- 2022/03/09
- Category : 南井三鷹の言ってみた
現代思想の正体
タイムリープ化する「現代思想」
「ポストモダン思想」でも「現代思想」でも呼び方は何でもいいのですが、
特定のフランス現代思想を「最新」の哲学だと見なす神話が、日本ではいつまでも信じられています。
簡単にまとめれば、ドゥルーズ=ガタリやデリダを中心とするフランス現代思想は、「68年の思想」と呼ばれるもので、
依拠する時代背景はもう50年前になるわけですから、ちっとも「現代」ではないわけです。
日本でフランス現代思想がブーム化したのは、浅田彰や中沢新一が「ニューアカ」と呼ばれて「知の商品化」が起こった80年代になります。
「商品化」と言われるのは、それが一般読者向けの出版ジャーナリズムと結びついた「商売」(さらに言えば「広告」)だったからです。
メディア・ジャーナリズムが「最新」の消費事情について取り上げるのを目にすることは日常茶飯事ですが、
それと全く同じ感覚で「最新」として売り出された思想の消費事情を、「現代思想」と呼んで知的な態度のように偽装してきました。
簡単に言えば、「現代思想」や「ポストモダン思想」とは、学術的な評価が定まっていない流行の西洋思想を、「人気商品」として売り出したものです。
大衆的人気を背景にして高尚な思想を語っている気分になるだけの、「凡庸な遊戯(ごっこ遊び)」だったということです。
大衆メディアによる消費のための「遊戯」が、専門的な学問より一般に広まるのは必然です。
「遊戯」は対象に対する真剣な態度など要求しないのですから。
頭の弱い人も、真摯な勉学態度のない人も、傷つけることなく包摂してくれる気楽な「商品」なのです。
こうして「現代思想」は、知的とも言えない大衆のための「癒し商品」としてもてはやされました。
いや、今でも市場を縮小しながら、生き延びています。
若い人にはわからないと思いますが、その延命策と言ったら、あきれて声が出ないレベルです。
たとえば講談社は、学術論文から逃走する千葉雅也の『現代思想入門』という新書を今月に出版する予定です。
入門書は「創造的誤読」を得意とする人より、学術的で堅実な読み方ができる人に書かせた方が適切なのですが、
実は講談社には、他社の思想雑誌で編集長だった「現代思想の内輪人脈」が移り住んでいるので、読者の利益より内輪の商売事情が優先されています。
近頃「ポストモダン」という語には、批判的イメージがついているようです。
それで、再び「現代思想」という呼び方を選んだのでしょうが、
パンケーキが飽きられたら、20年後にもう一回ホットケーキと呼ぶような売り方には脱力するほかありません。
現代思想の紹介本でヒットした現象といえば、浅田彰の『構造と力』が思い出されるわけですが、
過去のヒット時代へとタイムリープしたい、という「現代思想」利権の空虚な欲望が空回りしている印象です。
おそらく出版人の間では、インターネット普及以前の、出版が元気だった時代へのノスタルジーが、「最新」の感覚になっているのだと思います。
また、最近発売した博報堂の「広告」という雑誌で、清水高志や石田英敬などのフランス現代思想系の研究者が取り上げられていました。
これも「現代思想」がいかに「広告」と結びつかないとやっていけない「商品」であるかを示しています。
石田英敬の記事は、ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』(1970年)について語るインタビューなのですが、
立ち読みで眺めたところ、80年代のボードリヤール理解の焼き直しで、「無害」なことしか言っていませんでした。
ボードリヤールという思想家は、消費社会や「商品」の記号的側面を批判している人なのですが、日本では彼の主題である消費社会批判をいつも切り捨てて扱うのです。
言うなれば、ボードリヤールの「去勢」が大好きなのです。
参考までに、『消費社会の神話と構造』で、広告について書かれた箇所を引用してみましょう。
ちょっと長いのですが、重要なことを述べているので、そのまま載せます。
この意味で、広告はおそらく現代の最も注目すべきマス・メディアである。広告は個別的なモノについて語りながら、実質的にはあらゆるモノを礼賛し、個別的なモノや商標を通して総体としてのモノ、モノと商標の総和としての世界について語っているわけだが、同様に個別的消費者を通して全消費者に、また全消費者を通して個別的消費者に狙いをつける。こうして広告は、総体としての消費者なるものをでっち上げ、マクルーハン的な意味で、つまりメッセージのなかに、とりわけメディアそのものとコードのなかにはじめから伏在している共犯と共謀の関係を通じて、消費者を部族のメンバーのような存在にしてしまう。広告のイメージや文章はその都度すべての人びとの同意を強要する。彼らは潜在的にそれらを解読することを求められている。いいかえれば、彼らはメッセージを解読しつつ、メッセージが組み込まれているコードへの自動的同化を強制されているのである。
(ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳)
マスメディアはかけがえのない現実の出来事を、生産された記号の虚構的ネットワークへと置き換えるものだ、とボードリヤールは言います。
広告は個別的な商品の消費を促しながら、マスメディアのネットワーク形成能力によって、「総体」としての消費世界へと参加することを強要します。
このような事態は、難解なボードリヤールの文章より、SNSで考えた方が理解しやすいと思います。
SNSは個別のユーザーとフォロー関係で繋がっていますが、実際はそのSNS総体とリンクしていて、総体としてのSNSユーザーというものが「でっち上げ」られることもしばしばです。
SNSでメッセージを解読するたびに、それらが形成するネットワークへの同意を強要されています。
SNSは能動的に離脱可能ですが、広告から逃れることは有料であったり、そもそも不可避な場合もあるのでより悪質です。
(マスメディアを批判せずにSNSだけを批判する人を見かけますが、その人は頭が悪いか業界の犬かのどちらかです)
広告と結びついたマスメディアが「消費社会の全体主義」だとボードリヤールが言うのは、そのような部族的な同化の強制力が原因です。
このように、『消費社会の神話と構造』はマスメディアや広告を辛辣に批判する本なのですが、
博報堂による石田のインタビューでは、ボードリヤールが現在の消費社会の姿を言い当てていた(予言した)という扱いをされて終わっていました。
石田は新左翼系のマルクーゼまで持ち出しておきながら、それが資本主義批判であることをちっとも口にしないのです。
ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』は、日本では80年代のバブル期に電通などの広告業界でバイブルとして扱われ、
現代思想の研究者がセミナーなどに呼ばれていた過去があります。
批判思想から、批判の部分が「去勢」されて、広告の肥やしになるだけの「遊戯」になった状況を、
いまだに芸のない自己模倣としてタイムリープでもするように繰り返しているのです。
なぜボードリヤールの思想が、消費社会や記号経済学への批判だと正しく語られないのでしょうか。
理由は簡単です。
日本の「現代思想」や「ポストモダン」が、出版市場を通じた「知の商品化」に依存しているからです。
つまり、「現代思想」は消費社会の一現象でしかないのです。
消費社会の一現象が、消費社会を真剣に批判できるはずがありません。
そんな消費依存の後ろ暗さを隠蔽するために、ボードリヤールが「去勢」されているのです。
「現代思想」は、思想家の意図を無視して、マスメディアのご機嫌伺いをするエセ研究者を生み出すだけの思想商売なのです。
日本的「現代思想」が長らくグローバルな最新思想事情であるかのような神話となっているのは、
ハッキリ言えば、受容する読者に思想的な教養がないからです。
あまり読者をバカ扱いするのも気が進まないのですが、これは事実ですので、そう言うよりほかにありません。
ノーベル賞候補と騒がれる村上春樹の愛読者は、僕の知り合いにもけっこう多いのですが、彼らのただ一人も現代の文学作品には通じていませんでした。
同時代的な世界文学と無関係なエンタメ読書ばかりです。
(せいぜいポール・オースターのエンタメ度の高い作品を読んでいるくらいです)
そのような経験的事実から、文学的教養の乏しい人が村上春樹を好んでいると僕は思っています。
「現代思想」も同様です。
フランス現代思想にやたら価値を置いている人ほど、それ以外の思想を勉強したことがない場合が多いのです。
つまり、「現代思想」は基本的に思想的な教養がない人を相手にしています。
だから、教養のない現代作家やポストモダン的な趣味人に、妙に現代思想を信仰している人が多く見られます。
その生半可な理解や知識は、僕が読んですぐにわかるレベルですが、「現代思想」は本質が「遊戯」なので、うるさく言われることはありません。
消費物である「現代思想」は(村上春樹の小説と同じく)気楽なのです。
欲望を理性に優越させる「現代思想」
気楽な消費物としての知的商品が「現代思想」であり「現代文学」であることになっている事態は、
本物の思想や文学が必要とされない世の中であるという前提によって支えられています。
日常を破壊しうる深い思想や文学など重くて息苦しい、
それよりライフスタイルを充実させる方が即効性もあるし楽しいよね、
という傾向です。
ものを真剣に考えるより、お金を使って満足を味わう方がいいじゃない、というあり方です。
真剣に考えるツールとして「現代思想」を手に取った人もいるかもしれませんが、残念ながらそれは的外れな行動です。
「現代思想」や「現代文学」の本質は、消費にしかありません。
これらが成立した基盤は、明らかにそれらが生み出された80年代にあります。
簡単に言えば、戦後経済成長のピークであるバブル経済です。
どんな土地でも投資すれば値上がりが約束され、商品も作ればバカスカ売れるので、
「四の五の言わずにさっさと売り買いしろ」という風潮が支配的になりました。
どんどん金が入ってくるのですから、買いたいだけ買えばいいのです。
こういう社会では熟慮など邪魔になるだけです。
欲望があれば、それで全てうまく回るのです。
フランス現代思想は知的なイメージをまとっていますが、
日本で実際に受容された要素は次のようにまとめることが可能です。
① 同一性や一貫性を批判し、断片的で多方向の「欲望」を肯定 ② 主体性や意志を支える「理性」の批判 |
これ以外の要素に関しては、日本の研究者や一般読者の理解力を超えているために、ほとんど関心を持たれていないと言えるでしょう。
そうなると、実際的な要素をまとめれば、
「現代思想」=「理性」を批判して「欲望」を肯定する思想 |
というだけになります。
「ええっ、まさか思想なのに理性を批判して欲望を肯定するだけなの? そんなわけないでしょ」
という先入観があるから、みなさん「現代思想」をありがたがるのですが、
同一性批判の市場依存を過大に評価しすぎなければ、内容はこの程度のものでしかありません。
「現代思想」は市場と連動しないかぎり、取り上げるほどの積極的な内容はないのです。
なぜなら、フランス現代思想は理性的なヨーロッパ哲学の歴史を前提とした上で成立した、ある種の「反動思想」(批判思想ではない)でしかないからです。
「現代思想」は「ポストモダン」という語で表されることもありますが、
ポストモダンが「モダン」という言葉に寄生して成立していることでもわかるように、
本質的に社会が近代的であることが前提になって、初めてバランスが保てる思想です。
だから、日本のようにキリスト教神学の基盤もなく、十分に近代化した社会システムを成立させることもできていない国で、
「現代思想」やポストモダン思想だけを学んでも、それは「反動」だけを享受することと等しいので、結果的に害悪しか産まないのです。
近代思想や近代文学をしっかり学んだ上で、現代思想やポストモダンを学べば勘違いの心配は減るのですが、
日本のポストモダン系の学者や作家や編集者は、近代思想や近代文学の教養がおそろしく乏しい人だらけです。
その結果、近代への理解が十分でない人が、近代批判をしている「気分」になるだけに終わったのです。
近代ヨーロッパ文化に対する無知を基盤にした人たちが近代批判をすると、どのような害悪があるのでしょうか。
「理性」への批判が力を持つと、法律や倫理などの理性的な政治・社会システムが軽視されるため、政治や倫理の腐敗を招きます。
ポストモダンの風潮は、現行憲法をアメリカ(=西洋近代)の押しつけだと宣伝して、封建的な政治へと逆行する傾向を後押しする結果になりました。
「68年の思想」であるフランス現代思想は、本来なら1968年の五月革命に始まる大衆的な政治運動と密接に結びついたものでしたが、
日本では完全に近代的な政治や社会からの逃避を正当化するサブカル消費物になっています。
そこでの社会性は趣味的な消費行為によって形成されたものなので、
人気や売上というスノッブな権威を絶対化する形式的な数量主義を育てることになりました。
これを大まかに図式化すると次のような二元論に回収できます。
日本の「現代思想」の二元論 善 欲望の領域: ポストモダン ──市場・メディア → 消費的システム・私的趣味・内輪人脈・人気・数量 悪 理性の領域: 近代(モダン)──国家・身体現前 → 政治的システム・公共性・法律・倫理・人格・実質 |
ポストモダンは二元論の乗り越えだとよく主張されるのですが、実態を正しく評価すれば、上記のような二元論に裏打ちされています。
「理性」に対する「欲望」の優越は、官僚制よりもポピュリズムを好みます。
安倍晋三の「政治主導」が官僚による公文書改竄に結果したのも、このような「現代思想」の依拠した二元論と無関係ではありません。
つまり、「現代思想」は最近の日本をダメにした価値観なのですが、学問のフリをした消費的な「商品」であることで、その問題点が曖昧にされています。
(注:官僚制批判は、優秀な人物が起業家になる国では有効ですが、日本のようにトップエリートが官僚になる保守的な国では逆効果になります。
もし官僚制批判を日本に導入するなら、個々人の主体性を育成して民主制を定着させなければ効果がありません)
さて、「現代思想」の中身が、「理性」批判による「欲望」の肯定だとわかれば、
それが「四の五の言わずにさっさと売り買いしろ」という消費の促進を後押しするイデオロギーに結果するのがよく理解できると思います。
ポストモダン思想はイデオロギー批判だとか言う人がいますが、それは真っ赤な嘘で、実際は消費資本主義の広告的イデオロギーでしかありません。
つまり、「現代思想」はバブル経済で一色になった社会を前提に広まった消費イデオロギーなのです。
思想のフリをしていますが、実際は消費的な欲望を肯定するだけのイデオロギーなので、現代社会に染まっている人には理解しやすいものです。
いや、理解の必要すらないものです。
この社会を駆動するイデオロギーなのですから、この社会を生きていれば自然と身につくもの、つまりは現代的な「習慣」でしかないのです。
「現代思想」とは、無意識で「習慣化したシステム」を意識的に獲得する自意識的なプロセスでしかないのです。
「現代思想」が「自分探し」的な文学に解答を与えてくれるように見えるのは、それが自意識的なプロセスであるからなのです。
かつて思想や文学は、今の社会に本質的になじめない人が想像的に居場所を探してたどり着くものだったと思います。
だから、本来あるべき「社会」を構想する力へとつながっていました。
しかし現代では、社会になじめないという自意識を持つ人たちが、
不本意な労働や社会的コミュニケーションで傷ついた自己を、趣味的な消費で癒すことにしか興味がなくなりました。
趣味領域で話題のものを消費したり、自分の趣味的生産物を流通させたりして、傷ついた自己を修復することに懸命です。
誰も彼もが自分、自分、自分で、マイノリティの地位向上などの社会活動に自分を仮託して自己の承認を求めています。
(アニメオタクの東浩紀やゲイカルチャー推しの千葉雅也などがその典型です)
そうなってしまうのは、経済的にある程度満たされた人々の欲望が、 自己の社会的承認を拡大する(多くの人に認められたい)ことでしかないからなのです。
かくして理性を捨て欲望に生きる人たちは、ただ自己の社会的承認の拡大を求める「自分大好きな人」になってしまいました。
当然ながら、そこにはあるべき「社会」などという、革新的な視野など存在しません。
社会に関しては、今の社会で満足しているのです。
社会はこのままでいいのですが、そこに生きる自分の処遇に不満があるだけなのです。
こういう不満は、結局は会社でのポジションに不満があるとか、そういうレベルの悩みとたいして変わらないものです。
あまりに凡庸なため、多くの人の共感を得ることができるわけですが、そんなものに思想や文学という高尚なものが必要でしょうか。
現代思想をネタにメディアに露出することを求める売文家たちは、出世欲・名誉欲によって自己を誇大化しているだけではありませんか。
以上、いつも長い記事ばかりでわかりにくくなっている僕の「現代思想」批判のエッセンスを、コンパクトにまとめてみました。
ロシアのプーチン大統領は大ロシア主義というノスタルジーで戦争を始めたと言われていますが、
「現代思想」の誇大自己主義の欲望に身を委ねることに、はたして問題はないのでしょうか。
自分の属する趣味的共同体の領域を拡大したい、と境界線を超えて侵攻を始めても、
消費行為であれば「領域横断的」とポジティブに捉えられるわけですが、
メディア戦車による進軍の過程で、誰かを踏み潰していないと言えるのでしょうか。
とまあ、この記事は評論ではなく、Twitter代わりの時事的な軽いおしゃべりだと強調して終えようと思います。
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