、資本主義経済で世界のトップ争いができるのです)
資本主義には、実践的闘争以外に「抵抗」を示す方法はありません。

白樹烝さんが言う「物との関係」は、マルクス的に言うと使用価値にあたりそうです。
しかし、市場の評価は交換価値にあり、使用価値は直接に関与しません。
「物との関係」が個人的な感慨でしかなければナイーブな話でしかありませんが、
それにとどまらない「物との関係」は考えられるべき重要なテーマでしょう。
ただ、僕の関心は今のところその方面には向かっていませんね。
僕が批判したいのは社会の欲望であり、それに「抵抗」できない文学や思想です。
資本主義システムにとっては、どんなに問題を深く認識していようが、実践的な「抵抗」をしなければ、奴隷的な人と変わりがないのです。

僕の主張を「商品として過剰流通するものに、(文学的な)本質的価値は低い」と解釈されても、そんなに嫌ではないですね。
過剰流通つまり「売れている」文学や思想は、あまり信用しないに越したことはありません。
それが売れたのは、文学性とは別の快楽的要素が刺激された結果であることが、ほとんどだからです。
たとえば村上春樹の作品にも文学的価値はあるでしょうが、彼が売れているのはそれ以外の価値が評価されたからです。
他の価値で評価された作品でも、文学ジャンルの作品だと認識されれば、すぐれた文学だと評価されます。
(つまり村上春樹がラッキーだったのは、彼の作品が「文学」ジャンルだと疑われずにいけたことです)
文学以外の要素の方が評価を得やすいのならば、後発の人が模倣するのはそちらばかりになるのは商品の宿命です。
そうなれば、内容は文学ではないものを、「ジャンルの防壁」によって文学だと詐称するだけになります。
このような傾向にある出版市場で、売れる作品が高い文学的価値を持つのは難しいでしょう。

俳句のような狭いコミュニティであれば、話題作がすべて価値が低いということにはならないでしょう。
僕は文学においては、コミュニティの狭さを肯定的に捉えています。
(だからこそ僕は俳句文化に文学的な可能性が残っていると思っているわけですが)

しかし、ご存知の通り、俳句界では現在、狭いコミュニティから抜け出して、
広い出版ジャーナリズムの評価こそがすばらしいのだ、という価値転換が起こっています。
この流れは俳句に文学的な死をもたらします。
なぜなら、俳句はヴィジュアル時代のエンタメとしてはあまりに物足りない形式だからです。
関悦史のように、俳句が全然うまくないのに、別の要素で作品の評価を受ける人が出てきて、
村上春樹で卒論を書いたサブカル宣伝スポークスマン青木亮人などが持ち上げたりするような流れがそれです。
その最先端に佐藤文香がいて、その流れに利用されているのが鴇田智哉です。
福田若之の『自生地』を福田が自ら「句集」と強調したことを僕は問題にしましたが、
それは『自生地』が俳句という「ジャンルの防壁」の外に出たら、きわめて凡庸な作品でしかないからです。
こういう「ジャンルの防壁」の中で、他ジャンルの「売れる」要素を持ち込んで評価を得ようという浅ましい姿勢が、
文学としては空洞化を招く災厄であっても、「商品」としては売上に結びつく正しい行為となるのは当然です。

こういう現象が村上春樹やファウスト系を評価した文芸誌の後追いになるのは、目に見えています。
その後の純文学がどんな状態になったかを、俳句界も他山の石とする必要があるのではないでしょうか。
商品としてのヒットを擁護する立場と、すぐれた文学性を擁護する立場は、もう両立する時代ではないのです。

読ませていただきました。

今回の「推し」についての解説、興味深く読ませていただきました。

何かを「推す」、もしくは何かの「推し」を作るという営為が、自立に基づく主体的な価値基準によるものではなく、「性欲」・「共同体志向」によっている、という視点は分かりやすかったです。

ただ、(私はアニメやアイドルなどにハマったことがないので分からないのですが)、いわゆる「資本主義的商品」に金銭を使う人たちの中にも「自分が資本主義的カラクリに収奪されている」という事実に気づいている人は少なくないのではないでしょうか。

一昔前、オタクが自虐的に自身を「ATM」と言うことがありました。彼ら・彼女らは収奪されている事実を知っていながら、それでも南井さんの言での「信仰」によすがを求めているように見えます。その理由としては、一つはそのようなエンタメをよすがとするほど現実世界が殺伐としているため、もう一つは現代のエンタメ自体が(快楽的ですが相当に)高度化しているためでしょう。
そのような世の中で文学・思想を磨くためには、快楽さということを無化するような相当な深化が必要なのではないか、と近頃は観念しています。

また今回の解説を読んでいて、世の中におけるある物の「価値」とは何なのか、ということも考えさせられました。
マルクスを引いて南井さんが言うように、「『商品』とした時点で物であり無抵抗である」との事実は分かります。ですが、ある「商品」なり作品なりを金銭的価値観を退けて「物自体」として付き合う姿勢もあるように思うのです。
もちろん私は「価値観など人それぞれだ」などという相対主義は全否定しますが、南井さんの謂いでは「『商品』として過剰に流通しているから逆に『本質的価値』は低い」といった単純な論理に落としこまれる危険性はなきにしもあらずなのではないでしょうか。
そして、おそらくは日本的な思想において、ただの目の前の「物」への愛着・「物と物」との関係性が、例えば茶道や俳諧において結実したところはあると思います。
もちろんその姿勢のためには、自立した主体的な価値基準を自身に持っていなければいけないのはもちろんですが。

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