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ポストモダンとは何だったのか──浅田彰『構造と力』を読み直す

ポストモダンのはじまり──思想のファッション化

のちに「ニューアカ」という呼び名とともに記憶される浅田彰の『構造と力』が出版されたのは1983年でした。
僕がまだ小学生の頃です。
『構造と力』は1981年から83年にかけて主に「現代思想」に掲載された文章によって構成されています。
僕が本書を知った時には「ニューアカ」を代表する浅田彰や中沢新一の評価はすでに固まっていました。
浅田は日本の現代思想を語る上で欠かせない人になっていたのです。


今でも彼の評価はそこそこ高いように思えますし、東浩紀や千葉雅也は彼の後継者(要するにエピゴーネン)として位置づけられ、「現代思想の終身雇用構造」(フランス現代思想系の若手研究者を未熟なうちからスター扱いしてチヤホヤする構造のこと)を形成してきました。
「ニューアカ」時代の浅田と中沢はまだ「助手」であったので、マスコミに代表される大衆の支持において権威のツリー構造を擾乱するポストモダン的な現象と言えましたし、
東浩紀もアカデミズムに安住せずにマスコミの世界へと転身したために、ポストモダンを生きていたと言えなくもないのですが、
國分功一郎や千葉雅也にいたっては、アカデミズムでの出世路線を確保つつマスコミ露出に励むことで、先輩たちのように社会との葛藤をしないで済ませる「権威に甘えたおぼっちゃん」の道を選んでいます。
こうした変化からもわかるように、日本のポストモダンは思想どころか「現象」としても完全にアクチュアリティを失いました。
今や「ツリー」的な終身雇用構造に依存した学者が「リゾーム」とかほざいているだけの詐欺行為が、〈俗流フランス現代思想〉として流通するだけになってしまいました。


日本には、海外のものを自己流にアレンジして(つまりは去勢して)受け入れ、それを国内の利権者が外的な「権威」として自らのために利用する構造が脈々と受け継がれています。
〈内実〉が排除されるのは「世代を越えた利権構造の維持」が目的でしかないからです。
この構造は仏教伝来から続いているので、まさに日本的構造(もしくは天皇制)と呼ぶにふさわしいものです。
(仏教の「日本化」については中村元『日本人の思惟方法』を参照ください)
天皇が〈内実〉なき象徴(権威)であるのは、それが外的な「権威」を起源としていることの証明と言えるでしょう。
西洋現代思想の日本受容も同様の道を辿っているだけのことで、そこには思想的〈内実〉などはなく、ただ利権構造があるだけなのですが、
批判的視座のない現代思想オタクはそのことが理解できずに利権崇拝に加担しています。


クリスマスやハロウィンを見ればわかるように、日本化した〈内実〉なき海外文化は端的にファッションでしかありません。
海外の「事情通」がヨーロッパの最新ファッションを紹介し、日本人はそれをアレンジしてモノマネをする、
それを何かクリエイティブであるかのように喧伝したい、
そんな卑屈な欲望に常に多くの日本人が動かされています。


現代思想に関していえば、単なる海外思想の「紹介者」でしかない三流学者が、海外の権威によるものを自身の能力であるかのように錯覚して「哲学者」とか「思想家」とか名乗っています。
つまり哲学研究者と哲学者の間には明確な区別がないのですが、
文学研究者が「作家」などと名乗ることがないことを考えると、「思想家」というものは本来「肩書き」ではないのだとわかります。
もともと思想というのは商売から縁遠い、プロの存在しないジャンルなのではないでしょうか。
(だからこそ思想分野の無能な研究者ほど能力ある在野の知識人を貶めたがるのだと思います)
研究者が「肩書き」をお墨付きとして思想を牽引している顔をしていることじたい、反思想的な営みだと考えるべきです。


外的権威を振りかざすドメスティックな利権構造

つまるところ、日本では何もかもがファッションになってしまう国なのです。
その原因は、自らの欲望のために〈外的権威を振りかざすドメスティックな利権構造〉にあります。
もし日本で意義のある批判思想を本気でやりたいのならば、この構造を標的にする以外にありません。
その意味で、それが本当に「思想」であるのか「ファッション」でしかないのかの区別をするのは容易です。
〈外的権威を振りかざすドメスティックな利権構造〉を批判できているかどうかで判断すればいいのです。
この構造は日本における病理(天皇制につながる)のようなものなので、思想に限らずいかなるジャンルにおいても通用する話だと思います。


〈外的権威を振りかざすドメスティックな利権構造〉には、自らの権力基盤となる外的権威が絶対に必要なので、ある程度までグローバル化を許容します。
しかし、外的権威はドメスティックな利権のためにしか必要とされないので、国内の利権構造を破壊するレベルのグローバル圧力は絶対に許容できません。
そのため利権維持にとって都合のいい範囲において外的権威をコントロールする必要が生まれます。
千葉雅也は著書『動きすぎてはいけない』で「接続過剰」を批判して「いい加/減」であることを主張していますが、
これは一般に受け取られているようなインターネットのことだけではなく、インターネットが象徴するワールドワイドな世界、つまりはグローバルな価値観に対して都合のいい範囲で接続する態度のことを言っていると読むべきです。
グローバルな世界に対する接続過剰を批判したものと考えれば、千葉が保守論壇と結びつく理由がはっきりと理解できるのではないかと思います。
要するに「いい加/減」とは適切な範囲で海外と交易する「ドメスティックな世界(鎖国)」のススメだということです。
このような主張にも一理あるようにも思えるかもしれませんが、問題なのはこの主張の真の目的が「ツリー」的な利権構造の保存にあるということなのです。
ドメスティックな欲望を持つ西洋思想の三流学者が、雑誌の編集で知り合いばかりを起用したり、内輪の仲間との対談を繰り返したり、外部の批判言論を弾圧するのは当然ではないでしょうか。


このような利権保持を目的とした「鎖国」精神に至る〈俗流フランス現代思想〉の流れを作ったのが浅田彰の『構造と力』です。
というより、浅田彰の「思想=ファッション」と言ったほうがいいのかもしれませんが、一読して大衆的な読みやすさに乏しい本書がどうして思想のファッション化を導くことになったのか、そのあたりを考えていきたいと思います。


メタに立つだけで中身がない

『構造と力』を読み直してみると、いわゆる「ポストモダン」についてほとんど語っていないことに気づきます。
ポストモダンの有様を示すより、当時の最新思想(記号論、構造主義)を整理して近代批判をすることに重点を置いています。
最後にドゥルーズ=ガタリのポスト構造主義によってラカン的なエディプス・コンプレックスの構図を乗り越える試みを意図しているのですが、実際にはその「乗り越え」の部分にはほとんど中身がないのです。
それもそのはずで、日本の近代はヨーロッパとはまた別の権力構造となっているので、ラカン的構図では説明しきれません。
つまりどこにもいない敵を撃っているようなものなので、思想的リアリティなどあるはずもないのです。


浅田以降の〈俗流フランス現代思想〉が繰り返しているのは、このような「存在しない敵を撃つ」行為にほかなりません。
そもそも社会批判というのは俗流化したら全く意味がありません。
しかし『構造と力』はテクストの内容よりも「ニューアカ」という現象(ブーム)として大衆化してしまいました。
これは『構造と力』という書物にほとんど革命的な内容がなかったことの証明です。


少し脱線しますが、ここで「売れる」ということについて少し考察してみましょう。
商品が「売れる」ということは、それが新たな複製品として大衆に受容されたということです。
そこに新しさが必要なことは言うまでもありません。
どんなに価値があろうとも、多くの人が同時に価値を感じなければ購買運動が広がることはありません。
同時期に購買意欲を刺激するには、その価値が期間限定でなくてはなりません。
(アイドルに若さが要求される理由と同じです)
期間限定内にその価値が大衆に認められるためには、その商品は大衆にとって既視感があるもの、すでに知っている馴染みのあるものである必要があります。
つまり、新しいといっても本当に新しくてはいけないのです。
ポストモダン期における差異が「ほんの少し」の差異となるのは、一般に言われているように、世界に決定的な差異が存在しなくなったからではなく、ほんの少しの差異であることが「売れる」商品の条件であるからです。
新しく「見える」というファッション性こそが指摘すべきポストモダンの本質だと言えるわけです。


まとめると、「売れる」ためには以下の要素が必要です。
⑴ ファッションとしての新規性
⑵ 期間限定的にしか通用しないことによる同時性
⑶ 誰もがわかる既存性と誰でも使える汎用性
もちろんその商品が大衆の欲望を刺激するものでないといけないのですが、それはすべての商品について言えることです。
「売れる」ものはその時にだけ新しいものです。
その後は平凡であるか、価値のわからないものとなります。
もちろん、売れた後も非凡で広く価値があると認知されたものは、本当に歴史的な価値あるものといえますので、僕は「売れる」ものを一概に否定するつもりはありませんが、
売れたものでもその後にたいした価値が認められないものは数多くあるわけですし、そのようなものには後世の人間が否定的な評価をしておく必要があると思います。


では『構造と力』はどうでしょう。
今読み直すととりたてて新しい発見はありませんし、退屈な本にしか思えないので、同時代のインパクトを知らない僕にはどうしてこの本がそれほど話題になったのか不思議です。
26歳の若手がこれほど老練な手つきで本書を書いたという「背景」が「内容」以上に話題だったのではないかと疑います。
若さが重要だからこそ東や千葉などの若手が浅田の後継者と目されたのでしょう。
だとしたら、そもそもが話題性でしかなかったということです。


ポストモダン思想の〈内実〉

結局、僕が〈俗流フランス現代思想〉と呼んでいるポストモダン思想とは、差異の強調によって権威を相対化するように見せて、実際は微細なズラし行為によって対象を「古い」ものにし、自らを「新しい」メタな立ち位置へと導く自意識の運動でしかありませんでした。
そこに〈内実〉はついに存在することはありませんでした。
ネット掲示板やツイッター論争に典型的な、ただメタなポジションを取り合うだけの自意識闘争は、本質的にコミュニケーションを志向していないためにすべてが相対化されます。
要するに、メタに立つ欲望だけがあって実質のないものが跋扈するのです。
中身がないもの同士の争いは最終的に既存の外的権威によって決着することになります。
こうして日本のポストモダンは保守的な権威主義へと帰着したのです。
権威主義が利権構造を横行させるのは言うまでもありません。


浅田自身は本書でこのようなポストモダン的な知のあり方を以下のように述べています。


恐るべき粘着力を持つドクサの中でそれと格闘し、一瞬の隙をついてそこから逃れ去る、あるいは、それ自体をズラすのである。始原なし目的なしの過程の一契機としての切断。それこそ、近代に絡め取られた知の唯一の可能性であり、大学の生み出しうる最大の事件であり、いま《知への漸進的横滑り》を開始しようとするあなたに先程来提案してきた「方法ならざる方法」なのである。

ドクサを「ズラす」=「切断」を「目的なし」に行うのが「知の唯一の可能性」として語られています。
このような浅はかな主張がどのような知性を育んだかは僕たちが身をもって知っていることですが、いったい「目的なし」の知的行為などありえるのでしょうか。
浅田の意図は「イデオロギーなし」ということにあるのかもしれませんが、それこそが資本主義イデオロギーの姿そのものでありますし、「ズラす」行為が自らの刹那的な超越性(メタ化)を目指す態度であることは明らかです。
僕は浅田の年齢より若い時に上記の疑問を抱いていたので、このような戯言が若書きのためだと擁護することはできません。
このような「人間(の業)」に対する考察の浅さが人生経験に乏しい若者に共感されることとなり、ポストモダン思想が経験的視座に対する超越的な反感、年配世代に対する若者世代の不満として現れたのです。
そこには思想的な意味はほとんどなく、あるのは消費文化を牽引する「若者」という消費者カテゴリーを生産する意義だけでした。


「ズラす」ことを知の世界よりももっと「目的なし」に行なっているように見えるのがファッションや広告の世界です。
これが資本主義イデオロギーを背景としているのは当然ですが、ファッションや広告の現場で既存の価値観を「ズラす」人たちは、その行為の目的(到達点)を持つことはありません。
ただ「ズラす」ことが商売だというだけのことなのです。
「ニューアカ」を起点とした日本における「現代思想」とは、はじめから商売でありファッションであったのですが、なぜか知れ渡っているはずのこの事実を当の現代思想界隈の人間たちは知らん顔をし続けています。
(僕はその界隈の人からいろいろ文句を言われたことがありますが、思想がファッションであることについて触れてきた人はいません)


現代思想の〈内実〉はファッションでしかありません。
そうなると「思想」だと思わせるための知的偽装がどうしても必要になります。
そこで現代思想の担い手は知的権威を必要以上に引っ張り出すことになります。
西洋の思想家の名前を出すのはもちろん、自らが大学の哲学研究者であることが何より「思想」であることの説得力になるのです。
つまり、現代思想は内容が乏しいがゆえに「肩書き」がモノを言う世界となっているのです。
そんな内容には見えないけれども、現代思想研究者が言っているから「思想」なんだ、ということです。


前提としての過剰性

いったん『構造と力』という本の概要に触れておきましょう。
『構造と力』の内容をざっとまとめてしまうと、意外に単純です。
本書の前提にあるのは人間が意味の過剰性を生きる反自然的存在だという考えです。
浅田はこのように述べています。


生きた自然からのズレ、ピュシスからの追放。これこそ人間と社会の学の出発点である。人間はエコシステムの中に所を得て安らうことのできない欠陥生物であり、確定した生のサンスを持ち合わせない、言いかえれば、過剰なサンスを孕んでしまった、反自然的存在なのである。

簡単に用語説明をしておけば、ピュシスとは生命が精緻に絡み合って形成された自然環境のことです。
自然と調和した言語無用の環境、浅田曰く「ポリフォニーを奏でる場」である原始自然のことをピュシスと呼ぶのですが、僕はこのギリシア語をハイデガーの『形而上学入門』を読んで知りました。


サンス(sense)は「《方向》と《意味》を同時に表す」言葉として用いられていることを浅田自身が本書で述べています。
大まかに目的となりうる意味のことだろうと考えておけばいいと思います。
浅田が語るサンスの本質的過剰さは無意識的な欲動へと置き換えられるものなので、この主張にはすでにドゥルーズ=ガタリの思想への通路が示されていると感じます。
この前提において浅田はピュシス(自然)状態から近代社会までの変遷を語っていきます。


「方向=意味」であるサンスの過剰は、どこへ向かっていくのかわからない「恣意性のカオス」として現れるので、それを制限する「文化の秩序」が要請されます。
そうして成立した安定的な秩序のことを「象徴秩序」と浅田は呼んでいます。
象徴秩序の存在を明確に示したのが構造主義だとされています。


欲動のカオス的な流れをコード化(記号表現による体系化)して高次元の意味へと変換することでスタティックな象徴秩序が成立しているのですが、
それを脱コード化によって一方向的なダイナミズムへと変換したのが近代社会だと浅田は言います。
象徴秩序にも回収しきれないサンスの過剰を、一定方向に回路付けて余分な何かを生産させる前進のエネルギーへと変換するのです。


このように『構造と力』には、人間は意味的に過剰なため自然からズレてしまった存在であるという前提が存在しています。
浅田自身が「ズレ」を前提とした論であることを「重大な単純化を含んでいることは明白であろう」と書いているのですから、このことはもっと指摘されるべきだったと思います。
浅田のポストモダン論において「ズレ」は理論の帰結ではなく、そもそもの前提だったのです。
このように結論と前提の区別が存在しなくなるあたりに、〈外的権威を振り回す利権構造〉が行き渡った国であることが象徴されています。
外的権威が導いた結論は、日本では動かしがたい前提として機能するのです。
向こうの結論を輸入すればいいだけなのですから、外国語が読めれば日本で評価される論文など考える力がなくても書けるのです。
こんな本で浅田がアカデミズム批判を意図していたのならお笑いとしか言いようがありません。


資本主義秩序に言語を回収する交換体系論

『構造と力』の特徴のひとつに図を用いた受験参考書的な整理があります。
交換体系の生成過程についてもわかりやすい図式化が行われていて、非常に理解しやすくなっています。
浅田は象徴秩序の生成過程を三段階に分けているのですが、そのモデルはマルクスの価値形態論とラカンの理論とアルチュセールのイデオロギー論を同一の型に当てはめたものです。


右の図が『構造と力』に載っている象徴秩序の生成過程です。
実際にはⅢ'があるので四段階に見えるのですが、浅田自身の説明によると、
Ⅰ、A─B間の相互関係
Ⅱ、その平面的な展開としてのA、……、Z間の関係
Ⅲ、唯一の中心0とA、……、Z各々との関係
となっています。
今見ると、この図式は大澤真幸の第三者の審級理論とも似ています。
(大澤はⅠの状態を身体の求心化─遠心化作用と呼んでいます)


ⅠとⅡは他者を自己の鏡として互いに利用しあっている闘争状態だと浅田は述べます。
それを超越的な位置から交換・調停するために、唯一の中心が平面から排除されるようにして成立し、そこにすべてが従属するのがⅢの状態になります。
王をイメージするような中心のことを浅田は「言語的=父権的な中心ないしコード」と表現しています。
これが象徴秩序が成立した状態です。
オマケのようなⅢ'は何なのかというと、ある象徴秩序と他の象徴秩序との間をとりもつ貨幣によって、個々の象徴秩序が解体されてグローバル化した状態を表しています。


僕はラカン思想は資本主義から逆算されたものだと思っているので、象徴秩序の形成が資本主義の構造として説明できるのは当然としか思いません。
そもそも構造主義の出発点に言語と貨幣を相同的なものとして処理するソシュール言語学があるのですから、言語秩序とマーケットの構造が一致するのは当然の帰結と言えるのですが、
これらはすべて資本主義を到達点とした発想であり、現在の秩序の絶対化を導く資本主義決定論だと僕は思っています。
社会秩序の源泉を資本主義に見ておきながら、資本主義の外部をめざす思想というのは端的に欺瞞だと思います。
ポストモダン思想が「資本」の欲望を背景として、ただ既存の社会倫理を更新する消費的多様性を是とするだけの俗流化をたどったのは、このような前提にあったと言えるでしょう。
浅田の論が指し示す象徴秩序の外部が「欲動」になるのは、それこそ循環論的な予定調和というものではないでしょうか。


『構造と力』はいたずらに長いのですが、最初に述べたように内容は繰り返しが多く、今となってはほとんどが無駄話に思えます。
資本主義決定論という疑惑もありながら、やっと最後の方になって貨幣の話を始めて、本書のカバーにも描かれている「クラインの壺」の図が登場します。


クラインの壺とは何でしょうか?
貨幣と商品の間には円環構造があります。
貨幣とは何かといえば、特別な商品として商品群たちが存在する市場(オブジェクトレベル)から次元の高い超越的な位置(メタレベル)へと飛び出したものです。
しかし、地上を飛び立ったのもつかの間、貨幣は常に再投下されて商品へと姿を戻します。
その商品が「売れる」こと──再び貨幣となること──でメタレベルへと返り咲くのです。
このオブジェクトレベルとメタレベルの「往還」を図化したものがクラインの壺なのです。
平面から頂上へと登ったものがまた平面へと戻る、それを出口のない円錐型の容器として表現したのです。
(右の図2がそれです)


先程僕は「売れる」という話をしましたが、「売れる」ためには商品でなければならず、そこで得られる承認は承認という形のないものにもかかわらず貨幣価値に換算できます。
このような社会においては、「売れる」ことによって俗世間的なオブジェクトレベルから脱け出し、メタレベルに君臨することが貨幣による承認とセットになっています。
「売れる」ことで超越的気分になっている人は、ものすごく「近代的」だということになるわけです。


『資本論』が示すG─W─G'の運動(オブジェクト─メタ─オブジェクトの往還)においては、その '(ダッシュ=剰余価値)の部分がさらなる円環運動を呼び、その回転が貨幣の増殖と社会の加速を生みだすのです。
こう言えばもうおわかりでしょうが、本書の前提である「サンスの過剰」とは剰余価値のことであり、人間存在の前提に剰余価値を見る思想のことを資本主義決定論と言わずに何と言えばいいのか、ということです。
このような思想に資本主義を批判する力があるはずはありません。
むしろその逆だと考えるのが普通でしょう。


日本のポストモダンのはじまりが資本主義決定論とも言える本書にあることを考えると、日本で〈フランス現代思想〉が消費資本主義の隆盛期に流行ったのは必然と言えます。
「サンスの過剰」は多方向の趣味的興味へと置き換えられ、消費者の多様な興味に対応するマーケティングの広がりに貢献するだけに終わったのです。
そうして、みんなで同じものを欲しがる「大きな物語」(三種の神器や車)から個別的趣味による購買(キャラ萌えやネタ)という「小さな物語」への転換が語られました。
結局ポストモダン思想は資本主義パラダイムの変化と歩調を合わせていたのです。
それがマーケットの支配層に歓迎されたことで広まったものでしかなかったと僕は思います。
こういう社会背景を無視して〈フランス現代思想〉をただ思想として語るのはむしろ間違った行為だと強調しておきたいところです。
というのは、2019年の「新潮」2月号の「国際的にもある程度の評価を受けている」と御自分でおっしゃっている蓮實重彦の講演が、利権精神丸出しの厚顔無恥な内容だったからです。


「「ポスト」をめぐって──「後期印象派」から「ポスト・トゥルース」まで」という文章がそれなのですが、
蓮實は後期印象派にかこつけながら、「ポスト」という接頭辞は否定の意味を持つとして、ポストモダンという個別性を無視した言い方を批判して、その語彙を用いたマルクス・ガブリエルを「「フェイク・ニュース」じみた気配」とまで悪く言っています。
蓮實だけでなく日本の〈フランス現代思想〉研究者の多くが、自らの「利権」を脅かすガブリエルを批判とも言えないかたちで侮辱しているのは、〈フランス現代思想〉が過去のものにされることを恐れる心情からであることはすぐに思い当たります。
蓮實はこれまで〈フランス現代思想〉が支配的地位にあったときには「ポストモダン」という言い方をたいして問題にしてこなかったのに、批判的に語られ始めたとたんに「ポスト」という言葉について文句を言い出したわけですが、
そういう自己都合丸出しの態度からは、単に自分が依拠する「立場」を守りたいという思いしか感じられません。
「立場」でものを言っている人は、自分の立場を守ることに固執するだけで水掛け論になる、と鶴見俊輔が言っていた気がしますが、自らの立場を擁護する蓮實の発言内容は信用に足るものではありません。
(そもそも浅田も柄谷も東もポストモダンという言葉を使っているのですから、ソーカルやガブリエルを持ち出して「ポスト」という語彙について文句を言うのは思惑がスケスケのスケで呆れるしかありません)
まあ、端的に言って、社会的「立場」が偉い人間の言うことなど信用してはいけないのです。


ポストモダンの思想的矛盾

『構造と力』の副題は「記号論を超えて」となっています。
浅田の意図を説明すれば、記号論はもう有効ではなく、今やドゥルーズに代表されるポスト構造主義の時代であると示すことなのですが、
「現代思想」とは要するにパラダイムを語るものでしかないという印象を受けます。
あれはもう古い、今はコレ、というパラダイムへの言及は、どうしたってファッションに近似してしまうのです。
ポスト・ポスト構造主義というバカバカしい名称に象徴されるように、延々と「ポスト」を続ける運動となるわけですが、
この運動自体が浅田が分析する「近代のシステム」でしかないことに、浅田当人が気づいている気配が全くありません。


『構造と力』で浅田は外部なきクラインの壺のダイナミズムにおいて記号論に有効性がないことを示すのですが、
ポストモダン思想の本というより、実際は近代によって前近代を批判している内容にしか思えないのです。
近代の構図であるクラインの壺が本書の表紙に商標のごとく並べられていることからも、クラインの壺を批判する本というよりもクラインの壺を紹介する本だと考えたくなります。


一応、本書の最後の最後でクラインの壺に対抗するものとしてドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」を持ち出しはするのですが、
本当にちょろちょろっと触れただけで終わってしまいます。
まあ、その後の浅田の著作『逃走論』などで引き続き考察は行われていくので、あまりうるさく言う必要もないのかもしれませんが、
本書だけを取り出せば、ほとんどポストモダンというほどの内容はなく、近代についての考察というべきものであることは認識しておくべきだと思います。
つまり『構造と力』のインパクトはポストモダンという新しい価値の提示ではなく、資本の運動たる近代を明晰に示したことにあったと考えるべきではないかということです。


ちなみに浅田が近代とポストモダンをどこで線引きをしているかをわかりやすく示しておきましょう。
浅田の描く近代とは、資本が(と浅田はなぜか主語を示さないが)差異を一方向に誘導し秩序内部へと吸収し、全身のエネルギーとしてしまうシステムです。
それに対して、そのシステムに対抗するポストモダン的な手段は「常に外部にあること」だと浅田は語ります。
言い換えればメタな位置を確保し続ける戦略として提示しているわけです。
それについて述べた部分を引用しましょう。


常に外へ出続けるというプロセス。それこそが重要なのである。憑かれたように一方向に邁進し続ける近代の運動過程がパラノイアックな競争であるのに対し、そのようなプロセスはスキゾフレニックな逃走であると言うことができるだろう。

こうして浅田はパラノからスキゾへ、イロニーからユーモアへと図式化したわかりやすい結論を示します。
このような価値観の変化がパラダイムシフトへの誘いであることはわかりやすいと思います。
しかし、これがパラダイムシフトとして提示され、流行(ファッション)として消費されている時点で、リゾーム的な運動というのは挫折しているということに僕らは気がつくべきでしょう。


単純なパラダイムシフトとして語られた「現代思想」は、明らかに一方向に誘導された前進運動でしかありません。
こうして日本では「現代思想」がフランス発の思想ばかりとなってしまいました。
これは明らかに多様な方向も意味も持たないブームであり、「サンスの過剰」などとは程遠い欲望だと言わねばなりません。
前述した蓮實重彦の講演にも見られる通り、〈フランス現代思想〉に携わる研究者は分析哲学やドイツ思想など多様な潮流を肯定するどころか、自らの利権を脅かすものとして悪口を言い、懸命に排除に努めています。
このような態度のどこに「リゾーム」の価値観が活かされているといえるのでしょうか。


日本のアカデミックなポストモダン思想は、このように出発点からして多方向的な〈内実〉を持たない「お題目」でしかなかったのです。
皮肉にも、リゾーム的な多方向性はポストモダン思想ではなく、インターネットという技術によって実現しました。
リゾームがインターネット技術と重なることは千葉雅也も著書で述べていますが、〈フランス現代思想〉研究者はそのようなネット的な多方向な言説を尊重するどころか、取り上げて文句を言ったり巨大資本におもねって弾圧したりして、アカデミックな「言説のツリー構造」を維持する守旧勢力になってしまいました。
千葉は僕に「ポストモダン嫌い」というレッテルを貼りたがっていましたが、僕が批判している対象である〈俗流フランス現代思想〉とはポストモダン思想を口にしておきながらツリー構造を維持し続ける利権であり、それこそ「近代的なもの」だということです。
つまり、僕の方が〈フランス現代思想〉研究者よりもある意味ではポストモダンを体現している存在だと言えるのです。
僕が日本のポストモダン思想を〈俗流〉と呼ぶのはそのためです。


結局、日本の〈俗流フランス現代思想〉に代表されるポストモダンというパラダイムは権力を擾乱するどころか、権力者を横暴にする結果を導きました。
職業上はアカデミックなツリー構造の利権を貪りながら、言説上では社会的地位にふさわしくない態度や暴言を弄して、それを「リゾーム的な多方向な欲動」ということですませる無責任社会の到来です。
トランプ大統領や蓮實重彦のように自らの批判者を一方的に「フェイクニュース」と言って憚らない態度はその最たるものと言えるでしょう。
浅田には日本のポストモダン思想の火付け役として、このような結果に終わったポストモダンを総括する責任があるのですが、
浅田をはじめとして日本の言論人のほぼ誰もがその仕事をやらないので、微力ながら僕がそれを試みているというのが現状です。


簡単な話ですが、権力者が得をするだけのポストモダン思想は、結局クラインの壺の外には出られなかったということです。
その原因は「多方向性」を肯定した思想を新たなパラダイムとして提示し、アカデミズムやマスコミなどの守旧勢力による「一方向的」な資本の運動にしてしまったことにあります。
「多方向性」を主張する「一方向的」な運動という矛盾。
これがポストモダンの思想的矛盾であり、ここに権力によるコントロールが可能になる要因があったわけです。
ものすごく俗っぽい言い方をすれば、ポストモダン思想の敗北はそれによって「金儲け」をしようとしたマスコミや学者に先導されたことにあるのです。


以上の総括から、真のポストモダン思想があるとしたら、その道筋は自ずと決まってきます。
権力や金儲けなどの利権を目的としない多方向な欲動を「現実化」することです。
教授になりたいだけのヤツや本を売りたいだけのヤツにポストモダンの看板を持たせるのはもうやめにすべきです。
報酬以上に圧倒的な労力を、権力の思惑と別の方向に浪費すること、バタイユがどうこうと語るよりもそれを実践する方が近代に対する挑戦だと思います。
思想とは言説上でのみ展開されるべきものではありません。
近代的権威に寄りかかったポストモダン思想など、ブームが過ぎれば誰も相手にしなくなるのは当然なのです。


9 Comment

コメントへの返答

どうも、南井三鷹です。
クロさん、洛書さん、コメントありがとうございます。

クロさんの言う通り、現代思想では批評用語によるブランディングが重要な役割を果たしたところはありますね。
その意味で現代思想は「広告」的な世界ですし、栃木の広告屋の息子が現代思想界隈でデカい顔をしているのも僕には興味深い現象に思えます。
それが日本的な病理である、と僕は言いたいところなので、『日本の思想』を持ち出してもらえたのは光栄です。

僕はあまりソーカルとブリクモンの批判に興味はないのですが、その批判にアレルギー的に反応するだけの〈フランス現代思想〉陣営の態度には、学問的矜恃より利権維持への固執が目立ちます。
蓮實が今になってソーカルの名を出すのも違和感しかありません。

僕はポストモダン思想が「古い」こと自体が問題だとは思っていません。
それがバブル経済を背景とした「ジャパン アズ ナンバーワン」の気分と結びついていることが問題だと考えます。
日本のポストモダンには経済大国幻想が隠れています。
金融緩和バブルが国際標準化しているのをいいことに、いつまでも80年代幻想(安倍晋三的保守の正体)を生きている日本に僕はウンザリしています。

洛書さん、案外フランス現代思想研究者はスピノザが大好きなんですよ。
國分功一郎や市田良彦など、マルクスへの興味を捨ててない人はスピノザに行くようですね。
アルチュセール経由なのでラテン語で読んでいるとは思いませんけど。
しかしスピノザ主義としての〈フランス現代思想〉は全くウケず、「スキゾキッズ」ならぬ「動物化」とか「来るべきバカ」とかいつまでもパラダイムシフトの提示をすればいいと考える浅田のエピゴーネンを生み出しただけでした。
ポストモダンのはじまりは「超人」へのシフトを語ったニーチェの形而上学批判とされることが多いですが、その意味でニーチェ解釈もなかなか難しいです。

難儀な時代

今の時代の不幸は、ツイッターを通して、ニーチェの「善悪の彼岸」が息を吹き返さないこともそうなのかもしれない。

みんながニーチェの短い言辞にふれて、ツァラトゥストラの声に耳を傾けられない。ツァラトゥストラとの対話にいたれない。

だれも、自身の実存に沈潜できない。誇大広告の好きなやつばかりが神との交流を口にしたがる。神との交流より、ドゥルーズについて論じるほうがかっこいいと誤解しているやつらも今でも多い。だからこんな世の中になる。

本質的な問題

本質的な問題は、いまでも、ドゥルーズやガタリの問題提起が重要かどうかだということ。

ドゥルーズはいまや、たんなる幽霊権威かもしれない。デリダも同様。

インターネット時代は、断片的なモザイクのエクリチュールの提供は万人のもの。

無題

>現代思想に関していえば、単なる海外思想の「紹介者」でしかない三流学者が、海外の権威によるものを自身の能力であるかのように錯覚して「哲学者」とか「思想家」とか名乗っています。

これは流行り言葉のブランディングに似ている気がします。日本社会の習性なのでしょうか。

>⑵ 期間限定的にしか通用しないことによる同時性

だから、本質を突くことができていないのですね。

>そこに〈内実〉はついに存在することはありませんでした。

ここまでの議論を歴史に根ざして抉り出せば、おそらく丸山真男の「日本の思想」(これもいまだに現役ですね…)に匹敵する論考になり得ると思いました。そしてこれは日本社会の病理ではと思いました。つまり、思想的な薄っぺらさの淵源なのではと思ったのです。

>そもそも浅田も柄谷も東もポストモダンという言葉を使っているのですから、ソーカルやガブリエルを持ち出して「ポスト」という語彙について文句を言うのは思惑がスケスケのスケで呆れるしかありません

ソーカルの出現で、フランス現代思想(の一部)は破壊されたはずなのですが、いまだに固執している”思想家”がいるのも問題ですね。
現代思想をするものの中には、これは分析哲学も含まれるのですが、最新の研究を踏まえず数十年も昔の理論を振りかざす人がいるようです。
このように、日本は”海外”と”最新”に目を向けていない(あるいは拒絶する)ものがメインストリームを牛耳っていますね。
70年代に東大生だった教師と話す機会がありましたが(私の3倍の年齢です)、経済学も古いまま、現代思想も古いまま、という残念な人でした。
これが日本の次世代を引っ張るのかぁ〜とガックリとしました。

>リゾームがインターネット技術と重なることは千葉雅也も著書で述べています

千葉は数学ができないんですね(笑)

ネグリとスピノザとドゥルーズ

イタリア語で著作されたネグリの巨大なスピノザ論「野生のアノマリー」をフランスに紹介して、ネグリを世界的に有名な思想家にしたのが、かのジル・ドゥルーズです。

ところが、日本のドゥルーズ屋さんたちは、ネグリとハートの英語の共作に言及したがらない。

日本のドゥルーズ屋さんたちは、ニーチェに言及するのはとても好きだけれど、ラテン語で著作したスピノザの話はしたがらない。

私は、英語とか、ラテン語とか、イタリア語とか、使用言語が問題で、彼らは、フランス語とドイツ語に強みがあることを大衆にひけらかしたいだけだと思ってましたが、彼らの利権の性質自体に理由があるとは、私は、想到しませんでした。

ちなみに

どうも、続けて南井三鷹です。
腹立ち紛れにコメントします。

ドイツ人がフランス現代思想を批判すると、フランス現代思想研究者は(ドイツ系なのにポストモダンで売文している仲正も)いっせいにイチャモンをつけるのですが、
フランス人のバディウやメイヤスーがドゥルーズを批判しても、彼らはそれと応答することなくごまかします。
学問の徒として非常に不誠実だと思います。
こういう思想的な根拠を見出せない功利的態度からは、利権保守勢力という答えが導かれるのも当然です。
批判をしたければ言説で1円も利益を得ていない僕ではなく、思想的に一貫性がなく功利的な態度をとり続けている学者に向けるべきですし、
それができない人は思想内容より利権を愛しているのだと僕は判断します。

「現代思想」2019年1月号のメイヤスー「反復・重複・再演」にハッキリ書いてありますが、
メイヤスーはドゥルーズの多元論を一元論に結果する「主観論主義」と批判しています。
ドゥルーズ学者としての恩恵を十全に受けまくっている千葉雅也が、なぜドゥルーズ批判者のバディウ─メイヤスーの代弁者でいられるのか、
なぜメイヤスーのドゥルーズ批判には葛藤もしないのか、
現代思想オタクたちはそういうことすら疑問に思わないのですから、そもそも思想を読む資質に欠けている権威大好き人間だと感じます。
千葉はメイヤスーの数学志向を批判していましたが、自己保存のためならコソコソ翻していくに違いありません。

このような不毛こそがマスコミと癒着した現代思想という分野です。
その裏でマジメにやっている人がいるに違いないのですが、利権学者のせいで陽が当たらないのだろうと思っています。

コメントへの返答

どうも、南井三鷹です。
皆様のコメントに感謝しています。

洛書さん、座布団ゲットありがとうございます。
山田くんに持っていかれないように気をつけたいですね(笑)
フーコーに対する評価はおっしゃる通りだと僕も思います。

『〈帝国〉』に対して日本のフランス現代思想研究者の反応が冷淡だという指摘は非常に重要です。
(廣瀬純のような人もいますが、業界ではマイナーな方ですね)
ネグリがイタリア人であることも関係はしているでしょうが、フランス現代思想に親和的なイタリア人アガンベンより冷淡ですので、
国籍や言語よりもネグリが明らかにマルクス系の「左翼」であることが嫌なのだと思います。
日本のポストモダンはナショナリズムと親しいので、左翼的言説は排除する傾向があります。

それから無名の方の「脇が甘い」とのご指摘ですが、
ガブリエルの映画の知識が甘いならその点を指摘するだけでいいことです。
蓮實の講演は映画の話ではなく「ポスト」という語彙についてのものです。
「ポスト」という語彙だけで彼の著書にまで言及し、「フェイク・ニュース」とまで書くことに必然性を感じることはできませんでした。
必然性がない言説に裏があると考えるのは特におかしいことではないですし、
僕のような馬の骨よりも、国際的にもある程度評価されているはずの蓮實の言うことの方がよっぽど「脇が甘い」と批判されるべきだと思います。
(そもそも映画はガブリエルの専門ではないでしょうに、何がエビデンスなのかさっぱりわかりませんね)

本論ではない部分に関して細かいことを言うことはたやすいので、つまらぬ揚げ足取りと感じました。
僕の論証が間違っているという批判でなく、別のものを持ち出してズラすことが目的ならコメントはご遠慮いただきたいものですね。

無題

蓮實がガブリエルを批判したのは映画に関する知識が甘いというエビデンスがあるからで、そこをすっ飛ばして利権を守りたいから批判していると決めるのは脇が甘くないですか?

おみごと!

うまい!南井さんに座布団1枚!

鋭い切れ味ですね。なんか、毛沢東の永久革命論とか思い出したりしました。これも、昔流行って忘れられましたね。

いま、フーコーの著作をフランス語の原書で読んでますが、これは近代を反省するまともな歴史学だと思います。

ネグリとハートの「<帝国>」は、名著だと思いますが、英語で書かれた政治学の本なので、フランス現代思想系の人たちは、意識的に無視しますね。ガタリとちがって。

日本では、憲法学の世界も、フランス法の権威たちが強いみたいで、そのへん、フランス現代思想関係者たちと背後で結託しているのかもしれませんね。

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