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「権威」という病

ネット民に支持を受けた人がネット批判をはじめた

最近インターネットで支持されてきた人がインターネットを批判する(もしくは悲観する)ことを目にするようになってきました。
わかりやすい例が「ゲンロン」を運営していた東浩紀です。
僕は同世代だったので初期のころから彼の活躍を知っているのですが、
1998年に『存在論的、郵便的』で注目を集めたあと、
網状言論などと言って出版よりネットでの言論活動を重視して、インターネット世代の代表としてオタクの肯定に勤しんでいました。
インターネット嫌いの僕は彼が世代の代表と思われることが本当に嫌でしたし、
そういう世の中から距離をとりたくて作品発表も断念していました。
しかし、最近の東はどうやらインターネットの未来を悲観するようになっているようです。
BLOGOSに掲載されている東のインタビューでは、ネットの古き良き時代を振り返る哀愁のオジさんという雰囲気で、このように述べています。


ネットは世の中変えないどころか、むしろ悪くしている。フェイクニュースとかポストトゥルースといわれていた現象で、これもいまはみなわかっていることだと思います。

このインタビューで東が「問題は「リアルタイム」が重視されすぎていることです」とか言うようになっているのが面白かったです。
(2003年に僕は、webを礼賛する東がデリダのリアルタイム批判を理解していないと批判していたのですけどね)
東はネットに夢を見たあとに「転向」して雑誌の形態へと戻り、「ゲンロン」を出版するようになりました。
ネットでしか見れないコンテンツで活動していた人が、あとになって出版に戻るのも考えが浅かったことの証明でしかありませんし、
「誤配」とか「切断の自由」とか言ってた人が、フェイクニュースの批判をするのも、
自分にその資格があるのか、しっかりとした反省をしてからにしてもらいたいものです。


彼の周辺人物も似たようなジレンマを抱えています。
初期インターネットにドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」を感じたと語っていた千葉雅也も、
最近ではインターネットを「民主主義幻想」として否定的に扱い、社会的地位を尊重しない人に対する苛立ちを隠しません。


率直に言うけど、若い人にとって僕は「目上の人間」なのであり、目上の人間が言うことに対する基本的尊重というものがなければ文化の歴史は崩壊する。そういうことがインターネットの民主主義幻想によってめちゃくちゃになってしまった。
午前0:55 · 2019年5月20日 · Twitter for iPhone

「目上の人間」の「基本的尊重」(まるで儒教道徳!)が「めちゃくちゃになってしまった」のは、インターネットのせいだと千葉が考えていることがわかります。
このように、インターネット肯定派であったはずの人々がインターネットに否定的な見解を示すように変わったのは興味深いことです。
僕自身はもともとインターネットには否定的ですし、SNSもAmazonレビューという手段を奪われたために仕方なく始めました。
その意味で彼らの方が僕の見解に近づいているのですが、ネット利用者を責めるだけの彼らの口ぶりからすると、
彼ら自身はどうして自分が「転向」するハメになったのか、あまり理解できていないように思います。
自分自身のやっていることを理解できていないから、のちに宗旨変えすることになるのです。


東や千葉という現代思想の人を取り上げたのは、それが現代思想の敗北を示していることを明らかにしたかったからです。
今回は彼らの「転向」もしくは「自己矛盾」から、インターネットをめぐる権威の問題を考えてみたいと思っています。


消費における価値転倒

まず、現代思想に社会的な影響力がはとんどなかったということを確認しておきましょう。
現代思想の文脈でポストモダンとは何かと言うならば、理性的な啓蒙主義や主体性という近代的な「大きな物語」を批判するものと説明することができます。
しかし、現実のポストモダンとはそのような批判的な理念によって実現されたものではありません。
実際は思想とは全く関係のないところにポストモダンを支えたものがあったのです。
それを考える上で、現実社会におけるポストモダンという現象が、旧来の「権威」や「価値」の転倒として現れたことを認識することは重要です。


柄谷行人はポストモダン(ニューアカ)を価値転倒の現象として捉えていました。
それまでの一次的価値(オリジナル・音声・意味)と二次的価値(コピー・文字・記号)の順序を逆転させたのがポストモダンだとしています。
その代表としては「広告」が挙げられます。
商品があるからその広告が存在するのではなく、広告があるからその商品が売れるのだ、という逆転の発想です。
それまで価値の源泉であると思われていたオリジナルよりも、コピーである二次創作的なものの方がより価値を持つようになったのです。
浅田彰の『構造と力』には、プレモダンはヘテロ、モダンはホモ、ポストモダンはゲイというような安直な図式が載っていますが、
異性愛より同性愛を上位に置こうという意図がそこにあります。
オタク的なサブカルチャーやラノベを文学より上位に位置づけようとした東浩紀も、このような価値転倒を意図的に利用していました。
(そんな東浩紀が今や文芸誌の新人賞の選者になっていることを、誰も疑問に感じないのが不思議です)
つまり、旧来の「目上」にあるものを尊重するどころか、その価値をひっくり返すことに励むことは、
インターネットの一般化が原因なのではなく、バブル時代のポストモダンにおいてすでになされていたことなのです。


しかし、僕はこのような価値転倒をポストモダンなどと分析していたことが間違っていたと思います。
このような価値転倒は、実際はすべて経済の収益モデルが移り変わったことによって起こっているからです。
生産力の拡大による収益モデルから、「大量消費」への誘導という消費資本主義の収益モデルへと移行することで成立したのが、ポストモダンという価値観でしかないからです。
消費資本主義の現象だと言えばいいものを、変に思想的(もしくは批評的)なものとして捉えていたことが間違いのもとだったのです。
その証拠に、ポストモダンの価値転倒は「大量消費」に基づいた「数量」の重視によって引き起こされたものです。
「数量」こそが価値となる経済合理性の世界が、文化領域を覆い尽くすプロセスをポストモダンと表現していただけのことでしかないのです。
だから、ポストモダンの価値転倒はすべて「質」から「量」への移行で説明がつくものでしかありません。
要するに、単なる「質」に対する「量」の勝利でしかないのです。


このあたりの仕組みは前の記事でも説明しましたが、何度も書いておきましょう。
消費を拡大するには商品購買の裾野を広げなければいけません。
販売網を拡大するためには、これまでその商品に興味がなかった人にまでお金を払わせなければなりません。
しかし、「質」の高いものを理解するにはそれなりの知識と経験が必要です。
そんなものが商品に強い興味を持たない外部の人に欲望されるはずはありません。
そこで予備知識がない人にも「なんとなく」魅力を感じさせる敷居の低いものを作り、
それを量的に拡散させることによって販売を拡大していくのです。
オリジナルのものを生み出すのは一生の仕事になりかねません。
それよりはコピーや引用によって安直に大量生産をした方が消費において効率的であるのは言うまでもありません。
生産にはコストをかけず、販売拡大にコストをかけるという合理性。
要するにポストモダンというのは、大量消費の追求に付随して社会の価値が転倒した現象のことだったのです。


メディアのパラダイムシフト

オリジナルの開発よりも引用やコラージュやパロディによる二次創作の方が消費ビジネスの効率性が高いということは、各所で確認することができます。
お菓子業界などは顕著だと思うのですが、新商品で勝負するよりも旧来の商品の抹茶味、キャラメル味、レモン味、イチゴ味など、ヴァリエーションの変化で目先を変えることに励んでいます。
漫画にしても映画にしてもシリーズがどんどんと延長し、スピンオフや番外編などの二次創作で消費を促すことに躍起です。
ポストモダンの価値転換にダイナミズムが感じられた時代はとっくに過去のものとなり、
今や商売事情でしかないことが表面化しているので、僕が口やかましく言わなくても誰もが了解できることではないかと思います。


このような価値転換を加速したのがインターネットやSNSの登場です。
出版やテレビなどの一方通行の放送メディアから、インターネットという双方向接続メディアへの変化によって、
旧来のマスメディアが削ぎ落としていた欲望が、新たなメディアを介して一定数の勢力として顕在化しました。
地下の存在が地表に出てくるような価値転倒が、インターネットによってもたらされるようになると、
出版やテレビなどの旧来のマスメディアの一部もそれに歩調を合わせるようになりました。
こうして新旧メディアの階層構造は徐々に崩壊する傾向にあります。
消費者が自分の興味や嗜好によってメディアを選択する事態が当然になりつつあるのです。


このようなメディアのパラダイムシフトについて、最近注目すべき哲学者である大黒岳彦の論を参考にしたいと思います。
『ヴァーチャル社会の〈哲学〉』(2018年)の第二章を、大黒は「モード」の終焉というテーマで書いているのですが、
その結論部では、テレビ型メディアからインターネット型メディアへとシフトすることによって、
どのようなことが起こったのかが考察されています。
大黒は専門を哲学、情報社会論としていますが、論考を読んでいるとマクルーハンやルーマンの思想を数多く参照しています。
僕はメディア論の分野ですぐれている人という印象を持っています。


『ヴァーチャル社会の〈哲学〉』で大黒は、旧来のテレビ的なマスメディアを〈放−送〉(ブロード・カースト)と定義しています。
〈放−送〉というメディア形態の特徴は、領域内のあらゆる情報が中央に一点集中するように集められ、
そこに一定のコード(お約束的な解釈)が施された上で、周縁部へと一斉に放散されることにあります。
要するに、一元的な管理が可能な状態で情報を流通させるメディア・システムだということです。
このシステムでは、上位(メタ)に位置する「特権的な職能的発信者」が情報を選別・加工して、
情報を受け取るだけの「大衆」という下位の存在へと、垂直的に配信するかたちをとります。
発信者と受信者は完全に不均衡な立場にあるため、発信者が職能において「特権」を持つことになるのです。
一元的な管理体制だということは、常に「大本営発表」に利用される危険が存在します。


それに対し、〈放−送〉に代わる新たなメディアの形態を〈ネット−ワーク〉と大黒は呼びます。
〈ネット−ワーク〉は、同レベルで横に並ぶ個人が、情報を相手へと受け渡すことで、次々に接続されていく水平的構造を特徴としています。
ここには 情報の発信者と受信者という明確な役割区分はありません。
大黒は〈放−送〉が中央管理による統一的な社会を構成するパラノイア的なものであるのに対し、
〈ネット−ワーク〉が統一的な中心を持たないため、多数の中心を並存し、せめぎ合わせるスキゾフレニックな社会を生み出すとしています。
(ちなみに大黒がこのモデルを読者が共有する必要はない、とわざわざ書いていることを付記しておきます)

僕はこの大黒のモデルに異論はまったくありません。
ただ、このようなメディアの交代(パラダイムシフト)が、生産から消費へと重点を移す消費社会化によって導かれたことを強調しておきたいのです。


権威は本当にフラット化するのか

その意味で『ヴァーチャル社会の〈哲学〉』の第二章である「「モード」の終焉と記号の変容」は興味深い論考でした。
大黒はモードの史的考察として「趣味」概念と「天才」概念の対立などを取り上げているのですが、
モードの考察においてソースタイン・ヴェブレンとヴェルナー・ゾンバルトが取り上げられていたのが興味深く感じました。
両者は哲学ではなく経済学者に分類される存在ですし、資本主義の発展を「消費」において説明した先駆者だからです。


そのあと大黒はロラン・バルトの『モードの体系』を頼りに、モードから記号へと主題を展開させていき、
バルトはもちろんのこと、ジャン・ボードリヤールの理論も取り上げます。
ボードリヤールには『消費社会の神話と構造』という代表作があり、バブル時代の消費資本主義について考察した思想家と言える存在です。
ここで大黒が取り上げた人々は、消費資本主義を考えるときに僕がヒントを得た人ばかりです。
大黒はボードリヤールの論を過去のものとしているのですが、その着目点がなかなかおもしろいのです。


二〇世紀は、内容を欠いた差異化プログラムである、記号としての「モード」が、マスメディアの〈放−送〉体制によって、ファッション分野を越えて全商品領域へと拡大した世紀であった。バルトとボードリヤールのモード論は、マスメディアが果たす役割も含め、前世紀における社会と文化の構造をその最深部において掬い取った理論である。諸他の文化記号論は文化形成や文化受容においてマスメディアが果たす役割に気づいていないか、気づいている場合でも、それを過小評価、ないし“見て見ぬ振り”をしている。にもかかわらず、それらの立場は例外なく、マスメディアの〈放−送〉体制を不可疑かつ自明の前提としてのみ成立する。

大黒は「記号−モード−マスメディア」を三位一体と捉えて、20世紀の〈放−送〉体制として整理しています。
ポストモダンという価値観もこのような情報の一元管理システムを前提としたものであったことは強調されるべきだと思います。
そして、21世紀には〈ネット−ワーク〉による情報発信が覇権を握るようになるのです。
大黒の論考はモード論から記号論への史的変遷を丁寧にたどっているのですが、
要点だけ言えば、先に紹介した〈放−送〉から〈ネット−ワーク〉というメディアのパラダイムシフトの話なのです。
この点に関しては僕も大黒の整理を支持します。


ここで大黒はバルトにならって記号と価値の結びつきを問題にします。
「マスメディアの〈放−送〉体制によって「記号」は「権力」を付与されると同時に、「価値」の担い手ともなるのである」
このような大黒の論の運びに注意しなければならないのは、大黒が記号による文化形成をメディアの力へと還元したために、
価値の形成を一元的な「権力」や「権威」の専売特許であるかのように主張してしまうことです。
だからこそ記号が価値の担い手となり権力を持つためには、マスメディアによる一元的な〈放−送〉体制が必要だという発想になるのです。
「作品」と著者の「権威」と「商品」価値が三位一体のものとして成立していたのは、マスメディアによる〈放−送〉体制があったからだと大黒は考えています。
そのため、〈放−送〉体制から〈ネット−ワーク〉へとパラダイムシフトが起こると、
既存の権力が相対化されるだけでなく、記号の価値づけも崩壊してすべて相対化される、ということになります。
大黒の説明はこうです。


インターネットの〈ネット−ワーク〉構造は、その二次的なフラット性によって、マスメディアの〈権威/権力〉的なヒエラルキー構造を済し崩しにしてしまう。なぜなら、インターネットとは、ネットワークのノードをなす個人が、その身分や資格を問わず発信できることを保証する構造をもったメディアだからである。(中略)このとき、〈ネット−ワーク〉は、〈放−送〉がその〈権威/権力〉的構造によって支えてきた「価値」をも無化することである。

大黒は〈ネット−ワーク〉の大衆性が権力だけでなく価値をも無にしてしまうと懸念しています。
ネット上を流通する文化財は「作品」としての性質を失い、「商品」でもなくなると言うのです。
〈放−送〉が「商品」に著者の権威を宿した作品であるならば、〈ネット−ワーク〉は情報をネタとして流通させる「遊戯」でしかなくなります。
大黒はこのように主張しているのですが、しかし、本当にインターネットでは権威がフラット化されるのでしょうか。


メディアの技術革新は社会の欲望の鏡

大黒はすぐれた学者だと思いますが、学者というものは自分の専門領域を過大評価しやすい人たちです。
大黒は〈放−送〉というメディアの様式が価値決定の源泉であるかのように書いていますが、
僕がすでに示唆しておいたように、商品経済の消費的性質こそが本質的な問題だと考える必要があります。


まず、商品の価値はマスメディアという〈放−送〉体制によって生み出されるものではありません。
当然ながら商品の支持というものは「売り上げ」という「数量」によって簡単に把握できます。
マスメディアの価値づけが、しばしば「売り上げランキング」によってなされていることは誰もが知る事実です。
その情報が一元管理で一斉に配信されるのと、ネットワーク上で一斉に参照されるのと、何か違いがあるでしょうか。
「数量」というのはある種の可視的な事実ですから、メディアによる価値づけなどそもそも必要としていません。
つまり、「売り上げランキング」を放送しているだけのマスメディアは、自らの視点で価値づけをすることを放棄したと言ってもいいのです。


むしろ、逆の視点から言えば、「数量」による価値づけしかできなくなったために、〈放−送〉体制の存在意義が薄れたと言えるのではないでしょうか。
前にも述べましたが、「質」を云々するためには、知識と経験が必要です。
収集した情報を、知識と経験を持つ「目利き」が妥当な価値づけすることで、情報の一元「管理」が可能であったはずなのです。
しかし、「量」による評価が支配的になると、「質」を考えるというプロセスが破棄されていきます。
その結果、〈放−送〉による情報の一元管理そのものが必要なくなってしまったように僕は思います。


では、なぜ「質」の評価が失われていったのでしょうか。
「質」を考えるにはそれだけの時間的な「遅れ」がどうしても必要になります。
しかし、商品の売り上げの最大化をめざす場合には話題性が尽きる前に勝負をかけるのが鉄則です。
そうなれば「質」を評価する時間は無駄なプロセスとして廃棄される運命になるのは必然ではないでしょうか。
僕の貧しい体験で語らせてもらうならば、
Amazonレビューというものは商品発売からいかに早くレビューを上げるかが、レビューの支持票に直結する大きな要素でした。
素早く批判レビューを掲載されたことに我慢ができなかった著者が、「読めてない」などとツイッターで文句を垂れたことがありましたが、
そもそもAmazonレビューなど、じっくり読んだ人の書くものが注目を集めるシステムにはなっていないのです。
その著者が「質」を云々するだけの知識も経験も持たない素人の礼讃ツイートを喜々としてリツイートしているところに、
本当に作品に対する「質」の伴った評価を求めているわけではないことが透けて見えてしまうのです。


消費資本主義とは「質」を削ぎ落とすことで「量」的最大化を図るシステムです。
インターネットはこの価値観を確固たるものにするために登場したメディア技術でしかありません。
メディアの技術革新は社会の価値観が「量」へと移行したことの反映であり、つまりは社会の欲望の鏡なのです。
その意味で、僕は大黒の考察には根本的な誤りがあると考えます。
まず第一に、〈放−送〉体制が支えていた「価値」を〈ネット–ワーク〉が無化することになったのは、
メディアのパラダイムシフトが原因ではなく、「質」より「量」を価値とする消費体制によるものだということ。
第二に、大黒の語る〈放−送〉体制による価値づけとは、国民単位の一元的な価値についてであり、
そのような議論は「大きな物語」の崩壊というポストモダンの議論ですでになされているということ。
第三に、「質」の価値が崩壊しても、〈ネット–ワーク〉においては「量」による価値づけは不滅であるということ。
〈ネット–ワーク〉が権力とともに価値も無化するという議論は、僕にはあまりに杜撰すぎるように思います。
大黒の議論が依拠している立場は、実際は東や千葉と同じところにあると言わざるをえません。
それは大黒が第二章を次のような文でまとめていることでもハッキリしています。


マスメディア・パラダイムにおいて単なる「情報」に〈価値〉を付与したのは、そのヒエラルキカルな権威的構造であった。その構造は「情報」を「活字」記号によって“塩漬け”することで内容の改変を防ぐとともに、〈著者=権威〉による「作品」としての特権的〈価値〉を担保してきたのである。(中略)
だが、情報社会においては、そのような方法論はもはや無効である。なぜなら、ネット上のどこにも〈著者=権威〉による「作品」など存在しないからである。

このあと大黒は崩壊した権威の再構築を図ることは不毛だと言っているので、「ソフトな」権威主義を推奨する千葉雅也とは方向性が多少違うのですが、
それでも彼ら大学人の主張は現実を見ていないとしか思えないところがあります。
彼らは「著者」というものの権威を自明視して、それがないと作品にも価値づけができないような議論を展開しているのですが、
僕にはこのような議論の進め方には欺瞞があるとしか思えないのです。


作者としての権威にしがみつく人々

〈フランス現代思想〉の流行とパラレルな現象として、文学の分野では「テクスト論」というものが登場しました。
作者の意図というものを想定して作品の解釈をするのではなく、作品上から読み取れる受け手主体の解釈こそを重視すべきだ、という立場のことです。
「作者」という一元的な権威を廃棄するある種の形而上学批判です。
作品のことを「テクスト」などと呼びならわし、下手をすると書かれたものは全部「エクリチュール」と呼ばないといけないような風潮が、ある時期の大学にはありました。
テクスト論の眼目は、作品を作者の所有物から読者の共有物へと転換するパラダイムシフトにありました。
「作者の死」という言葉はロラン・バルトの論文から人口に膾炙するようになったものです。
つまり、〈フランス現代思想〉の流れには、そもそも作者の権威を否定する思想があったはずなのです。


それなのに〈フランス現代思想〉界隈の研究者や、バルトの考察をした文章を書いている研究者が、
インターネットという「環境」が作者の権威を解体するかのような主張をするのはどうなのでしょう。
そもそもインターネット以前からそのような思想潮流があったことを、彼らはどう考えているのでしょうか。
このような矛盾が起こってしまうのは、経済オンチの大学人が消費資本主義について全く疑問を抱かずに、
自分の専門分野という狭い視野でものを考えているからなのです。
(そして自らの専門分野に関する矛盾にも知らん顔をするのです)


より本質的な問題は、〈フランス現代思想〉がどれだけ反権力的な言説を展開しようと、
日本人にとっては「おフランス」という権威から賜ったお言葉でしかなかったということです。
ここには権威構造の「ねじれ」が存在しています。
バルトが権威の解体を意図した言説を、日本人は権威からのお言葉として受け止め、東大からトップダウンで下へ下へと伝えていきました。
日本のアカデミズムは徹底して権威主義的階層構造で機能しています。
内実が反権力的な言説であろうが、日本のアカデミズムにおいては権威主義的な言説としてしか流通しないのです。


テクスト論は研究者にとっては非常に都合がいいものでしたので、当然ながら研究者から反発はあまり見られませんでした。
作者=オリジナルが西洋であり、読者=二次創作的コピーが研究者と位置づけられるかぎりは、
両者の序列が転倒されることで得をするのは彼ら研究者なので、不満などあろうはずもなかったのです。
しかし、ひとたび自らが作者・著者の位置にあって、一般人が読者という優位な位置から自前のメディアで発信するようになると、
今度はインターネットが価値を無化するとか、文化を崩壊させるとか言い出すのです。
僕にはテクスト論に踊った研究者の自業自得としか思えないのですが、それすら認識できないアカデミシャンがわんさか出てくることに呆れています。


結局、自分の作者としての地位にしがみつきたい人が、それを脅かすインターネットの批判をしているだけなのです。
だいたい、そんなにインターネットが悪いのなら、インターネットの使用を最小限に控えてネットの世界と関わらなければいいのです。
自分にとって都合のいいところでは積極的にネットを使っていながら、都合の悪い部分だけ不満を言うのはあまりにくだらない態度です。


ネット時代の権威主義

大黒の考察にも部分的には同意できるところはあります。
インターネットが断片化を進めるために「作品」を生み出すのに向いていない、という指摘に関してはその通りだと思います。
ネット上のコンテンツが「作品」というより、自己提示のための「ネタ」と化して不特定他者の反応を引き出すゲームと化していくという指摘も、
現状においては大多数のコンテンツがそう整理されてしまうことも認めます。
しかし、現状がインターネットのゴールなのかといえば、そうとは言えないと思います。
現在は良質なコンテンツが旧メディア上にあるとしても、旧メディアが凋落してしまえば、良質なコンテンツをネット上で実現せざるをえなくなるからです。


これまでの僕の説が正しければ、メディアのパラダイムシフトを含む価値転倒は、
消費資本主義の数量的な利潤追求において成立したものですから、
金銭に還元されない「質」的な価値になどそれほど関心を払わないと思います。
この価値観を見直さないかぎり、良質であったはずの旧メディアのコンテンツも「質」を下げ続けるほかないでしょう。
そしてコンテンツの質に差がなくなってしまえば、接続のしやすさによってネットが勝利するのは目に見えています。
僕はインターネットは嫌いですが、ますますインターネットが巨大津波のように社会のすべてを覆うだろうと予想しています。
そうなるとしたら、今なすべきことは、インターネットが世を悪くすると嘆くことではなく、
インターネットにおいて「質」の評価を存在させるにはどうしたらいいかを考えることではないでしょうか。


大黒はインターネットが価値や権威をフラット化すると考えていますが、そんなことはありえません。
メディアのパラダイムシフトには「質」から「量」への価値転換が関係しています。
「質」による価値づけは失われていくでしょうが、「量」による価値づけはますます猛威を振るうでしょう。
売り上げ量の評価はもちろん、再生回数が何万回だとか、フォロワー数が何万人だとか、PV数が何万だとか、そういう量的な数値によって価値づけがなされるはずです。
消費資本主義やネット時代の権威主義とは数の暴力にほかなりません。
多数の注目や支持を集めたものが権威となり、その支持が持続するかぎりは数の暴力を背景にして自己充足をはかることができるのです。
「数量」的な支持を得た人が「権威」として君臨することができるのですから、別にマスメディアによる価値づけは失われることはないのです。


むしろ問題とするべきなのは、消費資本主義システムの中で作品に対する「質」の評価が失われることなのです。
それなのに、哲学アカデミズムでは〈著者=権威〉とか「目上の人間」とか、特定の情報発信者の権威を擁護する話になってしまうのです。
彼らの言説を分析していると、一元管理の情報下で権威を認められた者だけが発信できる体制があるべき姿だと言っているようにしか思えません。
中国共産党による情報管理社会のような体制が彼らの理想なのでしょうか。
自分の利益を守るための保守的言説が何を意味することになるのか、アカデミシャンであれば少しは考えて発言すべきです。
誰でもメディアで発信できるようにシフトした時代で、発信者を「権威」とする考えは端的に反動主義と言えます。
学問を反動主義に利用するのが、右や左の政治的立場に関わらず花盛りであるというのが僕の実感です。


作者という政治的存在

僕は大黒が言うように作品と著者の権威と商品が三位一体である必要はないと思っています。
少し考えればわかることですが、商品や作品の流通に必ずしも著者や作者は必要とされていません。
たとえばスパイダーマンやバットマンなどのアメコミのキャラクターは誰でも知っているところですが、
さて、彼らの生みの親が誰であるかはどれだけの人が知っているのでしょうか。
東浩紀の『動物化するポストモダン』のように、キャラと作品と商品の三位一体をもとに理論を展開するのならばわからなくもないのですが、
著者や作者を権威としてそこに紛れ込ませる発想は、現実を反映しているとは言えないと思います。


そこに強引に作者をねじ込むとしたら、作者がキャラ化せざるをえなくなるのではないでしょうか。
作中キャラクターと作者の一体化と言えば、日本には「私小説」という伝統があります。
私小説とは作家自身を主人公のモデルとして、自らの生活を自己暴露的に描いた小説のことで、
田山花袋の『蒲団』や志賀直哉の『和解』などが有名ですが、太宰治の『人間失格』や三島由紀夫の『仮面の告白』もその一種と考えていいと思います。
私小説的な要素を太宰や三島にまで見つけることができれば、自らをキャラ化する作家のあり方というものがネット以前から存在することが理解しやすいと思います。


ところで小林秀雄は「私小説論」でおもしろいことを書いています。
実人生からの決別を決意したモーパッサンに影響を受けた田山花袋が実生活を描いた『蒲団』を成立させたことを取り上げ、
私小説は外来思想を社会との葛藤のない「技法上の革命」としてだけ受容したとするのです。
〈フランス現代思想〉の日本受容についても全く同じ現象が起こっているのが、いかにも日本的だと言えます。
「作者の死」やテクスト論のように権威を解体することを目指した思想に連なる研究者が、作者や著者の権威を声高に主張するのですから。
彼らはインターネットが旧来の権威を解体することを危惧しているのですが、所詮インターネットは「技術上の革命」でしかありません。
技術の力だけでは、日本社会が根強く必要としている権威主義が解体されるはずがありません。
小林秀雄は「私小説論」の最後で、私小説は滅びたが、また新しい形で現われてくるだろう、と書いています。
同様に〈放−送〉体制による一元的な権威主義が滅びたとしても、〈ネット−ワーク〉型の新たな権威主義が現れてくることを、予言しておきます。


可能性として考えられるのは、作者がキャラもしくは「記号」としてメディア上を流通することで、権威化(ブランド化)することでしょう。
たとえば村上春樹の作品は、個々の作品が作者の存在以上に重要であるようには思えません。
それらはすべて「村上作品」というブランドに回収されてしまうものでしかありません。
(だからこそ、村上春樹の翻訳本までもが売れるのです)
村上の文章が好きだと抗弁する人もいるかもしれませんが、残念ながら村上の文体は作品によって微妙に違っています。
読者は村上作品に何らかのブランドイメージを感じ取っているから、凡庸でしかない作品にもあれだけ高い評価を与えられるのです。
(作者名を隠した上で、売れない作家の作品とGACKTに読み比べてもらい、判定をさせたらおもしろいのではないでしょうか)


村上春樹という作家はメディア露出を好まない作家です。
そのため、作家自身が露出して自己宣伝をしなくても、文芸においては作家のブランド化やキャラ化が可能であることがわかります。
もちろん自らが露出することでキャラ化を図る方法もあります。
自らを「素材」としたコスプレ写真をネット上にアップして、キャラ化した自己を演出することで、
ネット上で多数の支持を得た人もいると思います。
消費資本主義社会において「大きな物語」が崩壊し、「小さな物語」が多数共存する社会になったのですから、
国民レベルの「大きな権威」が崩壊し、趣味集団ごとの「小さな権威」が多数乱立するようになるのは、至極自然な流れだと思います。
このような「小さな権威」への移行、権威のパラダイムシフトに適しているメディアが〈ネット−ワーク〉であったというだけのことで、
インターネットが権威をフラットにするなどという分析は理性的ではないと僕は思います。


個人的な予想を書くと鬼が笑うかもしれませんが、
〈ネット–ワーク〉体制が実現する「小さな権威」の乱立とは、議会制民主主義と似てくるのではないかと僕は思っています。
選挙区ごとに投票で多数の支持を集めた人が議員となって、「数の暴力」を背景に権力を行使するのと同じように、
趣味集団ごとにネットで多数の支持を集めた人が権威となって、「数の暴力」を背景に権力を行使するようなイメージです。
ただ、選挙は一定期間の間行われることがないため、議員はその間に安楽を貪ることができるのですが、
ネット上で多数の支持を得た権威に関しては、支持を持続させることが大きな課題となります。
そこでネット上でいったん権威として「成り上がった」人は、〈放–送〉などの旧メディアに活動の場を移してそのプレッシャーを軽減させていくことになるはずです。


こうして〈ネット−ワーク〉と〈放–送〉などの旧メディアはしばらく共存を果たしていくことになると想像しています。
ネットのアングラな話題からバズったものだけを旧マスコミが取り上げ、上澄みを搾取するという構造です。


しかし、前述したようにその構造も近いうちに続かなくなると思います。
直接ネットに接続する若い世代が社会の中核を担うようになれば、同じ情報を流している旧メディアの「遅さ」が際立つことになるからです。
このような状況下で、将来確実に果たされるであろうメディアパラダイムの移行について不満を言っても意味はありません。
それよりも、新しいメディアパラダイムの中で旧メディアが担っていた文化的機能をどのように生き残らせていくかを真剣に考えたほうがいいでしょう。
その方法については、僕もおいおい考えていこうと思っています。


7 Comment

もこもこさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
もこもこさん、コメントありがとうございます。

現代思想を空虚な自己の権威づけに利用しているだけの人も問題ですが、
そういう人にやたらと原稿を依頼する出版社や新聞社が問題ですね。

インターネットが悪いなら使用を最小限にしたらいい、という僕の記述は、
千葉雅也が著書『動きすぎてはいけない』で接続過剰を批判したことが念頭にあります。
ネットを含めた接続過剰批判をしていたはずの人なのですから、ネットが悪いと言うのであれば、
自ら利用を減らしたらいいんじゃないですか、ということです。
嫌なら使うな、という意味ではありません。
意図がわかりにくくてご迷惑をおかけしました。

無題

南井様
大変面白く読ませていただきました。千葉雅也のようにドゥルーズやらデリダを理解もできないのにこねくり回して、そこをつつかれたらブロックした上に作者絶対主義を唱えるドゥルーズ研究者とはとても思えないような振る舞いに憤りを感じていたので、この鋭い批判に共振しました。
結局のところ千葉をはじめとした〈おフランス現代思想〉の界隈は自身の思想に箔をつけるためにドゥルーズを引用したのだと思うと頭が痛くなりますね。

僭越ながら何点か質問させていただきます。
「結局、自分の作者としての地位にしがみつきたい人が、それを脅かすインターネットの批判をしているだけなのです。
だいたい、そんなにインターネットが悪いのなら、インターネットの使用を最小限に控えてネットの世界と関わらなければいいのです。」
という文章がありましたが、私はこの意見に首を傾げました。彼らがインターネットのいいとこ取りをしているのはよく理解できるのですが、しかしながら彼らにもネットを批判する資格はあるように感じます。インターネット批判→なら使わなければいいという理論は安直であるように感じます。

南井様のブログを一十分に理解できていないために失礼なことを書いたかもしれません。お目汚し失礼しました。

洛書さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
洛書さん、コメントをありがとうございます。

洛書さんが僕にどのようなご不満があるのか、真剣にわからないのですが、
いろいろと勘違いをされているようです。

僕は俳句の研究を目的としてはいませんし、俳句界の人間ではありません。
また、千葉雅也と社会的影響力(笑)を競う気もありません。
(というか、僕は千葉による言論弾圧の被害者だから、「弾圧者」千葉の姿勢を問題にし続けているのですよ。
洛書さんはその辺りの事情が全くわかっていないのだと思います)

僕は気遣いの細やかな洛書さんの文章にそれほど「不興」を感じたことはないのですが、
ご自身でそう思いながらわざわざこんな人気のないブログにコメントをしてくる洛書さんのお気持ちは気になっています。
ただ、ここは僕のブログ記事のコメント欄ですので、内容への関わりに乏しいコメントは扱いに困ります。

有意義なこと

いろいろ問題意識とご不満をお持ちなのはわかりますが、傍論の話ばかりされているより、権威の確立した俳句の古典の作品のしっかりした研究成果を発表されたほうが、あなたさまにも、世間にも、有効で、有益で、有意義なのではありませんか。


こういう種類の話ばかりされていても、社会的影響力については、あなたさまと、千葉雅也さんの差は開いていくばかりと思われます。千葉さんには、新聞広告を出せる大出版社がついているわけですから。


いつもご不興のようで申し訳ありません。しかし、老婆心から忠告させていただきます。あしからず。

皆様のコメントへの返答

どうも、南井三鷹です。
南海さん、クロさん、コメントをありがとうございます。

南海さん、
キャラ化した人物がコメンテイターと化している今の日本では、
状況によって言うことがコロコロ変わる風見鶏ばかりです。
論理の積み重ねも重要ですが、
自分の言動に責任を持つことが求められない場所に批評など存在するものでしょうか。

同人誌など顔の見える場とネットをどう結びつけるか、というのは信頼を考える上で考えたい問題ですが、
バンクシーのように顔が見えないからこそ、作品の方に注目を集められるという効果にも気が惹かれます。

クロさん、
ジェレミー・ハイマンズのようにパラダイムシフトを掲げて、
時代の波に乗れば成功する、と煽るやり方が、僕には「オールドパワー」に思えます。
発信した情報で人々の「関心量」を稼げさえすれば、大組織でも個人でも構わないということですよね。
別に個人が力を持つわけではないのですが、うまく話をすり替えますね。

僕は多くの人々が同一化するための身体を「天皇」と考えています。
キャラ化というものも「天皇」を必要とする社会との関係で成立している気がします。
天皇とは私小説的存在である、とも言えるのではないでしょうか。

僕は自分のサイトのアクセス数をずっと見ていません。
「質」を追求すれば、残念ながら「量」が期待できなくなるのは予測できますし、
見てしまうとそれはそれで気になってしまうからです。
些細なことですが、「質」を確保する方法として実行していることではあります。
そのため、皆様のコメントが自分の文章の「質」を問う契機になっています。

無題

AIの台頭で、マニュアル色が強く高度な知識や判断が求められる様な仕事や限定された知識や、行動パターンばかりの定型業務など、既存の多くの職種が失われて、既存の大手企業もメガバンクも急展開を強いられていると思います。ここにおいても権威の価値転倒が起こっています。
そしてその時、ジェレミーハイマンズが言っていたような動きと関わってくるのでは…と推測しています。

作者のキャラ化ー私小説論 の文脈で言えば、先の千葉雅也だけにとどまらず、プロブロガーらも私小説的キャラ化のその端的な例としてすでに現れてると思いました。南井さんはハナから相手にしていないとは思いますがーNEWSpicksの幻冬社発の出版とネットを介した動きもキャラ化と関係があると思っています。そして、ジェレミーハイマンズの唱えるニューパワー・コミュニティという装置が、オンラインサロンとかの信者ビジネスに転用されている気がします。東浩紀のゲンロンビジネスも然り。プロブロガーのギルド然り。同様の例は他にもあげられると思います。同値性の横のつながりを意識せざるを得ません。

論考でご指摘の通り、消費資本主義と、インターネットの無尽蔵の情報量と自由なアクセス性とそれを売り物の形にするプラットフォームは、その内実はともかく、親和性が高いですよね。これこそ、デジタル化=「数量」の現れですね。
旧メディアにおいても金太郎飴が粗製乱造されていることに少なからず無意識に嫌悪感を抱いていたのですが、今回の論考はそれをまさに言語化してくださったと思いました。
そして、薄れていってしまう質的価値の意味を思い出させてくれるのは、論考に出てきた、マクルーハン、ルーマン、ソースタイン・ヴェブレン、ヴェルナー・ゾンバルト、ロラン・バルト、ジャン・ボードリヤール、小林秀雄らようなのオリジナルを生み出してきた知のパイオニアなのではと思わざるを得ません。

南井さんの”方法”について、読むのを楽しみにしています。

無題

日本人は評価するのが下手な国民だと思います。「たくさん売れてるものは良いものだ」という、経験的事実に反する主張がまかりとおるのも、著者のキャラクター頼みで断定するだけの批評が有難がられるのも、根は同じです。こうした中で正当な批評を実践するためには、根拠をきちんと示して論理を積み上げる文章を書くしかないんじゃないでしょうか。南井さんはブログという不特定多数に向けられた媒体で、キャラに頼れない匿名でそのような文章で書くことによって、ネットのなかに批評の場を確保しようとしているのかなと思って読ませていただいています。

メディアのパラダイム転換のなかでどのようにして批評の場を確保するのかという問題について私自身は、同人誌やサークルのような顔の見える関係とネットとの結び付け方が重要になってくると思っています。(別に同人誌やってるわけじゃありませんが)

千葉雅也が何に腹を立てたのか知りませんが、自分の思い通りにならない読者に対する批判が儒教道徳もどきというのは情けないですね。

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