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柄谷行人のポストモダン批判【その2】

ポストモダンという保守思想

前回に引き続き、柄谷行人のポストモダン批判について書いていきます。
柄谷は日本のポストモダンが、実は江戸時代の文化文政期や戦中の「近代の超克」の焼き直しであると述べています。
それについて見ていく前に、僕の〈フランス現代思想〉批判と柄谷の見解の共通点について再度確認しておきたいと思います。


僕は〈フランス現代思想〉の日本での受容が消費資本主義と歩調を合わせたものでしかなく、ポピュリズム的な「サブカル的転回」を果たしたのち、ナショナリズムに奉仕する結果になったと思っています。
このことについて柄谷がどう考えているかを探ってみると、1984年発表の「批評とポスト・モダン」という論考で、
ポストモダニズムが消費社会の論理を再生産するというフレドリック・ジェイムソンの主張を引用してはいるのですが、柄谷自身は「両者は基本的にちがっている」とあまりその考えに乗り気ではありませんでした。
しかし、2001年の『トランスクリティーク』の序文では、それが資本主義的な運動の代弁でしかなくなったことを認めています。
以下に引用してみましょう。


私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考──私自身それに加わっていたといってよい──が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。九〇年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコンストラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。

ディコンストラクション(脱構築)は〈フランス現代思想〉のポスト構造主義の代名詞のようなものです。
柄谷はそれがソビエトなど社会主義陣営が健在なときにだけ意味を持ったと言っています。
僕も消去されたAmazonレビューのコメント欄で、〈フランス現代思想〉はスターリン批判を背景にしたものでしかなく、今は北朝鮮にでも行って主張する以外に価値はないと書いたことがあります。
本当に似たようなことを言っていたんだな、と思います。
(そして、そう主張する僕が今でもマイノリティである以上、柄谷のポストモダン批判はどこかで誰かに握りつぶされたということになるわけです)


このあと、柄谷の文章は次のように続きます。


懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義・サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。

僕の言うことなど聞かなくても良いですから、未だに〈フランス現代思想〉などのポストモダン思想に価値があると勘違いしている人たちは、柄谷のこの文章をよく読んでから発言してほしいものです。
現代のポストモダン思想は全くもって保守的なものでしかないのです。
そのため、ポストモダンに乗っかった人間は案外簡単に保守へと鞍替えすることができるのです。
加えて言っておくべきことは、柄谷の言うポストモダン思想が「当初もっていた破壊性」というものは、日本において発揮されたことは一度だってありません。
本家の西洋に対して破壊性を持つ思想というだけのことで、日本においては歴史上に何度も登場した「よくある発想」でしかないのです。


敵は出版社にあり

柄谷との接点はあまりないはずですが、興味深いことに実は大塚英志も柄谷と同様のことを述べています。
大塚の著書については別の機会に取り上げるつもりですが、その部分だけ引用しておきましょう。


ぼくは何百回でも言いますが、日本にポストモダンは来ていませんし、それどころか近代を達成できていない国です。その日本をポストモダン扱いするのは、ほめ殺しも同然です。(大塚英志『メディアミックス化する日本』)

柄谷と大塚の共通点をよくよく考えてみれば、彼らが〈フランス現代思想〉などのポストモダン思想によって儲けたがっている大手出版社から「嫌われている」ことが挙げられると思います。
このことからわかることは、柄谷によって20年以上も前から批判されているポストモダン思想が現在まで生き残り、それに依拠した軽薄な自称思想家を輩出しているのは、
思想そのものに意義があるからではなく、それを商売上必要とした出版社の意向が大きく作用した結果だということです。


僕が出版社の多くを信用していないのは、彼らが学問的な意義や世界の真実より商売上の思惑を優先することがこの20年で明白になったからです。
このような出版社の思惑に沿って本を書いているだけの〈内実〉を売り渡した売文屋が、今の日本では自称思想家としてデカいツラをしているのです。
敵は出版社にあり、なのです。


現実的に深刻な問題となるのは、その「よくある発想」がプレモダン的なものであるため、
プレモダンをポストモダンだと強弁することによって、
日本がモダンをしっかり確立できていないことをごまかし、結果として封建的発想の復活を呼び覚ますことになることです。
戦後日本が近代化を目指したのならば、バブル以後のポストモダニズムの潮流が欲望したものは時計の針を逆回転させることだと結論づけられるでしょう。
ポストモダンとか言ってはいますが、日本の政治を眺めてみれば世襲議員が相変わらずたくさんいるわけです。
一見してこんな国は近代国家ではありませんが、ポストモダン思想の連中は巧妙に政治逃避をしているため、そこに葛藤することすらありません。
世襲制に出自を持つ議員が多い安倍政権による憲法改正に、このような封建的価値観の復活を欲望していると疑われる面があるのは当然のことではないでしょうか。


それからポストモダン思想の売文屋には、批判されると自分の肩書きを振り回して暴言を吐いたり批判者の誹謗中傷をする人間が目立ちますが、
このような態度が彼らの実態が封建的価値観に依拠したプレモダン野郎でしかないことを証明しているということを付け加えておきます。
近代もしくはポストモダンの価値観を持っていれば、社会的肩書きにかかわらず人間は平等であり、意見の表明において優劣などあるはずがないからです。


結局は江戸時代からメンタルに進歩のない日本人

最近まで江戸時代を舞台にした時代劇というものが人気を博していたように、日本人は心のふるさとを江戸時代に見ているところがあります。
そこから感じられるのは、日本人は社会の基礎を封建制に委ねているのではないかということです。
政治家という国民の代表であるはずの存在を世襲という封建的な文化に委ねて平気でいるのは、日本人のメンタリティが封建制から一歩も出ていないことを示しています。
時代劇は今では姿を消していますが、その代わりサブカル界隈ではいわゆるファンタジーものが溢れかえっていて、王様や戦士などが大活躍していることを無視してはいけません。
RPGをベースにしたファンタジーものは、所詮は封建制を心のふるさとにしたものであり、年配者の時代劇をサブカルに置き換えただけのものでしかないと言えるでしょう。
結局、対象を置き換えただけで、両者を愛好する世代間にメンタリティの変化はほとんどないと僕は考えます。
(ただ、ふるさととの隔絶感が高まったために若い世代がニヒリズムに陥りやすくなっていると指摘することは可能です)


このようなことを指摘すれば、柄谷がポストモダニズムを江戸時代の文化文政的なものとして語ることが、何も突飛なことではないことがおわかりいただけると思います。
『言葉と悲劇』という著書で柄谷は日本のポストモダニズムが江戸の「文化文政」的なものと重なることを指摘しています。
具体的な特徴を並べてみましょう。

・主体の不在化
・中心の非中心化または多中心化
・深層の表層化
・オリジナルからコピーへ
・創造からコラージュ、パスティシュ(模倣)へ

このような要素が〈フランス現代思想〉などを援用して日本でも持て囃されたわけですが、柄谷が指摘する通り、こんなものならば日本の方が西洋より「進んでいる」わけです。


たとえば僕が多少なりとも関わっている俳句について言えば、俳句を語るのにわざわざ〈フランス現代思想〉を持ち出して上記の要素を意味づけようとする、ものの本質のわからない俳人がドヤ顔をしています。
江戸時代に隆盛した俳句がそのような要素を持つのは当然であるのに、それを〈フランス現代思想〉を持ち出して語ることで何か批評をしているかのような気になっている破廉恥が後を絶たないのです。
(挙句、若手俳句アンソロジー集の帯を〈フランス現代思想〉の売文屋に書いてもらうという大恥をさらしていたりするのです)


現代思想界隈ですら批判に耳を塞いでいるのですから、俳人の教養不足については今更責めるのもどうかと思いますが、
冷静に考えてみれば、自分のところにもともとあった文化を、後から来たフランス人の考えで価値づけようとする態度が、いかに卑屈な西洋崇拝をベースにしているかがわかるのではないでしょうか。
(西洋の詩を日本語で書く現代詩創作の苦闘から逃げて、安易な気持ちで俳句を選んでおきながら、自らが西洋的だとアピールしたがるペテン師的精神を僕は軽蔑せずにはいられません)


そういう卑屈な俳人にかぎって千葉雅也のツイッターなどを西洋的権威(笑)だと思ってリツイートしたりしてしまうのです。
しかし思想をある程度学んだ人間なら誰でも理解できることでしょうが、残念ながら千葉雅也など柄谷行人の知性の前では屁みたいな存在でしかありませんし、
千葉が流行として紹介した思弁的実在論などもポストモダンの発想を延長して、理性批判や他者志向を推し進めただけのものでしかありません。
ふたたび講演集の『言葉と悲劇』から柄谷の言葉を引用しておきましょう。


現在の日本の文学、思想全般において、ポストモダンと一言でいってかまわないと思いますが、それは西洋からの影響に見えながら、あるいは高度な資本主義の段階に見えながら、同時に、今からせいぜい八十年ほどの過去にすぎない時期に見出されるところの江戸文学の露呈──すなわち表層の皮がはがされて、江戸文学の地が露出してきたこと──にほかならないのではないかと思われるからです。

こうして柄谷は文化文政時代の文学とポストモダン的なあり方の共通点を語り出します。
「短小にして軽薄なものの極み」や言葉遊びが19世紀の日本人が得意としたものであり、言葉は「意味」という軛から離れて「軽い」ものであったと述べています。
川柳が19世紀だということも言っています。


文化文政時代の文学では、言語遊びや言葉の戯れ、つまりパロディとかパン(駄洒落)と称されるものが支配的でした。「深さ」ではなくて「浅さ」とか、軽薄短小というものが支配的だった。

以上は『言葉と悲劇』所収の「江戸の注釈学と現在」からの引用ですが、その次に収録された講演「「理」の批判──日本思想におけるプレモダンとポストモダン」で、柄谷はポストモダン的なロゴス中心主義批判の等価物を本居宣長の仕事に見ています。
本居宣長は朱子学という体系的な「理」の思想を「漢意」として批判した江戸時代の国学者です。
詳しく書くと大変なことになるので、興味のある方は柄谷の本を読んでいただくといいと思うのですが、重要なのは宣長が肯定したものについて「フェミニティ」(女性的なもの)と柄谷が述べていることです。


『源氏物語』は、紫式部という女性によって書かれたものであり、その世界は、武士や儒者から見れば、まことに女々しいものです。しかし宣長は、そのようなフェミニティを肯定し、のみならず、文学・芸術の本質はフェミニティにある、といいます。フェミニティによって彼が意味するのは、むしろ、あらゆる多様性をそのまま認めうる繊細な「知」であり、いいかえれば「真理」や「善意」に固執する思考に対する批判なのです。

僕は天皇制というものがシャーマニズム的な女性原理をベースに成立していると思っています。
その意味でフェミニティの肯定というものは天皇制への回路とならざるをえません。
実際、柄谷もこの講演の最後で「理」の脱構築が実現された時に天皇が有力な記号となった、と述べています。
しかしポストモダン思想はユダヤ的な価値観と親しいものですので、父の原理は遙か彼方とはいえ存在が前提とされているわけです。
柄谷の言う「文化文政」は天皇制に近い母の原理を目指すものなので、実際には同じものではありません。
その両者が曖昧なまま混じり合っているのが日本のポストモダンだと言う事もできます。
近代天皇制が母なる天皇に父なる軍司令官の役割を要求したように、ポストモダンにおける安倍晋三のもとに結集している自民党の保守勢力の女性への要求も支離滅裂になっています。
(女性は家庭で子育てをする装置だと考えながら、労働力として社会参加を促すような支離滅裂な態度のことです)
ポストモダンと江戸の一致については、柄谷の言うことに納得しつつも、時間の不可逆性を前提とした視点を合わせ持つ必要があると僕は思います。


外部の存在しない言説空間=マーケティング

日本のポストモダン思想が江戸時代や「近代の超克」の繰り返しであるとすれば、それらの時期に共通することは〈外部〉が存在しないということになります。
あまりに日本的な結論ですが、僕はさんざんにポストモダン思想と内輪主義を批判してきたので、当然の結論と言わなければならないでしょう。
僕が日本のポストモダン思想を〈俗流フランス現代思想〉と呼ぶのは、それが〈外部〉を持たない「内向き」の思考であるからです。
「内向き」の思考が「他者」を合言葉にしていたのですから、日本の病理の深さというものがよくわかるのではないでしょうか。


〈俗流フランス現代思想〉は東浩紀の登場によってサブカル的転回を果たし、母胎回帰の欲望に結実しました。
家庭における父の存在が希薄化される中、母親との関係を密にした男性オタクたちが、性的でないように装った性的欲望である「萌え」を一般化するようになります。
彼らが女性への欲望を非性的なものに装いたがるのは、実際に欲望されているものが「母性」であることを隠したいからです。
女性との非性的な関係が母親へと還元されるのは必然です。
(ただ、彼らはアイロニカルな自己表現で自らの欲望を隠そうとするので、愛欲の対象である母親を妹や娘へとズラして「萌え」てみせることになります)
要するに「萌え」はマザコンの合言葉でしかないのですが、このような真実すら「お客様のご機嫌を損ねる」ということで語られることがないのがポストモダンという「マーケティングの時代」なのです。


前述した大塚英志は『メディアミックス化する日本』の中で、80年代の「ニューアカ」と呼ばれた現代思想の実態がマーケティングでしかなかったことを、その当事者として「暴露」しています。


当時(南井注:80年代)「ニューアカデミズム(ニューアカ)」の名の下に現代思想がサブカルチャーと結び付いたと言われていますが、実は、八〇年代において現代思想が結び付いたものは、マーケティングであり電通です。
(中略)
ニューアカと言われた人たちも、ぼくと同じようなマーケッターであったり、空間デザイナーでした。ぼくと同じ年で言えば、いとうせいこう、香山リカ、田中康夫。一世代上だと、上野千鶴子や中沢新一などがおり、その中でも「売れっ子」が浅田彰で、これが八〇年代ニューアカの正体なのです。

特に大塚英志の言葉を持ち出さなくても、出版の現状を見てみればこんなことは明らかだと思うのですが、このような指摘がインパクトを持ち得ないのは、
オタクという存在が本質的にマーケットに依存しないと生きていくことができないからなのです。
オタクはマーケットの売り上げに対してシニカルな態度を取りながらも、密接な人間関係から逃避しているため、実際は商品を介してしか相互コミュニケーションをとることができません。
つまり、オタクにとってマーケットは魚にとっての水のようなもので、もっと言えば「母なるマーケット」とも言える唯一無二の依存対象です。
そのためオタクは表面的にはシニカルな態度を取りながらも、商品マーケットに深く依存していて、マーケット以外の価値観を重視することができません。
現代思想オタクはポストモダン思想が単なる商品としてしか流通していないことを理解はしているのですが、その外に立つ(つまりは生のコミュニケーションの現場に立つ)勇気がないため、ただ言い訳じみたシニカルな態度でマーケティングの餌になっているのです。
僕はオタクというものが本当に嫌いなのですが、このような連中を哀れとも思いませんし、死ぬまでやってろ、と思っています。


夏石番矢の鋭い考察

いったん柄谷行人から脱線しますが、再び俳句の話をすると、夏石番矢が『天才のポエジー』の「序にかえて」で柄谷の考察と重なるようなことを書いています。
夏石は明治天皇の「北清事変凱旋の陸海軍部隊への勅語」を引用し、その文体と詩的言語の関係について面白いことを言っています。
勅語自体は旧字でゴツいのですが、コンピュータ上の表示の関係で新字を混ぜて少しだけ書いてみると、(表示できない字のある機種の方は申し訳ありません)
「客歳清國ノ變亂アルニ當リ汝等戮力勵精機ニ應シテ動キ以テ其ノ任務ヲ盡シ嘗テ戒飭セシ旨ニ遵ヒ軍紀ヲ重シ風紀ヲ肅ニシ歐米列國ノ軍ト共同シテ……」
というような文となります。
この文体を夏石は次のように分析しています。


一方的に高揚するリズム。日蓮の唱え始めた題目「南無妙法蓮華経」型の上昇的攻撃的リズム。
それとはうらはらの意味的な空洞。擬似的な漢文である読み下し文が、欧米と共同しての清朝に対する軍事介入を称揚している。その自らの根幹否定を意識しない空転の基本構造。

漢文の書き下しがハイテンションのアッパーなリズムを生み出す一方で、意味的には「空洞」であるということ、これが「日常言語の脈絡を逸脱した」呪的言語もしくは詩的言語のルーツであると夏石は語っています。
呪文とはリズミカルで意味不明な言葉によって形成される、というのは真理です。
「天空の城ラピュタ」で滅びの呪文「バルス」を一斉にツイートする人々も、その全く意味のない「強度」のみの言葉に魅せられている面が否定できないと思います。


夏石はポストモダンという時代認識よりももっと大きな20世紀という視点でこの問題を考えているのですが、柄谷の説で補うならば、それは江戸時代の19世紀から続いている問題だとも言えるのです。
この問題を夏石は一言でまとめてみせます。


その問題とは何か。ずばり言おう。近代日本における価値観の中心の不在。父性の空洞化もしくは不在。

僕自身はこれを〈内実に対するニヒリズム〉と表現しています。
前述したように天皇制の本質には女性原理があるため、父性の不在というのは19世紀以後に限らず日本の古代からの歴史的問題とも言えると僕は思っています。
ポストモダンとはこのような日本の空洞化に開き直った態度であり、意味の不在、内実の不在、価値の平板化の肯定となって現れました。


そもそも天皇という語のルーツは中国にあります。
天皇という存在にはそもそも内実がなく、中身が空洞であることが本質だと言ってもいいのです。
神社の御神体が鏡であったりすることの意味を考えてみれば、中心が空洞であることとナルシシズムとの関係も理解できるのではないでしょうか。
『言葉と悲劇』にはこのことを語った部分もあります。


ところで、天皇は、歴史的には大陸から来た征服者であり、また天皇という観念は、中国から来たものです。つまり、日本的ではありません。

柄谷は天皇の観念が日本的ではない、と言うのですが、もともと日本的でないものが日本の中心にあるのですから、この国に構築性など根付くわけがないのです。
その意味でポストモダンの脱構築は、そもそも日本に存在しないものを叩くことでしかなく、そこには何の軋轢も葛藤もないのです。
軋轢も葛藤もないがために見かけは軽やかでスマートですが中身は凡庸の極致だったり、ただのナルシシズムの塊だったりするのです。
(村上春樹がドストエフスキーに倣って「父殺し」を描いても、日本においては何の文学的意味もないワナビー文豪のシニカルな物語にしかならないのは当然です。
むしろ日本では「母殺し」の小説を書いた方が文学的意味があると僕は思います)


夏石はこのような父性の不在と格闘した詩人たちを紹介しているのですが、ポストモダンが蔓延して以降は、そんな詩人はほとんど姿を消してしまいました。
代わりにデカい顔をしているのが、文学・思想的信念を全く持つこともなく、マーケティング事情にすり寄って出版社の要求に配慮した文章を書く「売文屋」ばかりです。
俳句界ではその代表が関悦史という人物ですが、夏石はブログ「Ban’ya」で関悦史や長谷川櫂とともに日本のメディアをこき下ろしていたりします。


関悦史という才能のかけらもないアホが、長谷川櫂について書いてるゴミ散文もあった。こいつ、長谷川櫂と同様、ゾンビ。ご愁傷様。長谷川も関も、日本の糞メディアしか視野にないらしい。日本の糞メディアを信じて、放射能を外部からも内部からも浴びて、早死にして地獄堕ちして、地獄で学習してください。日本の糞メディアって、世界的視野ではゴミ以下だということが理解できない長谷川と関。(Ban’ya 2013年2月10日)

なかなか激しい物言いですが、日本の「内向き」メディアに媚びている人物が俳句や詩から何を失わせていくか、夏石にはよくわかっているのだと思います。
日本のポストモダン期とは後世の人々から国家全体の衰退期の始まりと認識されることになるでしょう。
前述したとおり、その責任の多くはマスメディア、特に新聞・出版などの活字メディアにあると僕は思っています。


日本で近代的構築は可能か

この不毛なポストモダニズム、ひいていえば日本の病理というものの中で、心ある人はどうしていけば良いのでしょうか。
柄谷行人は日本でポストモダンであるためには、逆にモダンである必要があるという逆説を唱えています。


われわれが考えるべきことは、むしろ「建築への意志」なのであって、したがってモダンという問題をめぐり、われわれがポストモダンであろうとするならば逆にモダンであるほかないというパラドックスの観点から、もう一度生き直す必要があるのではないか、ということだと僕は最近考えています。

結論はモダンであろうとするしかない、ということです。
僕は自分を近代主義者だと思っていますので、柄谷の結論には異論がありませんが、実際にそれが可能であるのかということについては大いに疑問があります。
なぜなら、大衆は今の日本に満足しているからです。
僕の考察では、日本人は快適な生存と享楽を重視しているだけの人々です。
それ以上の高尚な価値を求めると社会との軋轢や葛藤が生まれるため、だいたいの人はそこから逃げ出して、なんとなくゆるりと生きていくことを選びます。
文学や思想に携わる人ですら、同質性を重んじる日本では大衆とほとんど変わらないメンタリティの人ばかりがチヤホヤされています。
(仲正昌樹は自分がなぜ低レベルと言われるのか理解できなかったようですが、大衆に媚びて売文をしているだけの人間だからそう言われたのです)
言葉に「意味がない」ことを取り立てて言いたがる人間などは、自分に「日本的自然」に抵抗するだけの思考力がないことを表明しているだけだと自覚してほしいものです。
念のため、柄谷の言葉を引用しておきましょう。


言葉に関してでも、そうです。西洋であれば、構成的であるということは、いわゆる意味によって言葉を支配しているというようなことになりますが、日本の文学において意味が支配しているということは、ほとんどありません。まず言葉がある。基本的にいって、言葉遊びですね。シニフィアンのつながり、自然にできあがっていくようなつながり、その中でなされているわけで、けっして意味の支配というものが貫かれたことはないと思います。

ポストモダン思想は何か新しいことを主張している顔をしてはいますが、実際は昔からあるものを繰り返すだけの保守思想であるということです。
当然、権力に従順な人々の集まりですし、権力の意向によって自らの発言をコロコロと変えていったとしても、断片性とか多方向性とか言えばたちどころに免罪されることになるのです。
そんな人たちを後ろで支えているのが出版やマスコミという大衆的権力なのです。
つまり日本のポストモダニズムを批判するには、僕のように出版権力やマスコミ(そして大衆)と戦う気持ちがないとやれないわけです。


ポストモダンの売文屋が僕の批判から逃げるときに、大衆的権力(つまりは数の論理)を背景にして言論弾圧をしたり罵詈雑言を浴びせてくるのは、
彼らの権力の源泉が真実や学問的真理にあるわけではなく、単なる大衆性に支えられたものでしかないことの証明と言えるでしょう。
このような態度は他者や〈外部〉不在の状況でしか通用しないのですから、彼らが日本型ポストモダンを延命させたがるのも当然ではないでしょうか。
彼らは論理で僕に挑むことすらできません。
できるわけがないのです。
今回検証したように日本のポストモダニズムなど、論理的にはとっくの昔にインチキであることが証明されているからです。
人々はいつまで出版社のマーケティングの餌としての人生を続けていくつもりなのでしょう。
まあ、死ぬまでやってろ、と僕は思っています。


3 Comment

クロさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
クロさん、コメント感謝します。

千葉雅也はナルシストなので自分では天才だと思ってるんでしょう(笑)
頭が悪くても学校のお勉強なんかできるということですよ。

最近は芸能人までクイズ番組などで学歴がどうとか価値付けしています。
マスコミの学歴信仰のために予備校講師が知識人ヅラしている始末です。
少し脱線しますが、僕は林修などを使いたがるテレビ(特にテレビ朝日)には内輪の病理を感じます。
テレビが林を好む理由が僕には想像できるのです。
それは彼が予備校講師であるということ以上に、衛星を用いた「サテライト授業」をしている講師であることが影響していると思います。
つまり、林はテレビ慣れしているのです。
学校教師は対面的な場での授業が基本ですから、メディア授業は専門でないわけですが、東進ゼミナールの一部講師にとってはテレビ授業が専門であったわけです。

何が言いたいかというと、
今のマスコミはその人に能力があるから出演してもらうのではなく、近くにいる同質的な人だから、頼みやすいから、などの「使いやすさ」で出演者を選んでいるということです。
広告屋の息子である千葉雅也もマスコミ関係に近い環境で育ったため、マスコミにとっては同質性の強い存在として「使いやすさ」があるのだと僕は思っています。

こういう世の中になると受け手のリテラシーが重要になります。
旧メディアの権威を信じている世代はまだまだ支持するでしょうが、ネットに親しんでいる世代には「メディアにとって便利」でも自分にとって面白くもないものに価値を認めません。
それがいいことだとは思いませんが、旧メディアの権威はいずれ通用しなくなるでしょう。
そのとき旧メディアは単にネットに媚びていくだけに終わる気がしています。

長く書きましたが、ポピュリズムも問題なのですが、それ以上に旧メディアの癒着が問題だということです。
出版社は「数打ちゃ当たる」になっているため、編集者の仕事が増えて、人材を発掘したり育てたりする余裕がなく、結果「使いやすさ」で無能な人間をありがたがることになっているように思います。
戦前とは知的エリートの矜持がまったく違います。
むしろ立派な学者はテレビなんて出ませんでしたよ。

無題

お邪魔します。
前回の記事に、voice誌に千葉雅也が現れたとコメントがありましたが、彼は新潮誌にも寄稿していました。

ところで、ツイッターに、何年か前の、ytbさんという哲学者(論理学)にひれ伏す千葉の姿が残っていました。勉強が出来すぎてどうのと彼は言っていたはずなのですが…。

これも南井さんが指摘するように、ポピュリズム(幻想)で成り立っているんでしょうか。
昨今の軽薄化した新書・単行本群やオンラインサロンブームとも関連がありそうです。
最近、戦前生まれの知識人の書いた書物を集めているのですが、比べて今の日本の知性は地に落ちましたね…(そう思わされているだけかもしれませんが…)。

花田心作さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
心作さん、コメントありがとうございます。

賄賂は互酬性に属するもので古い文化と言えるでしょうね。
それも大いに問題なのですが、僕はどちらかといえば市場交換による癒着の方を問題にしています。
俳句結社は残ってもらっても構いませんが、情熱もセンスも感じない商業俳句誌は潰れたらいいと思います。

マーケティングや出版社と戦う姿勢をあらわにしている文筆家は僕くらいでしょうね。
たいした俳句も作っていないのに堕落出版社の雑誌に駄文を書くことで、いっぱしの俳人ぶっている連中はもっと批判されてもいいと思います。
他の俳人は本当は自分も雑誌に載りたいから、僕のように彼らを批判できないのだろうと思っています。

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