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趣味空間の全般化という〈日本安楽主義〉【その2】

大学の官僚化に絶望した藤田

今回もひきつづき藤田省三の『全体主義の時代経験』を読むことで、80年代以降の日本社会の閉塞感について考察していきます。
すべてを貨幣という一元的価値へと還元していく資本主義を、藤田が現代の全体主義として捉えた「全体主義の時代経験」という文章に触れてから、「「安楽」への全体主義」の内容へと移ろうと思います。


前回の【その1】で、藤田が71年に法政大学教授を辞した理由がよくわからないと書きましたが、
最近になって青土社の「現代思想」2004年2月号の藤田省三特集を手に入れたところ、
同じ法政大学法学部教授だった飯田泰三の「藤田省三の時代と思想」という文章に当時の藤田の事情が書かれていたのを見つけました。
そこにはイギリス留学から帰国した藤田が、大学紛争に当事者として関わったことが書かれています。
飯田は藤田の辞任について、大学紛争に疲れたからではなく、高度成長の下で知識人の知的頽廃が進んだことが影響した、と考えています。
藤田は「「大学」という虚構の特権的制度の中で「教授」として生活していくことに、もはや精神的に耐えられなくなった」のです。
飯田の考察は僕の推測とそう変わらなかったので、少し安心しました。


藤田は主著『天皇制国家の支配原理』で、明治維新後の近代国家日本の支配体制が、道徳という非政治的なものに支えられたものであったことを喝破しました。
道徳が支配原理となる国の官僚は、自らが道徳的価値の独占者として倫理的暴君になると藤田は述べています。
つまり、官僚=道徳人のすることに間違いがあろうはずがない、ということになり、好き勝手な振る舞いが許容されてしまうのです。
下級官僚は上級の官僚の「子分」「弟分」として、ただ追随するだけの精神的幼児になっていきます。
「子分」である下級官僚は上級に献身して、将来自分も「親分」のようになることを目指します。
こうして官僚機構に縦の階層性が生まれ、機構内部の系統的セクションは必然的に徒党のようになる、というのが藤田の説明です。
このような派閥的集団は日本のいたるところにあると思いますが、大学教員の世界も例外ではありません。
藤田は大学に日本的な官僚制度と同様のものを感じ取って、大学から去る決意をしたのではないかと僕は想像します。


藤田の私的セミナーの生徒でもあった本堂明が、藤田の人柄について書いている同誌の文章を読んで、さらに藤田のことが好きになりました。
一部を引用します。


その人物は組織や集団が大嫌いで、個人の信義を重んじ、困っている人には細やかな支援をおしまない「義侠の人」であり、しかも最も良き頃の藤田さんは暖かな心遣いで相手をいたわり、逆に威丈高に権威を嵩にきたり生半可な通念や思い込みで向かってくる者に対してはこっぴどく皮肉たっぷりに応酬し、そうしたありとあらゆる「虚威」の体系に対しては、少しでもその気配を感じるや否や、それが人であれ書物であれ、こき下ろさずにいられない人であった。しかもそれを口八丁手八丁で面白おかしく相手の核心を衝いて演じるのだから面白くないはずがない。

なんか妙にシンパシーを感じてしまいました。
このように集団から独立した「個」としての信念を持っているところが、僕が藤田に共感する最大の理由です。
大学などの組織が「お目こぼし」をしているネットでだけ、「虚威」を頼りにして自己中心的な意見を垂れ流す大学教員など、
藤田から見れば知識人でもなんでもないのです。


資本主義の全般化は貨幣による全体主義ではないのか

本論に戻りますが、「全体主義の時代経験」で藤田はイデオロギーの終焉について語ったあと、貨幣そのものを売買するという現代的現象を問題にします。
貨幣と土地、それと労働力としての人間は、元来は販売目的のために作られた「商品」ではありません。
自分の存在にとって必要不可欠な制度的手段であるものを、制度ではなく利益を生む「商品」としてしまう点で、
制度的建前を利益のために流用したナチスやスターリニズムに通じるのではないか、と藤田は言います。


そこでは直接的な貨幣利益への一義的執着が全てを衝き動かしている。富は他の何物にも体現されてはいない。流動(流通)こそを存在の根本形式とする。(何たる逆説!)カレンシー(貨幣)にあらゆる「富」が直接的に集中する。流動そのものがあらゆる価値物・あらゆる富を代表するとは全体主義の特質そのものではないか。

藤田が語る現代の全体主義とは、「絶え間ない流通・流動が全ての形態、対象、モノを呑み込んでいく世界」のことです。
乱暴にまとめてしまえば、すべてが商品化して流通する全体主義のことで、ここでは〈流通の全体主義〉とでも呼んでおきましょう。
(市場にある商品はもちろん、インターネット上の情報すべてが〈流通の全体主義〉の一部であるわけです)


少し余計な話をしますが、僕はネットでAmazonレビューを書く前から文章を書いていました。
それらを外部に「流通」させる気持ちにならなかったのは、〈流通の全体主義〉に抵抗したい気持ちが強かったからです。
しかし、そうしているうちに出版・マスコミの流通至上主義的な堕落が無視できないレベルに達したので、不本意ながらネットで抵抗戦を試みてみたところ、無名人を侮った無教養な著者が地雷を踏みにきたのです。
出版界や学界には「著作を発表しない人間は能力がない」と決めつけた態度の人がいかに多いか知りましたが、
そのような流通至上主義的な発想が正しく思えるのは、いかに日本において「流通」が全体主義的な価値として成立しているかの証明でもあると思います。
具体的な名前は出しませんが、〈流通の全体主義〉を背景にして、自己の著作の流通の害になりそうなレビューを弾圧する人間が、いかにファシストとしての素養を十分に持ち合わせているかがわかるというものです。


「安楽」がめざすテクノロジーによる痛みの除去

それでは「「安楽」への全体主義」という藤田の論考へと移りたいと思います。
藤田は高度テクノロジー社会を支える精神の基礎に「安楽」の存在を見出します。
最新のテクノロジーを用いた設備や装置、製品を進んで受け入れていく我々の精神には、不快をもたらすものを排除する「安楽」主義があると言うのです。


それは、私たちに少しでも不愉快な感情を起こさせたり苦痛の感覚を与えたりするものは全て一掃して了いたいとする絶えざる心の動きである。苦痛を避けて不愉快を回避しようとする自然な態度の事を指して言っているのではない。むしろ逆に、不快を避ける行動を必要としないで済むように、反応としての不快を呼び起こす元の物(刺激)そのものを除去して了いたいという動機のことを言っているのである。

不快を避けようとするのは自然なことですが、藤田が問題にしているのは、
不快をもたらす原因そのものを排除することです。
不快の原因を排除して不快な事態と触れ合うことがないようにするという「恐るべき身勝手な野蛮」が問題なのです。
そこには不愉快なことが生じない世界を良しとする、実生活をディズニーランドにでもしようとする欲望が見られます。
わかりやすい例を挙げれば、自分の好きな作品に対する批判的な意見の存在を消去しようとする態度などがこれに当たります。


不快をもたらす物を殲滅する精神を藤田はこう分析しています。
「不愉快な社会や事柄と対面する事を怖れ、それと相互的交渉を行うことを恐れ、その恐れを自ら認めることを忌避して、高慢な風貌の奥へ恐怖を隠し込もうとする心性である」
藤田は80年代の社会においてすでに、現代社会が不快のない状態というだけの一面的な「安楽」を優先的価値として追求していることを見抜いていました。
それから30年近く経って、ようやく僕たちにも藤田の言葉が大いなる予言のように実感をもって感じられるようになってきたのです。


我々のテクノロジー信仰には不快そのものが発生しないようにコントロールしたいという欲望があります。
不快なことを書く奴を目にしなくて済むようなツイッターのブロック機能などの「フィルタリング」を求める心性と、藤田が「安楽」という言葉で表現しているものは同じものだと思います。
インターネット利用者の同質性を求める傾向は「エコーチェンバー」「フィルターバブル」などの言葉で表現されていますが、その根幹に「安楽」の希求があるということまでは明確に語られていません。
欲求の充足が利潤を生み出す資本主義の構造と、「安楽」の果てなき追求と、テクノロジーの発達は、現代社会の三位一体と言えます。
このような三位一体の結びつきから、仮想的な人間不在の戦争が導かれようとしている中で、それに対抗する手段として身体兵器の自爆テロが選ばれるのは必然かもしれません。
(今、資本主義とは別の身体論とか言うなら自爆テロについて語らないものに批評性はないと言えるでしょう。
日本に目を転じるならば、戦時中の特攻隊はもちろん三島由紀夫の自決からオウム真理教までを視野に入れずに話はできないはずです)


不快の欠如態である「安楽」の弱点

藤田の考察がすぐれているのは、「安楽」に隷属する状態になることで別の弱点を抱えてしまうと指摘していることです。
「安楽」が唯一の中心的価値となると、それがいつまでも持続することを求めるようになり、「安楽」喪失の不安に怯えるようになる、と言うのです。


或る自然な反応の欠如態としての「安楽」が他の全ての価値を支配する唯一の中心的価値となって来ると事情は一変する。それが日常世界の中で四六時中忘れることの出来ない目標となって来ると、心の自足的安らぎは消滅して「安楽」への狂おしい追求と「安楽」喪失への焦立った不安が却て心中を満たすこととなる。

薬物やアルコールなどの依存症に陥るように、「安楽」にも中毒性があるということです。
ディズニーランドがあまりに「安楽」であるため帰りたくなくなる、ということはあるでしょうが、ずっとディズニーランドに居続けられないことは明白なので、中毒にまではなかなか至らないと思います。
しかし、接続への障壁が低いネット空間やSNSであればどうでしょう。
サイバースペースに「安楽」を求める人がこのような状況に陥りやすいことは想像に難くありません。


そんな喪失の不安に絶えず脅かされる「安楽」状態を、藤田は「安らぎを失った安楽」と表現しているのですが、
それが結局のところ「喜び」という感情の喪失を導くと論じます。
「喜び」というものは、一定の不快や苦痛という試練を克服したうえで獲得されるものだと藤田は考えています。
「安楽」を求めるがゆえに不快や苦痛を消去するので、それを乗り越える体験も不可能になってしまうのです。


では、克服の「喜び」を失った人が代わりに得るものは何なのでしょうか。
藤田はそれを一回で使い捨てられる「享受」の楽しみだとします。
商品を購入した時、何かをほめられた時などに、そのとき限定の「享受」の楽しみがある(性的な満足感と似ている)のですが、
藤田が何を問題と考えているのかというと、「享受」においては「時間は分断されて何の継続も何の結実ももたらさない」ということです。
人生の在り処でもある持続的な時間を形成することができない、つまり「経験」を蓄積する機会が抹消されるような事態になるのです。


資本主義は死を不可視化する

人間にとって自然に起こる反応である不快を抹消しようとするあり方を、藤田は「能動的ニヒリズム」だと言っています。
分断された一回きりの「享受」が反復されるだけの世界では、瞬間的な楽しみはあっても、最後に避けられない「死」という苦痛を抱えた持続的な人生を支えていくことができません。


ここからは藤田の論から少し逸脱して、僕の持論を書きたいと思います。
資本主義と「安楽」を求める精神とが一体化しているのは、資本が時間の永続性を前提として未来を搾取するからだと僕は思っています。
簡単にいえば、あと1年で世界が終わるとなれば、それほど金儲けに一生懸命になる必要はありません。
いつまでも世界が続くから金がいくらあっても足りない気がするのです。


厳密な議論をすると少しややこしいことになるので、簡単にすませますが、実際には資本主義は「終わり」を先取りしつつ、その「終わり」をいつまでも先送りする社会体制です。
生産したものが売れた時、その生産物をその人自身が使えなくなるという意味では、生産物の消耗以前にその人にとってその物が「終わり」を迎えたも同然です。
その意味で物を売るというのは、実際の消耗よりも早く「終わり」を先取りする行為です。


その代わりに金銭が手元に残るわけですが、これを元手に別の商品を購入することで、ある生産物の「終わり」が別の生産物の「始まり」へと転じていきます。
(まるで次々に別の相手との恋愛を「享受」するような感じですね)
これがずっと反復されることで、「真の終わり」というものがいつまでも先送りされていきます。
この「真の終わり」というものが貨幣の無効化と同義である、ということに注意が必要です。
つまり、資本主義とは小さな死の先取りと再生を繰り返しつつ、真の死(プラットフォーム自体の死)を先送りし続けるシステムなのです。
不快の元を抹消したいという欲望で駆動する〈日本安楽主義〉とは、死の不可視化という資本の欲望を背景として成立したものだと僕は考えています。
死を喪失した世界に文学が必要なくなるのは必然です。


「安楽」を求める趣味空間

資本主義は小世界の終わりを繰り返しながら、自らが依拠する大きな世界を持続させる欲望を持っています。
その縮図を例に挙げるなら、メンバーの卒業と加入を繰り返しつつ、グループの存続と拡大を続けるアイドルグループがわかりやすいでしょう。
リオタールの影響でポストモダン信者が「大きな物語の終焉」などということを軽薄に語ったりしましたが、
終焉したのは資本主義に吸収されていった「小さな物語」であって、資本主義という「ラスボス」は今でも健在です。


以上、藤田省三の考察する現代の全体主義を読み直してきたのですが、
もう一つ僕が彼の思想に基づいて述べておきたいことは、不快を消去する「安楽」というものが趣味空間という形をとって存在しているということです。
ここで僕が「趣味」という言葉によって語るのは、余暇の時間に負荷のない自由な気持ちで物事を楽しむ行為のことです。
消費資本主義が進行していく中で、個々人の趣味は消費の材料として急速にマーケットに吸収されていくようになりました。
オタクが市民権を獲得できたのも、金銭を消費する一定の集団として社会に認知されたことが大きいのです。
(最近ではLGBTQという言葉が、当事者の実存を離れて消費におけるコードと化しているように感じます)


趣味においては余暇が基礎となるため、「楽しい時間を過ごすこと」が何より優先されます。
そこに不快や苦痛の克服などが求められるはずもなく、
たとえ人生的な視点を持つ意見であっても、不快な意見はその場その場の楽しみを阻害する要因としてしか受け取られません。
趣味的な「安楽」の「享受」を何より優先している人にとっては、内容の正しさ如何にかかわらず、
自らの快と不快ばかりが重要であるため、「安楽」を阻害したという理由でその人を悪人と認定するのです。


特にインターネットという空間は人々の余暇の時間と強い結びつきを持っているので、「安楽」を正義とした趣味空間になりやすい性質があります。
(特に日本ではその傾向が強いと僕は想像します)
いわゆるネトウヨという人々などは、趣味的気分で愛国を消費しているように見えますし、
不快の元となる「現実の自分」という主体を抹消して、テクスト空間で「安楽」を貪る作品を書く人も、趣味的な人だと思います。


しかし困ったことに、今やそのような趣味空間が現実領域を侵犯するようになってしまっています。
象徴的なのは国家権力を担う安倍政権が、趣味的保守とほとんど変わりのない精神で朝日新聞や東京新聞などの不快な批判的勢力を抹消しようと躍起になっていることです。
彼らに「事実」というものを尊重する態度が見られないのは、公的な意識ではなく趣味的な感覚で仕事をしているからではないでしょうか。


一般読者からの批判に対して、ネットで文句を垂れ流す大学教員も同様で、プロ意識のカケラもありません。
自らが従事しているものが公的な学問だという意識があれば、批判に対して論理的に応じることができるはずなのですが、
その主張が社会性に欠けた趣味程度の重量しかないため、「私の安楽を妨害するな」とばかりに批判者をアホとかバカとか罵るだけになっています。
俳句界などは金儲けにならないこともあり、私的なイメージをこねくり回した作品しか作っていない俳人までも、メディアに露出しているからと自らを詩作家様のように思っている方がいます。
実力の優劣がハッキリしているスポーツ界などではそれほど目立たない事象なので、
主に言論を用いる界隈の腐食が激しいと言えるでしょう。


このような趣味空間の現実空間への侵犯──趣味空間の全般化には、藤田が言うような一時の「安楽」を価値として疑わない姿勢があると感じます。
これを藤田にならって僕は〈日本安楽主義〉と呼びたいと思います。
〈日本安楽主義〉の世界では、時間的に限定された「安楽」だけを求めるという特徴があるため、先のことが目に入りません。
先のことを考えない態度でどこまで破滅を先送りできるのか、
どんなに死を不可視化しても死からは逃れられないように、現実から目をそらしても現実がなくなるわけではありません。
現実の反撃によっていつ崩壊するかわからないという点で、〈日本安楽主義〉は暴発の確定した時限爆弾のようなものだと言えるかもしれません。


これで今回の文章は終わりなのですが、最後に、引用しそこなった文を追加させてください。
「安楽」への隷属が権威主義という形をとるようになることを藤田が記している文を引用しておきたいと思います。


「安楽への隷属」は、安楽喪失への不安にせき立てられた一種の「能動的ニヒリズム」であった。そうして、抑制心を失った「安楽」追求のその不安が、手近な所で安楽を保護してくれそうな者を、利益保護者を探し求めさせる。会社への依存と過剰忠誠、大小の全ゆる有力組織への利己的な帰属心、その系列上での国家への依存感覚、それらが社会全般にわたって強まって来ているのは、其処に由来する。

「安楽」がいつまでも持続しきらないことへの不安が、安楽追求に憑かれた人々を襲ったとき、彼らはどうやって不安を追い払うのでしょうか。
藤田によれば、自分を守ってくれそうな庇護者へと忠誠を尽くすことで、その不安を払いのけるのです。
小集団においてはボスへの忠誠などとして現れ、権威主義と結びつくことになります。
この現象は最初の方に書いた天皇制国家の支配原理における、官僚のあり方へと通じています。
そのような庇護者への依存精神が、最後には国家への依存になるという指摘も日本の現状を鑑みるに示唆的と言えるでしょう。


4 Comment

SLファンさんのコメントへの返答

どうも、南井三鷹です。
SLファンさん、ご心配のコメントをわざわざありがとうございます。

福嶋亮大の例の記事は渡部直己のセクハラ問題の文脈にあるものであることは知っているのですが、
その事件の時期はそれどころではなかったので、リアルタイムのネットの内容は後追いでしか理解していません。
東浩紀系の人間なのはよくわかっていて、正直に言えばそれで僕は福嶋を毛嫌いしていました。

まあ、でも文脈から離れてあの文章を読むと、言っていることがわかる面もあると思ってツイートしました。
でも、やはり扱いの難しい文脈での文章は触れない方が良かったですかね。
その意味でSLファンさんのご意見もよくわかります。
おっしゃる通り気をつけようと思います。
これからもお気づきのことがあれば、遠慮なくご意見をお聞かせください。

ちなみに僕は「屍派」という括り方はしません。
「北大路一派」のやり方を問題にしています。

福嶋亮大はちょっと

ツイッターの方の話題で恐縮です。
屍派への批判はもっともなのですが、福嶋は東浩紀ラインで、以下に見られるように
むしろ屍派そっくりの身内論理の人物です。お気をつけたほうが。
https://togetter.com/li/1259330?page=2

花田心作さんのコメントへの返答

どうも、南井三鷹です。
「洗脳の問題」とはぶち込んできましたね(笑)

ただ、心作さんの考察は、不快を回避する「安楽」とはあまり関係していないような気がしますよ。
「洗脳」と言うべきかは疑問ですが、権威を利用した狡猾なやり口というのは、どの業界にもたしかにあるでしょうね。

社会的に成功すれば権威や名誉は生じるでしょう。
以前はそういう一時的な成功を簡単に利用するのは「恥ずかしい勘違い」と思われたものです。
『平家物語』の冒頭が人口に膾炙したのはそういう理由だと思います。
そんな文学に関わる人が「恥ずかしい勘違い」をして、著書の販売促進イベントなどに前のめりになっているのは、
僕には出版資本に「洗脳」されているように感じられますね。

花田心作さんのコメントへの返答

どうも、南井三鷹です。
心作さん、コメントに感謝します。

今回の内容は繰り返し読んでいただくのに耐えられるものだと自負しています。
心作さんに響くところがあれば幸いです。
俳句界にも日本社会の問題がわかりやすく現れているところがあります。
なかなか変わらないでしょうが、まずは問題点の認識から始めるしかないと思います。

体調には自信がないので、無理しすぎずに多少無理してがんばります。

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