南井三鷹の文藝✖︎上等

Home > ブログ > 2019年06月28日の記事

『冬の旅、夏の夢』(朔出版)高山 れおな 著 with 『彷徨』(ふらんす堂)中原 道夫 著

アイロニーの退屈さ

高山れおな『冬の旅、夏の夢』は第4句集にあたります。
第3句集『俳諧曾我』(2012年)が部数限定での販売だったので、一般読者向けの句集としては13年ぶりの新刊です。
高山は2018年7月から朝日新聞の俳句投稿コーナーである「朝日俳壇」の新選者となったので、
新しい読者への「顔見せ興業」の意味を持った句集だと考えてよいと思います。
実際、書店ではこの句集の表紙に「朝日俳壇」新選者であることを示すシールがわざわざ貼られていました。
高山は「─俳句空間─豈weekly」の創刊のことばとなる「俳句など誰も読んではいない」という文章でこう書いていました。


そもそも結社誌なる存在にしてからが、主宰者を主体にした刊行物という見せかけのもと、多数の小口の出資者が共同でひとりの読み手を雇っていると考えた方が実態に近いだろう。意地悪く言えば、句会もまた、俳句作品に対する贋の需要を最小限の犠牲で発生させる装置なのだ。

なるほど、結社の主宰は小口の出資者に雇われた読み手でしかないと貶めているわけですが、
しかしその高山も、今となっては大口の新聞社に読み手として雇われているわけです。
その上、句集を売るのに新聞俳壇の選者という肩書きを用いられてしまうお瑣末さ。
マスコミの力に抱っこされている高山が、自分で結社を運営する人よりどうして偉いのか僕にはよくわからないのですが、
俳句界というのは結社の悪口を言えば一定の支持が得られるところなのでしょうか。
(放っておいても結社はどんどん廃れていく運命にありますが、残念ながら新聞や大手マスメディアも同じ運命をたどります)


『冬の旅、夏の夢』は高踏派を気取っていた高山が、新聞俳壇を楽しむライトな読者を想定して構成したことが伝わる句集です。
その意味では本句集は読者に自分をどう見せるかを非常に強く意識した句集です。
別の言い方をすれば、新聞俳壇の選者として親しみを持たれると同時に、
伝統から逃れた自分の立ち位置をわかりやすく示す、「政治的」な意図を持った句集とも言えます。
このような面を無視して『冬の旅、夏の夢』について語ることは茶番ですし、この句集の本質にも至りつけないと言っておきます。


僕は以前に高山の第2句集『荒東雑詩』(2005年)にレビューを書いているのですが、
本句集を読んで、当時高山の句に抱いた印象を全く変えるところがないことに驚きました。
正直に言えば、当時僕は高山当人に直接不愉快な思いをさせられたことがあって、
批評を書く人間のプライドとしては評価に私情をはさむつもりはないにしても、
どこか必要以上に厳しい見方をしたのではないか、という思いがあったのです。
しかし、落ち着いて見直してみると、口調は多少厳しくても、内容に関してはしっかり読んでいたのではないかと感じています。


おさらいをしておけば、僕は高山について、
「彼は参照すべきプレテクスト(元ネタ)がないと句が作れないのである」と断じていました。
「句が作れない」というのは乱暴な言い方をしたな、と感じてしまいますが、
しかし、言い方の問題を抜きにすれば、高山がプレテクストに依存した句作を好むという指摘は本質的だったと思います。
そのレビューでは高山のプレテクストに依存したアイロニカルな俳句が、読者ではなく作者自身に奉仕するためにある、と指摘されています。
このあたりの印象は『冬の旅、夏の夢』を読んでも改める必要は感じません。
高山がプレテクスト依存にこだわる理由を僕はこう書いていました。


高山は句を無防備に提出して、
読者と同等の位置に立つのが嫌なのだ。
それで、プレテクストを参照しないといけない句を作りたがる。

パロディによって自らを傍観的(メタ的)な位置に置き、読者から自分自身を隠すことを優先する姿勢は、今回の句集でも変わりません。
もはや俳句を作ること以上に「自分隠し」をすることが目的なのではないか、と疑いたくなるくらいです。
元ネタに依存して俳句を作るしか能がない関悦史と高山れおなの絆はここにあると言っても過言ではありません。
アイロニーには効用もあるとは思いますが、彼らのように安全な位置(メタ視点)を確保するために用いるのは正しい使い方ではありません。
(ちなみに関悦史は僕の批判や抗議に一度としてまともに返答もせず逃げ続けています。
なぜか代わりに高山れおなが出てきたり、匿名の変な奴が嫌がらせをしてきたことはありましたが)