- 2021/02/18
- Category : 【逸脱書評】俳句・詩
ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【中編】
作為のためにある俳句
さて、気が進まないので前置きが長くなりましたが、仕方ないので『エレメンツ』を読もうと思います。
シンプルに疑問なのですが、鴇田を褒めている人の中で、この句集を真剣に読んだ人はどのくらいいるのでしょうか?
なにしろ作者が優位な位置で楽をしているため、読者の方にとんでもない「労働」を強いてくる句ばかりなのです。
おそらく、この句集を褒めた人は、鴇田の句を手前勝手に解釈して遊んでいるだけで、ちゃんと読もうとしたことがないのだと思います。
(関悦史など俳句業界の啓蒙宣伝大臣として、大げさな言葉で内輪の俳人を気持ち悪いくらいに褒めちぎりますが、鴇田の句を全然まじめに読んでいないですよ)
まあ、俳人が俳句をきちんと読まないことは今に始まったことではありませんので、僕は別に驚きません。
では『エレメンツ』の最初のページを取り上げましょう。
ずっと同じことばかりの金太郎飴なので、ある程度どこを読んでもいいのですが、
句集を作るときに最初のページに載せる句を重視しない人はいないはずです。
その部分は「トレース」と題されています。
海胆のゐる部屋に時計が鳴る仕掛け
これが1句目ですが、いきなり「海胆のゐる部屋」につまずきます。
たしかに部屋にウニがいればウニがいる部屋ではあるでしょうが、部屋でウニを飼う人というのも僕には想像ができません。
(ナメクジを飼っている僕に言われたくはないかもしれませんが)
では、買い物帰りの部屋に食材として買ったウニが置いてあったらどうでしょう。
それは「ゐる」とは言いませんね。
苦しいですが、漁港や居酒屋の水槽にウニがいる情景としても、それは「部屋」と表現するものではないでしょう。
考えれば考えるほど日常からズレていくのですが、
つまるところ、作者の狙いは季語である「海胆」を日常性から遠ざけることにあるのだと思います。
こういう日常からの「ズレ」はサブカルによくある手法ですが、決まったパターンを「ズラす」ことで達成が感じられるジャンルは、
純粋な「ナンセンス」にすべてを賭けるサブカルよりも、ダダ滑りする心配がなく安全です。
やたら「意味がない」ことにこだわっているのに、実際は既存の俳句観から「ズレる」という意味づけによって自分を救済するのでは、
アウトローと自称しながら、実は権威ある出版社に勤務している人みたいなもので、二枚舌もいいところです。
俳句らしい俳句を「ズラす」ことに意義が感じられるのは、それが現実逃避に役立つからです。
僕は俳人ではないので、それ以外に季語からリアリティを奪う意義がわからないのですが、もし文学的な深い理由があるのなら教えて下さい。
鴇田当人は俳句を「表現活動」だと言っていたわけですが、その肝心の「表現」の意図が句の中にあるのではなく、句の「外部」にある場合、その句自体を読む意味があるのでしょうか。
「意味がない」のではなく「読む意味がない」のではないかという疑惑がわいてくるのですが、もしかしたら句を理解したら深いものがあるのかもしれません。
あくまで一句を鑑賞する姿勢を維持して読んでいきたいと思います。
この句をひと繋がりに読んでもよくわからないので、理解を求める読者は2つの部分に分けて把握することになるでしょう。
この区切りの位置を俳句では「切れ」と呼ぶのですが、鴇田が「切れ」に対する意識が強い俳人であることは、僕は以前に指摘しています。
その意識は「切れ」を弱めて曖昧化する方向に働いています。
とりあえず想定されるパターンを並べてみます。
海胆のゐる部屋に/時計が鳴る仕掛け
海胆のゐる/部屋に時計が鳴る仕掛け
海胆のゐる部屋に時計が鳴る/仕掛け
僕が考えるに、この3パターンの意味の切れ方があると思うのですが、
わざわざ曖昧にする方向をめざしている俳人が、「切れ」を明確にする気になるものでしょうか。
おそらく作者の鴇田も、好きなところで切ってください、とか言うのではないでしょうか。
僕の想像では、この句が依拠している意味の区切りは上記の3パターンのどれでもないような気がしています。
図式で表せば下のようなイメージです。
[海胆のゐる部屋/部屋に時計が鳴る]仕掛け
これを見て前衛的な句だと考えたとしたら、残念ながらそれはあなたが未熟な俳句しか作れないだけのことです。
根本的に定型に依存しているくせに、一句にいろいろな要素を詰め込みすぎて、しっかりした形に作れていないだけのことなのです。
「部屋に時計が鳴る」のはおそらくアラームだと僕は思っているのですが、たとえ柱時計だとしても、それが「仕掛け」であることはわざわざ言うまでもないことです。
本来ならば、句の上で「部屋に時計が鳴る」の情景だけを表現して、「仕掛け」と言う部分は読者の脳裏に浮かぶようにしなくてはいけないはずです。
「仕掛け」と言ってしまうと、自らネタバラシをしているのと変わりがないからです。
ネタバレの句であれば、下手な俳句と言われても仕方ありません。
しかし、下手な俳句を句集の1句目に持ってくることはありえないので、鴇田本人はこれを会心の作の一つだと思っているわけです。
なるほど、「習い事」としての俳句を彼が否定する理由がわかるというものではありませんか。
「習い事」の視点でこの俳句を読んだら、「下手」という印象を持たれてしまうわけですから。
もちろん、僕は俳句をやらないので、「習い事」の視点で読んだことはありません。
鴇田の言う「習い事を超えた、表現活動」の視点でこの句と向かい合った上で言うのですが、
「表現」として読んでもこの句は全然ダメだと思います。
まず、「海胆のゐる部屋」という表現が、現実感をズラすネタ以上のものにならず、詩的イマジネーションを呼び起こしません。
句中の内容が乏しいために、句の「外部」に存在する作者の作為的な意図ばかりが強く伝わってきます。
要するに、「俺は作為がしたいんだ!」ということばかり大声で伝えてくる句だということです。
そう考えると、わざわざ蛇足とも思える「仕掛け」の語でまとめるところに鴇田の欲望が見えてきます。
僕が「[海胆のゐる部屋/部屋に時計が鳴る]仕掛け」の構図で示したように、「仕掛け」という部分はその前までの部分に対するメタ的な位置にあります。
ここに導入されるメタ言語とは、支配的位置にいる作者の心の声でしかありません。
つまり、「仕掛け」の部分は「俺は作為がしたいんだ! だから俺は句に仕掛けを施すんだ!」という宣言みたいなものです。
彼の声が聞きとれない人は幸いですが、その声の大きさに僕はウンザリします。
自分の声を定型の中で洗練させることもできずに、生のまま俳句に入れてしまうのは、「表現」としても低レベルだと言えるのではないでしょうか。
これは『エレメンツ』全体に言えることですが、鴇田の句を構成する語句は詩的イマジネーションに拠りどころを求めるのではなく、説明的な理屈に貫かれているところに特徴があります。
本質的に理屈で成立している句であるのに、理屈で処理しきれない部分があるから、「意味がない」ことが殊更に印象づけられるのです。
遠く隔たった2つの要素を詩的に結びつける俳句の手法に「二物衝撃」というものがあります。
一般には「取り合わせ」や「配合」と同じものとして処理されているようですが、
「二物衝撃」はより遠くまで詩的な跳躍を求めたものだと僕は理解しています。
しかし、鴇田の句では「海胆のゐる部屋」と「部屋に時計が鳴る」の2つの要素が取り合わされても何も生み出すことはありません。
根源的な問題は、鴇田の句がどうにも理屈でしか成立していないということにあります。
理屈で用意された語は、理屈で読まれることを求めるので、詩的イマジネーションを呼び起こすことはありません。
句の中の2つの要素が結びつかないことを俳句の世界の言い方に直せば、「二物衝撃の失敗」ということになります。
句の「切れ」を明確にしてしまうと、それが二物衝撃であることから逃れられなくなります。
そこで、「切れ」を曖昧化し、なんとなく一句がつながるように見せて、二物衝撃で評価されることをやんわりと回避していくというのが鴇田の手法です。
まあ、それがわかってしまえば、実態は中途半端な句でしかないわけです。
こういう言い方をすると誤解されるかもしれませんが、僕は鴇田智哉が下手だと言いたいのではありません。
なので、「一句成立の途上にあるモラトリアム俳句」とか別の言い方を選んでも構わないのですが、
より根深い問題は、鴇田があえて配合の失敗もしくは完成することのない俳句を目指しているということなのです。
「表現活動」として意図的にやっているからこそ、「習い事を超えた」とか偉そうなことを言えるのですが、
その「表現」の最大の目的は、読者に一句全体の意味を把握させないことにあるのです。
二物衝撃の日常化
実のところ僕の興味は、どうしてポストモダン俳人がこのような俳句を好むのかを探ることにあります。
そのために長々と前置きを書いたのですが、ここまでくればようやく語ることができます。
まず確認するべきことは、俳句の「二物衝撃」が現代において有効性を失ってきているということです。
実際は俳句に限った話ではなく、現代の文学シーン全体に言えることかもしれませんが、
現代社会における詩的イマジネーションの衰弱が原因と考えられます。
現代詩の分野でだいぶ前から隠喩が力を失い、かろうじて換喩によってポエジーが生き延びる事態になっていることも、
詩的イマジネーションの衰弱と無関係ではありません。
俳句の世界で「二物衝撃」が有効ではなくなったことをハッキリ指摘した人に佐々木六戈がいます。
ところで、この「二物衝撃」という詩法は、もはや、わたしを驚かせない。ロートレアモンの『マルドロールの歌』の一節である「手術台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのようにうつくしい」がシュルレアリストたちに与えたような衝撃をわたしに与えない。偶然のことばの組み合わせが開拓した無意識の沃野はすでに日常の風景に化してしまっている。(佐々木六戈「草木の弟子」『セレクション俳人 佐々木六戈集』2003年:邑書林)
佐々木がここで言っていることは、僕が〈フランス現代思想〉に有効性を感じないことにも通じます。
佐々木はなぜシュルレアリスム的な、もっと言えば〈フランス現代思想〉が依拠する「無意識の沃野」が日常化したのかについては語っていませんので、
僕が代わりにその理由を説明します。
それは無意識によって行われていた作業が、市場経済と高度情報メディアによって技術的に可能になっているからです。
一見無関係のものが並立したり結びつけられたりすることは、インターネットをやっていれば日常的に体験することです。
珪藻植物について検索した画面の横で、BLACKPINKのライブ映像の画面を並べてしまえばいいのです。
ロートレアモンもAmazonでミシンを検索した直後に、蝙蝠傘を検索してみればいいのです。
(残念ながらヨドバシ.comだと、蝙蝠傘を検索してもそういう題名の本しか出てきませんね)
インターネットが一般化した現代では、たとえ地球の裏側にあるものであっても、商品である限りは2つのものを結びつける程度のことでは日常を超えることなどできないのです。
わかりやすいのでインターネットを例に取りましたが、本質的な話をすれば、このような商品の並列性を可能にしているのは一元的な「市場」の存在です。
ポストモダン世代が消費市場を居場所にした人々であることはすでに見てきた通りです。
彼らにとって「商品の二物衝撃」はもう日常的な出来事でしかなく、何のインパクトも与えることはありません。
ポストモダン世代は市場やメディアを母胎としているので、日常から遠くへ逃走することを目的としても、市場という日常から離れることはできません。
2つのものが簡単に結びついてしまう世界では、「二物衝撃」など衝撃なき安息の日常でしかありません。
これを逆から見れば、商品であるかぎりは何を並べても結びついてしまうということにもなります。
何を並べても結びつくという「安心感」の中で、それをおもしろがるとしたら、意味的には結びつかないものを並べてみせることでしょう。
こうして、離れすぎて意味に結びつかない「要素=商品」を並べることで、現実逃避を求める商品カタログ世界の住人であることを受け入れていくのです。
こういう句が成立する背景にあるのは、商品が並んでいる世界に「安心感」を感じる精神です。
どんなものを並べても結びつくという「安心感」の中で、詩的緊張など生まれるはずはありません。
はじめから挫折などありえない世界にいるので、どんな句も別に失敗ではないのだ、という理屈が成り立ちます。
「習い事を超えた」というのはそういう意味なので、意味に結びつかない句などポストモダン世代なら誰にでも作れるのです。
それではただの下手な句と区別が難しくなります。
そうなると、鴇田の俳句が「表現活動」であるためには、単に意味に結びつかない句というだけではダメなのです。
しかし、意味に結びつかない句を文学だと思わせることが可能なのでしょうか?
まやかしでしかありませんが、「思わせる」だけなら可能です。
作為的に既存の価値観を「ズラす」ことが、これまでと違う新しさの表現だと思わせればいいのです。
意味に結びつかないことをアイロニカルに「あえて」やっている、と受け取ってもらうことで、
それが文学的な「表現活動」であると「思わせる」ことが彼らに残された道なのです。
意図的に結びつかないものを並べた、もしくは、意図的に現実をズラして意味了解を迂回した、という「作為」の証明が彼らの生命線です。
「あえて」意味しないことに努める句には、意味を読み取ってくれる読者の存在は必要ありません。
読者という「他者」に脅かされることなく、安心して自己完結の世界に居続けることができます。
あえて「わからない」領域をめざしていくことが、彼らポストモダン世代の安全極まりない「表現活動」なのです。
(つまり、彼らが最も忌み嫌う存在は、一句を真剣に読む読者なのです)
言ってみれば、「結婚できないんじゃない、あえて結婚しないだけなんだ」とか言いたがる人みたいなものです。
こういう「わからない」ものを価値と思わせることに努力しているものに、現代アートがあります。
その点でこういう素振りを現代アートに似せることもできますが、現代アートは文学ではありませんし、それがすでに死に体であることは「現代アートへのレクイエム」という記事で詳しく書きました。
あとで確認しますが、ポストモダン世代には「意味がない」もしくは「現実的でない」ことに価値があるとやたらに言い張る傾向があります。
これも「意味のあるものが作れないんじゃない、あえて意味しないものを作っているんだ」という「あえて(=アイロニー)」の強調に主眼があります。
(アイロニーとは、表面的に異なる振る舞いをすることで、「本質を隠す」やり方のことです)
こう書いても、「うるさく言わないで、意味にとらわれない不思議さを直観的に味わえばいいではないか」と不満を言う人がいるかもしれません。
たしかに字面と言葉の組み合わせを、感覚で捉える読み方をする俳人は少なくないようです。
しかし、そんな表層的なお遊びなどにつき合う暇人は、携帯アプリのゲームでも感覚的に操作していればいいのです。
たとえ意味をズラす「作為」から漠然と何かを感じたとしても、それは本来あるべきところにそれがない、という「いないいないバア」でしかありません。
「いないいないバア」俳句で喜べる幼稚園児なら、別に何であっても楽しめるでしょう。
身内の飲み会ならつまらないゲームでも盛り上がるでしょうが、そんなものに縁もゆかりもない人が真剣につき合うでしょうか。
意味化を避けて部分がバラバラとなったままでは、俳句ではありません。
一句を俳句として成立させるためには、一句を貫いている何かが必要なのです。
身内意識から離れて考えれば、鴇田が一句を支えることに選んだものは、意味でもポエジーでもなく、
「これは意図的にやった仕掛けなんだ」という「作者のアイロニカルな意図」にしかないことがわかるでしょう。
この確信犯的なこだわりこそが、彼の句がいつも同じ金太郎飴のような印象を与える原因です。
「アイロニカルな作為」に貫かれた句ばかりが並んでいるのですから、アイロニーという方法論がわかってしまえば退屈になるだけです。
おそらく、これから僕が鴇田の方法論を解き明かせば解き明かすほど、彼の俳句は退屈なものに見えてきます。
しかし、それは僕の読み方に悪意があるのではなく、彼がパターン化した作為的な方法論で作句しているからそうなるのです。
空しいことですが、この句集は「あえて意味伝達の挫折を狙った」という「あえて(=アイロニー)」に全力で奉仕している俳句ばかりです。
鴇田の句では「あえて(=アイロニー)」という「作者のメタ的な意図」こそが主体であり主人公になります。
主体を抹消しているのではなく、作中にいる主体を分身化して、句の外部で句を支配する操作主体を「本体」としているだけなのです。
メタな位置に自分を置いて、現実を作為的に操作することに喜びを感じるのがポストモダン精神です。
そして読者は作者とメタ的な共感で結ばれるようになるのです。
まるでゲームをプレイしている人をネットの映像で見ているようなゲーム実況の世界ではありませんか。
インターネットによって寂しい一人遊びをみんなで共有できるようになったことは、素晴らしいことですね。
しかし、虚構に奉仕するメディア・コミュニケーションと文学は同じものではありません。
1人プレイのゲームを思い起こさせる鴇田の句が、ポストモダン世代に好意的に受け入れられる理由を考えてみると、いくつか思い当たることがあります。
一つは「主体性の挫折」という世代的な無力感を、「作為」という主体的な操作によって否認することができる、という点です。
アイロニーの手口が隠された「作者のメタ的な意図」を印象づけるので、読む人に作家性があるかのように誤解させることができる点も、魅力と受け取られているに違いありません。
もう一つは、意味を不確定にすることで読みの自由度を生んでいるように見える点です。
後者に関しては、僕は「解釈のバイキング形式」と呼ぶことにしています。
つまり、句や句集の中に材料となる情報だけを提供して、あとはお客様が自由に解釈をして下さい、というスタイルです。
ひとまとまりの皿として料理を提供するのではなく、単体の料理が「断片」としてフラットに並んでいて、
そこから「自分の好み」で好きな料理を好きなだけ取って食べるのがバイキング形式です。
好きなものを選ぶ、という行為には主体的な自由があるかのように見えます。
しかし、実際は用意されたものの中から選ぶ、マークシート方式の試験問題みたいなものでしかないのです。
このような「自由」は、最終的に金銭の搾取のために存在しています。
「自分の好み」のキャラを「自由」に選ぼうとすると、アプリのゲームで課金奴隷になることを思い浮かべれば、僕の言うことが理解できると思います。
このような選択の自由があるかのように見せる方法が、いかにもポストモダンなのです。
このような「断片」化した俳句を鴇田が意図して作っているのは間違いありません。
「エレメンツ(要素たち)」という句集名が、自分の句が断片投げ出し俳句であるとを自覚していることを示しています。
しかし、作者が読者より絶対的に優位にある俳句においては、読者が「自由な選択」だと思っているものは、すべて「作者のメタ的な意図」の支配下にあることは言うまでもありません。
ポストモダン思想の大義名分に、ナチスやスターリン的な全体主義への批判があります。
これを教科書的に真に受けると、「断片」や「切断」に反全体主義的な価値があるかのような短絡に陥ります。
しかし、鴇田の俳句が示しているように、
「切断」された「断片」を並立的に提示するだけでは、超越的な意図が召喚されてしまうものなのです。
「意味がない断片」であることに執着する態度が、新興宗教的なメカニズムと結びつくことについては、あとでもう一度触れますが、
メインディッシュの一皿も作れずに、バイキング料理を作っているだけの人が、料理人として名を馳せるなんてことがあるでしょうか。
普通の業界ではありえないですよね。
なぜ俳句の世界では、メタレベルに逃げないと責任のある皿を作れない料理人を、すぐれた「作家」や「詩人」のように扱うのでしょうか。
俳句を俳句として成立させようとしない俳人を、文学的もしくは芸術的として評価したがるところに、
僕は自己否定にまで至った俳人たちのコンプレックスを強く見る思いがしています。
このように句の内容を曖昧化・断片化して、超越的な作者の「アイロニカルな意図」の方を主役にする俳句が鴇田智哉の俳句です。
作品上で操作的な主体を演じても、それは自分が本質的に無力であることを隠すアイロニーでしかないのですから、最終的には自己弁護にしかなりません。
つまりは作者の「言い訳」の発表会と言っても良いでしょう。
価値のフラット化した世界で、重量を失った言語を操作するアイロニカルな精神が、エンタメや現代アートの真似事をしているだけなのです。
これが『エレメンツ』の本質ですが、まだ指摘しなければいけないことが残っています。
「ありがちを避ける=個性」という甘えた実存
ようやく2句目です。
しらはへにあらゆる指を含みたる
「しらはへ」とは、白南風と書いて、梅雨明けあたりに吹く風を言うようです。
これは個人的な感覚なのですが、僕は俳句で安直に「あらゆる」とか全体に及ぶ語を用いるのはあまり好きではないですね。
「ことごとく未踏なりけり」とか。
なんかナルシシズムが強く匂ってくる気がするのです。
例によって「あらゆる」の範囲がどこまでなのか、不明瞭にして読者の判断に丸投げしていますので、作者がそう言いたいということなのでしょう。
さすがに自分の指では変な気がするんですよね、私はあらゆる指でピアノを弾きます、とか言わないですし。
もっと気になるのは「指を含みたる」という表現です。
「しらはへに」を白南風が吹く時と解釈し、そこで何かが「あらゆる指を含んでいる」と読むこともできますが、
その場合、「含む」は口に含むの意味で受け取るのが通例でしょう。
赤ん坊のおしゃぶりなどを連想しても、全ての指を口に含むというのは考えにくいことです。
仕方ないので「風に指を含む」で考えていくことにします。
「しらはへはあらゆる指を含みたる」や「しらはへにあらゆる指が含まるる」なら、
「風は指を含んでいる」「風に指が含まれる」となるので意味が通りそうなものですが、そのままでは表現が不正確で意味不明瞭です。
手前勝手のバイキング解釈をするのでなければ、結局は作者の「作為」を読み取る以外に方法がなくなります。
「風は指を含んでいる」にしても「風に指が含まれる」にしても、このかたちでは指を含むのは風になってしまいます。
そのかたちを取りたくないということは、「作者のメタ的な意図」は風が指を含むことを回避することにあると考えられます。
「あらゆる指」を含むものが「しらはへ」ではない、ということが重要になるのです。
僕にはそれ以外にこの句に即して読む方法が思いつきませんでした。
指を含むものが風ではない、ということを強調する意図とは何でしょうか?
苦しい考えですが、「しらはへ」が吹くときに句の外部に「あらゆる指」を含むものが別にあるということになりそうです。
そして、それは句の中で提示されないので、空白として提示されることになります。
またも、ここでフリーズです。
ものすごく好意的に深読みすれば、白南風の白のイメージを巨大化して、あらゆる指が空白へと飲み込まれる様子を詠んだ句ということになるのかもしれませんが、
これは僕のバイキング的解釈でしかなく、句の表現そのものからは飛躍していることを認めざるをえません。
結局は指を含むものが不明瞭で、ただ作者の「作為」ばかりが目立つだけの句だと思います。
次の句です。
分銅を置きかへて日の深まりぬ
これが「分銅を置き換える」と「日が深まる」の2つの要素で構成されていることはわかりやすいでしょう。
分銅を置きかへて/日の深まりぬ
「切れ」を示せばこうなりますが、この句はオーソドックスな俳句と考えていいのではないでしょうか。
ただ、僕はもう彼の句に過剰労働させられすぎて、軽く流すことができなくなっています。
たとえば「分銅を置きかへて冬深まりぬ」や「白桃を置きかへて日の深まりぬ」と季語を導入したら、普通の俳句として味わえるでしょう。
しかし、アイロニーを金科玉条としている俳人は、表面を本質からズラさずにいられません。
本質が普通の句であることを隠すために、「分銅」と「日」を用いたいのです。
有機的な季語を避けて、「分銅」のような無機物にしたいのです。
そうやって「ありがちな俳句」からズレていくことで、「鴇田智哉っぽい俳句」という作者性が出せると思っているのではないかと思います。
前述したように、それは句の内容をないがしろにして「作者のアイロニカルな意図」が露呈しているだけのことなのですが、
それで句が良くなっているならまだしも、残念ながら「ありがちな俳句」に及ばない句で終わっています。
なぜなら、「日の深まりぬ」では1日だけの出来事の断片記述でしかなく、季節という大きなものを背景にした時に醸し出される「句の広がり」が望めないからです。
「分銅を置き換えていた。あっ、日が深まっていた」という個人的な所感をただ散文的に叙述したもので終わってしまいます。
鴇田はこういう個室的な狭い俳句に執着しているのかもしれませんが、そういう表現がやりたいのなら、俳句というプラットフォームを利用するのは図々しいと僕は思います。
俳句というプラットフォームの恩恵にあずかりながら、俳句から少しズレることで「僕は人と違うんだ!」という自意識に奉仕する俳句を、いい大人になってまでやっていて恥ずかしくないのでしょうか。
作者のためにある句を一生懸命読む僕もだいぶお人好しだと思いますが、
この句が作者に奉仕するだけの句であるならば、「分銅を置き換える」とは「句中の言葉を置き換える」ことを意味しているように見えてきます。
本質を示す言葉を違うものに置き換えることは、「アイロニカルな作為」を旨とする鴇田の俳句にとって一つの生命線です。
「分銅を置き換える」のは天秤を釣り合わせるための作業ですが、その言葉が断片以上の意味を持たないため、より高次の目的を想像することができません。
そのため現実と言葉を釣り合わせることより、言葉を置き換えてズラすことへの興味が強く印象づけられてしまうのです。
そして「表面的な作為がしたいんだ!」というアイロニーだけが残ります。
読者より優位にいる安心感があるのでしょうが、読めば読むほど作者の欲望しか中身がなくなるのには苦笑します。
(僕の俳句鑑賞が素人すぎておかしいのならば、もっと優れた読み方をコメント欄で提示していただいても構いません)
最大の問題は、「意図的に作品を作る自分は表現者なんだ!」という欲望を隠した句が、本質的に作者の自己満足に奉仕するだけで、読者にもたらすものが大きくないということにあります。
既存のものをアイロニカルに「ズラす」ことの意義は、既存のものを知らない人には無価値です。
おそらく、俳人以外でこの文章を読んでいる少数の方たちは、既存俳句の価値がわからないので、
彼らが表現に賭けているものの乏しさに唖然としているのではないかと思います。
「ズレ」は既存の価値を共有している人にしか面白がれない行為なのです。
だから、このようなアイロニーの手法で俳人以外の読者を獲得することは本質的には不可能です。
さらに言えば、読者を軽視して作者の自己満足を貪る人たちの句は、「純粋読者のいない内輪世界」にしか通用しません。
彼らがどんなに「俳句」を脱臼したとしても、「俳句共同体」の出版プラットフォームの外では生息できないのです。
せいぜい「俳句の世界では今こうなのね」と俳句界を前提とした新しいムーヴメントとして受け止められるだけです。
僕は前から疑問なのですが、女性アイドルはある年齢でグループから卒業してソロで活動するのに、男性はSMAPや嵐のように長々とグループに所属した上でソロ活動ができたりします。
(ミュージシャンでも海外ならソロ活動をしそうな人が、いつまでもバンドにいたがります)
そういう共同体(グループ)に所属しつつソロ活動をする、という形は、両親に甘えたまま社会に出るあり方に通じています。
鴇田や周辺俳人のやっていることは、このような日本男児的な甘えた実存だと思われます。
俳句の表現世界は嫌いだけれど俳句共同体の一員でいたい、という甘えた態度を弁護するために作られた俳句を褒める人が多いということは、
それだけ同様の「甘え」に浸りたい俳人が多いということでしかありません。
視点操作とメカニカルな記述
「分銅を置きかへて日の深まりぬ」の句は、「切れ」に当たる2つの要素の接合点に、「て」という接続助詞を置くことで、
読者が2つの要素を繋げて理屈で処理することを期待した作り方をしています。
つまり、分銅を置き換えるという小さな小さな行為が、日が深まるという世界の動きに因果的に繋がっているかのような書き方がしたいのです。
図式化すれば、こういうことです。
(原因)分銅を置きかへて→(結果)日の深まりぬ
このような手法は他でも見かけるもので、特に鴇田屋の専売特許と言うようなものではないと思います。
しかし、僕には少し気になることがあります。
小さな行為がまるで世界を動かすようなミスリードを誘う手法は、オタク御用達のあるものと似ている気がするのです。
そう、「セカイ系」です。
ショボいオタクでしかない主人公が、世界の命運を握るヒロインとの極小の関係によって、黙示録的世界と直接に接続するというパターンの作品です。
現代俳句にはセカイ系に通じる手法があり、それについてはありがちな手法であろうが鴇田はそのまま用いているのです。
このあたりは俳句全体の問題として深く考察する必要があるのではないでしょうか。
他のページに目を転じてみれば、意味の切れ目を曖昧にして緩やかにつなげることで、
ほんの些細な行為が巨大な効果へと変換(=ドーピング)される句を見つけることができます。
① 抽斗をひけばひくほどゆがむ部屋
② てのひらを挿せば木目を抜けられる
③ 星が流れると誰かの目にかはる
④ うなづくと滝の向うの音がする
⑤ 口を塞いで太陽のけばだちぬ
いちいち労力をかけて解釈するのは大変なので、同傾向の句として軽く済ませたいのですが、
これらは「分銅を〜」の句ほどオーソドックスではなく、鴇田っぽい「作為」が目立つ句だと考えています。
先にまとめてしまいますが、これらの句は自己の視点(オブジェクトレベル)と遠隔からの視点(メタレベル)を共存させることで、奇妙な揺らぎを演出している句です。
①は引き出しを引くという自己の行為に密着した描き方をした後、その行為を遠くの視点から見て、部屋全体にゆがみを生んでいると捉えるわけです。
オブジェクトレベルに密着すれば、ただ部屋で引き出しを引いただけの内容です。
それをメタレベルから「ゆがむ部屋」と言い換えることで、何かが生まれているかのように見せているのです。
②は自分に密着したオブジェクトレベルでは、木目模様の部屋か廊下を、手を差し出して「どうも、どうも」と通り抜けている様子だと思います。
それを自分から離れたメタな視点から、手が壁を通り抜けたかのように言っているわけです。
③はオブジェクトレベルでは、夜空の流れ星を見ている自分を描き、
メタレベルではその流れ星が他の誰かの目の中に映っている情景へとジャンプします。
現実の風景はたいしたことのない場面ですが、メタ的な視点を導入する「作為」によって、現実を解体する効果を導くことに一生懸命です。
ポストモダンが安息の居場所としているメタ視点は、メディア技術による現実の「間接的把握」が当たり前の感覚になったことから来ています。
簡単に言えば、同じものを自分の目で見た後に、撮影したビデオで見直すようなあり方でしかありません。
このような句がもたらす不思議感覚というものは、拡大レンズで見たものをすぐさま広角レンズで見ると、軽い眩暈に襲われるという程度のものでしかありません。
種明かしをすれば、メディア技術を内面化した安っぽい視点操作のトリックです。
もう一つ、この視点トリックによって導かれる効果について指摘しておきたいと思います。
同一の行為をオブジェクトレベルで記述し、その後にメタレベルで記述することで、
些細な行為が原因となってメタ的な効果をもたらすメカニカルな構造があるかのように見せることができるのです。
①は引き出しを引く行為が、自動的に部屋全体をゆがめるかのような、メカニカルな描き方がされています。
②は挿した手のひらが木目を突き抜けていくSF的なメカニカル構造があるかのようです。
③は星が流れることがスイッチとなって、目が他人と切り替わるメカニカルな構造があるかのようです。
④うなづくことで滝の音がするメカニカルな構造。
⑤口を塞ぐと太陽がけばだつというメカニカルな構造があるかのよう。
ここの「太陽」は毛布かセーターかの天日干しを含意しているのかもしれませんが、不正確な表現について考えるのが面倒なので放っておきます。
この句集は値段が安いので、セルフサービスが多いのは商売上の必然なのかもしれません。
僕はメカニカルという言い方をしましたが、それはつまるところ理屈だということです。
どうにも鴇田の句は理屈っぽさから抜け出すことができません。
このようなメカニカルな描き方は、理屈っぽい句でしかないものを、詩的でファンタジックに見せるためにあるのではないかと疑います。
加工アプリで熱意をもって修正されている顔の部分が、その人のコンプレックスだとすぐわかってしまう「頭隠して尻隠さず」と同じです。
さて、このようなメカニカルな記述へのこだわりは、最初の句「海胆のゐる部屋に時計が鳴る仕掛け」にも見られます。
「時計が鳴る仕掛け」を僕はアラームだと考えている、と述べましたが、もしそうであるならば、そこには仕掛けた人がいるはずです。
しかし、鴇田の句では人間の能動性というものが極限にまで縮小されています。
能動的な人間の代わりにメカニカルな構造がそれを導いたかのように偽装したがるのです。
僕のポストモダンの定理に、メディアとの一体化というものがあったはずですが、
これもメディア技術に依存した人間疎外としか言いようがありません。
このような人間存在の縮小傾向についても確認したいと思います。
人間存在の部分化・断片化
では、4句目を見ていくことにします。
これでやっと句集の2ページ目に到達です。
しんかんと灼けてズボンのたち並ぶ
「しんかんと」は物音一つしない静けさを言う言葉です。
そのまま言葉を追いかけると、静かな古着屋かクローゼットにズボンが並んでいる様子を思い浮かべるかもしれません。
しかし、「灼けて」の語があるからには、そこは室内ではないわけです。
また、「たち並ぶ」としているので、ズボンが置いてあるわけではなく、垂直に立って並んでいるはずです。
屋外でズボンを垂直に吊るして並べている古着屋なら、どこかにありそうです。
ただ、それだと「たち並ぶ」という表現がふさわしくありません。
吊るされているなら、「吊るしたり」とか、そういう表現を選ぶのではないでしょうか。
では、立ち並んでいるズボンとはどんな状態なのでしょう?
僕はこの句単独で解釈した時にはよくわかりませんでした。
しかし、この先の句を読んでみると、作者が何を詠みたかった(詠みたくなかった)のかがわかってきました。
それは、すぐ次の句を読めばハッキリします。
では、5句目を見てみましょう。
番号はいかに海芋の花は問ふ
この句もそのまま意味を取ろうとすると、花が番号を訊いているかのような不思議な感じがしてくるのですが、
これが作者の「作為」であることが想像できてしまうので、「作者のメタ的な意図」を無視して句を素直に受け取るなどということは不可能です。
海芋の花というものを僕は知らなかったのですが、検索してみるとオランダカイウというサトイモ科の植物で、
カラーとも言われ、漏斗のようにくるっと巻かれた白や黄色の花が特徴的です。
俳句では夏の季語になっています。
このカラーの花は入学式や結婚式でコサージュとしてよく見かけるものです。
それで何となく情景が浮かびました。
たとえば結婚式に招待された時などに、荷物をクロークに預けて番号札をもらうことがあると思います。
式の出席者か受付の人かはわかりませんが、胸にカラーのコサージュをつけている人が、荷物の番号を尋ねている、というのが実景だと思います。
細かいところは違うかもしれませんが、こんな感じで解釈をしないと説明をつけるのは難しいと思いました。
つまり、番号を問う海芋の花は実際は人間だということです。
正確に表現すれば「番号はいかに海芋の花(のコサージュをつけた人)は問ふ」となるべき句です。
花が番号を問うわけがないので、当然すぎる結論なのですが、これは一見「換喩」を用いた句だと説明できそうな感じではあります。
換喩(メトニミー)とは、概念の近さを頼りに語句の意味を拡大して用いる修辞法です。
たとえば、「霞が関」という語で官庁全体を示すのは換喩です。
「パンとサーカス」という表現も同様で、パンが食糧全般を表し、サーカスが娯楽全般を表す換喩です。
要するに言葉の置き換えなのですが、概念の「近接性」を原理としていることに特徴があります。
結婚式の出席者を、胸にあるコサージュで表すとしたら、それは換喩です。
しかし、コサージュに使われる海芋の花で結婚式の出席者を表すのは、隣接のそのまた隣接に当たるので換喩ですらありません。
鴇田が「コサージュは問う」ではなく「海芋の花は問う」という表現を選んだことに、句の実景を読者にわからせる気がないことがわかります。
(わざわざ季語を用いて、季語的な意味了解から逃れたいという作者の意図を優先したのかもしれませんが)
それもそのはずで、目的が詩的表現の追求にあるのではなく、現実からの逃避にあるからです。
その意味で、「海芋」という漢字の組み合わせが非現実的に見えることが作者の好みに合ったのではないかと想像します。
こういう現実から遊離していく字面の雰囲気も、言葉の選択において重視されている要素だと思います。
『エレメンツ』を好意的に読んだ読者の多くは、このような字面の印象を拾って読んだ人ではないかと僕は想像しています。
だから、僕が鴇田の句から実景へと遡行しようとしていることを、深読みのしすぎくらいに思うのではないか、という不安があります。
しかし、アイロニーというやり方に対して表面にとどまる鑑賞をするのは、ファンならそれでいいでしょうが、批評をする態度ではありません。
問題になっているのがアイロニカルな精神だということを肝に銘じて読んでいただきたいと思います。
それから、僕は鴇田のポストモダン精神については批判しますが、実景をもとにして俳句を作る態度そのものは全く悪くないと思っています。
問題はそれが作者の現実逃避にしか寄与していないことなのです。
今は実景などに関心すらなく、言葉の組み合わせだけで俳句として作ってしまう場合も珍しくないようですが、
作品の基盤が現実にあろうがなかろうが、作品が読者を求める限りはリアリティをどこかで担保しなくてはいけないことは確かです。
鴇田はおそらく実景を基盤としていることでリアリティを担保しているつもりなのでしょう。
ただ実景と定型の力を頼るだけで虚構的な句にリアリティを持たせることは不可能です。
作品で現実を描かなくてもいいのですが、その場合はなおさら言葉に「現実の重量」が絶対に必要になります。
言葉に「現実の重量」を宿らせるにはどうしたらいいのか、それこそが俳句の「新時代」を切り開くテーマなのではないでしょうか。
話を戻します。
この句で描かれる「海芋の花」は海芋のコサージュをつけた人だと推測されるわけですが、
このような「作為」は読者とは直接関係なく、作者が自分以外の人間存在をきちんと描きたくない、という思いからきています。
『エレメンツ』には人間が描かれていいところで、それを部分や断片にズラすアイロニーが数多く見られます。
たとえば一つ前の句です。
「しんかんと灼けてズボンのたち並ぶ」のたち並ぶ「ズボン」とは、おそらくズボンを履いた人間のことを特定部分のクローズアップで示しています。
このような解釈が、「たち並ぶ」という表現に最も即したものだと僕は確信しています。
実景では人間であるものを、ズボンへと断片化して、人間を無機質化したメカニカルな風景へと変換しているのです。
他にも探せば同趣向の句はいくつもあります。
貝の神社へ青ジャージがしはぶく
手の書きし言葉に封をする手かな
狐火へひとつらなりのヘルメット
マフラーを巻くその上のかほと空
これらの句も人間を部分化したり換喩化したりして、人間の能動性を解体していく効果を導いています。
こういう手法が数多く見られるということは、僕がそう読んでいるわけではなく、作者の意図的な作為だと確定できるわけです。
こういうアイロニカルな作為で能動的な意志を否定することが、現実的挫折によって無力化したポストモダン精神の自己慰安であることは言うまでもありません。
彼らが社会的に無力化を強いられ、能動性を奪われた存在でしかないという現実を、
「あえて」自分から能動的な意志を否定した表現をすることで、自分は「あえて」そのような状態を選んでいるのだ、と己に言い聞かせているのです。
何度も言いますが、「あえて」というアイロニカルな意志にしか、彼らの主体性は存在していません。
いきてゐる体の影を踏む遊び
この句は『エレメンツ』の最後をしめくくる句ですが、最初の句の「仕掛け」と同様、作者のアイロニカルな自己言及として読める句を置いています。
「影踏み」と言えばすむものを、わざわざ長く言うわけですから、この句には隠された意味があると感じます。
体は普通「いきてゐる」ものですので、「生きて」をひらがなにして意味を遠ざけても、わざわざ生きていることを強調しているのは間違いありません。
体をわざわざ「生きている」と強調されると、その「影」とは必然的に「生きている体」の裏面である「生きていない体」であることを連想させます。
つまり、生きているものを「あえて」裏返して遊ぶという「アイロニー宣言」の句になっているのです。
鴇田が有機的なものを無機物へと変換する(そして無機物を有機的に扱う)現実逃避に勤しんでいることは、すでに確認してきたとおりです。
生あるものを無機物へと変えて遊ぶ、という鴇田の自画像がそこにあります。
このような欲望が、人間の代わりにフィギュアに欲情するオタクとあまり変わらないと思えるのは偶然ではありません。
この句には、すべてをフラットな市場の商品へと変えて、それと戯れていたいというポストモダン精神を見るべきでしょう。
マーケットに与えられた商品と戯れて遊ぶだけの受動的な生を否認するために、
自分が「あえて」やっていることをアピールする、いつものやり方です。
こういうメタ的自己の慰安のために、生命から有機性や能動性を奪っていく姿勢は非常に危険だと思います。
(自分の言葉の無力さを否認するために、言論によって能動性を示す人を弾圧する姿勢にもつながります)
このようなアイロニカルな意志表明に勤しんでいるのは、何も鴇田智哉だけではありません。
もはやそれがアイロニーであるということも理解できない人が、現代思想界隈でもチヤホヤされています。
能動的な意志を解体する欲望は、國分功一郎の『中動態の世界』(2017年)でも確認できるものです。
現代思想に少しでも通じていれば、國分の「中動態」への関心が〈フランス現代思想〉の主体性批判から導かれたものであることは、すぐに思い当たります。
別に滅びた文法など持ち出さなくても、フランス現代思想では、能動的に触れる行為が受動的に触れられる行為と切り分けられないことを、
「愛撫」の考察でとっくの昔に行った人がいます。
(國分功一郎はマジメな人なのだろうと僕は思っていますが、どうしようもなく思想センスが乏しいことは指摘せざるをえません)
能動性が受動性に変換しうることは、もっと低俗な例で示すことも可能です。
推理モノで探偵に罪を暴かれた犯人が、「仕方なかったんだ!」というセリフを吐くのは定番ですが、
自分が能動的に犯罪行為に手を染めたくせに、それが外的な要因で仕方なくやったものであるかのように言い訳をする態度と同じだからです。
この「仕方なかったんだ!」は当人の実存にとっては真実と言えなくもないのです。
『中動態の世界』が小林秀雄賞を受賞したときの國分のインタビューが「考える人」ウェブサイトにあったのですが、
彼の本音がわかる興味深いコメントがあったので引用します。
人間のあり方について、能動的であるか受動的であるかだけではなく、別の考え方があるということを聞いただけで、すごくビビビッときました。「立派な大人」になるというのは、つまり能動的な人間になるということです。受動的である子供時代を抜けて能動的な大人になるというわかりやすいストーリーがあるわけですが、それに対する疑いを具体的にしていくときに、この「中動態」という言葉が重要だと直感した。それが出会いだったんです。
この國分の言葉を普通に理解する力があれば、
彼は能動でもなく受動でもない中動態に、大人でも子供でもない「モラトリアム」を見ていることがわかるはずです。
おそらく國分当人は「疑い」とか言っていれば哲学っぽくなると思っているのでしょうが、基礎レベルの論理が理解できれば、彼の言っていることがモラトリアムの肯定でしかないのは明らかです。
彼が言う「立派な大人」が責任主体であることは誰でもわかる話です。
小坂井敏晶を持ち出すまでもなく、責任主体は社会構築的なものなので、実存的な視点から解体することは難しくありません。
しかし、それは慎重にやらないと、単に主体性や能動的意志を解体するだけの幼稚な結果に終わってしまいます。
『中動態の世界』は中動態の意義を自明化していて、そのあたりへの配慮が行き届いた本ではありませんでした。
(そもそも能動と受動の二項対立的イデオロギーを別のものにズラす発想が、教科書的な脱構築の適用でしかないのに、
「ビビビッときました」と、すごいアイデアが到来したかのように語るのには呆れてしまいました)
鴇田の俳句が「一句完成途上のモラトリアム俳句」であることには前に触れましたが、
現実逃避の精神によって能動性の否定に至った存在は、鎧であるアイロニーを剥ぎ取ってしまえば、消費の奴隷に喩えることができると僕は思っています。
ただ、餌を撒く人の近くにいる特権を持ったエリート奴隷というだけのことです。
エリート奴隷の方々は、与えられるだけの「現実」にとどまっている無力な人たちを、本当の奴隷だと思っているのですが、
実は下層にいる奴隷の方が「現実」を基盤としているだけ、反抗や抵抗という主体的な自由を行使できるのです。
(これが有名なヘーゲルの主奴論にあるメカニズムです)
能動性のないエリートは自らのエリート意識を保つために、より社会的な権威に依存していくことになります。
そして堕落した社会と運命を共にした後に、「仕方なかったんだ!」というセリフを吐くことになるのです。
國分功一郎も同じです。
國分はスピノザと言えばフランス思想が味方をしてくれると思い込んでいるようですが、
能動的な意志を排除した後に、その空白を何が埋めるのか考えたことがあるのでしょうか?
能動性の欠如によってできた空白は、神に類する超越的な能動者によって埋められるしかありません。
自分の主体性を放棄して超越的な能動者を希求するようになると、一神教の基礎を持たない日本では新興宗教もしくは天皇制的国家主義に捕まる危険性が高まります。
(某新興宗教を見れば、その両方が癒着することがわかるはずです)
ポストモダン俳人にやたら「神に向かう」だの「イデア」だの言いたがる人がいるのは、このような欲望を崇高なものと勘違いしたがっているからです。
僕はこれを「ハイク真理教」と呼びましたが、とりわけ前途有望な若い俳人はオウム真理教=エヴァンゲリオン世代のポストモダン俳人とは距離をとった方が安全だと言っておきます。
彼らが自分たちの俳句市場を脅かす批判者に対して、どのような手段で応じたかを思い出せば、彼らの精神がちっとも崇高でないことがわかるはずです。
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