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ヴィリリオと〈総力戦テクノロジー〉【その1】

誤解された思想家

ポール・ヴィリリオの名前を聞かなくなって久しいですが、2018年に亡くなったことで、ますます過去の人になろうとしています。
日本ではヴィリリオの翻訳書が多いわりに、ヴィリリオに関心を持つ人はあまり多くありません。
人気の〈フランス現代思想〉に属しているわりに、そもそも概説書がほとんどないですし、
翻訳者のほとんどがいわゆる有名大学の研究者ではありません。
おそらくヴィリリオが建築家であり、アカデミックな研究者でないことが影響しているのでしょう。
そんなマイナーな存在なのに、日本でヴィリリオの翻訳書が多いのは、
日本で大人気のドゥルーズ=ガタリの双方と交友関係を持っていたからだと思います。
ヴィリリオはドゥルーズ=ガタリの著書で言及されているだけでなく、ドゥルーズと個人的な付き合いもあった人です。
ガタリとは一緒に自由FM放送局「ラジオ・トマト」を立ち上げています。
しかし、僕自身はヴィリリオを読んでいた時に、ドゥルーズ=ガタリを意識することは全くありませんでした。
日本のドゥルーズ学者がヴィリリオに特別な関心を抱いたこともなかったと思います。


なぜ日本の読者はヴィリリオに冷たかったのでしょうか。
これについては、僕にはいくつも思い当たることがありますが、まずは他の方々の意見を紹介しましょう。
2002年1月の「現代思想」はヴィリリオ特集だったのですが、そこで市田良彦と港千尋が対談しています。
市田はヴィリリオやボードリヤールの著書がバブル時代のイケイケの風潮の中で受容されたために、
その本来的な批判性が無視されていたと指摘しています。
これはポストモダン思想の背景を知る上で非常に重要な指摘ですので、市田の発言を引用しておきたいと思います。


人によっては資本主義を明るく生き抜くため、商売で勝ちを収めるため、ヴィリリオを押えておこうと思ったのじゃないかな。実際、バブルが弾けたとたん、読まれなくなってしまったし。要するに、電通的な知性と感性がヴィリリオを捕まえて取り込んだ。(市田良彦、港千尋「新しい政治の創出」『現代思想』2002年1月号)

ボードリヤールにしてもそうでしょう。マーケティングに勤しむ人が糸井重里の成功をボードリヤールによって説明し、納得する。「おいしい生活」、ああこれが「シミュラークル」か、てなもんです。(市田良彦、港千尋「新しい政治の創出」)

市田はヴィリリオとボードリヤールの名を挙げて語っていますが、
バブル期の日本で「電通的な知性と感性」に奉仕したのはドゥルーズ=ガタリやデリダなどの〈フランス現代思想〉全般に言えることです。
ポストモダン思想は「差異」を価値とするマーケティング戦略の教本でした。
このあと、市田は実際に電通の社内研修に呼ばれたことがある、と告白しています。
このような事実を認識していれば、この国で〈フランス現代思想〉が資本主義と対決する思想になりえないことは明らかなのですが、
僕の世代くらいになると、日本の現代思想受容のバブル的実態をよく知らずに、〈フランス現代思想〉で資本主義と戦えるかのような妄想を口にする人がいたりします。
しかし、そういう人は自分が子供時代を過ごした社会のこともあまり理解していないのだと思います。


ちなみに、僕はポストモダン世代の特徴が、政治的に去勢された自己を慰安するために、
政治的なものから逃走して私的領域に「引きこもる」オタク化にあると語ってきました。
この対談では、海外のドゥルーズ派にも政治忌避の傾向があることを市田がハッキリ語っています。
これは非常に参考になる意見なので、少し長くなりますが、ここに掲載しておこうと思います。


ある種のドゥルーズ主義者、ネグリ周辺にもいるドゥルーズに忠実であろうという人たちのなかには、政治という概念はもういらないと言う人までいます。ネグリ派の場合だったら存在論という概念だけで突っ走ったほうがよく、政治の概念そのものを忌避しよう、と。ドゥルーズ派の場合だったら、生の哲学あるいは倫理学に政治を置き換えよう、と。全ヨーロッパ的に見てみると、冷戦終結以降、政治哲学をもういっぺん復権しようという動きがあります。(中略)そういう傾向に対しドゥルーズ派とネグリ派の一部はむしろ、政治はいらないという方向に突き進もうとする傾向がある。
確かに一貫はしているわけです。というのも極端にいえば、ドゥルーズ的な捉え方では、権力というのはそもそもないということにもなる。スピノザでは権力pouvoirというのは、能力puissanceに置き換えられるわけで、ドゥルーズの読み方では生態学的なところに積極的に還元される。実体としては、あくまで世界全体とイコールであるような神の意志、ネグリ的にいえば民衆の力しか実在していないわけです。そこに権力があるかのように見るのは、表象の哲学に過ぎなくて、権力は実体についての間違った見方である、となる。(中略)
あえて矮小化して言うと、ドゥルーズが自分は主意主義者volontaristeであると言った自己規定を「蚤」になることだと解し、「逃走の線」を本当に「政治」から逃げて街のカフェで映画評か美術評を書くことだと思っているような人がいる。彼らは今でも本当に熱心にドゥルーズを読んでいるからなおのこと始末が悪い。(市田良彦、港千尋「新しい政治の創出」)

なるほど、見事な市田の分析に感心します。
ドゥルーズ思想では権力の問題が有機的な全体の中に解消されてしまい、あたかも存在しないかのように扱われがちだと言うのです。
ここを読むだけでも、政治から逃避する趣味的なオタクの自己弁護に、ドゥルーズ思想が貢献した理由が、よくわかるのではないでしょうか。


僕はバブル崩壊以後に現代思想を読み始めたので、一般的にヴィリリオが読まれなくなった時期にヴィリリオを読んでいたことになります。
たしかにヴィリリオへの言及はほとんど見かけませんでした。
バブル期の日本の「電通的知性」を知らない僕にとって、ヴィリリオが資本主義バブルを生き抜くヒントになるという受容の仕方は驚きです。
ヴィリリオは完全に現代社会の黙示録的な批判者だからです。
むしろ、そのようなヴィリリオの実像が日本の読者にわかってきたからこそ、ヴィリリオはだんだん読まれなくなったのだと僕は思っています。
誤解されているからこそ広く読まれる、というのは日本の現代思想の真実かもしれません。


唐突にポストモダンについてまとめますが、
日本におけるポストモダン思想の役割は、実際には下記のような消費資本主義的イデオロギーの肯定でしかありません。

① 政治逃避、現実逃避による趣味的な自己耽溺世界(=欲望)の擁護
② 現実に疎外された自己をメディア上で「救済」(=交換)する間接性の支配
③ 可視化されたものだけを存在(=商品)と見なす〈可視的表層主義(スペクタクル)〉
④ 現実的疎外感の共有によるマイノリティ意識のネットワーク権力化(=市場拡大)

ポストモダン思想(ポストモダニズム)は消費資本主義社会のイデオロギーであり、
僕はこのイデオロギーに支配された時代をポストモダンと呼んでいます。
上記を実現しているのは、インターネット通信やスマートフォン端末などのメディア・テクノロジーの進歩です。
その意味で、メディア・テクノロジー依存の時代と言ってもいいと思いますが、
ヴィリリオの思想を読み直す意義はまさにここにあります。
ヴィリリオが問題にしているのは、メディア・テクノロジーの進歩が何によって駆動されているのか、どんな破局をもたらすのか、ということだからです。
その意味で、ヴィリリオの本質はポストモダン的なメディア・テクノロジーの批判にあります。
これが日本のメディア依存的なポモ思想オタクたちから、ヴィリリオが無視された主な理由です。
他の理由としては、ヴィリリオが著書の中で同時代的な世界情勢などを積極的に語ることが考えられます。
日本のポストモダンは現実逃避、政治逃避が基本ですので、こういうヴィリリオのスタイルは日本の読者を敬遠させることになったことでしょう。
しかしポストモダンが行き詰まった今こそ、ヴィリリオをポストモダンの批判者として読み直す好機だと僕は思います。


さて、ヴィリリオ思想を読み直しに取りかかる前に、二つばかり言っておきたいことがあります。
ひとつは、ポストモダンの科学用語の間違った濫用を告発して話題になった、ソーカルとブリクモンによる『「知」の欺瞞』(1998年)に、ヴィリリオの名が上がっていることです。
僕はこの事実を知っていましたが、それほど意外でもなかったですし、瑣末的な問題だと思っていたので無視していました。
しかし、今回この記事を書くにあたって、ヴィリリオの箇所を確認しておこうと思って読みました。
ヴィリリオが用いた相対性理論などの物理学用語は、ソーカルとブリクモンが批判するとおり、素人の僕でも科学的に不正確だと思います。
ただ、彼らの批判は少し的外れでしかないように感じました。
ヴィリリオの使う科学用語は、彼の思想そのものに貢献するというより、「速度」一辺倒のワンパターンを避けるための文学的レトリックとして用いられたものだからです。
要するに比喩のような使い方なので、文学や思想としてヴィリリオを読む場合に、その影響は全くないと僕は思っています。
(まあ、フランス人はオシャレ意識で科学用語を使っているだけなのでしょうからね)


もうひとつ言っておきたいのは、ヴィリリオの思想は概説すると魅力の多くが失われる、ということです。
ヴィリリオの思想スタイルは文学的かつ政治的アフォリズムの積み重ねで構成されています。
体系的な思想スタイルではないので、普通に概説を試みてしまうと、概説をしている書き手自身の意見でしかないものが多く混じってしまいます。
前掲の「現代思想」のヴィリリオ特集の記事の多くは、ヴィリリオについて書いているのかよくわからないものがほとんどでした。
個人的な意見ですが、僕はヴィリリオを「思想」の手続きで読むのは難しいと思っています。
イマジネーションや発想がぶっ飛んでいるため、言っていることがよくわからなかったり、こじつけにしか見えない部分が多いのです。
ヴィリリオを読みあさってきた僕がヴィリリオについてこれまで書いてこなかったのも、うまく書ける気がしなかったからです。
それでもヴィリリオから体系的な思想を取り出したいという欲が僕にはあります。


戦後も続く総力戦体制というテーマ

ヴィリリオの思想の概説を試みるときに、まともに思想として説明するとつまらなくなるという逆説に突き当たります。
ヴィリリオの主張を大づかみにまとめてしまうと、案外単純だからです。
我々の社会は「速度」をどんどん増していく欲望に突き動かされていて、
伝達の高速化を求めるメディア環境によって、人間の時空間の認知にこれまでにない大きな転換がもたらされる、という内容です。
具体的に言えば、インターネットによる瞬時双方向情報通信インタラクティビティによって、人々が同時性の地球時間グローバルタイムを生きるようになり、
そのようなヴァーチャルな時空間に囚われた人間は、「現実」を失っていきます。
その大転換が「大事故」というカタストロフィをもたらすのです。


多くのことを「速度」で説明するため、ヴィリリオは「速度」の思想家と言われます。
あくなき加速の欲望が生み出す地球規模のメディア的な間接世界や、リアルタイムという同時性の時間によって、
現代人から個々の身体感覚を基準とした時間や空間が失われていくことに、ヴィリリオは警鐘を鳴らしています。
これを市田良彦は、人間が生産活動によって自己の本質を失う「疎外論」として片付けるのですが、
キリスト教と哲学の葛藤を、何でもマルクスの図式に当てはめて疎外論で片付けるのは間違っています。
そう感じるのは何でも哲学の知識内で考えようとするからです。
のちのち触れることになりますが、ヴィリリオの批判はキリスト教的世界観に向けられています。
そのことに気づかないと、ヴィリリオ思想の真価に触れたことにはなりません。
思想にとどまらず幅広いジャンルの教養を総動員して、ヴィリリオを理解する必要があるのです。
(だからこそ、オタクばかりの日本の〈フランス現代思想〉研究者にはヴィリリオの重要性がわからなかったのです)


僕がヴィリリオを黙示録的な預言者と位置づけるのは、情報化社会を徹底して絶望的なディストピアとして描くところから来ています。
僕がヴィリリオを読んでいた時は、インターネットが普及し始めた時期で、メディア・テクノロジーの発展を肯定的に語る言説が支配的でした。
(僕と同年代の東浩紀は、これからはネット時代だという安直な態度そのものでした)
しかし僕は古典主義的な態度を手放すことなく、高度メディア社会をディストピアとして冷徹に見つめるヴィリリオに共感していました。


まず肝心なことを最初に言います。
彼が建築家であることが影響しているのでしょうが、ヴィリリオの社会モデルは都市であって国家ではありません。
都市単位の社会が交通によって連結して構成されるのが、ヴィリリオの「世界」モデルです。
市田良彦はヴィリリオを冷戦時代の思想と位置付けていますが、それは他のポストモダン思想家に言うべき言葉で、ヴィリリオには当てはまりません。
ヴィリリオが国家という概念を軽視しているのは、都市という構造物をひとつの「乗り物」として捉えているからです。
このようなイメージがいかにインターネット時代にふさわしいものであるかがわからないのは、市田の考え方が古いからです。
たとえば「マクロス」シリーズや「シドニアの騎士」などのSFアニメに見られる、
都市を内包する宇宙戦艦という「乗り物」で、移住先の惑星をめざす設定などは、まさにヴィリリオの抱く「都市」のイメージそのものです。


さらに言うと、都市と宇宙戦艦の結合を考えればわかりやすいと思いますが、「乗り物」としての都市とは、限りなく「方舟」に近いということです。
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」にも方舟が出てきますし、「機動戦士ガンダム」の宇宙空母ホワイトベースの艦長はブライト・ノアヽヽです。
日本のサブカル文化は、ユダヤ・キリスト教文化の表層的受容として発展したものです。
クリスマスやバレンタインデーが消費促進キャンペーン、ハロウィンが集団コスプレ大会として受容された国であることを思い起こしてもらえれば、
誰でも僕の言いたいことが理解できると思います。
(だから、サブカル作品をキリスト教圏の思想で意味づけるのは簡単なのです)


移動を旨とする都市の日常性と軍事兵器との結合にこそメディア・テクノロジーの発達がある、というのがヴィリリオの基本認識です。
ヴィリリオにとってメディアとは乗り物であり兵器なのです。
(インターネットが軍事技術の転用であることを思い浮かべることは重要です)
そしておそらくは救済すべき信徒を乗せた「方舟」のようなものでもあります。
ヴィリリオの思想とは、キリスト教的「近代」が生み出し、今も持続している〈総力戦テクノロジー〉への批判なのです。


ヴィリリオの最初の著作は『バンカーの考古学(Bunker Archeologie:未邦訳)』(1975年)です。
バンカーとは物資や人員を敵の攻撃から守るシェルターのことで、日本では掩体壕と記されます。
ロシア語ではトーチカと言い、旧日本陸軍は「特火点」と呼んだものです。
ヴィリリオが意識しているのはドイツ軍のものなので、ドイツ語読みの「ブンカー」の方が良かったかもしれません。
ヴィリリオは『黄昏の夜明け』(2002年)でシルヴェール・ロトランジェのインタビューを受けて、バンカーについてこう語っています。


まさしくバンカーは、強制収容と殺戮が行われた二〇世紀を象徴するものです。私の記憶に刻まれた戦争の象徴を挙げれば、それは防空壕の内部に塗られた塗料です。電気を使わずに済むように──爆撃のあいだ、たいてい停電することはご存じですよね──防空壕の壁に蛍光塗料が塗られていました。始めのうちは何百人もの人々が群れをなしてそこに行きましたが、結局は行くのをやめるようになります。それより路上で死ぬことの方がましだと思ったからです。どうしてそんなことをと思うでしょうね? 満員電車のような防空壕の中でひしめき合いながら生きていたのですが、ときどき爆弾が落ちてきて送風機が止まりました。そしてしばしば呼吸困難に陥っていたのです。まさしく防空壕で光っている燐光はダンテの『神曲』「地獄篇」のイメージを想起させるものだったのです。私にとってバンカーはこういった総力戦の現実を象徴するものなのです。(ポール・ヴィリリオ『黄昏の夜明け』土屋進訳)


バンカーは「総力戦の現実」を象徴するものだ、とヴィリリオが語っていることを見逃してはいけません。
ヴィリリオは「速度」についての思想家という扱いをされますが、「速度」というテーマに至る前に、原体験としての「総力戦の現実」があったことに注目することは重要です。
死の克服をめざす集団的な「乗り物」を動かすのに必要なのが総力戦体制であり、
ヴィリリオは虚構の都市空間が「総力戦の現実」を反映した「乗り物」であることを示すために、「速度」というテーマを見出したのです。
ヴィリリオを読むという「体験」は、私たちの都市環境や情報メディアが〈総力戦テクノロジー〉であるという事実を確認することを意味します。
これまでヴィリリオの概説があまり成功していないのは、ヴィリリオの思想から速度、視覚イメージの変容、リアルタイム情報社会などのテーマを断片的に取り出すだけで、
これを体系的にまとめて提出することをしてこなかったからです。
(まあ、ヴィリリオ本人が体系化を避けるポストモダンのスタイルをとっていることもあるのですが)
私たちの世界は、大戦が風化した今でも、〈総力戦テクノロジー〉の支配下にあるというのが、ヴィリリオの基本認識です。
しかし、「現代思想」のヴィリリオ特集を眺めても、総力戦の視点でヴィリリオを語っている人は不思議と目につきません。
市田良彦は「ユンガーの「戦争文学」がなければ、ヴィリリオのテキストは生まれなかった」と、ヴィリリオと総力戦との関連に触れているのですが、
ヴィリリオがあまりに預言者的なあり方をしているために、一般には権力の「新しい」支配的テクノロジーを語っているとしか捉えられていないのです。


僕は不用意に「総力戦」と書いてきましたが、そもそも総力戦とは何なのか、という疑問を持つ人もいるかもしれません。
それを明確にしておきましょう。
総力戦とは、前線の軍隊同士で局地的に戦争が展開するにとどまらず、国家や共同体の生活領域全域が戦争に動員され、破壊されるような戦争のあり方です。
総力戦においては、「戦力」と関係のない価値領域は存在しません。
すべてのものが戦争の勝利に向けて動員されることになります。
総力戦以前は、戦争は前線の軍隊によって局地的に行われる面がありましたが、
総力戦となると国家や共同体の全領域が戦争に動員されるために、すべてが戦争による破壊の対象になるので、戦場が遍在化するようになります。
つまり、日常生活と戦場の区別がなくなります。
総力戦では、すべてのものが「戦力」として戦争の勝利のために存在し、戦争の勝利のために動員され、敵の破壊へと貢献するようになります。


総力戦の始まりには諸説あるようですが、近代以後であることについては争われていません。
古代中国や遊牧民の戦争には、総力戦に類似した生活領域を巻き込んだ戦争の全体化が見られるような気もしますが、
明確な定義を求めるなら、飛行機による上空からの爆弾投下が総力戦を可能にしたと考えるとわかりやすいと僕は思っています。
人間の生活領域を逸脱した、物理的障壁のない空中(=メタ位置)を自由に戦争が駆け巡るのが総力戦のイメージです。
それが爆撃機でも、ミサイルでも、ドローンでも、人工衛星からの電波でも、総力戦に必要な技術であるという点では変わりがありません。
〈総力戦テクノロジー〉とは、戦争時に攻撃対象への距離をできるだけ無化する技術だと考えてください。
距離をできるだけ無化するために、「速度」が重要であるのは言うまでもありません。
「速度」とは総力戦の鍵であり、総力戦においては共同体の全領域が、潜在的な「戦場」なのです。


ヴィリリオは経済についてあまり関心がないようですが、経済戦争における総力戦というものを考えることがとりわけ重要です。
経済的「総力戦」では、すべてのものが市場と関連づけられ、全部が経済活動に還元されることになります。
「総力戦」という文脈だけで考えれば、巨大な破壊力を持つ兵器と巨大な売上を誇る表現作品は同じような価値を持つことになります。
とりわけ文学は言語の枠を越えるのが難しいため、国家主導の総力戦に動員されやすいメディアであると言えますし、
そのような過去と向き合ったのが戦後文学だったのですが、今や戦後文学を真剣に読んだ作家を探すのも難しいのではないでしょうか。


日常に潜む総力戦の影

先ほどヴィリリオの都市のイメージを、SFアニメを例にとって示しましたが、
漫画やアニメと総力戦体制との関わりを調べているのが大塚英志です。
大塚は『大政翼賛会のメディアミックス』(2018年)で、80年代後半に角川書店が生み出したとばかり思っていたメディアミックスの手法が、
実際には総力戦の戦時下でも実行されていたという驚きの事実を記しています。


ぼくは長い間、自分たちが「つくった」と思い込んでいたメディアミックスの手法が、戦時下のメディアミックスと同じ枠組みのものであることについては無自覚であった。しかし角川書店が読者を映画館や商品の購入へと「動員」する技術と、翼賛会が国民を戦時体制、そして戦場へと「動員」した技術は実は「同じ」なのである。(大塚英志『大政翼賛会のメディアミックス』)

大塚がメディアミックスと呼ぶ「動員」の手法は、単に一つの作品がいろいろなメディア上で展開されることにとどまりません。
メディアミックスを仕掛ける管理者が、受け手の自発的なヽヽヽヽ参加を促し、一定方向へと動かす技術のことなのです。
念のため大政翼賛会という歴史を知らない人のために、簡単に説明しますが、
大政翼賛会は1940年から45年の間に、国を挙げて軍事体制に協力すべく、すべての政党が自発的にヽヽヽヽ解散して成立した、官制の政治団体の名称です。
そこでは最終決定を総裁(首相)一人が行うという「衆議統裁」というナチス的な手法が取られることになりました。


『大政翼賛会のメディアミックス』で大塚が取り上げたのは、1940年末ごろから多くの新聞、雑誌に連載された「翼賛一家」という漫画です。
「サザエさん」の原型という指摘もされる家族の日常モノで、
漫画にとどまらず、レコード化、ラジオドラマ化、小説化、舞台化と多ジャンルのメディア上で展開されたのですが、短期間で終了しています。


大塚が注目するのは、「翼賛一家」が読者の「二次創作」を呼び込む参加型の企画だったことです。
キャラクターや舞台などの設定を一般読者に公開することで、それを流用した二次創作の意欲を読者に引き起こす「戦略」だったのです。
その効果は、若き日の手塚治虫が「翼賛一家」の二次創作に参加していたことでも確認できます。
メディアミックスとは、作品を他ジャンルのメディアで展開し、二次創作を促すことで、作品のコピーを偏在化(全体化)させる手法なのです。
オリジナルから遊離した作品の総力戦体制と言ってもいいでしょう。
大塚が強調するのは、メディアミックスの管理を原作者ではなく、第三者が「版権(著作権)」として統一的に行う仕組みです。
言ってしまえば、メディアミックスの背後には著作権ビジネスがあるのです。
「翼賛一家」においては、版権の管理は大政翼賛会、つまりは国家権力が行なっていました。
著作権とはその作品やキャラクターを商品化する権利のことです。
つまり、その作品を利用して金儲けをする場合、作り手より著作権を持つ者の方が上位にあり、その許諾を得ないことには作り手に商品化の自由はありません。


著作権による管理は、現代的な問題を浮かび上がらせます。
大塚は二次創作を著作権で管理するやり方が、投稿文化から現代のインターネットにまで受け継がれていると考えています。
たしかにインターネット上の表現は、投稿文化の延長にあるものかもしれません。


現在の角川型メディアミックスは、プラットフォームが「投稿」の場を管理し、見かけ上は自由な表現が担保されている。だから角川はプラットフォーム企業に変化もした。今や「投稿」というメディアとの接触行為が人々の日常に当たり前すぎるほどに組み込まれている。誰もが自由に情報や意見、自己表現を発信できる新しい時代の到来のようにも思える。
しかし、そこで、私たちヽヽヽは本当に「自由に」表現しているのだろうか。プラットフォームに「投稿」することが日常化した現在において、「投稿する人」は実は無自覚に「表現させられて」はいないのか。何故なら、角川型、SNS型のプラットフォームはユーザーに「投稿させる」ことで成り立つビジネススキームだからである。(大塚英志『大政翼賛会のメディアミックス』)

「投稿」というかたちで二次創作に参加することで、プラットフォームの利益のために「動員」されているのではないか。
YouTubeに動画をアップすることは、Googleの利益に貢献する行為でしかないのではないか。
大塚が「表現させられて」いると言うのは、そういう自発的な消費文化ビジネスへの隷属姿勢のことを言っています。
このような問題意識が僕には非常によくわかります。
僕が関わったAmazonレビューが、まさに投稿型のサービス労働の最たるものだからです。
Amazonレビューは、消費者の現場の声を無料で広告として「動員」するためのプラットフォームです。
ただ、僕が活動していた時期は、その広告が購買者の利便性に奉仕するものとしてありました。
しかし、Amazonの利用者が増えるに従って、売り手の都合が重視されるようになり、
商品の正当な批判であっても、目立つレビューは売上の足を引っ張る「悪意」とみなされ、レビューの著作権を持つAmazonによって無断削除されることが起こりました。
商品レビューは購買者に奉仕するのではなく、売り手に都合の良い「広告」でなければならない、ということになったのです。


SNSにも同様のことが言えます。
僕はTwitterしかやっていないので、Twitterのことしかわかりませんが、
Twitterもメディアミックス的な「広告」メディアとして利用されている面が大きいと思います。
権力の批判や売れている商品への批判をすると、「広告翼賛会」に反抗する非国民のように扱われたりします。
そのため、つまらないものを互いにやたら褒め合うことを「マナー」として相互監視し合う、「広告隣組」的な文化を醸成することになりました。
そういう「広告隣組」に参加することが、大手メディア御用達のビジネス作家サロンに加入する資格試験のようになっていて、
出版ビジネスサロンの一員になりたい作家の玉子みたいな人たちが、メディア利権に批判的な「非国民」を、集団で攻撃する「点数稼ぎ」を行っているような有様です。
そういう人たちは、自分たちが既得権に「動員」されている「無名兵士」であることを自覚する力も持ち合わせていません。


大塚の主張は直観的で論証を欠いている(大政翼賛会の説明もない)ので、多くの人に受け入れられるとは思いませんが、その問題意識そのものは間違っていないと思います。
インターネットを含めたメディア技術は、〈総力戦テクノロジー〉として発展してきたものなのです。
ポストモダン思想は国家権力による総力戦を批判して、グローバル市場による総力戦へと協力するものでしかありません。
要するに、国家批判を隠れ蓑にして、総力戦体制に対する批判を棚上げにしていったのがポストモダンという時代です。
ポストモダン思想には、メディア空間が権力に動員された空間であるという認識が決定的に欠けています。
靖国神社に英霊として名を残すことと、出版業界で作家として名を残すことの相同性について、
三島由紀夫の事件を経験してもなお、考察する人が出てくる気配がちっともありません。


戦後社会が総力戦体制と地続きである、という直観は、戦後文学の中ではほとんど常識として共有されていました。
いや、民主主義の負の側面とも言える総力戦体制を批判することが、戦後文学の大きなテーマだったと言ってもいいでしょう。
たとえばヴィリリオより5歳若い古井由吉の初期作品には、戦後の日常の中に戦時の暗い気配が潜んでいることを丹念に描いたものが目立ちます。
このあたりまでは、戦後文学的なものがまだ生き残っていたように思います。
「先導獣の話」(1968年)は、群衆が一斉に非合理的な方向に殺到する時に、そのキッカケを生み出す先導者について考察する小説です。
アーレントの「凡庸な悪」ともつながる問題意識をもって書かれた優れた小説なのですが、
古井由吉は完全に内省化したエッセイ風小説を書いてから売れた作家なので、このような初期作の存在はあまり知られていないのではないかと思います。
「先導獣の話」の語り手は、朝に出勤する整然たる群衆に「殺到の秩序」を感じ取って背筋を冷やします。
整然たる群衆が先導獣によって非合理的な方向に殺到するなら、その先導獣とはどういう存在だろうか、と考えるのです。


先導獣とはどんなものか、私にははっきり思い浮べられなかったが、しかしそれがどんなものでないかははっきりとわかっていた。それは強烈な個性ではなかった。なるほど強烈な個性はまわりの人間たちを、異和感と屈辱感によってだけでも、かなり遠くまで引きずって行くことができる。実際にそんなこともあった。しかしこのように滑らかに流れる大都会の群衆には、いかに強烈な個性をもってしても、とうてい歯が立ちはしない。そもそもあの流れの中に入っては、強烈な個性などというものがありうるだろうか。(中略)
それにしても、かりにこの滑らかな秩序につかのまでも狂いを来たさせることのできる人物がありうるとしたら、それはどんな人間だろうか、と私は考えた。それはほかの人間たちに何の不安も何の愛憎も抱かせない人物ではないだろうか。誰もが拒みようもないほどに無害らしい人物ではないだろうか。(古井由吉「先導獣の話」)

語り手が感じ取った群衆の非合理的な「殺到の秩序」の気配には、大衆が戦時ファシズム体制へと飲み込まれた記憶が反映しています。
群衆はいつだって少しのキッカケで「殺到の秩序」へと舞い戻る、と彼は感じています。
日常に潜む潜在的な総力戦の気配が、戦後文学はもちろん、古井の初期作あたりまではテーマとして存在していました。
それにしても、群衆に「殺到の秩序」をもたらす先導獣を、強烈な個性を持つ人ではなく、人々に不安を起こさせない無害な人物として思い描く古井の直観は、なかなか鋭いと思わせます。


古井由吉の「円陣を組む女たち」(1969年)も同様のテーマを持つ作品です。
語り手は春先の夕暮れ時に、公園の芝生の上で円陣を組んでいる15歳くらいの少女たちを見かけます。
「夏になっても、円陣を組む少女たちの姿は粘っこい不快感とともに私の中に残った」と語られるように、
そんな取り留めのない情景がエロティックに描かれながらも、語り手の心に嫌悪をともなって刻まれるのですが、
小説のラストになって、それが戦時中に空襲で焼け出された時の記憶へとつながっていることが明らかにされます。


そしてその時、遠くから地を這って射しこんできた光の中で、私は鬼面のように額に縦皺を寄せた見も知らぬ女たちの顔と顔が、私の頭のすぐ上に円く集まっているのを見た。空一面にひろがって落ちてきた雪崩が、今でははっきりと一塊りの存在となって、キューンと音を立てて私たち目がけて襲いかかってきた。私をつつんで、女たちの体がきゅうっと締った。その時、私の上で、血のような叫びが起った。
「直撃を受けたら、この子を中に入れて、皆一緒に死にましょう」
そして「皆一緒に……、死にましょう」とつぎつぎに声が答えて嗚咽に変わってゆき、円陣全体が私を中にしてうっとりと揺れ動きはじめた。(古井由吉「円陣を組む女たち」)

女たちの作る円陣から醸し出されるエロスは、空襲下においてタナトスへの誘惑として記憶されていたのです。
ここでも古井は、普通の人であれば見逃してしまいそうな日常の瑣末なものごとに、総力戦の恐怖を感じ取っています。
もはや安心できる日常など存在しない、それが総力戦以後の戦後文学に共通する認識であり、出発点でもあったのです。


都市とメディアを総力戦の視点から捉えるヴィリリオの想像力も、戦後文学と同様のものと考えなくてはなりません。
古井由吉の感じ取った恐怖が、表面的な世界に生きる多くの人にとって「考えすぎ」「不安に感じすぎ」としか思えないように、
ヴィリリオの言うことも凡庸な人にとっては、極端に物事を悪く捉えているように見えることでしょう。
(もしかしたら、僕の出版業界批判もそう受け止められているのかもしれませんね)
しかし、凡百の人間が見逃してしまう瑣末なことに重大さを感じ取ることが、詩的かつ文学的感性というものなのです。
現実や日常性をズラしたり異化したりすることが何やら詩的かつ文学的であるかのように思っているポストモダン時代とは、
それだけ表面的な現実や日常性が確固なものと信じられていた「平和ボケした時代」だったということです。
ポストモダンの思想家と言われながら、ヴィリリオの思想(もしくは戦後文学)が日本でまともに読まれなかったのは、
日本のポストモダンが文学的感受性に乏しい「平和ボケの電通的マーケティングメンタル」だったことが原因だと言えるでしょう。
ポストモダン時代において、文学作品は現実の利益団体である「業界」から承認を受けるための手段と化しています。


ポストモダンがお笑いなのは、作品では現実逃避的な世界を描きたがる人たちが、
作品の流通によって「業界的地位」という現実的な利益を手に入れようと必死になっていることです。
村上春樹がしきりに描いた「ディタッチメントを維持しつつコミットする」という間接性の天下は、
アイロニカルなメタ的立場にいながら、現世的享楽を存分に享受する「オタク的欲望」をそのまま示したものです。
同時代的な「欲望」を共有する作品が、大衆人気を獲得するのは疑いもないことですが、
どれだけメディア上の表層的な賛辞を集めたところで、低レベルな欲望が高レベルの精神を実現することはありません。


「移動」とポストモダン

ヴィリリオが「速度」というテーマを前面に押し出して、新時代の思想家と目されるようになったのは『速度と政治』(1977年)を書いてからです。
ヴィリリオのテーマが「速度」にあることが、目次を並べるだけでこれ以上なくハッキリと示されています。

『速度と政治』目次
第一部 速度体制の革命
第二部 速度術の進歩
第三部 速度制社会
第四部 緊急事態

最後の「緊急事態」などはコロナ禍では妙にタイムリーに見えてしまうのも確かで、
黙示録的預言者ヴィリリオの面目躍如という感じがあります。
この本は「あらゆる革命には交通が逆説的に現前する」の一文で始まりますが、
ここでヴィリリオが描き出そうとしているのは、街路を移動する群衆のパワー、革命的を求める群衆が速度の生産者になる事態です。


歴史全体を通して、語られず暴かれなかったひとつの革命的彷徨が存在する。〈最初の公共輸送機関〉の組織化である。ところがこれこそ、革命そのものなのだ。また、「あらゆる革命は都市で行われる」、都市からやって来る、という古くからの確信や、一七八九年の事件以来用いられるようになった「パリ・コミューンの独裁」という言い方も、都市/農村という古典的対立よりは、停止/交通という対立を示唆しているのではないだろうか。(ポール・ヴィリリオ『速度と政治』市田良彦訳)

ヴィリリオにとって都市とは、集団で移動する群衆の結集地であり、一時停止の場所として把握されています。
つまり、移動する電車が一時的に停車する駅のような存在です。
都市や群衆の本質は「速度」を生み出す「移動」にあり、それこそがパワーの源泉なのです。


注意したいのは、このような発想の根底には、移動するものにこそ「主体性」があるということです。
駅はあくまでも一時的な居場所でしかなく、主体として存在するのは移動する電車であるということです。
それがバスであろうと飛行機であろうと同じです。
都市という生活空間は背景のようなものでしかなく、次々に生活空間を高速で後景へと流し去って移動する「乗り物」こそが主体の位置にあるのです。
このような時代を近代と呼ぶか、ポストモダンと呼ぶかは微妙なところですが、ポストモダンになって顕在化した事象であると僕は思います。
このような世界で、都市住民が主体性を打ち立てようと考えると、移動する都市のイメージを描くようになるのです。


あと、ここでは示唆にとどめますが、ヴィリリオの速度を前提とした「停止/交通という対立」の捉え方は、将来的にマシン語のプログラムへと置き換えられることになります。
なぜなら、電流の「停止/交通」とは電圧の「低/高」に対応し、それがマシン語における「0/1」に対応するからです。


ポストモダンと「移動」の話をするときに、僕としては触れておきたいことが二つあります。
ひとつはユダヤ教の問題です。
ポストモダンの価値観を代表する〈フランス現代思想〉が、ユダヤ的な価値観と親しいことはすでに何度も指摘したことですが、
どうしてポストモダン思想において「ユダヤ的なもの」が重視されなければならなかったのか、ということをきちんと説明した人は見たことがありません。
(そもそも流行への興味しか感じられない〈フランス現代思想〉の研究者に、深い教養的な視点を期待するだけムダなのですが)
仕方ないので、僕が自分の見解を語りますが、僕の考えでは、ユダヤ教の特色が「土地を持たない宗教」であることと関係しているように思います。
ユダヤの神であるヤハヴェ(仮)は土地(神殿)も名前も持たない唯一神です。
ユダヤ人が世界各地へと散り散りになったディアスポラ後でも、ユダヤの信仰を強く維持することができたのは、ユダヤ教が特定の土地と結びつかない、聖書や法を居場所にするポータヽヽヽブルなヽヽヽ宗教であったからだと思います。
つまり、ユダヤ的価値観には「移動モバイル」を前提としている面があるのではないか、ということです。
これが聖書重視のプロテスタンティズムからアメリカニズムへと流れ込んでいるのです。


もうひとつは、〈フランス現代思想〉のドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』(1980年)で提唱した「ノマドロジー」についてです。
ドゥルーズ=ガタリがヴィリリオに言及したのが、まさに『千のプラトー』の遊牧論と戦争機械についての部分です。
定住領域から逸脱する開かれたあり方を表す造語であるノマドロジーが、領域横断的な「移動」を前提としていたことにも注意が必要です。
ドゥルーズ=ガタリは、遊牧民にとって「すべての地点は中継点であり、中継点としてしか存在しない」と述べています。
これはヴィリリオが都市について、「都市とは一時停止の場、弾道のシナプス的軌道の上にある一点」だと語っていることそのままです。
どうにもヴィリリオの影響が濃いように思えてなりません。
(ちなみに横断的ネットワークを表す「戦争機械」という言葉はドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』より前に、ヴィリリオの『速度と政治』の中で目にすることができます。
ヴィリリオは「都市−機械」「国家−機械」「惑星−機械」という語も用いています)


ノマド(遊牧民)についての記述で興味深いのは、ドゥルーズ=ガタリが「遊牧民と移民とはまったく異なっている」とすることです。
彼らによれば、両者の違いは定住(領土化)に帰結するかどうかにあります。
移民は再領土化を果たすべく目的地へと移動する存在です。
それに対して、「脱領土化そのものにおいて再領土化する」存在である遊牧民は、
領土とならない地を領土とする「脱領土化」した運動体として把握されているように思えます。
ここで奇妙なことに、ドゥルーズ=ガタリは局所性に留まる遊牧民を語るのに、草原よりも砂漠を優先して持ち出します。
なぜ奇妙かと言うと、遊牧民というと中央ユーラシアの草原を移動するイメージが一般的だからです。
実際にウィキペディアで検索してみると、モンゴル高原から中央アジア、イラン高原などが例に挙げられていますが、砂漠には言及されていません。
「遊牧民は砂漠によって作られるのと同じ程度に砂漠を作るのである」と述べるドゥルーズ=ガタリは、なぜ遊牧民を語るのに草原ではなく砂漠を持ち出したいのでしょうか。
遊牧民の居場所である「局所的絶対」が、砂漠のイメージで把握されているのは、
ドゥルーズ=ガタリの提唱するノマドロジーが、実際は遊牧民ではなく、ユダヤの民をイメージしていることを隠すためではないか、と僕は疑っています。
砂漠が一神教の発祥の地であることは明らかです。
この後にドゥルーズ=ガタリは、遊牧民がユダヤ教やキリスト教やイスラム教などの一神教と異なる「無神論的な絶対なるものの感覚」を持っている、と語るのですが、
僕はこのような説明に説得力を感じることができません。
前述したように、ユダヤ教とは領土なき「移動」する宗教だからです。
砂漠といい、脱領土化した絶対といい、どうにもドゥルーズ=ガタリの言う遊牧民には、一神教の原点であるユダヤ的色彩が隠されているように思えるのです。


遊牧民には騎馬のイメージがつきまといます。
つまり、運動体であり続けるためには、「乗り物」に乗り続けるということです。
『千のプラトー』でドゥルーズ=ガタリは、ヨーロッパ近代の「同一性」原理に、「移動」する遊牧民(というより砂漠の民)のイメージで対抗するのですが、
ヴィリリオの視点で捉えると、これこそが一神教によって形成されたヨーロッパ的なものの原点回帰でしかないように思えるのです。
というのも、『千のプラトー』でドゥルーズ=ガタリは「速度」を局所のはらむ絶対的な強度としてポジティブに捉えているのですが、
ヴィリリオにとって「速度」はちっともポジティブなものではないからです。
ドゥルーズ=ガタリとヴィリリオが個人的に親しかったのは本当なのでしょうが、著作しか知らない僕には、彼らの「思想」の方向性はだいぶ違うように思われてなりません。
のちに取り上げる映画についても、ドゥルーズはポジティブな扱いをしていますが、ヴィリリオにとっては総力戦の兵器という扱いです。
ヴィリリオが負の側面を強調した〈総力戦テクノロジー〉を、ヨーロッパ的近代国家とのゲリラ戦に利用できると考えた点で、ドゥルーズはオプティミストだったと言えるかもしれません。
(しかしご存知のとおり、ドゥルーズ思想はグローバルなネットワーク情報社会に追従する結果になりました)
そういうわけで、僕はヴィリリオとドゥルーズ=ガタリが同じベクトルにある思想家とは考えていませんし、
ドゥルーズ=ガタリの思想の有効性が薄れた今でも、ヴィリリオの思想は有効性を保っていると思います。


大澤真幸は『〈世界史〉の哲学 近代篇 Ⅰ 』で、なぜ近世以降の西ヨーロッパ人だけが自らの領土を離れて大洋へと進出したか、という問いに答えようとしています。
つまり大澤は、西ヨーロッパ人だけが何があるのかわからない未知なる場所へと「移動」できた存在だとするのです。
未知への「移動」という命がけの跳躍へとヨーロッパ人が赴くことができたのは、不可知なものへ探究心を持ち合わせていたということです。
そのような不可知なものへの探究心の起源を、大澤はカルヴァン派プロテスタントの「予定説」に見ています。
予定説では、救済は現世での生き方とは無関係に神の意志ですでに決定されていることになっています。
予定された神の救済は、現世の人々に知ることはできないのですが、
それが神への不信感にならずに、むしろ信仰を現世全体に行き渡らせるほど強固なものにしたのです。
なぜなら、確信できない救済の決定を疑うことなく信じる人だけが、自らの信仰の強さを証明することになるからです。


「なんだ、おまえ救済の結果がわからないからって信仰が揺らいじゃうのかよ」
「だって、一生をかけて信仰したのに救済される予定ではなかったとわかったら虚しいじゃないですか」
「何言ってるんだ。救済される予定がわかっているから信仰するヤツなんて、神様は信用しないんだよ。予定がわからないのに信仰するようなアツい人間だから、神様もそれを見抜いて救済してくれるんだよ」
「なるほど、好かれるとわかっている相手を愛すより、片想いであろうと愛し続ける人の方がカッコいいですもんね」


神が予定した救済が現世の人々に不可知であるならば、救済は現世の人々にとって「決定不可能性」として現れることになります。
日本の〈フランス現代思想〉研究者は、ポストモダン思想の「決定不能性」へのこだわりについては相対主義としてしか説明しないのですが、
その「決定不能性」がプロテスタント的な強い信仰を導く「逆説的表現」であることについて、全く理解が及んでいません。
強い信仰を導く「決定不能性」という要素を、キリスト教文化の浸透していない国にそのまま持ってくれば、単なる決定の宙吊りによる現世への蔑視に陥るだけになります。
そんな日本のポストモダン思想が、経済的余裕を背景とした、メタ的な位置を確保したがるモラトリアム(オタク)の肯定へと結びつく結果となったのは、道理ではないでしょうか。
丸山眞男の「タコツボ型」など、今までに何度指摘されたかわかりませんが、ヨーロッパの歴史的、文化的な背景を学ぶこともしないで、
現代に流行している大陸思想の「先っぽ」だけを日本に持ってきても、いい結果になるわけがありません。
こういうのは端的にヨーロッパ文化に対する包括的な教養の不足だと思います。


話を戻すと、大澤はヨーロッパ人だけが海洋進出をした理由を、未知なるものを予定されたものと信じる予定説のメカニズムで説明しています。
プロテスタントにとって、未知なるものは真の意味で未知ではなかったということなのですが、
資本主義システムをあちこちに適用する資本主義決定論でしかない大澤の学説を、僕はあまり評価していません。
これまで書いてきたように、プロテスタンティズムがユダヤ的な領土を持たない持ち運び可能な宗教であったことが、彼らの果てしない「移動」を可能にしたというのが僕の主張です。
(大澤はなぜユダヤ人の移動性を無視しているのでしょうか)


話がいろいろ飛んだように見えますが、僕が言いたいのは、
ヴィリリオの「速度」信仰に対する批判は、資本主義はもちろん、
ドゥルーズ=ガタリやデリダ、フーコーなどの他のポストモダン思想家を含んだ、ヨーロッパ文化に対する本質的な批判だということです。
ポストモダン思想は通説では近代ヨーロッパの批判ということになっていますが、それを好む日本人のほとんどは西洋を権威とする権威主義者です。
そのため、ポストモダン世代は西洋の権威をあてにして自分たちを肯定する、権威に庇護された自己愛(=権威による自己承認)を求めるだけになりました。
つまるところ、日本で人気を博したポストモダン思想は、本質的にユダヤ・キリスト教に根ざした西洋文化を批判できていません。
むしろ、ヨーロッパ文化の根底にあるユダヤ・キリスト教由来の無意識を視野に入れて批判をしているのがヴィリリオです。
ポストモダンを批判の射程に含めるヴィリリオを、「ポストモダンの思想家」とするのはおかしな話ですが、
そういう誤解があるのも、今までヴィリリオが真剣に読まれてこなかったことが影響しています。
僕は〈フランス現代思想〉の限界がハッキリした今だからこそ、ヴィリリオを読み直すことには意味があると思います。
そうすることで、私たちが西洋キリスト教文化のどこを批判し、克服すべきかを明確にすることができるのです。


そろそろ一挙掲載の限界に近づいたので、本格的にヴィリリオの著作を読むのは次回にしようと思います。
例によってノープランで書いているので、何回続くかわかりませんが、僕の主題を先に記しておきます。
日本人にとってキリスト教の「信仰」は、主にメディア・テクノロジーへの「依存」によって示される、ということです。
大塚英志が言っていたことを思い出してください。
大塚が言うように、SNSというメディア・テクノロジーによって、人々が無意識に「表現させられて」いるのだとすれば、
同様のテクノロジーによって、無神論者が無意識にキリスト教を「信仰させられて」いたとしても不思議はありません。
メディア上で私たちは自己実現をしているつもりで、知らないうちにキリスト教を「信仰させられて」いるのではないか、
ヴィリリオがそこまで考えていたとは思えませんが、僕がヴィリリオを読んで考えたいのはそういうことです。
自分でハードルを上げたような気がしますが、【その2】をお待ちください。


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