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〈ネットワーク型権力〉と消費社会【後編】

還流する視線の非対称性

ヴェーバーが明るみに出した禁欲的プロテスタントの精神では、神の恩恵の確証を自らの倫理的行動の客観化(=可視化)によって示す必要がありました。
ここでの可視化は救済を受ける者であることを証明する動機で行われています。
しかし、パノプティコンで可視化されるのは、監視される囚人です。
可視化ということで、救済される者と囚人を重ね合わせてしまうと、
幸福なはずの救済者がまるで神の囚人みたいではないか、と思う方もいるかもしれません。
ぶっちゃけて言えばそういう解釈でもいいのですが、実際はもう少し複雑なメカニズムがあるので、それを説明します。


パノプティコンという閉鎖施設では、監視する者と監視される囚人、つまり見る者と見られる者の二者しか存在しません。
これは試験において出題する者と解答する者しか存在しないのと同じです。
しかし、これは閉鎖環境であるために二者関係に見えているだけのことで、実際には第三項が存在します。
たとえば監視する権力と監視される囚人のほかに、外部には犯罪を犯していない一般人がいるわけです。
試験においても、そもそもその試験を受けることのできない外部の人が存在します。
フーコーが扱っている権力のまなざしにさらされている身体というのは、ある閉鎖施設に入ることが許された、特別な資格を持った者だということです。
特別な資格を持った者という言い方ではわかりにくいので、ここでは身近な例によって考えていくことにしましょう。
監視施設の中で見られる者を、ステージ上で観客に見られるアイドルに置き換えてみると、わかりやすくなると思います。
誰でもアイドルになってステージに上がったり、テレビに出られるわけではありません。
テレビカメラの前に立つことができるのは、その資格を持つ特別な人であるはずです。
そう考えれば、権力もしくは大衆の「視線」を受けるということが、神からの救済を約束された特別な人のように思えてはこないでしょうか。


いや、囚人や受験生とアイドルを同じように考えるのはおかしいですよ、と感じる人もいるでしょう。
実は全然おかしくないのです。
ストーカー被害に悩むアイドルは珍しくありません。
これは24時間監視を受けているのと同様の苦痛だと言えないでしょうか。
受験生も親から勉強をしているか監視されていたり、そのプレッシャーを内面化しているものです。
社会的イメージや当人の感情を無視して、単に視線のメカニズムだけを考えれば、彼らがさらされている環境はそんなに変わらないと言えるのです。


ヴェーバーが資本主義の精神のルーツと考えたカルヴァン派の予定説でも、救済が予定されている人と救済されない人に分けられることに注目する必要があります。
先ほど本物と偽物がいる場合では、本物であることの証明が必要になるという話をしましたが、証明が必要なのは偽物が存在するからです。
自らの救済の証明が必要なのは、救済されない人が存在するからなのです。
ここは複雑ですので、注意してほしいのですが、
可視と不可視の非対称性は、従属する主体と権力との間にだけ存在するものではなく、従属する主体と従属しない主体との間にもあるのです。


もう少し丁寧に説明してみましょう。
大衆の代表であるアイドルを例にして考えるとわかりやすいのですが、
大衆の一人でしかなかった美女が、大衆権力(業界とマスメディア)に愛されてステージに立つようになると、
それを羨ましくも誇らしくも思う大衆が、みんなで彼女にまなざしを注ぐことでアイドル化するという構造がそこにあります。
アイドルを女性に限る必要はないのですが、より始原的なのは女性です。
(天皇制も同様の構造と深い関係を持っているので、天皇はもともと女性の役割であったと僕は推測しています)
なぜなら、女性は貨幣と同じく、共同体間で交換される存在であったからです。
注意してほしいのは、アイドルの成立と貨幣の成立のメカニズムが同じだということです。
有名なマルクスの『資本論』の価値形態論を参照すると、貨幣の成立は、交換される商品の中から金という特権的な商品が登場し、
その特権的な商品が他の商品の交換基準として機能することから説明されています。
つまり、他の商品と同じオブジェクトレベルにあった金という商品が、すべての商品の抽象的基準となるメタ商品となり、
オブジェクトとメタを二重化した貨幣になるのです。
貨幣はオブジェクトとメタを二重化した存在なので、オブジェクトレベルとメタレベルの両方を行き来し、還流することができます。
アイドルも同様です。
オブジェクトレベル(=大衆)の一人であった女性が、権力の近傍に位置するアイドルとしてメタな存在になることで、
オブジェクトでありメタである二重化した存在となります。
アイドルが貨幣と違うのは、それが直接に「視線」によって成立しているということです。
アイドルがメタな存在として成立するのは、権力からの視線を受けていることであり、同時に、大衆の視線を集めているからなのです。
アイドルという存在がメタレベルにある「権力からの視線」とオブジェクトレベルにある「大衆からの視線」を二重化し、それを還流させるのです。


アイドルと貨幣の関係は単なるアナロジーではありません。
それはアイドルという存在が、貨幣と同じく資本の増殖に役立つということ、権力と密接な関係にあることを考えればわかります。
そしてアイドルという価値の源泉にあるのは「視線」です。
つまり、「視線」と貨幣には、価値を生み出すという点で密接な関係があると考えなくてはいけないのです。


「服従する主体」とは誰のことか

ここまで議論を進めれば、フーコーが問題にした「服従する主体」の描き方がいかに一面的であったかがわかると思います。
フーコーが描く「服従する主体」の典型的モデルが囚人であるために、「服従する主体」が権力の強大な力によって抑圧され、一方的に規律や訓練を強制されているイメージが持たれていることが問題なのです。
ここにはフーコーが触れようとしない「裏面」が存在します。
この「裏面」を考察しないことが、〈フランス現代思想〉が消費資本主義のパラダイムシフトに貢献しただけで、批判思想として機能しなかった最大の原因なのです。


その「裏面」とは何かというと、「服従する身体」として管理されている身体は、資本主義社会における「規範的な身体」であるということです。
フーコーは「服従する主体」を受動的な存在として描いていますが、自らが「規範的な主体」であることを能動的に証明することで、社会で出世することを欲望していく面があるのです。
権力が要求する規範に従うということは、模範的であるということです。
フーコーが「規律・訓練」に試験をあげていたことを思い出してみればわかることですが、試験で高得点を取ることが模範的行為であることは反論の余地もないことです。
要するに、社会の受験エリートとは「服従する身体」のトップに位置する存在なのです。


どうしてこのような単純な事実が問題にされずに見逃されているのか、その答えは単純です。
フーコーの思想を紹介している人間のほとんどが大学に属する知的エリートだからです。
彼らがフーコーの「裏面」を認めてしまうと、自分たちこそが「服従する身体」の代表であることが露見してしまい、
社会に対して問題意識を持っているカッコいい知識人という像が、音を立てて崩れ去ってしまうからです。
まあ、それに気づかない現代思想オタクの方もだいぶ主体的な思考力に欠けているように僕は思うわけですが、
それこそ権力に縛られない読解力と思考力があれば、〈フランス現代思想〉がこのような欺瞞だらけの思想であることがわかってきます。
僕はフーコーが「知の考古学」というスタイルを取ったのも、現在の自分へのブーメランを防ぐ戦略だったのではないかと疑っています。
いずれにしても、僕から見ればみんな騙されすぎです。


「服従する主体」とは、権力に愛された「規範的な主体」のことなのです。
簡単に言うと、権力に愛されたければ、服従した方が圧倒的に得なのです。
それは、フーコーを持ち出して「服従する主体」への批判をメディアで偉そうに語るためには、まずは権力に「服従する」エリートであることが必要になることでも明らかです。
ここには退屈な欺瞞があるだけです。
マスメディアで「服従する主体」批判を展開している人たちが、実は「服従する主体」の代表であるのです。
それをごまかし、大衆を騙し続けるのが彼らエリートの役割なのです。
権力に愛された人間の権力批判など、信じる価値はありません。
近代以降の革命的な哲学者であるニーチェもマルクスもベンヤミンも、大学の規範に合わずに大学から離れているのですが、
嬉々として大学に在籍している人たちが彼らの思想の真実に迫れるとは僕には思えません。


「服従する主体」の「裏面」が権力から愛される「規範的な主体」だという認識は非常に重要です。
なぜなら、規範的であるということは、社会的な価値として認められるものだからです。
エリートが大衆より価値の高い存在だと思われているように、よりヽヽ「規範的な主体」であることは、よりヽヽ価値のある「上位の存在」となることなのです。
さて、ここで思い出してほしいのが、フーコーの描いた「服従する主体」が不可視の権力から一方的に見られるヽヽヽヽ可視的な存在であったということです。
つまり、フーコーの考えた権力が近代権力であるのならば、近代とは、可視的な存在にこそ価値があるとされている時代だということです。
近代権力は支配を強化するために人々に可視化を要求し、その反面、自らの存在は不可視にしていくのです。
「服従する主体」は「規範的な主体」であり、身体を見られる「可視的な主体」だということです。
「身体の可視化」とは権力が人々を支配する新しいやり方です。
もはや「規律・訓練」などは考古学の領域でしかありません。
(当然ですが、このような社会では倫理も身体の可視化によって支えられざるをえません)


ここまでくれば、僕がアイドルの話をしたことの意味がわかると思います。
アイドルの語源はギリシャ語のエイドスに遡りますが、「実体のない像」という意味で、これが可視性だけを表す語であることはもちろん偶然ではありません。
なぜ最近のアイドルはダンスをするのでしょうか?
ダンスとは表現でありながら身体をリズムに合わせて可視的に規範化するものです。
「服従する主体」とは「規範的な主体」であり、「可視的な主体」であるのですが、
彼らが監視された囚人のような気分にならなくてすむのは、カルヴァン派の信徒のように、自らが神に愛された存在であることを可視的に示すことを喜びとしているからです。
消費資本主義社会における救済とは、自らを「服従する主体」として可視化することで確かめられるものなのです。
神に救済される人が神に見捨てられた人より価値のある「上位の存在」であることは言うまでもありません。
神の救済にふさわしい「規範的な主体」とは人より価値のある「上位の存在」の証明なのです。
アイドルが大衆より「上位の存在」であるのは、それが「可視的な主体」であって、救済されるべき「規範的な身体」であるからです。
そのような「上位の存在」は身体を規範化するダンスにおいても上位にある「規範的な身体」でなくてはならないのです。
もちろん、ダンスばかりでなく、歌唱技術に優れていても「上位の存在」の証明にはなると思います。


フーコーの権力論が片手落ちでしかないのは、このような「服従する主体」への大衆の自発的な欲求を見ないようにしているからです。
人々は自分が大衆のまなざしを集める「上位の存在」であることを証明するために、メディア上で可視化される「服従する主体」へと積極的に変貌していきます。
(これは「上位の存在」であることを証明するために、積極的に受験勉強に勤しむ「規範的な身体」へと同一化するメカニズムと変わりません)
権力の問題は大衆の自発的な服従にこそあるのです。
ポストモダン思想家が監視技術を司る国家権力やGAFAを批判するだけなのは、この不都合な真実から逃げ続けるためです。
現代思想などと言っていても、結局は消費資本主義を邪魔しない考察によって社会への不満を吸収し、本の売り上げにつなげたいだけでしかないのです。
消費社会に「服従する主体」とは、自らを「上位の存在」だと示すために、大衆の視線と貨幣を集約して消費へと投じさせる人のことなのです。


消費社会は大衆の自発性によって支えられているので、今や国家権力が強制的に「服従する主体」へと「規律・訓練」をする必要すらなくなりました。
消費市場やインターネットなどで身体を率先して可視化し、ネットワーク上を流通する「商品」として物象化することで、
大衆が自分から〈ネットワーク型権力〉に対して従順な「服従する主体」となっていくのですから。
大衆の自発的服従を引き出すために、現代の権力がやるべきことは監禁施設による強制的な訓練ではありません。
大衆を「承認」に飢えた状態に落とし込むことです。
最大に効果があるのは、大衆が互いの身体が見える距離で直接に相互承認し合う社会を破壊することです。
もう一度、言い方を変えて言います。
現代権力の監視システムが効果的に働くためには、人々が市場ネットワークを介在しないで直接的に相互承認する機会を、すみやかに破壊しなくてはならないのです。
このような破壊活動に伴って、〈ネットワーク型権力〉の支配が強化されていくプロセスを、ポストモダンへのパラダイムシフトと偽装しているだけなのです。


僕が「服従する身体」の現代的典型と考えているのがオタクです。
オタクとは趣味市場のネットワークに自ら服従してくれる従順な存在です。
最近ではオタクという言葉が広く用いられるようになっているので、その定義は曖昧かもしれませんが、
僕の言うオタクは、市場の商品やインターネットなどの価値に依存する仮構的なコミュニケーションを喜びとして、
自分の実人生の経験に基づいたコミュニケーションを避けたがる人のことです。


オタクは〈ネットワーク型権力〉の支配に最も協力的な人々です。
〈ネットワーク型権力〉にとって最も困るのは、消費資本主義に基づいたネットワークに参加しようとしない人たちです。
その逆に当たるのは、自らの全人生をネットワークに接続してくれる人ということになります。
オタクは総じて「自己承認」をネットワークへの接続に依存している人たちです。
少し考えればわかることですが、現実世界で承認を受けられる人は、程度の大小はあるにしても社会的な成功者になることが多いでしょう。
そうなると、仮構的なネットワークで承認を求める人は、少なからず現実世界での落伍者になりがちです。
フーコーが権力論で扱った「狂気」にしても囚人にしても、社会の底辺に位置するものです。
その意味では、ネットワークへの依存性が高い人ほど監視されるべき存在だということになります。
インターネットなどはそのような監視メカニズムの一種として把握することができると思います。


ネットワークがなぜ権力と言えるのか

「服従する主体」の話から急に〈ネットワーク型権力〉の話に結びついてしまいましたが、
僕の感覚をそのまま飲み込みたくない人のために、論理的実証のプロセスを示しておきましょう。
フーコーの概説書を読むと、パノプティコンで示した権力を「規律・訓練ディシプリン」の一つと誤解するものが多かったのですが、
規律・訓練ディシプリン」はあくまで手段でしかありません。
この手段を用いて囚人を監視する「主体」こそが、権力の居場所になるはずです。
『監獄の誕生』でフーコーは、不可視な権力である監視者について、このように書いています。


これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没個人化するからである。その権力の本源は、或る人格のなかには存せず、身体・表面・光・視線などの慎重な配置のなかに、そして個々人が掌握される関係をその内的機構が生み出すそうした仕掛のなかに存している。(フーコー『監獄の誕生』田村俶訳)

フーコーは権力が没個人化し自動化しているため、「誰が権力を行使するかは重要ではない」と言います。
つまり、監視を司る主権者は誰でもいいということです。
主権者が誰でもいい、と言うとホッブズの『リヴァイアサン』(1651年)を思い浮かべます。
ホッブズは国家を一つの自動的なシステムとして考えたので、この権力を国家に帰属させたくなるのですが、
フーコーが「身体・表面・光・視線」という可視的なものにだけ言及していることを無視してはいけません。
その後の訳文「そして個々人が掌握される関係をその内的機構が生み出すそうした仕掛のなかに存している」は非常にわかりにくいのですが、
おそらく原書を読んでもここはわかりにくく書かれているのではないかと思います。
なぜならフーコーはこの部分をわかりやすく書くことができない時代に生きていたからです。
なので、それより先の時代を生きている僕には、この部分を断然わかりやすく説明することができます。
可視的なものの中で個々人が支配される「関係」が生み出す内的なシステムとは、要するに「可視的なネットワーク」のことだと考えればいいのです。


監視の主体となる権力は、「可視的なネットワーク」を支配する者のことなのです。
その支配者は決して見られることがありませんし、一人である必要もありません。
交代で監視しても構いませんし、普段は無人のまま録画しておいて必要な時に見返すだけでも構わないのです。
店員が一人もいない商店、というものがテレビで紹介されていたのですが、
店員が存在しないのに客が商品を盗んでいかないのは、店内に監視カメラが設置されていて、それが24時間ネット上で生中継されているからでした。
計画倒れに終わったパノプティコンは、めぐりめぐって現代のインターネット技術によって手軽に実現可能になったのです。


実はネットワークは世界の至る所に存在する普遍的なものです。
たとえば〈フランス現代思想〉が大好きなソシュール言語学などは、言語のネットワーク的側面を強調したものです。
ソシュールが示した言語の恣意性とは、犬が「イヌ」と呼ばれることに必然性はなく、ただ他の言葉との差異があれば良かったのだ、というものですが、
これはある言葉が他の言葉との差異的関係の中で成立する、というネットワーク構造を言っているだけに思えます。
僕もやっていることですが、知的論考を書く場合に先行文献を参照することもネットワーク形成に寄与しています。
最近では論文の多くが英語で書かれ、出版物のネットワークが巨大な電子データベースとなっています。
経済においてもネットワークの役割は非常に重要です。
株式保有によって、企業は他の企業とネットワーク関係を結んでいますし、
直接に関係がなくても、ある社の株価の動向が別の社の株価に影響を与えるような株価の相関も生まれます。
自然の中にもネットワークが欠かせません。
生態系における食物連鎖もネットワークとして把握できますし、生命体の中のタンパク質同士の相互作用もネットワークを形成しています。
また、代謝作用もある種のネットワークだと言えます。


もちろん、ネットワークがあらゆるところに存在していることと、それが権力であるということは別の問題です。
ネットワークそのものは権力ではありません。
それが権力化するのは、ネットワークが不均一性ヽヽヽヽに基づいて自己組織化する性質を持ち、
無秩序に形成されているにもかかわらず、ある種の秩序を生み出すためだと僕は考えています。


ネットワークのつながり方について研究する「ネットワーク科学」という研究分野が存在します。
グイド・カルダレリとミケーレ・カタンツァロ『ネットワーク科学』はその入門書のひとつですが、
この本を参考にして、僕がイメージしている〈ネットワーク型権力〉について軽く考察しておこうと思います。


まず、基礎的な語彙について確認します。
ネットワークはある項とある項を結びつけて構成されるわけですが、その一つ一つの項のことを「頂点」または「ノード」と呼び、
ノードとノードを結ぶ線のことを「枝」または「エッジ」や「リンク」と呼びます。
鉄道のネットワークを例に取れば、それぞれの駅が「ノード」であり、駅と駅をつないでいる線路が「リンク」に当たります。


ネットワーク科学は、ネットワークの注目すべき特徴を明らかにしています。
まず「スモールワールド性」という特徴があります。
これはネットワーク上のノードが、他のあるノードに到達するのに、数ステップで済んでしまうという近接性を言っています。
ネットワークでは、物理的な距離はほとんど関係ありません。
ノードから他のノードまでの距離はすべて「そこそこの近さ」に位置しています。
そのため、ネットワークにさらなるノードを多く追加したとしても、ノード間の距離は「そこそこの近さ」をキープし続けることができます。
インターネットで世界が狭くなった、という感覚は、ネットワークの特徴として学問的に裏付けられているのです。


ネットワークを権力として考える場合に、僕が注目したいのは「スーパーコネクター」の存在です。
ノードとノードが結ばれることでネットワークが形成されるわけですが、つながり方が不均一なネットワークには明確な「ハブ」が存在します。
接続先となるリンクを多数持つものがハブです。
ハブとは車輪の中央部のことで、中心(ノード)からスポーク(リンク)が放射状に広がる車輪の構造がイメージのもとになっています。
鉄道で言えば東京駅のようなもので、たくさんの路線が乗り入れる駅が交通の要所であることは言うまでもありません。
航空路線が集中することで他の空港への中継点となるものをハブ空港と呼んだりしますね。
インターネットで考えれば、多くの人がプラットフォームとして集中利用するサイトはハブのようなものですし、
多くのフォロワーを抱えるSNSなどの「インフルエンサー」もハブの役割を果たしていると言えるでしょう。
ハブとして非常に多くのつながりを持つノードのことを、「スーパーコネクター」と言います。


不均一なネットワークでは、ノードとノードの連結性の大部分を少数のスーパーコネクターが担うことになります。
この事実が非常に重要です。
インターネットなどを例にとれば、ネットワーク全体を司る管理者や設計者は存在しません。
その点でネットワークには高密度な全体主義は起こりえないのです。
ナチス的な全体主義だけを仮想敵とするなら、ネットワーク化に貢献するような言説を振り回していれば正しいことを言っている気になれます。
しかし、ネットワークが全体化に困難を抱えているからといって、ネットワークが権力になりえないわけではありません。
ネットワークの不均一性は意外にも無秩序に陥ることなく、ある秩序だった動きをする結果になるのです。
『ネットワーク科学』には「ネットワーク全体としての秩序は、頂点の集団的な振る舞い、言い換えれば自己組織化のボトムアップな過程から生じるのである」とあります。
ネットワークの秩序は、ネットワークを形成するノードの集団的なあり方によって成立します。
こうしてボトムアップで立ち上がった秩序が、「(多数派の)空気を読め」という暗黙の命令となって、
トップダウンの指示と同じように権力が要求する秩序として働くようになるのです。
(「マスク警察」の存在はこのようなボトムアップ=トップダウンの現象を示しています)


これらの不均一性の例と不均一なネットワークには、共通する重要な性質がある。それは、いずれも複雑でほぼ無計画な過程の結果だということだ。不均一性は、無秩序性と同じものではない。それどころか、不均一性は隠された秩序の証拠かもしれない。秩序は、トップダウンの計画によって課されたわけではなく、各々の構成要素の振る舞いによって生み出されるものだ。(カルダレリ、カタンツァロ『ネットワーク科学』高口太朗、増田直紀訳)

不均一なネットワークが権力化する時代に、今さら中央集権的な国家権力やトップダウン的な規律秩序を批判するのは時代遅れですし、
偶然性を語っていればシステム化から逃れられると考えるのも見当違いです。
たとえそれぞれが偶然的で無秩序な欲望の発露であっても、ネットワークを通じてそれが集団化すれば、秩序を強要する権力になりうるのです。
さらに言うと、特定の志向を持ったスーパーコネクターが歩調を合わせれば、ネットワークが立派に権力として機能することもありえます。
設計図や管理者もなく、自己基準で非協調的な振る舞いをするノードで成立したインターネットのようなネットワークも、十分に権力として働くことができるのです。
とりわけスーパーコネクターはインターネット以外のメディア業界で活躍する場合が多いので、
業界内の事情がネットワークによって拡大され、権力化することもあると思います。
また、GAFAに代表されるように、自社ネットワークからビッグデータを収集することができれば、それも一つの権力になることでしょう。
それについても批判すべきはネットワークの権力性であって、特定のIT企業ではないのです。


とりわけ問題なのは、ネットワークが「富めるものがさらに富む」ことを後押しするということです。
少数のスーパーコネクターによる秩序が、勝者総取りの構造になることは想像しやすいと思いますが、
ネットワークの成長過程で「優先的選択」というものが行われるため、特定のハブがスーパーコネクターと化すことになり、「富めるものがさらに富む」事態を生み出してしまうのです。


「富めるものがさらに富む」ことを「マタイ効果」という言葉で法則化したのが、社会学者のロバート・マートンです。
(マタイ福音書の持っている人はますます豊かになる、という一節にちなんで名づけられたものです)
マートンは表彰や研究資金調達、名声や知名度などの配分に、マタイ効果が見られるとしています。
簡単に言えば、すでに名声を獲得した科学者は、さらなる名声をたやすく得ることができるのに対して、そうでない研究者は名声を得るのに悪戦苦闘するということです。
すでに別ジャンルで有名になっている人が、文学賞を簡単に受賞するような現象は、マタイ効果で説明ができるのです。


物理学者のデレク・デ・ソーラ・プライスは、科学論文の世界でマタイ効果が確認できることを示しました。
プライスが科学論文のデータを分析したところ、発表直後に他から引用されることのなかった論文は引用が増えず、すぐに引用された論文はさらに多く引用される傾向があったのです。
すでに引用を獲得している論文が、さらに引用を増やすということは、「富めるものがさらに富む」ことを示しています。
たくさん引用される論文は引用ネットワーク上のハブと考えてもいいわけですが、
いったんハブとして成立してしまえば、そのハブがさらにリンクをどんどん増やしていく仕組みがあるわけです。


これは論文の引用ネットワークにとどまる現象ではありません。
その仕組みが不均一なネットワークの本質であることを、アルバート=ラズロ・バラバシとレカ・アルバートが「BAモデル」で説明したのが1999年です。
バラバシとアルバートは、少数のノードに次々に他のノードが加わってネットワークが成長していく過程を、数学的シミュレーションで描き出しました。
そうすると、初期はどのノードも接続するノードの数があまり変わらなかったのに、
ある時点から特定のノードが多くのリンクを集めるようになり、そのノードの成長度合いが著しくなったのです。
多くのリンクを持つノードはハブとしてさらに巨大化していくのですが、それはごく少数にとどまり、残りのノードはリンクが少ないままそれほど大きくなりません。
このようなネットワーク構造を「スケールフリー・ネットワーク」と呼ぶのですが、
不均一なネットワークとは、「富めるものがさらに富む」仕組みだと言えるのです。


では、どうしてこのようなバランスを欠いた事態が起こるのでしょう?
それをバラバシとアルバートは「優先的選択」というルールで示しました。
新たにネットワークに参入したノードが、既存の頂点の中で多くの接続先を持つハブ化したノードを好んで選択することを優先的選択と言います。
簡単に言えば、転校生が新しいクラスで友人を作るときに、クラスで最も人望がある人気者と仲良くなりたがるようなものです。
新規参入したノードが、すでに多くの接続先を持つノードとつながることを選ぶようになると、
人気者がさらに人気者になっていく傾向が半ば自動的に進行します。
優先的選択はネットワークの形成において合理的なものに思えるので、ネットワークの成長がノード間の格差を拡大するのは避けようがありません。
もし、この格差を是正したければ、ネットワークを小さな状態に保つか、均一なネットワークを形成するかしかないでしょう。


僕はネットワーク論を詳しくやりたいわけではないので、ちょっと駆け足で説明しましたが、
スケールフリー・ネットワークでは、ネットワークが拡大するほどノード間の格差は広がっていく、ということを理解していただければ十分です。
人文学や創作の分野で、それほど能力がない人が妙に売れっ子になるのは、他社の動向に左右される日本のマスメディアが、優先的選択を好んでいるからです。
その人を自らの目で評価したのではなく、同業他社が起用している人だから間違いないという無責任な理由で起用するだけなのです。
(実際、僕があるマスメディアに人材起用の適切さについて問い合わせたところ、
適切であることの説明ではなく、その人が他のメディアに起用された実績を示されました)
こうして日本のマスメディアは無能な「裸の王様」を次々に売れっ子にして消費していくのですが、
僕が〈ネットワーク型権力〉と考えているものは、次々に消費される「裸の王様」ではなく、
その情報を多くの従属するノードへと発信しているスーパーコネクターの方です。
たとえ売れっ子アイドルになっても、商品として消費される人は束の間の高揚感が過ぎると、人気を長く持続させることに悩み苦しみます。
安定して権力的な地位にあり続けて、ネットワークが拡張するごとに格差をさらに広げていくのは、情報を流し続けるスーパーコネクターです。
ある時期に売れたタレントが次々と落ちぶれていっても、テレビ局がずっと変わらず高い地位にあり続けるようなものです。
〈ネットワーク型権力〉とは、パノプティコンの監視者と同じ没個人化した権力です。
決して自身を可視化することなく、安定してメタな位置を確保して、情報発信に伴う利益を貪り続けるのです。


権力のパラダイムシフト

ネットワーク上で権力として機能するスーパーコネクターが、「富めるものがさらに富む」ことで力を増していくことは述べましたが、
これが金融資本主義と同様のメカニズムであることを指摘しないわけにはいきません。


勝者総取りのメカニズムはまさに金融資本主義そのものと言ってもいいものです。
〈ネットワーク型権力〉を考えるときに、僕はヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を重視したわけですが、
これは〈ネットワーク型権力〉と資本主義の精神に深い関係があることを示しています。
いや、深い関係があるどころではありません。
資本主義とは、市場ネットワークを前提とした〈ネットワーク型権力〉のことなのです。
身体を暴力的に拘束する権力の代表が国家権力なのに対して、身体を可視化して監視する権力が〈ネットワーク型権力〉でしたが、
市場ネットワークにおいてはモノが商品として可視化(物象化)されるのです。
フーコーの『監獄の誕生(監視と処罰)』は、身体への暴力的処罰から身体への可視的監視への移り変わりを取り上げたわけですが、
フーコーが後者も国家権力へと結びつけてしまったために、権力構造の根底的な力学的ヽヽヽシフトを見失ってしまったのです。


国家権力は交通の要所や商業の要所などのネットワークを暴力的に支配して成立するものです。
その意味では国家権力をネットワークの力抜きに語ることはできません。
しかし、近代になるまで国家はネットワークの上位に暴力的に存在するものでした。
力関係で言えば、国家の方が主導権を握っていた時代が長く続いていたわけです。
その力関係の逆転が始まったのが近代です。
生活の隅々に資本主義が入り込むことによって、貨幣経済の力だけで暴力的な支配力が発揮できるようになりました。
(経済制裁という方法が経済の暴力的な面を端的に示しています)
そうなると、国家的暴力と経済的暴力が主導権争いを始めるようになります。
第二次世界大戦の連合国と枢軸国の戦いとは、見方によっては、ネットワークによる経済的暴力と国家的暴力の主導権争いだったと言うことも可能だと思います。
今や暗黒な支配形態として悪名を轟かせているナチスドイツですが、ナチスの経済政策が案外社会主義的であったことは知られています。
ナチスとは戦時体制によって、経済ネットワークの上位に国家的暴力を置く近代以前の神話的ヽヽヽスタイルの実現だったのかもしれないのです。
神話的でギリシア的な世界観には奴隷の存在が欠かせません。
ナチスの戦時体制があれだけ持続できたのも、周囲の国家を侵略することで、その地域の人々を奴隷として暴力的に収奪したからです。
そこには自由な経済活動とは全く異なった暴力的な経済原理が存在していました。
ナチスが奴隷以下の扱いをしたユダヤ人やジプシーは、国家を持たない経済ネットワーク的主体でした。
国家による経済ネットワークの支配は、アーリア人によるユダヤ人支配に象徴的に重ね合わせられていたのではないでしょうか。


このような歴史を考えると、ナチスを仮想敵とする〈フランス現代思想〉がユダヤ的なネットワーク思想になるのがわかりやすいと思います。
(人生のほとんどをパリで過ごしたドゥルーズが、非国家的なノマドロジー=遊牧民的生活を上位の価値としても自己矛盾に苦しまないのは、パリがハブ的な役割を持つ都市だからです)
枢軸国の敗北は、国家統制型の経済支配が敗北したことを示します。
ただ、戦後もソビエトや中国などの社会主義体制や日本の高度経済成長など、国家統制型の経済はまだ力を持っていました。


国家権力と〈ネットワーク型権力〉のパワーバランスが大きく崩れたのは、1990年の社会主義体制の崩壊とそれによって導かれたグローバル化以降です。
これによって国家権力による「直接暴力」より経済ネットワークによる「間接暴力」が重視される世界になっていきました。
このような時代を一般にポストモダンと呼んでいるのですが、身体への「直接暴力」は減りましたが、ネットワークを利用した「間接暴力」がむしろ猛威を奮うようになりました。
暴力そのものが批判されるようになったのではありません。
権力による身体に対する直接的な暴力が、不可視で間接的なネットワークによる暴力へと置き換わっただけなのです。
昔は気に入らない相手を直接恫喝したり殴ったりしたのですが、今は気に入らない相手をSNSで集団的にヽヽヽヽ誹謗中傷することが暴力になっています。
たとえば、気に入らない人のツイートに多くの人が寄ってたかって嫌がらせのコメントをしたり、
多くのフォロワーを抱えるスーパーコネクターが発信力のない相手を誹謗中傷するのは、現代の「間接暴力」の典型です。


しかし最近になって、中国が再び国家権力の「直接暴力」による支配をリバイバルさせようとしています。
そのため、また国家権力と〈ネットワーク型権力〉の相剋が復活しそうな気配です。
ただ、中国の資本主義に対する統制は限定的であって、〈ネットワーク型権力〉を力で抑え込むまでには至っていません。
(むしろ、それをやったら中国共産党の安定支配が危機に陥る可能性があります)
中国共産党は経済ネットワークをなんとか国家の下に置きたいとがんばっている感じですが、実情はおそらく苦労が多いことでしょう。
しかし、皮肉なことに、中国はネットワークを国家権力で統制する力を手放さなかったために、感染症の世界的猛威を抑え込むことに関しては高い成果を得ることができました。
新型コロナウイルスのような感染症が、人的ネットワークによって拡大するものの一つであることは間違いありません。


感染症は、世界的な規模(たとえば航空網)と局所的な規模の両方でネットワークを通じて広がる。人から人へうつる感染症は、人々の社会ネットワークによって感染の仕方が決まる。たとえば、インフルエンザウイルスが部分的には人々の対面接触を通じて広がるのに対して、HIVは感染予防策を用いない性的接触のネットワークにおいて広がる。(カルダレリ、カタンツァロ『ネットワーク科学』高口太朗、増田直紀訳)

〈ネットワーク型権力〉が支配体制になっている国で、ネットワークを利用する感染症を抑えるのは至難の業です。
「直接暴力」より「間接暴力」を手段とする〈ネットワーク型権力〉に残された対策は、ネットワークの「間接性」を利用することしかありません。
それでインターネットを使ったテレワークやオンライン授業などで、感染症に対抗することになったわけですが、
経済活動の大部分は依然として人と人との直接的なネットワークに依存しているために、限定的な成果しか得ることはできませんでした。
その点、中国は国家権力による暴力的なネットワーク制御がイデオロギー的に可能であり、それが感染症対策で目に見えた結果をもたらしたのです。
(もちろん、COVID-19がなぜか東アジアの人々に対しては比較的軽度な症状をもたらすにとどまっていることも大きな要因ではあるのですが)


問題は、〈ネットワーク型権力〉にも多重性があるということです。
民主主義という市民ネットワークは市場ネットワークよりも下位にあります。
人間同士のネットワークであるSNSのヘビーユーザーが、経済的な下層に属すると思われやすいこともこれと無関係ではありません。
その意味で、市場ネットワークが必然的に広げていく経済格差が、ある閾値を超えてしまうと、
格差に苦しむ人々のネットワークを中心に、市場ネットワークへの反感が芽生えます。
力には力で対抗するしかないので、その反感は国家権力の強化へ向かうことにならざるをえなくなります。
ネットワークの上位に国家権力を置くことにこだわっているのが「保守」を自称する人たちです。
こう考えると奇妙なことが起きます。
日本の「保守」勢力の政治的立場は新米反中なのですが、ネットワークの上位に国家権力を置くことについては西洋より中国の考えに近いのです。
また、「保守」の人は野党を毛嫌いしている場合が多いのですが、彼らの欲望通り野党が消えてなくなれば、一党独裁の中国と同じ政治体制になってしまうのです。
つまり、日本の自称「保守」の人たちは、国際力学的にはアングロ・サクソン体制に同調しているのですが、国内力学的には中国に深層では憧れているのです。
彼らには自己分析能力が欠けているので、このような矛盾に苦しまずにすんでいるようですが、本当に幸せなことだと思います。


実りある未来のためには、国家権力の暴力に頼ることなく、格差を拡大するネットワークのあり方を制御する方法を考えていくべきでしょう。
そのためには、まず現代の権力をネットワーク型として把握することから始めなくてはいけません。
〈ネットワーク型権力〉の構造を理解することが、それを制御するためには欠かせないからです。


今回はネットワークが権力としての機能を果たす〈ネットワーク型権力〉について書いてみたのですが、僕の中ではまだ考察が始まったばかりです。
書き足りていない部分も多く残っているのですが、
それは執筆中の「芸術疎外論」や他の記事に引き継がれていくことになると思います。
努力はしたつもりですが、僕の思考の深まりが足りないこともあって、今回の論考はだいぶ難しくなっている気がしています。
もし消化しきれない疑問点があれば、コメント欄に質問をお寄せください。


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