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〈ネットワーク型権力〉と消費社会【前編】

文化という「兵器」

当たり前のことですが、ある作品が多くの人からの支持を受けるためには、それを多くの人に広める力が必要です。
とりわけ短期間で一気に広める場合、その時代の政治権力や大衆権力(=マスメディア)を利用しないわけにはいきません。
同時代的に評価を受けた作品には、その時代の権力との蜜月が色濃く刻印されているものです。
作品は時代の代弁者として評価され、時代に後押しされると同時に時代に強く拘束されます。
芸術や文学にそのような同時代性を超えることが求められるのは、
その時代の権力のパワーに頼ることなく、その作品そのものにパワーがあることが成立の条件になっているからです。
権力との関係が作品評価にとって本質的でないと考えるならば、
時代的刻印をきれいに取り去った後に残ったものだけを、作品評価の基準にするべきだということになります。


大学の研究で見かけるものに、近代文学を時代の資料として用いるものがあります。
その作品が同時代的にどう受容されたか、その時代のジェンダーの考えをどう反映しているか、などを研究するものです。
僕はこういう研究は文学研究ではなく、社会学だと思っています。
作品を時代性の反映として捉えるなら、時代を超えるパワーを持つものより、同時代に拘束されたものを研究した方がふさわしいのは当然です。
そうなると、時代を超える文学より、大衆的な作品、つまりサブカルを研究した方がいいことになります。
同時代性に強く縛られている社会学的視点において重要なのはサブカルであって、文学や芸術ではありません。
同時代的な評価がサブカルの隆盛を後押しし、文学や芸術を抑圧するのです。


ポストモダンと呼ばれる時代の表現の多くは、消費資本主義というイデオロギーの単純反映でしかありません。
ポストモダンはすでに同時代的な価値観ですらなくなっているので、本来なら時間の篩にかけられて消えていくものなのですが、
現実逃避の力で強引に時計を止め続けて、既視感ありすぎの「新しい」価値が無限ループを繰り返し、自らをゾンビ化(鬼化)しているのが現状です。
バブル経済が崩壊してから30年が経ったのに、「失われた30年」としてそれ以後の月日が失われ続けているのは、時計を無理に止めているからです。
いまだ日本はバブル時代に絶頂を極めた価値観から抜け出せる雰囲気がありません。
中央集権的なマスメディアによる全体主義的な大量消費イデオロギーをいつまでも守り続けているのです。
インターネットが多元性をもたらしても、「国民的ヒット」による全体化を夢想して情報の一元管理を続けているのが日本です。
日本ではこの手のバブル時代のマーケティング商法を「ポストモダン」としていますが、内実は近代的な一元管理です。
これは多元性なき偽ポストモダンと言うべきものなのですが、こう言うとややこしくなるので、僕は通称ポストモダンをそのまま批判することにしています。
日本が消費イデオロギーの無限ループから抜けられない最大の理由は、
ポストモダン的な消費資本主義が、国家規模の経済繁栄と国際的ナルシシズムを満たすものであったことです。
ポストモダンを評価していれば、旧弊から自由になれるし消費経済も拡大するので、みんなでいい気分になれる、と信じられてきましたし、今も信じられているのです。


自立した大衆文化の成立を世界史的な視野で眺めると、世界で最も早かったのは日本かもしれないと僕は考えています。
アメリカより早いのか、という疑問はあるでしょうが、考え方によってはアメリカより早いと言えるのではないかと思います。
アメリカを含めた西洋文化は、ロゴス的価値観やキリスト教を基盤としたハイカルチャーが中心にあり、
そこからトップダウンの「啓蒙」が行われて大衆文化が成立しました。
その意味で大衆文化にもハイカルチャーの影を見つけることができ、それが大衆文化の重層化、多様化を生み出す源泉になっています。
日本の大衆文化のルーツは江戸時代の町人文化に見ることができますが、
純粋な大衆性を秤にするならば、日本は西洋よりも早く大衆文化が成立したと言うことができるため、世界史的に見てアドバンテージがありました。
つまり、大衆文化というステージで世界と競い合うならば、そもそも日本はトップレベルで戦える力を持っていたのです。


大衆の文化的消費を喚起する消費資本主義には、大衆文化の成熟のほかに政治的な安定と経済的な豊かさが必要なのは言うまでもありません。
日本はこの条件にも非常に恵まれていました。
アメリカの庇護のもとで国内政治が安定し、軍拡競争に金を取られることもなく経済発展へと力を注ぐことができました。
こうして80年代に世界一の経済大国となった日本が、消費文化においても世界のトップランナーになったのです。
しかし、これはアメリカとソビエトの東西冷戦の最前線であるという「現実」を忘却した「閉鎖性」において成立したものでしかありませんでした。
現実逃避に勤しむ「閉鎖性」こそが日本の消費資本主義の繁栄に欠かせない条件であったのですが、
この冷戦時代に成立した消費資本主義のあり方が、内輪的な「閉鎖性」に基づくオタク文化に結実したため、のちに来るグローバル時代へと対応できなかったのです。


僕が日本の消費社会のモデルを考えるときに、いつも思い出すのが『超時空要塞マクロス』(1982年)というアニメです。
『マクロス』はたしか日曜日の14時という謎の時間帯に放映していたので、その時間にサッカークラブの練習に行っていた小学生の僕には、ちゃんと見ることができないアニメでした。
話題作だったので再放送もやっていたとは思うのですが、あまり好みの作品ではなかったのか、たまに見た断片的な記憶だけが残っています。
『マクロス』のウィキペディアを見ると、SFやアニメのオタクが制作した点が『機動戦士ガンダム』(1979年)と異なると書かれていて、
庵野秀明や貞本義行が制作に関わっているので、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)にまでその影響が及んでいます。
(『マクロス』の放映開始が、「笑っていいとも!」放送開始や『羊をめぐる冒険』発表と重なったことは、
タモリや村上春樹というカルトヒーローがメジャー化する時期を示していて興味深いところです)
「マクロス」というのは主人公が乗る宇宙航空母艦の名前でもあり、人類と異星人との宇宙戦争が作品舞台となっていたのですが、
マクロス艦内にはなぜか一般市民が生活する街があり、そこでは消費生活が普通に営まれていました。
小学生ながら、僕はこの世界観についていけませんでした。
(今ネットで調べてみると、マクロスが瞬間移動をするときに近くの島ごと飛ばされたために、市街地ごとマクロス艦内に移設したという設定のようです)
そこで艦内のアイドルになる少女が登場し、彼女の恋愛ソングが異星人にカルチャーショックを与えるという展開になっています。
アイドルの歌という「商品」が、実戦兵器以上の力を持つメタ兵器として機能する設定だったのですが、
なるほど、文化的商品の力で社会主義体制を解体に導くようなものだと考えれば、全くリアリティがないとも言えない気がしてきます。


『マクロス』は80年代の作品ですが、当時の日本で戦争が起こるとしたら、個人の力とは無関係な核戦争であって、戦場での個体戦闘はすでに「おぼえていますか」と問われるノスタルジーの対象になっていました。
加えて青年による政治的な武装闘争が無力化していった時期にも当たります。
もう個人では外の現実に関与することはできない、と無意識では誰もがわかっていたと思います。
そのようなニヒリズムから、個人はその場その場の消費によって自己充足を求めるだけになっていきました。
戦場での個人戦闘などは前時代すぎてリアリティがないため、葛藤なくエンタメとして消費できるようになっていたのです。
81年には角川がメディアミックス戦略で躍進するキッカケとなった『セーラー服と機関銃』が公開されています。
機関銃という兵器が女子高生のファッションアイテムとして「取り合わせ」られることが新鮮だった時代です。


この時期から日本はバブル経済が本格化していくこともあって、「閉鎖性」に守られた内輪的な消費文化が、外の過酷な現実を追い出していくようになりました。
人間は自己保存の精神でやむなくやっていることを、意識的に正当化したがる生物です。
閉鎖的な内輪文化こそが、外部の過酷な現実を解決できるかのように思い描くようになるのです。
『マクロス』はそういう自己正当化をストーリーとして展開させる作品になっていて、
外の現実で最終戦争を戦うのはエリートに任せておいて、大衆は艦内の市街地で消費文化を謳歌しているのですが、
その消費文化の象徴たるアイドルが歌う恋愛ソングが、メディアミックスによって拡大されて「文化」というメタ兵器となり、実戦兵器以上の力を発揮して戦争を終結させることになるのです。
これを非現実的な夢物語として退けることは、実は簡単ではありません。
このような内と外のねじれ構造が、浅田彰の『構造と力』の表紙に描かれている「クラインの壷」と一致するのは偶然ではありません。
(中沢新一ならば華厳教を持ち出してこの構造を語ることでしょう)
このような内外反転のメカニズムは、貨幣経済によって現実的に成立しているのです。
それだけに、それを非現実的な幻想だと切り捨てることは難しいのです。
一般にポストモダンは上位と下位の価値転換のことを言いますが、
メディア上の内輪文化が、外部の現実より実力や価値を持つという消費社会のイデオロギーによって、
人々は現実世界をメディア上に上書きアップロードした世界こそが「現在=真実(リアルタイム)」だと疑わなくなっていくのです。


80年代のバブル的繁栄を母艦とした閉鎖的な消費文化が、未来を奪う負の刻印となっているのは、それこそが外部の問題を解決する「文化」の力だと勘違いされているからです。
外の現実を「戦争」と見做してそこから逃走し、消費社会の「閉鎖性」の枠内で出費に勤しむ存在をオタクとするならば、
80年代バブル期の日本社会は、社会全体がまるごとオタク的であったと言うことができるでしょう。
オタク的でありながら、当時の日本が世界一の経済大国と評価されたのは確かに「現実」です。
しかし、その「現実」が軍事大国アメリカの庇護下にあって、そのアメリカがもう一つの大国ソビエトと冷戦を繰り広げていたことによって成り立っていたことも確かです。
日本のおバカさんたちは、バブル期の繁栄恋しさに冷戦時代を再現することを夢見ています。
ソビエトの代わりに北朝鮮や中国を共産国家と認定して、旧態然とした右左のイデオロギー対立に引きこもろうとしています。
(その結果、日本の国防費が9年連続で増加して過去最大になっていることが、バブル時代と真逆の現象であることにも気づくことができない愚かさです)
しかし、中国は共産党一党独裁であるとはいえ、中身はとっくに共産主義ではありません。
西洋的人権思想を無視する反リベラルな国家なのも事実ですが、日本の反中勢力の大部分が反リベラルであることを考えると、やはりイデオロギー対立で処理するのには無理があります。
(むしろ、今の中国は昔の大日本帝国を彷彿とさせるので、嫉妬か近親憎悪と考えた方が筋が通ります)
冷静に見れば、米中の対立は冷戦的なイデオロギー対立ではなく、グローバルなパラダイム変換によるものであることがわかるはずです。


消費を拡大する〈ネットワーク型権力〉

80年代バブル期の繁栄を到達点とする大衆消費社会を前提とした、貨幣メカニズムを模したオタク的な「文化」信仰を、
僕は消費社会のイデオロギーとして理解するべきだと思っています。
消費イデオロギーが国家的繁栄を実現したのは時代的背景あってのことなのですが、
時代状況が変わり、経済不況が長期化する衰退期になっても、過去の消費イデオロギーへの依存心を強めるだけでは、現実的な無理が生じて国家的な全体主義に陥る危険になるだけです。
僕は右のネトウヨと左のポモオタが同様の精神構造でしかないことを論理的に示してきたつもりですが、
この両者がともに属している価値観こそが消費資本主義というイデオロギーなのです。
消費資本主義という言葉だけでは、僕の意図がしっかり伝わらずに不正確な理解しか生まれないのは想像できるので、
今回はそれが権力によるイデオロギーであることを少し丁寧に説明してみようかと思っています。


消費社会は資本主義の後期パラダイムに成立した経済体制です。
資本主義の後期と定義するのは、社会の商品生産力が一定以上に達していないと、消費資本主義が実現できないからです。
消費社会はある程度豊かでなくてはいけないのです。
生産力の拡大によって供給過剰な社会が実現されると、生活必需品は安価でたやすく手に入れられます。
そうなると生活必需品を売ってもさほど儲からないので、経済発展ができなくなります。
必需品を売るだけで儲からないということは、人々の自然発生的な購買意欲では物が売れないということです。
こうして、物を売るために購買意欲をかき立てて、消費を促す必要が生まれます。
その代表的な手口がモードというものです。
モードとは言ってしまえば流行のことですが、モードは人々に特定の商品を「新しい」もの、最先端のものだと感じさせる力を持っています。
見方によっては、それを買わないと時流に置いていかれるという不安をかき立てて物を売る、「押し売り」の一種でもあります。
要するにモードの正体は、消費を促す定期的な集団的圧力のことなのです。
消費資本主義とは、このような消費の圧力に従順であることを求めるイデオロギーだと僕は考えています。
経済には生活の維持に必要不可欠な購買が含まれるため、これをイデオロギーとして捉える視点が生まれにくいのですが、
必要不可欠でないものの消費については、生活の営みと分けて考えるべきでしょう。
ある社会体制がそれに適応する観念体系へと人々を教導するようになれば、それは立派なイデオロギーです。
共産主義国家が、国民(や少数民族)に共産主義(や国家資本主義)を「啓蒙」することがイデオロギーによる思想教育であるように、
資本主義国家が、国民に消費や投資を促す教育を施したり、消費や投資の促進へと誘導することもイデオロギーによるものとなぜ考えないのでしょうか。


これまで僕は〈フランス現代思想〉を理論的支柱とするポストモダンを、サブカル化に象徴される消費文化と結びつけて批判してきました。
そのとき〈フランス現代思想〉の日本的な展開を「俗流化」と位置付けて、〈俗流フランス現代思想〉と呼んできたのですが、
そもそも「俗流」でない本家の思想を知らない人が多いので、僕の批判は理解されにくかったような気がします。
それに、消費資本主義による大衆化がポストモダンの原動力であることは、日本のみならず世界的な現象です。
右左のイデオロギー対立を非弁証法的に統一する天皇制国家という国内事情を考える場合であっても、
もっとグローバルなパラダイム変換を指し示す用語を掲げる必要を感じます。
そこで今回は〈ネットワーク型権力〉という言葉で、権力構造の現代的パラダイムを明らかにしようと考えています。
〈ネットワーク型権力〉とは、あるものとあるものが関係を結ぶことで生まれる網目状のネットワークが、
自己のネットワークの拡張を目指すことで、それ自身が権力として機能するようになったものです。
広域のネットワークに強い影響をもたらす者が、強大な権力を握ることができるようなあり方です。
最近GAFAという言い方がされるようになりましたが、それらの企業はインターネットを通じて広域なネットワークを形成したことで、国家を超える巨大権力として理解されるようになっています。
今はネットワークの拡張を目指すことが、権力を求めることと同義である社会なのです。
国家権力においては戸籍というものがネットワーク権力の源泉であったと言えるので、ネットワークが権力と結びつくのは今の時代に限らないことと言えなくもないのですが、
本格的なインターネット時代になって、個人が自分の端末で世界に発信することが技術的に可能になったため、ネットワークの権力性はより純粋化したように思います。
そこで、僕は〈ネットワーク型権力〉という名称で、そのような権力のあり方を示すことにしました。


消費の拡大も、商品流通のネットワークの拡張として考える必要があります。
消費の拡大は、商品の実売数が増えることによって達成されます。
たくさん売るためには、それだけ購買できる店舗が増える必要があります。
たとえば都市部などでは、同じ地域に同じ会社のコンビニばかりが集中していたりするのですが、
同じ会社の店舗同士で客の取り合いになると思いきや、実際には両方の店舗で売り上げが向上したりします。
これは同じ会社のコンビニを多く見かけることで、その会社への信頼度が上がることが原因だと分析されています。
商品も同じで、数多く置かれている商品はそうでないものより売れやすくなります。
書籍で言えば、棚差しで置かれるより平積みの方が売れるという具合です。
柔軟剤でも、1種類の香りのものより、たくさんの種類がある方が売れるはずです。
集合体の方が売れるというのは、それがネットワークの大きさを示しているからです。
ネットワークを拡張するものには権力としてのパワーがあるので、ネットワークが大規模になるほど権威が感じられ、それが商品の信頼度を高めるように思えるのです。
ネットワークとは信頼性を生み出す現代的な権力の姿なのです。


〈ネットワーク型権力〉という新たな権力論のパラダイムを考えるときに、僕が下敷きにしたいのがフーコーの権力論です。
僕はフーコーの権力論を、近代的な主体批判として紹介する概説書にありがちな解釈に不満を持っています。
フーコーが論じた権力は、一般に言われているように、身体の管理を行うものです。
しかし、フーコーの描く近代権力を、身体管理のテクノロジーとだけ解釈すると、ポストモダン的な誤った解答にたどり着いてしまいます。
身体が権力の支配を受けるものであるならば、身体から離脱してメディア上の概念的存在へと変貌すれば、
権力から自由なポストモダン的な主体になれるかのように考えてしまうのです。
それは間違った幻想であるどころか、むしろ権力に率先して支配される「服従する主体」の姿でしかありません。
必要なのは権力論のアップデートです。
そのためには、まずはフーコーの読み直しが必要です。


身体を可視化する監視権力

フーコーの権力論と一口に言っても、フーコーの思想はすべてが権力論だと言えないこともないのですが、
僕が取り上げたいのは、彼が近代的な権力について考察した部分です。
それが中心的に展開されているのは1975年に発表された『監獄の誕生』(原書での書名は『監視と処罰』)です。
『監獄の誕生』の第三部は「規律・訓練」となっていて、近代の権力が「規律・訓練ディシプリン discipline」によって従順な身体を作り出すメカニズムについて考察しています。


フーコーは近代的な権力が人々を支配するのに、身体の管理という手段を用いたと主張します。
近代人は権力の息のかかった施設に閉じ込められて、
そこで「規律・訓練ディシプリン」を身体的に叩き込まれることで、権力に従順な「服従する主体」にされてしまいます。
決められた時間に起床や食事をしたり、決められた手順の労働を繰り返すことで、権力の定めた「規律」に従うように規格化されることを言っているのですが、
今のご時世ならば、店に入る前に手の消毒やマスク着用を義務づけられ、いちいち検温されることで、規律に従う「服従する主体」になっていくのです。
権力に支配される「服従する主体」は、このように身体の管理によって成立しているのですが、
「服従」という言い方から感じ取れるように、その身体には内面が一体となって結びついています。
フーコーにとって権力とは、内面と不可分な身体を可視化し、それを正常と異常などに「区別」するものとしてありました。
僕はフーコー的な身体と内面を、ソシュール言語学のシニフィアンとシニフィエに対応させてみたいと思っています。
それはボードリヤールによって交換価値と使用価値へと置き換えられることになるわけですが、
これらの不可分であるはずの二重性が、可視的なものの専横によって、前者の重要度が圧倒的に高まって後者を飲み込んだのが、ポストモダンだと考えることもできるのです。


『監獄の誕生』で描かれた権力による監視のメカニズムが、なぜ身体を標的にしているのか、を考えることは非常に重要です。
さきほど、僕はフーコーの身体が内面と切り離せないと書きましたが、彼の身体論を額面通り身体の問題としてだけ受け止めるのは間違いです。
それだとフーコーが「規律・訓練ディシプリン」の手段として「試験」を取り上げていることの説明がつきません。
試験が権力による身体管理の技術であることについては、お受験エリート学者たちはあまり言いたがらないのですが、
受験勉強に一生懸命になることが、権力の監視によって規格化された「服従する主体」のあり方でしかないことは明らかです。


監視をおこなう階層秩序の諸技術と規格化をおこなう制裁の諸技術とを結び合わせるのが、試験である。それは規格化の視線であり、資格付与と分類と処罰とを可能にする監視である。ある可視性をとおして個々人が差異をつけられ、また制裁が加えられるのだが、試験はそうした可視性を個々人にたいして設定するのである。(ミシェル・フーコー『監獄の誕生』田村俶訳)

フーコーが受験制度に代表される試験を監視の技術として考えたことは非常に重要です。
なぜなら、試験は知的能力を問うものだからです。
ここには単純な身体論では処理しきれないものがあります。
知的能力という内面に属すると思われているものが、「規律・訓練」によって身体的に管理可能だということは、
内面的なものが身体的に管理可能だということになるからです。
少し考えればわかることですが、思想犯や異教徒などから危険性を除去しようと試みるとき、実際に何が行われるかと言えば、身体への拷問という手段が取られることは珍しいことではありません。
つまり、内面の矯正も身体の管理によってなされるのです。
どれだけ危険な考えを持っていようが、現実的に何かを実行しなければ、権力にとっては脅威になりえないからです。
このとき身体と内面は不可分に結びついたものとなります。
逆に言えば、支配的権力にとって内面などというものは身体ほどには重要ではないということです。


上の引用文で注目したいのは、試験では個々人が「可視性」によって区別されるというところです。
この「可視性」──見えるようにすること──こそがフーコーの権力論で最も重要な要素だと僕は考えます。
なぜ権力が管理するの対象が身体だけなのか。
それは内面は見えないが、身体は可視的であるからだ、と言うべきなのです。
可視性がいかに本質的な問題であるかは、フーコー自身が「試験は、権力の行使にあたって可視性という経済策を転倒する」と述べていることでもわかります。
それまでの権力が、自身の姿を見せたり誇示したりして、人々から見られるものとしてあったのに対し、
「規律・訓練」を用いる近代権力はそれを「転倒」させている、と言うのです。


ところが規律・訓練的な権力のほうは、自分を不可視にすることで、自らを行使するのであって、しかも反対に、自分が服従させる当の相手の者には、可視性の義務の原則を強制する。規律・訓練では、見られるべきものは、こうした当の相手(部下sujetであり、受験生である)のほうである。(フーコー『監獄の誕生』田村俶訳)

権力は自分の姿を隠し、見られるのは服従させられる相手の方だというのが、近代権力のシステムなのです。
このような「見る権力」と「見られる主体」という非対称な関係を、施設モデルとして提示したのが、あの有名な〈一望監視装置パノプティコン〉です。


ジェレミー・ベンサムが考えたパノプティコンという監獄は、フーコーが近代権力のモデルとして提示した施設ですが、
パノプティコンという言葉はギリシャ語由来で、「すべてを見通す眼」というような意味になります。
ざっとパノプティコンの構造を説明すると、中央に監視塔があって、それを囲むように独房が配置されています。
外部の窓から入る光の関係で、監視する側から囚人の身体がしっかり見えるのに対し、囚人の方からは監視する人の姿は見えません。
これによって、囚人は監視の眼を「内面化」するようになり、絶えず規律に縛られる状態になるのです。
パノプティコンが囚人を監視する監獄であるため、諸々の概説書を見ると、規律化を促す監視メカニズムとして紹介されているだけで、
これが可視と不可視をめぐる権力の非対称性の問題であることがあまり理解されていないように思えます。
しかし、『監獄の誕生』をよく読めば、フーコーがその点を強調していることがわかるはずです。


〈一望監視装置〉は、見る=見られるという一対の事態を切離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。(フーコー『監獄の誕生』田村俶訳)

この監獄の監視メカニズムにおいて重要なのは、監視する側は不可視な位置を保ち、監視される側は身体が可視化されているという点です。
これによって監視される側は絶えず監視の目を「内面化」することになり、自らを律するようになるので、
「誰が権力を行使するかは重大ではない」ことになります。
「権力を没個人化する」監視の「内面化」のメカニズムは、このような可視と不可視の非対称性から生じていることは、もっと強調されるべきポイントだと思います。


不可視な権力の在処

このような非対称性がどこから生じているのかは、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905年)で確認することができます。
この本は資本主義の精神的ルーツが、プロテスタントの世俗的生活における禁欲精神にあることを示したものです。
倫理的にストイックな生活を心がける人たちこそが、欲望を拡大する近代資本主義を発達させることになった、というのは不思議な逆説です。
たしかに中国や日本でも自由な商業活動が行われていたのに、近代資本主義が発展したのは禁欲的プロテスタンティズムが浸透した地域なのです。


この学説の全容を説明するのはさすがに手に余るので、重要な部分に絞って触れたいと思います。
ヴェーバーは近代資本主義の発展を導いた世俗的な禁欲精神を、ルター派ではなくカルヴァン派プロテスタントの「予定説」に見ています。
予定説は、神に救済される人は生まれる前からあらかじめ予定されているという教説です。
つまり、神の恩恵というメタレベルの決定論によって現世での宗教的実践(牧師や説教や聖典)を無効化する教義なのですが、
ヴェーバーはこの考えが世俗内禁欲をもたらし、果ては資本主義の精神を浸透させることに役立ったと主張しています。


神の救済があらかじめ(アプリオリ)に決まっているのであれば、生まれた後に何をしても無意味ではないか、と思うでしょうが、ここにはなかなかにダイナミックな議論の展開があるのです。
簡単に説明してしまえば、神に救済されるかどうかはメタレベルの決定なので、地上にいる人間には知ることがかないません。
つまり、オブジェクトレベルでは誰が救済されるかわからないため、誰にもすでに救済が決まっている可能性があるということになります。
しかし、浄土真宗の阿弥陀如来の本願とは違って、実際には救済されない人もいるわけですから、そこには決定的なメタ的な差異があるわけです。
実際には救済される人と救済されない人がとっくに決まっているのですのですが、
自分がそのどちらであるかはどう足掻いてもわからないのです。


自分が救済されるかどうかわからない場合、救済されたい人たちはどのような行動をするようになるでしょうか。
救済される人を真として、救済されない人を偽物と考えて、その見分けができない場合を想定してみましょう。
本物の毛利蘭ちゃんと怪盗キッドが変装した毛利蘭ちゃんがいて、それをコナン君でさえ見分けられないとしたら、どうなるでしょう。
どちらの毛利蘭も自分こそが本物の毛利蘭であると躍起になって証明しようとするのではないでしょうか。
ヴェーバーが注目するのは、このような真偽の境に立たされた当事者の心理です。


我こそが救済される予定になっている人間だと思う人は、自らが救済されるにふさわしい人間であることを示そうと躍起になる、とヴェーバーは考えました。
救済を望む人々は、自らが救済を約束されるに相応しい人物であることを、他の ヽヽ人々にヽヽヽ示さずにはいられなくなります。
その結果、自分がいかに救済されるにふさわしい行為をする人間であるかを、他の人々の目に見えるかたちで証明しようとして、倫理的な振る舞いをするようになるのです。
アプリオリな救済の「確証」を抱くために、客観的に確認できる倫理的な(=規律に従った)「行為」が欠かせなくなるのは、このような心理メカニズムがあるからです。
それはヴェーバーがこう述べていることから明らかです。


すでにカルヴァンの意見によっても、すべて単なる感情や気分はどんなに崇高にみえても欺瞞的なものであり、したがって信仰は、「救いの確かさ」の確実な基礎として役立ちうるには、客観的な働きヽヽによって確証されねばならない。(マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳)

信仰とは「有効な信仰」でなければならない、とヴェーバーは書くのですが、
神の救済という不可視な決定への応答が、内面的な了解という領域にとどまることができず、
客観的で有効な「働き」──神の作った秩序に服従するという善行──によって可視化されることで成立していることは、非常に重要です。
このヴェーバーの分析が正しければ、予定説は宗教的な実践行為を否定して、
それを世俗的な実践行為(禁欲的な勤勉さ)へと移行させることに一役買ったことになりますが、
僕が強調したいのは、ここにおいて信仰という内面的であるはずのものが、客観的に可視化されないことには有効ではない、という価値観と結びついたということです。
善行の実践に身体性が伴うのは当然です。
「内面の価値を証明するのが可視化された身体である」という発想こそが、近代的なものだというのが僕の主張です。
こうして近代は、すべてを可視化する方向へと向かっていくのです。


ここでヴェーバーが描き出した心理を近代的な精神の姿と考えたときに、これが現代にどのようにつながっていくのかを考えることが重要です。
ポストモダンが新しい時代だという幻想を捨てて、現代が依然としてキリスト教から発展した資本主義的な「近代」の価値観にあることを見つめるべきなのです。
ヴェーバーが描くプロテスタントの倫理が、現代の消費社会へとどう接続するかをまとめておきます。

① オブジェクトレベル(世俗)とメタレベル(神の意図)との断絶、閉鎖性。断絶における自身の救済の決定不能性。
② 職業世界の実践行為である資本の生産が、断絶を飛び越えて神の国へと連動する二重構造。可視化する「視線」を媒介(メディア)とする〈オブジェクト−メタの還流〉と貨幣を媒介とする〈売−買の還流〉とのアナロジー。
③ 自身が救済にふさわしい人格であることを自ら他者に証明する自己演出性。演技性。メディア上での自己対象化。

このように整理してみると、ヴェーバーの描いた資本主義の精神によって、ポストモダン思想まで包括されるのがわかるのではないでしょうか。
キリスト教を踏まえて理解すれば、ポストモダンは明らかに近代の延長でしかないのです。
たとえば①の「断絶」や「決定不能性」などは、そのまま〈フランス現代思想〉が依拠している価値観だと言えます。
デリダの学説は何でも決定不能性に持ち込もうとするところがあるのですが、この決定不能性こそが金儲けの倫理的起源に一役買っているのです。
②において、そのようなポストモダン的なあり方がカオスに陥ることなく、一定の秩序に回収される原因が、「視線」によるメタとオブジェクトの還流にあることがわかります。
神の救済を保証するのが世俗の人々の「視線」となったのが近代です。
職業上の仕事をきちんと行う──資本の増殖に貢献し貨幣を流通させる──ことが人々の「視線」に映し出される、つまりは「可視化」されることが、神の恩恵を受けるべき倫理的な存在となるのです。
ここでは視線による「可視化」と貨幣の還流による資本の増殖が共犯的に結びつきます。
商品売買の経済活動によって貨幣を還流させることが、「内面」的な倫理の客観的証明になるのは、このような「可視化」への志向と関係しているのです。


他方向への消費的欲望がカオスを導く結果にならずに、一定の秩序に安定的に回収されていくのは、オブジェクトレベルとメタレベルを還流する貨幣の力です。
貨幣は還流するたびに剰余価値を生み出すので、貨幣の還流はそのまま資本の増殖を意味します。
「可視化」への欲望が経済活動の勤勉さに結びつくので、「可視化」と資本の増殖は一体となっています。
これを理解できない人がポストモダン思想の書き手には大勢いて、その経済オンチの知性にはいつもウンザリさせられます。
〈フランス現代思想〉が多方向の欲動のカオスや永久革命を実現することに結びつかないのは、それが貨幣経済の秩序を超えられないからです。
(相関主義という内面的イデオロギーを否定したくらいで、ハイパーカオスが導入できるなど世迷言でしかありません)
日本の〈フランス現代思想〉研究が、出版社の金儲けや大学の宣伝にしか貢献していないことを見ても、貨幣経済の範疇にとどまる思想なのは明らかです。
どこまでも現行の社会体制にとって危険のない「お遊び」の思想なのです。


また、③にあるように、近代において自己の救済が、自己をメディア上で客観化する自己演出によって心理的に保証されるものであるという認識は重要です。
自分の行為が神の意図に沿った倫理的なものであることを、客観的に示すためには、多くの人に望ましく見られることが必要です。
現代の情報化社会では、そのための手段として日常的に善行を蓄積するよりも、
メディア上に自分を露出して多くの好意的な「視線」を集めた方が、圧倒的に自分が「有効な信仰」を持つことを示せるに違いありません。
小学生がYouTubeで成功者になりたがることに眉を顰める大人は、何にもわかっていません。
ハッキリ言って、その小学生の発想は現代社会に照らしてみれば絶対的に倫理的であり正しいのです。
本当にそれを批判したいのならば、現代社会の価値観そのものと戦う必要があるのです。
現代の大衆社会において思想が批判的であるためには、「消費資本主義」と「可視化=商品化」と「メタ的=メディア的救済」の三位一体構造を問題にしなければ意味がありません。


こうして整理すると、フーコーの紹介したパノプティコンのメカニズムがヴェーバーが描き出した資本主義の精神とつながっていることがわかるのではないでしょうか。
パノプティコンという監獄は、オブジェクトである囚人からはメタ位置にいる監視者を視認できない構造でした。
そこにはオブジェクトとメタの決定的な断絶があるわけです。
そして、囚人は自分が今監視されているのか否かを決定することができません。
そのような決定不能性にさらされているために、24時間ずっと監視のプレッシャーを感じることになるわけです。
決定不能性というのは監視を永遠化する──神からの「視線」を全方位化する──ことに奉仕するものでもあるのです。
〈フランス現代思想〉で決定不能性を語ることがなぜ倫理的であるのかは、こう考えると理解がしやすいと思います。
ただ、その程度の思想では監視の全面化を防ぐことは絶対にできないのです。


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