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図書館モデルと書店モデル

画面通りの彼女

画面で見ていた彼女が、カフェで向かい合って座っている。
画面通りの眼差し、画面通りのたたずまい、画面通りの仕草、画面通りの声……
再生を待つサムネイルのように恋人が微笑んでいる。
セールで掘り出した大きめのニット、300円ショップのイヤリング、ネット通販で探したブーツ……
動画で話題にしていたものばかりで、知らないのは一目でブランド品とわかるバッグくらいだ。
ヘアアイロンで軽く巻いた髪が、甘やかに落ち着き払っているのは、
最初に彼女を画面上で見た時と同じだ。
「髪型を変えようと思わないの?」と訊いたときは、「配信をしていると、イメージを変えにくくって」という応答をもらった。


彼女は「ライバー」と呼ばれるライブ配信者だ。
パワフルなサックス演奏と、あどけない笑顔と語り口のギャップが魅力で、
それにハマった男たち(たぶん)から、「投げ銭」をもらって収益を得ている。
一度の配信でどれだけの収入があるのかは教えてくれないが、
もう一人、自分と同じ金額を投げる人がいるだけで、生活くらいはできるはずだ。
店内の心地よい音楽が耳に残ることなく消えていく中、
生身の彼女の目の前にいるのが自分だけであることの幸福を感じた。
リアルの姿を最初に見た時も、裏切られたような印象は少しもなかった。
フレームの中でも外でも違和感がないのは、それだけ画面上での振る舞いが自然なのだろうか。
それとも、安心感を与えるために、あえてそう振る舞っているのか。


「今日は何を食べたい?」と間をつなぐように言ってみる。
すかさず「あれ、考えてきてくれたんじゃないの?」と悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「実はもう予約している店があるんだけど、一応君の気分を聞いてみた」
「やさしいね」
彼女は食の好みにあまりうるさくない。
気にしているのは、その店の知名度と話題性だ。
ライブ配信のトークで話題にしてもらえそうな店を探すのがポイントになる。
彼女は鬱陶しそうにマスクを外して、ラテを少し眺めてから口に運んだ。
たぶんラテが好きなのではなく、ラテアートを見たいだけなのだと想像しているが、
買うか買わないかに比べれば、何が目的で買ったのかは重要ではない。
サックスの演奏に感動したのか、演奏者に関心を抱いたのか、どういう関心なのか、その違いもおそらく重要ではないのだ。
金額という雄弁な事実の前では、そんな人間的な差異など霞んでしまう。


「じゃあラテ値上がり記念に写真を撮ろうか」と言うと、「なにそれー」と言いながら彼女はもう頭を軽く振って髪を直している。
軽いシャッター音の連写が響き、すぐに二人で写真を確認した。
画面上の彼女は、カップともテーブルとも背景の絵と壁と一つになるように写っていた。
やはり彼女はここにいるのが似合っている、と思った。
そして、自分は必ずこの枠の外にいる存在なのだ、という確信が裏に張りついていた。
神社に賽銭を投げ込むように、外から画面の中へと金を投げることしかできない。
しかし、金額と熱意で他の人を凌駕すれば、彼女が画面の中からこちらにやってくることもあるのだ。


すでに知っている活動報告を聞き、何気のない会話をして、カフェの他の客の気配にも慣れ始めた頃には、
テーブルの向こうに座る彼女は、画面上とは違った顔を見せ始める。
それが自分だけが知る素のままの彼女だと思うと、密やかな喜びがないわけではなかったが、その姿を望んでいるかは曖昧だった。
テンション高めに話す画面通りの眼の奥に、違った色彩があるのはわかっていたが、そこを覗き込みたいとは思わなかった。
しかし、彼女の方も自分と同じ気持ちだとは言い切れなかった。
この前食事に行った時も、「あなたがやっている会社って、どんな会社なの?」と訊かれた。
考えてみれば、こちらが彼女を知っているほど、彼女の方はこちらを知らないのだ。
しかし、面白くもない現実の自分の話をしたいとは思わなかった。
魅力的なのは、画面上で多くの人の心をとらえている彼女なのだ。
ふと見るとラテアートで描かれたハートが、そのままの姿でマグカップの底に沈み込んでいた。


「君が欲しがっていた化粧水を見に行こうよ」
「あ、他にも気になっているのがあるんだ」
「うん。全部見てみればいいじゃない」
次の展開が決まった気軽さから、カップをそそくさと返却台へと持っていった。
彼女は眼で忘れ物を探りながら、機械的な動作で上着を羽織った。
カフェの出口へと足を向けると、狭くなった通路で彼女が身体を寄せてきた。
もしかしたら、今日はディナーの後の行き先を考えておくべきだったのかもしれない、と思ったが、
そういう早とちりは、やり手の経営者らしくない、と思い直して気を引き締めた。
画面を通した関係でいたければ、彼女がこちらの支払いに対して、決定的なお返しをすることはありえない。
彼女も自分も二つの顔を持ち、画面上の顔だけを他人に見せるために、金銭や労力、さらには人生を費やしていく。


カフェの外に出ると、冬の日差しを浴びた彼女が小さく見えた。
「今度のライブ配信も楽しみだよ」と口にして、もう別れ際のようなセリフを言っている、と思った。
彼女は何も言わずに微笑を返した。
画面では見たことのない表情だった気もしたが、すぐに画面通りの笑顔になって、「次回も絶対見てね」と言った。
付かず離れずの二人の影法師が、少し長くなっていた。


本の二つの顔

本には、二つの顔があります。
一つはある内容を蔵した作品(テクスト)としての顔、
もう一つは記号性を帯びた商品としての顔です。
マルクスを参考にすれば、本の内容を使用価値、商品としての面を交換価値に当てはめられそうですが、
僕はそれとは少し違ったふうに考えています。
書籍は使用価値と交換価値を簡単に切り分けるのが難しいからです。
書籍の使用はほとんど「読む」ことにしかなく、私的所有そのものに貢献するところが大きくないので、
内容から離れた純粋な交換価値というものが想像しにくいのです。
難しい言い方をすれば、書籍は記号によって構成された商品なので、
商品内容の記号性と商品パッケージの記号性の区別が意識に上らない、ということです。
売れた理由が内容に直接結びつけられるのが書籍の特徴です。


それは、書籍が特殊な商品であることと関係します。
本は一冊一冊の内容が異なり、同一内容の他の商品というものが前提されていません。
どの書籍がどれだけ「商品としての記号的価値」によって評価されたものかが判定しにくいのです。
商品としての記号的価値という言い方はわかりにくいと思うので、「ブランド価値」と言い換えますが、
たとえば衣服であれば、似たようなデザインで似たような着心地の服でも、ブランドによって評価の差がつくのは一目瞭然です。
ゴディバのチョコであれば、そこまでうまいと思わなくても高値になりますし、
ロッテのガーナチョコの方が圧倒的に数を売り上げていても、ガーナの方がすぐれたチョコだと言ったら笑われるでしょう。
乱暴な言い方をすれば、お金持ちはガーナチョコなど買わないからです。
ゴディバのチョコには、愛好者の経済力をステイタスとして表す記号としての役割があるのです。
つまり、通常の商品世界では、ブランド価値の差というのは素人目にもわかりやすいのです。


しかし、書籍商品に関してはどうでしょうか。
内容が同じ本で比べても、ブランド価値の差を意識することはありません。
夏目漱石の『三四郎』を新潮文庫で買おうが、岩波文庫で買おうが、社会に示せるほどのブランド価値の差は見出せません。
その理由は、一流のお金持ちしか手に入れることができない本が、ほとんどないからです。
書籍は商品体験のために高い経済力を要求しないので、100円ショップの製品と同じように、機能性(つまり内容)だけが純粋な評価の対象になるのです。


書籍が機能性商品だとしても、それが家電製品や100円ショップの品と異なるのは、値下げ競争が起こりえない点にあります。
書籍商品は再販制度によって価格が維持されているので、書店が自由に値下げして売ることができません。
これは独占禁止法の適用外になるので、書籍は市場の論理から例外丶丶的に丶丶保護された商品に当たります。
書籍・雑誌が文化資産だということを理由とした処置なのですが、
明らかに書籍の「内容」にすぐれた文化的丶丶丶価値があることを前提としています。
一般市場において、メーカーが決定した価格で高止まりし続ける商品とは、高級ブランド品にほかなりません。
書籍はわざわざブランド価値を形成しなくても、法的に高級ブランド品のような特権が許されている商品なのです。
アメリカやイギリスでは再販制度がなく、ドイツやフランスでは時限的に適用されているようですが、
日本では再販制度が強固であるため、ブランド品のディスカウントショップのような古書店が発達することになりました。


何が言いたいのかと言うと、書籍の価値は内容から発していると信じられやすい商品だということです。
法的な特例によって高級ブランド品と同様の扱いを受けているので、
書籍はISBN(国際標準図書番号)のついた商品として市場に並べられれば、その内容にある種のブランド製品としての「品質保証」があるかのように錯覚されます。
そのため、高品質のブランド製品を生み出す「著者の名前」を、ファッションデザイナーの名前のようにブランド名として受け止めてしまうのです。
多くの本を出す著者がファッショナブルに見えるのも、書籍がたやすく著者のブランド化を実現する特例商品であることの影響です。
(そこそこ本を売った人がやたらと傲慢になるのは、このブランド効果のためです)


とりわけ、内容が難解な哲学や文学の本は、ほとんどブランド化した書き手の価値で売れていると言っても過言ではありません。
日本で〈フランス現代思想〉がやたらに売れているのは、日本人がフランスをファッション先進国だと思っていることと深く関係しています。
書籍には「翻訳」という壁がありますので、変奏の自由度とともにドメスティックな捏造が容易に行える欠陥も伴います。
そのため、思想の解釈が捏造レベルでも、ブランド化した思想家の名前を振り回せば免罪される事態になっています。
海外ブランド品と違って、言語の壁によってオリジナルの製作者に真贋のチェックが十分にできないことが、偽ブランド商売をする人たちに有利にはたらきます。


問題は、書籍のブランドによる価値と、内容に対しての評価を曖昧にしていることにあります。
わかりやすく言うと、書籍の商品価値は内容にしかないと誤解されていることが問題なのです。
書籍の評価は内容への評価だという「信仰」は、非常に根強いものがあります。
制作側も購入側もこの「信仰」に強く縛られています。
内容が信頼され評価されたからこそ「売れた」のだと、無邪気に信じている人が多いのです。
そのため、書籍は売り上げた冊数が、そのまま内容の評価のように思われがちです。
しかし、少し考えれば何部売れたかという数量評価を、そのまま内容の評価とするだけの根拠がないことがわかります。


たとえばポップ音楽は曲を耳にして購入する人が多い商品です。
実際に内容確認をして購入することができる商品なので、その販売数量を内容への評価と考えても良さそうに思います。
しかし、その曲を耳にする機会が多いか少ないかは、売上に大きく関わるので、プロモーションの量が評価に直結します。
そうなると売り出す会社の大小やアーティストのファン数が評価に影響します。
実際に同じ枚数売り上げた音楽も、10年後も聴かれ続けている曲と全く聴かれなくなった曲を同じ評価にするわけにはいきません。
内容確認をした上で購入したものでも、評価のかたちは多様なのです。


ならば購入前に内容をほとんど確認することができない書籍は、どう考えればいいのでしょう。
最後まで楽しんだ本と読めずに終わった本、一生心に残る本と読むこともなかった本は、販売数量だけを基準にすれば同じ評価になります。
もちろん、評判が評判を呼ぶということがありますので、購入後の評価が良いものがさらなる評価を積み重ねることはあるわけですが、
それが購入後の悪い評価を禁じる動きを導くことにもなりました。
著者や出版社やファンが、書籍に対する否定的な評価に文句をつけたり弾圧することは、商品が内容で評価されることを拒否する行為だと言えるでしょう。
こうなると、書籍の販売数量が、そのまま内容への評価だとは言えなくなります。
専門書ならともかく、一般読者向けの本に関しては、宣伝による話題作りや大手出版社の流通力が、公正な内容評価を阻害する要因になるわけです。


そういうことで、販売数量で評価される商品としての書籍と、内容によって評価されるテクストとしての書籍は、明確に区別されるべきなのです。
とりわけ、テクストの専門性に依拠する学術研究者が、趣味的読者向けの新書や雑誌の雑文などで実のない評価を得ている状況は、倒錯以外の何物でもないと思います。
たとえば〈フランス現代思想〉で言えば、デリダによって強調されたエクリチュール(書かれたもの)は、テクスト空間を前提として成立するものです。
これと商品のネットワークで構成される消費的な市場空間とは、だいぶ実質が異なっています。
しかし、この差異を尊重せずに倒錯的に一元化していったのが、日本のポストモダンです。
その結果、文学や思想に携わる人でも、この両者の差異がよくわかっていないのではないか、と疑わしくなる場面によく出くわします。
ここではあまり専門的にならないように、図書館と書店のモデルに当てはめながら、両者の差異を確認しようと思います。


書店が依拠する「量質転化の法則」

商品としての面を削ぎ落とし、書物を内容に基づいたテクストとして扱うのが図書館です。
当たり前のことですが、図書館は本を販売する目的で作られていない空間です。
なので、売れ筋の本を数多く入荷するようなことは、本来は図書館が求めるところではありません。
基本的には全ての本が棚に一冊ずつ収まっていれば問題ありません。
そのため、図書館の本棚の前では、どの本がどれだけ売れたか、どれだけ読まれたかは、それほど意識に上がりません。
読む人が自らの興味を満足させる「内容」の本を、選ぶことに集中することになります。


さらに言うと、棚に並んでいる本が、いつ発売されたかも、そこまで重要ではありません。
資本主義と異なり、「今」という時間に、特権的な地位が与えられていないのです。
図書館は「今」という時間の特権性や他の人の数的評価が、自らの本の選択に入り込むことが抑えられている空間だと言えます。
このように、図書館モデルでは、本が内容によって分類され、時間を超えて相互に関係を持つ「テクスト」として置かれています。
図書館モデルとは、本がその「意味的関連」において他の本とネットワークを築き上げていくテクスト空間なのです。


新刊書店ではそうはいきません。
書店では本をどこに置くか、そのレイアウトが非常に意味を持ちます。
入口の正面の一角を占拠しているか、奥の棚に入っているか、棚に置かれずに倉庫にあるか、
平台に積み重なって置かれている(平積み)か、表紙を前にして棚に置かれている(面陳列)か、背表紙だけが見えている(棚差し)か、
書店が一つの街だとすれば、そのどこに住居を構えているかが書籍にとって重要になってきます。
つまり、銀座のような一等地もあれば、郊外や田舎もあるわけです。
図書館にそのような土地所有の概念が持ち込まれることは稀です。
書店では、本を置くことからして、すでに資本主義的な土地所有の感覚から自由ではないのです。


そのため、書店に通い慣れると、だいたいどの本が今話題になっているのかがわかるようになります。
書店の扱い方によって、その本を「品定め」することができるのです。
商品は買ってもらうことが重要なので、それがどの程度の「市場価値」を持つ品物であるのかを示す必要があります。
商品の「品定め」という点では、日本の書籍という商品には、欧米にはない特徴があります。
本が身にまとう「帯」という存在です。
日本の書籍商品の多くは、書籍の下部に帯というものが巻かれています。
帯には、書物の内容をわかりやすく示したり、キャッチコピーがあったり、「何万部」と販売実績が強調されたり、「〇〇推薦」と有名人のお墨付きがあったり、著者の顔写真があったりといろいろですが、
これが本における社会的ステイタス、つまり社会人で言う「肩書き」の役割を果たしていることには注意が必要です。


われわれが本を実際に読み始める前に、書店で購入するプロセスの中で、これだけ書物に対する「社会的先入観」が入り込む要素があるのです。
これに加えて、著者の人気、大手出版社の文庫や新書や選書への信頼感などが、書籍商品のブランド価値を決めていきます。
書評やネットのレビュー、知り合いからの口コミなどが影響することもあります。
一般に書籍は内容で評価される商品だと思われているのですが、実際は商品購入には直接内容に触れていないうちに構成された価値が大きくものを言うのです。
つまり、売り出し方ひとつで、内容が乏しい退屈な本を、ある程度売ることは可能です。


とりわけ影響力があるのが、平積みという置き方です。
同じ本が何冊も積み重ねて置かれているという光景は、図書館ではお目にかかれないものです。
コピーが積み重なっている状態は、「大衆性」を可視的に示しています。
多くの人が買うから、たくさん置いておかなければいけないのだ、という無言のメッセージがあるわけです。
消費行為の中には、「みんなが欲しがるものを買いたい」という面があります。
「みんなが持っているものを、自分も持っていないといけない」という心理もあります。
このような消費にまつわる心理は、何であれ娯楽的な商品を購入する時に起こるものです。
平積みはすでに本を選ばせるというより、商品を選ばせるための置き方だと言えるでしょう。
たとえば新刊台というものには、取次が「配本」を決める制度によって、書店に送られた新刊がほぼ自動的に積まれます。
ここでは「最新」ということ自体が、大きな価値として示されているとも言えます。
平積みは目につきやすい場所に積まれている本ほど、売れ筋になることが多いものです。
そこに置かれているコピーの分量が、商品の価値を間接的に示すことになります。
量が一定限度を超えると質へと変化する、というヘーゲルの『小論理学』に発した「量質転化の法則」は、
消費資本主義に支配された「市場」でこそ真価を発揮する法則だと僕は思っています。
消費資本主義の価値観に依拠するのが書店モデルです。
書店モデルの評価は、売り場に多く置かれている→多く売れている人気商品→多くの人に欲望される良質なもの、という「量質転化の法則」で成立しています。


ただ、ここは非常に重要な点ですが、書店モデルを支える「消費市場の量質転化の法則」に真実味を持たせるためには、
多くの消費者に商品の品質を判断する適切な能力があるという前提がなくてはなりません。
たとえば魚の目利きたちが、こぞって太鼓判を押した魚は、本当にいい魚であるに違いありません。
しかし、見る目のないど素人が大勢で高評価したものが、本当いい品質であるかどうかは怪しいものです。
(このあたりは「芸能人格付けチェック」という番組を見ればよくわかります)
売れている本は内容も素晴らしいという「量質転化の法則」が成立するには、
目利きによる真っ当な評価に、消費者が簡単にアクセスできる環境が必要です。


目利きを排除する出版業界

前述したように、書籍は内容がわからずに購入する商品なので、昔から目利きによる評価が重視されてきました。
とりわけ難解な本になると、目利きの評価がその本の評価に強く影響します。
個人店主の古書店は完全に目利き文化によって成り立っています。
目利きによる書物の評価は、刊行から時間が経つことで精度が上がっていきます。
「最新」が過ぎると読まれなくなる本は、目利きの評価を得られなかった本です。


しかし、時間のフィルタリングは、新刊書には全く通用しません。
出版社の立場からすれば、新刊書こそ、質の低い本を売るチャンスだとも言えるのです。
もちろん、新刊書も読書経験の豊かな目利きが先行して読むことで、目利きの評価の一端を知ることはできます。
中には帯に目利きとされる人の名前と推薦の文句が、仰々しく並べられていたりします。
そうなると問題なのは、その目利きの信頼性です。
批評家や同業者などの目利きとしての評価が、忖度のない本心であることは非常に稀です。
なぜなら、そういう場合の目利き役は、出版業界と強い利害関係を持つ人であるからです。
Amazonなどのレビューもありますが、売れているものや人気のある書き手を批判することで支持を得るのは、相当に厳しいシステムになっています。
批判で共感を得たりすると、今度はトチ狂った著者がSNSで嫌がらせをしたり、最悪の場合Amazonに通報したりするので大変です。


書き手に謙虚さのない現代では、無難なのはとりあえず何でもいいから誉めておくことです。
今の時代は、正当な評価をする目利きより、とにかく売れているものや人気のあるものに媚びて褒める人の方が重宝されるようです。
今これを書きながら、ダンス講師らしき人がYouTubeで韓国アイドルのダンスを専門的に語る動画を見ていたのですが、
あまりに意味のないことを取り上げてベタ褒めしていたので、1分で別の動画に変えました。
韓国グループアイドルの場合、個々のスキルよりシンクロ度の高さの方が重要な気がするのですが、
とりあえず人気メンを褒めておけば、ファン受けが良く再生回数を稼げる、という態度が見え見えです。
YouTuberならそれもいいでしょうが、今やマスコミで重宝されている書評家も大差ありません。


誰も彼もが商品広告同然の評をするなら、むしろ適切な批判ができることの方が、目利きの証明になるわけですが、
出版業界では、そうした批評能力のある目利きに仕事を与えないようにしています。
文芸誌では村上春樹の批判は御法度で、提灯記事を書く人間しか起用しないようにしてきました。
岸政彦の小説を批判した文芸時評で、批判箇所だけ削除された事件もありました。
本来、批評家という商売は、目利きでなければやれないものです。
良いものは良い、悪いものは悪い、と納得できる判断を提示しなければ誰も信じてはくれません。
批判をしてはいけない、というルールで批評など成り立つはずがないのです。
何であろうと褒めるだけなら、批評の必要はありません。
YouTubeやTikTokの売名小僧にでもやらせておけばいいのです。


昨今の出版業界が書籍商品の批判をタブーにしているのは、売上の減少に加えて、個々の書籍の内容が劣化しているからです。
とりわけ文庫や新書の新刊を出している大手出版社に顕著なのですが、
出版不況の中で新刊の出版点数を増やしていったことが、個々の書籍の質の低下を招いていることを否定する人はいないでしょう。
出版点数が増えると、これまで本を出せなかった質の低い書き手の本が世に出るようになりますし、
そこそこの書き手にしても、内容に労力をかけずに頻繁に本を出す人がありがたがられるようになっています。
さらには編集者の労働量が増えるため、内容を精査する余裕がなく、事実でもない記述や単純な誤植が増えています。
大手出版社は自分たちが質の低いものを売っていることを自覚しているので、批判を排除することで自己保身を図っているのです。


こうして、日本の出版業界では、書籍の内容を正しく評価することがタブーになりました。
批判を厭わない能力のある文芸評論家は、もはや迷惑な存在でしかないのです。
互いに褒め合う同業者か、書評が広告であることを理解している業界のスポークスマンばかりが仕事を任されるようになりました。
購入するまで商品内容を確認することができず、目利きも存在しない世界では、
宣伝による話題性とブランド価値だけで商品を売ることが可能です。
そうなってしまうと、大手でない出版社で良質な仕事をしている人が、割を食うことになります。
メジャーな人はますますメジャーになり、マイナーな人はますますマイナーになるという、金融格差社会の構図が出版業界でも見られるようになるのです。


内容不在の人文書で、なぜ「消費資本主義の量質転化の法則」がいまだに信じられているのかと言うと、
それはエンタメ本でその法則が通用しているから、という点にしかありません。
漫画はもちろん、エンタメ領域のミステリやラノベなどのサブカルでは、「量質転化の法則」がわりとあてになります。
快楽という「本能」に訴えるものは、読み手の知性や教養レベルによる差が出にくいからです。
しかし、それら良質のエンタメ本のほとんどは、短い間しか新鮮味が保たれることはありません。
そういうものと何十年、何百年も読み継がれる文学や思想書を同じ基準で評価するのは、そもそもおかしいのです。


このようなジャンルの差異を消費の論理で一元化したのが、ポストモダン世代の愚かな人たちです。
たとえば東浩紀は『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年)で、漫画やアニメのサブカル的想像力に「普遍性」があると主張していました。
そんなサブカル世界を「自然」として感じる、オタクの「リアリズム」こそがこれからの文学なのだ、というような内容の本なのですが、
東が普遍性があると高く評価したラノベ系(ファウスト系)の作家たちの評価は、今現在どうなっているでしょうか。
それを考えれば東浩紀の目利きとしての能力はハッキリしているのですが、それにもかかわらず、いまだ彼の「信者」が多いのには日本の病理の深さを感じます。


自然主義的リアリズムの市場で『東京タワー』が売れ、芥川賞や直木賞が話題になっているときに、まんが・アニメ的リアリズムの市場では、まったく異なった原理と価値観に基づいて「涼宮ハルヒ」シリーズが何百万部も売れている。それが、二〇〇〇年代半ばの日本文学の、おそらくはもっともかんした立場から見えてくる状況である。批評や文学研究は、純文学だけを追うのではなく、本来はその全体を見わたさなければならない。
(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』)

若い時の僕はこの愚かな言説に耐えられずにこの本を投げ捨てたのですが、
15年経って読み返してみると、デリダ論で評判になった人が販売部数で作品評価をしている衝撃で、異世界転生しそうになります。
リリー・フランキーの『東京タワー』(2005年)を純文学作品の例にしたり、ベストセラー一冊とラノベのシリーズ累計を比較したり、彼のオタク的立場を「もっとも俯瞰した立場」と言ったりするのはご愛嬌としても、
ここで彼の言説を支える根拠が「市場」にしかないことは、誰が読んでも理解できることです。
東の言う「批評や文学研究」の見渡すべき「全体」とは、単なる現在形のヽヽヽヽ出版市場のことでしかないのです。
東は出版市場での販売数量が、作品内容の評価に直結する書店モデルを信じて疑っていないのですが、
「日本文学」の評価基準を出版市場という「今」を特権化した空間に置いているから、先々消えていく作家を持ち上げることになるのです。


読者にシビアな判断能力がなく、目利きによる厳しい評価もないと、モラルハザードが起こります。
批判がない世界では、既存権力が圧倒的に有利なゲームになるので、
書物の内容を優れたものにすることより、既得権を持つ大手メディアに起用されることの方が重要になります。
ただ、大手出版社の編集者は、出版点数の増加で一冊の本に多くの時間をかけられなくなっています。
そうなると既に販売実績のある著者や、自分から売り込んでくる人たちを起用することで、効率化を図る必要が出てきます。
こうして、駄文を量産することにためらいのない著者が、やたらマスコミに起用されて、劣悪な本を増殖する事態が起こるのです。
支配的メディアに起用される「量」が、本の内容という「質」を駆逐する、
こうした「量質転化」のモラルハザードが、現在形のヽヽヽヽ権力におもねる権威主義を蔓延させる結果になりました。


大手メディアは販売数量を増やすことを重視しているので、一般読者ウケするものを書く人が重宝されます。
前述したように、本は読む前に買われるものなので、大衆に馴染みのない題材を扱った時点でセールスは期待できなくなります。
そのため、専門とは全然違う領域で、大衆が好む題材を扱った本を書くエセ研究者も増えてきました。
それもこれも、商業的な人文書が目指すものが、専門に照らした内容の充実ではなく、多くの消費者の関心を惹くことでしかなくなったからなのです。
歴史書が大河ドラマとのタイアップを狙うくらいはまだかわいいもので、YOASOBIと直木賞作家のコラボ企画などという意味不明の試みまで現れる事態になっています。
こんな他の商品とさほど変わらない安易な販促商売をするなら、書籍を再販制度で保護することの正当性について、改めて議論がされるべきではないでしょうか。


テクスト空間とは何か

書店モデルが当たり前になった今、僕が書いておきたいのは、忘れられてしまった書物の初期形態です。
書物が消費物ではなかった時代、知の伝達のためにあった時代の書物とは、広大なテクスト空間の一部を構成するものでした。
書物のテクスト空間を、ここでは図書館モデルとして考えています。
図書館の棚に一冊ずつおさまった書物が、コピーの量やブランド価値を削ぎ落として、
純粋に書かれた内容で他の書物とネットワークを作り、一つの意味的宇宙として意識されるような空間です。


フリードリヒ・キットラーの『書き取りシステム1800・1900』(1985年)では、
19世紀の筆記文化のはじまりを、山積みの写本で満たされた大学の書斎から描き始めています。
このような書斎を、図書館モデルの原型として考えていいと思います。


かくして修士であるばかりか博士でさえあるファウストもまた、新刊書などありようもない書斎の「狭いゴシック風の部屋」に坐し、読んでは抜き書きし、注釈を付け、それから、古い書物が彼に口述筆記させたものをそのまま講義で自分の学生たちに口述筆記させる。まさに、こうした過程がヨーロッパでは、大学ならびに手稿写本室が発明されて以来、大学の講義[=朗読フォアレーズング]と呼ばれている。
(フリードリヒ・キットラー『書き取りシステム1800・1900』大宮勘一郎・石田雄一訳)

印刷術の発明以後も大学という「学者共和国」レス・ブブリカ・リテラリアで行われていたのは、古い書物の「口述筆記」の繰り返しでした。
「学者共和国とは際限ない循環過程であり、生産者も消費者もなく、言葉をひたすら循環させるだけの書き取りシステムにほかならない」とキットラーは述べています。
作品生産者としての作者と作品消費者としての読者という区別もなく、神の啓示をただ書き取ることで成立するのが、学者共和国と呼ばれるものです。


学者共和国の無限循環は、聖書の「翻訳」という解釈学的アプローチによって破られていくことになります。
原典に記されるべき神の意図ヽヽ(これをキットラーは「超越論的シニフィエ」とします)に近づくため、それを正確に書き表す言葉を探し求める行為が「翻訳」です。
この「翻訳」を自由に試みることが、自由に書くことのできる「人間」というものを生み出し、人文主義を到来させることになったのです。


自由に書くという行為が、口述された聖典をオリジナルとして成立したことについては、
書店を扱ったジャン=リュック・ナンシーの『思考の取引 書物と書店と』(2005年)にも書かれています。


書物の理念とは、たしかに完璧さの、自己完結のそれなのだろう。かくて書物たちは、聖典は唯一ならずと口々に否み、あまつさえ、われこそ聖性の実践の一なりと名乗りをあげる。聖性というものが、理性で計りえぬ意味の公算に身を委ねることに存するとすれば、の話だが。
(ジャン=リュック・ナンシー『思考の取引』西宮かおり訳)

ナンシーはフランスのポストモダン思想の影響下にあるので、唯一の口承による聖典から派生した書物たちの「聖性」を、
神による意味づけ(超越論的シニフィエ)ではなく、バタイユ的な「非−知」やブランショ的な「われを読むなかれ」に通じる非理性的な神秘性に見ています。
しかし、フランス現代思想が理性的なヽヽヽヽ「意味了解」をどれだけ否定しようと、
形而上学が依拠する神秘性のルーツが、神の意図という「超越論的な意味」にあることは動きません。
このことを理解しないで、ただ意味を否定すれば神秘性に至れると短絡すると、
西洋文化の深淵を手前勝手に曲解した単なる極東の田舎者ポストモダンオタクでしかなくなります。


一神教世界においては、すべての書物は、「超越論的な意味」を「翻訳」もしくは注釈するために存在しているのです。
ここには明らかに「どれだけ売れたか」と全く関わりのない、今ここを超えた「普遍性」に奉仕する書物の価値というものが存在しています。
言ってしまえば、普遍的な「意味」を語る聖典を越えるものは存在しないのです。
すべての書物は、神からの祝福を受けるがごとく、神の意図を反映した「普遍性」を分け与えられています。
要するに、ポストモダン思想における理性的意味の否定とは、神の意味領域を非理性的・非意味的なところにまで拡大する動機でなされているのです。
それは神学の極端なまでの世俗化であって、決して無神論ではありません。
それを西洋文化の基礎を知らない日本人は、本当に意味を否定していると思い込んでいるのですから滑稽ではありませんか。


西洋の書物が「超越論的な意味」である「聖性」を基盤としたものであることがわからないと、
今回僕が図書館モデルとして示しているテクスト空間を正しく理解することが困難になります。
ここで注意を促しておきますが、テクスト空間を模した図書館とは、我々が普段利用している図書館とはだいぶ違います。
テクスト空間は、所蔵している書物の範囲が圧倒的に広大なのです。
流通した書籍を所蔵する国立国会図書館よりも、世界中の出版物をアーカイヴ化したデジタル図書館よりも、もっと対象範囲は広くなります。
「超越論的な意味」つまり神に喩えられる人間存在の普遍的な根源へと連なる書物であれば、流通や物的存在の有無すら問題にならないからです。
書かれたもの(テクスト)が、他の書かれたもの(テクスト)と有機的な関連を持ち、ひとつのテクスト空間をつくり出すことができるのは、
それが古典作品が有する普遍性(=唯一神の意図丶丶)のもとにあるからなのです。
つまり、テクスト空間とは、神が愛用する図書館のことだと考えると、わかりやすいかもしれません。


たとえば僕の書いているものは、出版市場で流通していないので、書店には並びませんし、国立国会図書館にも納入されていません。
しかし、普遍的な真実に迫る書き物として、テクスト空間に属すことになるはずです。
真のテクスト空間では、その書籍の販売実績はもちろん、どれだけの読者が支持したかも関係ありません。
人間存在の普遍的な真実にどれだけ触れているかが重要なのです。
極端なことを言えば、神というただ一人の読者がいさえすれば、その書物はテクスト空間に参入する資格があるのです。


日本の敗戦と東洋テクスト空間の忘却

このように、西洋思想と西洋文学には普遍宗教的な背景があるわけですが、
東洋にテクスト空間がなかったかと言えば、そんなことはありません。
仏教の経典も同様の役割を果たしていますし、中国でも儒教を中心とした体系的なテクスト空間が存在します。
日本の藩校は儒教系の漢籍を中心に構成された図書館でした。
日本は江戸時代までは仏教や儒教を中心とした東洋的なテクスト空間に属していたのです。
つまり、日本も聖典という「超越論的な意味」から派生した学問体系の中にあったと言えます。
ただ、日本はルーツから遠くにありすぎました。
「大陸」から海を隔てた場所にあったので、聖典の「超越論的な意味」の拘束からだいぶ自由でいられたのです。
そのため、仏教が日本で独自の発達をすることにもなりました。


日本が聖典ルーツの「超越論的な意味」の拘束が弱い国であることは、注釈学の乏しさによって実感できます。
たとえば中国ならば、朱子学は明らかに注釈学の方法論で成立しています。
古代の聖人である孔子の言葉を聖典として、その注釈を基盤に儒教を体系的思想へと組み上げたのが朱子学です。
日本の江戸時代の学問も朱子学の延長に発展しましたが、当然ながら聖典のルーツは中国にありました。
他国に学問的ルーツを持つ国というのは、ある種の文化植民地です。
この状態から脱して自国にルーツとなる聖典を求めたのが、本居宣長に代表される国学ではないでしょうか。
本居宣長の『古事記伝』は、注釈学的なアプローチによって成立しています。
これはある種の学問的主体性の芽生えと言えるかもしれませんが、
それを可能にしたのは、長い鎖国の経験なのではないかと僕は考えています。
鎖国によって大国の圧力を極小化したことで、自国中心の意識が自然に生まれてきたのです。
日本では国家の主体的意識が、大国の圧力に対する抵抗や闘争を経ることなく、
鎖国という大国の圧力からの「引きこもり」によって成立したことは、もっと考えられるべき問題だと思っています。


西洋化によって、日本は学問的な分裂状態に置かれることになりました。
ここでは簡単にまとめますが、中国ルーツの東洋的テクスト空間を基盤とする体系的な学問と、
西洋近代の先進的な「情報」の取り入れを基盤とするジャーナリズムへの分裂です。
ジャーナリズム」とは、現在形のヽヽヽヽグローバルスタンダードを外的権威として、その大衆的流通・浸透に励む啓蒙的姿勢のことです。
日本では西洋知性が、歴史的に蓄積されたテクスト空間に参与しない「時事的な論評ジャーナリズム」として摂取されました。
日本人の精神が依拠するテクスト空間は、相変わらず東洋的なテクスト空間だったのです。
ここには本音と建前、和魂と洋才の二重構造がありました。
この二重構造は夏目漱石という近代文学を代表する作家を取り上げただけでも確認できることです。
夏目漱石はロンドンに留学した西洋通であり、幸田露伴のような漢学教養の旧時代人ではない現代的な作家として今でも別格の扱いを受けています。
しかし、漱石はやはり漢文学的なテクスト空間に属していた作家です。
彼の学問のスタートは漢学ですし、晩年に漢詩作りにも励んでいます。
有名な「則天去私」という言葉には、そういう漢学の素養が示されています。
この言葉の「天」という概念は、そもそも儒教的なテクスト空間が守ってきた「超越論的な意味」に当たります。
その一方で、漱石は朝日新聞に入社し、新聞小説というジャーナリズム空間で「近代文学」を書き綴っていました。
近代文学は新聞小説というジャーナリズム空間を通して、人々に共有されていったのです。


日本の近代文学は漱石に見られるような、東洋的テクスト空間を精神的基盤とする精神で、「今」を特権化するジャーナリズムを手段ヽヽとした西洋化を進めたのです。
この居心地の悪い二重性を解消したのが、アメリカとの開戦です。
日本は西洋と真っ向から戦うことを建前としても掲げるようになって、初めて自らの本音である精神的な根源を建前と一致させることができたのです。
太平洋戦争は多くの人々にとっては地獄の体験だったわけですが、一部の文化人には精神的幸福をもたらしました。


しかし、敗戦です。
経済的にも文化的にも決定的に破壊された日本は、戦後にアメリカの支配のもとで西洋を社会的基盤とした精神的な西洋化へと舵を切ることになります。
しかし、長い文化の歴史というものは、一夜にして変わるものではありません。
日本人に西洋近代的な意識が少しずつ芽生えていっても、「超越論的な意味」となる精神の根源をキリスト教西洋文化に置き直すことはありませんでした。
あくまで戦前の延長で、「最新」の西洋文化をジャーナリスティックに受容し続けました。
西洋と敵対する東洋的なテクスト空間は後ろ暗いものになったので、真剣に学ぶ人はほとんどいなくなり、
法的・倫理的な基盤となる近代精神のルーツは、東洋と西洋の間で居場所を持たぬまま忘れ去られることになりました。
こうして、日本は「ジャーナリズム」精神で、西洋の最新モードを求めるだけの精神的蓄積のない学問をやってきたのです。
丸山眞男は『日本の思想』(1961年)で、日本の知のオタク化・内輪化の傾向をタコツボ型と名づけて、
ジャンルを超えた「共通の基盤」がないことを指摘していますが、
その「共通の基盤」こそが「超越論的な意味」に連なる学問的な体系(教養)だと僕は考えています。
要するに、日本人は西洋の「学者共和国」というテクスト空間と関係のないところで西洋学問をやっているのです。
文学や思想が日本人の精神を育んだテクスト空間に参入することなく、
最新ファッションを着こなす感覚で、「今」の最新モードを表層オタク的な「情報」として取り入れるだけなのは、そのためです。
その虚しさが問題にならなかったのは、戦後の経済成長という成功体験があったからでしかありません。


文学や思想は図書館モデルに依拠する

日本の文学や思想が堕落したのは、成功体験に酔って建前を軽視し、自己愛的な本音社会へと変化したことにあります。
衰退の出口がなかなか見えない状態ですが、それはこの国の人々が到達しえない超越論的な目標を持っていないからです。
東洋テクスト空間にあった精神的な根源を捨てた日本は、
自国の歴史性に背を向けて、ジャーナリズム精神で西洋の最新事情を表層的に取り入れることをその代替物にしました。
「超越論的な意味」は現世において到達するのはほとんど不可能な目標ですが、
「最新」の西洋スタンダードに追いつくだけなら、発展を遂げて経済大国になれば達成できます。
経済力で西洋最強の支配者アメリカを追い抜いたと思ってしまったら、それで満足してしまうのも当然ではないでしょうか。
表層的な目標スーパーフラットに到達して「歴史の終わり」を迎えたら、あとは「自分スゲー」と自己満足にふけることしかやることはありません。
こうして、日本は神の国をめざして成長を続ける大国をよそに、「表層に満足した豚」の驕りをいつまでも肯定し続けています。


バブル日本が〈フランス現代思想〉をなぜ本国フランス以上に好んだのかも、このような日本近代化の歴史をたどれば理解しやすくなります。
〈フランス現代思想〉はその表層的な主張だけを取り上げれば、西洋が自己のルーツであるロゴス中心主義を批判したものに見えます。
これを素朴に受け止めると、根源にある「超越論的な意味」を彼方へと追放し、エクリチュールという表層的なメディアを新たに根源化することの肯定に思えます。
この文脈で〈フランス現代思想〉を理解すれば、東洋的ルーツを捨て去って、表層的な西洋化を新たな根源として、消費的に戯れればいいという結論を取り出すことができます。
こう書いているだけで、日本人の知性の単純さに悲しさを感じるのですが、
西洋が本当に自らの精神的根源にあるキリスト教的文化を捨て去ることを称揚するわけがないと、なぜわからないのでしょうか。
僕が日本のポストモダン思想に意義を見出している自己愛集団の知性が総じて低いと断じるのはこのような理由です。
西洋のポストモダンは、信仰なきキリスト教文化を宿す「表層」の大量流通によって、異教地域のキリスト教化を目論んでいるのです。
どんなに表層化しようと、その文化の歴史的ルーツがキリスト教にあることは、誰にだってわかります。
つまり、自明すぎることをわざわざロゴスで伝達する必要はないということです。
「我々への理性的な理解など田舎者には期待しない、ただ我々を無意識に欲望させ買わせればいいのだ」というのが西洋ポストモダンの戦略です。


たとえ西洋人やキリスト教徒でもなくても、金持ちにさえなれば西洋人になった気分で生きられるのが、ポストモダン社会です。
もう国家レベルの近代化など必要ないのです。
個人消費によって表層的な西洋化を達成させるのが、西洋ポストモダンの戦略なのですから。
これが大きな物語(近代国家)から小さな物語(個人消費)へ、というポストモダンのスローガンの本質なのであって、
東浩紀がさかんに主張したオタクの実存は、ポストモダンの消費戦略に享楽して精神的な根源を見失った、表層だけの模造キリスト教徒の姿でしかないのです。
歴史性や伝統を切り捨てて、西洋グローバルに参与した気分で、より後進の地域を自分たちと同じように異国の神の支配圏に組み入れる、
このような文化植民化はなんだかネズミ講にも似ていないでしょうか。


個人消費を基盤とする書店モデルは、このようなポストモダン文化に支えられています。
「今」を特権化する消費文化では、ヒット作や話題性という市場動向から遅れないように、神経をすり減らすことになって、
本当に自分の内から湧きあがる自然な要求と向き合う暇もありません。
西洋は発展するにつれ神の国へと近づく充実感があるわけですが、
日本は発展するにつれ自分自身を失っていく疲労が残るだけです。
漠然とした「脱成長」への憧れは、このような精神なき異教信仰の空虚感にあると僕は思っています。


ポストモダン思想とポストモダン文学の空虚さも同様です。
普遍的なテクスト空間から切り離された出版物など、商品流通を目的としなければ、内輪の暇潰しと自己満足に終わってしまいます。
「商品として流通しなければ虚しいもの」を書いているから、本を売らなければいけなくなるのです。
書店モデルは消費のための空間ですが、その隠れた目的は、「今」という時間に属していることを集団 ヽヽ 的にヽヽ確認することにあります。
そこは起源から遠く切り離された、劣化コピーの世界です。
もちろん、書店は本を売るために必要なので、本の流通には欠かせないと思いますが、
読み手や書き手が書店モデルだけに依拠して本を評価するのは、不幸ではないでしょうか。
書店モデルしかない国は、さもしいヽヽヽヽものです。
僕がポストモダンと出版ジャーナリズムの全体主義を批判するのは、このような理由です。


では、日本で精神の在処へとつながる文学や思想をやることは可能なのでしょうか。
そのためには、書かれたものがすべてテクストとして、神の図書館におさめられ、相互に参照されうるものである、という認識を、
多くの書き手が共有することが重要ではないでしょうか。
つまり、書かれたものが意味内容だけで評価される機会が必要です。
読者一人一人に、書店モデルの価値観に左右されないだけの読解力が備わるのが理想ですが、
大学の先生の書いたものだから、とか、売れているから、とか、マスコミが取り上げているから、とか自分の読解力以外のものをあてにしている人では、難しいと思います。
日本には残念ながら、ネットの言説というだけで内容を侮る著名人がたくさんいます。
(ネットで活動していると、そういう人を判別しやすくなる利点があります)
書店モデルに価値を置いて、図書館モデルを実感できない人ならば、そうなるのは当然のことです。


神が司る普遍的な意味を持たず、生起しては消えていく「今」を生きるだけのメディア人は気の毒なものです。
神がいないということは、すぐに死者を忘れてしまうということでもあります。
図書館には絶版本が置かれていて、それへのアクセスも難しくありませんが、新刊書店で絶版本と出会う機会はありません。
忘れられたくない人々は、ますます長生きやメディア露出に執心することになるでしょう。


僕は文学や思想はテクスト空間に属するものだと思っています。
つまり、神の図書館に所蔵される書物だということです。
しかし、古典が属する精神的な根源を捨て去ったこの国には、昔から続く神の図書館はもう見当たりません。
ポストモダン思想は歴史的一貫性など必要ない、と根源ルーツを捨てた表層的偽装丶丶こそが最先端であるかのような考えを広めましたが、
経済的成功が遠い過去のものとなった今、その惨めさばかりが目についていないでしょうか。
埴谷雄高は人類滅亡後に、アンドロメダ星人が自分の本を発掘して読むことを想定して書いていましたが、
そのように未来に向けて超越性を担保するにしても、自らの精神的ルーツを彼方に保持していないと難しいのではないでしょうか。
僕はリアリストなので、とうに忘却されてしまった神の図書館を、再び発掘する可能性を探りたいと思っています。


7 Comment

白樹烝さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
城前佑樹(白樹烝)さん、コメントありがとうございます。

どうも僕の書き方がまずかったのか、読んだ方に誤解を与えている気がするので、ここで説明をさせていただきたいのですが、
僕は「書店モデル」を否定しようとは思っていません。
本文中で「全体主義」という言葉を用いたように、「今」に依拠する「書店モデル」だけが本の評価基準になってきている現状に対して、
複眼的な視点を確保したいという意図で書きました。

ポストモダンという価値観は消費的一元論を基盤にしているので、
放っておけば販売数量に評価が一元化されていきます。
僕が東浩紀を引用したのは、その動かぬ例を示すためです。
彼らが大好きな相対的多様性は「市場」に依存した商品バラエティでしかないので、
権威への依存心から消費的一元論をとるようになるのです。
実際、商売人だけでなく、多くの人が「書店モデル」への葛藤も見せずに、それに則った情報発信にはげんでいます。

ただ、本好きなら誰でもテクスト空間にたどり着くかと言えば、
そう簡単な問題でないことを、僕は日本近代の歴史を踏まえて書いたつもりです。
本好きなら誰でもテクスト空間に「憧れる」でしょうが、
本気でそれを求めると、その困難さに直面して、非常に苦しむことになります。
日本の文豪になぜあんなに自殺者が多いと思いますか?
今の日本人は、文化を表層レベルで把握して、
もう自分たちが(村上春樹のように)西洋の一員にでもなった気分でいるから、
日本人が「超越論的な意味」からいかに断絶状態にあるかがわからないのです。
つまり、テクスト空間というものを真剣に考えたことがないから、絶望しなくてすんでいるのです。
未来がある人を絶望に誘惑するわけにはいかないので、このくらいでこの話はやめておきます。

白樹烝さんのような心ある書店員がいるのは喜ばしいことです。
現場ががんばっても限界はありますが、一個人の努力も無駄ではないと思うので、お互いがんばりましょう。

読ませていただきました。

今回の論考、個人的な事をふくめ、胸に刺さりました。

私自身、実際に「新刊書店員」として勤務しており、南井さんの批判する「書店モデル」の働きによって金稼ぎをしている欺瞞を突かれたからに他なりません。
ただ、書店・古本屋・図書館いずれも愛用する身として一つ言うならば、
「書店モデル」と「図書館モデル」は役割が違うことは確かだと思います。
人は実利的なもののみでは生きていけないし、翻って普遍的な価値のみでは生き延びていくことが困難になるでしょう。
私は書店員としては、(「目利き」かそうでないかは置いて)読者である誰かの実利的な不足に見合った、「(普遍的価値はどうあれ)今実際的な書籍」を売ることができれば嬉しく思います。
もちろんそれには「図書館モデル」の象徴する普遍的価値の存在を信じることは不可欠ですが。(本当に本が好きならば、皆そこに辿り着くのではないでしょうか)

おそらく問題は文学や思想の面で、(南井さんの言う)「神の図書館」をおざなりにしながら「文学・思想をやっている」という態度に胡座をかく姿勢と感じました。
「政治と文学」だったり、「和魂と洋才」だったり、本音と建前のケジメは日本の戦後からの課題であるし、私自身の問題でもあります。

無題

雨蛙さんへの返答

そうでしたか(笑)
たしかにポモ俳人どころか編集者など一顧だにしないインテリ俳人の方も、1人くらいは思いつきます。

生きる伝説詩人や一部の大物俳人には、ポモ俳人が現代詩権威主義でしかないことくらいバレているのですが、
詩人にも俳人にも媚びたい某出版社が、そういう幼稚な輩をありがたがっているんですよね。
雨蛙さんの言う通り、利権出版社とともに彼らは消えていくでしょう。
彼らは伝統派へ転向するだろうが、そんなズルい世渡りを認めてはいけない、ということも僕はすでに書いています。
あと、エセ古典風俳句の連中も、現実逃避しか中身がない点で変わりはありません。
凡庸なガリ勉が、ちょっと頭を使ったくらいで大作家になどなれるわけがないのです。

とりあえず俳人の皆様には、話題性を切り捨てて、
本当にその句が自分にとって大事な何かを運んできたのか、真剣に考えて評価してほしいですね。

無題

雨蛙さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
雨蛙さん、コメントいつもありがとうございます。

「俳句芸術ひとすじ」から動く理由は何でしょうか?
純粋で市場経済に疎いと「愚か」なのでしょうか。
ならば僕は喜んで愚か者と言われましょう。

雨蛙さんの言う「インテリ俳人」は、別にインテリでもなければ経済に通じているわけでもないと思いますよ。
ただ、自分を能力以上の存在に見せるために、出版市場を利用しているみっともない人です。
その人の俳句で本当に感動したことがありますか?
インテリとかいっても、どうせポストモダン思想を金科玉条のように思っている教養のないポモ俳人ですよね。
彼らはインテリではなく、ただ現代詩の箱庭である思潮社やその腰巾着のふらんす堂を後ろ盾にしている現代詩権威主義者です。
その次は古典教養もないのに、表層だけのエセ古典風で現実逃避をするだけの小細工俳人が市場の餌になるのでしょう。

俳人の皆様もいいかげんポモ世代の虚しさに気づいた方がいいですよ。

無題

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