南井三鷹の文藝✖︎上等

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ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【後編】

メタ視点を居場所にする文学はいらない

消費資本主義における超越性は、アイロニーによってメタ的な視点に立つことで擬似的にヽヽヽヽ達成されます。
このメカニズムを詳しく説明するのは、別の記事に譲りますが、
『資本論』の価値形態論を参照すれば、貨幣というものが全ての商品に対してメタな位置にあることがわかるはずです。
なぜなら、貨幣とはオブジェクトレベルにある商品群から、特定の商品(=金)だけを疎外して、すべてを媒介するメタな位置に置くことで成立したものだからです。
このメカニズムが貨幣を持つ者を、メタ的な位置へと押し上げます。
それは、マーケットに存在するあらゆる商品を、自分の「好き嫌い」で自由に選び取ることができる大富豪のポジションです。
商品すべてを俯瞰しうるメタ視点は、もともと大富豪にだけ許されたものだったわけですが、
メディア技術の進歩によって、たいして金持ちでもない人にも擬似的にヽヽヽヽそのような気分が得られるようになりました。
なにしろ自分の持ち金と関わりなく、インターネット上であらゆる商品を見渡して好きな商品を探すことができるのですから。
アメリカの貧乏人がどうしてトランプと一体化していられるのか不思議に思った人がいるかもしれませんが、
インターネットというメタ的な視点によって、いつのまにか気分だけ大富豪に近づいているのです。



ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【中編】

作為のためにある俳句

さて、気が進まないので前置きが長くなりましたが、仕方ないので『エレメンツ』を読もうと思います。
シンプルに疑問なのですが、鴇田を褒めている人の中で、この句集を真剣に読んだ人はどのくらいいるのでしょうか?
なにしろ作者が優位な位置で楽をしているため、読者の方にとんでもない「労働」を強いてくる句ばかりなのです。
おそらく、この句集を褒めた人は、鴇田の句を手前勝手に解釈して遊んでいるだけで、ちゃんと読もうとしたことがないのだと思います。
(関悦史など俳句業界の啓蒙宣伝大臣として、大げさな言葉で内輪の俳人を気持ち悪いくらいに褒めちぎりますが、鴇田の句を全然まじめに読んでいないですよ)
まあ、俳人が俳句をきちんと読まないことは今に始まったことではありませんので、僕は別に驚きません。



ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【前編】

1968年という「切断」

長らく俳句界では「若手俳人」の新傾向の俳句がブームになっています。
背景には、60代以上の高齢俳人の活躍が目立つ俳句業界の著しい高齢化があります。
ブームの発端となった、若い俳人のアンソロジー句集『新撰21』(2009年)がすでに10年以上前になります。
そのアンソロジーで名を馳せた若手俳人たちの多くは、その後も順調に評価を受け続けています。
有望な若手俳人が数多く登場することが「業界の利益」を持続させるため、業界人の評価は自然と甘くなります。
同年代が横並びで(集団的に)出世していく彼らのありようは、まるで戦後の高度経済成長を見るようです。