- 2021/02/18
- Category : 【逸脱書評】俳句・詩
ポストモダンの肖像──鴇田智哉『エレメンツ』(素粒社)を読む【前編】
1968年という「切断」
長らく俳句界では「若手俳人」の新傾向の俳句がブームになっています。
背景には、60代以上の高齢俳人の活躍が目立つ俳句業界の著しい高齢化があります。
ブームの発端となった、若い俳人のアンソロジー句集『新撰21』(2009年)がすでに10年以上前になります。
そのアンソロジーで名を馳せた若手俳人たちの多くは、その後も順調に評価を受け続けています。
有望な若手俳人が数多く登場することが「業界の利益」を持続させるため、業界人の評価は自然と甘くなります。
同年代が横並びで(集団的に)出世していく彼らのありようは、まるで戦後の高度経済成長を見るようです。
しかし、驚いたことに、昨年のNHK俳句で『新撰21』のメンバーである佐藤文香や北大路翼、村上鞆彦らが、
小澤實による「令和の新星」というコーナーで紹介されていました。
注目の若手として登場してから10年以上の時間があるので、
佐藤や北大路は著作をすでに多数出版していますし、村上に至っては結社の主宰となっているのですが、それでも「令和」の新星となるらしいのです。
年寄りから見れば、若い子はいつまでも子供に見えるということなのかもしれませんが、
キャリアだけを見ても「新星」というのが妥当だとは思えません。
それ以上に、本気で「令和」を飾るにふさわしいここ数年の俳人を探せば、それなりに存在するはずなのです。
さらに言えば、小澤實は『新撰21』の巻末にある「合評座談会」にゲストとして参加している俳人です。
彼らのことを最初から知っていた俳人の一人なのです。
それなのに、なぜ小澤實は彼らを最近登場した新人のように紹介したのでしょうか。
その理由は、『新撰21』世代の俳人とそれ以前の俳人の間にある種の「切断」が存在しているからだと思います。
『新撰21』メンバーの佐藤文香が企画した『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』(2017年)も注目の若手俳人のアンソロジー(またも集団的な箱売り)なのですが、
この本のメンバー構成は1968年生まれ以降ということになっています。
1968年という区切りに深い根拠はなく、佐藤の感覚に近く若手の範囲にギリギリ収まる俳人を割り出した結果、そこに落ち着いたのだと思います。
(ちなみに、1968年で区切ったことにより、『新撰21』で編集側にいたはずの高山れおな[1968年生]が若手の一員に組み込まれています。
このような選ぶ側と選ばれる側の癒着は、文学業界が党派性を帯びる原因と言えるのですが、
謎のパワーで朝日俳壇選者様へと出世した高山は、今も変わらず佐藤と関悦史と同人誌で徒党を組んでいるようです)
このように、だいたいの基準として1968年というものが受け入れられたわけですから、この周辺に「切断」を見るのはおかしなことではないと思います。
さて、1968年は、現代思想の分野では非常にモニュメンタルな意味を持っています。
『1968年』(2006年)という本を書いた絓秀実は、68年に世界史レベルでの「切断」があるとしています。
世界史レベルと言うのは、1968年はパリ大学ナンテール校から始まったフランス五月革命の年だからです。
これが、アメリカやイタリア、ドイツへと波及し、日本でも全共闘運動として知られる学生運動に結びつきました。
この68年革命が、先進国の文化やファッションを広く伝播させることになったことも無視できません。
富野由悠季のガンダム作品には時折ヒッピー的なモチーフが現れるのですが、ヒッピー・ムーヴメントの一大イベント、ウッドストックは1969年の出来事です。
要するに、僕が消費資本主義と呼ぶものが世界的に広がり始めたのが1968年なのです。
〈フランス現代思想〉が消費資本主義の拡大と同じ出来事にルーツを持っていたことは無視されすぎているように思います。
「一九六八年」が、先進資本主義諸国や東欧、ラテンアメリカにおける「新左翼」の、学生を中心とした世界的な動乱であったと同時に、思想的な大転換も告知したことは、「六八年の思想」という言葉があることでも知られる。それは、人類学者クロード・レヴィ=ストロースの構造主義に始まり、ロラン・バルトの文学批評、ジャック・ラカンの精神分析、ルイ・アルチュセールのマルクス主義、そして何よりもミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ジャック・デリダ、ジュリア・クリステヴァなどの、いわゆる「ポスト構造主義」を指す。(絓秀実『1968年』ちくま新書)
日本で有名な〈フランス現代思想〉は「68年の思想」と呼ばれるくらい、1968年の五月革命と関連したものだったのです。
リオタールが68年の「切断」を「ポストモダン」と呼んだことから、ポストモダンという語も68年の五月革命と関係が強いことがわかります。
しかし、日本の〈フランス現代思想〉の受容には、ルーツとしての五月革命がちっとも現れてきません。
日本の〈フランス現代思想〉がいかにマルクス主義や左翼的ルーツを捨て去って、
消費資本主義やオタク擁護の思想になってしまったかについては、僕も過去に論じてきました。
日本で〈フランス現代思想〉が本格的に隆盛したのは、80年代のニューアカ以降になります。
全共闘運動さらには連合赤軍のような左翼政治運動の挫折後になって、今さら五月革命というルーツを語るのは得策ではない、と商売上手な業界人が考えても不思議はありません。
そもそも日本の〈フランス現代思想〉には、「来歴否認」が刻まれていたのです。
話を戻しますが、全共闘が登場した1968年から1972年の連合赤軍によるあさま山荘事件あたりの期間を境に、日本にも大きな「切断」があったと考えることができます。
大まかに言えば、政治運動が現実だった時代と消費享楽が現実だった時代との切り分けです。
理想を求めた主体的な政治闘争は、全共闘の敗北とスターリン体制への幻滅によって潰えました。
そこから去勢された若者の非主体的な消費的享楽、つまりオタク化が始まったのです。
これを日本の文学史に当てはめると、三島由紀夫と村上春樹の間にある「切断」を浮かび上がらせることになります。
三島由紀夫の割腹自殺が1970年、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』が1979年です。
僕は1972年生まれなので、あさま山荘事件を母の胎内で見ていました。
ちょうど政治の季節が終わった時期に生まれたことになるのですが、物心がつくには5、6年程度かかるものなので、
だいたい1965年以降くらいに生まれた人は、政治の季節以後の消費文化拡大の社会状況とともに人生を歩んできたと考えることができます。
僕の実感で言うならば、文学や思想と出会う前にマンガやアニメなどのサブカルに当たり前のように影響を受けた人が多いと思います。
村上春樹がデビューした1979年は、アニメ史に残る富野由悠季の『機動戦士ガンダム』の放映開始の年でもあります。
(富野作品は政治の季節の敗北を色濃く残しています)
男子の間ではガンダムのプラモデルがブームとなりましたが、それがだいたい1981年から数年間という感じでした。
アニメのプラモデルの大量消費ブームは、純粋な消費文化的現象であり、「ドラゴンクエスト」などのコンピューターゲームや、果てはiPhone、PS5に行列する光景にまでつながっていくものです。
浅田彰の『構造と力』は1983年ですから、日本のポストモダン思想がバブルに向かう非政治的な消費文化の中で注目されたことは明らかです。
日本における〈フランス現代思想〉とは、革命を背景とした「68年の思想」ではなく、バブルへ向かう「80年代の思想」であったことは絶対に無視してはいけない事実です。
つまり、1968年の「切断」以降に生まれた俳人は、政治の季節が完全に潰えた後に育った人たちであるということです。
いや、政治運動など「存在しない」社会に生きてきた人たちと言ってもいいと思います。
自分たちで主体的に社会運動をする必要性すら感じることなく、マーケティングに身を任せて消費に享楽していれば、それで幸せになれると信じてきた世代なのです。
こういう人たちに「主体」の価値などわかるわけがありません。
俗流化した〈フランス現代思想〉が主体批判に精を出し、理性より無意識の欲動を上位に置いて消費的享楽を肯定したのは、
このようなバブルを価値とする社会状況が影響していると考えないわけにはいきません。
この流れは「失われた30年」を経た現代においても相変わらず続いています。
前置きが長くなりましたが、俳句界に今になって現れた世代的な「切断」とは、80年代のバブルがとっくに過去になった今になって、遅れに遅れてやってきたポストモダンへの移行現象だということです。
政治的無力化というポストモダン現象
前述したリオタールが述べたポストモダンとは、正当性を担保する近代的な「大きな物語」の有効性が失われたことを言ったものです。
彼の『ポスト・モダンの条件』が1979年なので、村上春樹のデビュー年と重なります。
日本で2001年に、「動物化」という言葉で「大きな物語」の崩壊を語った東浩紀が1971年の生まれです。
東浩紀は2001年にサブカル的想像力を消費的ポストモダンとして持ち上げましたが、これもすでに遅すぎる指摘だったと言えるでしょう。
実は1979年も現代にまで影響する世界史的転換点です。
中国で鄧小平が改革開放路線へと踏み出し、正式にアメリカと国交を結んだのが1979年だからです。
「改革開放」とは、プロレタリア独裁に至る階級闘争を否定し、計画経済から商品経済へと移行する、
社会主義体制のまま資本主義を導入する「社会主義市場経済」へと舵を切ったことを言います。
ソビエトのペレストロイカはそれより遅れて1985年ごろから始まりました。
村上春樹の活躍期というのは、ちょうど社会主義主要国の敗色が濃厚となり、グローバル資本主義に向けて転換を始めた時期なのです。
簡単に言えば、資本主義の世界的勝利がほぼ確定し始めた時期になります。
こうして1972年から衰退した左翼的な政治闘争は、79年に至って完全な敗北を迎えたのです。
このような社会の変化は、俳句界にも影響を及ぼしました。
僕にはピンと来ないのですが、俳句界にはいまだに「伝統」と「前衛」で二分化する議論が存在します。
「伝統」にしても「前衛」にしても、俳人の間でしっかり定義が共有されている気がしないのですが、とりあえず「前衛俳句」というものが存在したのは事実であるようです。
不勉強で申し訳ないのですが、安直にネットのコトバンクにある前衛俳句の箇所を引用します。
無季にしても口語にしても、俳句に現実感(時代性)をとりこもうとする試みであった。60年前後には、社会との主体的なかかわりを強調した金子兜太、鈴木六林男(むりお)、能村登四郎、赤尾兜子らが活躍し、金子や赤尾の現代的なイメージを追求した作品は〈前衛俳句〉と呼ばれた。多行形式によって独自の俳句美を書きとめた高柳重信、〈昼顔の見えるひるすぎぽるとがる〉などの句で日本的風土とは異質の言語美をもたらした加藤郁乎、彼らもまた金子らとともに今日の前衛派をなしている。(『世界大百科事典』【前衛俳句】より)
ここで挙げられている俳人は1950年代から60年代に活躍した人たちです。
まだまだ政治の季節が健在だった時代に当たります。
「社会との主体的なかかわりを強調した」という部分から、そのような時代性が欠くべからざる条件であったことが想像できるでしょう。
ここから類推できることは、「前衛俳句」というものは政治の季節の終焉とともに滅びたということです。
俳人の世代的「切断」は、1979年という資本主義の勝利が確定した時期──「前衛俳句」が滅びた時期──を境にしていると考えることができます。
文学史で言うなら、国内ではポストモダン的な村上春樹以後の文学にしかリアルタイムで触れることができなかった世代です。
外国文学を広く読んでいればそういうことはないのですが、リアルタイムで国内文学にしか関心がない人は、村上春樹が「正解」なのだと思ってしまう環境にありました。
僕は今の俳人が外国文学に深い関心を持っている様子をあまり目にしたことがありません。
せいぜい日本の消費資本主義の代弁でしかない〈俗流フランス現代思想〉を持ち出す人がいるくらいです。
(そういえば漢詩から政治的文脈を「切断」して、ファッション的に鑑賞する趣味色しかないオシャレ本を出している俳人もいましたね)
「前衛俳句」が意味を失った「切断」以後のポストモダン世代にとっては、
俳句が宿した「現実の重量」などは関心の対象にならず、過去の俳句がすべて同質の価値を持つフラット化したものとして現れています。
(東浩紀が村上隆のスーパーフラットについて言及していた頃が懐かしいですね)
価値のフラット化とは、ネット上に並ぶ商品が「今ここ」の場に影響することなく、遠隔に等しく存在する平面的な感覚のことです。
わかりやすく言えば、全てが消費可能なカタログ上の存在になってしまう現象です。
消費者はそこから「自分の好み」を自由に選択することができます。
(そして、マーケット上に存在しないものは、「幽霊」のように扱われるのです。
「幽霊」とは東浩紀が言うような「誤配」のことではありません)
「前衛俳句」がまだ過去の存在感を保っていた時代には、おいそれと生半可な気持ちで前衛的な俳句を作るのは難しかったでしょう。
しかし、全てがカタログ上の商品のようにフラット化してしまえば、「現実の重量」は手の届かないところへ遠のきます。
自由に無視することが可能ですし、無視することで軽やかに幅広く流通させることができます。
あとは「現実」の文脈に煩わされることなく、過去の作品というカタログから、好きなものを好きなだけ選べばいいのです。
そして、共通する好みを持つ人とだけ仲良くなって、自己の分身である他人を褒めることで、間接的な自己承認に精を出すようになるのです。
言葉についても同様です。
過去の俳句で使われていた言葉に込められた「現実の重量」が理解できれば、
不適切な場面で安直に用いるのは恥ずかしくなったことでしょう。
しかし、「現実の重量」をとどめた言葉の「意味」が、カタログのはるか向こうに遠のいてしまえば、
いくらでも好きな言葉を、オシャレな服を選ぶ気分で使えばいいことになります。
これがポストモダンです。
「大きな物語」の崩壊などという政治的な話は、権威主義的な日本人には通じないのであまり意味はありません。
「現実の重量」を失って全てが金で買える消費物同然になっている、
あとはトランプのような大富豪気分で、好きなものを買うだけ、
そういう「好きなもの探し」しか価値を持たない人たちをポストモダンと呼ぶのです。
「自分の好み」が過去の「前衛俳句」にある俳人は、「前衛俳句」と似ている俳句を作ろうとするわけですが、
ポストモダンの価値観に依存しているかぎり、その人の俳句に前衛性など現れるはずもないのです。
なぜなら、彼は社会に関与するほどの主体性を持っていませんし、
それどころか、ポストモダン擁護のために、主体を抹消することや「意味がない」ことに価値があるかのような、「前衛」と真逆の言説を繰り返すからです。
こういう人を売り出した老害俳人が「前衛」とか口にしているのを見ると、呆れて言葉もありません。
無知による低レベルの誤解を正しておきたいので、俳人や俳句総合誌の編集者にはぜひ聞いてほしいのですが、
詠みたいものが「自分の好み」でしかなければ、日常を詠もうがそれを避けようが抽象化しようが、どれも価値は同じでしかなく、全てがフラットなものになるだけです。
当然ながら、そんな俳句を文学と呼ぶことには、謙虚であっていただきたいものです。
政治的に無力化し、言葉に「現実の重量」を感じることもなく、
好きな商品を消費して金融資本主義に搾取される奴隷のような実存を、僕はポストモダンと呼びます。
日本の〈俗流フランス現代思想〉が肯定しているのはこのようポストモダン現象です。
ポストモダン社会では、文筆業を志す人はもれなく、出版マーケットに貢献してエリート奴隷になる、ということに疑問がなくなるように仕向けられています。
「切断」以後の俳人たちが依拠しているのはこのような世界です。
『新撰21』以後のポスト「切断」俳人たちは、メディアに持ち上げられることで、このような空疎な世界の支配者側にいられると思っているのです。
まとめとして、日本のポストモダン現象をわかりやすく定理化しておきましょう。
① 現実的(とりわけ政治的)な葛藤から逃避する享楽精神
② ①による、直接的な社会的行為や運動を否定し、消費による社会参加を過大評価する間接性信仰(メディア信仰)
③ ②による、商品の流通消費量とメディア露出などの広告の量に依存した価値判断(自己の判断基準の欠如)
④ ③による、交換価値一元論(支持されたら勝ち)による資本化(=メタ化)した権威主義(貨幣価値の高騰=デフレ)
⑤ 以上により、現実の自己を否定し、流通によってメディア上(市場、出版、ネット等)に存在するものを自己として、その承認を求める(個として生の現実から疎外されていることが、社会的存在であることの証明となる資本による物象化)
これは俳人以外にも使ってほしい定義なので、有効なら他の記事にも流用しようと思いますが、
僕は村上春樹以降の日本文学パラダイムは、ほとんどこの定理でぶった斬れると思っています。
それなら村上春樹の作品評をやっていけばいいのかもしれませんが、
今回は現在進行形のムーヴメントである鴇田智哉の句集『エレメンツ』(2020年)を取り上げ、
ポストモダン精神がどのように俳句の実作を蝕んでいるかを確認していこうと思っています。
鴇田智哉は1969年生まれで、もう50歳を過ぎています。
しかし彼の俳句は円熟とは程遠いところにあります。
よく言えば若いということになりますが、いい歳になっていつまでも若い作品しか書けないという事態が、村上春樹を連想させることは偶然ではありません。
現実から遠ざかってフラット化したポストモダンの人生からは、起伏のある年輪が奪われてしまうのです。
正確に読む力を持たない俳人たち
実は僕はもう鴇田智哉についてはほとんど語り尽くしています。
彼がショボい現実を描きながら、文脈を脱臼させることで眩暈効果を引き出すドーピングに興じていることは、
鴇田の第二句集『凧と円柱』のAmazonレビューですでに書きました。
しかし、僕の問題意識はほとんど俳人には伝わっていないようで、いまだ鴇田の俳句に妙な「幻想」を抱く人が少なからずいるようです。
たとえば「オルフェウス」という匿名で四ッ谷龍が書いたAmazonレビューは、削除される前にあった僕のレビューへの反論なのですが、
そこでは僕のことを「順序を変えるというこの意味を軽視する者」として「浅薄な批評者」呼ばわりしています。
また、小津夜景もオルガン調を論じた文章で、
「文法上・論理上の語順を入れ替えることによって詩趣を生み出すこの技法が鴇田智哉の考案ではな」く、「杜甫の倒装法を芭蕉が真似たことに由来している」と述べています。
これらは僕が指摘した鴇田のドーピング手法(助詞の入れ替えによって、むやみに眩暈を引き起こす)を擁護する意図で書かれたものですが、
僕の批判の意図を「語順の入れ替え」にすり替えて語っている点で、僕の文章を勝手な解釈でしか読むことができないことがわかります。
僕は「語順の入れ替え」など全く批判していないのです。
僕が批判したのは、助詞の位置をパズル的に入れ替え、わざと読者に意味が伝わらないようにする言語操作なのです。
批判の主眼は「意味の伝達を避けるポストモダン的な自意識」にあったのですが、
四ツ谷も小津もそうなのですが、僕の見たところ、俳人は全体的に散文を正確に読む力に欠けている人が多いと感じます。
散文の読み書きが正確にできないことを、韻文的であると勘違いしているのではないかと正直疑っています。
これらは作品を客観的に評価するより、はじめから「褒める」ことを前提とした予定調和の言説です。
要するに、自分が「共感」する俳句なので、「褒めたい」ということしかありません。
ポストモダン世代には「好き嫌い」以上の基準がないので、好きであればとにかく肯定しますし、嫌いであれば存在しないものとして扱います。
社会性から逃避しているために、歴史的視点や社会的視点を持つことができず、ただ自分が好きか嫌いかだけが重大な価値になっているのです。
凡庸な人はたいてい自分と感覚の近い人を「好き」と感じるものなので、
好きなものを褒めることは間接的な自己肯定になるわけです。
ポストモダン世代であることに葛藤がない人は、すべての言説が「好き」を語ることへと費やされて自己肯定や自己弁護へと回収されます。
こういう人たちには教養の価値など理解できないでしょう。
ポストモダンは自己肯定という低級な価値観しか持たないため、社会に対しては何か自分が高尚なことに関わっているかのような「言い訳」をしたがります。
教養があればわかることですが、ポストモダン思想とはもともと形而上学批判です。
それなのにポストモダン思想を明らかに好んでいる俳人たちは、商業雑誌で「神に向かう」とか「イデア」とか超越的なものを安直に持ち出したがるのです。
これは相当な赤っ恥なのですが、思想に対する基礎教養がないため、ポストモダン思想が自らの共同体を崇高化することを批判する思想であったことも理解する気配がありません。
(これは俳句界だけでなく、日本のすべての「業界」に言えることです)
つまり、彼らはポストモダン的消費社会を肯定したいだけであって、ポストモダン思想を学ぶ気などないのです。
年配俳人や編集者も同様に無知であるため、画面上ではワイシャツ姿でも下半身はパンツ一丁のようなテレワークメンタルを批判する力もありません。
要するに、社会性なき自己基準の世界を生きているポストモダン俳人には「好き嫌い」という趣味的な価値観にすべてを集約したいのです。
簡単に言えば、私生活イデオロギーの絶対化です。
社会性のない人間が集合したらそれも社会だ、というまやかしに依存しているだけで、彼らには純粋な「数量」以上の価値はありません。
(だから集まってアンソロジーを作るしかなかったと言うこともできます)
誤解を避けたいので言っておきたいのですが、
僕は「好き嫌い」という価値観がダメだと言いたいのではありません。
「好き嫌い」以上の価値観を持たない人が、「文学」「詩」「哲学」という権威的な語を振り回したり、「俳句は〜」などと大文字の主語を使うのは、
理性的な認識や客観的な評価を妨げ、趣味的共同体を自己都合で崇高化する全体主義を導くのでやめてほしいのです。
このような堕落した現代日本の自画像でしかないポストモダン俳人の姿勢を肯定してどうなるのでしょうか。
あとで具体的に『エレメンツ』所収の句を見ていく虚しい作業をしますが、
「わざと読者に意味が伝わらないようにする」という姿勢は、作者が読者より絶対的優位に立つという結果を導きます。
これは控え目な表現です。
実際は、鴇田に代表されるポストモダン俳人たちが、読者を無視して作者が絶対的優位に立つ権威的スタイルを求めている、と僕は感じています。
鴇田に限らずこのような態度の俳人が多いのは、ひとえに俳句界が純粋読者を無視しても構わない世界だということにあります。
遠慮のない言い方をすれば、俳句界とは「真の読者が存在しない世界」だということです。
これが甘えの温床になっています。
(俳人としての同質性を絶対化しているのに、よくポストモダン思想など持ち出せるものですよね)
俳句を読む人の多くは自分も作者であるため、作者優位のあり方にどこか憧れがあって、そこに疑問を感じることができなくなっているのです。
文学の価値がどこにあるかもわからず、文学であれば作者が偉そうにできるから、サブカル同然のものを文学だと詐称しているのです。
ハッキリしているのは、彼らは「自分を売り込む」という市場における権力志向が人一倍強いということです。
ぶっちゃけた言い方をすれば、偉くなりたいのです。
僕の人生経験から断言しておきますが、「作者が読者より絶対的優位に立つ」という姿勢に疑問を感じないのは、本心では自分が偉いと思っている人だけです。
正確に読みたいと思っている読者を想定して、細かいことを言っておきますが、
作り手が受け手より優位に立って、わざと受け手に意味が伝わりにくくする手法が必要とされるケースもあります。
主にエンタメ作品を作る上では、そのようなやり方が欠かせないことはあると思います。
たとえば推理小説では、犯人を知らない読者より犯人を知っている作者の方が優位にありますし、
作者が「わざと読者に犯人が伝わらないようにする」努力をしなかったらつまらない作品になるでしょう。
しかし、俳句には純粋読者がほとんどいません。
俳句を読むのはほとんどが俳人なのです。
もちろん鴇田智哉を評価しているのも多くは俳人と俳句出版人です。
彼がエンタメを意図して俳句を作っているとは考えられません。
2021年1月号の「角川俳句」に掲載されている「新時代、俳句はどうあるべきか。」という座談会で、
鴇田は「僕は俳句を文学だと思っています」とか「俳句は習い事を超えた、表現活動ですから」と言っています。
つまり、鴇田はエンタメで俳句をやっているつもりは全くないわけです。
そもそもエンタメにおける作者の優位は、「お客様」である読者を楽しませる義務を負っていることに由来します。
別に読者に対して偉ぶるために優位な位置にいるわけではないのです。
例えて言えば、セールスマンがお客さんより商品について詳しいからといって、セールスマンが上の立場に立つことにはならないということです。
しかし、純粋読者の少ない俳句界では、「お客様」に対する職業的義務がほとんど存在しません。
無責任に作者の優位性を貪っても問題になりにくい世界なのです。
読者への奉仕以外の理由で、作者が自らの優位性を維持したがる態度には、どうしても「封建的」な精神を感じてしまいます。
封建的権力とは、情報の非対称性によって成立するものだからです。
日本は西洋の先進国と比べて、はるかに透明性の低い政治システムを維持しています。
日本における「権力」はいまだ封建的な秘密主義に根ざしていて、情報公開を避ける(もしくは情報を統制する)ことで優位な位置を保つようになっています。
このような情報の非対称性という問題は、実はメディア・コミュニケーションに潜む大きな落とし穴です。
簡単に言えば、発信側の優位性はメディアが権力化するための常套手段だということです。
鴇田俳句の方法論はこの手口そのものでしかありません。
ポストモダンにおける「実存」がメディアとの一体化の上に成立することを、僕は定理として示しておきましたが、
鴇田の俳句もメディアで「他人より優位に立ちたい」「凡庸な大衆とは違う特別な存在でありたい」という権力志向に支えられていることが、彼の句を読むとわかってきます。
こういう俳人を出版社勤務のメディア人が好むのも、非常にわかりやすい現象だと思います。
本当に「詩人」として特別な才がある人は、金太郎飴製造システムで優位な位置をキープしなくても、普通のやり方で頭が抜け出るものです。
Tweet
9 Comment
ありがとうございます
- 冬トマトさん
- (2021/02/27 16:53)
- [コメントを編集する]
丁寧なお返事ありがとうございます。
思想的用語を持ち出された際に適切かどうか判断できる人がいないのが問題なのでしょうね。
衒学的だとスルーしてしまう私もダメなのですが…
冬トマトさんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2021/02/27 11:24)
- [コメントを編集する]
冬トマトさん、コメントありがとうございます。
斎藤秀雄氏の論考をちょっと見ましたが、あまり読む気にならないというのが正直な感想です。
「五七五」を「お約束」とした俳句という発想は、近代以前の「古典俳句」をルーツとして虚子が墨守したものですので、
近代以後の文学理論(ルーマンは社会学者)を「主体批判」として持ち込むのはそもそもセンスがないと思います。
ジジェク云々についてはまるっきり不必要で、関悦史より若干クオリティが高めではあるものの無駄に衒学的であり、
それ以上に問題なのは、近代俳句史が全然わかっていないということでしょう。
俳人が近代俳句史を無視して、「ホトトギス」流の俳句が近代俳句の「制度」であるかのように言うのは、端的に不勉強です。
若手俳人は総じて俳句文化の成立を所与のものと考えすぎです。
「五七五」でない俳句など過去にもいくらでもありましたが、
それが中心に位置しなかった力学について、少しは考えたらどうなのでしょう。
文学は「制度」ではないのですから。
消費文化に後押しされて、通俗から逸脱すれば大衆から抜け出られる、という発想こそが今や凡庸で通俗的なのです。
アカデミックなことを持ち出せば大衆から離脱できると思っているのでしょうが、
引用するものが不必要である上に、大衆的なポストモダン系の思想なのは凡庸でしかありません。
他人にいい顔をしたい、という欲望で文学を語るのは謹んでほしい、というのが僕の本心です。
ポストモダン批評
- 冬トマトさん
- (2021/02/26 20:13)
- [コメントを編集する]
こちらはどうなのでしょうか。
https://hidex7777.hatenablog.com/entry/2019/03/29/212458
雨蛙さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2021/02/25 11:54)
- [コメントを編集する]
俳句以外で認められているとも思えないのに、「詩人気分」「アーティスト気分」「アウトロー気分」がわんさか出てきて、
そういう勘違いをみんなで守ってあげる温かい空間じゃないですか(笑)
関悦史が高山れおなを三島由紀夫になぞらえたり、高山れおなが佐藤文香を井原西鶴になぞらえたりしたこともありましたが、
この3人は一緒に同人誌やってますけど、俳句の同人って、こういう「天才妄想」の共犯者で構成されているものなのですね。
関悦史には美輪明宏や高橋睦郎の前で同じことを言ってほしいものです。
雨蛙さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2021/02/24 01:30)
- [コメントを編集する]
雨蛙さんはマウントを取る、と書いていますが、
結局、出版メディアがネットと違って一方向の情報発信メディアだということが、それを可能にするんですよね。
関悦史がネット上で僕のコメントには応じず、同人誌上で一方的な非難をしたり、ネットでは正体を隠して匿名を用いたりしたのも、
優位なメタ位置からしかコミュニケーションをしたくないからでした。
こういうメタに立つ欲望がある人ほど、非対称的な封建的メディアにしがみつくのですが、
このやり方は過渡的現象で長くは続かないでしょう。
雨蛙さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2021/02/21 01:39)
- [コメントを編集する]
応援の気持ちをいただいて感謝していますが、僕が厳格な人間なのではなく、世の中が利権に甘すぎるからバランスを取っているだけなのですよ。
業界が甘やかさなければ、僕がこんな汚れ仕事をしなくてもすむことをお忘れなく。
あと、雨蛙さんは結社外の俳人を美化しすぎだと感じます。
ちなみに僕が嫌いなのは権力の乱用であり、能力もないのに偉ぶったりアーティストぶったりする人間です。
つまり嘘が嫌いなのであって、真実を尊重したいだけなのです。
屈原と言われるのは悪くないですが、僕は濁った世と交わらずに死を選ぶタイプではない気がします。
無題
- 名乗る程の者ではないさん
- (2021/02/20 23:43)
- [コメントを編集する]
雨蛙さんへのコメント
- 南井三鷹さん
- (2021/02/19 21:04)
- [コメントを編集する]
雨蛙さん、コメントありがとうございます。
残念ながら僕は雨蛙さんの意見にピンときませんでした。
鴇田氏が結社にいたら今より知名度があって得をしたでしょうか。
高屋窓秋のように作風の違いで結社を離れたわけでもないですよね。
彼の金太郎飴「スタイル」は「好き」でやっているのかもしれませんが、
それが文学的であるか否かを僕は問題にしています。
「好き」でやっているだけのことを「文学」とか言うな、という話です。
ちなみに僕は俳句のことをこうして書いても、これっぽっちも得をしていないどころか、嫌な記憶に苛まれます。
無題
- 名乗る程の者ではないさん
- (2021/02/18 13:02)
- [コメントを編集する]