南井三鷹の文藝✖︎上等

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さらば俳句村

高松霞と西川火尖の集団嫌がらせ事件

もうバカバカしくて詳細を書く気にはならないのですが、
先日、僕は連句人を名乗る高松霞の発案に乗っかった西川火尖などの俳人たちから、
ネットで集団嫌がらせの標的にされました。
キッカケは最果タヒという詩人が書いた俳句を、髙鸞石という俳句界の異端児が引用リツイートで「全然面白くない」と吐き捨てたことにありました。
その結果、髙鸞石は最果タヒの怒りを買い、関係者である「東京マッハ」そのほか多くの人にTwitter上で袋叩きに遭いました。
僕自身はその袋叩きがだいぶ盛り上がった頃に、その事態を知りました。
僕は髙鸞石の行為に賛同する気は全くなかったのですが、面白くないものを面白くないと言うくらいで、どうしてそんなに騒ぎになるのか理解できませんでした。
最果タヒのツイートを見ると、どうやら髙鸞石が俳句業界を背負った人物であるかのように勘違いして、
俳句ジャンルに凝り固まった人が現代詩ジャンルの自己流俳句に文句を言っている、というような流れになっていることに気づきました。
いつの間にか、ジャンルとジャンルの間の揉め事のようになって、炎上していたのです。


僕自身は最果タヒの作品にあまり関心はなかったのですが、髙鸞石一人に大勢が文句を言っている状態に違和感があったので、
無名な個人の袋叩きを誘発した最果タヒの間違った認識と、狭量な態度について批判的なコメントをしました。
そもそも最果自身に自分の俳句に対する自信がなかったから、無名俳人からの批判にセンシティブに反応したのは明らかです。
僕のツイートについては、最果タヒから「タフになりますよ」という応答はありましたが、直接に批判してくる人はいませんでした。


炎上が一段落した次の日、何人かの俳人(連句人)が「最果さん俳句へようこそ」のハッシュタグをつけて、最果タヒの俳句を集団で褒めるツイートを行いました。
こんなことが起こるだろう、と僕は思っていました。
俳句ジャンルの人が現代詩ジャンルの俳句への越境に文句をつけた、という最果の捉え方では、
俳句と現代詩という「ジャンルの問題」に拡大されることは目に見えていたからです。
しかし、これは最果タヒや「東京マッハ」の千野帽子たちの勘違いだったのです。
それを修正するべく、僕は「ジャンルにおいて」という問題ではない、作品そのものへの評価だ、と言いました。
なぜなら、ジャンルの問題とすると、俳人がみんな最果の俳句を面白くないと思っているかのようになってしまうからです。
そうなると、次のような考えを抱く人たちが出てくるのは当然です。
「髙鸞石などは俳句界の末端にいる嫌われ者で、こんな奴が俳句ジャンルの代表だと思われては困る。実際は俳句ジャンルのメインストリームは、最果タヒが俳句を作ることを歓迎している」
高松霞や西川火尖たちは、自分たちが「業界のメインストリーム」に隷属ヽヽしていることを強みだと考えて、
有名詩人の作品をほめそやすことを「正しい批評」と称して、集団でツイートをしたのです。


自分が個人として最果タヒの俳句を良いと思って、その感想を個人的にツイートするのなら、それは自由でしょう。
もちろん批判だって一定のルールを守れば問題ないはずです。
しかし、この最果歓迎ハッシュタグ運動は、「正しい批評」どころか、純粋な感想ですらなかったのです。


「最果さん俳句にようこそ」のハッシュタグが、高松霞という人の発案だったことが、彼女の過去ツイートに証拠として残っていました。
そのツイートによれば、彼女は最果タヒに「絡んでいる」人たちが前々から気に入らなかったらしく、
有名詩人の取り巻きの攻撃にさらされているこの機会に、詩人の名前を利用して彼らの立場を悪くしてやろうと考えたようなのです。
つまり、高松霞の動機は最果タヒの俳句に褒めるだけの価値があるということではなく、
前々から気に入らない連中が、俳句に興味を持ってくれた「業界人」に不快な思いをさせているから許せない、というものだったのです。
彼女のツイートを見れば、気に入らない連中をどうにかする方が先にあって、最果の俳句を褒める行為はそのための手段として考えられたことまで丸バレになっています。
表面的な行為が何であれ、SNS上で仲間を募集して、集団で特定の人物を陥れる行為は、嫌がらせ以外の何物でもありません。
その上、あとで詳しく説明しますが、有名詩人とそのファンたちを大勢味方につけているわけですから、
その行為は不特定多数による「ネットいじめ」に便乗したものでした。
その意味では、SNSで最果タヒを批判した人物に対する「ネットいじめ」に、それが嫌がらせであることを隠した形で参加したものでしかありません。


僕はこの事実をTwitter上で訴えることにしました。
さすがに高松のツイートに証拠が残っていたので、多くの人に最果歓迎ハッシュタグ運動の真の動機が露見してしまいました。
ちなみに、最果タヒもこの騒動の裏側を理解したようで、自分以外の人が批判者に文句を言うのはやめてほしい、とコメントしていました。
最果の態度には問題もありましたが、そこについては真っ当な態度だと思います。


あれは「ネットいじめ」だったのか

問題なのは、「最果さん俳句にようこそ」という陰険な集団ハラスメントの標的に、なぜか僕も含まれていたということです。
僕は最果タヒの俳句について評価などしていないのですが、最果に批判的な物言いをしたというだけで、「絡んでいる」迷惑者という扱いをされていました。
前述したように、僕は最果の勘違いを正したかっただけですが、SNSでは有名人に批判的なことを言うだけで憎まれてしまうのです。
僕はそういうことに慣れていますが、当人やその仲間でもない人からこういう計画的な嫌がらせを受けるのは初めてでした。
これに関しては今でも納得がいきません。


僕が標的にされていると気づいたのは、高松霞のツイートで、最果タヒに絡んでいる迷惑者が複数形で語られていたからです。
髙鸞石以外で、最果に何か批判的なことを言ったのは、僕自身しか思い当たらないので、僕のことでしかないと思いました。
しかし、僕が髙鸞石とひとまとめにされるのはどういうことなのでしょうか?
僕は最果の態度には批判的なことを言いましたが、俳句作品については何も批判していません。
「最果さん俳句にようこそ」は最果の俳句に「正しい批評」をするという建前であったはずです。
それなら髙鸞石だけが対象になるはずではないでしょうか。


このことに気づいた僕は、高松霞本人に複数形の表現に僕が含まれているのか訊いてみたのですが、彼女は否定しませんでした。
その後、西川火尖と一度だけツイートのやりとりがあったのですが、その対応から僕が集団ハラスメントの標的になっていたことは間違いありません。
しかし、僕を標的にする正当な理由は見当たりません。
そのため、その理由の説明を高松や西川に求めたのですが、謝罪どころか僕との話し合いも拒絶してブロックしてきました。
謝罪はしないだろうと思っていましたが、話し合いを求めるだけで「ブロックする」と言ってくるのはどういうことでしょうか。
社会常識で考えれば、公的な場で自らの行為の正当性も説明できず、相手の話への返答を拒絶するのは後ろめたいからでしかありません。
しかし、彼らは自分たちの方が業界の多数派だという自信があるのか、このような卑劣な態度をとっても恥じ入る気配はありません。


僕がわざわざ客観的な分析をする必要があるとは思いませんが、
ネットいじめの当事者たちが、自分たちの行為をいじめではないと思うことは確実なので、それについて書いておこうと思います。
表面上は、彼らのハッシュタグ運動は、最果の俳句への不当な評価に対する、正当な評価をしようという批評行為だったと言い逃れることができるように見えます。
「いじめ」とまではいかず、行き過ぎた「あてつけ」程度ではないか、と思う人がいるのもわかります。


しかし、それは二つの点で成立しません。
一つは、高松霞が自分のツイートで、前々から気に入らなかった僕や髙鸞石を陥れることを考えた結果、
最果の俳句を褒めるハッシュタグ運動という方法を見出したという順序がハッキリしている点です。
「あいつらをどうにかしてやろう」と、特定の人物を貶める目的が何よりも優先されている点で、
選ばれた行為があてつけ程度に見えたとしても、被害を受けた当事者には、単にあてつけをされたとはどうしても思えません。
高松のツイート上で決定的な「悪意」が示されてしまっているからです。
対象者が自分が標的だったと明確に認識できるという点で、嫌がらせを受けたのとそう変わらない気分になるからです。


もう一つは、髙鸞石はともかく、僕を標的にしていることです。
僕を標的にした行為としてハッシュタグ運動を考えたときに、最果の俳句への評価が不当であるからやった、という言い分は全く通用しません。
僕は最果の俳句になど絡んでもいないし、評価を下していないわけですから。
それでも彼らは僕を公然と標的に含めていたのです。
つまり、そうなると結論は次のようにならざるをえません。
高松や西川は、あのハッシュタグ運動によって、最果の批判者側に分類された人間全員の立場を悪くすることができる、と考えていた、ということです。
最果ハッシュタグは、炎上によって多くの人たちが僕の敵に回ることが期待できる状況を前提とした攻撃だったのです。
このことの意味がわかりますか?
つまり、高松や西川の計画は、ハッシュタグ運動に直接関わった俳人数名だけでなく、
その背後で彼らと立場を共にするであろう人々の力も利用して、
最果の作品の批判をしたわけでもない僕まで巻き込んで潰すことを意図していたわけです。
こういう計画が、数を頼みにして気に入らない人物に制裁を加える「いじめ」でないと言えるでしょうか。
髙鸞石は自業自得と言える面があるにしても、僕には標的にされるだけの理由がありません。
そんな相手を、多数を味方につけられる好機だからと、正当な理由もなく攻撃の標的に含めていく。
そして、やはり一対一になると逃げていく。
少なくとも、僕自身の実感としては、これは数の暴力を頼みにしたネットいじめとしか思えませんし、
このような理由で今回の記事では、あの事件を「集団ハラスメント」「ネットいじめ」と記述しています。
髙鸞石に対する効果と、僕に対する効果は分けて考えられなくてはなりません。
ほとんど無関係な人間を標的にしておきながら、あれはハラスメントではない、などと加害者の都合で言い逃れるのは、
あまりに誠意のない態度ではないでしょうか。
そこにある「悪意」は、ネットいじめを実行するのと全く比重に変わりがないと僕は判断します。
だいたい、加害者の実感で判断していいのならば、日本のイジメのほとんどは消滅します。
高松霞は僕のことを「頭悪い」などと言っていましたが、
自分たちの行為がハラスメントやいじめではない、と言い逃れる方が、状況を俯瞰的・客観的に見られない頭の悪い考えだと僕は思います。


業界批判を許さない俳句村

西川が偉そうな態度を取れるのは、僕や髙鸞石が俳句業界に対して批判的だということにあります。
マスコミや出版社などの「業界」と結びついた俳人を、僕はこれまでにだいぶ批判してきました。
ただ、僕は批判する相手の作品をこれ以上ないくらい読み込んできましたし、読む人が納得できるだけの根拠を示して批判をしてきました。
当然ですが、多くの人が支持するものを批判して、ある程度の人を納得させることには大変な苦労があります。
しかし、永遠に「業界」に隷属する気でいる人には、自分が一生批判をすることがないので、そういうことが理解できないようなのです。
いや、わかっていても認めたくないだけなのかもしれません。
僕のことを認めると、自分たちの「安穏な価値観」が崩れ去ってしまうのですから。
僕は能力主義でいきたいし、エスタブリッシュすることにも興味がないので、「業界」に妥協する気が持てませんでした。
だから凡庸な人が「業界」に認められることばかりに執心するのは、僕にだって理解できますし、それを否定する気はありません。
しかし、自分の能力だけを頼る生き方をしている僕には、「業界」の批判をする資格があります。
いくら「業界」に依存したいからって、諸々の犠牲を払って「業界」批判をしている人を、くだらない策略で貶めるというのは、あまりに汚いやり口だと思うのです。
そんなに僕の「業界」批判が嫌ならば、僕は根拠を示して批判しているのですから、
それを参考にして批判されないような「業界」を作ればいいのではないでしょうか。


実はこの騒動の本質には、俳人が属している「俳句村」とでも言うべき村社会の体質が関係しています。
「村」という言い方は抽象的ですが、僕の体感では、俳人のいる世界は驚くほどの相互監視社会です。
批判的な行為をすれば、正当な理由もなく集団で嫌がらせをするような「業界」なので、俳人がビクビクしながら生きるのは当然かもしれません。
この相互監視は、ビックブラザーみたいな監視の主体がいるわけではなく、日本型の世間そのままに共同体の空気みたいなもので形成されています。
つまりは空気を読め、ということを強要するアレです。
有名詩人の最果タヒがせっかく俳句に興味を持ってくれたのだから、批判などしないで歓迎しろよ、空気を読め、という感じです。
この「空気」というものは、共同体内で自然発生的に立ち上がるので、共同体の動向を絶えず窺っていないと読みきれなくなります。
空気を読もうと共同体(業界)の動向に神経をとがらせていくと、自然と俳人は互いの動向を気にすることになり、相互監視状態が成立するようになってしまいます。
僕などは俳句共同体に属してもいないのですが、僕が書いたものがそこに影響を与えてしまうために、相互監視の対象にされてしまっているのです。


そもそも僕は俳句をやらないわけですし、完全に外部の人間なのですが、
勝手に俳人の中に入れられていることが何度もありました。
今回もどこかの俳人に「自称俳人」という分類にされていたようです。
僕に批判的な俳人には、僕の俳句について書いた文章しか読んでいない(読む力がない)人が多いように思います。
僕は俳句を真剣に勉強してから、俳人たちの句集を批判しています。
だから、真っ向から批判をされたことがありません。
しかし、ある俳人はポストモダン思想についても勉強が全然足りていないし、すぐわかる間違いを平気で口にしています。
そのことを僕が指摘すると、彼らはダンマリです。
このように教養と論理では、僕とポモ俳人の間には雲泥の差があるのですが、そのために彼らは正攻法以外の嫌がらせで僕を貶めようとしてきます。
佐野波布一時代のような言葉遣いをしなくなっても、相変わらず根拠も示さずに僕に暴力的なイメージをつけて語ろうとします。
せめて悪口を言うなら、根拠を示してほしいところです。


とにかく、一部の俳人は僕を悪人にすることで「業界」やその利権を守ろうと懸命です。
普通に考えれば、「業界」の利益に与れるのは、ごく一部の俳人だけです。
多くの俳人はそういうものと関係なく、好きで俳句をやっている人たちです。
「業界」の利益を正直に語ってしまうと、多くの人にそっぽを向かれてしまいます。
だから、彼らは自分たちが「俳句」の利益を求めているのだ、と言います。
まるで私利私欲を貪る政治家が「国益」が大事だと口にするように、です。
とりわけ、僕がポモ俳人と呼んでいる『新撰21』や『天の川銀河発電所』という集団句集で登場した俳人たちが僕を忌々しく思っています。
推測するに、僕の「業界」批判は、「業界」の恩恵のない人には届いてしまうのでしょう。
そして、そういう人は目立った発言力はなくても、それなりの数になるのかもしれません。
僕は俳句界とつながりが乏しいので、どれだけの俳人に僕の言葉が届いているかよくわかりませんが、
これだけ排斥されるということは、少なからず影響力があるのかも、と思ったりします。
実際に、今回の「最果さん俳句にようこそ」に加わった俳人は、ポモ俳人と近い関係にいる人が目立ちました。
しかし、僕が嫌な目に遭っていても、俳人たちから援護のようなものはほとんどありませんでした。
それで、僕はバカバカしくなりました。


今回の集団ハラスメント事件で認識してほしいのは、僕を嫌っている俳人たちは、集団でしか何かができない匿名的な存在だということです。
どうして彼らが「個人」として生きられないかというと、俳句村という共同体に依存した村人でしかないからです。
つまり、まだ近代の波が届いていない地域なのです。
そこから抜け出したり、成長したりする気もないのに、彼らは「他人からそう見られたくない」ということだけのために創作をしています。
全然変わる気はないのに、新しいとだけ言いたがります。
ただ「他人からそう見られたくない」という自意識の擁護があるだけです。
僕に対する西川火尖の対応などは、典型的なものでした。
自分が集団ハラスメントに加わったという事実に対して、今さら逃れようもないのに、
それでも「他人からそう見られたくない」というだけで、僕との対話を拒絶して偉そうに振る舞ったりしていました。
正直に言って、彼は本当にみじめな人間だと同情します。
「業界」に隷属し、他人に隷属し、小さな村社会に必死に居場所を求めるしかないのです。
がんばって一生自分自身から逃げ続けられるといいですね。


匿名的で集団的でしかない高度経済成長の敗残物を漁るポモ俳人たちは、自分たちの卑しい実像(陰キャ!)から逃れるために、
自分の低レベルの俳句を個性ある作品だと自己宣伝して、アーティスト顔をしたり詩人や作家顔をしたりすることに懸命です。
本当に優れた作品なら、僕一人に批判されようが何でもないはずなのですが、
実際にはちょっと押したら無惨に倒れる程度のハリボテ俳句でしかないので、
必死に僕を悪人に仕立てて弾圧したり、リンチの標的にしたりしているのです。


青少年諸君、俳句などやってはいけません。
いや、俳句をやってもいいですが、俳句村と関わってはいけません。
いったん俳句村の相互監視社会の中に入ると、もうあなたは業界に隷属した匿名の俳人として生きるしかなくなります。
俳句村以外の選択肢がない、と言うのなら、出版マスコミと関わらない別の場所へとエクソダスすればいいと思います。
僕はさすがに嫌になりました。
正当な理由も説明できない人たちが、集団ハラスメントを仕掛けてくるような「業界」などに関わる気は起きません。


5 Comment

無題

雨蛙さん、クロさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
雨蛙さん、クロさん、コメントをありがとうございます。

雨蛙さん、
俳句との縁を切って上を目指せ、というのは真っ当なご意見だと思います。
俳句と縁を切るのはいいのですが、
上を目指すことには実は悩ましい問題があって、そう簡単ではないのです。

僕は教養を見せつけたり、インテリ風の語彙で偉ぶったり、メタ志向でアイロニカルに振る舞うことを嫌っているので、
物のわからない、くだらない連中にバカにされる機会が多いのは事実です。
若い人との壁が小さくなる利点もありますが、権威主義者にバカにされる弊害はどうしてもあります。

とりわけ僕が出版マスコミと戦うため、仕方なくインターネット上で活動することを選んだことが影響しています。
インターネットで論文調のインテリぶった書き方をしても、読む人は相当に限られますし、
だったら、なぜ出版世界に進出しないのか、ということになるでしょう。
それでは一方通行の情報発信を利用した、今までの腐った権威主義文化を批判することができません。

誰が見ても頭がいいとわかる、高尚で難解な批評を書くのは難しくないのですが、
そういう書き方で低レベルなことしか言えないハリボテが、思想領域や学問領域に死ぬほどいる時代です。

グダグダ書きましたが、僕は思想的には上をめざしているのですが、それを見た目に反映させることは禁じています。
なので、頭の悪い権威主義者はこれからも僕を不当に貶めてくるでしょう。

俳人でもないのに俳句業界から嫌われている人は、世界に僕一人くらいしかいないので、
被害を受けた当人以外には今回の事件がネットいじめと言われる理由がわからないようですが、
必ず集団になって嫌がらせをしてくるのは俳人だけですよ。
他の業界の人たちは、僕に文句を言うにしても、僕に気づかれないところで集団や匿名の力を利用して足を引っ張ろう、などということは誰もしていません。
俳人にこういう目に遭わされるのは今回が初めてではありませんし、完全に「業界」の体質だと思います。
これで縁が切れるといいのですが。


クロさん、
最果タヒの態度には問題があったと僕も思っています。
最果がTwitterで言っていたことを追うと、最果タヒという「名前」で俳句を作ったことを強調していましたので、
自分の作品に対する自信というより、
「最果タヒ」という「商標」に対するプライドを語っているように見えました。
文学をやる人というより商売人としての態度なんでしょうね。
商業的に成功してきたことと、作品の価値はまた別だと思うんですけどね。
一応、詩人という社会的評価に倣って記述していますが、今のところ作品を読もうという気になったことはないですね。

今の商業的創作ジャンルは、現実的基盤を持たない安易な自己承認と自己慰安を語って金儲けをするのが正義なので、骨があったら出世しませんよ。

無題

無題

中学生の頃、塾の先生に優れた批評家の文章をたくさん読んで批評眼を養う、と気炎を吐きました。
その先生は僕の意気込みを買ってはくれたものの、それだけでは不足であるとバッサリ斬り捨てた上で、
先生「浦島太郎はどう思った?」
僕「浦島太郎が気の毒になるひどいストーリーだった」
先生「それも立派な批評なんだよ」

したがって、

> 最果タヒという詩人が書いた俳句を、髙鸞石という俳句界の異端児が引用リツイートで「全然面白くない」と吐き捨てた

これも立派な批評だと考えます。
そもそもすべての人が面白い面白いとチヤホヤしてくれるはずもないし、作品は自由闊達に批評されて然るべきです。
作り手がどんなに心血を注ごうが、外気に触れさせ、つまらんと評されたならそれまでです。作り手と批評の本来の世界であり、南井さんの常々仰る、「ワイルドな世界」ですよね。

しかし、「すべての人に愛される必要なんてない」という慰みフレーズがなぜか流行するように、こころに甘えがあるのかもしれませんね。

最果タヒは35歳……俳人共も同世代でしたか。
こんなのを僕は、お手本にしたくありません。
次代をつくる人材ではないと思いました。

創作系はどれもこれも骨の無い者ばかりですね。毒文化は人の心を堕落させます。ほんとうに。

無題

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