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『有閑階級の理論』(講談社学術文庫)ソースティン・ヴェブレン 著/高 哲男 訳【前編】

異端の経済学者

消費資本主義について考察する上で、読んでおかなければならない本の一つにソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』(1899年)があります。
ヴェブレンには他に『企業の理論』(1904年)などの著作があるのですが、結果として処女作が長く読み継がれることになりました。
僕が100年以上前の古典を取り上げるのは、ヴェブレンの有閑階級についての考察が、アメリカ消費文化への批判であり、
ひいてはアメリカ消費文化を模範として発展した日本の現在の消費文化を考察することに役立つからです。
現在、講談社学術文庫(高哲男 訳)とちくま学芸文庫(村井章子 訳)で翻訳が出ているのですが、ヴェブレン独自の思考展開(特に後半)についていくのが難しく、
僕は両ヴァージョンを計3回(講談社を2回)読んだのですが、3回目でやっと何かが書けるような気がしてきました。
(この記事での引用文は断りがない限り、講談社学術文庫版を用います)


「異端の経済学者」とも言われるヴェブレンの経歴は少し変わっています。
彼はもともと哲学で博士号を取得しています。
カントやハーバート・スペンサーを研究していたようで、「カントの判断力批判」という投稿論文が残っています。
ヴェブレンは哲学科の大学教員になりたかったようなのですが、望むような仕事は見つからず、一度は実家のあるミネソタに戻りました。
幅広い分野にわたって読書をしたのがこの期間だと言われています。
そこからヴェブレンは経済学へと転身し、コーネル大学の大学院へ2年間通います。
そこで指導教授をしていたラフリンに気に入られ、ラフリンがシカゴ大学の経済学部長になると、その縁で助手のポストを得ることになるのです。
ヴェブレンは1899年に『有閑階級の理論』を出版し、翌年には助教授になりましたが、学界での評価はそれほどでもなかったようです。
それでも晩年にはアメリカ経済学会の会長に推薦されたこともありましたが、
ヴェブレンはそれを辞退し、カリフォルニア郊外の小屋で自作の家具とともに質素に暮らしました。
亡くなったのは、1929年の世界大恐慌が起こる直前でした。


ヴェブレンの経済学に若き日の哲学研究が影響しているかどうかに関しては、様々な意見があるようです。
ハーバート・スペンサーの影響が晩年の著作に反映されている、とはジョン・K・ガルブレイスの言葉です。
カントの影響というのは、僕が読んだ印象では、あまり感じられませんでした。


彼が「異端」と言われる理由は本書を読むとよくわかります。
経済人というものは合理的に損得勘定をして意思決定をするものだ、という多くの経済理論とはまるで違って、
富裕層というものは古代から続いている人類学的な社会習慣に基づいて、非合理的に見える消費行動をするものだ、と主張しているからです。
労働することが人間のあるべき姿であるという考えに反して、労働しないことが上流の階層であることの証明だ、としているからです。
さらに言えば、一般に経済学の範疇だと思われている領域を激しく逸脱し、人類学や社会学の領域に踏み込むような考察をしています。
ガルブレイスは、ヴェブレンが人類学や社会学を用いたのは、富裕層への敵意をわかりにくくするための隠れ蓑だと言っていますが、
僕はそういう印象は抱きませんでした。
ヴェブレンは経済学という学問上の領域を突破して、人間とはこういうものだという一種の「人間学」を試みていたように感じるのです。
こういう規格外のものがアカデミズムの世界で評価されるのは、いかにアメリカでも難しかっただろうと思います。


『有閑階級の理論』は単純な原理に貫かれているので、いくらでも簡単にまとめることは可能なのですが、
進化経済学という変わった学問ジャンルを構想していたためか、話題が広範囲に及ぶためか、文章のせいか、
実際は後半部に行くにつれて読みにくくなる難解な本です。
正直なところ、その部分に迫るほどの読書はできていないのですが、なるべく深いところまで触れていきたいと思っています。


有閑階級とは何か

では『有閑階級の理論』の内容に触れていこうと思いますが、まずはあまり日常で用いられない「有閑階級」という言葉について考えましょう。
本書の原題は「The Theory of the Leisure Class」なのですが、
「Leisure」つまりレジャーというと、僕たちは休日にどこかへ遊びに行くことをまず想像するでしょう。
leisureは実際には仕事や義務から解放されていることを意味しています。
そうなると、「ヒマしている」ということになるので、「有閑」とか「余暇」とかいう言葉に当たるわけです。


ヴェブレンが有閑階級と呼んでいるものは、慣習的に産業労働を免除された名誉ある人々のことを言っています。
産業的な職業から解放されているわけですから、まさにleisureすなわち「有閑」と言えばその通りなわけです。
ヴェブレンは産業的な職業から免除されているということ自体が、「卓越した地位の経済的な表現なのである」と述べます。
要するに、経済的な観点からすると、「働かなくていい」ということが高い地位を示すようになる、ということです。
そうなると、有閑階級は自らが「働かなくていい」存在であることを、これ見よがしに示さなくてはいけなくなります。


「働かなくていい」有閑階級とはどんな人たちかと言うと、封建制度の中では主に武人と聖職者になるようです。
ヴェブレンは有閑階級が貴族と聖職者から構成される、と書いています。
彼ら有閑階級が労働の代わりに何をして過ごすかというと、統治、戦争、宗教、それにスポーツ(狩猟)だと言います。
ヴェブレンは、遊牧的狩猟部族などの原始的な社会には上流階級の労働からの免除が見られず、有閑階級は存在していないことから、
有閑階級は原始未開社会から野蛮状態へと移行していく中で、だんだんと発生したものと結論づけます。
有閑階級が登場する条件は、
① 地域社会が略奪的な生活習慣から解放されている
② 一定数が肉体労働をしなくてすむほどに食糧が入手しやすい
となっています。


ヴェブレンは有閑階級と労働階級との区別のルーツを、野蛮時代の男性と女性の分業に見ています。
のちの産業労働はほとんど女性の仕事とされていたものだと言うのです。


こうした男女の分業は、野蛮時代の文化が発達したときに出現する勤労階級と有閑階級との区別にぴたりと符合する。職業が分化・専門化するにつれ、生産的な職業と非生産的な職業の間に一線が引かれるようになる。のちに産業の多くが生まれるのは、野蛮時代前期にみられる男の仕事からではない。(中略)生産的な職業のほぼ全部は、野蛮時代の前期に女の仕事とされてきたものから発展する。(ちくま学芸文庫:村井章子訳)

女性の仕事と男性の仕事という区別が、生産労働と非生産労働の区別へと移行していったというヴェブレンの主張は、
論拠に説得されるというより、直観的に正しいことを言っていると思わせるところがあります。
男の仕事は獲物の捕獲という獲得行為であるため、略奪的であって生産的ではありません。
そういう略奪的行為(要するに獲物ゲット)が習慣化し、社会に定着するようになると、武勇を誇るような英雄的行為が、日常的労苦と区別されるようになる、と言うのです。


このようなヴェブレンの指摘を踏まえるなら、現代のジェンダー論はもっと経済的観点から語られる必要があるでしょう。
男女の社会的役割の区別は、現代においては有閑階級と労働階級という格差問題として現れているからです。
国会議員や会社役員の女性比率が問題になるのは、それが非生産労働を専らとする有閑階級であることと無関係ではないと思います。


ここで最重要ポイントを言ってしまいますが、ヴェブレンの論の核にあるものは社会的な慣習です。
社会の生活形態に適応して、人々は何かに価値を認めるようになります。
それが定着すると、ある「思考習慣(institution)」を築き上げることになります。
(この語も「制度」と訳したりもしますが、ヴェブレンの意図に近づけると「思考習慣」が適切に思えます)
彼の経済学の原理となっているのは社会適応から生じた思考習慣なのです。
社会の中で習慣化した考え方が伝統となり、それが価値を決定するものとして受け継がれている、ということです。
つまり、ヴェブレンは野蛮時代の略奪生活の時に成立した考え方が、そのまま習慣化し、現代にまで続く価値基準として受け継がれているとするのです。


男性的な仕事から派生した英雄的行為が価値を持つようになる心理プロセスを、ヴェブレンは「モノ作り本能(instinct of workmanship)」(「勤労本能」「製作者本能」と訳す場合もあります)という言葉で説明します。
人間というものは集団的な目的の達成を求める行動主体であるため、目的にかなうように働くことを好み、無駄を嫌います。
この傾向を「モノ作り本能」と言っています。
モノ作り本能は集団的な目的の達成を求めるので、集団から尊敬を得ることが重要になり、目に見えた成功を得ようとします。
それが自分の能力を誇示することにつながるのです。
人々が自らの能力の証明に勤しむようになると、互いに張り合うことが増えます。
この「互いに張り合う」という前提があるからこそ、他人に「妬みを起こさせる」ことが自分の能力の証明になるのです。


このあたりの心理プロセスの説明は、あまり丁寧とは言えません。
けっこうサクッと語っています。
(そのため、國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』で、「製作者本能」の論理は破綻している、と難癖をつけるのですが、それについてはあとで取り上げます)
目的合理性を持って集団的な達成を求めることと、自分自身が集団から承認される名声欲が心理的に接続されているのですが、
よくよく考えると自己承認欲求だけでも語れてしまう内容です。
ヴェブレンは個人の利益と集団の利益の区別はない時代だったとしているので、それで一応筋は通せます。
集団から承認を得るのに最も効果的なのは、外から獲物を獲得してくる(略奪する)ことです。
なにしろ、自分たちの集団には何のダメージも与えずに、利益だけを運んでくるわけですから。
お前は我々の英雄だ、ということになるのではないでしょうか。
こうして略奪を伴う英雄的行為が価値あるものとなり、生産労働は軽蔑されるようになったのです。


これは狩猟民族には当てはまるかもしれないけど、日本のような農耕民族には関係ないんじゃないの、と思う人もいるかもしれません。
しかし、僕はヴェブレンの説は日本にも応用できると思っています。
外から獲物を獲得することを、外国から新たな文化を獲得することに置き換えればいいのです。
海外の優れた文化を移入することは、外から獲物を略奪するのとそう変わりません。
外国文化を取り入れることが英雄的行為であり、共同体で名声を獲得する基礎となったと考えればいいのです。


所有権と財力比べ

第2章では有閑階級と所有権のことが書かれているのですが、ここも軽く流すのがもったいないところです。
ヴェブレンは有閑階級と私的所有は同時に出現したと言います。
私有財産制の最も古い形態は、男性が女性を所有することにあり、
その起源は野蛮時代の交戦で女性を捕虜にしたこと、敵から奪った女性を戦利品として自分の妻とすることにあったのは明白だ、と彼は述べます。
私的所有によって自分の英雄的行為を継続的に示すことができるのです。
女性の所有が女性の生産物の所有へと発展し、物の所有が一般化しました。


ヴェブレンは私有財産の意味を他人と差をつけることに見ています。
最初は所有された戦利品が、奪った所有者と奪われた敵との「妬みを起こさせるような比較」を際立たせたのですが、
私有財産の習慣が定着すると、「妬みを起こさせるような比較」が、所有者と非所有者の間でなされるようになりました。
略奪中心から産業的な社会へと移行すると、富の所有という手段で社会の評判と尊敬を得ることが一般化したのです。


マニアックな話になりますが、ここで頻出する「妬みを起こさせるような比較」という訳語は、ちくま版の村井訳では単に「差別」とされています。
原書を確認してみると、「invidious comparison」という言葉の訳語に当たるので、高哲男訳は原書のニュアンスに忠実だとわかりました。
invidiousには「妬みを感じさせる」「不公平な」という意味があります。
有閑階級の成立に「嫉妬」の心理が強く関与していることは、無視してはいけない部分だと思います。
ヴェブレンもこの語を取り上げて、「妬みを起こさせる比較」とは尊敬する価値がある人間だと評価するプロセスのことだ、とわざわざ書いているので、
そこに見られる心理的要素は無視できないところです。


共同体の内部(略奪者)と外部(敗北者)の間で嫉妬が起こるような区別が、
共同体内部での所有者と非所有者の間で嫉妬を招くような区別へと移行した、というのがヴェブレンの説です。
そうなると、富の所有と英雄的行為の関係はどうなってしまうのでしょうか。
ヴェブレンは、富の所有によって名声が得られても、英雄的行為は機会が減っただけで依然として名声を得る大きな手段であった、とします。


富の所有が、一般的な名声や非の打ちどころのない社会的地位の根拠になったとしても、武勇と英雄的行為は、なお大衆的な名誉を勝ちとる最高の根拠でありつづけるであろう。

略奪的な社会で暮らしてきた本能は、その後の社会でも「深く染み込んでいる」、というのがヴェブレンの主張です。
ここで僕は少なからず困惑してしまいました。
英雄的行為から富の所有への歴史的変化を語っておいて、両者が併存するというのは都合が良すぎるのではないか?
これはヴェブレンの他の著作を参考にするとよくわかるのですが、彼は慣習的に成立した思考習慣が単線的に移り変わるのではなく、
複数併存して隆盛したり衰退したりするモデルを考えています。
だから、富の所有が地位を保証するようになっても、英雄的行為が尊敬を集めるという思考習慣がなくなるわけではないのです。


僕はこの両立については共同体の外部との関係と内部の関係とで分けてしまえばよかったと思っています。
つまり、共同体外部との関係においては略奪的な英雄的行為で名声を得ることが重視され、
共同体内部での関係においては富の私的所有によって名声を得ることが求められる、と説明すれば説得力が増したように思えるのです。


「働かなくていい」ことを証明する顕示的閑暇

本書の評者の多くがすっ飛ばすであろうことをだいぶ丁寧に書きましたが、
ここからはどんな評者でも書くはずの中核部分に触れていきます。
ヴェブレンは有閑階級が人々の尊敬を保持しつづけるには、富の所有だけでは十分ではない、と述べます。
富や力は証拠によって示される必要があるのです。
その証拠とは何かといえば、例の「働かなくていい」ということ、つまり労働からの免除です。
有閑階級は自分たちが有閑であることを示すために、労働をしなくてもいいヒマな人であることを見せびらかすようになります。


こうして、労働の回避を顕示することが、優れた金銭的な偉業の慣例的なしるしに、さらに名声の慣例的な指標になってくる。するとひるがえって生産的労働への従事は、それが貧困と隷属のしるしであるという理由で、社会的に尊敬すべき地位と両立しえなくなる。

労働を免除されていることが名声を表し、生産的労働をすることが貧困と隷属を表すことが「慣例的」に成立するため、
労働からの免除を「顕示する」ことが社会的な地位を示すことになる、とヴェブレンは主張します。
「俺は一生懸命働くことはないんだ、だって、ここでは俺は偉いんだからさ」というわけです。
なんか嫌味ったらしい感じがするのですが、こうやって妬みを起こさせることがヴェブレンの考える有閑階級の本質であるため、
彼らは「働かなくていい」ことを「顕示」しないわけにはいかないのです。
このように自分が労働を免除された名誉ある存在であることをひけらかすことを、ヴェブレンは「顕示的閑暇(conspicuous leisure)」と名づけています。


また細かいことなのですが、このconspicuousの日本語訳が落ち着かないのです。
講談社学術文庫版では「顕示的」で、ちくま学芸文庫版では「衒示的」となっています。
辞書的な意味では「人目を引く、顕著な、目立った」という感じなのですが、僕としては、明らかという意味より、人に見せびらかして注目を集めるニュアンスでヴェブレンが用いている気がするので、
「衒示的」の方がより正確であるとは思います。
ただ、今回は本文引用を講談社学術文庫版に拠っているので、混乱を避けるため、「顕示的」の語を用いることにします。


leisureの語に関しては、ヴェブレン自身が説明しています。


ここで用いる「閑暇レジャー」という用語は、怠惰や静止状態を意味するわけではない。その意味するところは、時間の非生産的ノン・プロダクティヴ消費である。時間の非生産的消費は(1)生産的な仕事はするに値しないという意識からであり、(2)何もしない生活を可能にする金銭的能力の証拠になるからである。

これまで書いてきたことと同じですが、「閑暇」とは生産活動とは無縁な時間の過ごし方をすることが可能である、という意味です。
ただ、何度も読むうちに僕にはヴェブレンが用いた「レジャー」という語には隠れた意味があるような気がしてきました。
レジャー論の古典とも言われるヨゼフ・ピーパーの『余暇と祝祭』(1965年)という本を読んでみたら、
西洋文化の基礎に「余暇」があると書かれていました。
(この本はドイツ語で書かれているので「余暇」はMußeという語なのですが、英訳ではleisureが当てられています)
そこでは、「余暇」の語源について次のような説明がされています。


また「余暇」(ドイツ語ではMuße)という言葉の語源をさぐってみると、余暇と文化の密接なつながりがはっきり見てとれます。余暇はギリシア語でスコレー、ラテン語ではスコーラ、ドイツ語ではシューレ(学校)となります。つまり、ドイツ人が教養、あるいは人格形成の場をさすのに用いている言葉自体が、余暇を意味しているのです。(ピーパー『余暇と祝祭』講談社学術文庫:稲垣良典訳)

ピーパーは現代社会が「労働」を絶対化していることを批判し、本質的な意味を持つ「余暇」の再評価を促しています。
「現代社会では労働と(真の意味での)余暇のしめるべき位置がさかさまになっている」と不満をもらすのは、
引用にあるように、余暇は教養と強く結びつくものであるからです。
欧米では大学の教養教育をリベラルアーツと言いますが、アリストテレスにおいてはリベラルアーツは「奴隷的技術」と区別されています。


このように「自由な学芸リベラル・アーツ」とは、それ自身のうちに目的をふくむような人間活動です。これに対して「奴隷的学芸」といえば、それ自身のうちに目的はなく、むしろ実践を通じて到達されるべき何らかの実益をめざす人間活動のことをさします。(『余暇と祝祭』)

リベラルアーツとは知を実用的な目的に利用するのではなく、学ぶこと自体に意義を見出すものであるわけですが、
最近の大学は実学主義へと大いに傾いているので、教養主義の人たちはピーパーの主張に勇気づけられることでしょう。


ピーパーは哲学が「精神的労働」になっていることを嘆くのですが、
カントがロマン主義哲学の批判のために、哲学を労働と捉えたことがその起源だと彼は考えています。
カントはロマン主義哲学がメタに立って偉そうにしている原因を、労働の免除に見たのです。
そんなカント的な精神的労働に対して、ピーパーはギリシアの哲学者の「知的直観」、トマス・アクィナスの言葉で「コンテンプラチオ」というものの重要性を説いています。


この「コンテンプラチオ」の重要性については僕もピーパーの説を支持します。
精神的労働の価値観だと大学で研究労働を積み上げることが立派な哲学者であるかのような勘違いが起こります。
残念ながら、学問には一定レベルを超えるのに素養(才能ではない)というものが必要なのです。
自分に向き合うこともできない人が、神的なものと向き合えるわけがありません。
そういう「コンテンプラチオ」に欠けた人に、哲学などできるわけがないのです。
ただ、僕は労働と知的直観を対立軸にするピーパーの議論は良くないと思っています。
経験的に言って、「コンテンプラチオ」に欠ける人ほど、研究などの精神的労働の積み上げをしないロマン主義者になるからです。


カトリックの思想家であるピーパーの議論を補助線とすれば、
ヴェブレンの思想がいかに教養主義者やカトリック的な信仰にケンカを売っているように見えるかが理解しやすいと思います。
実際にヴェブレンは有閑階級のことを語る時にギリシアの哲学者を引き合いに出しています。


ギリシア哲学者の時代から現代にいたるまで、人間生活の日常的な目的に直接役立つ産業プロセスへの従事を免除されたり、解放されたりしている程度が、思慮深い男性にとって価値が高くてすばらしいもの、つまり、非の打ちどころがない人生の前提条件であると思いこまれてきた。閑暇の生活は、それ自体としてもその結果としても、文明人の目にすばらしく、しかも高貴なものに映るのである。

これはヴェブレンが下品な生産的職業と高尚な思考が両立しえないことを話している部分の引用です。
こういうことを書かれると、高尚な学者様は立派なことを書いているから偉いのではなく、労働を免除されている生活を送っているから偉いのだということになってしまいます。
これを真に受けて感情的にヴェブレンを批判(とも言えない攻撃)をしている人に、アドルノがいます。
『プリズメン』(1955年)に「ヴェブレンの文化攻撃」という文章があって、そこでアドルノはヴェブレンにアンフェアな批判を浴びせているのですが、
これについては乗っかり芸の國分功一郎とともに後で触れることにします。


話を進めすぎましたが、僕がヴェブレンのleisure classの語に感じ取ったのは、アカデミズムという意味なのです。
ヴェブレンの有閑階級を揶揄する態度は、アカデミズムを揶揄する気持ちの現れでもあったのではないか、と感じたのです。
ヴェブレン自身が当時大学教員ではあったのですが、前述したように彼は哲学で大学にポストを得られず、失望して実家の農場に帰った過去があります。
著書の内容を見ても彼が本当に経済学に興味があったかどうかは怪しいものです。
彼がアメリカ経済学会の会長に推薦されたのに、それを辞退したことも忘れるわけにはいきません。
学会という世界が好きだったら辞退しないと思います。


自分が暇であることを他人に示すことが上流階級のアイデンティティとなるというのが、顕示的閑暇のメカニズムです。
僕が非常に興味深いと思ったのは、礼節に関する熟練が閑暇の証拠として発達したというヴェブレンの主張です。
なるほど、たしかに上流階級ほど礼節やマナーにうるさいものです。
ヴェブレンは礼儀作法が身分を表現したものだと言います。
礼儀が自らの身分の高さを示すためにあると言われれば、納得せざるをえないところがあります。


主人の閑暇生活を保証するために、妻となる女性や使用人の個人的サービスが発達した、とヴェブレンが言うのもよくわかります。
妻となる女性や使用人は主人の所有物と言えるので、ヴェブレンはこれを私有財産制が女性の所有から始まったことの根拠としています。
もちろん、主人には主人にしかできない任務があるので、使用人によって実際に暇な生活になるわけではありません。
そのため、使用人は実際に行うサービスよりも、顕示のため、すなわち評判を獲得する手段として重要だった、と述べます。


使用人が家事をするようになると、まず正妻が産業的労働から解放されます。
使用人が増えると、上級の使用人が労働から解放されて暇になります。
すると、財力があればあるほど、使用人が閑暇の状態になります。
これをヴェブレンは代行的閑暇と呼んでいます。


國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』で、ヴェブレンが「何でもかんでも顕示的閑暇で説明しようとしている」とイチャモンをつけています。
「例えば使用人集団の発生を暇の見せびらかしというだけで説明できるだろうか?
単に、使用人集団に、暇の見せびらかしという一機能があったというだけのことではないだろうか?」
とか書いているのですが、僕が読んだかぎりでは、使用人が顕示的閑暇のために発生したという記述は見つかりませんでした。
ヴェブレンの議論では、明らかに使用人は略奪で所有した女性(妻)の延長にあるものです。
私的所有から発生したと言うことはできても、顕示(見せびらかし)目的で発生したとは読み取れないと思うのですが、彼はどこを読んでこんな雑な解釈を書いたのでしょう。
あくまでヴェブレンは、使用人は主人への個人的サービスとして発達し、それが顕示のために役立った、と言っているだけです。


顕示的消費とヴェブレンへの不当な攻撃

顕示的閑暇までの話だと「これのどこが経済学なの?」という疑問が起こると思います。
ここからやっと消費の話が出てきます。


高度に組織化されたすべての産業社会では、立派な評判を得るための基礎は、究極的には金銭的な力量に依存する。金銭的な力量を示し、高名を獲得したり維持したりする手段が、閑暇や財の顕示的消費である。

尊敬されるだけの金銭的能力を持つことの証明に、閑暇の見せびらかしが役立つように、消費を見せびらかすことが役立ちます。
自分の財を消費することで金銭的能力を示して名声を獲得することを、顕示的消費(conspicuous consumption)と言います。
極上の食物や装飾品に対する出費が、その人の金銭的能力を証明するのは誰でも納得するところだと思います。
たしかに、むやみな消費が自分の金銭的能力の証明のために行われている、という言い方をされると、抵抗を感じる人も出てくることでしょう。
ただ、自分の生活を振り返ると、見栄を張るような余計な出費を好んでしていると思う場面は少なくありません。
何のためにそんな消費をするのか、と言われれば、自分が侮られないようにするためだと認めないわけにはいきません。


ヴェブレンはこのような消費のルーツが、女性が生産したものを男性が消費することにあると言うのですが、
こういう発想が男尊女卑そのものであることを不快に感じる人はいると思います。
ただ、これはヴェブレン自身の価値観の投影ではなく、野蛮時代の狩猟生活を基礎に置いた考えから来ているものです。
性差の話をすっ飛ばして、領民の生産物を領主が消費する封建制を起源として思い描いても、
大量消費をすることが社会的に上流階級に位置することの証明になることは、納得できると思います。


ひとつ実例を示しましょう。
ヴェブレンは女性のドレスを顕示的消費の典型とみなしています。
高価なドレスは単に着る女性を美しく飾るためのものではありません。
その女性が属している家の富を顕示し、上流階級の家柄であることを表すものです。
また、着用者が生産的労働に従事していないことをわかりやすく示します。
つまり、顕示的消費だけでなく、顕示的間暇の証拠でもあるのです。
ドレスに大金をかけて浪費することは、金持ちの道楽というより、有閑階級だと認められるために必要な行為なのです。


より優れた財を消費することが富の証拠や名誉となると、食べ物や飲み物に対する「儀式張った区別」が発展し、
消費財の優劣を判定する眼識が重要になってくる、とヴェブレンは述べます。
この考察も面白いと思ったのですが、安物と高級品──たとえばスーパーの安い肉と松坂牛──の区別ができることが名誉である、というのは、
正月の「芸能人格付けチェック」という恒例番組で、一流芸能人Gacktの超真剣な姿を見たことがある人ならよくわかるのではないでしょうか。


ヴェブレンが原理だけを語っていれば、もっと反発は少なかったように思います。
古代社会を考察した理論を、唐突に近代社会に当てはめて語られると、読者がついていけなくなるのは当然です。
たとえば顕示的消費は人的移動が頻繁にある場所で起こる、として、
田舎より都会でよく行われる、とか、日雇いの印刷工は貯蓄をあまりせずに散財して同僚に奢る、とかヴェブレンは言います。
論理の手続きはちゃんとしているのですが、日雇い印刷工が有閑階級の風習を実行している、と言われても、普通の読者なら受け入れ難く思うところです。
國分が「何でもかんでも顕示的閑暇で説明しようとしている」という印象を抱いたのは、
こういう細かな立証を積み上げるヴェブレンの態度を、原理をむやみに拡大していろいろな現象に当てはめている、と感じたからでしょう。
ただ、ヴェブレンは近代社会に自らの理論が通用する確信を持っていたはずなので、
その立証のために顕示的消費の痕跡と思われる近代的事象を取り上げていくのは仕方がないことです。
ヴェブレンのやり方を批判するのではなく、各論に対して妥当性を判定するべきだと思います。


ヴェブレンは顕示的閑暇がしだいに衰退し、顕示的消費がそれに代わるようになったとするのですが、
それは普段からあまり付き合いのない人を相手にする場合、消費の方が見せびらかして名声を得るのにより有効であったからだとしています。
それで人の往来が盛んな場所ほど顕示的消費が発達することになるのです。
(日雇い印刷工は職場移動が多く、新顔との付き合いが多いので、顕示的消費に散財する機会が多くなるのです)


非常にわかりにくい部分がモノ作り本能と顕示的消費の関係です。
モノ作り本能とは、目的を達成することを好み、無駄な浪費を嫌う性質のことでした。
本能として浪費を嫌うのに、消費や浪費をひけらかすのは矛盾しているではないか、という批判を書いているのが國分功一郎です。


製作者本能は暇の見せびらかしを生み出す。しかし、製作者本能は暇の見せびらかしを蔑ませるとも言われていたではないか?
暇の見せびらかしを生み出すものが、暇の見せびらかしを蔑ませるというのは何も説明していないに等しい。要するにヴェブレンの説明はここで破綻している。(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』朝日出版社)

こうして國分は製作者本能をヴェブレンの願望の投影だと、(アドルノを参考にして)結論づけるのですが、
これも本当に先入観なしに本書を真剣に読んだのか疑わしくなる記述です。


まず、ヴェブレンは顕示的閑暇がモノ作り本能(=製作者本能)から生まれたとは書いていません。
僕が説明してきた通り、人と人を比較する社会ではモノ作り本能が互いに張り合い、他人に妬みを起こさせることにつながる、とヴェブレンは説明しています。
互いに張り合う中で人から尊敬を集めることが重要になります。
私的所有が重要な社会になってくると、そこで自分の所有力の根拠として顕示的閑暇が起こったのです。
モノ作り本能から顕示的閑暇が起こるまでにはこのようなプロセスがあります。
この発展プロセスの中で、モノ作り本能に逆行する結果になったのです。
ヴェブレンの議論を丁寧にたどっていけば、これが論理の破綻でも何でもないことがわかるはずです。


そもそも、顕示的閑暇の先にある顕示的浪費においてはモノ作り本能が「異質な要素」として働いている、とヴェブレン自身が書いています。
(それも國分が注釈をつけた文章のすぐ近くにあります)
浪費を条件とする顕示的消費は、浪費を嫌うモノ作り本能に反するため、表向き有用に見えるかたちで行われます。
つまり相反する要素が両立して現れるのが顕示的消費なのです。
「一つの物財は有用性と浪費性を同時に共有しうる」とヴェブレンも書いています。


さらに言えば、『ヴェブレン 経済的文明論』(1914年)は原題を「The Instinct of Workmanship and the State of the Industrial Arts」と言うのですが、
原題を見てもわかるとおり、この本ではworkmanshipが主題として取り上げられています。
そこではモノ作り本能が唯一の本能的性向とされているわけではなく、競争心や私有財産などの諸制度に「汚染」されるものであることが示されています。
モノ作り本能が顕示的消費によって歪められることも、ハッキリと書いてあります。
モノ作り本能と顕示的閑暇が矛盾するので論理の破綻だ、とか「重大な欠陥」だなどという國分の批判は、
まさに自分の正しくもない勉強を見せびらかす衒学的浪費とでも言うべきものでしかありません。


アドルノの感情的でアンフェアなヴェブレン攻撃

このような赤っ恥な批判を國分が書けてしまったのには、アドルノのヴェブレン批判が影響しています。


アドルノは、ヴェブレンは有閑階級を妬んでいるのだと鋭く指摘している。なぜヴェブレンは彼らを妬んでいたのだろうか? 働かずに生きていける階級が存在していることが許せなかったからだろう。だからこそヴェブレンは、額に汗して働くことだけが幸福をもたらすはずだと考えた。というか、そう自分に言い聞かせた。(『暇と退屈の倫理学』)

國分はこんなことを書いているのですが、アドルノのヴェブレン批判は『プリズメン』に所収されています。
「ヴェブレンの文化攻撃」という文章なのですが、あまりに感情的で、アドルノのヴェブレン攻撃でしかない印象でした。
夢見る國分くんはアドルノ先生が言うことには間違いがないと思い込んで、こういうことを安直に書いたのがよくわかるのですが、
アドルノのヴェブレン批判は、読んでみると相当に内容がひどいです。


僕の実体験を踏まえて言うのですが、著書への批判や反論をするときには、相手の論理のどこがおかしいかを指摘して、批判するべきです。
書いてある部分を引用して批判するのが、学者として正しい態度だと僕は思っています。
しかし、僕がAmazonレビューを書いていた頃、僕が批判した相手は、僕の論理のどこがおかしいと反論するのではなく、
こいつはポモ嫌いだ、とか、頭がおかしい、とか、論理そっちのけで僕の人間がどうだこうだと批判してきたものです。
アドルノのヴェブレンに対する批判もほとんどこのレベルです。
ヴェブレンの理論のどこが問題かという話をするのではなく、ヴェブレンはピューリタンだ、とか背景にプラグマティズムがある、とかダーウィンの生存競争の聖化だ、とか、
言ってしまえばアドルノの個人的嫌悪感の表出で終わっているのです。
(ピューリタンだからダメもおかしいですし、生存競争なんて経済の視点にあって当たり前です)
要するに、アドルノはヴェブレンの理論の原理面に関してはほとんど反論できていないのです。


さらに問題なのは、國分の批判は顕示的消費についてはほとんど触れていません。
なぜなら、アドルノはこれについては渋々ながら認めているからです。
金銭能力の見せびらかしのために、金持ち階級が無用なものを消費したがる、ということはちっとも否定しないのです。
おそらくアドルノはヴェブレンの他の著書を読んでいないのでしょうが、『企業の理論』などはどこから見ても経済学の本です。
ヴェブレンの経済的な視点を無視して、「文化にケチをつけた」みたいな感情的な反応をするのはくだらないと思います。


彼の批判は労働の神聖さの前では停止する。彼の批判には何となく、文化はおのれ自身の労働を十分尊重していない、それどころか労働しなくても済むこと、余暇があることを図々しくも誇りにしている、とのたまう家長の教えのようなところがある。その良心のやましさを体して、彼は社会を社会自身の功利性原理と対決させる。彼は社会に向かって、この原理に従えば文化は浪費であり、文化の目くらましはそのシステムの合理性を疑わせるほどの不合理である、と並べ立てる。(アドルノ『プリズメン』ちくま学芸文庫:渡辺祐邦・三原弟平訳)

このあたりのアドルノの批判を読んでいると、アドルノはworkmanshipとlabourをごっちゃにしているのではないか、と疑います。
instinct of workmanshipを「モノ作り本能」と高哲男は訳しているのですが、「勤労本能」とか「労働本能」(『プリズメン』はこの訳)と訳すとlabourのイメージでも理解できてしまいます。
アドルノが英語で読んでいなかったはずはないので、おそらくヴェブレンの産業労働を免除されているのが有閑階級だという定義から、
有閑階級と産業労働(prductive labour)という対立図式を読み取り、leisureを攻撃するのはlabourを価値としているからだ、と考えたのかもしれません。
どうにもモノ作り本能を単なる勤労精神と読み替えすぎている感じがします。
workmanshipという語には制作物の出来栄え、デキにこだわる心理が含まれるので、
物作り本能(instinct of workmanship)は、広い意味で人間が制作物の有用性を追求する姿勢と受け取っていいと思います。
その意味でヴェブレンは目的にかなうことを求め、無駄を嫌う、と言ったわけです。
モノ作り本能とは人間には働きたい本能があって、働かない者に妬みを持つ、ということではありません。
アドルノのような誤解をすると、働くことが大切(ピューリタン!)なのに働かない者が余暇をひけらかすのは許せない、ということになり、描かれているヴェブレン像が凡庸すぎるのです。
これではヴェブレンが有閑階級を妬んでいる、という結論になってしまいます。


あまりに稚拙な議論でアドルノの知性に正直幻滅したのですが、
まずアドルノが言うように、ヴェブレンが労働の尊重を求めている、とは僕には少しも読み取れませんでした。
ヴェブレンが労働を至上の価値としている、という読解は彼の批判を裏返しただけで積極的な根拠はありません。
働かない階級を批判しているのだから、労働を価値としているのだろう、という短絡的な推測です。
ヴェブレンは哲学で大学ポストを得られず、経済学に転身するまでミネソタの農園に帰っていた、と前に書きましたが、
そこで彼は肉体労働を避けて植物学などの本を読みまくっていた、と言われています。
これが労働を神聖だと考える人の時間の過ごし方でしょうか。


アドルノはヴェブレンの理論にマルクスと共通する面があることを認めながら、
それが心理的であり「マルクスの客観的な価値説とは相容れない」と述べていますが、それもどうでしょうか。
「物作り本能(workmanship)」は制作物の出来栄えを追求する本能なので、心理的なアプローチで書かれていますが、
その客観的成果が制作物の「使用価値」に結びつくことはすぐ理解できます。
それに対し、有閑階級の「見せびらかし」は他人に「妬みを起こさせる」わけですから、他者の欲望によって成立するものです。
これも客観的な成果に変換すると、「交換価値」を表すことになるのは自明です。
つまり、記述の仕方を変えてしまえば、ヴェブレンの説は、
有閑階級は自らが上流である根拠を示すために、「使用価値」のない「交換価値」ばかりが高いものを消費する、それが顕示的消費だ、と表現できるのです。
(これに現代アートの売買が当てはまることは偶然ではありません)
「彼の思考は、実証主義と史的唯物論とのアマルガムである」とアドルノは言いますが、それのどこが悪いのか、としか僕は思いません。
そのあとの文でアドルノは「重要なのは、これらのモチーフを理論の中で無理やりまとめている力である」とか主観的な悪口を入れて貶めているのですが、
ヴィガースハウスの『アドルノ入門』(平凡社ライブラリー:1998年)では、アドルノ自身の思想がこのように評価されています。


否定弁証法は、(カント『純粋理性批判』の図式論および『実践理性批判』の範疇論の構想のように)一つにしえないものを相互に媒介しようとして、無理やり一つにまとめた結果生まれた、単なるゴタ混ゼ(mixtum compositum)にすぎないのではないか。(ヴィガースハウス『アドルノ入門』平凡社ライブラリー:原千史・鹿島徹訳)

アドルノの否定弁証法も「無理やり」「まとめた」と全く同様な評価を受けていたのは、苦笑せざるをえませんでした。
否定弁証法への評価は脇に置くとして、新古典派経済学を批判したヴェブレンは、アメリカ経済思想の世界では「制度学派」の始祖として位置付けられています。


たしかにヴェブレンは有閑階級とその文化への敵意を持っていたと思いますが、
彼の語る有閑階級の文化を一般的な「文化」として全体化してしまうアドルノの態度も問題だと思います。
ヴェブレンはあくまで有閑階級の文化のみを批判的に描写したのです。
アドルノにとっては有閑階級(もしくはカトリック)の文化こそが「文化」なのかもしれませんが、
ヴェブレンがすべての文化が浪費であると言ったかのように批判するのは正確ではありません。
ここで批判されるべきは、むしろアドルノの偏狭な文化観ではないでしょうか。


「ヴェブレンの著作全体は「鬱憤」(spleen)というモチーフで貫かれている」とアドルノは言うのですが、
むしろ僕はアドルノの文章の方に感情的なものを強く感じてしまいました。
ヴェブレンが神の住居が詩的映像で描かれるとき、豪華な玉座や多くの召使いが登場し、産業的な生産とは無縁であることを指摘した文章を取り上げたアドルノは、
それこそ鬱憤晴らしのような口調で次のようにヴェブレンをこき下ろします。


ここで天使たちの作業の非生産性が非難されるやり方には、世俗化された呪咀といった趣きがあるが、的外れなウイットのようなところもある。海千山千の恥知らずな男というものは、社会の失策だの夢だのノイローゼだのといったものには全然たぶらかされない。彼のユーモアは、ヒステリーの女房からしかめっ面を追い出すために家事をするように勧める亭主のユーモアに似ている。(中略)こういう機知は[産業の生産至上主義に追従する]体制順応主義に訴えている。浄福の映像をあざ笑うことは、たとえその映像そのものがまた権力と栄光によって歪められていたにせよ、この映像よりも権力の近くに立っている。(『プリズメン』)

アドルノは「非難」とか「呪咀」とか「怒り」とか「憎悪」とか、すぐヴェブレンの悪感情に還元しようとするのですが、
肝心のヴェブレンが書いたことそのものは「映像そのものがまた権力と栄光によって歪められていた」と否定できていないのです。
理論を否定できないからといって、書いた人の感情面を捏造して攻撃する人が、
ヴェブレンが心理的であって客観的でないからダメだとよく書いたものだと思います。
あげく「生産至上主義」も「体制順応主義」も単なる決めつけで的外れです。
たしかにヴェブレンの文章は攻撃的だとは思いますが、
「鬱憤」などという卑屈な感情を多くの人が時代を超えて共有したことで、『有閑階級の理論』が古典的名著としての評価を獲得したとでもいうのでしょうか。


僕はアドルノのこの文章が異常なほどに感情的なことに呆れましたが、
こういう非論理的な過剰反応は、どこかコンプレックスを刺激された人によく見られる態度です。
こういう人はたいてい相手にぶつけた批判が自分自身の欠陥の投影だったりします。
ここからは僕の「邪推」にあたるのですが、
たとえばアドルノの母親はカトリックで、父親はユダヤ人ですがプロテスタントです。
アドルノ自身はカトリックの幼児洗礼を受けていて、声楽家の母とピアニストの叔母から大好きな音楽教育を受けていました。
彼の芸術への意識にはカトリック的なものが深く影響しているはずです。
アドルノはユダヤ人家庭で育ちながら、ほとんどユダヤ的ではないカトリック教養文化に属していたのです。
この出自が初期ナチスと歩調を合わせるような文章をアドルノが書いたことと関係しているという見方もあります。
こういう人にとって、カトリック教養文化への批判とも取れるヴェブレンの批判は、自分の出自と信仰への批判と重なります。
痛いところに触れられたアドルノは感情的になって、
プロテスタントの家系でもない無心論者のヴェブレンを、「スカンディナビアのルッター主義者の狂信」などと偽の信仰者に仕立ててリベンジしようとしたのではないでしょうか。


また、アドルノはユダヤの血を受け継いでいるのですが、彼がナチス台頭時にアメリカに亡命できたのは、大学教員という有閑階級だからです。
産業労働階級のユダヤ人の多くは強制収容所に送られたはずなので、
ヴェブレンの有閑階級への攻撃が、「俺たちを見捨てやがって」という下層階級の同胞(ベンヤミンを含む)からの呪詛としてアドルノには恐ろしく響いたのではないか、と想像します。
アドルノはアーレントから嫌悪感を持たれていたそうです。
三島憲一は『ベンヤミン』(岩波現代文庫:2019年)で「自己保存の理論家アドルノ」と書いていますが、納得しました。


まあ、動機はともあれ、アドルノの批判はヴェブレンの理論を何ら傷つけるものになっていません。
こういう問題を深く考えずに、無邪気にアドルノを支持する國分には自分で考える頭を持ってほしいと思います。
なんか國分功一郎に毎回ダメ出しをしている感じになっていますが、
彼の端正な顔が僕に「妬みを起こさせる」からではないことを、一応言っておきます。


ヴェブレンの晩年の生活を思い出してください。
彼はアメリカ経済学会の会長にならず、カリフォルニア郊外の小屋で自分で作った家具(workmanship!)とともに質素に暮らしています。
「墓も建てず、伝記の類も一切出版してはならない」という遺言を残したと高哲男は書いています。
このようなことから想像するに、かなりの変人です。
墓や伝記の出版を禁じたのは、自分の人生を見せびらかしたくないからだと考えるとよくわかります。
宇沢弘文は著書『ヴェブレン』(2015年)で、ヴェブレンのコーネル大学時代の論文「社会主義論における若干の問題」の内容をこう紹介しています。


ヴェブレンはこの論文のなかで、私有財産制と自由競争を前提とした資本主義制度は必然的に産業効率の飛躍的増大と富の蓄積をもたらすが、顕示的(conspicuous)な消費行動が支配的となることを指摘する。(宇沢弘文『ヴェブレン』岩波書店)

ヴェブレンの『有閑階級の理論』しか読まずに批判している人たちは、ヴェブレンの意図がどこにあるのかさえわかっていません。
「機械過程」の発展から営利企業の衰退を考察した『企業の理論』を読めば、
私有財産制度に対する批判的視点が貫かれていることが理解できるはずです。


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