- 2019/02/04
- Category : 【逸脱書評】俳句・詩
『俳句と川柳』(講談社学術文庫)復本 一郎 著
17音の2つの文芸
俳句も川柳もともに五七五の17音を定型とする文芸です。
俳句は世界で一番短い詩とも言われ、教科書にも有名な俳句が取り上げられ、世界的にもhaikuとして知られているわけですが、
川柳がどれほどの知名度を獲得しているのかは、世界どころか日本においてさえ怪しまれるところですし、教科書でお目にかかった記憶もありません。
このように俳句と川柳だけを比べると、川柳はまるで日陰の存在のようでもあるのですが、その両者の違いを説明するのはなかなか骨が折れるのではないでしょうか。
手近にネットを使ってウィキペディアで「川柳」を検索してみると、やはり冒頭から俳句との違いについての説明があります。
そこでは俳句のように季語や切れがなどの約束事がない自由な表現であるとされています。
また、英字版のWikipediaの説明では、その約束事よりも先に俳句の関心は自然を対象とする傾向があるが川柳は人間のひねった見方を対象とする傾向がある、という記述があるのですが、
定義としてはどれも心許ないものに思えます。
本書は近世・近代の俳句(俳諧)研究で知られる復本一郎が、俳句と川柳について書いたものです。
復本も冒頭で「従来、なぜか、近代文芸の流れの中で、川柳が一つの詩型として確と認知されていなかったように思われる」と、
川柳の扱いが俳句や短歌に比べて日陰であったことを問題にしています。
本書では川柳を俳句と並べて扱うことに力点が置かれているため、自然と分が悪い川柳を取り上げる部分が多くなっています。
そのように両者の扱いを同等にしようとすればするほど、俳句と川柳をどう区別するかという問題にぶつからざるをえなくなります。
その結果、最終章では何をもって俳句を俳句と判断するのか、という難題に対する復本なりの答えが示されます。
僕自身は川柳についての内容以上に、復本の俳句観の方に興味をそそられたので、そこを中心に書いていきたいと思っています。
ちなみに本書は現在、講談社学術文庫で手に入りますが、その前は1998年に講談社現代新書で刊行されていたもののようですので、だいぶ前の本になります。
しかし、ここで復本が提案している俳句の定義は今だからこそなおさら興味深いものであるように思いました。
俳句と川柳、その成り立ちの違い
まずは基本的なことを確認しておきましょう。
近代の俳句の成立は正岡子規が従来の宗匠の「月並」な発句に対して、新文芸として立ち上げたことを始まりと見るのが普通です。
川柳の方も明治期に、それまでの川柳に対する新たな文芸運動として阪井久良岐と井上剣花坊が創案したと復本は述べるのですが、
江戸時代に柄井川柳の『誹風柳多留』で行われていた「前句付」も川柳と呼び習わされるので、復本はこちらを「江戸川柳」と呼んでいます。
そもそも、江戸時代に「川柳」という呼称はほとんど用いられず、「川柳点の前句付」もしくは略して「川柳点」と呼ばれていたようです。
俳句と川柳の違いを考えるのに、復本は「俳諧の連歌」(連句)の理解が必要だと言います。
連歌は5・7・5の17音の句と7・7の14音の句が交互に別の人によって詠まれて進み、36句で構成されます。
最初の5・7・5を「発句」、次の7・7を「脇句」、3句目を「第三」と呼び、4句目から35句目までを「平句」、最後の36句を「挙句」と呼びます。
この中で5・7・5の句を取り出してみると、「発句」と「第三」と「平句」に分かれるわけですが、連歌の発句の条件は季語と切字が存在していることにあります。
発句は切字によって一句で完結性を持つのですが、平句は前にある7・7(前句という)とつながってやっと完結するので、二句がセットになります。
これを復本は二句で「二重構造性と完結性を獲得し得る」と説明します。
いずれの場合も、七・七の十四音の前句があって、それに五・七・五の十七音の句──これを付句という──を付けて、二句一セットの世界が作り上げられていたのであった。そして、これこそが、実は川柳のルーツなのである。川柳は本来、五・七・五の独立した文芸ではなく、常に七・七の前句がテーマ(課題)のごとくにあり、それに応えての五・七・五の十七音の付句ということなのである。
こうして復本は俳句と川柳の発生に構造的な違いがあることを示します。
平句には季語があるものもないものもあるため、復本は俳句と川柳を季語の有無によって区別することは難しいと判断しています。
それより、同じ5・7・5でも「二重構造性と完結性」という構造を持ちえているかどうかによって両者を区別することを提案しているのです。
なかなか興味深く刺激的な意見だと思いました。
俳句と川柳、その実践的区別
このように5・7・5に二重構造性があるかどうかで俳句と川柳を区別するならば、ポイントが「切れ」の存在に関わってくるのは当然です。
本書の最終章が「「切れ」とは何か」となっているのもそのためです。
復本の結論を先取りすれば、季語の有無で俳句と川柳の区別はできないので、「切れ」によって両者を区別するべきなのではないか、ということです。
現代俳句、現代川柳までをも視野に入れて考える時、俳句と川柳を区別するものは、最終的には「切れ」の有無しかないのである。
復本は川柳には切字が入っていても切字として働いていない、と言います。
一句に切字が存在し、それが切字としてしっかり働いているならば、それは紛れもなく俳句なのです。
このように「切れ」があるのが俳句であり、ないのが川柳ということで区別をするのが復本方式だとすると、そもそも「切れ」とは何かということが問題になってきます。
復本は「切れ」の有無の見分け方を、連歌師の二条良基の『僻連抄』(1345年)に倣って紹介しています。
5・7・5の17音の下に「かな」を付け足して読んで、すんなりと意味が通れば「切れ」は存在しない、意味がギクシャクしたら「切れ」ているという見分け方です。
実際に良基が書いている例を挙げてみると、こうなります。
梢よりうえにはふらず花の雪(かな)
木ずゑよりうへにはふらぬ花の雪(かな)
意味がすんなりと通るのは後の方なので、こちらには「切れ」がないということになります。
こうすることで特定の切字に頼ることなく「切れ」の判別が可能となるというのです。
俳句の二重構造性
このように復本は俳句には「切れ」があるという定義を提案するわけですが、では、「切れ」というのはどのような役割を果たしているのでしょうか。
ここで前述した「二重構造性」というものが出てくるのです。
復本は『去来抄』の引用をしたあと、こう書いています。
芭蕉の考えは非常に明確で、作品(発句)に切字を入れることよりも、「切れ」のある句を心がけよ、というわけである。「切れ」があることによって、一句は、二重構造性と完結性を獲得し得るからである。
川柳には前句があることが前提となっています。
5・7・5の付句だけで意味が通るから川柳として独立させているのであって、本来それだけでは完結しきらないものです。
これは僕の考えですが、17音だけでは完結性に乏しい川柳は、句の外部に文脈を求めてしまう性質から逃れられません。
川柳に外部の文脈を参照する向きがあるから社会風刺に威力を発揮するのだと思います。
僕は復本の言う俳句の「完結性」という指摘を非常に重視しています。
最近の俳人の中には、外部文脈を参照しないと成立しない、もしくは参照させたがる俳句を書く人が多いからです。
外部文脈を設定して、二次創作的なネタとして句を作る人は、その作品が俳句であるか川柳であるか不確かな領域にあるということになるのです。
散文で文脈設定して、そのあとに句をくっつけるものも同様です。
問題は「二重構造性」というものの解釈になります。
本書の中で復本はこの言葉についてじっくり説明しているように思えないのですが、この言葉にまつわる部分を僕が読んだところ、
「二重」というのは、句の内容によって自らの感動を示す部分と、句の外にあって読者に共感を求める部分に当たるように思います。
最後の方になって復本は「切れ」の判定は純粋読者には難しいため、「飛躍切部」という考え方を提案しています。
つまり、「切れ」というものを「飛躍」として捉えようということです。
たとえば復本は細見綾子の次の句を例に取り上げています。
ふだん着でふだんの心 桃の花
「ふだん着でふだんの心」を「首部」、「桃の花」を「飛躍切部」と呼んで、句の二重構造性を示そうとしています。
「首部」はモノローグ的、読者に共感を求める「飛躍切部」はダイアローグ的という説明ですべての俳句が説明できるとは思えませんが、俳句の典型として考えるのは面白いのではないでしょうか。
特に「切れ」による「飛躍」が、「二物衝撃」などという単なる作者視点の操作として捉えられるのではなく、句の外部──読者へと向かっていく志向性として考えられていることについては、なるほどと思わされるところがあります。
復本も僕と同じく、俳句の作り手というより読み手であることが大きいのでしょうか。
マルクス的俳句解釈の試み
唐突ですが、僕は「切れ」の効果を復本が「飛躍」として捉えているのを受けて、マルクスが『資本論』で書いている「命がけの飛躍」を引き寄せたくなりました。
「命がけの飛躍」とは、W(商品)─G(貨幣)─W(商品)という商品交換のプロセスの中で、WがGへと変わる、つまり商品が貨幣へと交換されるプロセスに潜む「飛躍」のことです。
これがどうして「飛躍」と言われるかというと、自分の作った商品が首尾よく売れない限り、貨幣との交換が果たされないからです。
売れるか売れないか、そこが一種の賭けとなるため、「命がけの飛躍」とマルクスは述べたのです。
復本が言うように俳句の「飛躍切部」が読者へ共感を求めるダイアローグの現れであるならば、俳句における「切れ」とは交換価値ならぬ共感価値を生み出す契機であり、
その「二重性」こそが作者と読者をつなぐ通路だと考えることができるのではないでしょうか。
きちんと句を切ることは、自分の内面世界にいったんケリをつけ、外部にいる読者へと出て行く「命がけ」の行為だと見ることもできるのです。
つまり、俳句が散文や川柳と違って読んだままの意味に回収されにくいのは、自らの内面世界への志向と外部を目指す志向とを両立させる「二重構造性」に負う部分があるのです。
(頭の悪いペテン師が季語が自分の「世界観」をズラすなんて書いてましたが、それは季語ではなく俳句の構造によるのです)
そうなると問題なのは「飛躍」を求めない俳句です。
「切れ」が存在しなかったり、「飛躍」がほとんど見られない句が川柳に近づくことは言うまでもないことですが、僕が問題だと思うのは「切れ」を曖昧化してただ意味的に脱臼しているだけの俳句です。
「オルガン」という同人誌で活躍している俳人の句に目立つ方法なのですが、「切れ」るべきところにむしろ意味的なつながりを架構し、文脈を脱臼して言葉のイメージを喚起することを目指しているものです。
俳句形式で現代詩的な効果を生み出す狙いがあるのでしょうが、現代詩がやりたいなら現代詩をなぜ書かないのかと僕は一時期疑問に感じたのですが、このような俳句と現代詩の「キメラ」を生み出す人の動機を説明するのは今や簡単です。
俳句形式の利用によって現代詩のようにその都度自らの文体を作る手間や言葉によるイメージを積み重ねる労もなく、未熟な作品形態を未熟なまま提出しておきながら、そのくせ俳句形式によって読者に直接的な共感だけは求められるからです。
このような「命がけ」の覚悟なき中途半端な創作物は、当然ながら非詩的な言語と格闘している詩人や俳句の現代的可能性に挑んでいる俳人のどちらにも真剣に相手にされることはなく、どちらに対しても生半可な態度しか持たない読者を獲得するだけに終わるでしょう。
もちろん復本の俳句の定義をスタンダードにする必要はないのですが、「二重構造性」というものを参考にするとわかりやすくなることがあるのは事実です。
ただ読んで意味が曖昧化するものが俳句だと考えるべきではないのです。
俳句の意味が散文的に把握できないのは「切れ」によるものであり、「切れ」とは句の外部にいる読者に向けられて俳句が作られていることの「倫理的」な証明なのです。
「切れ」を曖昧化すると俳句としては珍しく見えますが、そういう「珍獣」は見慣れてしまうと、読者への「命がけの飛躍」を避けて独り安楽を貪る態度でしかないことが露呈することでしょう。
この手の俳人に自分の句集という「商品」に執着して、そのためカスタマーの批判に対しても向き合えず、内輪の支持者とイベントをやったりする向上心のない人が多いのは必然なのです。
商品を「売る」とは「命がけの飛躍」をすることなのです。
俳人は同人誌や句集の出版で自分に利益が入らないことを言い訳にしているのでしょうが、それが曲がりなりにも商品として流通していることを無視することは許されません。
商品購入者には商品を批判する権利があります。
もちろん売った側にもそれに反論する権利はあります。
しかし、購入した人間に批判的なレビューを書かれたからといって、その言論を排除するツイートを集団でリツイートして「被害者の会」のように振る舞うのは、大いなる勘違いといえるでしょう。
こういう幼稚な俳人たちが読者へと向かう飛躍の乏しい自己粘着的な俳句を書いているのは非常に象徴的だと思います。
芭蕉の革新性を自明視する「先祖返り」
もうひとつ本書を読んで興味深く思ったところがあります。
復本が芭蕉の革新性について書いた部分なのですが、ちょろっと触れた程度ではあるのですが、非常に重要なことを言っていると思いました。
復本は江戸俳諧の根底にある「笑い」の要素を非常に重要視していて、本書の第二章も「笑い」の必要性について割かれています。
そんな復本が芭蕉の「古池や蛙飛こむ水のをと」を「笑い」の俳諧を超克し、「感」じる俳諧を創始したと述べていることに目を引かれました。
芭蕉はいったい何をしたのか。
土芳が指摘しているように、芭蕉は、詠まんとする対象と対峙したのである。そして対象をよく見、よく聞いたのである。そんなことをする俳人は芭蕉以前に一人もいなかった。
対象をしっかりと把握すること、俳句にとって対象への関心が重要であることは山本健吉も述べていることです。
17音を対象への関心に振り分けると、自分の内面への関心が入る余地がなくなるので、結果として「主体の抹消」のようになるのであって、
言葉遊びや意味の「ズレ」によって主体の欲望を隠すことを「主体の抹消」とか言って大上段から述べることが、どれだけ俳諧史に対する無知をさらけ出す言説であるかがおわかりになるのではないかと思います。
では、「対象」という他者を見出した芭蕉と異なり、それ以前の人たちが何をしていたかと言うと、いかに仲間にウケるかを考えていたと復本は述べています。
芭蕉以前の俳諧文芸においては、もっぱらいかに読者(仲間)を笑わせるかに全エネルギーが注がれていたのである。いきおい、その世界は、知的、観念的にならざるを得なかった。対象を見ることをしないで、その対象をテーマとする作品を作ったのである。
あえて誰々という俳人とは言いませんが、外部文脈をテーマとして知的、観念的な句を作るという方法が全く新しくもなんともないということが、この復本の記述からハッキリすると思います。
それは芭蕉以前の俳諧を表層的に模倣したものであり、俳句原理主義どころか時計の針を逆に回す反動でしかありません。
こんなものを新しいと勘違いしてしまうのは、現代的視点だけに囚われて芭蕉の革新性を自明視してしまっているからでしかありません。
鋭いことに、このことについてもすでに復本は本書で述べています。
私たちは、今日、対象と対峙して、よく見、よく聞くことによって、何らかの感動を覚え、その感動を五・七・五の十七音の作品としてまとめる──そんな俳句作りにあまりにも慣れてしまっているので、芭蕉の凄さがわからなくなってしまっている。私たちがやっている俳句作りの方法を、最初にはじめた人物が、他ならぬ芭蕉だった。
芭蕉はネタとして仲間を笑わせる俳句ではなく、読者に感動を伝える俳句を生み出したと復本は言います。
そこに「伝達」というコミュニケーション的視点が強く求められているのは言うまでもありません。
対象への強い関心によって自己を超え出す「飛躍」の契機を手に入れたもののうち、跳躍力にすぐれた作品が時代を超える力を持つようになるのです。
そして人を感動させる句を作るには、「まず自分が感動すること」だと復本は付け加えます。
「自分が感動してこそ、その感動を人に伝えることができるのである」
僕は俳人ではないので長谷川櫂が主張するように、俳句が自然に代表される「対象」を描くことに没頭しなければならないとまでは思いません。
自分の抱えた思いを表現する俳句、自分自身に喚起されるイメージを表現する俳句があっていいと思っています。
そうであっても誠実さに裏打ちされた読者への「命がけの飛躍」をしなければならないことに変わりはありません。
ただ、17音でそれをやるには俳句の構造への深い理解と現代詩を書く以上の試行錯誤が必要だと思います。
既存の形式に「タダ乗り」して試みても、抹消したはずの主体が自意識として貼りついただけの句ができるだけに終わるでしょう。
以上、川柳を大きく取り上げた本にもかかわらず、僕の関心で俳句のことばかりを書いてしまいました。
川柳についての章もちゃんと読んだのですが、復本が俳句の研究者であることが影響しているのか、それほど面白い記述は見つけられませんでした。
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4 Comment
クロさんのコメントへの返答
- 南井三鷹さん
- (2019/02/07 09:04)
- [コメントを編集する]
クロさん、引用ありがとうございます。
千葉のツイッターも長らく見ていないのですが、相変わらずの「来るべきバカ」っぷりですね。
「僕のコンテンツの人生論的な傾向って〜」っていう日本語が失笑ものだとコイツは自分でわかってないんですからね。
そのツイートを読んでウンザリしたことは、
学会にスーツを着ない程度の行為が「哲学的」だと思っている幼稚さがひとつ。
ホント、ファッションと思想の区別ができないんだと思います。
千葉にとっての「哲学」が、ただ自分のファッションを示すことであることがよくわかるツイートですね。
僕はいわゆる「就職氷河期」に就職活動を口髭姿で行ったのですが、自分にリスクのある場でなければ社会的抗議とは言えません。
ちなみに口髭でも残してくれた会社はあったんですよ(笑)
それ以上に彼の頭が悪いと思うのは、ゲイであることと「人生論」を短絡的に結びつけていることです。
ゲイにだっていろいろな人がいるでしょう。
ヘテロにも反抗的な人と従順な人がいるのと同じです。
そういう多様な人生を、「ゲイ」であることで一つにくくってしまう、つまり単一性に回収するわけです。
これは社会がゲイを一括りにして排除するのを、肯定的にひっくり返しているだけで、根本の発想(=ゲイは特別である)は同じです。
「ゲイだから変で気持ち悪い」を「ゲイだから哲学的でカッコいい」にしたいだけなんですよ。
要するに東浩紀がオタクを「カッコいい」に転換しようとしたことと同じなんですよね。
ただ「オタク」や「ゲイ」を新たなファッションとして定着させたい(つまりは自己弁護!)だけで、社会や人間の意識に何の変革ももたらさない、こういうものを彼らは「哲学」だと主張しているのです。
こんな低レベルの人間や常識人マツコデラックスと美輪明宏を同列にされても困りますよね。
ちなみに千葉がytbさんという人の専門領域に遠慮してるところを見ると、ytbさんは専門の違う哲学関係者(分析哲学系とか)なのでしょうかね。
院生には「アホか」と言うくせに、立場のある人にはヘコヘコする、これぞ千葉キュンのコンテンツです。
無題
- クロさん
- (2019/02/07 03:44)
- [コメントを編集する]
エゴサーチの鬼の千葉さんですが、単なるひとりのゲイでしかないところを、ナルシスト性を発揮してじぶんを大物と同列に昇華して扱ってる痛いツイートをものしていました。
僕は、美輪明宏さんのファンなのでかなりむっとしました。
しかしながら、千葉のナルシシズムについては、南井さんが書評で喝破したとおりでしたね。あの書評は素晴らしかったです。
千葉雅也『意味がない無意味』発売中
@masayachiba
僕のコンテンツの人生論的な傾向って、マツコとか美輪明宏とかゲイ人生論の系譜があるのかもな。
以下のやりとりは傑作でした。
千葉雅也『意味がない無意味』発売中
@masayachiba
学会に何かフォーマル的な格好で行ったことはないし行こうと思ったことすらないな。日本哲学会なんかに行くと院生がスーツ着てたりして、アホかと思うので、ああいう暗黙のコードを共有し再生産するのは即刻やめてほしい。およそ哲学的でない。
ytb
@ytb_at_twt
なんかものすごいつられた感がありますが、それはともかく、着てる服装によってその人が哲学者になったり哲学者でなくなったりするんでしょうか。そうだとすると、哲学者ってサラリーマンとそんなに変わらないんですね。
千葉雅也『意味がない無意味』発売中
@masayachiba
返信先:
@ytb_at_twt
さん
みんなで統一的なドレスコードを採用するように暗黙の共同体規範的なプレッシャーがかかっている状況が、哲学的思考の自由にふさわしくないのでは、と思ったということです。
ytb
@ytb_at_twt
返信先:
@masayachiba
さん
@masayachiba
服装と思考の自由の件ですが、哲学会内部では逆方向の同調圧力(「哲学者は社会常識に抗さなくてはならない」)もあり、「哲学者」共同体への忠誠心の発露という点でサラリーマンと変わらないと思います。
思考の自由という点からは、こちらも深刻な問題なように感じます。
千葉雅也『意味がない無意味』発売中
@masayachiba
返信先:
@ytb_at_twt
さん
@ytb_at_twt
それからytbさんに申し上げますが、僕の知識ではytbさんのお仕事は読めないとはずです、が、いつか少しでも理解したく思っています。恥ずかしいことにエゴサーチをしますと、ytbさんの周囲の人なのか、僕への対立をけしかけるようなものが目に入り、
千葉雅也『意味がない無意味』発売中
@masayachiba
返信先:
@ytb_at_twt
さん
@ytb_at_twt
(承前)僕としてはひじょうに悲しく思っております。ともかく、それぞれの専門領域がありますし、僕は粗雑にそれをまたごうとするタイプの人間ではありません。なにとぞ、よろしくお願い申し上げます。
コメントへの返答
- 南井三鷹さん
- (2019/02/06 23:59)
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心作さん、クロさん、コメントに感謝します。
自分に甘い俳人は厳しく学び直す、心作さんの意見に同意です。
日本人(特に男性)にはマザコン気質が強いので、
集団になる受け入れられていると思うと自分に甘くなり、その逆だと健気に修行するという両面があるように思います。
「厳し目の結社誌」でなくても、安住地を求めなければ修行につながると思います。
「切れ」という構造以外に、具体性や抽象性で俳句と川柳を区別する方法もあるでしょうが、固定化を導くことが心配です。
抽象的な俳句も十分成立するでしょう。
ただ、抽象化が過ぎると「飛躍」の表現が難しく、二重構造性を活かせずに平面化してしまいがちです。
渡辺白泉「戦争が廊下の奥に立つてゐた」は、「戦争」という抽象を「廊下」という具体的な場に擬人化して立たせるところに「飛躍」があるのですが、
抽象にも具体性を感じさせるのが俳句だと言えば、心作さんの言うことも肯けます。
クロさん、僕もポストモダン系の売文屋がやたらとブロックを多用していたり、ブログで素人を狂人扱いしたりしているのに呆れています。
どうやらマスメディアがポストモダン万歳なので、ネットではそれに反発する意見がわりとあるようですね。
わざわざネットに出てきてファン以外を締め出すのは一苦労でしょうが、ツイッターを見てもいない相手までブロックするのは、ブロック行為自体が自分の優位性を示すものと思ってるとしか考えられません。
そもそも東浩紀は年配世代にとって無害なボクちゃんなのでマスコミに歓迎された存在でした。
上の地位の人にはヘコヘコする千葉キュンも同様です。
同世代や下の世代の尖った人にとって彼らに魅力はないと思います。
彼らはそれがわからず、自分が若い世代のヒーローだと思っているので、批判者は手作業で排除できる数しかいないと確認したくて、日々手作業でブロック行為に励んでいるんだと思いますよ(笑)
僕だったらそんな暇があるなら読書しますけどね。
無題
- クロさん
- (2019/02/06 21:37)
- [コメントを編集する]
こうして手作りの俺の言論空間を作り出してるわけですから、彼らは安全圏の中でしか活動できないんですね。
エリートのかたなしです。