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現実逃避に俳句を利用するペテンの危険性

岐路に立つ俳句商業誌

俳句人口のうちのどれほどがシニア層になるのかわかりませんが、
世代ごとに俳句人口比率をわざわざ出さなくても、40代が「若手」と呼ばれる世界が高齢層に支えられていることは明白です。
つまり俳句界で商売をするには高齢層への目配りが必要になるのは今さら言うまでもないことです。
もっとマクロ的な話をすれば、テレビ番組の構成を見るまでもなく、日本全体においてマーケティングの関心が主に購買力のある高齢層になっています。
加えて出版という旧メディアに親しんでいるのは高齢層です。
このような事実を考えれば、俳句で商売を考えた場合、どうしたって高齢者を相手にしなければならないことになります。
出版市場に存在する俳句商業誌のほとんどが高齢層の購買によって支えられているのは間違いのない事実でしょう。


しかし、高齢の人は若い人より安定的な顧客とは言えません。
生物としての必然からより逃れ難いところにいるからです。
30年もすれば僕自身が立派な後期高齢者なのですから、僕より上の世代の方がどれだけ「現役」でいられるかは怪しいと言わざるをえません。
そうなると商売の安定化のためには若い顧客がある程度必要になるのですが、そこに一つ大きな問題が存在するのです。
高齢層と若い層とでは俳句に求めているものがかけ離れているということです。


ものすごく簡単に二分化してしまうと、
形式を固定化して日常実感や目に映った風景を俳句にすることが俳句だと考える高齢層(プレバト含む)と、
実感より詩的表現をめざすその裏で自己承認を求めて「作家」であろうとする若い層という感じでしょうか。
実感共有派と詩的ファッション派というふうにとりあえずはくくってみますが、
念のため僕はどっちも文学とは言いにくいと思っていることを表明しておきます。
ただ、どちらかというと詩的ファッション派には自らが高尚であると錯覚して偉そうにしている不愉快な俳人が多いとは思っています。


商業俳句誌の立場に立てば、現状のメイン購買層である高齢層を無視する紙面づくりはできません。
かといって、未来の読者にそっぽを向かれるのも困るので、詩的ファッション派の若い層にも目配りする必要があります。
その結果、「注目の若手」特集のようなものを企画して、ウケがいい人を適当に起用するということに落ち着きます。
「ウケがいい人」が誰に対してウケがいいのか、という問題もあるのですが、とりあえずそういうことをやっておけば、編集者としてはやることをやっている気分になれるわけです。
僕がここ数年の俳句商業誌を見たかぎりでは、このような発想を越えた内容があったようには思いません。


分裂した価値観の折衷がペテン師をのさばらせる

俳句界に世代間の価値の断絶があるという前提で考えていくと、
商業俳句誌の生き残り策によって担ぎ出された詩的ファッション派の若手俳人の書くものが、おのずと断絶した両者を折衷した「日和見」な内容にならざるをえなくなります。
商業俳句誌の読者の多くは依然として実感共有派の高齢層でしかないので、詩的ファッション派として担がれていても、実際に依頼される原稿には詩的な内容など求められていないからです。


自分が依拠したいものと自分に求められているものが違う場合、どうするべきなのでしょうか?
もしあなたが真の表現者なら、自分の表現の道に突き進むでしょう。
商業俳句誌が何を求めようが、雑誌の存在があなたの作品づくり自体を助けるわけではありません。
あなたの優れた作品を雑誌の方が頼んできたところで、提供してあげればいいのです。


しかし、あなたの創作動機がそもそも「自己承認」にあったなら、乏しい原稿料とメディアに露出する名声のために、雑誌の求めに応じることを選ぶでしょう。
周囲から自分が必要とされている気分になるし、立派な活動をしているようにも錯覚できるでしょうが、
真の表現者たちの目にはあなたの真の姿がハッキリと映し出されることでしょう。
もはや誰もあなたを表現者とは認めず、ただの売文屋でしかないと理解することでしょう。


商業俳句誌には売文屋になることを選んだ若手俳人がこれから増えていくことになると思います。
彼らの比率が一定以上に増えていけば、彼らの天下がやってきて、めでたしめでたしとなるのでしょうか。
そんなことはありません。
悪貨が良貨を駆逐するだけのことです。
信念のカケラもない売文屋が、詩や文学のことをしたり顔で語るようになるだけのことです。
彼らに中身はないのですから、この俳句には詩があるとか「イデアのようなもの」があるとか口先だけで言うようになるのがオチです。


さて、具体的な話をした方がわかりやすいと思いますので、
僕はここで商業俳句誌に出没する関悦史という売文屋が「俳句αあるふぁ」(2019年冬号)に書いた文章をサンプルとして取り上げようと思います。
先に言っておきたいのですが、僕がここで言いたいことは、関のような売文屋がくだらない文章を書くのは、関悦史という人物個人の資質を越えて、俳句商業誌という存在にまつわる現在的問題であるということです。
必然性もないのに新聞の投稿欄の選者になりたがる輩も同様です。
売文屋自体は出版社や新聞社がなくなれば自然に淘汰される存在でしかありません。


季語をしっかり学んでこなかった人に季語特集を執筆させる雑誌

僕自身は俳人ではないので、「俳句αあるふぁ」という雑誌がどのような位置にあるものかよくわかりませんが、毎日新聞出版社とあるので毎日新聞の子会社なのでしょう。
取り上げる2019年冬号にはシリーズ「季語を考える」というものがあるのですが、ここに載っている関悦史の文章がひどすぎて、こういう文章を読みたい人はいったい誰なのかということを考えざるをえませんでした。
僕が関の作品や文章のいいかげんさを指摘するのは何度目になるかわからないので、
この人の書くものがひどいことは労をかけて立証するまでもないことに思えるのですが、
最近僕が気になっているのは、このような売文屋の中身のない文章を誰が求めているのか、ということです。


取り上げるのも気が進まないのですが、内容に触れずに悪く言うのも申し訳ないので、一応内容に触れておきます。
関の文章は「無季から作りはじめて」というものなのですが、最初の方は「自分語り」に割かれています。
自分は季題趣味から縁遠い俳人のものばかり読んでいたので、季節の意識が薄かった、と語り、
病気に苦しんだ「絶望的な現実」を表現するのに「季語は端的に邪魔であった」とか言い出します。
「絶望的な現実」を表現したかったり、季語が邪魔だったりするなら、どうしてほかでもなく俳句を選んだのか、僕にはそこがすんなりと理解できませんでした。
こういう必然性のない個人事情を書かれて、読む人はおもしろいものなのでしょうか、僕にはさっぱりわかりません。


そのあとに関の季語考察がちょっと書かれます。
連句において続く人への気遣いから季節の話をしたのが季語のはじまりであって、手紙の時候の挨拶と同じである、とするのです。
そして関は「これは自然に興味があるからというよりは、コミュニケーションを取らなければならない相手への気づかいである」と結論づけます。
このような論では、発句が俳句として独立した時点で季語は必要なくなるはずなのですが、いちいち疑問を呈するときりがないので続けます。


要するに、時候の挨拶や季語というものは、自然そのものへの関心よりも、まず世間的な対人関係のために介在する。無季俳句から作りはじめた私は、いわば一人で神に直面していたのであり、人のことに関心が向く余地はなかった。

こんなふうに関は俳句を作る行為を「一人で神に直面していた」などと自分で書いてしまいます。
いったいどんな神に直面したのか、書いてくれないのでよくわからないのですが、
実は関には恥ずかしげもなくこんな誇大妄想的な自画像を描かないといけない理由があるのです。
詩的ファッション派の人はファッションで詩人ぶっているだけなので、実際には詩的な〈内実〉はありません。
作品の力で詩人と認定されることがないため、自分自身か仲間によって「詩人」扱いしてもらうしかありません。
そこで自らを詩人であるように「見える」ように自作自演するのに一生懸命なのです。
彼の外見が頭を過らなければ、関悦史が明らかにナルシストでしかないことがわかる文章だと思います。


僕は文学とは死者を含めた人間とのコミュニケーションだと思っています。
そもそも言語というものは人間が作ったものであり、過去の人間たちの遺産ともいうべきものです。
言語は僕たちが作ったものではないので、その意味では過去の人たちの文化に依存しているわけです。
そのことに思い至ることができれば、言語を使って何かを書くという行為を、「一人で神に直面」などと表現できるはずがないのです。
このような頭が悪いくせに思い上がりだけは甚だしい人間に、原稿料を払ってまで、なぜ商業俳句誌は世迷言を書かせようとするのでしょう。
むしろ商業俳句誌がこのような「勘違いモンスター」を育てているとしか思えません。


このような「勘違いモンスター」の書く季語論を多くの俳人は批判すべきではないでしょうか。
僕は俳句を作りませんが、季語というものは自然に対する興味のない人が使いこなせるものとは思いません。
自分が季語に興味がないからって、言い訳をするどころか季語の価値をおとしめる関の独りよがりの暴論が、よりによって商業俳句誌に掲載されているのです。
季語が「世間的な対人関係のために存在する」とすることは、俳句史や多くの俳人の句への侮辱にも思えるのですが、こういう人間をありがたがる俳人という種族はよっぽど卑屈な集団なのでしょう。
関の前の文章で神野紗希が「季語はルールじゃない」という題名以上の中身のない駄文を書いていますが、
この関の解釈では季語は世間的ルールだと言っているのと同じです。
神野に信念があるならぜひ関の書いたものを批判をしてほしいと思います。


僕が思うことは、しっかりと季語(もしくは俳句)の勉強をしてこなかった人に季語についての文などを書かせる商業俳句誌がそもそも問題だということです。
俳諧連歌における季語が近代以後の俳句でもなぜ生き残ったのか、そのことを考えることもできず、己の創作事情だけで季語を意味付ける浅はかな俳人が活躍する商業誌のレベルはネット言説以下だと言えるでしょう。
長谷川櫂はネットには批評がない、とのたまっていましたが、今やネットから出てきたモンスターが商業俳句誌に引っ張りだこなのですから、この状況をネットのせいにするのは現実逃避というものです。
僕は関の文を読んで「俳句αあるふぁ」の編集者は俳句をナメているのだとわかりました。
編集者が俳句をナメているから、俳句や季語をナメている人に原稿を依頼したくなるのです。
だいたい、長谷川櫂と宮坂静生が関悦史の季語の使い方のまずさを批判した対談を載せていたのは、ほかならぬ「俳句αあるふぁ」の前号だったはずです。
この雑誌の編集者の姿勢こそがいいかげんなのです。


商業誌に媚びる売文屋の日和見論考の正体

すでに確認したように、関は本心では季語をたいして学ぶ気もなく、バカにしているのですが、
この文章の後半では表面上で季語の意義を認めるようなことを書いて、メイン読者の高齢層に不興を買わないようにと目配りをしていきます。
詩的な味付けで季語を評価しているかのようなことを書いておけば、実感共有派と詩的ファッション派のどちらにもいい顔ができる、そういう「日和見」の態度が窺えます。
そこには商業誌のニーズに応えて仕事だけはもらい続けよう、という計算が透けて見えます。
関の文章には出版社から原稿依頼をもらい続けるための売文事情が強く反映しているので、全体的に内容が支離滅裂になっているのですが、
彼の目的は論理の内容にはなく、単に自分の書いたものを雑誌に掲載させることでしかないので、どんなに支離滅裂なことを書こうが雑誌にさえ載ればそれでいいのです。


関は季語を使うようになったことをこのように記しています。


私が主に有季句を作るようになったのは、単に季語を使うことが句の量産に便利だからというのが最大の原因だが、この便利さとは、自分があらかじめ抱えていた世界観(それも否定的な)が句作の都度、ほんの少しずつながら違和を抱えさせられ、句が自己からずれた何かとして成り立っていくという事態によって成り立つものである。

本人は軽い陶酔で書いたのでしょうが、この記述には俳人関悦史の矛盾とペテンの一部始終が現れています。
こういうものが問題にならないことが、いかに関の文章を(僕のように)真剣に読んでいる人がいないかを証明しています。
俳人諸君がまじめに読みもしないものを、商業俳句誌だけがありがたがっているのです。


まずは瑣末なところに触れておきましょう。
季語が「句の量産に便利」という部分は僕にはアイロニーとは受けとれませんでした。
なぜなら、関が量で勝負するかのように句を垂れ流す俳人なのは誰もが知る事実であるからです。
この文章でハッキリしたことは、関悦史が工場のように俳句の「量産」をめざして句作をしているということです。
そして、「量産」目的に利用できるなら、自分が価値を置いていない季語を使うことすら考える人だということです。
ある程度数を生み出すことは重要かもしれませんが、初めから数多く作ることが目的なのは商売目的以外に動機が想像できません。
こんな人が「神と直面していた」とかよく言えたものです。


僕は関が俳句を必要としていることについては疑いませんが、あくまで自分を売り出す「手段」として必要なのだろうと思います。
関周辺の俳人たちは本人を直接知っていると思っているために、逆に彼のことが理解できないのだと思いますが、ペテンというものは騙される人がいるから存在するのです。
一度本人の印象を切り離して文章を「テクストとして」読んでみることをお勧めします。
(都合のいい時だけテクスト主義を持ち出す俳人は最低だと常々僕は思っています)


俳句ペテン師はエスタブリッシュメントの夢を見るか

問題山積の文章なので、まだまだ指摘するべきことがたくさんあるのですが、季語が自分の世界観に対する違和となって自己をずらすという関の主張にも疑問があります。
前述したとおり、そもそも言語というものは自分のものではありません。
社会性を帯びた言語は自分にとって借り物でしかなく、自分の思い通りにはなりえません。
つまり言語表現じたいに自己への違和があるのです。
エクリチュールなどと言うまでもなく、自分の言いたいことがうまい言葉にならない、という体験は誰にでもあると思います。
言語じたいに自己への違和があるのに、どうして関はその役割をことさらに季語にだけ認めようとするのでしょうか。
もし関が本気でこの文章を書いたのなら、関は季語を用いなければ自分の思った通りに表現できていたということになってしまいます。

関は「自分があらかじめ抱えていた世界観」とも書いていますが、僕が引っかかるのは、俳句というものが「世界観」を示すべき表現であるのか、ということです。
俳句であっても数々の作品から俳人の「作品世界」のようなものを受け手が感得することはあると思います。
しかし、それは彼らが「世界観」を表現しようと思って作句していたことにはなりません。
あくまで一句一句を積み重ねた「結果」なのです。


関の「世界観」という言葉に僕がこだわるのは、先に「世界観」を設定して、二次創作的な手段として各作品をスピンオフ的に展開するやり方を、大塚英志が「メディアミックス」と呼んで問題にしているからです。
大塚はこの手法の起源を「ダンジョンズ&ドラゴンズ(D&D)」というテーブルトークRPGに見ています。
実は僕自身がD&Dを含めたTRPGのゲームマスターを長らくやっていたので、経験していない人には伝わりにくいことがよくわかるのですが、
大塚の「メディアミックス」説は慧眼だと思います。


さて、関悦史が自分の創作において「世界観」を持ち出すのは、彼が読んできた永田耕衣や高柳重信や安井浩司の作品とは関係なく、サブカル的──もっといえばオタク的な二次創作作法(メディアミックス)が彼の方法論であることの決定的な証拠だと言えます。
彼の句集を見ればこれが僕のこじつけでないことは(関周辺の理性を失った俳人を除いて)誰もが納得すると思います。
最初に前提としての枠組み(世界観)を設定し(たとえば「日本景」など)、その枠組みの中で二次創作的に俳句を「展開」する設定依存のスタイルを好んでいるからです。
この男は実作以外のやり口も同じです。
「B L」という設定に俳句を押しこめてみたり、「天使的媒介性」とか意味不明な造語(「人類補完計画」みたいな)を作って、何かを語ったフリをしたりするのはいかにもサブカル的手法です。


このようなスタイルは一句屹立では成立しません。
つまり関は本来は俳句でない要素を自己都合で俳句として出しているだけなのです。
俳句よりサブカルを好む精神にとって、季語は「量産に便利」くらいの意味しかないのも当然です。
関の作品に俳句としての必然性がないことは僕よりずっと前に、田中裕明賞の審査で石田郷子が指摘していたことですが、俳人は「作者が俳句と言ったら俳句」という基準しか持っていないのだな、と感じたものです。
本人は好きな俳人のマネをしている気持ちなのかもしれませんが、句集単位でしか俳句とつき合っていないために、はじめから「世界観」があるものと勘違いしたのでしょう。
そのあたりは「句会に出向くことは滅多にない」とこの文章で関が書いていることでもよくわかります。


話を戻しますが、関の創作には俳句としての必然性がないにもかかわらず、思い上がった自己評価をしているため、俳句に対する理解も知識も足りていないのに平気でいます。
そのため、季語が「自分の世界観」に「違和」を与えるなどと、言語一般の機能でしかないこと──もっと言えば、ポストモダン思想の手前勝手な流用でしかないこと──を季語の役割であるかのように書いて得意がってしまうのです。
単に「自分の世界観」に「違和」を導入するだけなら、歌仙を巻けばいいだけの話ですし、
それ以上に俳句の短さが「世界観」の十分な構成をいくらでも邪魔してくれるのではないでしょうか。


余談ですが、関が季語について語っている箇所は安井浩司の季語論をアレンジしたものではないかと僕は疑っています。
参考までに安井浩司の「有季と無季」から該当箇所を引用しておきますので、興味のある方は読み比べてみてください。


季語は、俳句の発生のころ、挨拶の詞として用いられ、はじめから確乎たる約束として置かれたものではなかったが、次第に、反復を通して、俳句の固有の属性までにはぐくまれたものである。季語は、がんらい季感をあらわす言葉であると同時に、さらに、それが、一句のどこかに置かれることによって、表現された世界が、作者個人の手から離れて、普遍性が賦与されるものである。それは、作者の個の機能をこえて、別趣の世界を作りあげる存在として、絶妙の一語であった。

安井が「普遍性」と言ったところを、ポストモダン的な価値観へと置き換えて「違和」と言ってアレンジしたのが関の文章です。
パクリにしても芸がないと思ったのは、関が「秋風」という季語を例として、次のように書いた部分です。


季語にかかわられたとき、その感情は作者個人の自己にとどまるものではなく、外界に無限定にのびひろがったものとなっていくようだ。

この部分は安井浩司の次の箇所を参考にしたとしか僕には思えません。


ある一つの言葉、たとえば「秋の暮」という表現に至るとき、私たちが思い及ぶ以上に、広大無尽の連珠性に対する喚起能力のある言葉だったのではなかろうか。

季語に対してしっかりとした考えを持っていないため、関が季語について書いた箇所は安井の論をほとんどそのまま持ってきただけなのです。
そのあと手垢のついたポストモダン的な差異や他者を持ち出すのはすでに確認したとおりです。
凡庸な人間にありがちなことですが、アレンジしたところに関自身の欲望が雄弁に滲み出てしまうのです。


このような一知半解の文章を書いてまで関が季語についてわかったようなことを言いたがるのは、自画像を美化して描きたい「勘違いモンスター」の病理に思えます。
原稿を依頼されようと、「私は季語に取り立てて興味がないので遠慮します」と言えばいいのです。
そう言わないでペテンを書いてすませようとするのは、俳句をバカにしているか、自らを新派の中心人物にふさわしい大きな存在に見せたいからだと想像できます。
もちろん、僕はこのようなペテン師に原稿を依頼する編集者こそが俳句を侮っていると思っています。


メディアミックスと新興宗教

こう書いてもサブカル的なものを僕が敵視しているだけではないか、と考える久留島元のような人がいるかもしれないので、すでに長くなっていますが説明します。
サブカルの現場に積極的に関わっていた大塚英志が、KADOKAWAのメディアミックスをなぜ批判しているのかといえば、そこにオウム真理教の事件が影を落としているからです。
これについては近いうちに大塚の著書を取り上げて紹介するつもりですが、日本のサブカル志向はオウム真理教の反省なくしては危険すぎるのです。


オウム真理教という新興宗教がアニメなどのサブカル的要素を教義などに取り入れていたことは有名です。
サブカルは社会生活への不満を手っ取り早く解消する「幻想」を基盤としているため、現世の不満を「幻想」で解決しようとする新興宗教と重なる部分があります。
僕はオウム真理教の反省もなくサブカル評論をやっている人は無責任だと思いますし、サブカル的感性にそのような問題があることを知らない人は無能だと考えます。


関悦史には「ハイク真理教」とでも言うべき、サブカル的感性に根ざした怪しい身ぶりがあります。
麻原彰晃ほどのカリスマがないからそう思われていないだけで、サブカルを利用した「現世否定」の身ぶりには無視できない危険性があるのです。
僕は俳句界の人間ではないので、関がどのような仕事をして日々の生活を営んでいるのか知らないのですが、
どうも定職を持って自我をすり減らして生活をしている気配が感じられません。
季語に対する否定的な物言いはもちろん、世間や対人性を軽視して「神」を唐突に持ち出すあたりは、
生活世界に対するコンプレックスをメタに立つことで逆転し、サブカル的集合無意識=ハルマゲドンを呼びよせて普通の生活人(の俳句)を否定する欲望を隠し持っているように感じます。
たとえば今回の文章でいえば、次のあたりは常識人の感性では読めたものではありません。


季語を排して「神」に直面するのではなく、季語を介して「神」に無限に漸近するルートに気がついたといえるだろうか。

どっちにしても「神」に近づくのかよ、とツッコミを入れたくもなりますが、俳句によって近づく「神」とは何であるのか、その説明はありません。
軽々しすぎて読み飛ばす人も多いでしょうが、よくよく考えればこんなところで「神」とか言い出すのは異常です。
(バモイドオキ神のようなものかもしれませんが)
このように詩的ファッション派は不用意に形而上的なものを持ち出して、生活世界を軽蔑できるメタな視点を安直に手に入れようとします。
つまり、このような人には現世に対する「不当感(ルサンチマン)」があるだけなのです。
高齢層の生活俳句への反発という形にすれば、個人的な「不当感」の解消という暗い欲望が、何か正当な文学的信念(俳句原理主義!)であるかのように装えてしまうことが、関に共感する「ハイク真理教」の大いなる問題点と言えるでしょう。


「ハイク真理教」の人間たちは俳句界における自らの「不当感」を、日本の生活世界のメタに位置する西洋的な現代詩を持ち出せば正当化できると思っているようです。
西洋によって自らを権威づけるやり方じたいが日本的でよく見かけるものでしかないのですが、こうすることで自分が日本人であるという現実から逃避して、自分の依拠する生活世界を否定しようとします。
否定対象が生活世界であるために、日本の非日常性や虚構性に関しては無条件で承認することになります。
関が日本のサブカル的なものやアートに見えるものに無批判に依拠してしまうのは、ルサンチマンのレベルでの反抗でしかないからです。
彼が正面から僕と論争することを避けて陰険な嫌がらせをするのは、メタに立てない相手と戦う勇気がないからにほかなりません。


俳句界の新興宗教「ハイク真理教」に抵抗せよ

かつて僕が関を批判したとき、高山れおなが関の代わりに文句を言ってきたり、四ツ谷龍や竹岡一郎が関悦史の句集に匿名でステマAmazonレビューを掲載したことがあったのですが、
彼らがどうしてそこまでして関を守りたがったのか、俳句界外部の人間である僕にはよくわかりませんでした。
しかし今では、新興宗教組織の教団幹部が教祖や教団を守るために、「実行犯」として批判的な弁護士を襲うような行為と類似していることに気づきました。
そのような意味で「ハイク真理教」というのは別に揶揄ではなく、彼らの危険性をわかりやすく示す比喩として書いています。
詩的ファッション派の俳人たちは、関を中心とした組織を実際に形成しているわけではないので、新興宗教とまで言われることが理解できないかもしれませんが、関悦史と関係を持たない人間があまりに少ないことをどのように考えているのでしょうか。
彼らは外部の目に自分自身がどう映っているかを想像しておく必要があると思います。


高齢層の俳句が生活実感的なものに偏っていることから、若い層はそれに対する反発を抱いているわけですが、
そのために安直に詩をファッション的に振り回すだけの空疎な句を量産するだけに終わっています。
そういう「アンチ的活動」では生産的なものは生まれにくいのは当然です。
詩的ファッション派の本質が生活実感へのアンチであるため、現世的な生活を否定してメタに立ちたいだけのハルマゲドン的な欲望を持つ人間と結びついてしまうのです。
生活を虚構へとひっくり返すだけの欲望の何が問題かといえば、それが戦争へと簡単に接続するということです。
つまり、詩的ファッション派の俳句は大政翼賛的なものに流れるおそれがあるということです。
戦争の代わりに「虚構」をテーマとした俳句を作ることで、現実の生活から逃避しようとする貧しい精神を、「神」だとか「詩」だとかうそぶいて「きょーこーきょーこー、きょこきょこきょーこー」と宣伝するようになるだけなのです。


虚構を求める精神と商業俳句誌との関係についてですが、
オウム真理教事件とマスコミがどう関わったのかがここでもヒントになります。
オウムがサリン事件に関与したことが決定的になる前に、幹部の上祐史浩をはじめオウム真理教のメディア露出というものはかなりの勢いでした。
実はオウム事件のとき、マスコミはオウムとの関係である問題を起こしていました。
「TBSビデオ問題」と呼ばれたりしますが、1989年にTBSがオウムを批判する坂本弁護士のインタビューテープを、放送前にもかかわらずオウム側に見せてしまい、坂本弁護士一家の運命を狂わせてしまったのです。
詳しくはウィキペディアなどを見ていただきたいのですが、
さらにTBSは1995年にオウム特集番組の中でサブリミナル効果を用いて批判を受けました。
奇しくも「俳句αあるふぁ」は毎日新聞社系列なので、TBSと近いところにあるマスコミです。
日本の会社勤めのマスコミ人がどうして新興宗教に共感してしまうのかはわかりませんが、そのような前科があることは間違いありません。
唐突に生活世界を否定するメタ視点を持ち出すペテンにマスコミ人が騙されやすいということは、俳句商業誌にも当てはまるように感じます。
サラリーのために生半可な気持ちで俳句誌の編集に携わっている連中は、地道な生活を軽蔑したメタ的な気分で仕事をしているから、現世否定のペテン宗教に共感してしまうのかもしれません。


関についていえば、彼は普通に俳句を作らせたら上手くもないし、夏石番矢が言うように詩的な才能は皆無と言っていいわけですが、
その三流ライター的な売文能力が世間知らずが多い俳句界では重宝されるらしく、俳人や評論家としてでなく売文屋として便利がられています。
マスコミ人にとっては、弟子を抱えた俳句の先生より単なる売文屋の方が、彼らの都合に合わせて書いてもらえるために使いやすいということも付け加えておきます。


メタに逃げずに二重性に耐えるのが芸術の精神

長谷川櫂や宮坂静生が関悦史を批判するようになってきたので、ようやく俳句界も「勘違いモンスター」の討伐に乗り出したようですが、
若い世代が自分たちの詩的欲望と関の暗い生活否定の欲望を区別しないかぎり、生活否定の「ハイク真理教」は滅びることはないでしょう。
(読者としてはその俳人と関悦史との関係を見れば、その区別ができているのかどうかがすぐにわかってしまうわけですが)


関の文章がひどいことを明らかにしておく目的もありますが、本稿の目的は文学がどのようにしてペテン師に利用されるのか、その背景を明らかにするところにあります。
単に関やそれを掲載した雑誌を悪く言いたいだけだと読解力のない人に勘違いされるのも不本意ですし、ここではもっと重要なことを言っておきたいので、もう一度論旨をまとめておきたいと思います。


実感共有派の高齢層に反発する若い俳人は、ポストモダン的なファッション派として消費文化的な「自然」を生きています。
しかし彼らが口にする「詩」など名ばかりで、「自然」を外的自然から「消費生活的自然」へと矮小化して、周回遅れのポストモダン手法で句作をしているだけでしかありません。
つまり、若手の俳句とは、ただ自然を写生すればいいという実感共有的な俳句を、消費社会的な実感へと「移動」させただけなのです。
だから関悦史は伝統的な季語には否定的ですが、消費文化的な固有名詞を季語の代わりとして使っているのです。
問題なのは自然には他者性があるわけですが、消費文化にはこれっぽっちも他者性がないということです。
基本の方法論は同じなので、彼らは季語を用いて作句することもできるのですが、そうすると〈内実〉に乏しい空疎な句であることが露見してしまいます。
そのため、季語を別のものにズラしたり、季語の使い方をズラしたり、切れるところをズラしたりして、等身大の自己像からの逃避をひたすら続けているのです。


決定的なことを暴いてしまえば、貧しい自己像からの逃避が彼らの真の目的であって、文学的な大義もなければ詩的精神も存在しません。
いつまでも自分に嘘をついて生きていく人間なのです。


復本一郎は『俳句と川柳』の中で、川柳と比較して俳句を「隠す文芸」と呼んでいます。
鋭利な目で対象を処理するという点で、川柳は「切れ」のある俳句よりごまかしができないと言っています。


その点では、俳句より川柳のほうが、はるかにシビアな文芸である。ごまかし・・・・が利かないのである。作者自らの感性や、思想を青天白日のもとにさらけ出す覚悟が必要とされているのである。

僕は俳句に覚悟がいらないとは思いませんが、俳句に「隠す」要素があるために、それを利用すればいくらでも「ごまかし」ができるということは事実だと思います。
若手俳人と呼ばれる人たちには、この「ごまかし」の機能を利用して、貧しい自画像を美化して見せようとする「ファッション」目的で俳句を作っている人があまりに目立ちます。
現実の自己像から逃走しているだけなのに「主体の抹消」とか言ってごまかす醜さ、
「切れ」を曖昧化して意味を不明瞭にすることで自分の詩的能力の乏しさをごまかす醜さ、
他のジャンルに憧れているのにそこで勝負できないことをごまかす醜さ、
自己都合のペテンで西洋思想を持ち出してインテリぶりたがる醜さ、
それを仲間内の集団で褒め合って外部の批判を排除することに勤しむ醜さ、
そのくせ外部の読者から支持だけは得たいと奔走する醜さ、
このような醜さはすべて若手俳人が現実と向き合うことを避けて(僕の批判に正面から応答することを避けて)いることが原因です。


彼らが生活俳句を憎むのは、自分の現実生活を否定する醜い欲望を高齢層の生活俳句に投影しているだけなのです。
生活実感俳句はたしかにつまらないものが多いですが、僕は嘘をついているものを読むより等身大のヘタクソなものの方が不快になりません。
作っている側は嘘がバレないと思っていたようですが、読む人が読めばわかるものです。


僕がAmazonレビューで若手の句集を批判したとき、若手俳人の一部は僕が伝統派の大物かもしれないと考えたり、わざわざ正体探しを試みた人までいたのですが、
僕には「俳句は俳人にしかわからない」と確信している彼らの様子がお笑いでもあり、不愉快でもありました。
これを裏返すと、「俳句は俳人だけがわかる」という内輪集団を絶対化する意識になるわけです。
そのような内輪の甘い了解があるから、俳人でさえあれば「俳句がわかる」ことになり、嘘を書いてもお咎めなしということになるのです。
高山れおなは俳句をやらない人間は俳人に対して謙虚でいろ、と偉そうに僕に文句を言ってきたことがありますが、このような俳人の内輪意識による思い上がりがハイク真理教の母胎となっているのです。


内輪意識に依存して創作をしている俳人たちが「詩」を語るのはおこがましいにもほどがありますし、ただの自己演出以上のものはありません。
それもこれも俳句に外部の批評がなく、自己都合のペテン論ばかりなのが問題なのです。
逆に言えば、ペテンが通用するためには、外部の批評を排除する必要があるのです。
僕のような外部の人間が批評をすることで困る自己演出俳人がこぞって僕に嫌がらせをしてきたのはそのような理由だと思います。


話を戻しますが、高齢層も若手も本質的にそう変わらないことをやっています。
日常的自然に目を向けるか、「消費生活的自然」に目を向けるかの違いがあるだけです。
若手の俳句が問題なのは、消費生活の方が外部がより消失しているということと、より虚構性や嘘へと舵を切っていくということです。


話の核心に移りましょう。
キリストが神と人との二重性を持っていたように、詩的なものにも日常性と神秘性の二重性が必要です。
カントでいえばフェノメノンとヌーメノンの二重性に対応します。
俳句であれば人間性と非人間性の二重性がこれに当たります。
人間的な生活を否定して非日常の虚構を現実化するような精神は、危険な新興宗教や戦時体制へと接近します。
僕たちは「神」などの超越性を語るフリをして虚構にすべてを飲み込もうとするルサンチマン的欲望を批判しなくてはいけません。


論点を整理すれば、問題なのは「生活」と「虚構」の二項対立の図式なのです。
このような二項対立が文学的になりえないのは、それが「現実」と「ネット」という僕たちの日常生活から外に出ることがないからです。
また、このような二項対立にある人が西洋的な観念を持ち出しても、その観念の礎にある西洋の「現実」には思いが至らず、単なる「虚構」に奉仕するだけに終わります。
(仲間内以外の対人関係を軽視する「引きこもり体質」の俳人が持ち出す観念には厳しい目を向ける必等があります)


西洋思想を語りたいのであれば、キリストやカントの例を考えればわかるように、なおさら超越と経験の二重性に注意を払うべきです。
ありもしない超越性を仮構してメタに立ち、経験的な生を軽蔑するようなあり方は芸術のフリをしたルサンチマンの表出です。
こういうペテン精神がどんなに芸術や文学を語っても、そこには〈内実〉などないわけですから、虚構に奉仕するだけでしかなく、サブカルと等価なものにしかなりません。
自分のミジメな日常を否定するために虚構に奉仕することは、怪しげな新興宗教のもつ欲望にどうしても近接するのです。


では、どうするべきなのでしょうか。
二項対立に基づいて一方の立場を絶対化するのではなく、生活を背景とした人生の実感の中において生活を超え出るものをつかみとるのです。
もし神がいるなら、それは必ず人間の「不在領域」にだけ存在するということはありえません。
何度も言いますが、安直に人間や生活を否定して神を語るような態度はカルト宗教につながる欲望です。
文学や詩を語るなら、経験領域において超越性が実現しうる地点を基盤として〈外部〉を目指さないわけにいきません。
商業主義と手を結んで安直なメタ的発想を招き寄せる「俗物」と手を切り、経験と超越の二重性を見つめ続けていくことが、真の詩的境地に至る道であることは、過去の詩人たちが作品を通して教えていることだと思います。


8 Comment

土井昆布さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
土井昆布さん、コメントありがとうございます。

竹岡一郎が高田獄舎らを取り込んでいるんですか?
事情通とお見受けしましたが、
「取り込む」という土井さんの表現からして、
彼の意図は僕に聞かずとも見当がついているのではありませんか。
僕には具体的な両者の関係が想像できません。
出版社のツテでも紹介しているんでしょうか。

竹岡一郎

竹岡一郎は今度は高田獄舎らを取り込む活動を始めたようですが、
どういう意図があると思われますか?

コメントについて

どうも、南井三鷹です。

僕のブログのコメント欄は承認制ですが、
基本的に寄せられたものはすべて掲載してます。
書き込みに値するかどうかはまずご自分でご判断ください。

心作さん、僕は面白がって載せてしまうのですが、
個人的な想像をネット上に書くのは、心作さんに良い効果を及ぼさないのではないかと心配です。
何かと誤解されやすい場なので、用心に越したことはないですよ。

背景の芯

かつての日本の学問芸術芸能には、仏教の信仰という背景の芯があったと思います。

今の日本にはそれがないので、でたらめがはびこるのだろうと思います。

油断できない

ぺてんというほどひどくはないけど、若手の有名人気落語家で、古典落語の本質のまったく理解のないことをしている人を知って、ひどく驚愕したことがあります。あえてその名をあげれば、春風亭一之輔師匠のかつての高座です。

立川志らく師匠は、俳人でもありますが、映画や演劇やテレビ出演にも熱心で、有名志向で、気を散らしています。落語をおろそかにしているといえるかもしれません。

かように演芸の世界にも軋みがあって、俳句の世界の悪しきヴィールスの感染の余地はいろいろあると思います。俳句の世界は、権威が大きいだけに、油断できないと思っています。

コメントへの返答

どうも、南井三鷹です。
洛書さん、花田心作さん、コメントに感謝します。

洛書さんが心配するように俳句の腐敗がすぐに演芸に影響することはないと思います。
演芸の世界は昔ながらの師弟制度がまだまだ健在なので簡単にペテンがのさばったりはしないでしょう。
俳句界は結社の師弟制度が緩んだところからウィルスが入り込んでいる感じです。

心作さんが言う俳句界の旧態依然とした体質も問題ですけど、
それに対するアンチである若手俳人勢(といっても僕くらいの世代)が関悦史のようなペテンを担いでいることを心作さんがどう考えるのかが僕は気になっています。
とりあえずリセットしたい気持ちはよくわかりますが、原始の海もハルマゲドンに接続しかねないので注意が必要です。
心作さんの言う通り俳句界の旧体質はいずれ淘汰されるでしょうが、同時に出版界も危機に瀕しているはずです。
そのとき巨大なSNS的内輪世界として形骸化した俳句界が存在するだけに終わってしまうことを僕は心配しています。

聞き捨てならない(?!)

わたしも、落語、講談、浪曲などの演芸に、あくまで客としてですが、多少はかかわりがあります。こういう世界は、俳句の世界とも交流があって、いろいろ影響を受けているようです。

俳句の世界が汚毒を受けているという報告は、やはり、聞き捨てならないものがあります。落語など演芸の世界に、影響が及ばないようにしてもらいたいものです。

花田心作さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
心作さん、本年の御愛顧を感謝します。

俳句商業誌は商業誌なので金銭目的でも構わないのですが、金銭を払う価値のない人の文章を載せているのは、仕事をちゃんとする気がないと感じます。
僕の文章は無料ですから、俳句商業誌は金銭を取るなら最低限僕の文章以上の内容はほしいところですね。

心作さん、ぜひ日和見な態度は改めてください(笑)

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