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ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【後編】

メタ視点を居場所にする文学はいらない

消費資本主義における超越性は、アイロニーによってメタ的な視点に立つことで擬似的にヽヽヽヽ達成されます。
このメカニズムを詳しく説明するのは、別の記事に譲りますが、
『資本論』の価値形態論を参照すれば、貨幣というものが全ての商品に対してメタな位置にあることがわかるはずです。
なぜなら、貨幣とはオブジェクトレベルにある商品群から、特定の商品(=金)だけを疎外して、すべてを媒介するメタな位置に置くことで成立したものだからです。
このメカニズムが貨幣を持つ者を、メタ的な位置へと押し上げます。
それは、マーケットに存在するあらゆる商品を、自分の「好き嫌い」で自由に選び取ることができる大富豪のポジションです。
商品すべてを俯瞰しうるメタ視点は、もともと大富豪にだけ許されたものだったわけですが、
メディア技術の進歩によって、たいして金持ちでもない人にも擬似的にヽヽヽヽそのような気分が得られるようになりました。
なにしろ自分の持ち金と関わりなく、インターネット上であらゆる商品を見渡して好きな商品を探すことができるのですから。
アメリカの貧乏人がどうしてトランプと一体化していられるのか不思議に思った人がいるかもしれませんが、
インターネットというメタ的な視点によって、いつのまにか気分だけ大富豪に近づいているのです。


今自分が現実的に身を置いている場所からなんとかして逃れたい、現実の経験的自己から逃れてメタな位置に身を置きたい、
その思いは、情報メディアを介して現実を覗き見るメタレベルへと身を置くことで達成できます。
これが鴇田が俳句に求めたものであり、典型的なポストモダン人間(オタク)の欲望です。
僕はこの手の欲望にとっくに飽き飽きしています。
なぜなら、このような欲望を文学にいち早く持ち込んだのは、「切断」以後世代のスターである村上春樹だからです。
僕が子供の頃に登場した実存のあり方を、40年以上もやり続けているのが日本のポストモダン文学なのです。
村上春樹がメタ的な視点を居場所にしていることを、早々と指摘したのが柄谷行人です。
柄谷は『終焉をめぐって』(1990年)で、村上春樹と大江健三郎の主体を比較してこう整理します。


村上の「僕」は大江の「僕」とはまったくちがう。それは、「私」などないとうそぶくような「私」であり、けっして「躓き」がないような「私」である。大江の「僕」も経験的な自己ではない。それはたえず別の「意味」に置換されてしまうアレゴリーである。それに対して、村上の「僕」は、無意味なものに根拠なく熱中してみせることによって、意味や目的をもって何かに熱中している者への優越性を確保するといった姿勢において存する、超越論的な自己意識である。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

柄谷はこの文章で「ポストモダニズムの意識は、それ自身ロマン的イロニーでしかない」と述べて、
ロマン的なアイロニーが「人工的なもの」への愛であることも示しています。
なぜポストモダン精神が「人工的なもの」を好むかというと、それが「われわれの意志に従属するから」だとぶった斬ります。
僕はここを読んで苦笑しました。
柄谷が村上春樹について言っていることは、僕は鴇田智哉について書いたこととほとんど変わりません。
鴇田が「メカニカル」な記述を好むのは、そうすることで世界が操作可能で「われわれの意志に従属する」ように見せられるからです。
柄谷が言う「超越論的な自己意識」とは、僕の言葉に置き換えればメタ的な視点にある自己のことです。
現実の経験的世界を「超越論的な自己」が軽蔑する構図は、
現実次元であるオブジェクトレベルの出来事と、同水準で向き合うことを避けて、自分だけメタレベルからそれをモニター越しに見ているのと変わりありません。
『エレメンツ』が提示する世界は、完全にこのようなメタ視点から描かれたものです。
ただ、俳句という詩型が主体の位置を曖昧にするために、そのことに気づきにくいというだけの話です。


よくよく『エレメンツ』を読んでみて下さい。
「わたし(わたしたち)」を除くと、人物として描かれる存在ははとんど遠くから捉えられていて、多くの場合、匿名で集団的な存在です。
いくつか例を挙げておきましょう。

 霞みゆく人たちに浮く日がひとつ
 あをぎりに野球の真似をするふたり
 やりとりをしてゐるヒトデ型のひと
 ひるからのみんなが紙の旗を振る
 こはるびの粒々のパラシウトたち

これらの句からは作者(作中主体と言いたければそれでも構いません)が遠くから見ていることが伝わってきます。
この距離感こそが鴇田と現実との距離であり、彼がアイロニカルなメタ世界の住人であることを示しています。
彼は自分一人をメタな位置に逃して、安全な場所から他の人々を見ているのですが、
離れすぎた場所から認識しているため、物事を自分と関係ないかのように漠然と描くことになっています。
世界と直接関与するのを避けて、ただ「まなざす」だけの無力な認識存在であり続けるのが、鴇田俳句の主体というものなのです。


 まなざしの鵜が液晶をさかのぼる

この句の「まなざし」が鵜の眼差しなのか否かは例によって曖昧ですが、液晶を見る人物が鵜と画面越しに向き合っているのは確かです。
この句などはモニター俳句であることを示しすぎたネタバレの句と言えるでしょう。
鴇田は安全な場所からモニター越しに現実を見ているだけの「精神的引きこもり」でしかありません。
近景で体験したものを「あえて」遠い風景へと置き換えることで、そこにある現実を曖昧化したりやわらげたりして、
現実にそのまま触れるだけで傷ついてしまう己の貧弱な精神を慰撫しているのです。
この程度の遠近法トリックは、要は『名探偵コナン』なら放送1話分程度のトリックでしかないのですが、
怪盗キッドが探偵を「批評家」と評したことを踏まえれば、
夢見る少女ばかりのポストモダン文学の世界は、現実に基づいた批評をする探偵を排除した盗人天国になっています。
名探偵がいなくなれば、つまらないコソドロでも大泥棒のような顔ができるわけで、
そんな世界では、この程度の小手先俳句が称賛される風潮にもなるでしょう。
ちなみに、もともとは文芸批評家だった柄谷行人は、前掲の文章のあと村上春樹について書くことはなくなり、文学の世界からも遠ざかるようになりました。
今や文学批評は音楽ライター崩れの佐々木敦に担われている始末です。
僕が地下にいることを決めたのは、柄谷ほどの有能な人でもポストモダン批判をしたら排除される世界に、ポストモダンに否定的な僕の居場所などあるわけがないからです。
(こういう社会イデオロギーとの葛藤もわからず、地下にいる人は二軍なのだと思い込んでいる幼稚な権威主義者が日本には多いですよね)


しかし、探偵の端くれとしては『エレメンツ』が巧妙なトリックを用いたセコい犯罪であることに脱力せざるをえません。
巧妙なのは、オブジェクトレベルの自己をメタレベルから記述するやり方が、三人称による客観的記述スタイルに近く見えてしまうからです。
それは小説では一般的な方法です。
こういうものと取り違えてほしいから、鴇田の俳句は散文化せざるをえなくなるのです。

 前をゆく私が野分へとむかふ
 裏白のすぐ近くまで来てしまふ
 逃水へひとりの熱として向かふ
 
従来の俳句はこのような運動体としての作者自身を記述することへの関心は強くなかったでしょう。
このようなことが可能なのは、作者が己を2つの視点へと分裂させているからではありますが、
俳句がほとんど散文でしかなくなっていることも大きな理由です。
こういう俳句が疑問なく受け入れられているのは、対象より「それを見ている自分」に強く関心を抱く俳人が増えているのでしょう。
この傾向は「新しい」と言えば「新しい」のかもしれませんが、これを続けていけば未消化な私小説の断片──要するにTwitterによる自分語り──に等しくなるだけのことでしかありません。
こんなものは俳句として受け取ってくれる読者がいるから「新しい」ように思えるのです。
俳句という枠組みを逆利用する、俳句共同体へのアイロニカルな依存精神によって成立しているのが鴇田の作品です。
俳句以外のジャンルへの志向性が強く窺えるのに、かたくなに俳句しかやらないのは、俳句として読んでくれる人がいないと彼の「らしさ」が成立しないからなのです。
あくまで「俳句としては新しい」、……いや、その新しさも「バカバカしくて過去の俳人がやらなかったことをあえてヽヽヽやったもの」でしかないのかもしれません。
同人誌「オルガン」や周辺俳人の俳句は、この疑念から逃れられないものばかりです。
俳句共同体にどっぷり依存した作品だから、僕のように俳人ではない人の作品評からは逃げ回ることしかできないのです。


しかし実作をしている人は、遠隔から漠然と物事を描く方法論一辺倒の俳句など、単純に作者が楽をしていると思わないのでしょうか。
これまで読んできたように、『エレメンツ』は消費社会に依存して現実逃避をもくろむポストモダンの精神にどっぷり浸っています。
こういうものを娯楽として消費することは、特に不思議もないことではあるのですが、文学と称するなら話は別です。
問題なのは、メタ位置から眺めるだけのポストモダン的主体には、文学作品など書けないということなのです。


メディアを介して遠くから物事を眺めるポストモダン的主体の居場所は、現実に関与できない「虚無」が支配する場所です。
現実の出来事が生起しているのは人々が生きている現場であって、「虚無」はそれを遠くから見ていることしかできないのです。
人々が生きている現場のことを僕はオブジェクトレベルという言葉で表しましたが、文学はオブジェクトレベルに身を置くことによって成立します。
これは少し考えてみれば誰にでもわかることではないでしょうか。
映画でもテレビでも動画でもいいですが、それをモニター越しに見ているとして、何かしらの出来事が起こっているのは画面の中でしかありません。
メタ位置でモニターを見ている人物には、無責任に感想を言う程度のことしかできません。
この点について考えることから絶対に逃げてもらいたくないのですが、
村上春樹や鴇田智哉が自分の身を置いているのは、モニターの向こう側なのです。
そこは果たして文学の場なのでしょうか?
俳人のいるべき場所なのでしょうか?
現場で人を殺しているドローン兵器をモニター越しで操作する人々に、戦争の当事者という意識が持てるものでしょうか?
メタ位置にふんぞりかえっている人間を批判することが、ポストモダン的な「好き嫌い」の問題ではなく、文学的倫理の問題であることがおわかりになるでしょうか。
僕はメタ位置にいる人たちが「文学」とか「詩」とか口にすることに徹底的に反対します。
彼らは遠く離れてさえいれば、自分に不都合な現実を殺す(書き換える)ことを選ぶことができる人たちだからです。
(ちなみに関悦史の「人類に空爆のある雑煮かな」も同様の精神を示しています。
「人類」という安直な全体化、空爆の「ある」という能動性の否定、モニター越しの視点、すべて鴇田と同じ典型的なポストモダンのメタ視点です)


柄谷の引用文で重要な部分があったのですが、読者の皆様はお気づきになったでしょうか。
メタ的な位置にいる「超越的な自己意識」は、「無意味なものに根拠なく熱中してみせる」ことで、
「意味や目的をもって何かに熱中している者への優越性を確保する」というところです。
ポストモダン精神の最悪なところは、自分たちが現実的に無力であるという事実を否認するために、
無意味を価値へと転倒して、現実的に意味や目的を持ってがんばっている人間に対して優越性を抱いているところなのです。
わかりやすく言えば、日々モニターで株価をチェックしているデイトレーダーが、現場で葛藤しながら経済活動に従事している労働者を小馬鹿にしているようなものです。
「意味がない」ことが詩性であるかのように短絡し、地に足のついた俳句を軽視する俳人が、自分の半人前以下の「表現活動」を文学だとか寝ぼけたことを言うのは、
メタ位置がオブジェクトに対して優越していると勘違いしているからにほかなりません。
こういう人が読者より絶対的に優位な位置にいたがるのは当然ではないでしょうか。
また、現場から遠いところで情報を操作しているマスコミや出版人が、こういうメンタルに共感するのも非常によくわかるというものです。


しかし、文学は「人が生きている」ことに直接関わるものです。
つまり、オブジェクトレベルにしか存在しないものです。
堕落した出版社がメディア依存メンタルを重宝しようが、心ある文学の愛好者は、こういう自己慰安を目的とする人に毅然とノーを突きつけなくてはいけないのです。
過去30年の価値観に居座り続けて、現代社会と格闘できない人は、これからの文学には必要ありません。


余談ですが、メタ位置にいる人は自分を他の人々から離れた場所に疎外してしまっています。
自分のいる場所は自分だけの個室であり、他の人々はみんなモニターの向こうにいます。
「俺か、俺以外か」の世界です。
まるでカリスマホストの勝ち名乗りのような世界が、資本の力によって成立していないわけがありません。
このような価値観の一般化は、本質的にバブル経済の恩恵をルーツとしています。
バブル絶頂期に大ヒットした村上春樹の『ノルウェイの森』(1987年)は、主人公のワタナベが緑に電話をかけるところで終わるのですが、そこにはメタ位置にいる人の孤独が描かれています。


僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今ヽヽヽどこにヽヽヽいるのだヽヽヽヽ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ? 僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。(村上春樹『ノルウェイの森』【下】)

この文章で『ノルウェイの森』は終わります。
ワタナベのいる「どこでもない場所のまん中」が、現実から遠ざかったメタ的な場所であることは言うまでもありません。
この手の連中は、メタ位置に自分を保存しすぎて、現実に自分の居場所を見つけることができません。
つまり、自分がどこにいるのかわからなくなるのです。
『エレメンツ』の見出しとなる部分に、Googleマップの座標のようなものが書かれていたりしますが、
こういう衛星からの視点で自分の位置を示そうとする欲望が、いかにもメタを生きている人の病理という感じで笑わせてもらいました。
(35°37'34.9"N 139°26’13.9”Eは貝取神社、37°21'56.3"N 140°59'44.9"Eは福島県の夜ノ森周辺でした)


自分の足場がわからず、どこでもない場所に存在するメタ人間は、
現実に居場所のない幽霊みたいなものなので、自分の存在感が希薄になってしまいます。
そうなると、メディア上に自己の存在を刻み込むことで、この世に居場所を求めるしかなくなります。
鴇田が「企画協力」とか実態不明のクレジットで他人の句集に名前を刻みたがるのも、おそらくそういう欲望でしょう。
『エレメンツ』にも位置にこだわる俳句が多く見受けられます。
いちいち挙げるのが面倒なので、気になる人は探してみてください。


出版資本の力を背景として、現実逃避の立場を手放すことなく、自分が何か文学的な人物であると「匂わせ」られれば、世界の居心地は良くなることでしょう。
このようなオタク精神に共感する人が多いのは、村上春樹のヒットを見れば明らかです。
そう考えれば、『エレメンツ』のようなモラトリアム句集が、オタク市場を開拓する期待を持たれているのも別に不思議ではありませんが、
冷静に世の中を見れば、村上春樹の全盛期は遠い昔でしかなく、すでにバブル経済とメディア革命に依拠したポストモダンの弊害が問題にされるようになっています。
それが文学と呼べるものでないことは、本当の教養人なら誰でも知っていることです。
文学とか詩とか都合のいいところだけ「伝統」を盗み出して、自分を持ち上げてくれる出版メディアと一体化している人物が、本当に一流の「俳人」として扱われていいのでしょうか。
(ちなみに、これからメタ的な路線で俳句を作る人たちは、村上春樹以後の作家同様に泡沫として消えていき、メディアには鴇田の名前だけが残ることになると予言しておきます)
現実逃避を自己弁護するだけのポストモダン精神で「表現活動」をやりたいのなら、
芭蕉が言ったように、俳句以外の名前を用いるべきではないでしょうか。


「ハイク真理教」という内輪共同体の崇高化

『エレメンツ』の「あとがき」で鴇田が語った「生えている句」にも一言だけ触れておきましょう。


生えている句を作りたい、と思ってきた。草や花がそこにあるように、俳句もまたある。草や花が何かの代わりとしてそこにあるのではないように、俳句もまた何かの言いかえとしてあるのではない。

こう鴇田は述べ、俳句がそこに存在する「造形物とか音楽に近いもの」だと主張しているのですが、
ここで語られていることと彼の実作との乖離に驚く人もいるのではないでしょうか。
いや、あなたは草や花がある現場から自分を遠ざけて、漠然とした「虚無」に奉仕しているではないか。
いや、俳句で言い換えばかりしているじゃないか。
そうケチをつけることは簡単です。
でも僕は、鴇田が案外本心を語っているのではないかと思っています。
前述した通り、彼には自分の位置がわかっていないのです。
現実から離れすぎて、もはや何が現実なのかもわからなくなっているのです。
そのため、自分の願望だけが存在していて、それをそのまま垂れ流して書いてしまったというわけです。
だから、実際は「生えていない」ではないか、と言うことにあまり意味はないと思います。
現実的な居場所を持たない鴇田にとっては、「生えて」さえいればどこに「生えて」いようが構わないはずだからです。
おそらく、出版メディア上に「生えている句」、つまり本棚という人工花壇に「生えて」いる「造形物」であればいいのです。


最後に、最近の若手俳人に目立つ「共同体の崇高化」の問題について触れておきます。
メディアに出たがる俳人のことを知るようになって思うことは、彼らは本当にコンプレックスが強い人たちだということです。
コンプレックスがあっても、それをバネにして社会と格闘している人もいるにはいますが、そういう人は傍流に位置しているように見えます。
主流になっているのは、コンプレックスをごまかす、あるいは慰安する方向にある人たちです。
彼らの存在基盤は「ごまかし」にあるので、仲間同士で寄り集まって、自分たちで自分たちを価値づけようとします。
他者から価値づけをされると「ごまかし」による自己慰安が維持できないので、他者の存在しない内輪の空間を好みます。
常に現実逃避を求める脆弱な精神は、自分で自分を意味づけることしか受容しません。
そのため、同様の脆弱な精神と寄り集まって集団化し、頻繁に座談会やイベントなどで「自分語り」をするようになるのです。
彼らの集団イベントが、俳句の結社よりさらに内輪化した世界であることは指摘しておくべきでしょう。


今の俳句界を見ると、そのような「ごまかし」に「崇高化」という手法が用いられています。
崇高な俳句を作ることは全力で目指してもらって構わないのですが、
既存の価値を「ズラす」現実逃避によって、メタ的な位置を確保することを、何やら崇高な態度であるかのように偽装するのは堕落です。
そのような堕落は、「わからない」ことや「意味がない」ことに詩的な価値があるという幼稚な主張に集約されます。
ポエジーというものが単なる意味領域に収まらないものであるのはその通りですが、
だからといって、「わからない」「意味がない」ものが詩的なのだという論理が成り立たないのは明らかです。
しかし、そんな低レベルの言説があろうことか俳句総合誌までも汚染しています。


前出の「角川俳句」の「新時代、俳句はどうあるべきか」に鴇田とともに参加している大西朋という俳人が、
生駒大祐の句について「わからない人にも心に訴える言葉選び、言葉運びがある。それが本当の詩情ではないかと思いました」と発言しています。
この発言を突き詰めれば、意味のわかる俳句には本当の詩情がない、と言っているのと同じです。
関悦史も同じく「生駒の句は直観的に入るのがあったと思いますが。
深く読むというより、何を言っているか一義的にわからなくてもすごいものを見てしまったという直観があって、それを説明的に展開すると長い話になっていく」と発言しています。
句の内容が「わからない」のに、どうして「すごい」とだけはわかるのでしょうか?
彼らの言説のおかしさを軽く流してはいけません。
なぜシンプルに「この句には詩情がある」とか「この句はすごい」と積極的に言わないのでしょうか?
どうして「意味がわからない」「直観的にしかわからない」ことが何かを生み出しているような言い方しかできないのでしょうか?
これらの言説の特徴は、「意味がわからない」ことが「詩情や凄味を生む」要因になっている、という因果関係にあるのですが、
問題は彼らが「わからない」という「否定的なもの」を価値の基盤としているところなのです。


ハッキリ言っておきますが、ポエジーというものは意味を恐れヽヽたりしないものです。
何かから逃げ回るような脆弱な精神で、詩人たりえるはずがありません。
たとえ詩句が何を意味しようが、その意味に回収できないほどの「過剰さ」を持ったものがポエジーなのです。
表現が内容の「過剰さ」に追いつかないから、意味に回収できないのであって、意図的に意味を避けることで詩情が生まれるわけがないのです。
ポエジーとは、汲めども汲めどもさらに水が溢れてくる井戸のようなものです。
一義的に意味がわかった気がしても、それだけで語り尽くせないものがポエジーなので、別に「意味がわからない」ことにこだわる必要などないのです。
俳人には現代詩がただ文脈の脱臼をしているだけに見えているのでしょうが、
意味的文脈をズラせば詩情が生まれるという逃げ腰なヽヽヽヽ発想は、現代詩の誤読としか言いようがありません。
詩の精神はもっと高潔ですし、それこそ崇高です。
大衆性を忌避する俳人の大衆的発想による誤読という皮肉も痛々しいのですが、詩を俗物根性丸出しのポストモダン精神に引き寄せて語られるのは迷惑です。
無知であることが問題にならない業界というものは、どうにかならないのでしょうか。
無知な言説の垂れ流しを避けるために、結社の教育があったことは見直されてもいいように思います。
「習い事」の俳句を否定する人がこの有様では、俳人が「文学」などと口にするのは100年早いと言いたいところです。


「否定的なもの」に積極的な価値を見出すのは、実際はポエジーとは全く関係のない消費資本主義的なメンタリティです。
「~とは違う」という微細な差異による商品のアップデートに慣れていくと、既存のものと違うもの、既存の価値に対する「否定的なもの」に新しさや価値があると錯覚するようになります。
しかしその実態は、本当に新しいものを受け入れないための「モラトリアム(時間稼ぎ)」でしかありません。
だから、ポストモダン世代の中ではサブカル派と伝統派の対立や抗争もありませんし、それどころかルサンチマンを抱える旧世代俳人に妙にかわいがられています。

自分の政治的な無力感を否認することが、ポストモダン世代の創作動機であることは前述しました。
積極的な内容を押し出すでもなく、俳句に意味は「いらない」、季語は「いらない」、切れは「いらない」(おそらく歴史もいらないでしょうね)と、
「否定的なもの」を掲げるだけで、詩が実現すると本気で思っているとしたら病気です。
そのため、自分の作品が積極的な内容を持っていないことを隠さなくてはいけなくなり、読者に意味を「わからせたくない」アイロニカルな俳句を作るしかなくなるのです。
これに関してはすでに鴇田智哉の作品を丁寧に鑑賞してきたので、理解がしやすいと思います。
理屈で成立した「意味をわからせたくない」句に、詩情があるとか、凄味があるとか、文学をナメるのもいいかげんにしてほしいものです。
否走性に依拠した「わからせたくない」句が「すごい」と思えるのにはカラクリがあります。
内容が「わからない」句であっても、「すごい」ことをやりたい、俳句を崇高化したい、という「メタ的な作者の意図」を感じ取るだけで、
それに「すごい」と応じることが「正解」だと直観的にわかってしまうのです。
これを別の言葉で言うと「忖度」となります。
中国の歴史を知ると、王朝末期には内輪の太鼓持ちが重用されるのが一つのパターンとしてあるのですが、
関悦史のような「忖度俳人」が重宝されている業界の現在とはどのようなものなのでしょうか。


このように、俳人という種族は「わからない」ことを根拠にして、「直観的」にしか処理できないことを詩情だと言い張るのですが、
それなら長嶋茂雄の野球指導「ボールがスッと来たら、バットをカーンって振ればいい」も詩的だということになるでしょう。
「意味がわからない」ことがすごいのであれば、基本的には子供でもすごいものが作れてしまうはずですが、
そうならないのは、その内実が権威主義に支えられているからです。
簡単に言えば、野球選手なら長嶋茂雄の言葉だから、意味がわからなくてもすごいと感じるのです。
すごい人が言ったからすごいという権威主義的な価値判断です。
このようなトートロジーに支えられているのが現代アートであることは、僕が別の記事で書いたことですが、
そもそもは消費資本主義のメカニズムでもあります。
つまり、「売れている」という事実がその商品を売るというメカニズムです。
積極的な価値を持たないものでも、広告が「すごい商品だ!」と大騒ぎをして、それを多くの人が買ってしまうと、
周囲の同調圧力に弱い日本人は何も言えなくなってしまうのです。
ゲッペルスや上祐史浩よろしく、メディアを使って自分たちで自分たちの共同体を価値づける「崇高な自己宣伝」に勤しみ、
空虚な第三芸術帝国を崇高化して、時に暴力を背景に批判言論を封殺する、
その危うさは「否定的なもの」を手段として自分の俳句(共同体)を崇高化したいという、現実に基盤を持たない欲望から生じています。
彼らのように根拠なく内輪の俳句を崇高化したがる集団を、僕は「ハイク真理教」と呼んでいます。


鴇田の俳句でも確認したことですが、彼らの「新しさ」は既存の俳句を「ズラす」ことで成立しています。
つまり、既存の俳句に通じていない人には「わからない」ことですし、
既存の俳句に理解がある人でも、前出の「角川俳句」の対談に出席した片山由美子のように、
アイロニカルで積極的な価値のないものに自己慰安を求めない人には、その価値が「わからない」のです。
そうなると、常識的な俳人に「わからない」ということが、自分の句が「新しい」ことの証明になってしまいます。
彼らはどこまでいっても常識的価値に依存しています。
ただその常識を裏返しにすることを価値として信仰している「影」のような人たちなのです。
普通の人たちには「わからない」価値を内輪の人間だけで共有していて、そのことに「選民意識」を持っている人が、怪しげな宗教信者と似てくるのは道理です。
僕が彼らを「ハイク真理教」と呼ぶのは、別に嫌いな連中を揶揄したくて言っているわけではありません。
ポストモダン俳人は、実際に怪しげな新興宗教メンタルにつながる道を歩んでいるのです。


ちなみに、生駒大祐の俳句については僕も言いたいことがないわけではありませんが、まだ若い俳人でもあり、将来性もある人なので様子を見ようと思っています。
ただ『水界園丁』(2019年)について言えば、俳句の「崇高化」を追い求めて言葉の抽象性を信じすぎたために、俳句がひどく退屈になっているということは確かです。
そもそも言語とは抽象作用によって成立したものなので、それを韻律上の抽象として扱っても、言語が所詮は言語でしかないことを示すだけでしかありません。
具体的な意味を廃した言語の抽象性によって俳句の「崇高化」をめざしても、崇高さへの「メタ的な意図」が伝わるだけで、句に崇高さが宿るわけではないのです。
顔見知りの俳人同士だと作者の「メタ的な意図」を読みすぎるので、句が「わからない」にもかかわらず詩情を感じた気になるわけですが、
厳しい言い方をすれば、その正体は「同業者の友情」みたいなものです。
俳人は「作者のメタ的な意図」を読むことや、句の外部にあるものを参照することを禁じて、句に内在的な鑑賞をする努力をもっとするべきです。


「意味がない」ことに価値があると思うようになった理由が、メディア技術の進歩にあると主張しているメディア論の泰斗がいます。
フリードリヒ・キットラーは著書『グラモフォン・フィルム・タイプライター』(1986年)で、こう述べています。


フォノグラフをもって科学ははじめて、いわゆる意味というものを顧慮することなしに音を記録できる装置を手に入れた。文字による記録だと、そのつもりはなくても、いつでも意味にむけての選択にならざるをえない。フォノグラフはそれにたいして、精神医学で治療の対象となる、言語の混乱そのものを呼び起こす。(フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』石光泰夫・石光輝子訳:筑摩書房)

フォノグラフとは音声記録装置のことなので、今で言うボイスレコーダーの元祖です。
つまり、ボイスレコーダーが「記録」分野での音声に対する文字の優位を覆したわけです。
そして、それが無意味を意味と同レベルに引き上げることを可能にしたとも言えるのです。
キットラーがそれを精神分析と関連させて語っていることは、無意識信仰の〈フランス現代思想〉とメディア技術の関係を考える上でも興味深いのですが、
ここでは話が逸れるので別の機会にやることにします。
要するに、「意味がない」言葉など音声メディアを用いればいくらでも表現できるわけで、それだけで詩情が生まれるなどという戯言がいかにバカらしいかわかるはずです。
読み飛ばしていましたが、そういえば『エレメンツ』にも音声的な言葉遊びみたいな句がありました。

 サイゼリヤ近親者らがぴらかんさ
 泳がすかいらーく身を焦がすぱーく
 ふぁあっぷるぐりむふぁあっとホントある
 とはいえど舞い立つライド暗いホー
 ピンもろとも竹がトモロウすっぱい閣下

まあ、解釈するようなものでもないですよね。
こういうものが真の崇高さとは程遠いことは、誰にだって実感できるのではないでしょうか。
俳人は自分たちが局地にいるから何を言っても構わないと思っているようですが、
「わからない」ことが崇高で詩情がある、と思えてしまうのは、その人がメディア(や人工衛星)を介した自己触発を、超越性を経由した宗教的メカニズムと取り違えているからなのです。


いや、取り違えているなら、まだ可愛げがあります。
僕はポストモダン世代が「わからない」「意味がない」ことに積極的な価値を持たせたがっている理由に見当がついています。
それは、コミュニケーションの失敗に対する恐れです。
経済的に満たされた時代に生まれたポストモダン世代は、文学的な苦悩とは程遠い恵まれた世界を生きてきました。
そんな彼らにとっては身近で小さな挫折でしかないものが巨大なものとしてクローズアップされてしまいます。
日常の些細なコミュニケーションの失敗が、重大事のように感じられるのです。
ポストモダン世代の創作の多くが、社会性に乏しい私的なディスコミュニケーションに対する癒しを求めたものでしかないのは、そのような理由です。


意味了解というのは一つのコミュニケーションと言えます。
そうなると、「意味がわからない」ということはコミュニケーションの挫折を示すことになります。
それでは、初めから「意味がわからない」ものを伝えたらどうでしょう?
そういう世界ではディスコミュニケーションを抹殺することが可能なのではないでしょうか。
つまり、「わからない」ことを価値とする欲望とは、コミュニケーションの挫折を常態化して、ディスコミュニケーションを存在させないことにあるのです。
黒い紙の上でどんな絵を描いてもヘタクソと言われる心配がないのと同じです。
コンピューターゲームの失敗でプレーヤーが何度死んでも心配がないのと同じです。
コミュニケーションからの逃走行為を正当化するポストモダン精神は、
「わからない」ことや「意味がない」ことに詩性があるかのような、怪しげな教説を「布教」して自己正当化を図っています。
「虚無」が支配する安心安全な王国で、現実的に無力でしかない自分を何か崇高な存在であるかのように「思わせる」ことに腐心する、
そんな人たちを俳句の「新時代」のあるべき姿として示す「角川俳句」という雑誌など、まともな俳人は誰も読まなくなることでしょう。
なにしろ第三芸術帝国の大本営発表ではごまかしきれない現実が、もうそこまで迫っているのですから。


今や文学は自らのコンプレックスを否認するための言い訳としてしか利用価値がなくなってしまいました。
俳人にしかなれなかったことがコンプレックスである彼らは、俳句の「商品化」によって経済活動の成功者になることを夢見ています。
サブカル的な欲望を、サブカルの世界に行って実現しようとしないのは、そこで成功者になる能力がないからです。
先進国で通用しない三流人でも、「後進国」でそれをやれば成功者になれる、というだけのことなのです。
ヨーロッパのやり方を「後進国」であるアメリカに持ち込んで、原住民を駆逐した「経済人」が彼らのヒーローです。
それが土着的な文化の破壊になるのは、当然すぎるほど当然でしょう。
自分の立つ地面を否定して「空中浮遊」をめざす共同体を、彼らは何か崇高であるかのように語るのですが、
それを気持ち悪いと思わないでいられる俳人たちの鈍感さは羨ましいかぎりです。
たしかにハイク真理教徒のマインドコントロールは出版市場やマスメディアと連携しているので、出版市場やマスメディアから自由でいられないと洗脳されてしまいます。
そういえば、麻原彰晃との関係で信用を失った中沢新一が、ハイク真理教徒の近傍にいる某俳人と一緒に本を出していましたね。
村上春樹が『アンダーグラウンド』(1997年)を書いた理由を知っていますか?
彼は自分とオウムに共通するものがあるという危機感から、あれを書いたのです。


最後に愚痴を書いて申し訳ありませんが、今回の記事は書くのが本当に嫌でした。
『エレメンツ』の俳句についてはだいたい「謎解き」ができたと思っていますが、
作者が絶対的優位にある句ばかりなので、作者の方でいくらでも「そんなつもりで作っていない」と言い訳をするのは難しいことではありません。
実際、鴇田は僕が指摘した助詞の入れ替えに対して、俳句総合誌に「そう読まれるとは思わなかった」として、自分の句の成立過程を説明する文章を書きました。
バイキング形式で自由に読ませておきながら、批判をされると「作者の意図」を説明し始めるあたり、本当は作者の意図を重視してほしいことがバレバレです。
鴇田をはじめとする多くのポストモダン俳人が、対等な対話を避けてメタ位置に居続けることにこだわっていることは、僕の批判に対する態度で明らかだと思います。
僕は一度も彼らに正面から向き合ってもらったことはありません。
彼らが「内輪以外のコミュニケーションからの逃走行為」しかできないことが、僕の指摘の正しさを証明していることを自覚するべきでしょう。


しかし、「俳人共同体」は出版資本と結びついたポストモダン俳人に屈する道を選んだようです。
ポストモダン俳人やその腰巾着俳人は、手厳しい(口汚い?)レビューを書く人の人間性についてはとやかく言うのに、
批判者に対する匿名による卑怯な嫌がらせや、言論弾圧への加担、Amazonに自分と友人で自作自演レビューを書く行為、殺害予告による脅迫行為などの非倫理的な俳人の行為については、見て見ぬふりで黙っています。
給料をもらっているサラリーマンに自社の批判ができないのはまだわかりますが、
単なる趣味的共同体の居場所確保のために、身内の批判一つできない人たちに、「文学」などと口にしてほしくはないのです。
特定の共同体の中でしか生きられない人間が、移民文化を前提とする〈フランス現代思想〉を振り回すのも論外です。
もちろん、言葉に誠実であるより所属共同体をあてにしている人にも、文学などと口にするのは冒涜なのでやめていただきたいものです。
無教養なポストモダン俳人はご存知ないでしょうが、ノーベル文学賞の受賞者には、所属共同体と戦った人が数多く含まれています。
所属共同体を乗り越える価値観を持ったものが文学である、というのが国際レベルの認識です。


まとめるのもバカバカしいのですが、要するにポストモダン俳人には「所属共同体への依存心」しかないのです。
彼らは自分たちの共同体が落ちぶれたという「現実」から逃げるために、堕落状態を「崇高」だと思わせるメディア・プロパガンダに勤しむ「終末期の日本人」と似ています。
自分たちの共同体を崇高化してくれるのだから、そりゃあ老人たちにとっても嬉しいでしょう。
今回の長い論考で僕が強調したかったことは、ポストモダン世代の欲望が最終的にどこに着地するかということです。
根拠なき「所属共同体の崇高化」は、「大きな物語」としてはネトウヨ的な国家主義にあたるのですが、
ポストモダンも「小さな物語」である局地的なオタク共同体で、同じように「内容不在の崇高化」を欲望しているということです。
天皇制国家においては部分と全体は直接的に一致するので、この両者は簡単に「調和」します。
ネトウヨ言説を最も商売に利用してきたのが、他ならぬ出版社であることも考慮するべきでしょう。
ハッキリ言えば、現在の俳句界は国家主義を局所化したような共同体依存のイデオロギーに侵されています。
共同体に依存するしかできない人には、所属共同体と戦う人間のことは絶対に理解できないというのは、僕の人生経験で得た動くことのない真理です。
つまり、共同体に依存するだけの人間には、普遍精神を追い求める文学の本質を理解することは絶対にできないということです。
言うだけ虚しいことですが、俳句についてはもうあまり書きたくないので、この機会に言わせてもらいました。


「崇高な自己宣伝」を必要とする「ハイク真理教」の俳人は、彼らのメディア上の分身アバターである「商品」に批判的意見を貼りつけた僕を敵視しているため、何を書いても悪意と思われることはわかっています。
しかし、僕は特定の人を攻撃したいのではなく、金融資本に骨抜きにされたポストモダン精神と、それを擁護するための「虚無」への奉仕から、文学や思想を奪還することを目的としています。
それをハッキリさせるために、今回は歴史的視点からポストモダンとは何かを示して、最近の俳人がその影響下にあることを立証することにしました。
心ある俳人の方はもちろんですが、もし俳人でないのに読んでいただいた方がいたら、正直な感想をコメントしていただけると報われます。
そのため長文になりましたが、最後までお読みいただいた方(特に俳人以外の方)には大いに感謝していることを書いておきたいと思います。


10 Comment

クロさんへの返答

こうして歴史的考察を書いても、俳句界では僕のポストモダン時代への批判はあまり理解されていません。
ただ一部の俳人が嫌いなクレイマーのように思われているようです。
その時代にチヤホヤされている作品はその時代を物語っている、という視点がなく、個人を批判していると思われるんですね。
自分も無縁ではない、と受け止めてくれた俳人が少しはいてくれたのが幸いですが、
「業界」についての興味が勝っている人には、包括的な「社会」や「歴史」をこれだけ踏まえて書いても、理解してもらえる気がしません。

クロさんが書いたように、大いなる共同体への信頼は薄れているのですが、
オタク的興味をつなぐ「業界」への依存度はそのぶん高まっているように思います。
どこの「業界」にも属していない僕は、プロ職能がない無名の人間という位置付けになるわけですが、
無名な一般人が「業界」に喧嘩を売るという行為が野蛮に思えるのか、僕自身まで野蛮な人間というイメージを持たれています。

日本のポストモダンは、村社会的な緊密な人間関係の束縛を不自由だと感じて、
そこから「付かず離れず」の距離を確保するために、「社会的意義」から自由である趣味的な消費を介した「消費的つながり」を謳歌したものです。
本質は貨幣を媒介とした関係なので、旧来の「意味」からは自由であるわけですが、
その代わり趣味的共同体(業界)の金銭的束縛からは逃れられないわけです。

日本がコロナ対策を徹底できない本質的な理由は、レジャーや買い物を禁じてしまうと「消費的つながり」が得られなくなり、
社会不安がとてつもなく増大してしまうからだと思います。
クロさんが問題と感じている人間の利己主義やエゴに関して言えば、
緊密な人間関係から消費的に逃避することで、自分にとって「居心地がいい」消費空間にいることに慣れてしまった人(=オタク)が、
その感覚でしか他人と付き合えないことから来ているのではないでしょうか。

無題

大いなる存在への信頼が薄れたこと、エモーショナルなぼんやりとしたつながり(共同体)が失われて、個人主義へと向かいましたが、いまは不景気でキャッシュパワーが無くなってきたので、自己責任とは行かなくなり他人ごとでは済ませられなくなってきていますよね。

そして、ナショナリズムも共産主義も、共通しているところがあると思います。個々人の人間性を無視して、お上からのお達しに従わせる点で、です。

でも、いまでは大なり小なりなんらかの存在に身を委ねたいと考える人々が多いのかな、と思いました。

政治にしろ、イデオロギーにしろ、信仰にしろ、ネットにしろ、すべてがそうした不安定さから現状に帰着していると思います。

不安だからこそ、権威であれデマゴーグであれ、それらに信頼性が無くても構わず、そうしたものに価値を置いて安心感を得たいのだと思います。
「自分だけでも助かりたい」あるいは「自分さえよけりゃそれでいい」という利己主義的な思惑が発露となって、イデオロギーや政治活動や創作に向かうから、もとが駄目なので、ますます事態は良くありません。社会を見据えるにはエゴから切り離さなければなりませんから。

こうした見通しは大きな流れを捉えたに過ぎないので、具体的に見ると不正確さは否めないかもしれませんが。

「好きなことに没頭する」ことは、歴史的には価値創造や社会の発展に寄与することもあるのですが、その志向性というか、そのベクトルが歪んでいればチープにならざるを得ません。

クロさんへの返答

受験エリートに対する「信仰」というのは、言い得て妙ですね。

芸能人の学歴まで示したがるテレビは何なのかと思いますが、
僕が学歴の価値を脱構築しようとすると、わざわざネットで僕の学歴を推測して書く人まで出てくる始末です。
(ポストモダンが解体しようとしない価値の代表が学歴です)

実際は同じ大学を出た人なんてたくさんいるわけですよ。
その中で有名になるのはごく一部、それなのにその人の価値を学歴で根拠づけようとするんですからね。
まあ、マスメディアには学歴差別が普通にあるんでしょうね。
そういう内輪の価値観を全体化しているんですよ。
(ちなみに俳句界にも学歴信仰疑惑があります)

ポストモダン思想もそうですけど、過去の権威を頼りに好きなことに没頭するオタクが、今の日本のロールモデルなんですよ。
先人の歴史は捨てているのですが、形骸化した「権威」だけは信仰しているんですね。

無題

>アートや文学や哲学や古典などのハイカルチャーが、他人の目に自分を良く見せたい、という「みみっちい優位性」のために存在するだけでは、
魂を賭けて文化の向上を目指した先人たちがかわいそうです。

ほとんどの人が、今ここにある消費物と、メディアが生み出す価値観に踊らされています。

南井さんがしきりに攻撃している受験エリートも、ここ数十年程度で作られた価値体系に過ぎません。そしてそのうちこの価値体系も崩壊すると思います。学歴は大いなる存在の権威性が失われてその代替として信仰の対象になったのではないだろうか、と推察しています。

今の世の中が、先人たちが積み上げてきた成果の集積であることを意識していないわけですよね。タテ(歴史)とヨコ(同時代の国々)まで視界が広がっていません。
これでは井のなかの蛙です。井の中で押し合いへし合いしているのです。みみっちいですね。

クロさんへの返答

実際、僕がポストモダンを批判しているのも、ポストモダンがどうにも「大衆化」の別名でしかないからです。
「大衆化」と言えば逃げられませんが、「ポストモダン」と言えば何やら崇高な価値であるかのように偽装できます。
舶来物に弱い人たちをターゲットにした、くだらない言葉のマジックなんですよね。

「その意味では哲学や古典や芸術(文学や種々のアートも含む)は、みすぼらしい主体を華美た鎧で覆う役割をするのかもしれませんね」

これは心にグサっとくる一文でした。
クロさんの言う「華美た鎧」を僕は「ドーピング」と呼んでいますが、
アートや文学や哲学や古典などのハイカルチャーが、他人の目に自分を良く見せたい、という「みみっちい優位性」のために存在するだけでは、
魂を賭けて文化の向上を目指した先人たちがかわいそうです。

そして、ポストモダン世代の連中はレベルが高い先人に言及すると、自分のレベルの低さがバレるので、
胡散臭い抽象論か技術論だけを語ってみたり、ポストモダン的な作品や思想の参照しかしなくなります。
これも「逃げ」の現象と言えるでしょう。

無題

「凡庸さ」といえば、
古典botについては、
安直なもの(YouTubeとか)を好む大衆と、古典を読み漁った俺、という対立項を使って、優位性を強調しようとしている企てを僕は感じていました。ですが、同じ土俵に立って拮抗しているので、彼の内部には少なからぬ葛藤があるわけです。

ネオ高等遊民についても、
労働という土俵の上で、高等遊民(つまり、無職)という立場で、労働者(とくにビジネスパーソン)と拮抗しているわけですよね。よって、同じ葛藤を抱えていると見ています。

だから、両者ともに甘ったれたままのガキでしかありません。
彼らの手前勝手な価値観(頭の中あるいは視界)において劣位に置かれる他者によって彼らの不安定なナルシシズムは支えられているわけですから。わがままを聞いてもらえず、駄々をこねて親に八つ当たりする子どものそれに等しい。

彼らの所作は、価値でもアートでも新機軸でもなんでもなく、陳腐そのもの。
「凡庸さ」「弱さ」から向き合いもせず、「逃走」しているわけで、さもしいと僕は思います。

>「凡庸さ」をアートと偽装するようなポストモダン精神こそが創作上の悪になりうるということです。

「凡庸さ」をアートと偽装する向きと、アートで「凡庸さ」を包み隠そうとする向きのふたつの悪が潜んでいると思いました。どちらも「弱さ」を抱えています。
けばけばしいレトリックを駆使して大したことを言っていないのにすごいことを言ってるように見せる文章はけっこう散見されます。
その意味では哲学や古典や芸術(文学や種々のアートも含む)は、みすぼらしい主体を華美た鎧で覆う役割をするのかもしれませんね。

クロさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
クロさん、コメントありがとうございます。

俳句に特別な関心がない方にも読んでいただけて、
一般的なポストモダン論として書いた労力が報われるような気がします。
今回取り上げた鴇田智哉に限らず、ポストモダンそのままの価値を個性と取り違えることは、
アイヒマンほどの悪ではないにしても、アイヒマンのような凡庸さの表出であることは確かです。

そうです、まさに問題は「凡庸であること」だと言えると思います。
大人になれない弱さを含めて、
「凡庸さ」をアートと偽装するようなポストモダン精神こそが創作上の悪になりうるということです。
それを確認させてくれたクロさんのコメントは、非常にためになりました。

無題

「俳句」という具体物を取り上げていますが、今回も普遍的で通底する抽象的な問題を批判しているように読み取りました。
アイヒマンという具体物の先にある悪を考察したアレントがやっていたそれに近いです(悪を考察する際にアレントは、カントとアリストテレスという巨人の肩の上に立っていました)。
なので、俳諧には疎いのですが、考察対象となっている問題は一貫して同じであると思いました。

批評対象の俳句およびその読解箇所のあとに現れる批判部分を拾うだけでもスッキリと趣旨が取れると思います。

「メタ」「オタク」「モラトリアム」「切断」「アイロニー」「ナルシシズム」「ズラす」「甘え」「メディア」……。

自立した大人になることを迂回または逃避し、先送りにしている、弱さあるいは不安を批判対象としている、というところでしょうか。
メディアはいまを生きるひとびとが作り出したものであり、それらを受容し消費する現代の風土も併せてすべて問題が地続きにある、ということですよね。

そこにはおそらく「ポストモダン」が絡んでいていて、戦前・戦後でがらっと日本が変わっていく中で、三島由紀夫が憂いた日本の姿が顕現されたのかな、と思いました。

泥炭さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
泥炭さん、コメントをありがとうございます。

納得していただけるものを書くために、これだけ長くなりました。
ズラすことを個別性の居場所にしたのは消費資本主義なのですが、
〈フランス現代思想〉がそれを哲学だと詐称し、文学もそれに倣ってしまったため、
出版社の「新商品」として流通すれば、それが哲学や文学(=ズラし)を実現したのと同じことになりました。

「直観的にわかる」句というのは、泥炭さんの感じたとおり具体性がないことに大いに関係しています。
具体性がないものは、瞬間的に消費されても、長く残ることはできません。
消費財としての正解は文学としては不正解です。
僕の発想は極端かもしれませんが、本質的に価値のある「商品」と文学的な価値は両立不可能な時代になったと思っています。

ポストモダン俳人の作品の賞味期限はひどく短いので、短いスパンで次の句集を出さなくてはならないでしょう。
すでにそういう人が何人もいますね。
そうなれば儲かるのは出版社です。
彼らが出版社にかわいがられているのはいいカネヅルだからであって、別に作品がすぐれているからではないのです。
若い人には今のムーヴメントが大きく見えていると思いますが、その時だけ話題になる作品など、過去にいくらでもあるのです。

鴇田氏の句が「作品本意の目的」以外を志向している、というのが僕の論点であり、
丁寧に読んでもらえたと有難く思っています。

無題

『エレメンツ』に纏わる具体性の漂泊と、そのためになされる言語的な作為(意図)への違和感を感じつつ、その真贋を判断できずにいましたが、南井さんの文章に只納得です。また本論に併せて間接的に記される「ポエジー」や「文学の本質」に関する部分にも大変刺激を受けました。余談ですが、先日開催されたある書店イベントにネット参加し、一般質問の時間帯に「具体性の保留」という言葉を以て、鴇田氏に質問を投げましたが、「具体性の保留」自体という言葉が全く理解されませんでした。あの作品群に対する質疑として、前述の言葉が作者において理解されないのは意外であったし、それは結局の所、そういった表現上の所作が、一句の意味を読者に伝える為という作品本意の目的に根付いていない(それ以外の目的を志向している)事の査証かもしれません。俳句に関する文章はこりごりとの事ですが、個人的には今後も俳句に関する事を書いて欲しい(南井さんの徒労感を他所に勝手な事を言い恐縮ですが…)と強く思っています。

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