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〈俗流フランス現代思想〉という思想たりえない「まやかし」

日本の個の脆弱さを隠蔽する〈フランス現代思想〉

日本には共同体と個とのフェアなコミュニケーションが成立していない社会です。
そのため、共同体による個の切り捨て(デッドコミュニケーション)が、個を抑圧するかたち(村八分など)で作用してきました。
その原因にまでは僕の研究は行き届いていませんが、多くの識者が指摘しているように、おそらく日本が中華帝国の圧力下にありながら、適度に辺境にあったことが影響していると思います。
国内の内的関係以上に外圧との関係が優先されるお国柄であったため、 外的事情の前では内部の意見などたいした価値がなかったのでしょう。


そのため、日本では内的事情を協議や代表制を通じたコミュニケーションを支配者が吸い上げるようなシステムが発達しませんでした。
それは現代まで続いていますので、日本人なら誰でも思い当たるのではないでしょうか。
たとえば日本は民主主義国家を標榜していますが、官僚や政治家は国民の意思などよりアメリカ政府の顔色をうかがっています。
もちろん、このような姿勢は「戦後」に成立したものではありません。
外圧に対してチキンである日本人は、そのような自意識をはねのけようと、他の国に対して攻撃的になります。
そうやって自分たちは本当は外圧など何とも思っていないのだ、という自己欺瞞に生きるわけです。


では、外圧をはねのけて福沢諭吉が言うような自主独立をすればいいかというと、問題はそう簡単ではないのです。
恐ろしいことに、日本人が外圧をはねのけようとすると、国内の支配層が外圧の代わりに国内を支配することになるため、
よりいっそう内部に対する一方的な強権を発動するようになるのです。
つまり、攘夷思想(もしくは天皇親政)がより不幸な支配を生んでしまうという土壌が日本にはあるわけです。
この問題を解決するには、日本の大衆が一度でも市民革命を実行するしかないと僕は思うのですが、
まあ、そんなことがありえるかといえば、絶対にないと僕は思っています。
歴史というのは、かくも恐ろしいものです。


このように日本人は外圧を背後にした共同体の一方的な抑圧の中で生きています。
過度に抑圧的な人々だと僕は思いますが、日本人自身は案外自分たちの国に不満をあまり持っていないようです。
権力に対して抑圧的な生を甘受する代わりに、個人は大きな責任から逃れた「自由」を享受できるようになっているからです。
このような社会では個人の自由はいわば与えられた「自由」でしかないのですが、
このような飼い犬のような人生がなかなかに心地良いものなのです。
共同体の支配の及ばない空間でだけ個の享楽を謳歌することができるというシステムなのですが、
このような「公」と「私」の領域の使い分けによって、日本人は自らの抑圧的な生をそうと認識することなく生きることができたのです。


さて、それでは個人がより自由になるにはどうしたらよいでしょうか?
平均的な日本人の発想であれば、それは「私」の領域を拡大することを目指すことになるでしょう。
個人は私的空間において享楽的にしか存在せず、社会から逃避して引きこもることが個であるかのように錯覚するようになるのです。
日本ではインターネットがまさにそのような個の享楽の場としてサブカル的(性的)欲望と連動して発展を果たしました。
日本の大人がスマホ中毒者として外でもインターネットばかりいじっているのは、
それが「公」の領域に対する「私」の領域の侵略行為であるからです。
スマホに夢中にさえなれれば、誰でも傍若無人な「無頼派」になることができるのです。


〈俗流フランス現代思想〉という思想的価値のない現状維持装置

このような惨めな「私」の充実をただ後押ししているのが、ニューアカ以後の〈フランス現代思想〉です。
彼らが商業的に成功したのは、それが平均的な日本人の欲望を正当化しているからにほかなりません。
(勘違いしないでほしいのですが、〈フランス現代思想〉中心の哲学観を持つ人などは日本では間違いなく凡庸です。
こういう人間が自分を頭のデキの違う思想人だと思い込んでいることほど滑稽なことはありません)
「逃走」「切断」と社会からの逃避を訴えることが、ドゥルーズ=ガタリ的な無意識の欲動と重ねて語られるようになりました。
しかし、ここまで書いてきたように、日本での俗流化した〈フランス現代思想〉のルーツは〈フランス現代思想〉などにはなく、
単に日本の近代社会の構造において成立したものでしかありません。
ドゥルーズ=ガタリは個の充実と共同体のありようをどう結びつけるか、その「接続」的な意味をしっかり考えているのに対し、
浅田彰や東浩紀や千葉雅也などの〈俗流フランス現代思想〉のアイドルたちは、 共同体からメタ的に引きこもる「逃走」や「切断」の面ばかりを語っていました。
彼らがサブカル的な欲望の近くに位置し続けていたのも、「メタ的引きこもり」の享楽的精神が共通していたためです。
これらの「切断」戦略は、これまで支配者側の共同体が行ってきたディスコミュニケーションを自らが行うことで、
自分が支配側の立場に立っている「気分」になるということでしかありません。
(下層ネット民の中にやたら権力者側と同一化した視点を持っている人がいるのはそのためです)


しかし、スマホ全盛時代になって、共同体から逃走するだけの「私」の領域拡大という戦術には全く思想価値がなくなりました。
おそらく東浩紀もそのことを悟って、あれだけネットに入れ込んでいたのに今更出版の世界に戻ってきたのでしょう。
(もちろん僕は彼の思慮の浅さを嘲笑しているわけですが、そのことに気づきもしない千葉雅也の痴性などは語るに及びません)
今になって〈俗流フランス現代思想〉などをありがたがっている人間は、もはや現代思想オタクしかいないと思います。


しかし、いまだバブルの夢を引きずっている僕ら団塊ジュニア世代が、出版社やアカデミズムでも主力になり始めてしまい、
発想の転換もできないまま無意味な〈俗流フランス現代思想〉を思想扱いし続けています。
中身だけ見たら、まったく思想的な価値のない「現状肯定」でしかない〈俗流フランス現代思想〉などでは、 暴力的な抑圧へと舵を切る可能性を持つ社会と戦うことなど叶いません。
社会との葛藤が現実逃避によって解決できるなどという甘い「まやかし」など一刻も早く諦めるべきです。
僕たち一人一人に与えられた社会的責任を武器として、一丸となって共同体へ圧力をかけ返してやることが重要だと考えます。
まずは、個人と共同体との間のコミュニケーション回路を作り上げる必要があります。
個人の要請によって、もっと行政や企業の情報開示ができるような社会を目指す必要があると僕は強く思っています。


そのためには、まず「公」と「私」の二分法(デッドコミュニケーション)を前提とした〈俗流フランス現代思想〉のようなサブカル精神を反省することが大切です。
(この精神をなぜ僕がサブカル精神と呼ぶのかは別の機会にお話しします)
日本人的な諦観を捨てて、不屈の精神で共同体へのコミュニケーションを挑むこと、これこそが日本に未来をもたらすものだと僕は信じています。


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