- 2020/06/07
- Category : 【逸脱書評】思想・宗教
『現代思想の基礎理論』(講談社学術文庫) 今村 仁司 著
80年代にねじ曲げられた現代思想
ポストモダンという価値観が日本では〈フランス現代思想〉との関連で語られてきました。しかし、ポストモダンがマルクス主義とどう関係してきたのかを理解している人は少ないように思います。
マルクス主義はスターリン批判(1956年)やフランスの五月革命(1968年)を境に、大きな転換を迫られることになったのですが、
日本で現代思想の代名詞となった〈フランス現代思想〉がその影響下にあることは、僕の世代になるとあまり考慮されていなかったように思います。
フランスの知識人は伝統的に左派だというのが常識なのですが、
フレンチ・セオリーがアメリカでウケたこともあって、そのあたりの事情がぼやかされてしまっているように思います。
本場の〈フランス現代思想〉は左派的な性質を持っているのですが、
日本のとりわけニューアカ以降の現代思想ブームは、ソビエト社会主義体制の落ち目の時期と重なったため、
マルクスの影響を隠蔽するようなかたちで、アメリカ消費文化の牽引役を果たしてきました。
これが本来の〈フランス現代思想〉とは似ても似つかないものであるため、僕は〈俗流フランス現代思想〉と呼んでいます。
そのため日本では、フランス思想といってもマルクスの『資本論』の読み直しを行ったアルチュセールにこだわっている市田良彦のような存在はマイナーで、
学問的内実に乏しい学者なのか文筆家なのかよくわからない人が、
青土社や河出書房新社などの出版ジャーナリズムと癒着関係にあって幅をきかせてきました。
(こういう人に限って、マルクスはもちろんアルチュセールにもスピノザにも触れずにドゥルーズを語っていたりするのです)
その結果、日本の無知な出版ジャーナリズムしか知らない人が、「リゾーム」とか「差延」とかいうキーワードを振り回して現代思想を理解した気分になっています。
現代思想の政治的な面を意図的に脱色(去勢)してきたのが、日本のオタク向け現代思想というものなのです。
そのような〈フランス現代思想〉の日本的「ねじ曲げ」が行われる以前に、
マルクス経済学とアルチュセール思想に詳しい今村仁司が、マルクス主義の文脈をからめて現代思想を紹介していた本を見つけました。
『現代思想の基礎理論』(1992年)という本です。
残念ながら今は絶版になっています。
本書を読むと、僕がAmazonレビューに書いて散々文句を言われた内容が普通に書かれていました。
この本がもっと読まれていれば、僕が不当な攻撃を受けることもなかったように思います。
たとえば、僕が〈フランス現代思想〉が出版界の中心にある、と書いたことを取り上げて、
佐野波布一(僕の旧筆名)を当てにならないレビュアーだと中傷記事を書いた人がいましたが、
残念ながらその程度のことは本書にしっかり書かれています。
「現在の日本の文化ジャーナリズムを眺めてみますと、ヨーロッパのある地域で話題になっている一部の思想が乱舞しているようです」
今村が言う「ヨーロッパのある地域」とはもちろんフランスのことです。
今村は〈フランス現代思想〉を「流行」と捉えています。
〈フランス現代思想〉は現代思想の代表ではなく、日本の「流行」でしかないという視点が1987年の時点には存在していたのです。
今村は続く部分でこうも書いています。
日本で好んで話題にされている当世風の思想は、この広い地球上の一画で生れたもの、つまりフランスの思想です。構造主義、ポスト構造主義、ディコンストラクション、ポストモダン、等々はおおむねフランス産であり、そのうちのあるものはフランスからアメリカに輸出され、アメリカ化したフランス物が日本に輸入されて、文化産業によってニューモデルの文化商品として流行しているといってよいでしょう。
これを今村は「病的な現象」であり、「知識人たちは、フランス物ばかり流行する日本の文化状況に対してしきりに反撥しています」と述べています。
これを読めば、僕の言っていたことなど一昔前の知識人の普通の意見だったことが想像できるのですが、
ニューアカ以降の「文化商品」でしか思想を知らない僕周辺の世代は、
出版ジャーナリズムを正義と短絡する消費市場崇拝に染まっています。
本書を読むと、アカデミシャンが出版ジャーナリズムと距離を保っていた時代にノスタルジーを感じずにはいられません。
なぜフランス思想が流行したのか
それでは、なぜ地球上の一画の思想が「現代思想」そのものであるかのような顔をするようになったのでしょうか。
その理由として今村はフランス思想の「軽さ」を挙げています。
表現の面でのんびりとしたアングロ・サクソン風の学問や、深遠そうなアイデアや用語を駆使した重々しく暗いドイツの学問に飽きた若い「消費者」世代が、
軽快でスピーディなフランス思想を求めた、と述べています。
「若い世代は、いわば観客であり、消費者です」と今村が書いているのは象徴的です。
僕は何度も〈フランス現代思想〉と消費資本主義の関係について書いてきましたが、
30年も前に今村も、消費者としての感覚がフランス思想を好んだという考察をしていたのです。
それだけではありません。
今村は出版社が果たした役割についても本書でしっかりと書いています。
ジャーナリズムに登場する舶来の思想は、いわばショーウィンドーの中の思想であって、若い人々がとびついて買ってくれるものであります。出版社の方も商売大事でありますから、よく売れるフランス物をせっせと売りに出します。日本での流行思想というものは、日本のジャーナリズムまたは文化産業が金もうけのために演出しているところがあるわけです。
こんなことまで書いているのかと驚きますよね。
僕は売り上げ中心で学問的な内実を無視する出版社のあり方をずっと批判し続けていますが、
僕の言っていることなど、すでに今村が本書で書いているのです。
僕は不当にスキャンダラスな存在にされたわけですが、僕の批判の内容そのものはこのように常識的なものでしかなかったのです。
常識を語る人が非常識のように扱われる「あべこべの世界」が、現代日本の姿であり「安倍媚びの世界」であったわけです。
(丸山眞男は「現代における人間と政治」(1961年)で、現代とは「正気」と「狂気」がひっくり返った「逆さの時代」だと述べています)
今村は「消費者」のことを「観客」と表現していました。
「ショーウインドーの中の思想」とも言っています。
商品を遠くから物色し眺めているだけの購買者の立ち位置こそが、僕が「メタ」と表現している場所です。
現前する社会的関係から逃走して、消費者というメタ的な立場にいつづける存在のことをオタクと僕は呼んでいます。
日本では〈フランス現代思想〉がオタク的な人たちに支持されて、保守思想として生きながらえています。
しかし、僕の語っているような批判は30年も前に語られていたことでしかないのです。
つまり、もともとアカデミックな立場からなされた批判を、誰も言う人がいなくなり、
30年後に素人が同様の批判をすると、ジャーナリズムと癒着するアカデミックな研究者たちから弾圧される社会になったのです。
変わったのは明らかにアカデミズムです。
出版ジャーナリズム利権とアカデミズムが共犯関係になって現地の思想を歪めていったのです。
さらに今村は踏み込んだことを書いています。
前の引用文の続きをさらに引用したいと思います。
若手の物書きたちや学者候補者たちも、就職難の状況もあって名前を売らなければなりませんから、すぐに才能を使い尽してカラカラになるという危険を冒してもつぎからつぎへと同工異曲の文章を書き散らす傾向があります。
売名行為のために同じような内容の文章を頻発するエセ知識人がいることも、こうして今村は指摘しています。
あまりにその通りすぎて、ここを読んだときに僕は大笑いしてしまいました。
いやあ、あまりに進歩がないですね。
日本が失われた30年とか言われるのは、何も経済に限ったことではないのです。
さらに続きを読んでみましょう。
実際上は同じきものの再生産でしかないものを、外見上は差異の飾りをつけて新奇を装って強迫的なまでに反復するというのが同工異曲の実態です。交換価値原則(これ自体がすでに反復強制ですが)が思想や文化の産物に浸透し、ついには思想にたずさわる者たちを領導することになっているのです。
困ったことに、この引用文の後半の文章は、僕が次に書く準備をしている原稿の内容に関係してきます。
ここまで似たようなことを語っていれば、そうなるのも仕方ないのかもしれませんが、
そこで書きたいことがあるので、今はあまり触れないことにします。
続いて、今村はこのような流行を求めた読者の側にも問題があると書きます。
書き手たちだけが悪いのではなく、いじましい「新奇さ」を求める思想消費者たる読者の側にも責任があります。困難な思索をさけて、手っとり早い理解にばかり走る傾向がいつの時代にもありますが、現在はこの傾向がより強くなっているのです。それがかなり商売になるところが問題です。
このように今村はフランス思想の流行をほとんど商売事情として語っています。
消費資本主義の中で成立した流行思想が、消費資本主義の「外部」を示せるはずもありませんし、
消費資本主義を批判することもできるはずがないのです。
これが景気後退の局面で保守思想に帰結するのは道理でしかありません。
だからこそ、今村は日本の思想状況や流行思想に依拠して現代思想の動向を判断してはいけない、と述べます。
そこで今村が勧めるのは批判的な読書です。
流行が広まるのは避けられないので、距離をとって批判的に読むことが大切だとしています。
「いずれにせよ、つねに批判的な読み方が大切です」と今村は述べているのですが、
〈フランス現代思想〉を批判的に読んだ僕がどのような目に遭ったかはご存知の方も多いでしょう。
今の研究者のレベルがどの程度なのかは、本書を読み直してみればよくわかるのではないでしょうか。
構造主義と実存主義の対決
今村はフランスで1960年代に広まった構造主義を、サルトルやメルロ・ポンティの実存主義との対立において捉えています。
「二〇世紀の思想史の中で最も興味深い思想史的事件は、この構造主義と実存主義との激突であったとすら言えるのです」
構造主義に始まる〈フランス現代思想〉の当事者たちは、ハイデガーやニーチェなどのドイツの形而上学批判については語るので、
日本の現代思想オタクもハイデガーやニーチェについては多少は知っているのですが、
彼らの暗黙の前提(実存主義)についてはあまり考慮していません。
このような思想史としての〈フランス現代思想〉の位置づけが、現在の日本の利権研究者にはできていないのです。
外部外部と強調したわりに、当の〈フランス現代思想〉が外部として想定しているものについては意識してこなかったと言えるでしょう。
このような客観的な自己認識の拒否によって、相対主義を推奨する〈フランス現代思想〉が、
自身だけはメタに保存して絶対化する自己愛メカニズムを生み出しているのです。
構造主義に位置づけられる思想家には、人類学者レヴィ=ストロース、精神分析のジャック・ラカン、前出のルイ・アルチュセール、文学理論のロラン・バルト、権力理論のミシェル・フーコーがいます。
アルチュセールの仕事はポスト構造主義に近いと本書で今村も言っていますし、
フーコーは構造主義を批判したことでポスト構造主義に分類されたりしますが、
現在の視点で考えると、構造主義とポスト構造主義をまとめて〈フランス現代思想〉と呼んでも構わないように思います。
ちなみにポスト構造主義に分類されるのは、日本でおなじみのドゥルーズ=ガタリ、ジャック・デリダ、リオタールなどですが、
ネグリやアガンベン、バディウなどもその周辺人物と考えていいかも知れません。
ただ、同じフランス現代思想でもサルトルなどの実存主義はその範囲から外れてしまうので、
今村が言うように構造主義とその延長にあるポスト構造主義である〈フランス現代思想〉と実存主義の対立という視点は重要だと思います。
さらに言えば、ポスト構造主義やアングロ・サクソン系の自然主義を批判するマルクス・ガブリエルが、
自らを「新実存主義」と称していることからも、この対立軸の設定は無視できないように感じます。
では、この両者の対立は何をめぐって起こっていたのでしょうか。
「圧縮して言えば、デカルト以来の近代的主体(性)の概念であります」と今村はまとめます。
僕もたびたび「主体」の概念に関して〈フランス現代思想〉を批判したので、今村の言うことはよくわかります。
今村はサルトルを近代主体主義の代表者とみなしています。
サルトルの「実存」は、デカルト的主体=自我がそうであるように、思想と行為の出発点であり、土台であり、疎外されたときには取り戻されるべき根拠なのです。それはたしかにおおらかなデカルト的主体ではありません。それは、まさに消えなんとする、無とすれすれの主体ではありますが、それでもやはりサルトル的実存は現代的な形態をとった近代の主体性のまごうかたなき代表者なのです。
近代的主体性とは、自分自身が何かを考えたり行ったりする時の、土台となるものです。
近代では個人の主体性が社会関係を能動的に作り上げることが自明とされてきました。
これに反対したのが構造主義です。
構造主義は社会構造によって「主体」という幻想(もしくはイデオロギー)が生み出されているのだ、と主張したのです。
人間的主体は社会関係または社会構造を「能動的に作る」どころか、反対に、関係や構造によって作りあげられるのです。「主体」は関係や構造の製作者ではなくて、反対にそれらの産物なのです。
構造主義は、「主体」というものが構造や関係の上にある一つの作用と考えます。
このように構造主義以後の〈フランス現代思想〉は近代的主体という概念を虚妄として排撃することで、
近代以後の「ポストモダン」思想だと受け取られるようになったのです。
今村は実存主義と構造主義のどちらが正しいかと考えるのは「何の意味もない」と述べています。
どちらも重要であり、両者が激突したという事実に注目すべきだとしています。
しかし、ファッションとしてしか思想を享受してこなかった日本の〈フランス現代思想〉学者は、このような基礎的な見取り図も理解していません。
本当に構造主義以後の〈フランス現代思想〉を学んだ人間であるならば、自分に批判的な言説があったとしても、
それは執筆者という主体が生み出したものではなく、構造や差異の関係において成立したものと理解するはずだからです。
しかし、実際には批判を書いた人に対しての文句をツイートした研究者が何人もいました。
つまり、彼らは〈フランス現代思想〉を口先だけの商売の種にしているだけで、本気で自分の行動指針にする気などさらさらないのです。
(それどころか自らが特別な「主体」であることを示すことに懸命な人もいます)
こうして主体批判は研究者当人も受け入れていない、空疎な「お題目」となっています。
では、そんな内実なき主体批判が、どうして重大な思想テーマとして語られているのでしょうか。
構造主義は科学的な知?
構造主義やポスト構造主義が主体性を認めないことの原因に、それらが「科学的知の実践」であろうとしたことがあります。
〈フランス現代思想〉がやたら数学や自然科学の知識を自らの思索に流用して、
その科学的知識の用い方が意味不明な誤用であることをソーカルとブリクモンに指摘された『知の欺瞞』(1997年)は有名ですが、
彼らがなぜ科学的な思考を展開している顔をしたがったのかは、あまり考慮されていなかったように思います。
なぜなら、西洋思想を文学的に受容してきた日本では、〈フランス現代思想〉が「科学的な知」を志向してきたことなど全然気にしていなかったからです。
それには日本人が伝統的に西洋思想を文学的に受容してきたことが関係しています。
〈フランス現代思想〉が科学的な知であることを重視していない国では、ソーカルの指摘など特にスキャンダラスではなかったのです。
皮肉なことですが、日本では構造主義やポスト構造主義の本質にある、マルクス主義を基礎とした科学志向が全く理解されていなかったために、
それらの影響力が(アカデミズムとジャーナリズムの癒着によって)長々と維持されてきたのです。
今村自身の説明も引用しておきましょう。
名の知れた思想家をスターのように把握するだけの知識しか持っていない人は、
〈フランス現代思想〉がどのような「時代的潮流」において隆盛したものなのかを学んでほしいものです。
構造主義とは、何よりもまず、科学的認識の方法的視点であり、構造は科学上の概念であって、さしあたっては哲学や思想の用語ではない、ということです。「構造」は、数学、自然科学、社会科学、人文科学における最も重要な概念です。構造概念は、その領域では不正確に(例えば社会・人文科学)、ある領域では厳密に(例えば数学)使用されていますが、しかしいずれにせよ、構造というキイ・コンセプトなしには科学的研究が営めないのが現状なのです。
このあとも今村はしつこいくらいに構造主義が「科学的知のための認識論的地平」であることを強調しています。
それは今村が「科学的実践とそれをメタレベルで考察する哲学的実践をごったまぜにして議論する風潮が日本ではとくに強くなって」いることを、
深く懸念しているからにほかなりません。
「科学的認識を地道に実践」するという「当然の行為をふっとばして表層面だけをすくいとって」しまうと、
ジャーナリズムの中の面白い話題で終わってしまうだけで、「現場の科学や哲学の中では何ほどの意義もない」と釘を刺します。
これまで僕が紹介してきた部分は本書のプロローグにあたるのですが、初出は1987年となっています。
すでに浅田彰の『構造と力』や中沢新一の『チベットのモーツァルト』が1983年に出版されていたので、
今村のこのあたりの文章はニューアカブームを受けての懸念だと言えるでしょう。
しかし、今村の書いたことは悪い方向で的中しました。
出版ジャーナリズムによって、現代思想は最新のモードの表層的な紹介でしかなくなり、
今では「現代思想」という名のついた月刊誌が、単なる時事的な社会問題を扱う雑誌と化しているように、完全にジャーナリズムに飲み込まれています。
今村の警告を振り返れば、現代思想のこのような終焉の仕方も納得のできるところです。
ハッキリ言えることは、思想が内実をもって生き残るためには出版ジャーナリズムを切り捨てる必要があるということです。
これは現代思想のポストモダン現象に憧れる若手を多く輩出した文学の世界にも言えることです。
東浩紀や千葉雅也などの文学的(かつ思想的)教養に乏しいオタク「業界人」に審査員などをやらせている文学ジャーナリズムの世界はもう終わっています。
今村は「科学的知の前進を阻止するものは反動的」で「政治的反動と共犯関係」だと述べ、
構造主義に反対するのは反動的だとしています。
しかし皮肉にも、日本では構造主義が科学の前進に役立つことはありませんでした。
なにしろ日本の構造主義やポスト構造主義の受容がそもそも「科学的」な視点ではなかったのですから。
それどころか、〈フランス現代思想〉が科学的知であるという前提すら持たないような研究者が、
出版ジャーナリズムを通じてファッションという美的要素での現代思想受容に貢献していきました。
その結果、消費主義的で美的なポストモダンの価値観が、今村が懸念した政治的反動と結びついたのです。
今村が「科学的知」にこだわっているのは、彼がマルクス主義への関心を強く持っていることと深い関係があります。
ざっくり言いますが、マルクス主義の別名は科学的社会主義つまり弁証法的唯物論です。
唯物論とは科学的な思考法なのです。
資本主義内部の構造と法則を解き明かすことを重視する科学的社会主義においては、
マルクスの『資本論』が重要なテキストになります。
〈フランス現代思想〉において『資本論』を中心に据えて科学的認識論(エピステモロジー)を推し進めたのがアルチュセールです。
バシュラールなどに代表されるエピステモロジーは、オーギュスト・コント以来のフランス実証主義の伝統の上にあります。
しかし、日本のドゥルーズ、デリダに偏ったポストモダン受容には、アルチュセールやエピステモロジーの影が非常に薄くなっています。
(そのためエピステモロジーが専門の近藤和敬などは、ドゥルーズ近辺の仕事をしても現代思想オタクの話題にも上りません)
付け加えるなら、ドゥルーズを含めたポスト構造主義においてスピノザの存在は非常に大きいと思います。
國分功一郎が一生懸命スピノザを取り上げていますが、現代思想オタクはスピノザの重要性などほとんどわかっていないのではないでしょうか。
スピノザはアルチュセールのマルクス主義改革と強い関係を持つ思想家なのですが、
ここではスピノザが幾何学的法則性を基礎にして思想を展開した人であることを指摘するにとどめます。
ポスト構造主義は直接に科学的な面を出してはいませんが、「構造主義が達成した成果から出発し」たと今村が書いているとおり、
構造主義の路線の上にあるので「科学的知」が前提とされています。
今村は別の箇所でデリダの理解にもアルチュセールが欠かせない、と述べています。
蓮實重彦は「ポスト」という呼び方でポスト構造主義をまとめることを批判し、個別の思想家の名前で語られるべきだと話していましたが、
このような思想史的な認識を妨げる態度が、ポストモダン利権の元締めからなされていることに注意すべきでしょう。
日本の〈フランス現代思想〉の歪んだ受容の特徴をまとめると次の2点になります。
① マルクス主義の影響を無視
② 科学的方法論であることの無視
まあ、完全にコアに位置するものを無視しているのが日本のポストモダン受容だということです。
僕が〈俗流フランス現代思想〉と呼んでいる理由はこういうことです。
喩えて言えば、あんこの入っていないどら焼きみたいなものです。
明治時代から日本はキリスト教を中抜きして西洋思想を享受してきた国なので、
そもそもガラパゴス的な辺境コミュニティの中でだけ通用すればいい、という発想でやっています。
振り返ってみると、日本の〈俗流フランス現代思想〉とは、差異と多様性とネットワークを訴えるアメリカのリベラリズムを、
オタク的な「引きこもりコミュニティ」の方法論としてミニチュア化(小さな物語)したことでした。
つまり、その原理面はフランス思想というより、アメリカ的な消費主義リベラリズム(市場依存性の強いリバタリアン=オタク)だったように思います。
ただ大きな公的ネットワークの責任や圧力から逃れる(切断する)ために、身近な私的ネットワーク(癒着の温床!)に引きこもることを目指しただけの思想です。
だからこそ、依存すべき市場が縮小すると彼らは保守勢力になったのです。
政治経済的な保守勢力が私的人脈による癒着を構造化したのが、ポストモダンの末路です。
〈フランス現代思想〉が「科学的知」を重視しているという背景知識があれば、
ポストヒューマン思想を掲げて反ヒューマニズムの方向に進んでいくことが理解できるのではないでしょうか。
なぜか日本では〈フランス現代思想〉から「科学」の視点がこぼれ落ちているのですが、
ここには意図的な「実態のごまかし」があるように思えて仕方ありません。
つまり、〈フランス現代思想〉を消費資本主義に奉仕する材料にするために、
科学的視点を脱色して、美的な面にしか興味がないオタクに訴える「商売」をしてきたということです。
一時期ブームになった思弁的唯物論のメイヤスーなどは、人間の思考との関係で世界を捉える哲学を「相関主義」と一括りにして葬り去り、
人間の外部にある実在を数学理論によって位置付ける思想を展開したのですが、
メイヤスーの主著を翻訳した千葉雅也は、メイヤスーの思想をジャーナリズムで商売をするために利用しておきながら、彼の数学志向には賛成しないなどと語っていました。
数学志向に賛成しなければメイヤスーの思想など台無しだと思うのですが、
案の定メイヤスーへの美学的アプローチについて語っている対談を見つけました。
数学や科学をベースにしているフランス人の現代思想を、自分の趣味的関心で美的に消費しようとするのが彼らオタクの手口です。
このようなインチキが日本で〈フランス現代思想〉と呼ばれているものなのです。
〈フランス現代思想〉を援用したがる文学関係者は数多くいますが、それを科学的認識としてではなく美的に消費するのでは、
「当然の行為をふっとばして表層面だけをすくいとって」いるだけです。
〈フランス現代思想〉は「日本」と「ジャーナリズム」と「若い世代」によって表層的なファッションや遊戯となってしまいました。
ここに「科学的知」の思想的内実など全く存在していません。
結局、日本でバブル経済以降に流行した現代思想などというものは、
科学による実用性もなく、政治的主体のあり方を示すこともなく、ただ消費に耽溺する趣味的生活を演出するだけのものでしかありません。
思想や学問が社会的な有効性のない領域に引きこもったことで、大学に必要のない文系学問として扱われるようになったのです。
ポスト構造主義の権力批判は有効か
もう僕の言いたいことはだいたい書き終わったのですが、実はここまでの内容は本書のプロローグに位置しています。
一応、僕は通読に価値を認めているので、本書の内容について全体的に触れるためにもう少し長く書きますが、
疲れてしまった人は、ここで読むのをやめても別に構いません。
念のためポスト構造主義についても簡単に整理しておきます。
さきほども触れましたが、ポスト構造主義は構造主義の延長に位置した思想です。
そのため、近代的主体に対する批判という姿勢は共通しています。
では、どのあたりが「ポスト(後)」なのかというと、
構造主義が社会のシステム面を強調したことで、それが固定的でスタティックなモデルになりすぎてしまうことを問題視し、
構造の周縁に不決定で異質なもの(差異)を見出して、そこから外へと開いていくことをめざしました。
これをイメージ化すれば、歯車だらけの時計台に閉じ込められた人が外に出る抜け穴を探していくようなものになるでしょう。
(そんな映画のシーンがあったような気がしますよね)
今村の説明によれば、構造主義はシステムを固定化しすぎたため、歴史を説明することができませんでした。
そこで「出来事」という差異を導入し、新しい時間の発生するメカニズムを説明していくのです。
「差異化と出来事の形成は同じことなのです」と今村は述べます。
この出来事は構造の内部にありながら、外部に開かれたものでもあります。
出来事には内と外との両義的性格があるのです。
(たしかデリダも死にアポリアを持ち込んでいましたね)
構造化あるいは秩序化の支配的な運動の中から、「内なる外」という形で、現状(スタトス・クオ)とは異なる「新しきもの」が生れるのですが、この「事−成り」としての異質物の形成こそ、実践的意義をもつのです。既存の状態を変革すること、現在の状態とは違う空間への脱出、新世界への移動、といった実践的展望が、原理上、可能になるのです。
この引用部分でも2回「実践的」という言葉が用いられているように、
今村はポスト構造主義の特徴が、変革を志向する「実践的」運動という面にあることを強調します。
この引用文が秀逸なのは、ポスト構造主義がアメリカでウケた理由までが想像しやすくなっているところです。
そう、「現在の状態とは違う空間への脱出、新世界への移動」という部分です。
言うまでもなくアメリカというのはヨーロッパにとっての新大陸です。
これをアメリカの肯定として受容するのは難しいことではありません。
もっといえば、ポスト構造主義は移民を絶対肯定するはずです。
浅田彰が礼讃したスキゾは、ドゥルーズにおいては「遊牧的(ノマド)」と結びつけられていたものです。
しかし、ジャーナリズムと癒着した日本のドゥルーズ学者が、移民を応援する「実践的」な活動をしたことなどあったでしょうか。
(廣瀬純あたりは主張しているかもしれませんが)
僕は寡聞にして知りません。
さらに今村はポスト構造主義が同一性に抵抗し、非同一性や多様性、分裂性に価値を置く思想であると説明します。
同一性を求める心性が、既存秩序を強化し保守する権力志向だと考えるポスト構造主義は、
差異を強調することによって、構造の中に同一化しきれない個別的かつ個体的な生を擁護します。
このあたりの多様な人々の差異を認める政治姿勢がアメリカのリベラリズムと近接するのです。
今村が書いていることで確認しておきたいのは、「政治的なるもの」つまり権力や暴力に立ち向かうことの重要性です。
フーコーが主張したのは、権力秩序の同一化・中心化の作用によって、近代の「主体」を権力に服従するサブジェクトにしたということでした。
〈フランス現代思想〉がやたらと主体を解体したがるのは、主体に対する認識がフーコー色に染まっているからなのです。
この発想が実存主義に対するアンチであることはすでに確認しましたが、
日本の現代思想関連の本を読むと、このフーコーの権力論を妙に絶対化している研究者が目立ちます。
ハーバーマスは『近代のディスクルス』(1985年)でフーコーを強く批判していますし、
ローティは『アメリカ未完のプロジェクト』(1988年)で、フーコーの権力論を信奉するアメリカの左翼学者を「学界内左翼(the academic Left)」とか「文化系左翼(the cultural Left)」とか呼んで批判しています。
これについては機会があれば書いてみたいと思いますが、僕自身もフーコーの主体論については一面的すぎると思っています。
今村はフーコーに代表されるポスト構造主義が、いかに権力に抵抗する思想であるかを次のように説明します。
近代の主体中心主義は、本当は「自立」の主体(サブジェクト)ではなく、権力に「服従」する主体(臣下の意味でのサブジェクト)をつくることに貢献した、とフーコーは教えています。さまざまのイデオロギーは、個々人によびかけて、服従する「主体」へとつくりかえていきます。国家の諸装置はもとより、家族、学校、工場、病院、軍隊、マス・メディアは、多面的な仕方を駆使して、権力への服従をよびかけていくのです。日常生活自体が権力の場であり、権力のよびかけ(「服従せよ!」)は明確に個々人に狙いを定めています。
フーコーは近代の規律・訓練型の権力が、いかに服従する主体を作り出すかを明らかにしたのですが、
ここにも書かれているように、学校やマスメディアは権力に服従する主体を生み出す装置なのです。
それならば大学に在籍し、マスメディアで仕事をする教員など、呼びかける権力側の人でしかないはずなのですが、
ポスト構造主義の研究者はこのことについては知らん顔をしています。
権力構造の上層部に強固な位置を占めている学者が、どうして構造の周縁部で外部へと開かれる役割を主導できるというのでしょうか。
その理論的欠陥をごまかすために、主体を教条主義的に悪と決めつけて解体すればいいかのような雑な議論になっています。
少し落ち着いて考えていただきたいのですが、〈俗流フランス現代思想〉の研究者がお題目のように語る主体批判で、
少しでも資本の権力構造に抵抗することができているのでしょうか。
単に主体性を解体するだけでは、みんなが話題にする商品を一緒になって買うだけで、
消費資本主義のマーケティング構造に「服従」するだけのことでしかありません。
要するに、日本の〈俗流フランス現代思想〉は〈フランス現代思想〉の狙いとは逆方向を向いているのです。
それならば、オリジナルが左翼思想なのに日本でのコピーが保守思想になっていても何の不思議はないというものです。
所詮、日本の現代思想など表層的なファッションなのですから。
ただ、これは日本の研究者が悪いという話ではなく、そもそものポスト構造主義の思想に欠陥があったと考えるべきだと僕は思っています。
無意識領域の欲動によって周縁にある外部を指し示しても、資本主義というシステムはそれをすぐさまシステム内部へと取り入れて商品にしてしまうからです。
ここではむしろ構造の外部を求めることが資本主義の拡大運動(〈領域拡大ゲーム〉)を駆動させるエネルギーとなっているのです。
ポスト構造主義の思想が、このような資本主義システムの吸収力を超え出ることは全くできていません。
むしろ、消費資本主義の拡大に利用されたことはすでに述べました。
いまだにポスト構造主義に依拠してジャンル横断的な〈領域拡大ゲーム〉に精を出している周回遅れの業界もありますが、
ハッキリ言って、消費拡大運動に夢を見る時期はとっくに終わりました。
バブル経済からスマホの普及する時期までは、資本の領域拡大運動が花盛りだったので、外部というか新世界への幻想が抱けたのですが、
経済的にも情報技術的にも停滞してしまった今は、もう拡大すべき外部が見当たらなくなっています。
そうなるとどうなるのでしょうか。
虚構的な領域で野放図な拡大が行われる一方で、実質領域では基盤となる源流へと回帰する運動が起こります。
西洋派だった人が途端に日本回帰する現象がこれです。
戦前の帝国主義時代の日本でいえば、無計画な植民地拡大や国際承認なき満州国を求めた1930年代に日本回帰が起こりました。
僕は横光利一や川端康成や小林秀雄をその代表と考えています。
現代も量的緩和の野放図な拡大が実態なき株高を生み出し、人々はインターネットという虚構領域への植民化に勤しんでいます。
その一方で家族への回帰や地域への回帰が起こるようになるのです。
マルクス主義に関心を抱いていた人が古典主義者となり、
それまで新奇なカタカナ語を好んで使っていた人が、古典的な古語を同じ感覚で使うようになるのです。
このあたりの話も詳しくやると長くなるので、また別の機会があれば書いてみたいと思います。
第三項排除について
こういう僕の〈フランス現代思想〉批判を聞き飽きた方もいるでしょうから、
せっかくなので、今村仁司がこだわっている「第三項排除」というものについて少し紹介しておきます。
ポスト構造主義は構造の中に吸収できない「出来事」を見出したのですが、今村は「出来事」のように特定の構造化プロセスが引き起こす第三項排除というものを語っています。
本書で第三項排除について書いているのは、だいぶあとの第三章になってからです。
実は読んでみると資本論の価値形態論の話でしかないので、それほど面白くもないのですが、
一応書いておくことにします。
第三項排除の論理は、マルクスの価値形態論においてはじめて明確にされた。簡単にいえば、商品世界からただひとつの「第三の商品」=貨幣を「排除する」ことで商品世界は商品−貨幣世界として成立し、価値表現の機構が完成する。事柄の要点は、無数の商品群から「唯一の第三項(者)」としての貨幣が形成されるということにある。私は、この事態を第三項排除効果と命名し、これを価値形態論が包蔵する社会形成の論理とみなす。
ざっと価値形態論について説明しておきましょう。
商品Aと商品Bの等価交換は、商品Aが4個につき商品Bを1個の価値が等しいとか持ち主同士が合意すればいいのですが、
その商品Aが商品CやDとも交換されるようになると、そのときそのときに価値の合意を求めるのも面倒なので、どうせなら代表する一つの商品で価値を示そうと考えるようになります。
そうして全ての商品が商品Aの何個分に当たるかで価値を表すようになります。
その価値を示すことになった商品Aが金であり、のちの貨幣形態となるわけです。
つまり、金という特定の商品が、価値を示す特別な商品として他の商品群から排除されてしまったのです。
このメカニズムを今村は第三項排除と呼んでいます。
ラカンの「象徴界」や大澤真幸の「第三者の審級」も似たメカニズムで成立していると考えることができるでしょう。
マルクスの関心は労働の世界の探究にありました。
今村は労働と価値とは本来的に無縁だと言います。
本来的に別個のものであるこの2つが一致し、労働が価値化することがなぜ起こるのか、という話でこの第三項排除が登場するのです。
要するに、商品世界と労働世界という2つのレベルをつなぐものが、第三項排除だと言うのです。
マルクスは労働を「具体的有用労働」と「抽象的人間労働」という二重のものとして把握しているのですが、
労働という「価値ならざるもの」が価値となりえるのは、「抽象的人間労働」が第三項として排除されて成立しているからなのです。
同じように第三項排除によって成立した貨幣と、この「抽象的人間労働」が上部と下部で対応しあっている、と今村は述べます。
実を言うと、このようなマルクスの労働観には僕もそれほど関心はないのですが、
今村が価値形態論の第三項排除というものを、ただ貨幣がどのように誕生したかを把握するためではなく、
「社会関係全体の運動の論理」つまり、社会のネットワークを構成する原理として考えていることが参考になると思ったのです。
「価値と非価値の出会いを演出するのが第三項排除という社会論理」だという指摘には興味深いところがあります。
商品Aが4個と商品Bが1個で「等価」である、というのが等価交換ですが、
そもそも、別の商品によって当の商品の価値を示せるものなのでしょうか。
等価交換の場合、相手が必要としているものと自分の持ち物との交換なので、
問題なのは双方の納得という点だけで、直接に価値の表現ではありません。
それが商品C、商品Dと交換のネットワークを拡大することで、第三項に当たる特定の商品によって一律の価値づけが行われていきます。
今村は第三項を「抽象的人間労働」としていましたが、第三項による価値づけはその商品とは直接関係のない商品によって行われるため、
必然的に抽象的なものにならざるをえません。
僕が興味を持っているのは、ネットワーク内を一律の抽象的な価値の支配のもとに置くために、
ネットワーク内の具体的な商品を第三項として排除するということです。
つまり、抽象的な価値の支配を作り上げるためには、ネットワーク全体と関連する特定の具体項を排除する必要があるということになります。
そして、排除されたものは(貨幣のように)具体物でありながら具体的なものとして認識されてはいけない二重性を帯びるのです。
言い換えれば、抽象的なものが機能するには、その背後に具体物の排除が刻印されていなくてはいけない、ということです。
これは詩を志す人にはぜひ理解しておいてほしいものです。
抽象的言語の「言葉の物質性」が、意味の排除によって成立するものと安直な思い違いをしている人をよく見かけますが、
意味の成立を回避することと第三項排除による具体的意味の排除とは別のものです。
意味の成立の回避はただの商談不成立で、商品(=意味)が手元に留まるだけのことでしかありません。
(そのため、こういう作風の人ほど自分の意図と違う解釈を憎みます)
排除される第三項は二重性を帯びている必要があるのです。
具体的意味を持ちつつ、ネットワーク内に回収されない意味をはらむもの。
それこそが詩的言語だと言えるのではないでしょうか。
言葉における意味の排除とは意味の過剰さによって成り立つものであり、それこそが「言葉の物質性」のありかだと僕は思っています。
書き手と受け手の両者の間の意味了解を脱臼させることは、
等価交換以前への回帰でしかないので、文学的価値の存在しない自分一人の生産世界(幼児性ナルシシズム)に引きこもるだけのことでしかありません。
今村のボードリヤール批判
今村と言えばボードリヤールの翻訳者の一人としても知られていますが、
本書の「消費社会の記号論」にボードリヤールに対する批判が書かれているので、それも軽く紹介しておこうと思います。
そのためにはボードリヤールの思想を説明する必要があるのですが、
詳しくは稿を改めて書きたいので、今回は僕の視点を交えて簡単にすませます。
ボードリヤールは現代社会を「消費社会」と捉えています。
そこでは物(商品)が全体化したネットワークを形成し、記号としての側面を強く持つようになっています。
今村はボードリヤールが「欲求」と「欲望」を区別し、人間が「欲求」を充足する存在だという神話を解体したことを評価します。
では、欲求と欲望の違いとは何でしょうか。
欲求は生物として必要になるものの充足を求める行為です。
それに対し、欲望は社会的、文化的な「関係」への参入を求めます。
モノは「欲求」の対象である場合は有用性として現れ、「欲望」の対象となる場合はネットワーク上の記号として現れるのです。
「欲望」によって消費の対象となるのは記号としてのモノになります。
記号としてのモノは商品ネットワーク上で他の商品との差異を示すものです。
広告が差異を示す商品だと言ったのが岩井克人だったか忘れましたが、記号としてのモノとは広告に近接していると言えるでしょう。
典型的な記号としてのモノで僕に思い浮かぶのは、たとえば勲章です。
勲章は機能的に役に立つ使い道があるわけではありません。
所有者が立派な人物であることを記号的に示す物的証拠でしかありません。
僕が読んだトランプ暴露本に、彼がメラニア夫人を「トロフィーワイフ」と言って自慢している、と書かれていたのですが、
獲得した女性が男性にとってのトロフィーや勲章になるように、獲得したモノ=商品も所有者にとっての勲章になるということです。
それってヴェブレンの顕示的消費と似ていませんか、と思った方は非常に鋭いです。
ボードリヤールは『記号の経済学批判』(1972年)でヴェブレンの顕示的消費(誇示的消費)を正面から取り上げて、
記号としてのモノが消費者の社会階層を示す役割を持っていると主張しています。
今村の労働論とも関係するところがあるので、ここで少しだけ引用します。
肝心なことは、いたるところで、物の実用的な自明さの向う側に、行動の見せかけの自発性を通りこして、社会的義務や「誇示的」消費(直接的であれ代行的であれ)のエートスを読みとり、したがって消費のなかに社会的ヒエラルヒーの永久的次元を把みとり、また今日の生活水準のなかにも同種の命令的な道徳を把みとることである。(ボードリヤール『記号の経済学批判』今村仁司/宇波彰/桜井哲夫訳)
物は実用的な機能を持つ商品として生産されるだけでなく、社会的な証明としても生産される、とボードリヤールは言っています。
記号としてのモノは、それが社会的な地位やモードなどの階層秩序のどこに属するのかを示します。
簡単に言えば、それを所有している人がどんな階層の人間であるかを示すわけです。
ボードリヤールにとって「消費」とは、自らの社会的位置を証立てるために、記号としてのモノを購入することなのです。
こうして金持ちは自分が金持ち階級に属していることを示すために、金持ち階層の持ち物であることを示す記号となるモノ=高価な商品を買うことになります。
他の諸々のモノ=記号との差異を示す記号としてのモノが、
「人と人との具体的な関係のなかに意味を見出すのではな」いことを今村が強調するのは、
マルクスの言う「物象化」の延長にこのような消費社会が成立していると考えているからだと思います。
人と人との社会的関係が物の属性として現れることを「物象化」と言うのですが、
社会関係を示す物の属性として、交換価値が注目されるのは言うまでもありません。
記号としてのモノは交換価値と結びつけられて解釈されます。
第三項排除において、今村が労働に「具体的有用労働」と「抽象的人間労働」の二重性を見ていたように、
ボードリヤールは物に機能面と記号面の二重性を見ているわけですが、
『記号の経済学批判』では、これがソシュール言語学のシニフィエ(意味内容・意味されるもの)とシニフィアン(音声記号・意味するもの)に重ねられています。
今村が批判しているのは、このような単純反映です。
ボードリヤールにはシニフィアン(SA)を交換価値、シニフィエ(SE)を使用価値と同一視する誤りが見られる、と今村は述べます。
それが間違いである理由を今村はこう説明します。
なぜなら、第一に、商品の価値形態の場面では、SAは等価形態としての使用価値であり、SEは相対的価値形態としての交換価値であるからである。第二に、SEがつねに形相(形態)ではなく実物(リアル)であると想定されているからである。この誤謬は記号についての誤解と商品の価値形態の構造への無理解から由来する。
内容が専門的すぎて脳がフリーズしてしまいそうですが、
今村はシニフィアンと使用価値、シニフィエと交換価値という逆の把握が正しいとしている上に、
記号については、貨幣形態が成立する以前の価値形態を用いて考える必要があると言いたいようなのです。
使用価値と交換価値を機械的にシニフィエとシニフィアンに対応させるやり方は、
貨幣が商品流通の媒介として市場を支配している状況を前提としたイデオロギーだと今村は言っています。
ただ、引用後半のシニフィエを実物として想定しているという批判は、『記号の経済学批判』を読んだ時に僕はあまり気に留めていませんでした。
今村の批判で興味深いのは、商品にシニフィアン/シニフィエのモデルを適用し、その記号的な指示機能にばかり注目するのは、
社会関係を「交換主義」でみるイデオロギーでしかない、という指摘です。
他の商品との差異を示す「指示機能」が水平的関係で成立するのに対し、垂直的関係にある「意味表出」の面にも注意を払うべきだ、と今村は述べます。
このような指摘は僕も以前に書いている気がします。
記号の指示機能は他の商品との差異にばかり向くわけではなく、そもそも意味を指示する面を持っていたはずです。
今村はこの「意味表出」を第三項排除と重ね合わせています。
政治経済システムのなかで貨幣形態がうけとる「排除」の論理は、社会存在の「意味」に触れるが、まさにそのゆえに、社会と文化の基礎的論理でもある。逆に、社会と文化の各種領域にみられる「排除」の論理は、政治経済を照射し、より深い意味をさぐりあてることに貢献するはずである。
今村は第三項排除のメカニズムを社会批評を表出する視点として重視すべきだと言っています。
そこに社会の「基礎的論理」があるというわけです。
この発想は構造主義的な視点だと僕は感じますが、Amazonレビューから僕が排除されたことも、
商品レビューという広告システムが、批判を排除することで成立していることを示した事件だったと言えるのかもしれません。
もう一つ、今村はボードリヤールの『象徴交換と死』(1976年)で展開された象徴交換的消尽論による生産中心主義批判の意義を認める一方で、
彼が生産や労働という人間の基礎的活動を投げ捨ててしまったことを批判します。
ボードリヤールにとっては現実に存在するのは「記号」や「シミュラークル」の流動でしかありません。
では、その「記号」や「シミュラークル」はどこから出てきたのか、と今村は問います。
ここで問われている問題は、記号の生産過程であり、剰余の生産過程である。ボードリヤールは、「生産と労働の終り」を宣言することでこの重要な問題を追放してしまった。記号を水平的コミュニケーションに限定して把握する立場は、ボードリヤールであろうと他の誰彼であろうと、必ず記号の生産過程を忘れ去る。
ボードリヤールは『象徴交換と死』において、市場の記号的交換支配を破壊する革命的な要素として、象徴交換を探求しました。
そこでは意味のないゼロ記号=虚無をぶつけるために、バタイユの蕩尽について語られています。
その結果がソシュールのアナグラム論になるのですが、僕はこの象徴交換論については今村と同じくほとんど評価していません。
バタイユについても、アジテーションに長けているボードリヤールが軽薄に利用した印象が強く、影響を云々するほどの理解をしているようにも見えません。
このように今村の批判はわりと妥当だと感じますが、それでも初期ボードリヤール思想には学ぶべき部分があると思います。
とりわけ文学などの創作物が、「意味表出」を置き去りにして市場での商品流通をめざして作られている現状を批判するのには非常に有効です。
要は使い方を間違えなければ役に立つということです。
消えゆくマルクス主義的「教養」
さすがにこの記事も終わりにしようと思いますが、実は本書の内容については触れていない部分の方が多いくらいです。
今村の処女作は『アルチュセールの思想』(1975年)で、アルチュセールとマルクス、それと労働論が基本軸にあります。
本書『現代思想の基礎理論』の前半部は、構造主義の可能性とその限界について書かれています。
僕があまり構造主義について触れないのは、単純に〈フランス現代思想〉の脱中心化した思想が日本社会の批評に役立たないと思っているからです。
僕が何度も書いているように、東アジア周縁に位置する日本の風土的特性はむしろ〈フランス現代思想〉の脱中心化した思考と相性が良く、
結果としてこの国のナルシシズムを強めるだけになってしまうのです。
本書にはアルチュセール思想がいかにラカンの思想と関連を持っているか、という章もあります。
この部分ではアルチュセールの重層決定について書かれた部分に興味を持ちましたが、
マルクス主義とアルチュセールについては次の記事で触れようと考えているので、ここでは扱いません。
ラカンとアルチュセールの関連については僕にはそれほど興味が惹かれませんでした。
それからアルチュセールの認識論から記号論への展開についても書かれています。
前にも書きましたが、日本では〈フランス現代思想〉が好きな人でも、アルチュセールやスピノザへの興味はそれほど強いようには思えません。
そもそもマルクスから切り離して美学として享受している人が多すぎます。
僕のように〈フランス現代思想〉嫌いの人間の方が、フランス左派の歴史を踏まえてフランス現代思想を理解しようとしているのは、おかしな現象だと思います。
本書の最後の方には、フェティシズムとイデオロギーについての考察があって、
これはなかなか骨太な内容だと思いました。
今村はここでオーギュスト・コントのフェティシズム論を中心に扱っています。
コントはフェティシズムが「世界に対する人間の本源的な態度」だと主張しています。
「本源的」とするのは、未開人の宗教的な知的状態でありながら近代人の思惟とも合一するものとして捉えられているからです。
フェティシズムを死んだ自然である無機的世界と生命ある自然との混同とするコントの見方は、実証的立場においては誤った認識であるのですが、
フェティシズムはこの混同と誤りを乗り越える可能性を持つものだというのがコントの考えです。
テーマとして簡単ではないので、深入りはしません。
そう言えば、今村はボードリヤールが使用価値のフェティシズムを語っている点で特異な存在だとしています。
たしかにボードリヤールは消費が主体の要求と結びつかないため、使用価値にも交換価値同様のフェティシズムが起こり、
使用価値のフェティシズムは交換価値のものよりもっと「神秘的」である、と主張しています。
興味のある方は本書を探し出して一読することをおすすめします。
ちなみにドゥルーズ=ガタリにはマルクスのフェティシズム論への関心が見られ、
『アンチ・オイディプス』は広く見れば、フェティシズムの成立メカニズムの解明を意図しているとも書かれています。
今のドゥルーズ学者でマルクスとの関連でこのような話ができる人がいるのでしょうか。
この本を読んで思ったことは、昔の人は一冊の本にこれだけの内容を詰め込んでいたのだな、という驚きでした。
すっかり最近の本の内容の薄っぺらさに慣れてしまって、やたら内容が濃いと感じてしまいました。
僕はあまり専門性が高いマルクス主義と付き合いたいと思わずにこれまできてしまったのですが、
やはり基礎教養として必要になるものだと感じました。
しかし、今村の本が絶版になっているのでもわかるように、日本のマルクス主義的な教養は消えかけています。
マルクス主義に魅力を感じる人はあまりいないと思いますが、マルクス主義的な教養から掘り起こせるものはまだまだあるはずです。
Tweet
7 Comment
クロさんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2020/06/12 10:26)
- [コメントを編集する]
まずはマルクスの話ですが、マルクスに限らず思想を「理解」するのは無理ですよ。
「理解」するのが正解なのかもわかりませんし、
特にマルクス主義は妙に神学的な世界になっているので、付き合いすぎても不毛です。
僕はマルクスの著作は一部しか読んでいませんが、研究者ではないゼネラリストの立場なので、それでいいと思うのです。
マルクス主義の失敗の話は避けて通れないところなので、
僕なりに考えていくつもりですが、クロさんが「基本的」と考える何かが抜け落ちていたのは事実だと思います。
僕があくまで人間主義的な文学を批評の基盤に置いているのも、
思想が天才信仰(個人崇拝=スターリニズムというパロディ)に陥ることなく、
基本から逸脱しない「愚直さ」にとどまるべきだと思っているからです。
(デリダが「メシアなきメシアニズム」と言ったのは、おそらく個人崇拝の否定です)
しかし、思想畑には思想より天才信仰をしたいと思える人がかなりいます。
千葉雅也は大陸哲学を天才の歴史だと考えていますし、今回紹介した蓮實重彦もそうです。
アメリカの分析系やプラグマティズムには天才信仰がないので、
日本の現代思想オタクは興味をほとんど持っていませんよね。
こういう天才信仰がすでにしてサブカル的なんです。
クロさんのSNSについての話を読んで、クロさんの魂が傷ついたことが伝わってきました。
僕はYouTuberをあまり信用していないので、ふひとさん以外はほぼ見ていないのですが、
売り出し中の若手俳人と同じく、マザコン的な受容を求める甘えた人が少なくないのではないでしょうか。
ママがボクだけを見てくれる、というマザコン的(人によってはファザコン的)な関係が、
日本では社会人ではなく「メディア人」としての自己実現と変なふう(ルサンチマン的)に結びついています。
正直、僕はネットもSNSも「メディア」なので好きではありません。
実際に対面で会っても良さそうな人とだけネットでも交流していきたいものですが、
ネットで知る姿なんて一部でしかありませんので、思い通りになかなかいかないものです。
僕はクロさんがネット上の怪しげな人たち(?)と積極的にコンタクトを取る姿勢を、
側から見てすごいなと思っていました。
たとえ今の結果が幻滅をもたらしていても、クロさんの試みが無駄なわけではないと思います。
僕は前から食い扶持を別に確保して文学や思想をやるのがいいと主張しています。
仕事にも全力投球して、無報酬の文筆にも力を注ぐと寿命が縮みますが、
命を削って書くものでなければ読む価値などありませんよ。
文筆家もYouTuberも成功モデルが「金を稼いだ人」でしかなければ、
実社会のオルタナティヴにはなりえませんよ。
自主的に削除しました
- クロさん
- (2020/06/12 06:43)
- [コメントを編集する]
無題
- クロさん
- (2020/06/12 05:28)
- [コメントを編集する]
マルクスの蘇生について付け加えさせてください。
僕は、人は本質的で基本的な大切なことを忘れ去りやすいと常々思っています。
僕の考え方をきっと保守的と呼ぶのだろうと思います。ナイーブだとか頑迷固陋だとかアナクロとも言われるかもしれません。
マルクスについて、僕は主義に選べる立場にはいません。彼の思想を完璧に理解しているとは決して言えないからです。おそらく理解できてもマルクス主義者になるとも限りません。
しかし、マルクスの思想を実践した者たちは、本質的で基本的なことから離れたから”失敗”したんだと僕は想像しています。
そして一度の失敗でなかったことにしてだめな思想だという”事実”に変えてしまうのは違うのだと思うのです。
だから、何度も基本に立ち返って再考する(再興ではありません)必要性はあるんだと思います。
これは思考実験に等しいのですが、この仮説の「実験」と「経過」と「結果」を見てみたいという知的な好奇心が働くんです。
南海さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2020/06/10 16:04)
- [コメントを編集する]
南海さん、鋭いコメントをありがとうございます。
南海さんのご指摘は考えさせられますね。
まず、ポスト構造主義が言うほど科学的なのか、という反応は僕も書いている時から想定していました。
僕自身があまり科学的思想と受け止めていなかったのも事実です。
ただ、今村はポスト構造主義が構造主義の成果から始まっているとしていますし、
科学的知を前提にしていたことを抜きにして、ポスト構造主義の反人間主義的傾向や似非科学に手を染めたことも理解しにくいと思います。
(別に彼らは自分の趣味で科学的装いをしていたわけではないのです)
ポスト構造主義が科学的知の系譜にあるという視点は必要だと考えます。
ポスト構造主義には科学的知であるエピステモロジーやアルチュセールが関係しているにもかかわらず、
これほど日本でそれらが無視されている現状は、
科学の視点が抜け落ちていると言われても仕方ないように思います。
それから、出来事の導入が歴史性の回復を意図していたというのはその通りです。
構造だけだとどうしてもスタティックになって、歴史が説明できないのです。
マルクスの文学的蘇生とカッコつけてみましたが、ただマルクスを文学として読み直そうという程度の話です(笑)
東浩紀や千葉雅也が保守になるのは必然でしょうね。
彼らには消費の文脈しかないんですから。
無題
- 南海さん
- (2020/06/10 10:13)
- [コメントを編集する]
今村仁司が早死にしたのは惜しまれます。平易で明晰な文章と骨太な近代批判のモチーフを持ち、社会科学の素養もある稀有な人だったと思います。『現代思想の基礎理論』は未読でしたが、たまに古本屋で見かけるので読んでみたいと思います。
感想・気になった点として、
・構造が科学的な方法論だったという主張とフランス現代思想が科学の装いをまとっていたという主張がやや混在していないでしょうか。ソーカル事件が有名なので、フランス現代思想=数式を出鱈目に使った似非科学思想というイメージは流布しています(構造が真っ当な科学的方法論だったのはレヴィ=ストロースの親族構造論までじゃないでしょうか)。そうしたなかで「なぜか日本では〈フランス現代思想〉から「科学」の視点がこぼれ落ちている」と言ってしまうと、本場のフランス現代思想は言うほど科学的だったか?という疑問の余地が出てくると思います。とはいえフランス現代思想の思想家がそれぞれ自分で取り組む具体的な課題を持っていたのに、日本のそれは表面的で美的な享受に止まったのは間違い無いでしょうね。まあこれは近代日本の思想全般に言える問題でしょうが。
・今回は触れられていませんが、近代的主体や実存、科学という問題の隣には、「歴史」という問題があるはずです。マルクス主義では史的唯物論が科学なので、社会を変革する歴史的主体は科学の主体としても位置付けられています。サルトルが『弁証法的理性批判』で取り組んだのもそういう問題でしょう。私は不案内ですが、ポスト構造主義における「出来事」という問題は、ある種の歴史性の回復の試みではないでしょうか?
・マルクスの文学的蘇生というとまず柄谷『可能性の中心』を連想します。今村の『マルクス入門』も類似の試みと言えるかもしれません。楽しみにしております。
・ついに東浩紀が「保守」の看板を掲げ始めたようですね。俗流フランス現代思想=消費社会に充足した保守思想という南井様の認定が的中したようで笑えます。
クロさんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2020/06/08 06:29)
- [コメントを編集する]
クロさん、コメントありがとうございます。
クロさんはマルクスの蘇生はまだまだ可能という考えのようにお見受けしました。
たしかに今の方が社会主義崩壊直後よりもマルクス思想に少しはリアリティがあるかもしれません。
松尾匡が反緊縮財政の方向で左派的な提言をしていたのは知っていますが、
現実政治へのコミットが強い方という印象でした。
宇沢弘文はヴェブレンの記事で少し取り上げましたが、経済学の方向ですね。
僕は次の記事でマルクスの読み直しをしようと思っています。
そこでは斎藤幸平の著書も考察対象として取り上げる予定です。
それを書き始めてすぐに、この原稿を先に書くことに決めたのですが、
思いのほかタフな内容になりました。
(ブログの1回の掲載量に収めるために一部を削らないといけなくなりました)
これから元の原稿に戻りますが、僕としては今村やアルチュセールの科学的知とは正反対の立場である、
マルクスの「文学的蘇生」をめざすつもりです。
大衆は与えられたものを消費するしか能がないから大衆なのであって、
僕は多くの人を啓蒙するのは無理だとあきらめています。
(だから自分のブログが広く読まれることを求めていません)
問題はそういう大衆と同化した退屈な人たちを、知識人や作家であるかのように持ち上げるマスメディアだと思っています。
誰でも手軽に発信できる世の中だからこそ、「気骨ある」思想が差異を際立たせるということはあるはずです。
本気で考えようとしている少数の志のある人とだけ、共に歩んでいければいいと思っています。
ポスト構造主義者が権力中枢近くにいて、「周縁」に反ポストモダンの人がいるのは、まさに「あべこべの世界」ですよね。
無題
- クロさん
- (2020/06/08 03:43)
- [コメントを編集する]
宇沢弘文氏はケインジアンでしたが、最終的にはマルクスと親和性が高いのでは、と思いました。
ガブリエルの方のマルクスと対談した齋藤氏もマルクス思想を研究していませんでしたか。
松尾匡氏もマルクス主義で大月書店から本を書いていました。アベノミクスを超える政策を唱えられるブレーンあるいはオピニオンリーダーは彼ぐらいではないでしょうか。
「資本主義社会の神話と構造」および「有閑階級の理論」については、依存効果(ガルブレイス)と、成金(アリストテレス)の系譜かな、と思いました。
https://kotobank.jp/word/%E4%BE%9D%E5%AD%98%E5%8A%B9%E6%9E%9C-31081
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E9%87%91?wprov=sfti1
しかし、愚鈍な民衆はメダルやアクセサリー(これは具体物だけではありません)に関心が深く、そこに引き寄せられる自身になんら疑問を抱かない人が多くて子供の頃からうんざりしてきました。
ブランディングでしたっけ、それって簡単にハックされてしまうわけで、人って脆いですね。
薄っぺらな本が飛ぶように売れていき、同じような質の本が次から次へと供給されます。頭が悪い人たちが中心部でお祭り騒ぎです。
気骨のある人は周縁へと追いやられます。