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柄谷行人のポストモダン批判【その1】

利権を超えられなかった柄谷のポストモダン批判

僕はAmazonレビューで〈フランス現代思想〉を俗流化した日本のポストモダン受容を批判してきました。
それに対し、千葉雅也や石田英敬、清水高志などの〈フランス現代思想〉系の学者などからツイッターで悪口を言われたのですが、
最近柄谷行人の著書を読み直してみたところ、僕が批判したような内容はすでに90年代に柄谷行人がすでに指摘していたことと重なっていたことがわかりました。
千葉雅也は僕を「ポストモダン嫌い」として貶めることに必死でしたが、さて、彼は同じことを柄谷行人にも言えるのでしょうか。


僕が権威を後ろ盾にせずに自説を展開していたのをいいことに、自らの不勉強を棚に上げて悪口を言う人の頭の悪さには同情を禁じ得ませんが、
せっかくなので僕と柄谷の見解が近いことをここで示しておこうと思います。
(もちろん、僕と柄谷の見解には異なる部分もあります)
しかし、柄谷のポストモダン批判は驚くほどに現代思想界隈では共有されていないのですね。
これは柄谷自身がポストモダン思想の導入に関係したため、あとになってそれを批判する作業に勢いがなかったということもあるとは思いますが、
当の柄谷自身にポストモダン批判に対する熱意が足りなかったことが最大の要因だと思います。
その後に20年以上もポストモダン思想が隆盛をきわめたこと、そして現在に同様の批判をした僕がどのような立場にあるかを考えれば、当時の柄谷の批判に耳を傾ける人はそれほどいなかったことが想像できます。
実際、柄谷のポストモダン批判を受け継いだ人は皆無だと言って良いのではないでしょうか。


僕は〈フランス現代思想〉に代表されるポストモダン思想が日本のナショナリズムを強める結果になったと思っています。
ざっくり説明すれば、ポストモダン思想は西洋近代を批判するものです。
つまり、西洋にとってみれば「自己反省」を意味することになるはずなのですが、
そもそもの〈フランス現代思想〉にも「反省」の姿勢があったかどうかというと大いに疑問が残ります。
というのも、結局はただのパラダイムシフトでしかなかったと思えるからです。


〈フランス現代思想〉が標的としたのはヘーゲルを中心としたドイツ観念論です。
マクロ的に見ればユダヤ的発想によるギリシア由来の形而上学批判という解釈も成り立ちます。
「言語論的転回」などと語られたポストモダン思想ですが、ギリシアからユダヤへというパラダイムシフトがそこにはあるわけです。
〈フランス現代思想〉がユダヤ人であるスピノザの強い影響下にあることは言うまでもないことですし、
本格的な形而上学批判を掲げながらナチスへの協力が取り沙汰されるハイデガーは、フランス人やユダヤ人にとって「宿敵」にあたるわけですが、
ユダヤ人のデリダがハイデガーを換骨奪胎することで、うまい具合に敵を取り込むことに成功しています。
僕のことを単なる「ポストモダン嫌い」と言う人がいるくらいですから、こう書くと反ユダヤだと言う人がいるかもしれませんが、別に僕はユダヤ思想が悪いと言いたいわけではありません。
〈フランス現代思想〉には明確な「色」があると言いたいのです。
特に日本の出版界は、雑誌「現代思想」の青土社やドゥルーズ利権の河出書房新社を中心に、現代思想といえば〈フランス現代思想〉という短絡的な発想を長らく続けてきました。
柄谷行人以降の日本の現代思想界隈では、出版社が一般市場向けのスターとして浅田彰、東浩紀、國分功一郎、千葉雅也を売り出していますが、彼らは例外なく〈フランス現代思想〉の関係者です。
彼らが自分の依拠する思想を批判できるはずもなく、一般市場において柄谷行人のあとに日本の〈フランス現代思想〉やポストモダン受容を批判する人が出てこないのも当然と言えるでしょう。
〈フランス現代思想〉系の研究者は例外なく「全体」への志向性を批判しますが、この20年の日本の現代思想市場が〈フランス現代思想〉ファッショというべき状況であったことを批判した人は見たことがありません。
こういう功利的な状況に身を投じて出版利権と癒着した人物を「思想家」として扱うことは、日本の現代思想がいかに思想的〈内実〉を持っていないただのファッションであるかを露呈させるだけでなく、ただの思考停止人間に思想をやっている「気分」ばかりを供給するという点で百害あって一利なしと言えると思います。


このような出版市場における〈フランス現代思想〉ファッショが、商売上出版界と敵対できない柄谷からポストモダン批判の勢いを削いだことは想像に難くありません。
だからこそ僕は出版界と関わらないようにしていますし、それこそが消費市場と歩調を合わせたポストモダン思想に対する批判を展開する条件でもあると思っています。


日本のポストモダン思想が出版市場によって後押しされたものであるため、ポストモダン思想家を気取っている売文屋は出版権力の外部にいる「他者」を無意識下で恐れています。
そのため、僕のようにネット上で批判を展開するだけの微力な人間にまで目くじらを立てて暴言を浴びせてきます。
このような現象は、その売文屋個人の人間的資質が未熟であることにも起因するのですが、それだけではありません。
西洋近代という「権威」を批判するポストモダン的権力は自分を弱者的・被害者的立場に架構する必要があります。
大学教員は実際には社会的弱者ではないのですから、弱者の立場にあるのは「演技」でしかないのですが、彼らは自らのポストモダン的権威の基盤を自明視する「錯誤」に陥ってしまっています。
そんな自分が弱者であるという「錯誤」が、より弱者的立場にある者に対して平気で権威的で横暴な態度をとる原因になっているのだと思います。
(要するに、自己都合で描いた自画像に酔って、現実が見えていないということです)
もちろん、権力に依存している人間などに、出版利権と対決している僕のような人間を、見かけが単なるネット民同然だからといって貶めてバカにする資格などあるはずがありません。


日本のポストモダンはポストモダンではない

話を戻せば、ポストモダン思想の眼目は西洋近代の批判にありました。
なぜ西洋近代を反省しなければならないかといえば、その末路が世界戦争と冷戦(イデオロギー対立)であったからです。
そのことを考えれば、日本でポストモダン思想を「正しく」受容したなら、近代国家日本の戦争への道のりを批判もしくは反省するべき思想でなくてはならないはずです。
しかし、むしろポストモダン思想は日本近代の反省であった戦後思想に対するオルタナティヴとして登場しました。
簡単にいえば、バブル景気による「ジャパン アズ ナンバーワン」に見られる経済大国気分を背景に、西洋を見下すような発想と手を結んで語られたのがポストモダン思想だったのです。
ポストモダン思想では西洋近代が批判される代わりに日本古来の価値観がすばらしいかのように語られているものが目立ちました。


このようなポストモダン受容が日本人のナルシシズムを高めないはずがありません。
ポストモダン思想に基づいた論考のほとんどは西洋近代を批判し、日本が自然と共生してきたかのように書いていましたが、そんなものは嘘っぱちでしかありません。
本家ヨーロッパより後進国の開発の方が内発性がない分エクストリームであり、西洋人が渋谷の虚構性に魅せられてしまうように、日本の方がより近代的な外観をしていることはすぐに確認できます。
日本人は近代に自分たちが捨ててしまったものを、今でも残っているかのような幻想とともに語ってナルシシズムに浸ったのです。
このようなありもしない「虚構の伝統」(江戸しぐさ!)によってナルシシズムを高めるあり方が、いわゆる保守を自称する人たちのやり方と酷似していることは偶然ではありません。


本人はごまかしたいでしょうが、東浩紀の登場はこのような文脈の中で理解し直される必要があるでしょう。
東は著書『動物化するポストモダン』で、コジェーヴの「勘違い」ともいえる日本人のスノビズムをそのまま「動物化」として日本のアニメオタクに当てはめ、日本のオタクは世界先進的だという議論を展開しました。
全くくだらない本でしたが、驚いたことに当時の日本ではこの本がすぐれた著作であるかのように受け取られたのです。
(まだそう思っている頭の鈍い人が多くいるのかもしれませんが)
思想的な意匠を剥ぎ取ってしまえば、結局は「日本のオタクは先進的だ」という閉鎖的虚構に耽溺する日本人(=オタク)マンセーでしかありません。


閉鎖的虚構に耽溺する精神が歴史修正主義へと転化すれば、ネトウヨ的なものと非常に近似します。
アニメの消費へと向かわずに日本大国幻想の消費へと向かった年配世代がネトウヨ的なものの元祖です。
当然一部はアニメオタクへとフィードバックしていったため、現在は年配者に限らないわけですが、年配者はネットよりも出版メディアの方が馴染みやすいため、出版業界は日本大国幻想の消費本を大量に出版する卑しい金儲けをするようになってしまいました。
これこそが日本のポストモダン思想の成れの果てです。
〈フランス現代思想〉研究者は日本における〈フランス現代思想〉受容の現実を見ないで、自分が普遍思想の伝播者のような顔をするべきではありませんし、僕はそんなことを許す気はありません。
(浅田彰や市田良彦、國分功一郎など、今になってスピノザ主義に純化すればごまかせると思っているセコい人たちに僕は言っているのですよ)

そろそろ柄谷行人に触れないといけないと思いますが、柄谷はずいぶん前から日本のポストモダン受容がナショナリズムに結びついていることを指摘しています。
柄谷は「批評とポスト・モダン」という論考で、日本のポストモダン思想が戦時中の小林秀雄や西田幾多郎などの「近代の超克」ときわめて近いだけでなく、江戸時代の本居宣長のあり方と深い関係にあると述べて、それが日本の思想界で時折繰り返される日本的な権力形態の現れであることを解き明かしています。
つまり、日本のポストモダン思想はポストモダン的ではなく伝統的だということです。

日本のポスト・モダニズムは、西洋かぶれの外見をもちながら、この種のナショナリズムを含意している。それはありとあらゆるものを外から導入しながら、「外部」をもたない閉じられた言説体系である。(中略)現在の日本の言説空間は「外部」をもたない。いいかえれば、《批評》が不在である。


このように柄谷は日本のポストモダン思想がナショナリズムを含み持っていることを指摘しているのです。
このような指摘も省みずにドゥルーズと西田幾多郎を繋げて何か思想を語っているように思っている檜垣立哉や清水高志などの視野の狭さが窺えるというものではないでしょうか。
西田でドゥルーズが語れてしまうのは西田がすばらしい思想家であること以上に、日本の病というものであるのです。
そのことがわからない能天気には、さぞ思想を語ることが楽しい仕事であることでしょう。
こういう視点に批評性がないことは言うまでもありませんし、彼ら自身のナルシシズムを満たすこと以外の意味はありません。


柄谷は〈フランス現代思想〉の内容にあまり立ち入らないのですが、〈フランス現代思想〉のヘーゲル的理性批判と本居宣長の「漢意」(朱子学的な理)批判が重なることを指摘しています。
柄谷の洞察が深いと感じるのは、理に対して「自然=生成」を持ち出す宣長が、制度や構築を拒絶するように見えたとしても、それ自体が日本独特の制度であり構築である、としているところです。
このような体系性や構築性を拒否する日本独特の生成的構築のことを、柄谷は「無作為の権力」と呼んでいます。
これは実質上、浅田彰の『構造と力』を批判しているのと同じことです。

日本の閉じられた言説体系のなかでは、どんな多様な錯乱や無方向的な生成があろうと、根底でそれらは安定的な均衡に到達する。この「自然」がおびやかされないかぎりにおいて、日本の言説体系(空間)は、外部に対して無制限に開かれている。


ここで柄谷が述べている「多様な錯乱や無方向的な生成」は、『構造と力』で浅田彰が依拠していたポストモダンの姿そのものです。
(浅田はポストモダンを「多数多様な散乱」として図化しています)
柄谷の言い方がわかりにくいので僕が翻訳しますが、日本のポストモダン的な多方向的な生成とは、閉鎖性の中でだけ「自然」として機能するものであり、ある安定的(体制的)な基底を持っているということです。
僕自身は、そのような「自然」を保証するものが「局所的・時限的な場」だと考えています。
そこでは場所や時間を限定するかぎりにおいて自然=生成が許されるのですが、その外部は安定的な体制によって均衡が保たれることが「前提」となっているのです。
例えていえば、米ソ冷戦構造という外部の安定的均衡が、極東の島国に局地的な自然=生成としての消費社会の爛熟を生み出したようなものです。


日本のポストモダンとは局所性・時限性の特権化でしかない

時事問題にからめてこのことを説明してみましょう。
最近フランスでは燃料税をめぐってパリで大規模なデモが発生しています。
ドゥルーズ=ガタリが欲動というエネルギーによって体制秩序を揺るがすことができると考えることができたのは、フランスがこのようなデモ大国だからだということは忘れてはいけません。
では、日本でこのようなことが起こりうるでしょうか?
僕は起こらないと思います。
日本でフランスのイエローベスト運動のような大衆の欲動を見つけようとすると、渋谷のハロウィン騒動のようなものになってしまいます。


ハロウィンのときに渋谷でどうしてあのような乱痴気騒ぎが起こってしまったのでしょうか。
それは、「あの時あの場所」でならばハメを外しても許される、という認識が来訪者にある程度共有されていたからだと思います。
このように日本では、時限的・局所的な「無礼講」が適度にガス抜きの役割を果たして、体制の維持を支えていく文化構造を持っています。
日本ではドゥルーズ=ガタリ的な欲動が現実化したとしても、それが体制的な枠組みの隙間、つまり権力の「お目こぼし」が約束されるような限られた所でその時だけ行われるだけに終わってしまうのです。


局所性・時限性の場として最も身近にあるのが、インターネットということになるのかもしれません。
現実と現実の間にある隙間こそがネットであるからです。
ネットでは建前と建前の間にある本音を平気で言ってもいいと思っている頭の悪い学者がいたりしますが、このような発想は日本的ポストモダンの典型と言えますし、こういう人ほど体制的な権力に従順であると相場が決まっています。
日本人の欲動には、その点でどこか「お約束」じみたところがあります。
僕の考えでは、日本的ポストモダンの正体とはこのような局所性・時限性の特権化でしかありません。
(秋葉原とか乃木坂という局所の地名を冠したアイドルが、国民的アイドルという特権的地位へと昇りつめる現象こそが日本的ポストモダンの欲望だということです)
浅田彰の言う多様な散乱には程遠い、一点集中志向がそこにはあります。
だからこそ、日本のポストモダンにおいては現代思想がフランスという局所へと収斂してしまうのです。
もちろん、これは極東という局所に存在する島々の人々が、広い視野で見れば明らかである自らの国力衰退から目を背けるための心理機制であることは言うまでもありません。
これは心理的には一種の「鎖国」であると言っても良いでしょう。
『言葉と悲劇』という講演集で、柄谷行人は日本のポストモダン思想が江戸時代の復活であると語っています。

1980年代に日本に顕著にあらわれたのは、いわゆる消費文化の異様な昂進です。それは、現代の文脈ではポストモダニズムと呼ばれるでしょうが、日本史の文脈では、いわば「文化文政」的なものの復活だといえます。


現代の日本人が〈フランス現代思想〉由来の発想であると思っていることの多くは、実は江戸時代にルーツがあると柄谷は言います。
柄谷は言葉遊びやコラージュ、主体の不在などを「文化文政」的なものとして挙げているのですが、現代においてこのような価値観を西洋由来のポストモダン思想で説明する「勘違い」が横行しています。
僕自身はこれが日本においては内輪的文化にしかならないとは感じていましたが、江戸時代と似た現象だとは気づきませんでした。
次回の【その2】ではポストモダンと江戸時代の関係について、柄谷がどう語っているのか『言葉と悲劇』を中心テクストとして見ていきたいと思っています。


2 Comment

なんとさんのコメントへの返答

どうも、はじめまして南井三鷹です。
なんとさん(なのかな?)のコメントに感謝します。

Voiceの2019年1月号に千葉雅也と三浦瑠麗の対談がありますね。
まるっきり知りませんでした。
(抜粋のWEB記事がhttps://shuchi.php.co.jp/voice/detail/5829にありました)

内容はLGBTに対する偏見に反対するものなので、当事者でもある千葉は媒体がどっち向きの雑誌だろうと露出に意義があると思ったのでしょうかね。
まあ、オポチュニストというよりポストモダン的なノンポリ(政治逃避)の姿勢のつもりなんでしょうが、
それが政治的に利用されていることに気づかない程度の知性しかないことが問題なんですよね。
千葉雅也(や東浩紀)という存在の背景にあるのは単なるポピュリズムであって、哲学・思想性は皆無です。
思想に本当に興味ある人はこんな人を相手にしていないと思います。

僕は日本のポストモダンをナショナリズムとの関係で書きましたが、ポストモダンは単なるポピュリズムとなったあとに、ナショナリズムへと結びついたと考えた方が正確なのかもしれません。
しかし、千葉は柄谷行人もちゃんと読んだことがないんだろうな。

千葉x三浦

千葉雅也、なんとVoice誌で三浦瑠麗と対談していますね。
オポチュニストの本領発揮といったところでしょうか。

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