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現代アートへのレクイエム【その3】

芸術を定義する哲学的欲望

前回の考察では、現代アートは「アートらしくないもの」というアートの「外部」を、
これはアートであると「命名」してシステム内部に取り込む、資本主義同様の運動によって成り立っていることを確認しました。
そこでアート作品は、これまでのアートを乗り越えたことの「痕跡」として、
アート自体が依拠している超越性の顕現を先送りする役目を負っています。


柄谷行人の『トランスクリティーク』(2001年)には、デュシャンの《泉》にカント的な超越論的還元が見られると述べた箇所があります。
柄谷はカントの美学が主観的であることに注意を促し、その主観性は「超越的な括弧入れを行う「意志」」である点で、ちっとも古びていない、と言います。


たとえば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、彼は芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うたのだが、それはまさにカントが提起したポイントの一つであった。すなわち、物をそれに対する日常的諸関心を括弧に入れて見ること。もう一つのポイントは、美的判断には普遍性が要求されるにもかかわらずそれがありえないということ、われわれが普遍的と見なすものは歴史的に形成された「共通感覚」にもとづいているということである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

柄谷が「日常的諸関心を括弧に入れて」と述べているところが、超越論的還元にあたります。
前回の記事でデュシャンがレディメイドによって「趣味的無関心」による還元を意図していたことを紹介しましたが、
ある種の関心を「括弧入れ」することが、デュシャンのみならず現代アート(や近現代思想)においていかに本質的なものであるかがわかると思います。
柄谷は近代科学も「道徳的・美的な判断を括弧に入れるところに成立する」としています。
デュシャンがテクノロジーに強い関心を持っていたことはすでに指摘しました。


この柄谷の議論を踏まえて、アーサー・C・ダントーの芸術論について見ていきたいと思います。
ダントーについてはアートの哲学化を主張した人物として前回少し紹介しました。
彼はフランスでメルロ・ポンティに学んだあと、コロンビア大学の哲学科で教鞭をとっていた学者です。
現代アート関連書籍でもダントーの名は何度も見かけました。
とりわけ、アンディ・ウォーホルの作品《ブリロ・ボックス》(1964年)について語る上では避けられない存在となっています。
ダントーの著書『ありふれたものの変容』(1981年)『アートとは何か』(2013年)を読むと、
彼が主張する現代アートの哲学化は、デュシャン(のレディメイド)とウォーホル(の《ブリロ・ボックス》)に集約されています。
ダントーはデュシャンのレディメイドについてこう書いています。


わたしにとってデュシャンの哲学的発見は、アートは存在しうるということ、そして、審美的な享楽がアートの存在のすべてと広く信じられていた時代においても、アートの重要性とは、語るべき審美的な特質など何も備わっていないところにあるということであった。わたしに関する限り、それがデュシャンのレディメイドの功績であった。それが明らかにしたのは、非審美的なアートが存在しうるがゆえに、アートは美学から哲学的に独立していることを認識する哲学的な態度である。(アーサー・ダントー『アートとは何か』佐藤一進訳)

引用文を読むと、ダントーにとってレディメイドなどの非審美的なアートの存在は、
「アートは美学から哲学的に独立している」という「哲学的な態度」を示すことになっています。
アートは美学ではなく哲学なのだ! とするアカデミシャンによる「箔が付く考察」が業界でありがたがられるのは理解できるのですが、
残念ながら超越論的還元を求めるものを「哲学的」だと評する程度のことは誰にでもできます。
真に考察するべきなのは、非審美的なアートが資本主義と同様のシステムに依存していることの意味なのです。


先にネタバラシをしておきますが、
西洋人が資本主義に支えられた現代アートを、哲学的だと主張できてしまう要因が、
資本主義システムと神学システムの「同一視」にあることを示していくのがこの文章の主旨です。
そこでは「同一視」というのが本質的な問題となります。
なぜなら、ダントー自身がアートの哲学的定義に費やした思考のほとんどが、
見た目がそっくりなものの片方にだけ神が宿っている(受肉)としたら、それをどう区別するか、という
同一なるものの中にある差異をめぐってなされているからです。
アートを哲学的に定義することに固執するダントーの欲望は、彼自身がどの程度気づいていたかはわかりませんが、神学論争に勤しむ教父のそれに近づいていくのです。


消費財と瓜二つのポップアート

ダントーにおいて「同一視」の問題は、先に触れたウォーホルの《ブリロ・ボックス》についての考察として繰り返し扱われています。
まずはウォーホルについて軽く説明しておきましょう。
ウォーホルは50〜60年代のポップアートを代表するアーティストです。
彼は20代の時に商業イラストレーターをしていました。
アートの世界で頭角を現したのは30代になってからで、キャンベルスープの缶のパッケージを描いた《キャンベルのスープ缶》(1962年)という作品は、
アメリカ商業主義と密接に結びついたポップアートの成立に貢献しました。


紛れもない商品のパッケージを描いた絵を並べただけで、なぜこれがアートになるのか、ということに、疑問を感じる人は多いと思います。
これに説得力のある説明を加えた本に僕は出会いませんでした。
ありふれたものの詩学だとか、俗なる芸術の世界とか……、そんなことを言ったら何を描いてもいいではないか、というような説明が目につきました。
もちろん、僕が説明するならば、アメリカ消費資本主義の超越的達成を示す「痕跡」となりえるものだったから、となるのですが、
アート界隈の人はそんな夢のないことを言ってほしくはないことでしょう。
それだけにウォーホルの作品を「哲学的」と評価するダントーの論が歓迎されたのは非常によく理解できます。
ただ、ダントーはキャンベルスープをあまり飲まなかったのか、この作品には触れることなく、ひたすら《ブリロ・ボックス》の話を何度も何度も繰り返します。


まずブリロ・ボックスとは何ぞや、というところから始めましょう。
どうしても指摘しておきたいのは、ダントーは《ブリロ・ボックス》というウォーホルの作品とブリロの箱について驚くほど筆を費やしているのですが、
ブリロというものがどのような商品であるのか、ほとんど記述された気配がないということです。
おかげで僕はブリロとは何であるのか、わざわざ調べないとわからなかったくらいです。
「ブリロ」とは石鹸の商品名でした。
ブリロ石鹸ということですね。
「ミューズ」とか「花王ホワイト」とか「牛乳石鹸」とかそういうものの一種だと思えばいいのではないかと思います。
《ブリロ・ボックス》は石鹸をスーパーマーケットに仕入れる時に用いる運搬用のダンボールのデザインをそっくり模倣した作品なのです。


ニューヨークにあるステーブル・ギャラリーで、ウォーホルはブリロのダンボール箱の複製を、倉庫に積み上げられたかのように展示しました。
それを目にした観衆は、次のような疑問が脳裏をよぎるのを禁じえなかったと思います。
この《ブリロ・ボックス》という作品がアートであるのならば、実際に倉庫にあるブリロの箱を積み上げたものをアートと言ってはなぜいけないのか。
見た目が同じであるにもかかわらず、一方はアート作品であり、一方は単なる運搬用の紙箱でしかないのです。
この両者をどう区別するかがダントーにとっての課題でした。


七十年代を特徴づけ、今日にいたるまで引き続いている一つの主要な変化は、多くのアーティストが伝統的な「アーティストの素材」に背を向け、何であれすべてを、とりわけ現象学者の言う生活ヽヽ世界ヽヽ(Lebenswelt)──わたしたち自身が生を営む、平凡で日常的な世界──に由来する物体や物質を使い始めたことである。そのことによって、今日のアートの哲学の中心的な問い、すなわち、アートと、アートではないがアート作品としてきわめてよく利用されうる実物とを、いかに区別するのかという問いが提起される。(アーサー・ダントー『アートとは何か』佐藤一進訳)

アートとアートに用いられた実物とを区別すること、それはアートとアートでないものを区別することです。
アートとは何かを哲学的に定義するためにダントーが選んだ恰好のサンプルがウォーホルの《ブリロ・ボックス》でした。
ブリロの運搬用のダンボール箱とウォーホルのアートとの間には目に見える区別は存在しません。
実際にはウォーホルの箱は木で作られたものを段ボールに見えるようにしているのですが、
その材質の違いに問題があるわけではない、とダントーは言います。
木製になったのは強度の問題であって、実物のダンボール箱をそのまま展示しても作品は成立するのです。
実物そのものを展示してもアートになるのであれば、もはや同一と捉えるほかありません。
完全に同一のものが、アートにもアートでないものにもなると考えるほかないのです。
たしかに日用品そのものはアートではないのですが、その模倣がアートとなるのは不思議ですから、
ダントーが《ブリロ・ボックス》という作品にこだわったのはよくわかります。


ダントーは両者に眼に見える差異がないのであれば、眼に見えない特質があるはずだと主張します。
彼の論考「アートワールド」(1964年)ではダントーの結論は明快です。
アートをアート「である」と同定する理論によって、その作品がアートワールドの一部だと見なされることが、
アート作品を現実の物体から区別することができる、と言うのです。


結局のところ、ブリロの箱と、ブリロの箱からなる芸術作品とをことならしめているものは、芸術のある特定の理論である。その箱を芸術の世界にまで引き上げ、それが事実それ(芸術的同定のisとは別のisの意味で)である(is)ところの現実の対象へと崩落することから守っているのは、まさにその理論である。(アーサー・ダントー「アートワールド」西村清和訳『分析美学基本論文集』所収)

ここで登場するアートワールドという言葉はダントーの造語です。
ダントーは芸術理論やアート史によって構成されたアートと認知される領域のことをアートワールドと呼んだわけですが、
これと僕が前回に示した、外部を取り入れて拡張を続けるシステムによって暫定的に成立する「アートと認知された領域」と変わりはありません。
ダントーはアートワールドがそのつど外部を取り込んで拡張を続けることについては全く思いが及んでいないようです。


ちなみに同じアートワールドという言葉をダントーとは少し違う意味で用いたのが哲学者のジョージ・ディッキーです。
ディッキーの示すアートワールドは、アートに関係する人々の社会的ネットワークであり、制度的なニュアンスが強く出ています。
ダントーはこのディッキーのアート制度論を「騎士制度に類している」としています。
(【その1】で紹介した小崎哲哉の意見はディッキーの主張を参考にしています)
ディッキーの論にはダントーが重視する歴史的文脈が欠けているのですが、僕にはそれほど両者の主張に差があるとは思えません。
結局はアートの世界が、関係者ネットワークの「認知」によって書き換えられる「領域」であることを示している点に変わりがないからです。
どちらにしても僕のシステム論を越える主張ではありません。
僕としてはディッキーの制度論を騎士制度と表現するより、教会制度の隠喩で表現してもらいたい、という希望はありますが。


神学化する現代アート

さらに興味深いのが、ダントーが『アートとは何か』で別の説明の仕方をするようになっていることです。
ダントーは論考「アートワールド」においては、実物のブリロ・ボックスとアート作品《ブリロ・ボックス》との区別を、アート史に基づいた芸術理論に見ていましたが、
『アートとは何か』では「受肉化された意味」にあるとしています。


何物かが一つのアート作品であるのは、それが一つの意味──何かについての──を持つときであり、そうした意味が作品に受肉化されている──通常、アート作品を物質的に構成する物体に受肉化されているという意味で──ときである。簡潔に言えば、わたしの理論によれば、アート作品とは受肉化された意味である。(アーサー・ダントー『アートとは何か』佐藤一進訳)

ここで「受肉」というキリスト教の言葉が用いられているのは、ある意味で現代アートの正体を示していると思います。
受肉とは神が人間の姿となって現れることで、つまりは神の子イエスが人間としてこの地上に生まれたことを言います。
この発想を単純化すると、実物のブリロ・ボックスには神が宿らず、アート作品の《ブリロ・ボックス》には神が宿っている、ということになります。
ダントーは表現として「受肉」という言葉を選んでいるだけで、アートに神が宿ると主張しているわけではありません。
伝達されるべきアイデアを宿していることを、「受肉化」と言っているようです。


ダントーが意味の伝達を「受肉」という言葉で表現したのは象徴的だと言えるでしょう。
まず、現代アート作品がアイデアを伝達するものだと考えることは、作品をメディアとして捉えているのと同じことです。
イエスは神の言葉を伝える預言者として考えられることもあるので、現代アートを「受肉」という言葉で表すことは、
現代アート作品を超越性(神)へとつながるメディア(痕跡)だとする僕の考えとそう変わらなくなります。
そして、肝心なのは、ダントーのこの洞察こそが、
現代アートのシステムが資本主義システムを神学的ニュアンスで読み替えたものだという僕の主張を裏づけているのです。


何も僕は現代アートがエセ神学だと言いたいわけではありません。
ただ、その神学的な身振りで何を隠蔽しているかに注意を促したいのです。


ウォーホルの《ブリロ・ボックス》に繰り返し言及するダントーの論を読んでいると、むしろ彼が執拗に触れようとしないことの方が気になってきます。
たとえばダントーは実物のブリロ・ボックスとアートの《ブリロ・ボックス》の外観が瓜二つであることを強調しますが、
ウォーホルがあくまで商品そのものではなく、商品のパッケージを選んで複製したことについては感心がないようです。
たしかに両者の外観は視覚的に区別できないものですが、それはあくまで「中身」を無視して一定距離をあけて眺めるケース(つまりは展示会場)でだけ成立します。
箱の中を確認してしまえば両者の違いは一目瞭然です。
このことについてはのちにまた触れますので、少し記憶に留めておいてください。


僕はウォーホルの《ブリロ・ボックス》が「中身」を持っていない、という点に現代アートとしての特質を見出したいと思っています。
表層へのこだわりは当然ながらポストモダンにも通じます。
つまり、実物のブリロ・ボックスはその「中身」である石鹸について宣伝・指示をしているのですが、
ウォーホルの《ブリロ・ボックス》は指示すべき「中身」がないため、柄谷行人が言ったような超越論的還元(日常的諸関心の括弧入れ)が起こり、
そのためにアートとは何であるのか、という問いかけが起こりうるようになっているのです。


ダントーは超越的な問いかけに正面から哲学的に応じようとしたわけですが、
現代アートの意義は超越的な問いかけをしていると「思われる」ことにあるのであって、
実はそれに答を出す(アートの定義をする)ことは重要ではないのです。
つまり、「問い」という流通用パッケージが重要なのであって、「答え」という中身は必要ないのです。
むしろ、そのような自己言及的な問いかけを不断に必要とするシステムによって、現代アートもしくは彼の言うアートワールドが成り立っていることを明らかにするべきなのです。


ボードリヤールのポップアート論

ウォーホルの話になったので、ポップアートについて少し触れておこうと思います。
ポップアートは完全にアメリカ的な大量消費財のイメージを流用しているため、大衆的な通俗性と匿名性を特性として併せ持っています。
オクタビオ・パスは『マルセル・デュシャン論』(1967年)で、ポップアートが「受動的で体制順応的」であり、「暮らしに困らないひとびとの大衆主義である」と書いています。
それは芸術というより、大量生産の複製性に母胎的環境を見出して安心を貪る〈安楽への全体主義〉の共犯者でしかありません。
これがアートと目されたことで「芸術」というハイカルチャーが大衆的なサブカルチャーに飲み込まれる事態となったわけですが、
「外部」を求めるアートが大衆を呼び込むより、大衆の方へ歩み寄ることを求めたことで、ポピュラーかつアートという矛盾へと踏み出したのです。


消費行為を記号の操作と捉えるボードリヤールは、『消費社会の神話と構造』(1970年)で、
ポップアートが消費社会の作り出した神話と共犯関係にあると述べています。
ボードリヤールはポップアーティストが、モノが伝達するマークや宣伝文句を好んで描くことで、
「モノと製品の真の姿はそれらにつけられたマークだということ」を示しているにすぎない、とします。


モノへの偏愛とか「商標付きの」モノや食料品の際限のない形象化を通して──もちろん商業的成功を通じて──「署名入り」の「消費される」モノとしての芸術という独自の地位を追求した最初の芸術がポップなのである。(ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司、塚原史訳)

ボードリヤールは、消費されるアートであるポップアートに神秘主義の影を見出します。
ウォーホルに「神秘主義的ノスタルジー」が見られる、とも述べています。
直観的なボードリヤールの文章は理解が困難なので、機会があれば別の論考で丁寧に考察したいと思いますが、
ざっくり言うと、彼は消費社会における商品はもはや「記号」でしかないと考えています。
消費社会では、他との関係においてしか自らを示すことのない商品は、商品のネットワーク全体を志向する「記号」へと変化しています。
あるモノは別のモノを指示する記号であり、互いが互いを指示するネットワーク的なあり方によって、部分において全体を示す換喩的な存在となるのです。


消費者はもはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのパッケージと関わることになる。洗濯機、冷蔵庫、食器洗い機等は、道具としてのそれぞれの意味とは別の意味をもっている。ショーウインドウ、広告、企業、そしてとりわけここで主役を演じる商標は、鎖のように切り離しがたい全体としてのモノの一貫した集合的な姿を押しつけてくる。それらはもはや単なるひとつながりのモノではなくて、消費者をもっと多様な一連の動機へと誘う、より複雑な超モノとして互いに互いを意味づけあっているが、このかぎりにおいてはモノはひとつながりの意味ヽヽするヽヽものヽヽなのである。(ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司、塚原史訳)

つまり、ボードリヤールにとって消費される商品とは個々の使用価値という「本質」としてあるのではなく、
商品全体が属しているマーケットを志向するイメージであり、ネットワークを形成する「記号=シニフィアン」の役割を果たすものなのです。
(彼は消費社会とは一つの「テクスト」であり解釈のシステムだと主張したいのだと僕は思っています)
それは僕が現代アートを、アート領域が依拠する超越性を志向するもの、すなわちアートワールドの「痕跡」と考えていることと、ほとんど変わりがないと感じます。
超越性の「痕跡」とは、超越性が存在していることを指し示す「記号」だと言えるからです。
現代アートはアートの超越性を示す「痕跡」であり、「記号」であり、伝達された意味という神秘性を「受肉」したモノなのです。


しかし、《ブリロ・ボックス》のような大衆性に依存したポップアートが、超越性の「記号」となりうるのはなぜなのでしょうか。
大衆的なものが超越性を示すというのは矛盾なのではないでしょうか。
ポップアートを擁護する人々は、大衆的な通俗性や匿名性に依拠したはずのポップアーティストを特殊な才能の持ち主、つまりは個性的なアーティストとして評価することで、
この矛盾を解決しようとしてきました。
(凡庸でサブカル的な作品を書く人を──商業的成功を通して──「大作家」扱いし、文学を延命させようという出版社の手口がいつまで通じるのでしょう)
これについてボードリヤールは矛盾というより「思い違い」だとしています。
モノが何かを意味する既成の記号であるという消費社会の現実を、まるでそれが「自然」であるかのように受け入れて示したのがポップなのだ、と彼は言います。


記号としての商品のネットワークが作るイメージと商品の世界を、まるで自然環境であるかのように受け止めることで、
商品でしかないものに絶対的現実を見出していく本物主義のイデオロギーが生まれます。
例の超越論的還元です。
商品にまつわる記号性と消費的欲望を括弧に入れることで、商品が日常生活と人間性を脱ぎ捨てた剥き出しのモノへと化していきます。
そこにイデア的な「超現実性」を見出そうというのが、ポップアートの試みなのです。
こうして単なる商品が理想の自然を啓示するものとなり、商品を自然物として扱うことが「神秘主義的リアリズムの信仰告白」となるのです。


このようなポップアート的な発想を今になって取り入れようとしているのが俳句の世界です。
俳句は長らく自然や実生活を対象とする面が強かったわけですが、
バブル以後の世代を中心に、商品世界(メディア的情報環境)を自然環境であるかのように受け止め、それを現代アート的な虚飾をほどこして正当化し、
自らが神に近づいているかのような神秘主義者の顔をしたがる俳人を持ち上げています。
(軽々しくイデアとか口にする単細胞俳人も目につきます)
卑屈な権威主義者にはわからないでしょうが、現代アートの模倣などちっとも文学的ではないのです。


ボードリヤールは、目に映る事物の単なる羅列を日常的環境から切り離して、現実の本質を見出すのがポップのイデオロギーと捉えています。
周囲の世界を操作可能な記号の組み合わせによる文化的人工物として示さずに、
啓示された自然や本質として示すことで、ポップは統合された社会の完全なイデオロギーとなります。
そこでは現在の社会が所与の自然として捉えられ、一種の理想社会として把握されていくのです。
これを文学の分野に当てはめれば、言語を差異を示すだけの遊戯的な作用として捉えることで、
現在の消費社会を所与の自然とするイデオロギーとして考えることができます。


ポップをアートにする〈遠隔的同一視〉

非常に難解な議論なので、乱暴にわかりやすくしてしまいますが、
ボードリヤールが語るポップは、消費社会の人工物による記号的ネットワークを所与の自然環境と「同一視」することで神秘性を供給します。
操作可能な記号でしかないものを、所与の現実として認知する錯誤が、超越論的還元を可能にするのです。
すべてのモノは使用価値としての実態を剥ぎ取られ、具体的対象に着地することのない純粋な交換価値──超越性を示す記号として、アートと命名される可能性を持つことになるのです。
こうして消費社会の日常はたやすく芸術的・神学的世界へと置き換わっていくのです。


このような記号と現実の「同一視」は明らかな錯誤であるわけですが、
問題はなぜこのような錯誤が起こるのかということです。
ダントーはウォーホルの《ブリロ・ボックス》を実物と区別することに執心していたわけですが、
僕は全く正反対の関心を抱いています。
ウォーホルの作品と実物とをなぜ同一だと思えるのか、と僕は問いたいのです。


ここで前述したダントーが取り上げることをしなかった両者の差異について思い出してください。
僕は両者の違いはブリロ・ボックスの「中身」が存在するか否かにあると指摘しました。
それなのに私たちがアート作品と実物を「同一視」してしまう原因は、それが一定の距離をおいて「見られるもの」であるからです。
《ブリロ・ボックス》がアートであるのは、美術館に置かれているからだ、という主張もあるでしょうが、それは正確な理解ではありません。
美術館に展示されることで、一定の距離から「見られるもの」であることが約束されていることを理解するべきなのです。
このように対象に決して近づくことなく、隔たりにおいて「等しく」対象を眺める態度を、僕は〈遠隔的同一視〉と名づけようと思います。
テレビやインターネットというメディアが〈遠隔的同一視〉に現実性を与えていることは言うまでもありません。
(ちなみにデュシャンの遺作である《与えられたとせよ ⒈落ちる水 ⒉照明用ガス》は、扉の穴から中を遠隔的に窃視する作品でした)


遠くから眺めることで異なるものを「同一視」することができます。
たとえば、人種や民族、性的志向などの差異は、より遠くに立って大きくくくれば、みんな人間だと抽象化することができます。
つまり、より遠くから眺めることで、異なるものを普遍性の中に回収することができるのです。
僕はより遠くへ、より外部へと視点を遠ざける〈遠隔的同一視〉のメカニズムこそが、近代のイデオロギーではないかと思っています。
ポストモダン思想も〈遠隔的同一視〉に立脚している点で、全く近代批判を成し遂げることができていません。
(むしろ〈フランス現代思想〉はこのイデオロギーに忠実であるために消費社会の原理に取り込まれてしまいました)


〈遠隔的同一視〉のメカニズムをわかりやすく喩えるならば、ド近眼の人が遠くを見ると、遠くのものがぼやけてみんな同じに見える、というだけのことなのですが、
これが神の視点であるような超越的視点(=メタ視点)を仮構していることが問題です。
〈遠隔的同一視〉による普遍化は、対象を眺める自己をどんどん対象から遠ざけ、メタな視点へと運びます。
つまり、近代における普遍性は、隔たりをもった「視線」によって成立するものなのです。


このようなメタ視点に立脚した普遍性を資本主義との関係で捉えて批判することが重要だと僕は思っています。
しかし、日本で好まれている〈フランス現代思想〉にはこのような問題意識は感じられません。
むしろ、日本ではマイナーにとどまっているフランス思想の方にすぐれた考察があると思います。
その代表がギー・ドゥボールです。
日本の現代思想研究者は消費社会に吸収可能なドゥルーズやフーコー、デリダについては雄弁なのですが、
ドゥボールとその影響を色濃く感じる(ドゥボールの剽窃者と批判されることもある)ボードリヤールについてはサッパリわかっていないように見受けられます。
(僕は今村仁司のボードリヤール読解もあまり評価していません)


「スペクタクル」という権力形態

ドゥボールは資本がスペクタクルとしてイメージ化した消費社会が、人々を疎外することについて考察した『スペクタクルの社会』を書きました。
同名の反映画的な映画も作っていますが、アートにおける実践的運動家としての面が重要かもしれません。
1957年にドゥボールが結成した「アンテルナシオナル・シチュアシオニスト」は、「漂流(デトゥルマン)」と「転用(デリーヴ)」を手段として政治的な芸術実践を行いましたが、
この活動が1968年の五月革命と言われるパリの民衆蜂起へとつながったのは有名です。
最近出版された山本浩貴の『現代美術史』(2019年)がドゥボールについて触れていたので、それを引用してみます。
(山本の本ではアンテルナシオナル・シチュアシオニストではなく、シチュアショニスト・インターナショナルと英語で記されています)


フランスを拠点としたシチュアショニスト・インターナショナルは、戦後史の中で最も過激な政治的芸術運動の一つでした。その使命は、資本主義がもたらす大量消費社会やビオ・権力プーブワール(ミシェル・フーコーが提示した支配の概念)が支配する管理社会において、「状況」(シチュアシオン)を「構築」することでした。「状況の構築」は、反体制闘争を可能にする空間を都市に創出することを意味します。(山本浩貴『現代美術史』)

ドゥボールたちは芸術を政治化する実践運動によって、体制的な資本の支配に対抗するための解放区を生み出そうとしました。
日本では〈フランス現代思想〉がバブル経済を背景にして受容されたため、政治的な面が脱色されて、消費社会に依存したオタクの脳内遊戯でしかなくなっています。
当然ながら政治色の強いドゥボールに興味を持つ人はほとんど見かけません。


ドゥボールが消費社会においてイメージ化した資本を「スペクタクル」と呼ぶ時に、
それが「遠くから眺められるもの」であることが前提となっています。
『スペクタクルの社会』の最初の断章がまずそのことに触れています。


近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のうちに遠ざかってしまった。(ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』木下誠訳)

この断章を単に表象批判と解釈するだけでは他のつまらない思想と区別がつかなくなります。
自分の生活をいちいち写真に撮って、ネットにアップするような生のあり方が、
資本に支配された社会の要請であることをドゥボールは言っているのです。
加えて、「遠くに届ける」ことは「近いものを遠ざける」ことである、ということが考えられるべき問題です。
この「近いものを遠ざける」ということが、〈遠隔的同一視〉というメタ的な普遍性を成立させるためには必要なのです。
そこで問題になるのは、距離とメディアです。
(抽象化という作用も〈遠隔的同一視〉によって成立していると僕は考えています)


もちろんドゥボールの思想にも時代の限界はあります。
ドゥボールはスペクタクルを疎外論の文脈で語っているので、人と人、人とモノを「分離」していくことを問題にしているのですが、
今の時代を考えると、「近いものを遠ざける」ことがメディア端末によってある程度達成されてしまったために、
「自分の嗜好に合わせて近づける」ことの方が問題になってきていると思います。
しかし、その前提として「近いものを遠ざける」こととなる〈遠隔的同一視〉があることは絶対に踏まえておかないといけないものです。
いったん等しく遠ざけたからこそ、自分の都合で「選択的に」近づけることができるようになるのです。
そして、「自分の嗜好に合わせて近づける」ものは、本質的には自分から遥かに隔たったところにあります。
そのような疎外された自己に気づきたくないから、人々は駆り立てられるようにスマホなどの〈メディアワールド〉に接続して、自分の近くにある「はずのもの」の遠隔性を絶えず否認することになるのです。


〈メディアワールド〉の話は別の論考で詳しくやるとして、
ウォーホルの《ブリロ・ボックス》が立脚しているのは、〈遠隔的同一視〉を自明とするスペクタクルの社会です。
離れて見ると「同一」に見える、という〈遠隔的同一視〉を前提にしているからこそ、実物と「ハリボテ」が同一だと思えるのです。
そして、作品を距離をおいて見ることを成立させているのが、美術館に代表されるアートの「制度的な空間」です。


権威に支えられた「制度的な空間」

カントの超越論的還元はあくまで主観的に成立します。
主観的であることに意義があったからです。
神学的な超越性に依存することなく、主観的な形而上学を考えることで、個人の自由を探究したのです。
冒頭で僕は、柄谷行人がカントの哲学を支えているものが、主観的な超越論的還元への「意志」だと述べていることに触れました。
しかし、現代アートの超越論的還元を要請しているものは、カントのような個人の「意志」ではありません。
美術館に代表される「制度的な空間」という権威の力によってなされるのです。
このことについても柄谷行人は以下のように書いています。


超越論的態度は暗黙に「括弧に入れよ」という命令をふくんでいる。たとえば、私は先にデュシャンが便器を美術展に展示したことについてふれた。その場合、彼はそれを芸術として見ること、つまり、日常的関心を括弧に入れることを命じてはいない。しかし、それが美術展に置かれているということが、人にそれを美術として見ることを「命令」しているのであり、そのことに人は気づかないのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

現代アートがカント哲学より敷居が低いのは、それが制度や権威の力を頼っているからです。
ダントーのアートワールド論はこの点に触れようとしない点で、アート関係者にとって耳障りのいい空論になっています。
(ディッキーの語るアートワールドの方が本質をついている、ということです)
制度や権威の力で超越性へと近づくのであれば、教会制度によって神を感じるのと大差ありません。
現代アートが資本主義システムを介して神学システムの模倣をめざしている、と僕が感じるのはそのためです。


このような「茶番」は最近の文学周辺にもよく見られます。
他ジャンルの著名人の素人小説を、芥川賞に直結した「文芸誌」という制度の中に置くことで、新しい文学であるような偽装をする態度や、
サブカル化した俳句モドキを書きながら、自らを強固に俳人と位置付け、俳句総合誌や俳句協会という既存制度の中に位置を占めることに勤しむ態度がそれです。
これらは出版社を権威として生き残らせることに貢献するので、出版社と非主流派の共犯的商売として顕在化します。
視野を広げれば、これがネトウヨ的な保守言説と出版社の共犯的商売と同じ図式であることがわかると思います。
(もちろん、このような図式に乗って登場した人たちは、当人が無自覚であってもネトウヨ的な精神を持ち合わせた人でしかありません)
これが現代アートのシステムと相同的であって、消費資本主義を背景に成立した「権威的制度」なのだという認識を持たないと、
批判をしても嫉妬とかルサンチマンとかつまらない個人感情で済まされてしまいます。


このように、消費資本主義が行き詰まると、それを利用した「権威的制度」も行き詰まりが見えやすくなってきます。
承認欲求の強い人ほど「制度的な空間」への参与を強く求めるようになりますし、営業活動がそのまま作品評価につながりやすくなります。
また、「新しさ」や「前衛」を標榜する人が、業界の外部を志向している顔をしながら、その実は業界内権威に依存した者でしかないという矛盾が顕在化します。
こうして真の外部は失われ、すべてが資本主義システムの内部に閉じ込められていることが明らかになり、
人々は潜在的な鬱病患者となり、絶えず気晴らしを必要とする「非日常」の無限ループを求めていく貧しい人生を生きるしかなくなります。
(これを避けるには、資本主義の真の外部に立つこと、すなわち資本主義やその犬どもへの敵対的態度しかないと僕は思っています)


もう一つ書いておきたいことは、
その業界の「制度的な空間」へと参与するために不可欠となるのが自己言及だということです。
ダントーはアート史やアート理論がアートを成立させると考えていましたが、
アートについて言及するものがアートである、というあり方こそが確立した神学的制度にのっとった発想でしかありません。
ジャンルに対する自己言及的な態度というものは、既存の権威と制度を前提とした保守性の現れだと言うべきです。
自らのジャンルに対して自己言及的な作品は、「乗り越え」のアピールだけはやかましいのですが、
最終的にそのジャンルに参入したい助平心が見え見えでしかありません。
そういうものが本当に「外部」であるものでしょうか。
言い換えれば、制度的な超越論的還元など体制的でしかないのです。
芸術や文学が依拠するものは個人の自由であるべきです。
自己言及的な作品がどうにも退屈なのは、「異端」として既存のジャンルから排斥される覚悟がまるで感じられないからです。


現代アートにはアートという制度に反抗するもの、政治的なメッセージがあるものもありますが、
現代アート自体がこのような「制度的な空間」で成立してきたものであるために、現代アートという土俵にいる時点でほとんど「癒し」や「自己満足」の効果くらいにしかならないと思います。
建前として「その問題を考えさせる」機会を与えている、と言えばなんとかごまかせるのですが、
本質的にはアートの〈領域拡大ゲーム〉に利用されているだけでしかありません。
(こういう〈領域拡大ゲーム〉を文化における帝国主義とは言わないのでしょうか。
非西洋のアートを取り上げれば表面上はごまかせるわけですが)


ちょっとだけ時事的な話をさせていただきますが、
「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展−その後」が抗議によって中止に追い込まれた問題は、このような制度的問題の矛盾が表面化したものだと考えるべきでしょう。
「表現の不自由展−その後」では、従軍慰安婦を象徴する少女像の展示や昭和天皇の肖像を燃やす映像作品などに右派的な人々からの抗議や脅迫が殺到しました。
芸術監督の津田大介(やアドバイザーの東浩紀)は、美術展という「制度的な空間」の力を当てにしすぎていたように思います。
政治的メッセージが強い作品であっても、美術展という「制度的な空間」に置かれればアートとして尊重されるはず、という認識の甘さがあったのではないでしょうか。
右派のアートを尊重しない態度を批判するのもいいですが、
その前に、神学的背景のない日本で、世俗権力(自治体)が実施している国際美術展という「世俗の制度空間」によって、
世俗権力を批判する作品を現代アートとして免罪しよう、という試みに無理があったように思います。


虚無をパッケージ化する〈非日常の無限ループ〉

僕は現代アートにレクイエムを捧げる目的でこの文章を書いているので、
最後に現代アートの最終形態を示して終わりたいと思います。
現代アートが「アートとは何か」という超越論的還元を繰り返し、その「外部」をアート領域に取り込んでいくと、
最終的には虚無という「外部」にぶつかります。
この虚無をシステム内部に取り込んで、パッケージ化して消費するのが資本主義の最終形態だと僕は考えています。
この段階に至ると、これ以上の新たな外部が存在しないため、果てしないマンネリを繰り返すようになるのです。
このマンネリは〈非日常の無限ループ〉となります。


〈非日常の無限ループ〉の平和的な例はディズニーランドに行きまくったり、ネットに耽溺したりすることですが、
最悪な例は終わりの見えない内戦状態だと考えていいでしょう。
何はともあれ薬物依存状態に類するものです。
ボードリヤールは日常性を「反復における差異」(ドゥルーズに対するあてつけ?)としていますが、
〈非日常の無限ループ〉は表層に差異、深層に反復という二層構造によって確固たるものとなります。
そこではすべてがスポーツイベント(俳句甲子園! ブンゲイファイトクラブ!)のようなものになるのです。


言い忘れたのでここで書きますが、
ダントーはウォーホルの《ブリロ・ボックス》が実物と瓜二つであることを、アートの定義と絡めて区別することに執心していましたが、
僕はウォーホルが中身不在のパッケージの「複製性」そのものを、消費社会の超越性を示す「記号=痕跡」として提示したのだと考えています。
だからこそキャンベルスープやマリリン・モンローの唇は横並びにされなければならなかったし、ブリロ・ボックスも積み上げられなければならなかったのだと思っています。
しかし、消費資本主義における超越性などは、ボードリヤールの考察にもあった通り、アートとして提示するまでもない「日常」でしかありません。


レディメイド以来、何でもアートになる可能性を持つようになった、という言説を目にしますが、
それはアートが日常風景とほとんど変わらなくなった、ということでもあります。
そうなると、作品にアートであることを証し立てる力はないので、「制度的な空間」に置かれることでしか価値を表すことできなくなります。
美術展に置かれているからアートであり、文芸誌に載っているから文学であり、哲学科卒で本を出したから思想家であるというだけです。
このような事態を考えるのに、パリの日刊紙「リベラシオン」に掲載されたボードリヤールの「芸術の陰謀」(1996年)にある現代アート批判が参考になります。
(日本語版は単行本『芸術の陰謀』に所収されています)


しかし、現実を横取りする〔芸術が現実を表象することをやめて、現実そのものになる〕ことで芸術自体を無限にリサイクルするという戦略に賭けるような芸術は、重要だといえるだろうか? ところが、現代アートの主要な部分は、まさにこの戦略を用いているのだ。つまり、価値やイデオロギーとしてはとるにたらない、凡庸で、ゴミのような現実を横取りするのである。こうした無数のインスタレーションやパフォーマンスの中にあるのは、ものごとの現状との妥協、それと同時に、過去の美術史のあらゆる形態との妥協というゲームにすぎない。(ジャン・ボードリヤール『芸術の陰謀』塚原史訳)

ボードリヤールはこの文章の中で、アートがあらゆるものを美的な凡庸さの位置に上昇させたことで幻想への欲望を失ったと書いています。
これを彼は隠されたもののないポルノに例えているのですが、なかなかわかりやすいですね。
彼が「無限にリサイクル」と書いている部分は、僕が「無限ループ」と言っていることとそう変わらないのではないかと思います。
つまり、過去のあらゆるものが等しく遠隔へと遠ざかっている「中身」のないパッケージという現実の中で、使えそうなものをリサイクルして現状との妥協に用いるゲームがアート(に代表される表現)だ、ということです。


ボードリヤールは現代アートが、「凡庸で無価値なことがオリジナリティだという価値観と、
倒錯的な美的快楽の享受の告白」でしかないと言います。
そこでは凡庸さの主張がアイロニーの形をとります。
作品は自らが無価値・無内容であることを気取ってアピールするのですが、実はその作品そのものが本当に無価値・無内容でしかないのです。


現代アートの裏表のある二重性のすべては、この点から発している。それ自体がすでに無価値・無内容なのに、ことさら、無価値・無内容、無意味とナンセンスを要求し、無ニ  ル容をめざすというわけだ。すでに無意味なのに、ナンセンスをめざし、うすっぺらな言葉でうすっぺらを気取るのである。(ジャン・ボードリヤール『芸術の陰謀』塚原史訳)

この文を読んで、僕は自ら『意味のない無意味』という本を出した人や、「オルガン」という同人誌に載っている俳句を思い出して苦笑したのですが、
このように無価値・無内容を気取るアーティストが、「無内容を商業的な戦略にしている」とボードリヤールは指摘します。
「彼らは無内容であることに宣伝用の形態をあたえることになった」、と。
こうして現代アートは「無価値・無内容であることが重要なのだと人びとに信じこませる」ことになるのです。


現代アートは虚無を積極的にパッケージ化することで、
パッケージだけが虚無なだけで、隠された中身はきっとすばらしいはずだという誤解を呼び寄せます。
そうして肝心の「中身」が本当に虚無であることをうまく隠し通しているのです。
(ダントーの理論がありがたがられるのはこういった隠蔽行為に役立つからにほかなりません)


その場合、現代アートが無価値・無内容であるはずがないので、そこには何かが隠されているにちがいないという思いこみが口実となる。現代アートは、この種の不確実性を利用し、根拠のある美的価値判断が不可能になったという状況につけこんで、現代アートをまったく理解できない人びと、あるいはそこには理解すべきことなど何も存在しないことが理解できなかった人びとの後ろめたさをあてにしている。(ジャン・ボードリヤール『芸術の陰謀』塚原史訳)

ボードリヤールはこのような状況を「全面的なインサイダー取引」だとしています。
彼はこのような状況が持続可能なものなのか半信半疑でいるのですが、消費資本主義が続くかぎりは形式的には維持されるだろうと思います。
やはり、この状況に止めを刺すのは資本主義の行き詰まりしかないのではないでしょうか。


言いにくいことを口にすれば、アートや文学の本質はもう死に絶えています。
すべてが主体の関与不能な遠隔へと遠ざかった世界を受け容れた人に、アートも文学も主体的に生み出すことはできないからです。
残るのは古典だけです。
今後の作品はそのジャンルの古典に言及することで、自らの無価値・無内容をパッケージ上だけのものだと偽装して出荷することに終わるでしょう。
もちろん、本質論によって既存ジャンルの機能不全を暴露する批評家を追放することも同時に行う必要があるわけですが。


2 Comment

雨蛙さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
雨蛙さん、いつもしっかり読んでいただいて感謝にたえません。

俳句界は出版マスコミやインターネットの影響によって、
結社という縦型要塞(笑)から、インターネット世代によるネットワークの平面型(俳句地図!)に移行していますね。
ただ、ネットワーク型は要塞と言うにはあまりに貧弱です。
ある程度外部に開かれてしまうために、僕のような俳人でもない単独ゲリラを呼び込む余地ができてしまうのです。
(それから元高田獄舎は「孤狼」ではないですよ。大学俳句サークル経由のセーフティネットがありますから)

ネットワークによる価値づけが当然になると、
作品が無価値・無内容でも、出版社の商売事情と話題性を絶えず欲しているネット事情によって騒がれた作品が、いい作品であるように思えてしまうでしょうね。
これからの時代、価値ある作品を生み出したいのならば、こういう動きの「外にいる」(敵対する)ことが大切になると思います。

僕は『資本論』はマルクスの書いた第1巻しか真剣に読んでいません。
読むなら第1巻、特に最初の価値形態論がネットワークについて考える上では重要です。

無題

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