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非在の芸術

現代アートへのレクイエム「番外編」

山本浩貴『現代美術史』は僕が「現代アートへのレクイエム」を執筆している時期に刊行されました。
読み始めた時には記事のほとんどが書き上がっていたので、この本の内容を少ししか反映させることができませんでした。
リレーショナルアートを取り上げられなかった心残りもあって、
「現代アートへのレクイエム」の付け足し「番外編」のようなスタンスでこの記事を書き始めたのですが、
だいぶ話が違う方に展開してしまったので、とりあえず書評に分類するのをやめました。
(この記事で「本書」と書かれているのは『現代美術史』のことです)
考えてみれば、僕は現代アートという制度はもちろん、作品の多くにも否定的です。
現代アートの価値を疑ったことのない人が書いたものをおもしろく読めるはずもなく、
どうしても批判的な筆致になってしまいます。


僕は現代アートが資本主義と同種の運動で成立していると主張しました。
外部にあるものを自己領域へと取り込んで自らを拡大していく運動です。
簡単に言うと、それまでアートだと見なされていなかった領域を、
「これはアートだ」と命名し認知させることで、それをアート領域へと回収し、結果としてアート領域を拡大していくことになる、ということです。
本書は完全にこの見方を裏付けています。
本書の第一章は1960年台から80年代にかけての現代美術史の概説なのですが、まさに章の名が「拡大された芸術の概念」となっています。
ここでは芸術がその外にある社会的事象を芸術として組み入れ、その概念を拡大していった歴史が示されています。
山本はロンドン芸術大学で研究をしていた人なので、アカデミックな視点で現代アートにアプローチしています。
専門領域の人が現代美術の歴史を芸術概念の拡大と捉えているのは興味深いことでした。
終章で山本は次のように述べています。


本書で見てきたように、とりわけ一九六〇年代以降の美術は、芸術の概念自体を拡張することによって、より直接的な仕方で、そしてより広い「社会」(より多くの人たち)に自らを接続することを志向してきました。(中略)事実、芸術は社会に影響を及ぼし(同時に影響を受けながら)、しばしばその変革の原動力となってきました。

自己領域の拡大を意図して、より多くの人に接続するという山本の説明は、
外部領域へと接続することでネットワークとして成立した自己領域を拡大する運動を示しています。
アートそのものが高額商品になるという事実がありながら、このような考察を資本主義の運動と結びつけようとしないのは知の堕落です。
そのくせ、山本は本書が「芸術と社会」というテーマで書かれている、と宣言しているのです。
大手出版社で本を出すからには、都合の悪いことは触れない「お約束」を共有し、安全領域で「知的ゲーム」に興じておくのが無難です。
商業出版の世界には反抗心や抵抗心の居場所はないのです。
反抗心のない人に、往々にして芸術とファッションの区別ができなかったりするのはよくあることです。


芸術が社会に利用される?

山本は芸術が政治目的で「利用」される危険について書いています。
そこではイタリア、ドイツ、日本の戦時ファシズム体制と芸術との結びつきが語られます。
イタリアでは1909年に詩人のマリネッティを中心に「未来派」が創立されました。
未来派は戦争や軍国主義を賛美していたので、やがてマリネッティはムッソリーニのファシスト党に接近し、
イタリアのファシズム体制に協力する道を歩むことになるのです。
山本は未来派とイタリア・ファシズムの共通点に「速度」を挙げて、ポール・ヴィリリオの思想を参考にしているのですが、
僕の現代アート批判にも奇しくもヴィリリオが引用されているように、ヴィリリオの批判は未来派のみならず現代アート全般への批判に適用できるものです。
ヴィリリオが「速度」を問題視するのは、それが「領域拡大」の志向と密接に関係している点にあります。
遠い地点へと早く到達することを求めるから「速度(加速)」が重要になるのです。
遠い地点を先取りすることへの執着が、果てしないスピードアップへの欲望を高めます。
「速度」への信仰は帝国支配から資本主義までを貫く〈領域拡大ゲーム〉のためのイデオロギーなのです。


つまり、未来派への批判はそのまま現代アートへの批判に当てはまるのです。
(デュシャンのテクノロジー志向を思い出してください)
このことについては実は山本自身も認めているのです。
本書での山本の未来派についての記述を引用してみます。


キャロライン・ティズタル(一九四五〜)とアンジェロ・ボッツォーラ(一九三八〜)の共著『未来派』(一九七七)には、「イタリア未来主義[=未来派〕は、直接かつ慎重に、マスとしての観衆に照準を定めた二〇世紀最初の文化運動だった」と書かれています。二人の見方では、「未来主義の鍵」は「可能なかぎり広汎に観衆へ到達しようという決意」にあります。その「決意」が、「芸術」概念の拡張を通して広域な「社会」への到達を志向した、戦後前衛美術の動きと共鳴を見せていた──もっと言えば、その先駆けをなしていた──ことは注目に値します。

山本は未来派が「戦後前衛芸術」の「先駆け」であったと書いていますが、要するに未来派は戦後現代アートの先駆けであったわけです。
より多くの観衆へと到達しようという動機がその証拠とも言えます。
ここで冷静に頭を働かせることができれば、結論は次のようになります。
意図することが同じであっても、協力した国が戦争に負ければ「危険」であり、勝ってさえいれば反省されないということです。
もし、未来派の作品内容に問題があるのならば、現代アートに受け継がれた同様の面にも問題があるということになります。
しかし、僕の知るかぎり、アートをめぐる議論で、
過去の危険を現代に続くものとして引き受けたものはあまりなかったように思います。
それは本書の先を読んでいけばはっきりとわかります。


次に山本はレニ・リーフェンシュタールとナチズムを取り上げ、リーフェンシュタールの映画を「政治の美学化」だとするベンヤミンやソンタグの批判を紹介します。
リーフェンシュタールにしてもナチスの党大会の記録映画である『信念の勝利』や『意志の勝利』を批判するのはたやすいわけですが、
同様にナチスのプロパガンダとなったベルリンオリンピックの記録映画である『オリンピア』に関しては簡単に否定するのは難しいでしょう。
市川崑が担当した東京オリンピックの映画『東京オリンピック』は、一見してリーフェンシュタールの影響を受けていますし、
市川本人もリーフェンシュタールの映画を見たと言っています。
公開当時にこの映画の評価について議論があったようなのですが、
同様に国策的で芸術的な映画を作っても、市川はリーフェンシュタールのように悪名を馳せることにはなっていません。
(現在の聖火リレーはヒトラーがベルリンオリンピックで始めたものですが、特に批判されませんよね)


最後に山本は日本人画家の「戦争画」を取り上げます。
戦時中の日本では、従軍経験のある画家たちが陸軍と協力して「陸軍美術協会」を発足させ、次々と戦争画の展覧会を開催していきました。
敗戦後、戦争画を描いた画家は民衆を戦争に駆り立てた罪に問われました。
藤田嗣治などは「戦犯画家」と名指しされ、実質的に日本の画壇から追放されたのです。


このあたりの芸術批判は、他の人の言説の引用ばかりで構成され、決して山本自身が批判に関与しないかたちで注意深く書かれています。
本書は「芸術と社会」の関係を軸とした現代美術史を描くことが意図されているので、
「社会」という視点から芸術の負の面に触れておくべきだと考えたのは立派だと思います。
しかし、山本自身が「昨今活況を呈している社会的な芸術実践に対しても、常に批判的な目を向ける必要があります」と書くのならば、
自らそれを引き受ける視点がほしかったところです。
過去の断罪も擁護もしないのは結構ですが、将来を見据えて「自分だったらどうするのか」と問いかけた気配もなく、
他人の意見のコラージュで中立を装うことが責任ある態度だと僕は思いません。
ロンドンに5年近くいたわりに日本的処世術に長けた人だと感じました。


戦争協力という罪

山本が芸術家と戦時体制の結びつきについて通り一遍のことしか語りたがらないので、僕がここで少し書いておこうと思います。
僕はナチスやイタリアについては不勉強なのでよくわからないのですが、日本の戦時体制に作家や思想家や宗教家が協力したことについては多少は知っています。
京都学派は海軍との結びつきがあり、「種の論理」を書いた田辺元などは今でも触れにくい思想家なのですが、なぜか西田幾多郎だけは免罪されている感じがあります。
日本主義の保田與重郎はアウトなのに、西洋派の小林秀雄はグレーであったり、積極的に関わった横光利一はアウトなのに、源氏物語を読んで引きこもっていた盟友の川端康成はセーフであったり、
戦争協力に対する断罪は、生み出された作品の内実というより本人の態度が判断材料になっていることは確かです。
消極的に関わった者まで断罪してしまうと、一億総懺悔に突入してしまい、責任論の意味がなくなってしまうことはわかりますが、
そうなると、問題になるのは作品そのものより、作者の社会的な立ち位置であって、
用心深く振る舞った方が得だったというだけの話でしかありません。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
作者の態度や社会にだけ問題があって、芸術や文学そのもののあり方に問題はなかったのでしょうか。


山本は会田誠の「現在という高みから見下ろして、当時の絵描きたちを「愚か」「悪」と裁断することは、少なくとも僕にはできません」という言葉を引用するのですが、
そうやって倫理的判断を個人の視点に還元する会田の意見は、典型的な相対化の手法であり、責任逃れを全般化させるだけのやり口と言えるでしょう。
責任逃れでしかないから、再びそのような時代になったら私はやらないよう努力する、と会田は答えることなく、
単に「答えにくい」とか「永遠の難問」とか言ってすませてしまいます。
この話を紹介する山本も態度としてはほとんど変わらないように見えます。
本書の最後の段落を丸ごとここに引用します。


とはいえ、会田自身そうしてきたように、その「永遠の難問」に取り組み続けることにこそ意味があります。善悪二元論に基づく単純な問題設定から脱け出し、「なぜそうでしかありえなかったのかを一つ一つの事例に向き合いながら考え」(吉良智子『女性画家たちの戦争』)ること。そのことはすなわち、「社会」から完全に自律して存在することのできない「芸術」の限界を思考することです。裏を返せば、それは「社会」における「芸術」の真の可能性を見定めることでもあります。

このようなゴマカシにまみれた文章が僕は嫌いです。
「永遠の難問」に見えるのは、ある部分について思考停止をしているからです。
僕に言わせれば、会田(そして山本)が当時の画家を批判できないのは、そこに自己弁護の心理が働いているからです。
現行の社会体制に適応するしかない現代アートの世界で活動している人間に、彼らの批判ができようはずがないのですから。


では、僕が「永遠の難問」とやらを解いてみせましょう。
近代カルチャーが戦時社会体制に「利用」された──「利用」というのはもちろん彼らの甘えた解釈ですが──のは、
それがマスコミを背景とした〈領域拡大ゲーム〉を志向していたからです。
自己領域を拡大していく欲望は帝国主義と何が違うのでしょうか。
本質が同じものであるから、どうしたって帝国主義的な国家戦略との共感が生まれるのです。
戦時文化の批判のほとんどは作者と軍部との表面的な関係にとどまり、芸術とマスコミや商業との関係はあまり論じられたことがありません。
(大手マスコミの戦争協力だって酷いものでした)
その意味で僕の批判は全く違います。
大黒岳彦が〈放−送〉ブロード・カーストと名づけたような、大手マスコミによる一元的かつ一方向的な情報発信に芸術や文学が依存していることに問題があったのです。


問題は王室などの有力パトロンの存在を自明としてきた西洋芸術の体制依存性にあると僕は主張します。
山本は上記の引用文で、芸術を社会から完全に自律して存在することができない、と決めつけているのですが、
それは裏を返せば、芸術は時の権力に依存しないと存在できない、ということになります。
それこそが戦争協力を弁護する危険な考え方なのです。
事実は違います。
芸術が社会から自律できないのではなく、現代アートや出版文学をはじめとする商業的な表現行為が、「現行」社会=資本主義から自律できないだけのことでしかないのです。
実際には、間違った社会に協力しないことを選択して、潔く商業世界から消えていったアーティストが必ずいたはずなのです。


社会から「自律できない」ということを論点とすると、どんな人でも時代や社会の影響から全く自由ということはありえないと言えますので、
戦争協力だけを問題にするならば、社会が肯定する価値観に反していれば協力者にならなくてすむわけです。
完全に自律できないまでも、社会の欲望に反抗することはその気があれば可能ですし、
それを成し遂げていると感じるレベルの文学は、この国以外に目を転じれば現代でも出会うことができます。
僕が苛立ちを感じるのは、このような現行社会の絶対化という欺瞞の上に立って、
多様であるはずの芸術の定義を偏狭なものにしていく人間がしたり顔で「多様性」とかいう言葉を弄していることです。


まず第一に、芸術というものは美術史に残ったり、誰かに芸術家として認められたりしたものだけに許されたものではありません。
これまで誰も注目しなかった作品が、この先に多くの人の心を揺さぶることだってありますし、過去にもいくらでもあります。
つまり、潜在的な芸術というものは水面下にいくらでもありえるわけです。
とりわけ、当時の社会の欲望に反している作品は水面下に存在することになるはずですし、
そういうものは当時の社会に協力していないのはもちろんのこと、自律していると考えてもそう遠くはありません。


しかし、現代アートというジャンルは資本主義のシステムに深く依存しているため、現行社会から本質的な距離を取ることができません。
せいぜい資本の欲望を先取りする程度の「無害」な表現が、アートとして脚光を浴びるだけのことでしかありません。
そこでは反抗の身振りも本質的には反抗にならず、古いデザインを新しいデザインが否定する程度のものになっていきます。
僕が現代アートを終わらせるしかないと思っているのは、どんづまりファッションショーは真の意味で芸術には値しないからです。


念のため言っておきますが、僕の批判は本書を書いた山本に対してのものではありません。
少なからず現代アートを肯定しようとすれば、山本のような態度になるのは仕方がないのです。
問題は、現代アートがそういうものでしかない、ということなのです。
批判するべきなのは現代アートというジャンルであり、それを何か意味があるものと思い込む現行社会に依存的な「弱い精神」なのです。
だから、現代アートのアーティストが戦争画家に自分がならない、と答えにくいのは本質的であり、ある意味正直だと思います。
しかし、そんなヘナチョコな「本音」などいらないのです。
僕は戦争協力はしませんし、しない努力をするだろうと言い切ることができます。
なぜなら、僕は表現において社会権力の何に対しても依存していないので、自分自身の感覚を信じることに遠慮をする必要がないからです。
わかりますか?
社会体制に依存している有名アーティストなど全然自由ではないのです。


非在の芸術

歴史とは時の権力によって記録に残されたものであり、表面上にあらわになった「顕在の歴史」です。
そのため、その裏には記録されずに消えていった「非在の歴史」がある、という主張を見たことがあります。
これは歴史だけに当てはまるものではありません。
社会的に記録され、人々の注意や欲望を惹きつけるものが「顕在のもの」であり、誰にも気づかれずに消えていったものが「非在のもの」として背後の闇へと消えていくのです。


これをダーウィニズム的に考えれば、「顕在のもの」が時代に適応して生存したものであり、「非在のもの」が自然淘汰されたものとなることでしょう。
これを市場原理で考えれば、「顕在のもの」がマーケット上で価値を認められ、流通したものであり、「非在のもの」がマーケットから消えていった商品もしくはマーケットで流通することもなかった非商品となることでしょう。
文学作品にしても美術作品にしても非在の作品などいくらでもあるのです。
顕在の作品が無数の非在の作品に支えられていると言うこともできるのですが、
そんなことを日本人が口にしても、ポストモダン的なお題目以上のものには感じない場合がほとんどです。
個人的な実感では、日本人は本質的に顕在の価値への信頼が非常に強いように思います。
簡単な言い方をすれば、「孤独に弱い」(注目されない寂しさに弱い)ということです。
和辻哲郎のように、人間を人と人の「間柄」にあるものと考えるのが非常に日本的です。
つまり、人間とは既存のネットワークの中の存在であり、そこで自らの役割を見出すことが重要だという考えです。
このような発想では孤独な人は人間ではないことになります。
僕が言いたいことは、要するに、顕在化したマイノリティは本質的にマイノリティではないということです。


『現代美術史』に話を戻します。
本書で山本は現代アートのポストモダン的展開を紹介して終わっています。
例によって定番ワンパターンの「マイノリティへの視線」です。
これまで非在とされてきたものを顕在化することに意義がある、という文脈において芸術性を担保していくという退屈な試みです。
こういうものが市場の拡大運動と相同的でしかないことを僕はすでに「現代アートへのレクイエム」で指摘したわけですが、
それが資本主義の運動の影響でしかないことのどこに問題があるのかと言えば、
結局は市場において価値を持たせられないものは永遠に非在のままでしかないということです。
マイノリティもいろいろあるわけですが、市場に「選ばれしマイノリティ」はその中の一部でしかありません。
なぜ移民なのか、なぜLGBTQなのか、それは市場と関係が深いからです。
資本主義の生産拡大と移民に密接な関係があることは言うまでもありません。
消費文化と性的嗜好の関係が深いことにも言葉は不要だと思います。
恐れずに真実を言えば、彼らは資本の〈領域拡大ゲーム〉のコマなのです。
当然ながら、彼らがグローバル資本主義に反抗することはできませんし、
そう口にするとしたら自己欺瞞に気づかない知的レベルの人間でしかないというだけのことです。


本気で近代に挑む気があるのならば、芸術家は非在の世界に生きることを恐れてはいけないと思います。
システムの自己保存運動にコマとして動員されたり、作品上でシステムの模倣に精を出して時代と同衾してみたりするものがマスコミを賑わしている現在ほど、
芸術が目指すべきものが非在の場所であることは明らかです。
注意してほしいのは、非在というのはポストヒューマン的な「外部=資本の目的地」ではないということです。
不在は存在へと回収されるべき外部ですが、非在はそうではありません。
実在しながらも決して集団の意識や関係性によって築かれたネットワークに回収されない真に個的な何かだと僕は思っています。
大手マスコミやジャーナリズムで自己利益(社会利益)のために売文をしている人から芸術や文学を取り返すべきなのです。


リレーショナル・アートの退屈さ

もう言うべきことは終えてしまったのですが、リレーショナル・アートについて書いておきたいのでお付き合いください。
本書の第二章は1990年代に注目されたリレーショナル・アートから始まります。
「関係性」に注目した作品をリレーショナル・アートと呼ぶのですが、山本はその関係性について、
① 作品と鑑賞者との関係性
② 鑑賞者同士の間に生まれる関係性
の二つに分類しています。
しかし、端的に言ってしまえば鑑賞者を巻き込んだネットワークの形成に寄与する作品ということです。


山本はニコラ・ブリオーの『関係性の美学』の序文でギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』の再検討がなされているため、
リレーショナル・アートがドゥボールとつながりを持つなどと書いていますが、
山本は『スペクタクルの社会』の内容が理解できているのでしょうか。
リレーショナル・アートの目的は明らかに消費文化的なネットワーク構成にあり、
ドゥボールが意図した反資本主義的な実践には全く結びつかないものだからです。
関係性の名のもとにネットワークの「拡大」を志向するアートも、〈領域拡大ゲーム〉に奉仕するものであり、資本主義の運動の模倣にすぎません。
どこまでいっても現代アートとはこういうものなのです。


山本が最初に紹介するフェリックス・ゴンザレス=トレスの《無題(偽薬)》(1991)というリレーショナル・アートを取り上げてみましょう。
このインスタレーションは、銀の包装紙に包まれた4万個のキャンディーを美術館の床に正方形に敷きつめて作られています。
キャンディーの総重量は、ゴンザレス=トレスとエイズで亡くなった彼の同性パートナー2人分の体重と同じ重さになっています。
そこを訪れた鑑賞者は床にあるキャンディを一つずつ持ち帰るようになっていて、減った分は美術館員が補充するよう指示されています。


この作品ではキャンディーを持ち帰るという行為により、鑑賞者と作品の間に「相互作用が結ばれ」ます。
作品の成立に鑑賞者の介入が不可欠になっているというわけです。
山本は『関係性の美学』のブリオーに拠りつつ次のように説明します。


ブリオーは芸術を一方的視線の対象となる静的なオブジェクトではなく、人間の相互行為や出会いを触発する動的な場として再解釈しました。そこではアートは──本来の意味に近い用法で──コミュニティや連帯を創造する「技法」として提示されています。そこで探求されていたのは、生きられた人間関係を抑圧するスペクタクルの社会に抵抗する芸術の可能性でした。

ずいぶんと安直にドゥボールが使われていると思いますが、
リレーショナル・アートの意義についてはいくつも疑問が生じます。
まず、山本は「相互作用」と書いていますが、キャンディを持ち帰るという行為がどのような相互作用を生むのでしょうか。
僕には作品の成立のために観客が「一方的に」動員されているだけにしか思えません。
キャンディの総重量と自分たちの体重の合計が同じだからといって、それが死や喪失の痛みを少しでも伝えるのでしょうか。
僕にはただ作品を意味づけするための「味付け」程度のものにしか思えません。
それから肝心なのは、キャンディというのは消費物です。
そこで結ばれた関係性というのは、やはりと言うべきか、消費される商品を媒介にして生み出されるものでしかないのです。
さらに、いつも同じだけ補充されるということは、キャンディは喪失を示すことはないということになります。
喪失しないことがプログラムされた作品で、どうやってパートナーの喪失を意味づけるつもりなのでしょう。
こういう作品を評価する人というのが僕にはさっぱり理解できませんし、
生の断片化をスペクタクルと捉えていたドゥボールの思想からすれば、この4万個のキャンディを用いたインスタレーションこそがスペクタクルに思えます。


他にも山本はカールステン・ヘラーのブランコや滑り台を使って鑑賞者同士に関係を生み出す作品を紹介するのですが、
そういう関係ははたしてアート作品でなければ体験できないものなのでしょうか。
僕も参加型のアート作品を何度も体験しているのですが、どれもこれも「くだらない」「つまらない」以上の感想を持つことはできませんでした。
こんな退屈なものに参加するくらいなら、ディズニーランドに行った方がだいぶマシに思えます。


リレーショナル・アートを受けて、2000年代にはソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)という社会的相互関係を前提としたアートが流行するようになります。
このような流れはコミュニケーションによって形成されたネットワーク(コミュニティ)をアートとして構成する試みだと考えていいと思います。
この流れがインターネットの登場によって実現した情報資本主義のネットワーク形成を背景にしていることは想像に難くありません。
何度も言いますが、現代アートはこの程度のものなのです。
要するに、戦う相手を見失って、関心を共有する人々のネットワークを確認するだけの遊戯じみたものになってしまったのです。


たとえ政治的な課題を扱っても、それを政治的文脈でなくアートで表現する意味がわからないものばかりです。
政治的主張をするより、アート作品で表現した方が自分が危険にさらされなくてすむという、腰抜けジャーナリスト根性で作られたアートをたくさん見てきました。
このアーティストは本気で政治的な主張をすることを恐れていない、と感じたことは多くありません。
(あいちトリエンナーレにそういう化けの皮が剥がれた人がいましたね)
現代アートに価値を認めている人には申し訳ありませんが、僕にはすべてが退屈です。
山本が取り上げている戦後ブラック・アートとかアジアの植民地主義とか、ジェンダーでもいいのですが、
あまりにアカデミックな発想に寄りすぎていて、どうにも無害で退屈なのです。
芸術や文学がアカデミックな世界で流通している言説にすり寄っていくのは、権力や体制への依存であり、芸術や文学の形骸化だと思います。
関係性やコミュニティやコラボレーションを重視するアートが、芸術の自律性への挑戦だと山本は書いているのですが、
そのようなネットワークが前提となった発想には非常に問題があります。
資本のネットワークにすべてが吸収されていくことがまさにドゥボールの言うスペクタクルだからです。
ネットワーク内で流通する評価を盲信し、思考停止に至った人々が年々増えている中で、
資本のネットワークに抗して自律した考えを持つことは非常に困難になっています。
アートとか芸術とか言うなら、その困難へ向かってこそ価値があるはずです。
古典的作品を鑑賞したことのある人なら、地域も文化も時代も共有していないはずの作品から、何かを感じたり衝撃を受けたりした経験があるはずです。
僕はそういうものを芸術や文学と呼びたいので、ある特定の社会や人間を前提とした鑑賞しかできない作品は政治的プロパガンダである、と考えた方がいいと思います。
ナチスのプロパガンダは危険だけど、マイノリティのプロパガンダなら芸術だ、という発想には賛成することはできません。


こんな時代に本気で芸術や文学を志すならば、
資本主義社会や業界ネットワークをしたり顔で流通していく安全な発想と距離を置くことが大切ですが、
何よりも、この社会を超えていく孤独に自分の身を賭ける勇気(あるいは闘志)が必要なのではないでしょうか。


6 Comment

マグノさんへの返答

マグノさんの言っていることは矛盾していますよね。
腐敗体質の業界では「真摯な態度」の人は歓迎されませんし、
作品の「質」が悪いのも、なりふり構わない商業主義が原因なのは、それこそ自明です。
より本質的な話をしている僕の括りが決して「雑」だとも思いません。

僕が気になるのは、文章は一見丁寧に見えるのに、
妙に説教くさいところなんですよね。
僕が誰に嫉妬しているように見えるのかわかりませんが、
江戸時代には身分が違う者への嫉妬心は起こりえなかったと言います。
嫉妬というのは同じ土俵を共有する者の間で起こる現象です。
(むしろ、その意味ではマグノさんと僕との間の方が、より嫉妬が起こりやすいということです)

そういえば、昨日ブログへの誹謗中傷で訴訟に踏み切った人のツイッターを読んだのですが、
10人だと思った相手が実際は4人で、それが複数のアカウントを使っていたらしいんです。
粘着的な嫌がらせをする人は複数アカウントまで作ってやるんですね。
動機は近くにいた人の嫉妬だそうですよ、怖いですね。

無題

返答ありがとうございます。現代〇〇は2000年に終了しているんではないですか。振りかえっても文化や芸術領域で21世紀の20年間、何一つ新しい重大なことは起きていない。回顧とリメイク、続編など反復のみです。新しい物など無いのに、その名称/冠だけ使われ続けていることに弊害があるのではないでしょうか。マスメディアや出版業界は中身のない、看板だけの、あるいは若手というだけの新しさを煽る。この傾向は文化を豊かにするどころか、より内容を薄め、多売する方向、業界延命や保身に起因するものであることは自明です。作品の「質」の問題や関係者の「真摯な態度」を問うべきところで、商業主義と括ってしまうと少し雑な気がします。
 南井さんは非常に鋭い洞察をされてきたと思います。しかし政治スタンスによるものか、現状に拘り過ぎというか、余計なお世話かもしれませんが、嫉妬にみえない表現をされた方が、支持者が増える気がします。私はメディアで扇動され、浅薄で移ろう現代思想よりも、古代~中世の哲学を本質を捉えている点で重視します。進化論や進歩史観という前提で後発のものが、より優れているとか、改良されているなどとは全く思っていないんです。歴史に足場を置いていないと、次々に遭遇する新奇なモノを見分けることが難しいと思います。(古典の新訳ラッシュも、新しいものが疑わしく無内容なこと、より消極的に安全なモノにのっかるビジネスでしょうか。)フランス現代哲学が軽薄なのは、フランス革命(根扱ぎ)の子孫達の仕事だからでしょう。啓蒙主義や暴力を肯定するかどうか、先祖を殺した無神論者の正当化とお遊戯をどう捉えるかです。「理性の祭典」などは歴史隠蔽の為に、文化やフェスティヴァルが公的に開催されてきた発端であり、今も存続する人為的イベントで、「墓の下の民主主義」(チェスタトン)とは程遠い。これは福島ツーリズム同様、インテリの知恵で否定的事象をイメージ刷新しようとする80年代的広告代理店の方策であって、地から生える出たボトムアップな文化とは真逆ですよね。フランス近現代のものでもC.ペギー、S.ヴェイユ、R.ジラールなど歴史を引き受け、起源に自覚的である人の思想は深みがあるとおもいます。好みといってしまえばそれまでかもしれませんが....。

マグノさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
マグノさん、このブログを見つけてコメントしていただき、ありがとうございます。

現代アートと地方自治体の問題は、小崎哲哉の『現代アートとは何か』の最後の方で批判的に書かれていました。
なので、マグノさんの言うことはよくわかります。
ですが、僕にはアートに憧れる他の「現代◯◯」のサンプルとして現代アートを批判したいという目的があったので、
その問題については本質的ではないので触れませんでした。
資本主義という視点が大雑把に思われたとしたら僕の力不足と言うほかないのですが、
僕自身は多くの本でなされている「近代」という括りより圧倒的に正確だと思っています。
現代アートは利益を生む「高額商品」なのですから、金融資本は当然関係していますよね。

近現代芸術は神の代替品

現代アートバブルについて資本主義や業界ネットワークもあると思いますが、大雑把な資本主義で括るより地方創成や村起こしなど「税金の分配」への視座が必須だと思います。
日本は西欧への劣等感から、EUで慣習化されている文化芸術に税金を投入する方法を、そのまま輸入し、真似ているわけですが、EUの根底にある理念は宗教改革(信仰でなく地主-領主の政治的思惑)、革命(自由経済の敵、王族と教会へのギロチン)による神/宗教(キリスト教)の代替品としての芸術という考えがあります。現代アートを釣り上げてるのは独銀行など金融資本で、そのこともまたタブーなわけですが.....。

雨蛙さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
雨蛙さん、コメントありがとうございます。

孤独と孤立の線引きは難しいところですが、
僕は孤立することを勧めるつもりはありません。
(ときにそうなるのが避けられないことはありますが)
顕在の世界で力を持つ、もっともらしい価値にむやみに参与するのではなく、
問題設定において、自らの心に問いかける孤独な作業を恐れないことが大切だ、というようなことを言いたいのです。
結果としてそれが多くの人と共有されるのはいいと思います。
問題は自分自身を貫く「切実さ」が感じられるかどうかです。

雨蛙さんの言う、自分の派閥の影響力を高める多数派工作は〈領域拡大ゲーム〉に当たります。
売文の世界は自己承認を動機としている人が多い印象ですが、
自己承認や自己利益が目的だと、欲望が自己に固着するので、どうしたって支持者の拡大を求めるようになるものです。
そうやって資本の運動の燃料電池になっているだけなのですが、頭が悪いのか、選民意識を持つ人が少なくないんですよね。

無題

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