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『未来への大分岐』(集英社新書)マルクス・ガブリエル マイケル・ハート ポール・メイソン 斎藤 幸平 著

政治的な左派思想の復活へ

マルクス・エンゲルス全集(MEGA)の編集委員である斎藤幸平が、
マイケル・ハート、マルクス・ガブリエル、ポール・メイソンの3人と資本主義の行末について対談した本です。
斎藤はマルクスの物質代謝について研究しているのですが、
雑誌「現代思想」でマルクス・ガブリエルを早い段階で紹介したり、彼の著書の翻訳に携わっていたりするので、
國分功一郎や千葉雅也よりもガブリエルの対談相手としてふさわしい研究者だと言えるでしょう。


斎藤は消費資本主義に依存した〈フランス現代思想〉のオタク的な人たちとは違って、
マルクスについて語れるのはもちろん、経済思想が専門ということで政治経済についての幅広い教養を持っています。
その意味で左派的なスタンスをしっかりと持った思想系の学者と言えます。
ただの聞き手だと侮っていると、斎藤の思わぬ反論に驚かされることになるでしょう。


個人的な話ですが、少し書いておきたいことがあります。
僕は以前、ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』のAmazonレビューで、
ガブリエルが〈フランス現代思想〉などのポストモダン思想(ポスト構造主義)を批判していることを指摘しました。
当時にそのような意見は他に誰も書いていなかったと記憶しています。
それが正しかったことはもう本書をはじめ後発の翻訳でも明白になっています。
しかし、当時の出版マスコミはガブリエルを〈フランス現代思想〉の延長であるかのように捉える愚かな思い込み(もしくは意図的な操作)をして、
前述のドゥルーズ学者などにガブリエルの著書の帯に推薦文を書かせたり、彼の紹介記事や対談相手を依頼したりしていました。
日本の大手出版社の編集者がいかに勉強をせずに、業界内の「利権」ばかりを優先しているかがよくわかる事例ですので、
読者の皆様には日本の編集者のレベルを判断する材料にしていただきたいと思います。
今回、集英社の編集者が講談社や朝日新聞よりも「普通」に仕事をしていてホッとしました。


目玉である対談相手について僕の知っていることを書きましょう。
マイケル・ハートは『〈帝国〉』(2000年:邦訳2003年)や『マルチチュード』(2004年)などアントニオ・ネグリと共著で名を馳せました。
圧倒的にネグリの知名度が高く、ハートはおまけ(失礼)のような扱われ方でしたので、
今回の単独での登場は珍しくハートが脚光を浴びる機会になったように思います。
ただ、ネグリ=ハートの『〈帝国〉』が日本で話題になったのは、ブッシュ大統領がイラク戦争でアメリカの単独行動主義を露わにした時期で、彼らの描いたグローバル秩序がもう終わりに向かう時でしたし、
二人ともドゥルーズ思想との関わりが深く、その意味では遅れて来たポストモダンの人というのが僕のイメージです。


マルクス・ガブリエルは史上最年少でボン大学教授となり、思弁的実在論が話題になった流れで彼の「新実在論」も注目されるようになりました。
彼の著書『なぜ世界は存在しないのか』は平易な語り口で、ドイツだけでなく日本でもベストセラーになりました。
日本の〈フランス現代思想〉系の出版利権を貪る学者たちが目の色を変えて、彼の本をたいして読みもせずに批判していたのは醜いとしか言いようがありませんでしたね。


ポール・メイソンはイギリスの経済ジャーナリストです。
著書の『ポストキャピタリズム』(2015年)が情報テクノロジーによる資本主義の崩壊を描いたことで話題になりました。
僕は本書を読むまで彼についてはそれほど知りませんでした。


本来の集英社新書のカバーの上に、販促用のカラー表紙がついていたのが目について手に取りました。
そのカバーがB級映画のポスターみたいで思わず苦笑してしまいます。
タイトルの横に「資本主義の終わりか、人間の終焉か?」とのアオリ文句が踊っています。
加えて裏表紙に対談相手の説明があるのですが、そこに付けられたキャッチフレーズがまたサブカル色にあふれています。
内容と関係ないのですが、笑えるのでちょっと紹介しましょう。
マルクス・ガブリエルは「哲学界のロックスター」、マイケル・ハートは「革命の政治哲学者」、ポール・メイソンは「鬼才の経済ジャーナリスト」という具合です。
このカバーデザインが資本主義の終わりを考察する本であるのは、いかにも日本らしいと感じてしまいます。


選挙より政治運動

まず、第一部にあたるマイケル・ハートと斎藤幸平の対談で、印象的だった部分を取り上げてみたいと思います。
正直に言えば、ハートの発言より斎藤の発言の方が僕には興味深く思えました。
ハートの言うことは欧米社会の良識を前提としすぎているために、日本では常識的、建前的に聞こえます。
斎藤が日本社会を念頭においてハートに反論する場面などは、共感をもって読み進めました。


彼らはアメリカ民主党で社会主義者を公言しているバーニー・サンダースとイギリス労働党の党首ジェレミー・コービンを話題にして、
左派的な言論が支持を集めるプロセスについて考えていきます。
ハートは彼ら個人の指導的資質よりも、彼らを支えた政治・社会運動に注目しています。
まず社会運動があって、その運動に応えながら指導者が成長していくという、下からの民主主義について語ります。
そこで斎藤は日本の報道では因果関係が逆になっていると言います。
日本ではカリスマ的なリーダーが現れて、それが大衆の支持を受けて熱狂的な支持を受けている、というトップダウン式にされてしまうのです。
斎藤は「民主主義の理解が選挙政治という限定的な意味にとどまってしまっている」と、日本人の選挙政治への固執を指摘します。
要するにトップダウンの発想しかないということです。
その理由として、下からの社会運動や闘争によって社会変革をした経験が日本に乏しいことを挙げています。


ここで斎藤は欧州が労働運動によって良い労働環境を勝ち取ってきたのに対し、日本にはそのような闘争の歴史がないと述べます。
特に、日本の労働組合が欧米のような産業別組合でなく、企業別組合であることから、
労働者が企業ごとに分断され、自分の生活を守るために働いている企業に尽くすことになるのです。
これを斎藤は「企業のロジックに根付いた社会統合」と言っています。


企業別労働組合は、終身雇用、年功序列とともに「日本型経営」の特徴としてよく挙げられるものです。
長期安定雇用を基盤とした「日本型経営」は、会社が親代わりとなり社員を家族として扱うことで、会社が「イエ」であるかのような一体感をもたらしました。
これが労働者と使用者がともに企業の利益を高める労使協調の傾向を強めたのですが、
そもそも内輪感を何より大事にする日本人の価値観が反映していることを忘れてはいけないと思います。


斎藤は日本に「下からの運動によって資本に対抗して規制をかけるという経験が希薄」だと述べています。
ハッキリと家父長制的なトップダウンの発想しかない国と言ってほしいのですが、その点は斎藤も理解しているようです。
斎藤はこんなふうに語っています。


日本社会は、今、必死になって新しい政治リーダーを探し求めています。日本版のサンダースやコービンを探し、素晴らしい政策を考えつく識者を見つけ、選挙に勝って新しい法律と制度を施行し、「上からの」制度改革を成し遂げる。それができるはずだと信じているのです。
要するに、闘いの主戦場が選挙政治と政策立案になってしまっているのですよね。私はこうした発想を「政治主義」・「制度主義」と呼んでいます。

ハートも「選挙政治を過度に重要視する傾向には注意が必要」と斎藤に同意しています。


本来なら、この手の議論をする時に目配りするべきなのは、インターネットの存在です。
下からの運動というだけで言うなら、SNSなどのインターネットに可能性があるのは間違いありませんし、その力が肯定的に語られたことも数多く見かけました。
「アラブの春」でTwitterが重要な役割を果たしたことが声高に語られたこともありました。
(ネグリ=ハートが提唱した「マルチチュード」も、非物質的労働を基盤として考えられていたので、
当時のネットの普及を背景にしていたところがあったはずです)
しかし、ハートも斎藤もネットを手段とする運動について話題にすることはありません。


話題にされていないため、その理由はわかりませんが、僕が推測するに、
インターネットは案外検閲が簡単だということがあるかもしれません。
また、中国はともかく、強い検閲のない日本でも、ネットを使った下からの運動は右派的なものの方が勢いがあります。
インターネットが自己愛増幅メディアであるため、右派寄りの言説の方が相性がいいということはあると思います。
ただ、可能性として、自己愛が維持できないレベルの生活苦にさらされる人々が一定数を越えてくれば、
左派的な言説がネット上で下からの運動を引き起こすかもしれません。
その時はネットの検閲がより強まることは想像に難くありませんが。


マルチチュードと主体性

ネグリとハートは工場労働に変わって、物質的なものと関わる面が少ない「非物質的生産」が台頭したことを重視します。
そのような生産形態の変化に対応した新しい労働者階級を「マルチチュード」という概念で再定義しました。
マルチチュードという言葉で問題にしたかったのは、労働者階級の多様性です。
ハート自らこのように説明しています。


ネグリと私がマルチチュードという概念を使ってやりたかったのは、社会変革の主体を多様なものとして捉え直すことです。ただし、外在的に捉えた多様性ではありません。その内部にさまざまな差異を包含している主体性を考えたかったのです。

マルチチュードという概念は、『〈帝国〉』の邦訳が話題になった当時から、日本の知識人にさほどインパクトを与えませんでした。
本書でもハートの理論に対して斎藤が「楽観的」だという見方をぶつけるのですが、このような反応は別に珍しいものではありません。
僕自身は、ネグリ=ハートの考えがドゥルーズ=ガタリ思想の影響下にあったために実現性の乏しさを露呈したと思っています。
ドゥルーズ=ガタリは人間の欲動が多方向的で無秩序なものであることを当てにしているところがあります。
そのため、多様な欲動を解放すれば自動的に体制を揺るがすことができる、と考えているように思えるのです。
マルチチュードという概念もそのような「弱点」があり、多様な非支配階層をネットワーク化することで、それが自動的に資本主義体制に敵対する主体となる、という発想に立っています。
ハートがマルチチュードを「概念」と言っていることに注意する必要があるでしょう。


斎藤がハートの見方を「楽観的」だとするのは次のようなところです。
ハートは労働者のネットワーク(社会的協働)が拡大すると、人々の社会的能力と自律性が発達して、
資本が利益を得るために労働者の自律的な能力に依存するしかなくなる、と言うのです。
これに対し、斎藤は労働者の自律性を奪うテイラー主義によって、資本の支配力は増大している、と応じます。
労働者が自ら考えたり、自らのスキルを発揮したりする場面は、AIやアルゴリズムの活用でますます少なくなる懸念があるのです。
労働者は資本によって主体性をますます失うばかりではないのか、という斎藤の疑問は非常にもっともなものに思えます。


〈コモン〉による民主主義

社会の中で労働者が生み出した知識や情報が、ビッグデータとしてコンピュータで管理され、アルゴリズムとして利用されるのですが、
ハートはこのデータの管理権を〈コモン〉とするべく闘争する必要があると述べます。


唐突に出てきた〈コモン〉という言葉ですが、この概念をハートは「民主的に共有されて管理される社会的な富のこと」だと説明しています。
〈コモン〉は私的所有の対極にあるものです。
私的所有では富へのアクセスはその所有者個人に限られますが、
〈コモン〉へのアクセスは広く開放されています。
ハートの説明を聞くかぎり、〈コモン〉とは要するに「みんなで共有して、その利用は民主的に決定する」ということに思えます。
ハートは〈コモン〉を「私たち全員で共有する社会的な富」と表現しています。


ハートは地球全体を〈コモン〉とすることで、気候変動の問題への対処も可能になると語ります。
このように、共有財産を基盤とした新たなコミュニズムを提唱しているように見えるハートですが、意外にも資本主義そのものに敵対する気持ちは強くないようです。
彼は資本主義のオルタナティヴを考えるのに、資本主義と絶縁する必要はない、という立場を表明しています。
良く言えば現実的ですが、悪く言えばノーリスクの甘い発想に思えます。


ハートの言うことを聞いていると、資本のパワーに対して労働者が連帯して闘争するという古典的な方法以上のものが感じられません。
彼が具体例として挙げる〈コモン〉獲得の運動は、水道民営化の反対運動など、
生活のインフラに関わるような場面(生存権をめぐる場面)だったりします。
生活にじかに関わる場面で人々が連帯するのは、それだけ追いつめられているからであって、
そのモデルが他の政治的イシューでも容易に起こりうるかと言えば、そうはならないのではないでしょうか。
その意味で、GAFAが握るビッグデータを闘争によって〈コモン〉とすることを、
資本主義にノーと言う覚悟もなく行えるとハートが思っているとしたら、楽観的を通り越して単なるファンタジーでしかありません。


また、彼らはBI(ベーシックインカム)についても話しています。
念のため説明しておくと、ベーシックインカムとは政府が国民全員に最低限の生活が営めるだけのお金を支給する制度のことです。
BIに賛成しているハートに対して、斎藤は反対意見をぶつけます。
ハートはBIで最低限の生活を確保できれば、劣悪な労働をしなくてすむ、と主張します。
しかし、BIで生活が確保できることを理由に、企業がむしろ低賃金で劣悪な労働をさせるようになることを斎藤は懸念します。
やりたくない仕事を誰もしなくなると困るので、余裕のある生活を営める額を支給しないだろう、とも述べています。
斎藤はBIよりも、マルクスの考えをふまえて貨幣の力を制限する方向を目指すべきだと考えています。


マルクスは、商品と貨幣によって媒介されたこの関係を克服しようとしていました。マルクスにとって、貨幣こそが資本主義の根幹的な問題だったのです。
こうした考え方からすれば、私たちの目指すべき方向は、生活に必要なサービスや財の現物給付による「脱商品化」(エスピン=アンデルセン)であり、貨幣と商品の力を制限することではないでしょうか。
現金を給付して、人々に商品を購入させる。つまり、貨幣と商品の交換をさせるBIではなく、基本的なニーズを満たすサービスを給付することを目指したほうがいい。そのほうが、貨幣の力を制限できます。

こうしたハートと斎藤のやりとりを見ていると、マネー主権の資本主義体制に代わるオルタナティヴを求める斎藤と比べて、
ハートは資本主義体制を前提とした発想にとどまっているように見受けられます。
〈コモン〉は、資本主義体制の中に共同体的な市民共有の原理を持ち込む試みでしかないからです。
2人の食い違いには、理想に対する世代的なリアリティの差もあるでしょうが、
それ以上に「市民」による自治意識が存在する国であるか否かが影響しているように思います。


斎藤は日本の「下からの運動」の弱さを指摘していましたが、その原因を考えると、「市民」が自主的に公共性を立ち上げるという発想がないことにつきあたります。
そもそも、日本に「市民」と呼べるだけの存在があるのかどうかも疑問です。
(市民運動をしている人がもれなく「プロ市民」とか言われる国ですからね)
僕に物心がつく以前のことなので、実感としてはまったくわからないのですが、
ベトナム戦争期などは日本でも市民の存在感というものはもっとあったのではないでしょうか。
久野収とか鶴見俊輔とか小田実とか(吉本隆明の立ち位置がイマイチわからないのですが)市民派の知識人を挙げることはできた気がします。
それが消費資本主義に乗ったニューアカ以降のバブル経済期になって、すっかり市民は「消費者」へと姿を変えていきました。


〈コモン〉を実現するには市民自身が築き上げた公共性の意識が欠かせないと僕は思います。
そのためにはトップダウンの権威主義とどう闘うかが問題になるはずです。
しかし、実際は経済停滞によって日本では家父長的な権威主義が以前より力を増しているように見えます。
興醒めなことを言いますが、現実的な話をすれば、
まずアメリカでハートの言う〈コモン〉を実現してもらって、それを「外圧」として日本の市民運動が呼応するかたちをとるほかないような気がします。


ポストモダン批判の黒船来襲

第二部はマルクス・ガブリエルと斎藤の対談です。
ここで2人は客観的事実の危機を招いたポストモダン的な相対主義を批判していきます。
個人的には現代思想関連の書籍でポストモダンの相対主義が批判されるようになったことに感慨を抱かずにはいられません。


日本ではニューアカ以後、出版マスコミにおいて現代思想=〈フランス現代思想〉(ポストモダン思想)という捉え方がされてきました。
〈フランス現代思想〉を生んだ戦後のフランスにとって、ナチスによる支配は大きなトラウマであったに違いありません。
そこでドイツの影響をどう脱構築するかという政治的課題があったわけですが、それがユダヤとの連帯、アメリカニズムへの依存という方向をとるのは必然だったと思います。
〈フランス現代思想〉がアメリカ的な消費資本主義の批判にはまるで役に立たないのは、その成立動機からして当然なのです。
また、それがドイツ的な要素をフランス化するものと考えるならば、
アメリカ的なものを日本化する(サブカル!)ことと歩調が合うのも当然と言えます。
こうして、強いアメリカ依存とサブカル的ナショナリズムが葛藤なく結びつく日本で、
ポストモダン思想は支配的・権威主義的(東大学閥!)な思想として流通したのです。


僕はAmazonレビュー上でこのようなポストモダン思想の一強支配を批判してきたのですが、
立命館大学准教授千葉雅也のAmazonへの執拗な通報行為によって、トップ1000レビュアーだった僕が唐突に「ガイドライン違反」とされ、全てのレビューが削除されました。
Amazonが審査を経て掲載したレビューであるのに、どのあたりが違反なのかを問い合わせたところ、回答できないという無責任な返答でした。
(Amazonは過去にも自社で半月以上の審査をして掲載したレビューを、著者クレームによって「再度審査したら問題があった」とか言って消去したことがあります。
本当はAmazonに明確なガイドラインがないことは明らかです)
この国では著者が父権的存在であり、読者は著者を崇めていなければいけない赤子である、という家父長的な価値観が支配的です。
(ちなみに、千葉雅也はAmazonではレビュアーが著者に伍した気分になれる、と「著者」の選民意識丸出しのツイートをしていました)


以上のことは今となっては愚痴でしかない(読者の皆様すみません)わけですが、
ポストモダン批判者であるマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』がヒットし、メディアが彼に注目するようになると、
醜いことに東大学閥や現代思想出版利権の関係者が、ガブリエルの思想を批判しました。
青土社などは「現代思想」の別冊でガブリエル特集号を出したのですが、内容の多くが批判で構成されていて、ガブリエル本人の記事以外は読むのをやめました。
これも結構失礼な話だと思うのですが、来日して批判対象のポスト構造主義の学者と対談させられるガブリエルも本当に気の毒でした。


しかし、そのような出版マスコミの恥知らずのオタク的内輪感覚が異常であって、
政治や社会に関心を持つ一般の人々には、ポストモダン思想の価値を疑う人が少なくないことが明らかになっています。
ガブリエルは対談の冒頭で「哲学は社会を変えるために不可欠なのです」と述べるのですが、
社会にアプローチする哲学を構築するには、オタク的・社会逃避的な〈フランス現代思想〉をリセットする必要があります。


今何が起きているのかについて、きちんとした説明ができるようになるために、我々はまず、哲学内部の欠陥を修正し、哲学を「再起動」する必要があります。

ガブリエルはこのように「哲学内部の欠陥」を指摘するのですが、具体的にはこの欠陥がポストモダニズムに関わることが後で語られます。
面白いのは、ガブリエルがポストモダンの理論的根拠にニーチェがあることを問題視していることです。
ガブリエルは1968年のパリ5月革命の英雄がニーチェであったことを指摘し、こう言います。


ニーチェは解放をもたらしてくれる思想家ではありません。むしろ、彼の哲学は保守的な思想家の最たるものじゃないですか。ニーチェは不平等を正当化し、奴隷制に賛成していたのですから。冗談でなく!

これを受けて斎藤はナチスがニーチェを利用したことを指摘し、「ホロコーストを経験したユダヤ系思想家たちも、ニーチェを読み、大きな影響を受けていましたよね」と応じます。
それならばハイデガーも同様だと斎藤は言ったあとに、ガブリエルが以前はハイデガーの用語を使っていたことにツッコミを入れます。
ガブリエルは『なぜ世界は存在しないのか』以降、自分がハイデガーの用語を使っていないことに注意を促し、
ハイデガーがナチスを正当化した『黒ノート』を読んだことで、ハイデガーの危険性を認識したことを語ります。


MG 多くの偉大なフランスの思想家が戦後に、フランスを敵とみなしていたハイデガーに依拠したのは非常にねじ曲がったことだったと思います。ハイデガーも西洋の民主主義という理念に反対し、国家社会主義とロシアのニヒリズムを支持していました。
別の言い方をすれば、欧州の六八年の解放運動の裏側には当時は克服されていなかった、たくさんのトラウマが残っていたのです。そうしたなか、人種差別やジェンダーなどのいくつかの問題に光を当てたことで、六八年は解放の行為のように見えたわけですが、結局は、間違った哲学的枠組みのなかで、問題を克服しようとしたのです。

〈フランス現代思想〉のニーチェやハイデガーに対する態度は、僕も長らく理解できないところがありました。
ナチスに親和的なニーチェやハイデガーを、それを批判するはずの勢力がなぜ土台としているのか、ということへの有効な説明がなかったからです。
近年のドゥルーズ学者はスピノザの影響ばかりを言っているような印象があるのですが、
僕がドゥルーズの『ニーチェ』という本を読んだ大学生の頃は、ドゥルーズはニーチェに強く影響を受けた思想家というイメージでした。
デリダはハイデガー修正主義者のような印象ですし、レヴィナスを読んでもブランショを読んでもハイデガーの影響を感じとることができます。
言い方は悪いですが、大陸哲学の後進国フランスがドイツ思想の体系性を解体する姿勢で依存し利用しているようにも僕には見えたものです。


このようなガブリエルの批判が、ポストモダンが権威化している日本で受け容れられるのには時間がかかるでしょう。
注意深く彼の発言を読めばわかるのですが、
ジェンダー批判が重大な知的営為であるように思われていることが、いかに50年にわたる哲学的停滞であるかが指摘されています。
さらに、ガブリエルはポストモダン思想が帝国主義とファシズムの枠組みに囚われていると述べています。
丁寧な論証を経ていない発言なので、なかなか簡単に同意されることはないように思いますが、
1929年の世界恐慌以降、資本主義に対する対抗軸として共産主義勢力が登場し、それに対抗するファシズムが台頭したことを考えれば、的外れな指摘とは言えないと僕は考えます。
つまり、フランス左翼がスターリンや毛沢東への失望によって共産主義へのシンパシーを砕かれたときに、
共産主義を理想化したことへの反省を急ぐあまり、それに対抗する原理を近傍のドイツファシズムとアメリカ消費主義に見出してしまった。
〈フランス現代思想〉が左派思想のはずなのに、保守思想と妙に親和的であることも、それによって説明がつくように思います。
(小泉義之は「現代思想」の対談でドゥルーズ思想を左派的に解釈することに不満を漏らしていたことがあります)


相対主義に対抗する「新実在論」

日本ではフランス思想利権の学者が声高にガブリエルの批判を展開したために、
ガブリエルが提唱する「新実在論」をきちんと紹介したものをなかなか読むことができません。
斎藤幸平はフランスのポストモダン思想に直接縁のない経済思想学者で、ドイツのフンボルト大学で学んだ人物です。
「新実在論」が誤って解釈されていることを示して、ガブリエルの言葉をうまく引き出しながら正していきます。


ガブリエルは自らの実在論を「新しい」と称していることでもわかるように、実在論を古いものと新しいものに分けています。
彼の言う古い実在論は、「人間の認識能力、精神、意識から現実の独立性を保証しよう」とするものです。
簡単に言えば、人間の考えの外にある現実的な存在を実在と見なしてきたわけです。


しかし、新実在論はすべてのもの、あらゆるものについて実在論的な態度をとります。
バナナや銀河系といった存在物だけでなく、道徳や民主主義や『ファウスト』も実在するとガブリエルは言います。
ガブリエルが『なぜ世界は存在しないのか』で、ユニコーンは実在する、と主張したことがよく取り上げられますが、
古い実在論で排除されていた人間の意識の上で想像されたものも実在に含めるのが新実在論の特徴です。


そして、ここからがガブリエルの思想のポイントになるところですが、
あらゆるものの実在を認めるときに、それを包括的に統一的に捉える全体領域である「世界」というものが存在するか、といえばそんなものは存在しない、として彼はこう言います。
「我々は全体を統合することはできません。なぜなら、そのような領域や対象は存在しないからです」
「世界は存在しない」とする意味は、このような実在するものの「全体性」──実在全体を同一平面に置くようなメタ的視点──を批判することにあるのです。
(おそらく、ガブリエルはインターネット批判をも意図しています)


では世界が存在しないなら、何が存在するのでしょうか。
新実在論はすべてが存在するのですが、まとまりとしての捉え方が対象領域(object domains)というものにとどまります。
ガブリエルはある種の「意味」においてまとめられた対象領域を〈意味の場〉(Fields of Sence)と呼んでいます。
このあたりの話を2人の対談から抜き出してみます。


斎藤 つまり、あらゆる領域を包括する世界は存在しないものの、物理学、文学、料理、ギター演奏などの日々の生活のなかで私たちの態度を合わせることができる領域がたくさんあるというわけですね。あなたは、そうした領域を「意味の場」と呼んでいます。
MG はい。存在するということは、「意味の場」において現れることです。
現実は、限りなく多い「意味の場」から成り立っていて、「意味の場」のいくつかは、網の目のように互いに重なり合っています。それぞれの「意味の場」には、規則があって、その規則に従うと、一定の命題が真か偽かを私たちは判断することができます。これが、現実についての客観的事実を確立する方法です。
したがって新実在論は「世界」の存在を否定するするものですが、同時に、客観的事実と普遍的原理を擁護するプロジェクトなのです。

ガブリエルの新実在論においては、実在するすべてのものが「意味」を中心とした複数領域に存在しています。
それぞれの〈意味の場〉には規則があるとガブリエルが述べていることは重要です。
〈意味の場〉では、そこにはたらく規則によって真偽の判別が可能になるというのです。
一定の規則によって真偽の判別ができるため、客観的事実が確立できるというのがガブリエルの主張です。


ただ、疑問も残ります。
〈意味の場〉に支えられた規則によって事実を確定することができたとしても、普遍的原理に関してはどうなのでしょう。
〈意味の場〉の規則は〈意味の場〉を超えることはできません。
〈意味の場〉の内部にとどまる原理は普遍的原理とは言えません。
それはどうすればいいのでしょうか。


態度の調整

〈意味の場〉が領域であるかぎり、内在したり外在したりできるはずです。
自分が特定の〈意味の場〉に属しているのか否か、もしくはどの〈意味の場〉に属しているのか、をどう判定していくのかが問題です。
ガブリエルと斎藤の対談を読んでいると、それが「態度を合わせる」というかたちで行われることがわかります。
ユニコーンが実在することについて、ガブリエルが説明するところを引用してみます。


もちろん、映画や漫画の外では、ユニコーンや漫画の登場人物に態度を合わせる必要はありません。なぜなら作品の外部では、そんなものは存在しないからです。ユニコーンは映画や物語という「意味の場」では存在しますが、現実の東京には存在しません。漫画の登場人物が東京にいるとしても、それは漫画のなかの東京に存在しているだけで、現実の東京には存在しません。
けれども、映画を観たり、漫画を読んだり、夢を見たり、あるいはファンタジーに浸るという状況が存在し、そういう場合には、ユニコーンや漫画の登場人物にあなたはみずからの態度を合わせているのです。

〈意味の場〉における実在性というものは、その〈意味の場〉に自分の「態度を合わせる」ことによって実現されるのです。
ここに話題が上ることはないのですが、「態度を合わせる」ことによって〈意味の場〉に参入するという発想を見逃すことはできません。
「態度を合わせる」主体の側に場に対する参入権があるということになるからです。
ハイデガーのように否応なくこの世界で生きなくてはならない(被投性)、ということが前提ではありません。


このようなガブリエルの発想はハイデガーのような民族=国家=歴史的共同体を前提とするものとも、
マイケル・ハートのような市民運動家の共同性に根差したものとも違っています。
明確な意味領域に実在が属していて、主体がそこに自由に「態度を合わせる」ことで参入できる、というモデルは、
やはりインターネット体験を反映しているように思えます。
グレアム・ハーマンの思想の根底にもネット感覚の反映が感じられるのですが、
やはりネット的なグローバル感覚をどのように共同性へと回収するのか、が哲学的な課題になっているように思います。

ガブリエルは〈意味の場〉の規則に客観的事実を確保できる力を認めている点で、
注目すべき新しさ(それは古さでもある)を備えているように思います。
まず、意味を中心においた領域という単位設定。
次に、意味が要請する規則による真偽判定。
それから、主体の態度調整による参入領域の選択。
最後に、異なる領域間の調整や法による管理。


異なる領域間の調整や法について、僕はまだ説明していませんでした。
ガブリエルは異なる〈意味の場〉の間で見解の相違があったとき、調整や法の管理によって解決するモデルを考えています。
このあたりはガブリエルの話を受けた斎藤のまとめがわかりやすいので、斎藤の発言を引用します。


斎藤 だから、あなたは民主主義をさまざまなパースペクティブのあいだを取り持つ絶え間ない管理や調整の過程として描いているのですね。すべてを包摂する「世界」が存在しないからこそ、人々はパースペクティブの調停に政治的にかかわることを必然的に要請されるわけですが、その基礎にあるのが倫理です。

ここでガブリエルや斎藤は「倫理」を強調しているのですが、
包摂する「世界」が存在しないと、どうして調停の「倫理」が働くようになるのか、ということについては僕には思い当たることがあります。
見通しが悪く事故が絶えなかった交差点で、思い切って信号機をなくしたところ事故がなくなった、というケースに近いのではないでしょうか。
人々がすべてを包摂する「お上」に任せるのではなく、その場の当事者間の調停やルールによって倫理を立ち上げるという発想です。
ここではこれまで以上に「交通」つまり、コミュニケーションが重要になるのではないでしょうか。


もう一つ、ガブリエルの思想において重要な点を書いておきたいと思います。
彼はハッキリと口にしてはいないのですが、彼の思想においては必然的に、人々が複数の〈意味の場〉に属することになり、
その都度その都度、自分の態度を調整をしなければいけなくなります。
ここでは社会的、公共的な意識を持っていることが価値となります。
そうなると、一つの〈意味の場〉に居続けて態度調整の労を避けようとするオタク的(マザコン的)なあり方は、
「未熟者」と認知されることになるはずです。
たいして短歌や俳句も読んでいないのに、〈フランス現代思想〉の知識だけで短詩を語ろうとするオタク学者などは淘汰されるでしょう。
哲学や思想が特権的なものであるという思い込みがそういう人を存在させてしまうのですが、
ガブリエルの思想はこういう未熟者の権威主義を批判することになると思います。


ガブリエルと斎藤は他にもおもしろい話をしているのですが、いつまでも書くわけにはいかないので次にいきます。


資本主義vs情報技術

最後に登場するのは経済ジャーナリストのポール・メイソンです。
最近イギリスではラディカルな左派が新自由主義に代わる新しい社会を構想する動きが目立っています。
メイソンの『ポストキャピタリズム』は「ポスト」の名のとおり、今や18世紀以後の産業資本主義は終焉期にあるとして、資本主義の次にくるものを考察した本です。
僕はこの本をまだ読んでいませんが、本書の対談を読むかぎりではメイソンの言うことにはとても興味深いものがありました。


メイソンはポストキャピタリズムの社会が到来する条件を4つ挙げます。
① 限界費用ゼロ
② 高度なオートメーション化と労働の定義の変化
③ 正のネットワーク効果
④ 情報の民主化
メイソンはそれぞれの条件を斎藤と話しながら説明をしていくのですが、
ここでは僕の関心を惹いた①と④を取り上げたいと思います。


では、限界費用ゼロとはどういうことなのでしょうか。
簡単に言えば、利潤の源泉がゼロになるということです。
利潤が得られなくなれば資本は増殖することができず、資本主義が終わりを迎えてポストキャピタリズムが起動するというシナリオです。


まず、メイソンは資本主義によって「潤沢な社会」(society of abundance)というモノが豊富にある社会が成立することを示します。
情報技術が発展すると商品のコピーがたやすくなって、
これまで多額の費用をかけて生産していた商品も、再生産にかかる追加分のコスト(限界費用)がゼロに近づいていくのです。
メイソンは大型家電や住宅、育児や医療や交通などのサービスも低価格で潤沢に供給できるようになる、と主張します。
斎藤は3Dプリンタを使えば安い住宅建設も可能になる、と応じます。


PM 情報技術に基づいた生産は、社会を便利にしていくわけです。飛躍的に実用性・効用を増大させますからね。ところが、実用性・効用の増大は、最終的に資本主義の現在の構造を突破するところまで突き進むのです。
斎藤 住宅以外にも、あらゆるモノの完璧なコピーが情報技術によって瞬時に製作され、その商品のコストがほとんどゼロとなり、無料のモノやサービスがあふれることになれば、市場における価格メカニズムそのものが機能しなくなる。つまり、利潤の源泉も枯渇してしまう。

もちろん、すべての分野で潤沢化が単純に進行するわけではないでしょうが、
僕自身が前から考えていたことを言えば、出版に関してはいずれそのようなことが実現するだろうと思っています。
3Dプリンタでもいいのですが、廉価な製本プリンタを自宅に設置することで、
現在の電子書籍のようにデジタルデータを買うだけで自宅で紙の書籍を作ることは難しくないと思います。
こうなると出版製本の会社は必要なくなりますし、編集AIを搭載した編集ソフトを売り出せば出版社も必要なくなることでしょう。
(そうなると、生き残りをかけて出版業は人脈作りと著作権ビジネスに全力投球する以外なくなります)


さらにおもしろいのは、メイソンが「既存のシステムを最善と信じて疑わないエリートたちこそが、資本主義の機能不全を生み出している」と言っていることです。
その背景には不良債権危機があります。
日本はもちろんのこと世界的に見ても、国家の公的債務の対GDP比率は第二次世界大戦期の水準に近い高水準に達しています。
簡単に言えば、雪だるま式に借金を増やしていかないと、現在の資本主義体制を維持できないことが明らかになっています。
その処方箋といえば、「金融に過度に依存しつつ、実体経済では低賃金労働を人々に強いているだけ」だとメイソンは語ります。
この膨大な債務を返済するだけの新たな価値創造が起こるなら別ですが、限界費用ゼロの状況さえ考えられる状態ではそれどころではありません。
現在の情報技術に基づく資本主義では、債務の返済はおぼつかずに財政破綻を待つだけになります。
そのため持続可能な協同型経済であるポストキャピタリズムへの移行が避けられない、とメイソンは述べます。


このあたりの話を聞いていると、ヨーロッパの知識人というのは気楽でいいと僕は思わずにはいられません。
持続不能な社会が目前に迫れば、皆が社会の改善を目指してオルタナティヴを探るようになる、という「健全さ」への信頼が感じられるからです。
僕がよく知る国では、そうはならないことが歴史によって証明されています。
この先に滅亡が待っていようと、権力者が目に見える範囲を世界と決め込み、外の現実を民衆にだけ押しつけていき、
民衆は彼らの盾となって、最後には死を受け入れることで自己正当化を図るのです。
現実への不満を虚構世界への耽溺で解消しているオタクは、既得権を持つ者にとっては御しやすくありがたい存在です。
しかし、虚構世界の耽溺者がリアルから逃れられなくなったときに、最終的に現実と虚構の融合世界である「最終戦争」が呼び出されるのです。
(これがオウム真理教であり、ISISなどのテロ組織のロジックであるわけです)
このような「既得権メンタル」と「現実逃避メンタル」を乗り越えないとポストキャピタリズムへの移行はありえないでしょう。


④の情報の民主化についても説明しておきましょう。
メイソンはウィキペディアのようなものをイメージして語っているのですが、
ネットワーク効果が私的な排他的所有となじまないため、
所有権による管理やヒエラルキーのない、参入障壁が低い民主的な空間を作り上げるというものです。
メイソンは次のように語ります。


オープンソース空間では、多くの人々が文字どおり管理されずに、ヒエラルキーのない水平的なネットワークにおいて協働しています。その結果、組織もヒエラルキーも所有権も断片化・弱体化し始めています。

ウィキペディアのような社会的協働で成立する無料サイトが登場することで、協同型経済が台頭し、
その完成形であるポストキャピタリズムが可能になる、というのがメイソンの目論見です。
ここでは私的所有というあり方自体の超克が問われているように思います。


文芸コミューンという未来

僕は最近「文芸コミューン」というものを考えるようになったのですが、
そのきっかけは出版社に文学の管理は任せられないという考えに至ったことにあります。
僕の考えとメイソンの発想には重なるところがあるように思えたので、ここで少し触れたいと思います。


ご存知のとおり、日本の大手出版社には文芸誌というものがあるのですが、この雑誌は単体で利益を回収できない赤字体質です。
要するに、赤字続きでもつぶれない雑誌なのですが、それが商業空間に位置を占めているということが矛盾であることは言うまでもありません。
利益を出せないことのペナルティもなく、商業空間に身を預けながら生き延びている、
そのくせ純粋に文学への意志によって支えられているわけでもないのです。
こうした商業主義出版の治外法権にある空間が「内輪的」にならないはずがありません。
なにしろ社会を統括する経済原理からのシェルターになっているわけですから。


経済原理からのシェルターになっているなら、その状態を役割として捉え、経済原理ですくいあげられない作品を根強く紹介し続けるなら筋も通ります。
しかし、文芸誌の編集者がお笑い芸人や他ジャンルの有名人においしい話(賞へのノミネート等)を持ちかけ、
小説などを書かせて話題作りに勤しんでいるのが現状です。
(証拠はありませんが、僕は賞のノミネートを餌にしていると想像しています。
所詮特定の出版社とタッグを組んだ文学賞など業界の「持ち物」です。
そもそも編集者と相談しながら作品を書くという態度がアマチュアでしかありませんし、そんな作品が賞に値するなんてお笑いですよ)
文芸誌がただ「内輪世界」の保存を目的として存在しているのは、理性があれば誰にでもわかることです。
すでにこの内輪原理が文学的な「精神の自由」とはかけ離れています。


こういう見せかけだけのシェルターを維持するくらいなら、本格的に文学を資本の力の枠外に置いてしまう方がいいのではないでしょうか。
何度も言っているように僕自身はインターネットが嫌いです。
しかし、情報技術の利用によって経済原理を超えた空間が作れるのなら妥協します。
僕は執筆活動で利潤を得ないことを宣言しているのですが、メイソンの限界費用ゼロについて知り、自分のしていることが案外的外れではないと知りました。
近代文学はともかく、文学というものは資本主義より古い歴史を持つものです。
当然ながら資本の都合の中で書かれたものは文学の世界を矮小化します。
文学とは経済原理や家父長的権威や業界利権に抵抗するものであり、単独であることを恐れない書き手による自由への意志が生み出すものです。
そうやって生み出された作品によって、誰にでも自由に参照でき批評できる空間として文芸コミューンが実現できないものか、と考えます。


何よりも大切なのは資本や社会体制の思惑を代弁することのない「精神の自由」です。
優れた文学精神は単独者に属しています。
個性などという他者の承認と関わる甘いものとも違います。
世界すべてを敵に回しても正しいものは正しいと言い切れる強い精神だけが、文学を語ることができるのです。


資本の側からの抵抗

話が逸れたので本書の内容に戻ります。
ポストキャピタリズムを呼び寄せるような現象に対し、既得権を持つ人々がただ指をくわえて見ているわけがありません。
メイソン自身がポストキャピタリズムへの移行を阻む要因を挙げています。


PM まず、限界費用ゼロ効果に抵抗して現れてきたものは、何か。大規模な市場の独占です。市場を独占すれば、生産コストよりも価格を大きく押し上げ、儲けを獲得することができます。

市場を少数の企業で独占すれば、競争相手が不在なので価格を引き上げることが可能です。
生産コストが安いのですから、市場独占で価格決定の自由を手に入れれば、いくらでも利潤を得ることができるでしょう。
具体的にはGAFAなどの名前が挙がっています。
斎藤は非民主主義的な独占によって「デジタル封建主義」が生まれつつあるのではないか、との懸念を語っています。


情報の民主化に対しては、情報の非対称性というかたちで抵抗が起こるとします。
プラットフォームを独占する企業は大量の情報を所有しているので、コントロールできる情報量が莫大であるのに対し、
個人がコントロールできる量は圧倒的にその一部でしかありません。
(僕は自分のレビューが消された理由すらAmazonに情報開示してもらえませんでした)


市場の自由を抑圧することで利潤を生み出す現在の資本主義の姿を、
メイソンは皮肉を込めて「反社会的な資本主義」と呼んでいます。


つまり、私たちが生きているのは、自由市場ではない反競争的な資本主義なのです。フェイスブックがSNSを独占し、グーグルが検索エンジンを独占し、アップルがスマートフォンを独占するというように。
それに、ウーバーやAirbnb(エアビーアンドビー)といった新しい企業は、熟練を要する仕事をまったく生み出しません。増えているのは、租税回避ばかり。現在の資本主義は、想像しうるもっとも反社会的な資本主義のひとつなのです。

このようにメイソンは現在の資本主義の不健全さを指摘するのですが、
社会主義陣営の崩壊以後、資本主義陣営の勝利をもって、個人の欲望が社会的共同体的な協調より優先されるべきだという価値観が支配的になっている気がします。
それがミクロ的には個人の私生活主義として現れ、マクロ的には既得権を持つ政治勢力や大企業が旗を振る新自由主義として現れました。
そこでは自己の利益の最大化が求められるばかりです。
ポストキャピタリズムまでいかなくとも、このまま現在の資本主義を野放しにしておくと、
社会がごく一部の人々の利益のために存在するだけのものになってしまう危険はあると思います。
その意味で、メイソンの「反社会的な資本主義」という指摘は非常に肯けるものです。


あと、念のために書いておきますが、メイソンのポストキャピタリズムは情報技術の発達によってユートピアがもたらされるという単純なものではありません。
メイソン自身が加速主義とは違うということを明言しています。
また、ポストキャピタリズムは必然的に現れるものではなく、私たち自身の手で主体的に実現するものだとも述べています。
「私たち人間の主体性が必要なのです」とメイソンはくりかえし主張しますが、
主体性批判とかポストヒューマニティなどの〈フランス現代思想〉の問題系が、いかに左派的な問題設定として時代錯誤であるかが本書を読むとよくわかります。
(何度も言っていることですが、〈俗流フランス現代思想〉は資本の欲望を代弁しているだけなので、経済不況期には保守思想となる運命です)


その後の対談はAIの脅威を訴えるメイソンと気候変動による環境危機を重視する斎藤との間で激論が交わされます。
斎藤の関心も取り上げるべきなのですが、そろそろ長くなったのでそれは別の機会を待っていただこうと思います。


インターネットへの規制は必要か

情報技術の発達が民主的な世界を導くというメイソンの主張に対して、斎藤が疑問をぶつけます。
SNSにはフェイクニュースがあふれていて、むしろインターネットは反民主主義的傾向を強めているのではないか、
本当に情報技術の発展によって、他者との共同性を構築したり、知性を深めていくことが可能なのか、と。
メイソンはソーシャル・メディアが誹謗中傷と嘘ばかりになれば、民主的な力は失われると認めます。
そして、今すぐ「インターネット上の匿名性を根絶する」べきだと語ります。


そのうえでメイソンは情報の非対称性が問題だとしています。
ごく一部の人間が大量の情報を握っている状態が問題だとして、ビッグデータを我々自身の手で管理する必要があると言います。
普遍的人権という話が出てきたりもします。
あまり現実的な対処法はなさそうな感じですが、インターネット上の匿名性を排除するという対策に関しては、これまでのメイソンの主張とあまり噛み合わないように思いました。
なぜなら、実名で現実社会とリンクさせてしまうと、その人物の社会的権威によって言説の優劣が決まってしまうからです。
(少し考えればわかることですが、社会的権威を持つ人物ほど実名でSNSをやっているものです)
それでは現実社会=資本主義の領域を広げるだけに終わってしまいます。
ネット上の匿名性がロールズの言う「無知のヴェール」を実現する部分もあると僕は思っています。
そうではなく、ネット上でも一人一人がアイデンティティのハッキリした存在として現実存在との紐づけがされてさえいればいいのではないでしょうか。


インターネット規制に関しては、第二部のマルクス・ガブリエルもかなり積極的な主張を持っていました。
ガブリエルの主張もここに引用しておきましょう。


これまでにタバコや有鉛ガソリンを民主主義的な方法で規制してきたように、次はソーシャルメディアを規制する番です。情報共有と対話のためのプラットフォームとしてSNSは重要ですが、現状のインターネット空間は、目指すべき形からかけ離れているので、根本的な規制が必要です。

このように発言して、ガブリエルは交通規制と同様にインターネットにも規制が必要だとしています。
フェイスブックとツイッターに関しては、プロのジャーナリストが役員会に入るまで閉鎖すべきとまで言っています。
SNSの閉鎖は望ましいことではありますが、暴力的な言葉やフェイクニュースだけが問題にされるのには不満があります。
ツイッターなどは抱えるフォロワーの数が暴力として機能するからです。
たとえ言い分が間違っていても、多くのフォロワーを抱える人とそうでない人の言い分で五分五分の議論になることはありえません。
僕自身はツイッターのやり方がイマイチよくわかっていなかった時に、何人かの著名人に批判ツイートを取り上げられたことがあるのですが、
自分の抱えるフォロワーの多さを利用した汚いやり方をする人ばかりで本当に嫌な思いをしました。
数の暴力を背景にしていれば暴力的な言葉など必要ありません。
そういうことが著名人のガブリエルにはわからないのだと思いました。


僕自身はインターネット規制について実はそれほど関心がありません。
インターネットの発信者の特定はある程度可能ですし、法的に問題があるケースでは取り締まりも行われています。
暴力的な言葉はインターネットに限らず、実社会でも多くあるわけですから、インターネット上だけ取り締まるというのも変な話です。
もし規制をしたいのならばむしろ、発信力のある人の問題発言を取り締まることで、そのほかの人々の自覚を促すべきではないでしょうか。
(たとえばフォロワーを2万人以上抱える人の、低評価のAmazonレビューを書く人は「基本アホ」などの発言)
居酒屋の個室で暴言を吐いても捕まることはありません。
それは発信先が限られているからです。
確かにネットは誰もが参照できる場所に発信するわけですが、発信力のない人とある人が同レベルの倫理を負わされるのはおかしいと思います。
金持ちと貧乏人が同じ税金を払うようなものです。
発信力のある人を優先的に取り締まるのは実務としても現実的だと思います。


話題が多岐に及びましたが、AIについての話を僕が取り上げていないのは、
それほどおもしろいと感じた部分がなかったからです。
興味のある方はご自分で目を通してみてください。


4 Comment

クロさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
クロさん、コメントありがとうございます。
こちらこそ今年もよろしくお願いします。

インターネットを使わなくてすむ社会、というのは難しそうですね。
若い人(実年齢ではありません)にはスマホで接続する自他の曖昧領域であるネット世界が「外の社会」になっていて、
その外の実社会はもはや自分とは関係のないものになっているように見えます。
すると、実社会こそが彼らにはフィクションだという逆説が起こります。
そこでどんな不正があろうと、
彼らが楽しめるエンタメ性があれば問題とは感じないわけです。
(野党が嫌われるのは、実社会の正義というフィクションをエンタメ化できないからでしょう)

すべてはエンタメです。
スポーツもエンタメ化できる結果を常に求めます。
(ラグビーの「歴史的躍進」はホームアドバンテージによる演出でしたが、
エンタメ要素がすごかったらしく、年末年始の地上テレビはさながらラグビー代表ファッショです)
ナンチャラ賞も有名人が私生活を切り売りする作品が出てこないとエンタメ性が足りなくてもたないようですね。

インターネットはつまらない現実をエンタメ化するツールです。
人々はこれのおかげで実社会にいながら実社会を離脱し、ディズニーランドにいるような気分になれるのです。
だから、不快な要素はたとえ正義であっても嫌われるのです。
(僕はそういう連中に嫌われてやろうと思ってやっていますが)

しかし大衆はこういう麻薬みたいなものに弱いですね。
一方で芸能人などが頻繁に薬物で逮捕されるのが象徴的です。
おかげさまで「戦争」という社会的麻薬が必要にならずにすんでいるので、
インターネットもバカにできないかもしれませんね(笑)

それから僕はツイッターが嫌になってアプリを削除してしまったので、
SNSの動向については把握していません。
斎藤幸平は佐野波布一のレビューに反応してくれていたこともあるので、
クロさんのご尽力のおかげでこの記事を目にしてもらえたなら感慨深いですね。

無題

読ませていただきました!
クリアな文章で、話題がふんだんに盛り込まれており、今回も勉強になりました。

>何度も言っているように僕自身はインターネットが嫌いです。
同感です。
なくて済むなら使わなくて済む社会であればよい、と今の僕は結論づけています。
端的に無駄が多すぎると思います。極力なくて済む社会に変われば良いとすら思います。
電波の付いた文房具という言葉遣いをされましたが、その電波によって毒が回っている人たちをいくらも見てきましたから。
ポメラの登場で作家は執筆が捗った、という話がありました。それを元に電波なしの電子式多機能文房具(タブレット状)があったら良いな、と呟いたら微弱ながら拡散されました。

>「インターネット上の匿名性を根絶する」べき
これはどうでしょうか。
情報倫理の分野で取りざたされている、デジタルゲリマンダーの話を踏まえると実名前提のフェイスブックで問題になっています。
https://www.ipsj.or.jp/event/fit/fit2017/FIT2017_program_web/data/html/event/eventA7_180.pdf
確か、韓国でもフェイスブックでリンチが起こり、アメリカでも政治的な発言により炎上して失職者が現れ、日本でもネトウヨの巣窟になっています。
実名・匿名については深く検討する余地があると思います。

ただ、名前が売れている者がSNSを利用することで利潤を拡大する傾向は顕著です(名前が売れている者に優先して賞が与えられるように名前って強いですね)。
無名の者は底辺で、消費する側に回っている感じがします。言い換えると強者による搾取が起こりやすいと思います。
というのは、インターネットは無料で利用できるために残るリソースは時間で、収益化の元はアプリもウェブサービスも広告に頼りきりなので、インターネットで消費に回る側の者を取り込めば、無料でお得に見せて時間をじゃぶじゃぶ使わせて利潤を得る、というムーブも可能なのです。この時に群集心理って使いやすいんです。その理屈はとても簡単なのですが…。

ところで、南井さんのこの書評をツイッターで紹介したところ、斎藤氏および集英社編集部にRTされいくらか読まれたようです。
失敬して南井さんをフォローさせていただき、リストに入れさせてもらいました(名前はここで名乗っているクロとは違います)。
本年もよろしくお願い致します。

南海さんへのコメント

どうも、南井三鷹です。
南海さん、コメントありがとうございます。

僕の思いつき程度の提案にしっかりとしたご意見をしていただき恐縮です。
簡単に言えば、ネット規制をするならその人の社会的影響力を考慮するべきだ、ということなのですが、
南海さんが難しいと言うように、僕もネット規制の現実性については懐疑的です。
フォロワー数ばかりに触れていたのは僕のインターネット観が偏狭だからでしょうね。
(僕のツイッターもそうですが、フォロワーといっても反対派もいたりしますからね)
間違えたことを言うかもしれませんので、南海さんが気づいた範囲で正していただけると助かります。

この本で斎藤幸平は知名度を上げたかもしれませんね。
ただ、少し売れたら「群像」のリニューアル延命戦略にホイホイ原稿を提供してしまう人に、
本気で資本主義と戦う気があるのか僕は疑問です。

無題

議論のなかでは「フォロワー数の多さ」と「社会的権威」(大学教授であるとか著名人であるとか)がほぼイコールになっているように見えますが、ツイッター上で沢山フォロワーを抱えて影響力を行使しているアカウントには匿名もありますし、社会的権威が高いとは言えない人間が実名でやってるのもあります。要するに問題は次の二つでしょう。
A実名を出して社会的権威やキャラ(笑)で影響力を行使しようとする人間
B匿名をいいことにフェイクや無責任発言を繰り返す人間
 フォロワーを従えて「数の暴力」を行使し得ることでは①も②も同じではないでしょうか。その上で、Bの問題は程度の差はあれ多くの人が認めるでしょうが、A(まあ千葉雅也)は難しいですね。「有名人だからフォローしとこ」という人間には問題を認識することすらできず、そういう人間が大勢いるのをいいことにAが成り立ってる訳ですから。例えば「低評価のAmazonレビューを書く人は「基本アホ」」はアホな発言ですが、取り締まるのは難しい。いくら影響力があるといってもアホなだけですから。あの発言を見て多くの人間が「このチーバ君はアホなんだな」と思って自然に影響力が消滅するというのが理想ですが、「東大出身で難解なフランス現代思想を研究する若手大学教授で哲学者でベストセラーの著者で小説の新人賞まで取ってる千葉センセイがおっしゃるんならその通りなんだろう。リツイート!」みたいな人間が大勢いるうちは無理ですね。(この間も大澤ショーヘイとかいうAI研究者が、馬鹿な事をやらかしたのにフォロワーだけは増えていて呆れました。そういやこいつも東大か(笑))
 南井様のブログは「匿名であることで純粋に言葉の質だけで勝負する」というスタンスを実践することにより、①と②を同時に批判していると思います。匿名であっても「一人一人がアイデンティティのハッキリした存在として現実存在との紐づけがされてさえいればいい」という意見がこうしたスタンスに裏付けられていることも理解できます。しかしこの場合、そういう志の高い人間がそうたくさんいるはずもないことがまさに問題なのではないでしょうか。
 紹介されている本とあまり関係の無い話でしたが(以前読んだんですが)、自分もインタビュアーの斎藤氏には注目しています。少し前まで環境問題を取り上げると根拠の無い今更感がありましたが、今後は資本主義批判の主戦場になるんでしょうね。

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