- 2020/03/05
- Category : 南井三鷹の戦後思想【再考】
丸山眞男に学ぶ日本の精神病理
忘れられた戦後思想のツケが大学改革に影響している?
今回は丸山眞男の「軍国支配者の精神形態」(1949年)と「超国家主義の論理と心理」(1946年)について書こうと思っているのですが、
キッカケは思想とは直接関係のない本を読んだことでした。
(どちらの論考も『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー)に所収)
丸山などの戦後思想は僕が物心ついたときにはほとんど読まれていなかったと思います。
プルデューに言及したりして左翼を自認する大学教授が、ろくに丸山を読んでいなかったことに驚いたこともあります。
ポストモダニズムは欧米では自己批判の思想ですが、日本では自己批判的な意味を持つ戦後思想を過去へと追いやり、
バブル景気を背景に日本を肯定する役割を果たしました。
しかし、戦後思想は役割を終えたわけではなく、現在も解決されない問題として残り続けています。
それが最近出版されたある本に示されていました。
大学受験制度が来年から共通テストという新方式に変更されるにあたり、
英語の民間試験導入や国語の記述式回答などで文部科学省への批判が相次いだのは、記憶に新しいところです。
そんなこともあって、佐藤郁哉の『大学改革の迷走』(ちくま新書:2019年)を読んでみたのですが、
意外にもその中で丸山眞男の「無責任の体系」が出てきたのです。
せっかくなので少々回り道をして、佐藤の本についても少々触れておきます。
佐藤は文科省などが主導する大学改革が、なぜ迷走しているのかを考察しています。
最初に、大学の履修登録の資料となる「シラバス」が、手本であったはずのアメリカのsyllabusと全然違うということを取り上げます。
電話帳のようなシラバスや、桐の箱に入れられたシラバスなど、アメリカ人が見たら目を見張ることでしょう。
そのような事態になってしまったのは、文科相やその諮問機関である中央教育審議会からの「御意向」を、
大学側が「忖度」した結果だと、佐藤は指摘します。
こうしてみると、日本の大学は、文科省が改革度を測るモノサシとして設定してきた各種の基準などを元にしてシラバスの理想形について「忖度」しながら、教員たちのシラバス作成やその監視・修正の作業を進めてきた、ということが言えそうです。(佐藤郁哉『大学改革の迷走』)
次に佐藤は、もともと工場の品質管理に用いられていたPDCAサイクルという言葉が、
大学改革関連の文章の中で使われるようになったことについて検証します。
工場で作られる製品に適用される方法が、どうして教育機関に持ち込まれたのか不思議になりますが、
どうやら文科省がビジネスの世界を参考にして大学改革を進めようとしたことに原因があったようなのです。
ここで佐藤は、早稲田大学ビジネススクール教授の山田英夫の「フレームワーク病」という言葉を紹介しています。
山田氏は、日本というのは、新奇なビジネス用語やフレームワークが次から次へと海外(主に米国)から輸入されて流行してきた「不思議な国」であるとします。また、日本のビジネスパーソン(特に若い人々)には、その流行に乗らないと取り残された気分になってしまったり、単に用語を使うことで分かったような気になってしまったりする傾向があるとし、それを「フレームワーク病」と呼んでいます。(『大学改革の迷走』)
この「フレームワーク病」に思い当たらない日本人は少ないと思います。
海外から形式だけを輸入してその内実に関心を払わないために、実質的な効果がなくなってしまうのが「フレームワーク病」です。
こうして内実のない形式だけが大流行します。
海外の影響を形式上にとどめて、自己都合の「翻案」をするのが日本人の特徴でもあります。
日本における大学改革の不幸は、政府あるいは内閣府や文科省などの府省が、外来のモデル(と一見そのように見えるもの)を付け焼き刃的に借用した上で大学現場に対して押しつけてきた、というところにあります。(『大学改革の迷走』)
海外のモデルを一次的権威として、国内の政府や府省が二次的権威となって、より下方へと権力的な振る舞いをする、
これを僕は広い意味での天皇制メカニズムだと考えているのですが、この権威主義的メカニズムについてはあとで取り上げます。
佐藤は、文科省や中教審などが、PDCAをきちんと理解せずに大学に押しつけたことと、
大学側が民間経営手法の「劣化コピー」に従うか従うフリをしたことを批判します。
ここには僕が〈内実に対するニヒリズム〉と名付けた日本人の表層執着志向が見られます。
トップダウンとボトムアップ
こうした内実のない「劣化コピー」にみんなが従っていくバカバカしい事態に対し、
佐藤は次のような提言をします。
これまで見てきたように、大学改革政策の多くが明らかな失敗に終わってきた根本的な原因の一つには、大学現場の実情を度外視した借り物の発想がトップダウン式に押しつけられてきたことにあると思われます。もし実際にそうであるならば、その種のミスマネジメント・サイクルの悪循環を断ち切るためには、現場発のボトムアップの発想とそれにもとづく自主的な改革努力が不可欠になってきます。(『大学改革の迷走』)
しかし、このボトムアップというものが日本では相当に困難なのです。
実際には下からの抵抗というのは、上の命令を「形だけ守っている」という、これまた〈内実に対するニヒリズム〉によって行われることになっていきます。
実際に、佐藤もこのあとに現場である大学がトップダウンの「御達し」をどのように脱臼して形骸化してきたかを書いています。
こうして日本は上でも下でも〈内実に対するニヒリズム〉が支配原理として働くようになるのです。
トップダウンとボトムアップの話で思い出すのは、以前に取り上げたマイケル・ハートと斎藤幸平の対話です。
斎藤は日本ではボトムアップの市民運動が力を持たず、カリスマ政治家によるトップダウンばかりが求められる、と話していました。
これは海外の権威を一次的権威とする〈内実に対するニヒリズム〉で成立した日本の特徴と考えてよいでしょう。
ボトムアップには佐藤が言うように「自主的な改革」が必要なのですが、その自主性が問題なのです。
自主性は当然ながら主体性に依拠するものです。
自主的なボトムアップが起こらず、権威によるトップダウンがすんなりと成立する社会において、主体性というものが価値とされないことは言うまでもありません。
左翼的であったはずの〈フランス現代思想〉が、日本では東大アカデミズムのトップダウンに主導され、
内実なき「主体」批判をくりかえし、単なる市場を一次的原理とする二次化した権威主義と化したのがわかりやすい例だと思います。
(そのため、どうしようもない人物が二次創作レベルで書いた本でも、それが市場で売れれば権威として機能するのです)
佐藤はこのあと、大学院拡充政策の破綻について筆を進めます。
大学教員のポストが減少しているのに、大学院生ばかりを増やした「失政」のことです。
結果として、若手研究者が将来の展望もなく苦しい生活に追い込まれることになったのですが、
この大学院の急激な量的拡大は、1991年に大学審議会から出された「大学院の量的整備について」と言う答申に、大学院生を現在の二倍にする、と明記されていることが原因だと佐藤は言います。
量的拡大すればポスト争奪の競争率が高まるので、より優秀な研究者が選抜されそうなものですが、
実際に研究者のレベルが上がるかというと、急激な拡張は逆にレベルの低下を招きます。
わかりやすい例を挙げれば、秋元康方式のAKBや坂道系などのアイドルは量的にそれこそ何十倍にも拡大しました。
しかし、個々のアイドルの質というものは昔に比べてどうなったでしょう?
人数が多くなるぶん、1人1人を十分に育成する余裕がなくなります。
どうしたって教育に行き届かない面が出るため、レベルが低下することになるのです。
これについては佐藤も触れています。
つまり、大学院という「容れ物」だけは一九八〇年代までとはくらべ物にならない程に大きくなっていったのですが、その中身を充実(「実質化」)させていくための努力が十分になされてきたとは、とうてい言えないのです。(『大学改革の迷走』)
ここでは中身が不在のまま「改革」が自己目的化したことが問題にされています。
まさに〈内実に対するニヒリズム〉なのですが、
佐藤はこのような「失政」ともいえる大学改革の責任の所在が曖昧であることが、改革の迷走を深めている原因だと指摘します。
日本の官僚機構の体質にまで考察を深めていることに興味がひかれました。
大学改革に関わる行政の場合に限らず、このような責任の所在をめぐる曖昧さは日本の政治行政の根底にある「集団無責任体制」に根ざしており、失政の原因と経緯の解明を阻んできました。それは、第二次世界大戦以前から今日にいたるまで引き継がれてきた、この国の行政機構と指導者層に特徴的な、「宿痾」とも言うべき社会病理的体質の一面でもあります。(『大学改革の迷走』)
ここで佐藤は日本の行政機構と指導者層が「集団無責任体制」にあることを指摘し、
第二次世界大戦期の日本のファシズム体制について考察した、丸山眞男の「無責任の体系」へと話題を移します。
大学改革と戦時ファシズムを結びつけるなんて飛躍のしすぎではないか、と感じる人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。
丸山が戦時ファシズムについて考察し、「無責任の体系」と呼びならわした事態は、
平時の戦後日本においても本質的な問題として引き継がれています。
つまり、丸山の指摘は戦時ファシズムだけに適用されるものではありません。
今も日本が抱え続けているものなのです。
(だからこそ『日本の思想』や「歴史意識の「古層」」にも同じ問題意識が見られるのです)
これを戦時ファシズムの問題として指摘したからこそ、日本人には受け入れやすかったのですが、
そのせいで80年代くらいにはあまり語られなくなってしまいました。
僕は今こそ丸山眞男は読み直されるべきだと思っています。
この「無責任の体系」が権力を下へ下へと委譲するトップダウンのモデルとも強く関係しているのです。
日本の戦時ファシズムとナチスドイツとの違い
ここからは丸山眞男の「軍国支配者の精神形態」を読み直していきます。
この論考は東京裁判の記録を参照しながら、ナチスドイツの指導者の確信犯的な悪に対して、
矮小とも言うべき日本の支配層の精神のあり方と行動様式を示したものです。
戦時日本の体制はドイツと並ぶ「全体主義」と言われますが、
英米を相手に大戦争をするにしてはあまりに組織性が弱く、指導勢力相互が分裂し、政情も不安定でした。
丸山は日本帝国主義の結末が、「非合理的決断の厖大な堆積」であったことに驚きを隠しません。
「戦争を避けようとしたにも拘らず戦争の道を敢て選んだ」と丸山に表現された歴史の道筋は、
日本の政治権力の非計画性と非組織性によって導かれたのです。
まず丸山はナチスの指導者と日本の指導層を比較します。
ナチ最高幹部の多くはそれほどの学歴がなく、権力を掌握するまでろくな地位もなかった上に、社会的異常者をも含む「無法者」ですが、
日本の指導者層は、最高学府や陸軍大学校を出た「秀才」であり、その後も順調に出世したエリートでした。
丸山は彼らエリートがファシズム的な精神を持っていたならば、それは無法者に「感染し易い素地」を持っていたからだと述べます。
「感染し易い素地」について丸山は同盟国ナチスへの感染と読めるように書いているのですが、
僕は国外国内問わず無法者というものへの感染という面があったのではないかと疑います。
というのも、ポピュリズムが関係しているのではないかと思うからです。
かつて僕がAmazonレビューでフランス現代思想界隈を批判したときに、某大学の准教授2人ほどから、名指しで口汚い文句をツイートされたことがあります。
仕方なくこの人たちのツイッターを見てみたら、「秀才」のはずの彼らが自分をヤンキーになぞらえていたのです。
大学以外の社会に出たこともない温室育ちの彼らが、どうして自分のことをヤンキー体質と思えるのかが不思議でした。
今考えると、高潔な精神性に欠ける肩書きだけのエリートは、自分の大衆的な素地にコンプレックスがあるのだと思います。
そうなると自己肯定のためには自らの大衆性を肯定する必要が生まれます。
このような精神の弱さを抱えるエリートが、自己肯定を目的として大衆やポピュリズムに「感染」するのではないでしょうか。
実は日本の指導者たちの精神の弱さについては丸山も指摘しています。
勝利のためには手段を選ばなかったことを、ナチスの指導者は自己の決断として公然と語るのですが、
日本では自己の決断であることを隠蔽したり、それが道徳的行為であるかのように偽装します。
つまり、ナチスの指導者は美しいスローガンと現実の蛮行との区別──つまり、虚構と現実のけじめを自覚していたのですが、
「我が軍国支配者たちは、自分でまきちらしたスローガンにいつしか引き込まれて、現実認識を曇らせて」いたのです。
国民を欺くための真っ赤な嘘を、広めている自分自身も本気で信じるようになっていたのです。
これは大澤真幸がオウム真理教の考察に用いた「アイロニカルな没入」という状態に似ていると言えるでしょう。
支配権力はこうした道徳化によって国民を欺瞞し世界を欺瞞したのみでなく、なにより自己自身を欺瞞したのであった。(丸山眞男「軍国支配者の精神形態」)
こうして丸山は自己の行動を自覚しつつ遂行する主体的なナチス指導者と、
自己の現実の行動が主観的意図を裏切っていく日本の軍国指導者を対比し、
前者を罪の意識に打ち克とうとする「強い精神」、後者を自己の行動を倫理によって正当化した「弱い精神」としています。
(もちろんナチスを褒めているわけではありません)
日本の指導者は、自分は倫理的なことをしているのだ、と自らに言い聞かせないと悪を実行できなかったのです。
だから同じくヒステリックな症状を呈し、絶望的な行動に出る場合でも日本の場合にはいわば神経衰弱が高じたようなもので、劣等感がつねに基調をなしている。(「軍国支配者の精神形態」)
この文に続いて丸山は、グルー元駐日大使の著書から「著しい劣等感から生れ同様に著しい優等感の衣をまとう日本人の超敏感性〜」で始まる文章を引用しています。
根底に劣等感を抱えた人が優越感によってそれを押し隠そうと努めるのが、日本型ファシズム上層部の特徴なのです。
このような人たちが批判勢力を抑圧したり弾圧したりするのに、権威を笠に着るのは当然と言えるでしょう。
日本ファシズムの矮小性──既成事実への屈服
日本支配層の矮小性が最も露骨に現れているのが、自分の戦争責任を否定する態度だと丸山は言います。
ドイツのゲーリングは数々の決定を自分の責任で行ったと確言したのに対し、
東京裁判の被告は曖昧な答弁を繰り返し、「主体的な責任意識はいよいよボカされて」いきました。
(これについては最近の安倍首相の「桜を見る会」疑惑についての国会答弁を思い浮かべれば想像しやすいのではないかと思います)
このような「主体的責任意識」の希薄さを、自己保身として個人的道徳に帰すのではなく、
体制そのもののデカダンスの象徴として丸山は捉えます。
そのような精神のあり方が2点にまとめられています。
被告の千差万別の自己弁護をえり分けて行くとそこに二つの大きな論理的鉱脈に行きつくのである。それは何かといえば、一つは、既成事実への屈服であり他の一つは権限への逃避である。(「軍国支配者の精神形態」)
「既成事実への屈服」というのは、すでに形成された現実は動かすことができないとして是認する態度です。
丸山が注目したのは、東京裁判の被告となった支配者たちの多くが、既に決まったことには従わざるをえなかった、という答弁をしたことです。
独伊との三国同盟を自ら推し進めた駐独大使の大島浩などは、
「それが国策としてきまりましたし大衆も支持しておりますから私ももちろんそれを支持しておりました」と、
みんなが決めたことだから支持した、という内容の答弁をしています。
これを丸山は「自ら現実を作り出すのに寄与しながら、現実が作り出されると、今度は逆に周囲や大衆の世論によりかかろうとする態度」として問題視しています。
丸山のこの論考から6年後、釈放された大島は自らの責任を自覚し、公的な場に出ることを控えていたようです。
つまり、個人としてはまともな倫理意識を持っていても、組織や集団で地位を得ると、組織の都合を優先するようになるということです。
だから、自らの責任で決定したものだという主体性を持てないのです。
「重大国策に関して自己の信ずるオピニオンに忠実であることではなくして、
むしろそれを「私情」として殺して周囲に従う方を選び又それをモラルとするような「精神」こそが問題なのである」
と丸山が述べているのも同じことだと思います。
実行した権力者当人が「自分個人としては反対であった」と口述することが重なると、
「一連の歴史的過程は人間の能力を超えた天災地変のような感を与える」ようになります。
自分は反対だったのに、どうしようもない力がそれを進めていった、ということになるからです。
これが日本的な支配者の責任免除のメカニズムなのです。
集団的に決定されたものは、個人の力ではどうにもできないパワーであり、その後はそれに従うことが唯一の選択肢である、という価値観です。
(戦後最長の任期を誇る安倍内閣を支持する最大の理由が「他に適任者がいない」であることを考えずにはいられません。
一度首相の座を自ら放り出した安倍晋三の過去を思い起こせば、これが既成事実の絶対化でしか説明できないことは明らかです)
ここで「現実」というものは常に作り出されつつあるもの或は作り出され行くものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起こって来たものと考えられていることである。(「軍国支配者の精神形態」)
集団的に決定されたことは、日本では台風や地震の襲来のように、ただ屈服するものとして受け止められているのです。
これが強力な権威主義の原理として働くようになります。
重要なことは、日本における「外部」とは強力な権力の源泉であるということです。
外圧が日本における最大の改革原理であるのもそのためです。
「主体性を喪失して盲目的な外力にひきまわされる日本軍国主義の「精神」」と丸山が指摘するものは、
当然ながら軍国主義に限らず日本人全体の「精神」として今も生き続けています。
僕が考えてほしいと思っているのは、「外部」を価値として「主体」を批判する〈俗流フランス現代思想〉が、
大衆の保守化と結びつく結果となったことがいかに必然であるかが、丸山の論考を読めばよくわかるということです。
(僕は柄谷行人もこのような認識には乏しかったと思っています。
中動態とか言って主体性批判をしておきながら原発政策を批判できると思っている國分功一郎など何もわかっていません)
国家から自由な内面を持たない国
ここから話が少し複雑になります。
日本の最高権力の掌握者が、下位にあるはずの軍部や右翼浪人やゴロツキなどの「無法者」に引きずられていったことに、丸山は「既成事実への屈服」を見ています。
今でも日本の大臣は下級官僚の原稿を読み上げるだけのロボットでしかないわけですが、
このような状態で、仮に下級官僚の暴走があったとしたら、はたして大臣がそれを抑えることができるでしょうか。
ただ追認する結果になることは目に見えています。
関東軍の戦線拡大に見られるように、「無法者」が勝手に行った陰謀をヒエラルキー上級者が既成事実として追認することで、それが最高国策にまで上昇した、と丸山は述べています。
(丸山の「無法者」という言葉遣いには感情的な面が見受けられるのですが、
単に社会的地位を示すのではなく、理性的でない行動を良しとする者と僕は解釈しています)
このような下位の「無法者」の暴走は、支配者同士の横の関係において自己主張を通すための手段として利用された、と丸山は述べます。
何かの処置を採用するときに、「それでは下の者がおさまらないから」という脅しにも近い口実を用いるのです。
このような暴発要因は、軍部のヒエラルキーを逆にたどるようなかたちで下方へ下方へと転嫁されていきます。
「軍務局長がおさまらないから──軍務課員がおさまらないから──出先軍部がおさまらないから」ときて、
「最後は国民がおさまらないから」となり、果ては「英霊」がおさまらないという飛躍を見せるのです。
(三島由紀夫の「英霊の声」がこの図式から逃れられているでしょうか)
これを丸山は日本ファシズム体制の「下克上」の現象としています。
戦国時代の現象を指す下克上という言葉は本来、下位の者が上位の地位を奪うことを言うはずなので、
「下克上」という表現は適切とは言えないのですが、この文章は即興の講演が元だったようなので、この言葉にはさほどこだわらないようにしたいと思います。
丸山は社会的地位のヒエラルキーにしか触れていないのですが、ヒエラルキーのピラミッド的特性からすると、
より下位の者の方が数量において勝っているのは確実です。
つまり、より下位の方が多数派であるわけです。
下克上とは畢竟匿名の無責任な力の非合理的爆発であり、それは下からの力が公然と組織化されない社会においてのみ起る。それはいわば倒錯的なデモクラシーである。(「軍国支配者の精神構造」)
丸山が「倒錯的」と言うのは、真に民主的な権力は制度的に下から選出されたプライドを持って、指導性を強力に発揮するのであって、
下位の多数派の暴力性を背景に要求を押し通すことではないからです。
では、なぜ日本のエリートは下部の「わがまま」を毅然と撥ねつけないのでしょうか。
これに対し、丸山は自身の「抑圧委譲の原理」を持ち出して説明します。
「日常生活における上位者からの抑圧を下位者に順次委譲して行くことによって全体の精神的なバランスが保持されているような体系を意味する」
こう丸山は説明するのですが、このような一文で到底理解できる内容だとは思えません。
ここでは「抑圧委譲の原理」を取り上げた論考「超国家主義の論理と心理」を軽く紹介しておきたいと思います。
「超国家主義の論理と心理」は戦争の道をひた走った日本近代の天皇制国家を分析した小論です。
ここでも丸山はヨーロッパと日本の近代国家体制を比較します。
ヨーロッパの近代国家は主権を形式的な法機構の上に置いていて、真理や道徳などの内容的価値には立ち入らない中立的なものでした。
公権力は形式として外面を規定はするものの、人々の主観的内面性は私的なものとして保証されていたのです。
しかし、日本の明治以降の国家権力は形式面にとどまらず、内容的価値の実体として人々の内面にまで支配を及ぼしました。
簡単に言えば、天皇制国家に貢献しないような真善美の内容的価値は存在しえないということです。
丸山は学問や芸術も精神的領域に入り込んでいる「国家のため」という価値観からは自由ではないと言います。
従って国家的秩序の形式的性格が自覚されない場合は凡そ国家秩序によって捕捉されない私的領域というものは本来一切存在しないこととなる。我が国では私的なものが端的に私的なものとして承認されたことが未だ嘗てないのである。(中略)こうしたイデオロギーはなにも全体主義の流行と共に現れ来ったわけでなく、日本の国家構造そのものに内在していた。(「超国家主義の論理と心理」)
このような丸山の指摘をどれだけ重く受け止められるかが、この国と戦えるか否かの分かれ道だと僕は思っています。
つまり、近代以後の芸術や学問はもちろん、日本人の私的な精神的領域は、国家による価値づけによって承認されることで成立してきたということです。
ポストモダン作家や思想家は、近代文学や近代思想を国家権力との関係において批判をしてきましたが、
彼ら自身の内容的価値も近代同様に国家権力の延長にある価値観によって承認されることでしか成立していないのです。
それをごまかすために、近代批判の身振りを続けてメタに立ったフリをしているだけなのです。
(何度も言いますが、日本のフランス現代思想ブームの中心にあったのは東京大学です。
日本の大学は私大を含めて国家からの補助金に依存した存在であり、
文科省に忖度する自立性のない立場であることは冒頭の大学改革の話を見ても明らかです)
現在の日本国も丸山が指摘した近代国家の体制とそう変わらないことは、
最近の安倍政権の「桜を見る会」疑惑に対するやり方を見ていれば否定しようのないことだと思います。
国家の外面的支配を支えるはずの法的もしくは形式的な手続きが、安倍首相の私的な事情によって簡単にないがしろにされています。
公文書の書き換えや文書化しなければいけない採決の無視などは、すでに法治国家の体をなしていません。
このような事態が起こりえるということ自体が、丸山の指摘した日本の国家体制が現在も続いていることの証左といえるでしょう。
僕が天皇制批判と文学や芸術の消費主義的な大衆性からの自立を同時に語るのは、
日本社会に喜んで迎えられる文学や芸術は、真に国家から独立しえないことを示しているからなのです。
「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しにすれば国家的なるものへの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となるのである。(「超国家主義の論理と心理」)
私的なものが国家的なものと一体化する姿は現在ではネトウヨ的な保守勢力に顕著に見られるものです。
大した政治的認識を持つわけでもない人が個人的な嫌悪感情を国家利害と同一化して、人より優位であることを確認する態度です。
これが反転すると、国家的なものに私的利害が入り込むというわけですが、これなどはまさに今の安倍政権の姿を言い当てていると思います。
わかりやすい例なので取り上げましたが、もちろんこれは特に保守勢力だけの問題ではありません。
丸山は国家主義を問題にしているので「国家」としていますが、柄谷行人が前提とするように現在の国家は資本と切り分けられるものではありません。
「資本=ネーション=国家」として考えるとき、日本では資本と私的な内面の合一化を図ることも同じ効果を生むということです。
僕が消費資本主義に依拠する〈俗流フランス現代思想〉とオタク文化を批判してきたのは、まさにこのような点にあるのです。
たとえば東浩紀はオタク文化の正当化に市場の売り上げをやたらと持ち出したのですが、
「萌え」に見られる私的領域にあるはずの性的欲望を、市場を介した資本の増殖と合一化させることに、社会的な正当性があるかのように錯覚するのは、
丸山が指摘するような日本型ファシズムを生み出す精神構造が影響しているのです。
(ここで国家とオタク文化が素早く結託したことも思い起こす必要があるでしょう)
その意味で、現在の日本のエセ保守と消費文化的なエセリベラルの精神性は僕から見れば同根でしかないのです。
まあ、おそらく多くの方には理解してもらえないとは思っていますが。
倫理と権威の相互移入
日本が人々の外面だけでなく内面をも支配するようになった原因を、
丸山は精神的権威である天皇と政治的支配者である将軍との二元体制を、明治維新によって一元化したことに求めています。
「国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する」体制においては、国家の行いの道義的根拠は国家自身が体現することになります。
こうしてどのような暴虐も自らに道義があると国家が判断すれば正当化されてしまうようになるのです。
国家主権が倫理性と実力性の究極的源泉であり両者の即時的統一である処では、倫理の内面化が行われぬために、それは絶えず権力化への衝動を持っている。(「超国家主義の論理と心理」)
このような社会では倫理は自分の内面と関係を持つより前に、権力化することを求めるようになります。
この国の倫理は自分自身を見つめ直す機会にはならず、権力がそれを是とするかどうかにおいてしか意味を持たないのです。
わかりやすく言えば、自分がどう考えるかではなく、権力がどう判断するかで道徳的価値が決まるということです。
その結果、日本人の判断基準は、その人が何を「する」かではなく、その人がどのような社会的地位「である」かが道徳的基準になります。
有名大学准教授「である」、ベストセラーの著者「である」、メディアに取り上げられた人「である」ことが重要であり、
その人が何を「する」かは大して問題ではないということが起こります。
これに対して純粋な内面的な倫理は絶えず「無力」を宣告され、しかも無力なるが故に無価値とされる。無力ということは物理的に人を動かす力がないという事であり、それは倫理なり理想なりの本質上然るのである。しかるに倫理がその内容的価値に於てでなくむしろその実力性に於て、言い換えればそれが権力的背景を持つかどうかによって評価される傾向があるのは畢竟、倫理の究極の座が国家的なるものにあるからにほかならない。(「超国家主義の論理と心理」)
純粋な内面的価値は物理的に人を動かすことがありません。
その意味では実際の実力としては「無力」です。
倫理が現実的実行力によって評価されるのであれば、結果として倫理はそれを口にする人の権力的背景によって決定されるしかありません。
つまり、日本においては倫理の決定は最終的に「資本=ネーション=国家」にあるということになります。
日本という国は本質的に、社会的地位を持つ者、名声を持つ人気者、経済的実力者が自らの非倫理的な行為を一つも恥じらうことがない社会体制なのです。
国家権力との合一化に基づく支配者は、権力への依存性から放り出され一個の人間に戻ると弱々しく哀れな姿になるのです。
権威的立場を利用し、非論理的な態度で僕を攻撃してきた大学教授や准教授が、僕がその権力の源泉である大学へ抗議メールを送るとおとなしくなったのはこういう理由です。
これは現在も残り続けている日本近代が残した宿題なのです。
ポストモダンなどと本気で言う根性があるのなら、このような日本近代の問題点を脱構築でも何でもしたらいいのです。
ただ西洋の権威に寄りかかって、国内でドヤ顔をする不勉強なおぼっちゃま研究者が、
やれ現代思想だ、近代批判だ、などと言っているのが僕には不愉快で仕方がありません。
日本でポストモダン思想が果たした役割は、こうした日本的なものを批判する戦後思想を、もともとの色に塗り直すことでしかありませんでした。
ポストモダンこそが思想だと思い込んでいる連中は、西田幾多郎とか言えば「世界標準」に近づけると思っているようですが、
それがいかに自らの基盤も見つめられない底の浅い発想であるかに気づいてもらいたいものです。
余談ですが、このような主観的な私的領域と権力との合一化を近代国文学の研究者が問題にしたことは、僕の知るかぎり、全くなかったように思います。
夏目漱石の三部作にしても、島崎藤村の『破戒』にしても、世間的な権力から自由な内面性を探求して敗北した作品と言うことができます。
世間に受け入れられる作品は当然ながら「敗北」に限られます。
横光利一の『旅愁』においては、私的領域であるはずの恋愛においても、
相手女性が現前しない自らの夢の中で、天皇を媒介として結婚することを理想化しています。
(現前しないアニメキャラに萌える人々が結びつく共同体が、いかに戦時日本国体のパロディ化しきれていないパロディであるか、ということを考える必要があるということです)
西田の『日本文化の問題』でも確認しましたが、日本近代における大衆的な媒介性(無の場所)が皇室と直結してしまうのは、
丸山が指摘する私的領域と国家権力の相互浸透ということを考えなければ、その絶対矛盾的自己同一のメカニズムを把握することは難しいでしょう。
(ちなみに、このような国では、本気で「しつけ」と思って虐待をする人が出てくることもあるでしょう。
倫理と権力の相互浸透が進むと両者の区別が曖昧化するのです)
抑圧委譲の原理
自らの私的な内面性までも国家の権威に譲り渡した人たちにとって、自らの存在価値を保証してくれるものは国家的権威しかありません。
そうなると、彼にとって重要なのは、自分が国家的権威の近くにあるということになります。
つまり、究極的価値である天皇に近接していることを示す優越的地位が問題になるのです。
官僚なり軍人なりの行為を制約しているのは少くも第一義的には合法性の意識ではなくして、ヨリ優越的地位に立つもの、絶対的価値体にヨリ近いものの存在である。国家秩序が自らの形式性を意識しないところでは、合法性の意識もまた乏しからざるをえない。法は抽象的一般者として治者と被治者を共に制約するとは考えられないで、むしろ天皇を長とする権威のヒエラルヒーに於ける具体的支配の手段にすぎない。だから違法ということはもっぱら下のものへの要請である。軍務内務令の繁雑な規則の適用は上級者へ行くほどルーズとなり、下級者ほどヨリ厳格となる。(「超国家主義の論理と心理」)
しかし令和の時代に読み直してみても、丸山の分析は日本社会の急所を的確に捉えていると感心します。
この分析が戦時ファシズム体制にしか通用しないと思う日本人は、よっぽど幸せな社会生活を送った人だけでしょう。
日本における法というものが地位が上位の者にはルーズにしか適用されず、下位の者を支配するための道具でしかないかが書かれています。
下々の税金関係の領収書は7年間の保存を義務付けておきながら、
首相の財務関連の領収書になると提出を拒否しても構わないのは、このようなカラクリで日本という国家が機能しているからなのです。
日本人にとって合法性などというものは、社会的地位に対する忖度より軽視されて然るべきものでしかないのです。
ポストモダンに享楽した日本の知識人が、丸山の問題意識を引き継げなかったツケを今払わされているのです。
日本の支配層の日常的なモラルを規定するものは、外形的な法律でも内面的な良識でもなく、ただ権力者への親近性とそれへの同一化にあるのです。
もちろん、現代においては戦前の天皇にあたる究極的価値となる実体は別のものであることが多いと思います。
すでに述べているように、内閣総理大臣の場合もありますし、アメリカの当該機関かもしれません。
日本の嫌なところは、各閉鎖的集団の中にそれぞれ究極的実体となる「小天皇」が存在するところです。
それぞれが「小天皇」を戴く「自足的閉鎖的世界」である各部門(これを丸山はのちに「タコツボ型」と名付けました)が、
日本の軍部や官僚機構の悪名高いセクショナリズムを形成したのです。
こうして、全体的な秩序が絶対的価値体となる最上位の地位を中心として、上から下へと連鎖的に構成され、支配のメカニズムを形作るのです。
重要なのは、このような支配の根拠が、最上位の地位(天皇)からの「距離」に比例するということです。
ここで丸山が問題にするのは、軍部官僚などの日本の支配層に「独裁」を成立させるほどの「主体意識」が欠けているということです。
「意識としての独裁は必ず責任の自覚と結びつく筈である」と丸山は述べます。
つまり、日本は独裁なきファシズムが成立する国なのです。
これだけの大戦争を実行する主体性も責任意識もないまま、エリート支配層はずるずると終わりなき戦争の渦中へと引きずり込まれていきました。
日本の寡頭支配者は「支配する者」としての自覚も責任意識もなく、究極的実体への「依存」によって、自分が規定を受けている「受動者」であるという意識で戦争を実行していたのです。
(まさに「中動態」と言うべき態度!)
この「受動者」としてのあり方は、より上位への依存と、より下位への圧力の委譲によってバランスを保つことになります。
さて又、こうした自由なる主体的意識が存せず各人が行動の制約を自らの良心のうちに持たずして、より上級の者(従って究極的価値に近いもの)の存在によって規定されていることからして、独裁観念にかわって抑圧の委譲による精神的均衡の保持とでもいうべき現象が発生する。上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に委譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系である。(「超国家主義の論理と心理」)
簡単に言うと、誰もが上位に依存した「受動者」の意識で地位を維持しているため、
無責任な上位者からの「無理難題」の圧力を、今度はより下位者への身勝手な圧力として譲り渡し、
それがトップダウンで上から下に上から下にと連鎖していくシステムになっているということです。
日本人なら誰でもある程度思い当たることだと思いますが、このようなメカニズムがなぜ成立しているかはあまり理解されていないのではないでしょうか。
「抑圧委譲の原理」とは、地位はあるが責任意識のない支配者で成立するシステムにおいて、圧力が上から下へと押しつけられていく構図のことを言うのです。
このシステムの恐ろしいところは究極的価値実体であるはずの「天皇」が、
実際は外圧を象徴化した存在でしかないということです。
つまり、究極的価値すらも「受動者」なのです。
外からの圧力を下へ下へと押しつけていくと、最下層の者はどうすることになるのでしょうか。
最下層はより下の存在を「外部」へと見出すほかありません。
外からの圧力を外へと押し返す、この円環は対外戦争として完結します。
(対外戦争の時期だけ日本では全階層が安定化するのです)
そうでなければ、無制限の下位への圧力となり、最下層を外へと放逐します。
この図式が戯画化されたのが、学校の教室で行われる「いじめ」です。
日本の社会体制を反省もしないで、いじめを子供の問題として語っている人たちがいかに愚かであるか、真剣に指摘する気も起きません。
要するに「抑圧委譲の原理」は圧力のトップダウン方式です。
今の大学改革においても官僚的なトップダウン式が支配的であることはすでに確認しましたが、
このようなあり方を支えているのが「抑圧委譲の原理」を生み出す日本組織の階層型の依存体質なのです。
日本では依存的な人間ほど上下関係に対してうるさくなります。
丸山は「軍国支配者の精神形態」で、「より下位の者がおさまらない」ということを自己主張に用いる支配層のあり方を指摘しているのですが、
これが「抑圧委譲の原理」を裏返しにした病理現象だと言います。
ひたすらトップダウン式の上からの権威によって統治されている社会では、
統治者の力が下位の「無法者」の暴走を抑えられないほどに矮小化してしまうと、
下位から上位への不満が圧力となって、滝上りのように下から上へと昇っていく(下克上)ことになります。
エリートは自己のプライドで己を支えているのではなく、ただ下位に依存しているだけの存在なので、
下からの圧力を交わすために、国内最下位より下位に位置する「外部=外国」へと暴力を差し向けることで、権威体制の安定を図るようになるのです。
戦時ファシズム体制における国民の一体化が、実際には封建的な権威体制(階層格差)の維持を前提としていることには注意が必要です。
こういう前近代性を有する日本人の精神病理に対して、西洋流の近代批判(ポストモダン)が有意義だと言えるでしょうか。
日本ファシズムの矮小性──権限への逃避
既成事実への屈服とともに日本ファシズムの矮小性として丸山が挙げたことがもう一つありました。
それは権限への逃避として示されています。
これは東京裁判の戦犯たちが問題となっている事項が自分の形式上の権限に属さないとして、責任回避を図る態度のことです。
要するに、職務や任務として法的に規定された権限に従って行動しただけなので、自らの判断で行ったものではない、という論理です。
システム上においてどこの担当であり責任であるということに関しては、
互いに責任をなすりつけ合うということも起こりました。
陸軍大臣が戦争拡大の責任を追及されると、統帥大権の管轄だと主張するのですが、
統帥部側に尋ねると作戦計画は陸軍省が担当していると答えるというような事態です。
日本のお役所によく見られる責任のたらい回しというもので、日本人ならありふれて目にするものと言えるでしょう。
責任意識が「人格」や「内面」と結びつかず、ただその権限を保証する「地位」において成立していることが、ここでも問題になっています。
さてまた、「権限への逃避」はそれぞれ縦に天皇の権威と連なることによって、各自の「権限」の絶対化に転化し、ここに権限相互の間に果しのない葛藤が繰り広げられる。(「軍国支配者の精神形態」)
上下の縦関係が絶対的基準になると、横同士の関係がライバル化するのは想像しやすいところです。
文官と武官が対立し、武官の中では陸軍と海軍の対立があり、陸軍の中では陸軍省と参謀本部が、陸軍省の中では軍務局と兵務局が対立したように、
挙国一致という掛け声は大きかったものの、支配権力の横の分裂は激しく、「無限にアトム化」していく結果になりました。
このような政治力を一元的に統合するだけの責任主体がなく、水平的な分裂状態にあることを丸山は「多元性」と記しています。
「政治力の多元的併存はかくて近代日本の「原罪」として運命づけられていた」
という文章からも、日本の戦時体制における問題が、一元性にあるばかりではなく、その多元性にもあることがわかります。
しかし、忘れてはいけないのは、実質的な官僚的多元性と名目上の天皇主権という一元性が相互依存的に同居していたのが戦時国体であったということです。
いや、同居というより、都合よく「使い分け」をしていたと言う方が正確かもしれません。
自らの権力的地位の確認においては究極的価値実体である天皇を一元的な頂点として措定するのですが、
いざ自らの責任が問われる場面になると、部分的な権限しか持たない多元的な無責任組織へと姿を変えるのです。
このような規定された権限という外から与えられた枠の中に引きこもって、それぞれが孤立して並立している型の文化を、
丸山は『日本の思想』で「タコツボ型」と名づけました。
丸山は日本の学問の受け入れ方を例にとって「ササラ型」と「タコツボ型」の比較をしたのですが、
共通の根から末端が分化していったヨーロッパの学問が「ササラ型」であり、
その分化した末端だけを最先端のものとして輸入し、共通の根に興味を払わなかったために、
それぞれを孤立させてしまったものを「タコツボ型」と呼んだのです。
要するに、日本の学問は西洋の最先端を求めるあまり断片化しているということです。
断片化がポストモダン的な営為だと思っている人がいるようですが、それが単に「日本的な西洋移入」でしかないことは昔は常識だったのです。
こうしてポストモダン思想がその名称と裏腹に、日本では自分たちの中途半端な近代性を正当化することに協力したのです。
このような連帯なきタコツボ型の多元的組織が、最新の国家的事態を持ち出されたときに、
大政翼賛的な一元的な総動員をされる結果となるのは当然ではないでしょうか。
多元性を包摂する一元的な「場」
丸山の論を発展させて考えていくと、
日本型ファシズムの多元的かつ一元的なシステムという姿が見えてきたわけですが、
その多元性と一元性の併存の仕方についてもう少し考えてみます。
丸山は天皇を究極的価値実体とし、それとの縦の距離関係でツリー状の支配形態が構成されている、としています。
その上、究極価値からほぼ等距離に並立する横の関係においては、縄張り争いのような葛藤が絶えず存在し、
それぞれの部署が閉鎖的なモナドとして多元的に存在しています。
これを西田思想において解釈すれば、主語的存在者を矮小化することで、一元的な「無の場所」(=皇室)において、述語的存在者が多元的に存在しているような状態と言えるでしょう。
つまり、多少図式を単純化すれば、日本では責任主体が矮小化すると、垂直軸のツリー構造がそのまま水平軸のリゾーム的なものへと転換しうるということです。
責任主体を排除して、漠然とした主体が「無の場所」としてプラットフォーム化することが、「無責任の体系」を生み出す原因です。
これは、インターネット上の問題発言を、書き込んだ人間は当然ながら、掲載したプラットフォームの責任をどこまで問えるか、という現代的な問題としても僕は提示したいと思っています。
(ちなみにAmazonは自分たちが審査して掲載したレビューでも、破廉恥な著者から執拗なクレームがあると、
書いた人だけの責任として、その人の全レビューを削除するのですが、
このような態度がまさにプラットフォームの無責任からくる、一億総レビュー懺悔の姿であると言えるでしょう)
丸山は「軍国支配者の精神形態」の最後で、日本ファシズム支配の「無責任の体系」を振り返り、3つの政治的人間像の類型を示します。
一は「神輿」であり二は「役人」であり三は「無法者」(或は「浪人」である)。神輿は「権威」を、役人は「権力」を、浪人は「暴力」をそれぞれ代表する。(「軍国支配者の精神形態」)
このまとめは単純すぎて誤解を生みやすいように思います。
神輿が最上位で無法者が最下位だと書くと、社会的地位を当てはめて、天皇が神輿であると考えてしまうからです。
しかし、丸山は「具体的には一人の人間のなかにこのうちの二つ乃至三つが混在している場合が多い」とも書いています。
一人の人間の中に神輿も無法者も見られる場合があると言うのです。
無法者が出世して役人となり、さらに出世すると神輿になったりもする、とも書いています。
となると、この類型は社会的地位そのものではないわけです。
僕の個人的な感想になってしまうのですが、この類型は大所帯のアイドルグループの構造に近いと感じました。
上位の人気メンバーはファンに担がれた「神輿」です。
彼らがいないとグループは存続できないのですが、実際上のグループの運営自体に必要というより、ファンの獲得に大きな力を発揮します。
中堅のパフォーマンス力のあるメンバーが「役人」です。
レコーディングに必要な歌唱力のあるメンバー、パフォーマンスを充実させるダンスの上手いメンバーなどで、
グループの運営には欠かせないのですが、玄人のファン以外にはなかなかアピールが届かない人たちです。
不人気な上に、スキルもないメンバーが「無法者」です。
アイドルグループの場合は、この位置にある人は卒業して辞めるかスキャンダルで脱退するかしていくのですが、
「国民」というグループのように、最下位を外部に放逐できないシステムの場合は彼らの扱いには本当に苦労するでしょう。
この例が正しいかどうかはわかりませんが、もしそれほど外れていないならば、
丸山の類型はアイドルグループのように多元的なものを包摂する一つの共同体での活動を前提にして成立するものです。
そうなると、個々のあり方より属する集団の活動が圧倒的に重要である、という価値観が問題のように思えます。
多くのアイドルグループは個人活動のためのステップという感覚がありますが、
国家や企業などの組織がアイドルグループの成員のような構造であるならば、
果たして彼らが精神的に個人として独立することなどできるのでしょうか。
この前、独立会見をした中居正広が、いまだ「SMAPの中居くん」と言われるのが不思議と話していましたが、
日本の国家官僚に代表されるエリートはいつまでも「○○組織の〜さん」から脱することのできない存在です。
官僚の天下りがなくならないのも、組織への依存体質が染み込んでいる存在だからだと思います。
「超国家主義の論理と心理」で「抑圧委譲の原理」を指摘した丸山は、
天皇も同様に抑圧委譲の圧力にさらされている存在として描いています。
万世一系の皇統を継承した天皇は、皇祖皇宗の遺訓に縛られて統治を行わなければなりません。
天皇も「無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負っている」存在であり、伝統の抑圧を移譲されている「より下位の者」となるのです。
丸山はこう書いていますが、僕は前述したように、天皇を外圧の象徴だと考えています。
外部から受けた抑圧をダイナミックに昇華したものが天皇です。
天皇は日本が外部からの抑圧で成立していることを隠蔽するための社会的装置です。
結果としては天皇も抑圧された「より下位の者」であるという点では、僕の主張も丸山と同じなのですが、
そのルーツがどこにあるのか、という点では見解が異なります。
皇祖皇宗の圧力は、天皇を大東亜共栄圏という世界の中心に置くために、
外圧を別のものに置き換える必要から要請されたものでしかない、と僕は思っています。
こうなると天皇という究極的価値実体であったはずのものも、単なる被害者でしかありません。
こうして責任を持つはずの主体的な存在を矮小化し希薄化して、主語的存在者のいない一元的な「場」を主役にするのが日本というところなのです。
「場」として機能する組織にそもそも「主体」など存在しないのです。
このような「場」に対する依存性が、日本型ファシズムの温床であることは言うまでもありません。
こうして丸山の戦時ファシズム論を読み直してみると、
これが今の時代にはもう古いとか、すでに克服された問題だとか言えないことがよくわかると思います。
戦後思想が役割を終えてポストモダン思想が流行したのではありません。
バブル景気で調子に乗った日本人が、敗戦の挫折や戦後の惨めさを忘れたくて、丸山眞男を過去のものとしていっただけなのです。
その結果、現代思想は欧米の流行をいち早く取り入れるだけのファッションとなり、
自分の国の社会的問題から逃避したい人たちの遊戯に利用されるだけになりました。
どんなに外国製のファッションに身を包んでいても、所詮中身は日本人でしかありません。
彼らが自分の生きている国がどこなのかを思い知らされる日は、そう遠くはないと思います。
Tweet
6 Comment
たぬきオヤジさんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2020/04/07 10:17)
- [コメントを編集する]
たぬきオヤジさん、コメントありがとうございます。
無の場所たる皇室と能動的ニヒリズムに共犯関係があるのはご指摘の通りです。
現在では、無の場所という市場(マーケット)とニヒリスティックな趣味的安楽生活との共犯関係に置き換わっています。
今回の新型コロナ災禍で、人々がレジャーなどの趣味的安楽で不安を解消できなくなっても、
マーケットにしか依存すべきものが見出せず、
日用品の買い溜めという能動的かつ虚無的な消費行動に駆り立てられたことがそれを示しています。
立ち返るべきところをまだ見ぬ「奥」に求めるのは松尾芭蕉の姿勢にもつながりますね。
それでいて非身体的なロマンに陥らず、あくまで旅を生きる(死ぬ)、自ら実践するのが東洋的態度に思えます。
僕も記事のクオリティを保ち続けられるように努めます。
無題
- たぬきオヤジさん
- (2020/04/06 12:52)
- [コメントを編集する]
これを西田思想において解釈すれば、主語的存在者を矮小化することで、一元的な「無の場所」(=皇室)において、述語的存在者が多元的に存在しているような状態と言えるでしょう。
つまり、多少図式を単純化すれば、日本では責任主体が矮小化すると、垂直軸のツリー構造がそのまま水平軸のリゾーム的なものへと転換しうるということです。
責任主体を排除して、漠然とした主体が「無の場所」としてプラットフォーム化することが、「無責任の体系」を生み出す原因です。
「丸山眞男に学ぶ日本の精神病理」からの引用
「安楽への隷属」は、安楽喪失への不安にせき立てられた一種の「能動的ニヒリズム」であった。そうして、抑制心を失った「安楽」追求のその不安が、手近な所で安楽を保護してくれそうな者を、利益保護者を探し求めさせる。会社への依存と過剰忠誠、大小の全ゆる有力組織への利己的な帰属心、その系列上での国家への依存感覚、それらが社会全般にわたって強まって来ているのは、其処に由来する。「趣味空間の全般化という〈日本安楽主義〉【その2】」からの引用
無の場所が指し示すのは皇室であり、その皇室は能動的ニヒリズムの要請に応えるような見え方をしてます。そして相互依存な共犯関係とも見えるので、主体はやはり浮びあがってこないですね、私が読解できてないかな。南井氏の懇切丁寧な文章には敬服しますし、学のない私には得るところが大きいです。
さて、私事ですが、能動的なニヒリストはいても国民はおらず、消費者はいても市民はいないという日本の状況で、なにに根拠を求めるかでずーと彷徨ってますが、最近は眼中になかった日本の戦前や戦中の文芸評論に手をつけはじめました(青空文庫などですが)。俳句も始祖にあたる方々のを読みはじめてます。結論はでない訳ですが、私にとっての立ち返るべき評論家や俳人を南井氏のように丁寧に追っていきたいなと思いますね。
それでは記事を楽しみにしてます。
クロさんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2020/03/19 23:22)
- [コメントを編集する]
クロさん、コメントありがとうございます。
東浩紀もそうだったのですが、
「現体制(既存の規格)」の利益に合致する「現体制」にとって便利な人が、大衆的な支持を得て人気者になるシステムですからね。
その人に力があって不利益でも体制がそれを認めざるをえない、というのなら誇ってもいいですけど、
体制の利益で働かされている人なんて役人と大差ないですけどね。
創造性なんかいらないですよ。
僕は凡庸な民でも与えられた規格から外れて「自分で考える」ことができれば、もっとまともな発想をすると期待してます。
植松みたいに「政権に守ってもらえる」と権威を頼りにするから、暴虐が行えるんであって、
本当に一人で考えたら、凡庸な人は他人に迷惑をかけない凡庸な決断をしてくれると思うんですよね。
全体主義、権威主義、パターナリズムはつながってますよね。
僕はこれらの影響下にいる人を「大きなものに抱かれたい人たち」と言っています。
自分で立つことができない精神的幼児だから、大きなものに抱かれることを求めるのです。
国民は天皇の赤子とか、まさにですよ。
「下(幼児)から吸い上げる」のはたやすいでしょうね。
「自分で考える」ためには「自立」が必要ですから、いまだ福沢諭吉の問題に帰着することになります。
丸山の福沢論もいつか書きたいですね。
無題
- クロさん
- (2020/03/19 09:53)
- [コメントを編集する]
日本人は、幸福の追求が下手で「規格」や「レール」や「正解」があるものだと考えているきらいがあると思いました。
合わない「規格」に従えば、不幸になるのも宜なるかなです。
しかし、タコツボ型・ムラ社会的な日本人からすれば、「規格」から外れた人に冷たい目線を向けがち。
思えば、千葉雅也は「規格」の中でのし上がった人でした。不思議なことにご本人はそれがすごいことだとしか考えていない。
一部の左派的な人が「主体性」「自分の頭で考えること」の大切さを説いていました。
高橋和希が映画を作った意図は、南井さんが「勉強の哲学」のレビューで述べたSNSのくだらなさとほぼ同値で、「”洗脳”に身を委ね、ネットワーク社会に紛れて生きていることに安心を覚えてしま」い、「時に、誤った集団思想に向かう危険性にも注意を払わなくてはならない」と述べて「自立」の重要性を述べていました。
先日は、新聞記者の松坂桃李がオファーを受けたことに絡めて「自分で考える」ことについてインタビューで述べていました。
「規格」の中から出て、さて「自分の頭で考え」たら凡庸な民は果たしてどんな決断を下すのでしょうか。「自律」できないものが「自立」することなど可能でしょうか。
ところで、
「全体主義」と「権威主義」と、フェミニストが嫌う「パターナリズム」とはどうにも親和性が濃いと思いました。
例えば、
こうしたインチキめいたピラミッドシステムは、官僚制や、オウムや、オンラインサロンが浸透することにつながるのかと思いました。
対等に議論し、建設的な交流をするのではなく、トップに君臨する者を崇拝し、その一挙一動を有り難がり、金を納めていく。
「下部のものから吸い上げるシステム」と僕は述べたと思いますが、サロン会員はおそらくサロンの「王」ないし「教祖」への盲信からサロンへ入っているため、永遠に「王」あるいは「教祖」の呪縛から解かれません。
その人の教え子であり、宣伝役であり、業績を上げれば「王」あるいは「教祖」の利益としてフィードバックされます。
問題は、宇野らのように「王」の器に及ばず、単なる裸の王様であることに尽きることかなと思います。
南海さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2020/03/13 22:30)
- [コメントを編集する]
南海さん、コメントありがとうございます。
なるほど、南海さんの懸念というものはよくわかりました。
現代日本に嫌気がさしすぎて、時事的な要素を強化しているのはその通りですが、
僕はすでに千葉雅也『動きすぎてはいけない』のレビューですでに丸山の名を出して今回の内容をサラッと語っています。
まあ、この記事だけ読めばつまらない「反動左派(笑)」みたいに思われるかもしれませんね。
気をつけます。
僕は日本が戦前から変わらない、と言いたいのではなく、
「どこが」戦前から受け継ぐ問題点であり、克服すべき部分か、ということを書いたつもりです。
南海さんは「絶望しかない」と言いますが、僕はずっと「主体性」の重要さを語ってきたつもりです。
資本のパワーに抵抗できるだけの主体的な生を選びとる人が増えることが、この国の精神的な成長につながると僕は思っています。
僕は社会的葛藤と挫折がすごいありましたが、一応は主体的な生をかろうじて保っていますよ。
ちなみに「天皇からの距離」に関しては今でも適合する部分だと考えるべきです。
そこで問題となる「天皇」は、皇居に住む国家の象徴に限りません。
アイドルグループを例にとったのも、「天皇」というものが日本の集団である種の「役割」として存在していることを表すためです。
部分と全体が一致する日本型ファシズムでは、部分にも天皇の存在が必要になるのは当然のことです。
僕が「資本=ネーション=国家」とわざわざ書いたのは、今や「売れた人」が天皇になる時代だからです。
またアイヒマンなどのご指摘はその通りですが、丸山のドイツについての考察は支配層を問題にしています。
時代的な制約があるのは当然ですし、現代日本について妥当する部分しか僕は取り上げていないので、
スルーしてもいいのではないでしょうか。
無題
- 南海さん
- (2020/03/13 20:53)
- [コメントを編集する]
興味深く拝読しました。南井様は基本的に反時代的な心意気でこのブログを書かれていると思うのですが、今回の論考についてはある意味時代の雰囲気に乗っている(乗ってしまう)可能性もあるのではないかと思いました。「忖度」は大分前から頻出語ですし、新型肺炎への政府や役所の対応を旧日本軍に重ねる言説はネット上でかなり流布している印象です。そういえば地方私大で働いている教員に聴いた話ですが、最近ゼミで丸山を読んで素朴に感動している学生がちらほらいたそうです。
現代において丸山がアクチュアリティを持ってくるのは当然で、これに注目する論者が既存の批評家や思想家(笑)に出てきていないのは彼らの思想的センスの欠如を示していると思います。個人的にはそのうち東浩紀あたりが俄か勉強で「丸山真男2.0」とか言い始める可能性が5%くらいあると踏んでます。なんせ軽薄な奴らですから。
今回の論考では丸山の議論と現代の状況をかなり直接重ねていますが、個人的には丸山が直面していた状況と現代日本との違いが気になっています。思いつく限りでも丸山のタームで現代にそのまま当てはまらなさそうなものは少なからずあります(天皇との距離とか亜インテリ層の位置付けとか)。ファシズムにおけるナチス=強い精神、日本の指導者=弱い精神という対比も、なるほどと思わされる一方、例えばアイヒマン裁判と悪の凡庸さについてのアレントの分析を知っている現代から見ると、時代の制約を感じます。ナチスドイツの非人道行為を現実化したのは近代的主体に連なる強い精神だけではなく、小心翼々たる官僚主義的な心性でもあったということですね。
丸山のアクチュアリティは間違いないとして、戦前から変らない日本人という話ばかりだと絶望しかないわけで、そのあたりなんとかならないものでしょうか(笑)。長文失礼しました。