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『ハーバーマス』(ちくま学芸文庫)中岡 成文 著

対話を重視するドイツ戦後思想の旗手

ハーバーマス思想の概説書で手近に入手できるものは多くありません。
実践的な社会理論であり、政治的でもあるため、日本では非政治的で非主体的な〈フランス現代思想〉より圧倒的に人気がありません。
モラトリアム的な〈フランス現代思想〉が若者やサブカルと相性が良く、オタク相手に「商業的に」成功したのに対し、
ハーバーマスやフランクフルト学派などの社会関係性を重視する思想は、「岩波的」左派知識人のものとして敬遠されたのでしょう。
僕が以前に読んだハーバーマスの概説書は、講談社の「現代思想の冒険者たち」シリーズでした。
買うときに気づかなかったのですが、増補版ではあるものの実は本書はその本を文庫版にしたものでした。
やっちまった。


しかし、あらためて読み直してみると前回に読んだ時より圧倒的に収穫がありました。
2003年刊行時に本書を読んだときには、ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論は理想を追いすぎて現実性に乏しいために、僕はあまり魅力を感じませんでした。
著者の中岡も大学時代に「ハーバーマスやきまじめなドイツ哲学・思想にあきたらず、フランスのポスト構造主義の軽快さ、警抜さに魅惑された」と自らの「回り道」について語っています。
僕は若い頃から一貫して〈フランス現代思想〉には否定的でしたが、それでもハーバーマス思想の重要性については若い時には理解が及ばなかったのです。


本書の副題に「コミュニケーション的行為」とあるように、ハーバーマスは対話を重視した人です。
彼が論争した相手はガダマー、ルーマン、デリダ、フーコーなど錚々たるものですが、このような論争を好む態度もコミュニケーション志向の現れと言えるでしょう。
日本では(僕の実体験を踏まえてみても)論争的な態度があまり好まれているとは思えませんが、それは西洋からすれば言語によるコミュニケーションに対して消極的な国と映ることでしょう。
僕が生きている期間の日本社会だけを考えても、論争がどんどん少なくなっていると思います。


そもそも思想や文学の世界はモノローグになりがちです。
ハーバーマスがコミュニケーションを重視するのには、〈フランス現代思想〉とは違うかたちでモノローグ的形而上学を(解体ではなく)批判する意図があったと思います。
特に日本では対等なコミュニケーション能力に欠けた人が、自己慰撫を目的として思想や文学に手を出すケースも多く、その代表のようなオタク(学者)がちょっと社会に認められると、権威を傘に着た態度に出ることが目立っています。
最近話題のマルクス・ガブリエルがハーバーマスから何の影響を受けていないはずもなく、彼をきっかけに日本でもハーバーマス思想がもっと見直されるといいと思っています。


コミュニケーション的理性へ

ハーバーマスはフランクフルト学派の第二世代にあたります。
フランクフルトの「社会研究所」に所属していた人をそう呼ぶのですが、
第一世代には戦中のナチス政権の反ユダヤ政策によって、アメリカに亡命を余儀なくされたホルクハイマーとアドルノ、エーリッヒ・フロム、マルクーゼなど(とベンヤミン)がいます。
第二次世界大戦でドイツが無条件降伏したとき、ハーバーマスはまだ15歳でしたが、敗北する戦争を行ったナチスに対する反省と批判の意識がまだまだ強かった世代だと思います。


ハーバーマスをフランクフルト学派の先人たちと区別すると、「コミュニケーション論的転回」と中岡が書いているように、理性的なコミュニケーションへの信頼ということになります。
これについては中岡がおもしろいことを書いています。
中岡はハーバーマスが〈フランス現代思想〉的な「差異」を「冷静に受け入れている」ことを指摘したあと、
「コミュニケーションは基本的に人と人との違いから出発することに注意しなければならない」と述べます。
コミュニケーションを主題とすることは、自己と他者との差異を前提として尊重したうえでしかありえないということです。


〈フランス現代思想〉は差異を強調しましたが、単に同一性から逃れるだけでは自己満足つまり「気分」に終わってしまうことになりがちです。
「他者」とか「差異」とか口にするものの、案外自己愛に固執するナルシストを生むだけに終わっていたりするのです。
そのため日本の〈俗流フランス現代思想〉は他者の存在しない、オタク的でメタ的なモノローグへと陥っています。
(彼らが批判にちゃんと言論で応じられないのも、本質がモノローグ志向であるからです)
〈俗流フランス現代思想〉がいつまでも子供でいることを肯定するモラトリアム思想だとしたら、ハーバーマスの思想は大人になることを要求するものと言えるでしょう。


単純な発想に思えるかもしれませんが、思想や文学には孤独の中で沈思黙考するという行為がつきものです。
その意味ではモノローグ的な要素は必要です。
「いや、それこそが「近代的」な発想であって、プラトンの対話篇や俳諧連歌などモノローグでないものは近代以前では当たり前でしたよ」と言えなくもないのですが、
それでもいつの時代でも孤独の中で自分を見つめることは必要であったろうと思います。
そのような前提にモノローグが欠かせない世界だからこそ、モノローグで終わることを禁じる意識は何度でも確認されるべきことではないでしょうか。
僕は批評とはコミュニケーションの試みだと考えていますし、その意味でハーバーマスの思想には学ぶべきところがあると思っています。


どうしても言っておきたいのですが、マルクス・ガブリエルにしてもそうなのですが、〈俗流フランス現代思想〉に依存した頭の悪い連中はドイツ系思想の「マジメさ」を凡庸さの現れと受け止めて批判すればいいと思っているようです。
それを僕はガブリエルのレビューで「凡庸な鏡には凡庸に映る」と書いたわけですが、
普遍的に重要であるはずのことが当たり前のことであり、凡庸に見えるのは当然です。
ちょっと変わったことを言う(来るべきバカになれ、とか)のが思想っぽく見えるとしたら、それは思想がファッション化した世界を自明視しているからでしかありません。
ファッションは奇抜な方がいい、というだけのことなのです。
そういう表層を思想の営みと言い募る欺瞞が〈俗流フランス現代思想〉の手口であるというだけのことで、長い西洋思想史の知的蓄積とはほとんど無関係な精神だと言っていいでしょう。
日本も同様の歴史を持っているので想像力があればわかると思いますが、ナチスドイツなど戦時体制においては、
当たり前のことが当たり前ではない社会というものが現実化したのです。
このような歴史を視野に入れて思索をすれば、自然と当たり前なこと、凡庸なことを強調せざるをえないことがわかると思います。
社会のことも考えずに自分がカッコよく見えることだけを考える人間は、奇抜でオシャレなことを無責任に言えてしまうのですが、そういうものを思想などと称することは断じて認められませんし、批判すべきだと思います。
(大学で教育者として報酬を得ていながら、非教育的なことを平気で口走ってしまう無責任学者が例外なく〈俗流フランス現代思想〉の応援者であるのは象徴的です)


非理性的な方向に偏っている〈フランス現代思想〉を相対化するためにも、コミュニケーションを合理性の範囲にとどめるハーバーマスの思想を学ぶことに意義はあると思います。
ハーバーマスはコミュニケーションにおいて有意義な発言を3種類の「妥当要求」にしぼり、それらを「実践的討議」にかける資格があるものとしました。
3種類の「妥当要求」を中岡は以下のようにまとめます。
⑴ 自分は真理を表明している
⑵ 自分は正しい規範に従っている
⑶ 自分は意図どおりのことを誠実に述べている
要するに「妥当要求」とは「自分が正しくマジメなことを言っている」ということに対する承認を求める発話だと考えられます。
これらの「妥当要求」が討議において争われるのがハーバーマスの描くコミュニケーションのあり方です。
彼がいかに「正しさ」を誠実に求めることを重視しているかがよくわかります。
このようにハーバーマスは「妥当要求」を掲げる発話同士の競合をコミュニケーションとして扱う一方で、他の発話を問題にしていないのですが、
「マジメ」でない発話を相手にしないような態度は、言語の扱いとして不十分なのではないか、と中岡自身が正面から疑義を呈しています。


ハーバーマスがフランス思想で重要な役割を担う「無意識」を、コミュニケーションを阻害する「自己欺瞞」として捉えていることは、多くの人にはなかなか受け入れにくいと思います。
人間の発話をガチガチの合理性におさめるのは無理がありますし、現実的に簡単に頓挫するのが想像できるからです。
中岡はそんなハーバーマスの態度をハーバーマスが世界の別の見方を提示する「世界開示」ではなく、問題を実践的に解決する「問題解決」を優先しているからだと説明しています。
哲学が「問題解決」のためにあるという発想は、メタに立ちたがる〈フランス現代思想〉オタクには縁遠いものかもしれません。


中岡は本書でハーバーマスが気の毒になるほどコミュニケーション理論に対する批判的意見について触れています。
そんなに評判が悪いのかと過去の自分を思い浮かべつつ苦笑するのですが、
実際にハーバーマスは「コミュニケーション的合理性など虚構なのではないか」という質問をインタビューでぶつけられたこともあったようなのです。
そのときハーバーマスは「近代の社会に貨幣と権力のシステム以外のものが存在することを示すこと」が肝心だと答えたそうです。


以前の僕のように、ハーバーマスのコミュニケーション理論に「現実性」がないと批判することはたやすいですし、実際にそのような批判も多くなされています。
しかし、それならば非理性的なものや非主体的なものをやたら取り上げるだけの〈フランス現代思想〉に思想的な〈内実〉があるかといえば、これはこれで単なるファッションとして消費されて終わったわけです。
ファッションを思想と称して消費するよりは、人気がなかろうが思想的内実のあるものの方を僕は支持します。


ありえない理想を現実化しようとしてコケた社会主義に「懲りた左派」が、現実化しない領域で責任のないモラトリアム思想を語るだけに逃げたのが〈フランス現代思想〉でしかなかった、
といえばわかりやすいのではないでしょうか。
(ポストモダンを価値として信奉したから文系アカデミズムはモラトリアム青年の巣窟となって、社会の役に立たない学問になってしまったのです)
〈フランス現代思想〉は現実化しなくていいという免罪符があるため、社会と葛藤する苦しみもなく誰でもアーティストであるかのような気分になれるので、日本では創造性がない人間の自己弁護に使われています。
僕は現実逃避をアートと称するペテン師よりも現実に打たれても「懲りない」ファイターの方を信用しています。


コミュニケーションの前提は批判を受け容れる姿勢にある

ハーバーマスは1981年に大著『コミュニケーション行為の理論』を上梓しました。
ヘーゲル的な絶対の真理を想定しない「可謬主義」を出発点にしているハーバーマスは、知識はコミュニケーションの場で公共的な批判にさらされるべきだと考えました。
そこで重要になるのは、批判可能な妥当要求を掲げるという点です。
コミュニケーション的行為は相手の承認や了解を得ることを目的としているので、批判可能な発話で構成されなければいけないのです。


この点について中岡は、コミュニケーション行為は言語をメディアとしてはいるものの、言語による行為というより、あくまで「行為」の一部として分類されるべきものであることを強調します。
というのは、ハーバーマスがコミュニケーション行為を市場原理や政治行政と同じ土俵の上で考察しようとしているからです。
中岡の説明を引用します。


ハーバーマスは全体社会を二つに分けて考える。一方では、文化的な意味や価値の再生産を務めとするコミュニケーション的合理性の領域があり、これは生活世界に基盤をおいて、人々が目標などを共有する「社会統合」をめざす。他方では、社会の物質的再生産に貢献するシステム合理性の領域があり、これは機能的なサブシステム(行政や経済)を基盤として、社会の「システム統合」を志向する。

2つの社会のうちのコミュニケーション的合理性の領域は、言葉によるコミュニケーションで相互了解を目指すものです。
ここでは相手の「納得」を引き出すことがゴールとなるので、その要求にはいつでも批判が可能である状態が保たれます。
後者のシステム合理性の領域は、権力や金といった「制御メディア」を介した命令によって目的を遂行するものです。
これを「戦略的行為」と呼びますが、こちらは批判不能な命令の形をとるため、最終的には「暴力」を排除しないという違いがあります。
こうして見るとハッキリするのですが、ハーバーマスの目指すコミュニケーション的行為には他人の批判に耳を傾けるという姿勢が欠かせないのです。
「批判を受け入れる余地がある」かどうかはコミュニケーションを志向しているかどうかの分かれ目とも言えます。
わかりやすくしてしまえば、ハーバーマスは、真理をめぐる討議はいつでも批判を受けつける状態で行なわれなくてはならない、と考えていることになります。
真理が批判可能な状態で討議されることがハーバーマスが擁護する近代のあり方なのです。
(こう書くとポパーの反証主義と変わらないではないか、と思われそうですが)


最近はツイッターで不都合な相手をブロックすることが、何か当然の権利であるかのように思っている人がいます。
僕は自分からコンタクトを取っていない相手にブロックされていて唖然としたのですが、ブロックはコミュニケーションを志向しない態度──つまりはシステムによる解決を望む態度の表明です。
ハーバーマス的に言えば、コミュニケーション行為よりも制御メディアによる命令を重視する「戦略的行為」を重んじることになります。
教育者の仕事をしている人間が、言語による了解よりも金や権力による暴力をアテにしていることを簡単に示してしまうのは問題です。
今の学者が学者としてのプライドを捨て、ただ権威的な肩書きだけを愛しているのがよくわかる現象のひとつです。


それは自分が買いたいものなのか、システムに買わされているものなのか

ハーバーマスがコミュニケーション行為を主題としたのは、近代にはシステム的合理化という面があるだけでなく、日常的実践の根拠となる「生活世界の合理化」という別の一面があることを示したかったからです。
生活世界という言葉はもともと同じフランクフルト学派のマルクーゼのキーワードだったようです。
ただ、生活世界という言葉が意味するものが曖昧でよくわかりません。
中岡も「もともと生活世界は、明確な把握をすりぬけることを本質としている」と説明するように、生活世界は明示的な知の対象になりきらないようなのです。
とりあえずコミュニケーションが行われる基礎的な場となるのが生活世界だと理解しておけばいいと思います。


近代において生活世界が変質していくことを、ハーバーマスは「植民地化」「貧困化」「技術化」という言葉で示しています。
簡単にまとめてしまえば、言語によるコミュニケーションが権力と貨幣というシステムを制御するメディアに取って代わられてしまうような事態です。
国民が国家の世話、奉仕を受ける「クライアント」になってしまうことは内的植民地化に含まれます。


中岡は「植民地化」のポイントを「抽象化」というキーワードで示します。
これがマルクスの疎外論とハーバーマスのコミュニケーション論の接点になります。
労働者が自らの労働力を商品として金銭と交換することをマルクスは抽象化として問題にしたのですが、
ハーバーマスは消費者と選挙民も同様の抽象化を被っていると主張します。
消費者は自分が欲しいものを買っていると思い込んでいますが、実は購入した商品は前もって店頭に並んでいた物の中にあったものです。
つまり、すでに用意された選択肢の中で選んでいるだけで、本当に自分が欲しい物を買っているとは限らないのです。
選挙民も同じく自発的に候補者を選んでいるようで、政治的指導者を消極的に支持して体制にお墨付きを与えてしまっています。
このように、システムの論理が生活世界を少しずつ変えていくことを、ハーバーマスは抽象化と言っています。


では、このような内的植民地化にはどのように対応したら良いのでしょうか。
中岡によるとハーバーマスの対応は時期によって異なるようなのですが、1981年の『コミュニケーション的行為の理論』においては、
⑴ 家族における自我の形成
⑵ マスメディア
⑶ 異議申し立ての潜在力
の3つが変革の芽として期待されています。


⑴が意味することは、家族内部のコミュニケーション構造が社会システムから独立することで、資本主義的体制の論理を相対化するような自我の形成が行われることへの期待です。


⑵はハーバーマスがマスメディアを言語コミュニケーションの場として肯定的に評価していることの現れです。
もちろん、マスメディアもシステムに奉仕する制御メディアという面があるわけですから、中岡が「諸刃の剣」と留保をつける意味もわかります。
僕は今のマスメディアはほとんど資本システムの代弁者として批判することの方が多いので、この点についてハーバーマスには賛同しかねます。
むしろ、一般的なマスメディアではなく「文学」こそがその役割を果たすべきものですし、政治権力や資本主義システムに対抗できているかどうかが「文学」であるかどうかの判断基準であってもいいと考えます。


⑶はそのまま社会に対する異議の申し立てなのですが、
「生活世界の植民地化」や「抽象化」に対抗する新たな共同性を目指す「開放的」なものと、伝統的で社会的な所有形態を防御するための「退却的」なものにハーバーマスは分けています。
もちろん前者の異議申し立てをハーバーマスは評価するのですが、具体的には環境問題や原発問題に対する反対などがこれに当たります。


こうしてハーバーマスの専門語を用いて書くと難しくなってしまうわけですが、僕にはハーバーマスがいかに資本と権力のシステム化に対して「批判」をすることを重要視していたかがわかりました。
彼が重視する近代とは、言語による討議を通じた批判的なコミュニケーションにあったのです。
この点でただ現実化しないモラトリアム領域で「逃走」する〈フランス現代思想〉よりも「マジメ」であり退屈にも見えるわけですが、「問題解決」に寄与する可能性からいえば圧倒的にハーバーマスの思想に軍配が上がると思います。


追記(1月14日):最初は上記に「長くなったので一度締めますが、次回の【その2】ではハーバーマスの〈フランス現代思想〉批判を中心に書いていきたいと思っています」と書いていたのですが、
その部分はほとんどがハーバーマスの『近代の哲学的ディスクルス』というテクストの内容でしかないため、中岡の『ハーバーマス』の【その2】ではなく、ハーバーマスの『近代の哲学的ディスクルス』の逸脱書評として書くことにしました。
もし続きをお待ちの方がいたら申し訳ないのですが、僕が『近代の哲学的ディスクルス』を読み終えて執筆するまで暫しお待ちください。


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