- 2019/05/20
- Category : 【逸脱書評】思想・宗教
『資本主義リアリズム』(堀之内出版) +『わが人生の幽霊たち』(ele-king books)マーク・フィッシャー 著/セバスチャン・ブロイ 河南 瑠莉 訳/五井 健太郎 訳
ニック・ランドと近い存在?
2018年2月に出版された本書『資本主義リアリズム』(原書は2009年刊)が、フィッシャーの著作を初めて日本語に翻訳した本だと思います。
僕が彼のことを知ったのも、書店でこの本を見つけたときになるわけですが、
驚いたことに、それより前の2017年1月にフィッシャーはすでに自殺していたのです。
2019年に『わが人生の幽霊たち──うつ病、憑在論、失われた未来』(原書は2014年刊)が続いて出版され、
彼の音楽ブログ「k–punk」を中心とした内容に触れることができるようになったのですが、
すでに著者が死んでしまっていることで、皮肉にも日本の読者にとってフィッシャーはまさに「憑在論」的な現れ方をしているように思います。
(憑在論についてはあとで触れます)
では、フィッシャーとはどんな人だったのでしょう。
フィッシャーはイングランドにあるウォーリック大学の哲学博士過程に在籍していました。
当時、ウォーリック大学には加速主義という言葉とともに最近日本でも紹介されているニック・ランドが講師をしていて、
ランドはセイディ・プラントや学生たちとサイバネティック・カルチャー・リサーチ・ユニット(CCRU)を形成していました。
CCRUにはいろいろな面々が参加していたようなのですが、
フランス現代思想系のポスト・ヒューマニティーズに共感するレイ・ブラシエやイアン・ハミルトン・グラントなどの名前もあります。
フィッシャーもこのCCRUに参加していたため、ランドの影響を受けた人物として取り上げられているのですが、
資本主義に対する態度としてはフィッシャーとランドの方向性は少し違うような印象です。
加速主義については「現代思想」2019年1月号に水嶋一憲による説明があるので引用しておきます。
加速主義を駆動している動機は、資本主義の過程を加速すること、いいかえれば、資本主義の潜勢力を十二分に引き出しながらそれを疲弊・消尽させることを通じて、資本主義を超える何かにアクセスするための道筋を開くことである。
要するに資本主義の駆動力を利用して資本主義を超える、もしくは人間を超えることを妄想する思想なのですが、
僕はこういうものを一笑に付すこともできなくなったところに、
現代思想というものが水面下で維持してきた資本主義との共犯関係を、とうとう表面化させて開き直ったように受け止めています。
〈フランス現代思想〉とりわけドゥルーズ=ガタリの思想が、日本では消費資本主義のイデオロギーとなって出版利権化したことは、僕がさんざん書いてきたことです。
そのドゥルーズ=ガタリの「脱コード化」の一面だけを強調した加速主義が、資本主義を原動力にして旧体制を解体するという思想であるのは当然だと思います。
ちなみに日本でも千葉雅也がドゥルーズ=ガタリの「脱コード化」(=切断)ばかりを強調したという点で、
ニック・ランドと近い立場にあったことを記しておく必要があります。
ランドは旧体制を破壊する力として資本主義を肯定しているため、市場原理を信奉するリバタリアンと結びついたりしているのですが、
フィッシャーの著書を読むと、彼はランドとはだいぶ異なった思想の持ち主で、ドゥルーズよりデリダやマルクスに共感する反資本主義の立場にいるように思えます。
フレドリック・ジェイムソンとスラヴォイ・ジジェクの言葉「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」を、
フィッシャーが共感をもって『資本主義リアリズム』で引用していることにも、彼の左派的傾向がよく現れています。
『資本主義リアリズム』の中でフィッシャー は、ランドの言説を「楽天的なもの」と評しています。
語り口に共感は見られますが、その考えには明確に反対しています。
すべてを美的オブジェにしてしまう資本主義
フィッシャーの著書名にもなっている「資本主義リアリズム」とはどういう意味の言葉なのでしょうか。
現実的に可能な政治的・経済的制度はただ資本主義だけしかなく、代替物など想像すらできない、
という意識が広まった状態のことだとフィッシャーは言います。
フィッシャーの述べていることを僕なりに翻訳して説明します。
資本主義は等価交換によって、全てのものをカタログ上の鑑賞物にしてしまいました。
信仰にまつわる象徴的・儀礼的次元が失われ、イデオロギー的な抽象観念からも解放された「商品」は、
人間の主観とは無関係に資本の視点であるメタ的な位置からアイロニカルに眺められる等価的な存在です。
つまり、資本主義において商品になりえるものはすべて、資本の自己増殖が求めるリアリズムによって価値づけされるものでしかありません。
フィッシャーはこの状況を、ある歴史的な文化に属していた物品が、意味を剥ぎ取られて博物館に陳列されている状態として表現しています。
資本主義リアリズムの力はある程度には、資本主義がこれまでの歴史のすべてを包摂・消費してきたその手法に起因する。宗教的偶像であれ、ポルノグラフィーであれ、あるいは『資本論』であれ、あらゆる文化的オブジェに貨幣価値を付与できる「等価体系」の作用のひとつなのだ。この作用の鮮烈なイメージを得るためには、大英博物館を歩き回り、本来の生活環境から奪いとられ、まるでプレデターの宇宙船のデッキにでも並べられたように蒐集された陳列品を眺めてみればよい。文化的実践や儀礼が単なる美学的なオブジェに変容されることによって、かつて各々の文化が信じていたものは、客観的に皮肉られながらアーティファクトと化する。資本主義リアリズムとは従って、リアリズムの特殊形というわけではなく、むしろ、リアリズムそのものに近い。(『資本主義リアリズム』)
フィッシャーの言う「資本主義リアリズム」とは、僕が「資本の視点と同一化する」という言葉で表現しているものに対応しているように思います。
資本の視点においては、すべてのものは「いくらの価値があるか」という「値踏み」の視線によって一律に眺められます。
フィッシャーが「あらゆる文化的オブジェに貨幣価値を付与できる」と言っているのはそういうことです。
彼は博物館の陳列品にたとえていますが、僕はカタログやショッピングサイトに並んだ商品映像にまで還元した方がわかりやすいと思っています。
そのものが置かれていた文脈を捨て去って、「値踏み」の視線によってのみ見るという行為が、いかにアイロニカルなものであるか注意が必要です。
僕がアイロニーという方法に文学的有効性がないと考えているのも、このことと関係しています。
そんなものはバイヤーの視線でしかないからです。
こういうカタログを見るような商業的視線を事もあろうに文学の世界で発揮しようとする凡庸な人が日本には少なくありません。
たとえば、中国の漢詩を本来の政治的・文学的文脈とは無関係な美的オブジェのように扱っている小津夜景という俳人(?)がいます。
彼女にとって漢詩がオシャレなインテリアのような美的鑑賞物に見えるのは、
それが資本主義リアリズムによる「値踏み」の視線によって、単なる美的オブジェ(つまりは商品)にされてしまっているからです。
この人がカタログで買い物をするセレブおばさんの視点でものを書いていることは、僕がすでに指摘していることなのですが、
(こういう指摘を「人格否定」だとか言った頭の悪い人もいましたね)
この人の近くにアイロニー以外に中身のない俳人がいたりするのは、
彼らがただ「資本主義リアリズム」に対して批判的視座を持たないバブル世代の体制的かつ凡庸な人たちだからです。
こういう体制的な精神の持ち主が芸術的かつ前衛的なフリをしたがるのが、大いなる勘違いであり不愉快だということを言っておきたいと思います。
資本主義においては、売買の対象となる商品として存在したものは、すべてリアルなものになります。
逆に売り物にならない価値、たとえば子供の頃から一緒に寝ているぬいぐるみが与える大いなる安心感などは一顧だにされず、
単なる中古ぬいぐるみとしての市場価値しか認知されません。
それこそが資本主義にとってリアルな世界なのであり、そういう資本主義的なリアルさしかない世界が「資本主義リアリズム」と呼ばれているのです。
未来なき世界
「未来が挫折する」というポストモダン文化の特徴をフレドリック・ジェイムソンが主張しているのですが、
フィッシャーはジェイムソンのこの指摘を非常に重視しています。
ポストモダン的な消費文化で模倣作とリバイバル主義が支配的になっていることは、勘のいい人ならすでにお気づきかもしれませんが、
フィッシャーはこの現象が資本主義リアリズムによって引き起こされたものだと主張しています。
フィッシャーは『資本主義リアリズム』の中で、
革新性なき音楽シーンの膠着状態に対して戦いを挑んだ存在として、ニルヴァーナのカート・コバーンを挙げています。
コバーン亡き後、ロック的なユートピア幻想は挫折し、搾取や差別という社会のリアルを示すヒップホップの陰に退いていったと彼は言います。
そうして社会の冷酷さに対する「リアリティ」が見られるだけになったのです。
『わが人生の幽霊たち』という本は、ブログ「k-punk」も含めたフィッシャーの音楽記事を中心として収録しているのですが、
90年代のUK音楽シーン、とりわけレイヴ・カルチャーについて扱われているため、
登場するアーティストも僕にとっては馴染みのない人が多くて、内容はあまりついていけませんでした。
ネット時代は便利なもので、すぐにYou Tubeで音源を聴くことができるので、
取り上げられているジョイ・ディヴィジョンを聴いたりしてみたのですが、その後のUKロックの系譜には思いを馳せたものの、当時のインパクトなどは想像することは難しかったです。
しかし最初の「緩やかな未来の消去」という論考は面白く読むことができました。
文化には未来が失われているという彼の主張が、わかりやすく書かれていたように思います。
フィッシャーはポピュラー・ミュージックの変遷を例にしています。
1960年代から90年代にかけてのスタイルの劇的な変化を考えると、その後から21世紀にかけては進歩の印象は乏しく、
過去と現在の区別が崩壊した「奇妙な同時性」があるだけになりました。
それをフィッシャーは、はるか昔に確立されたスタイルへの信頼という「形式的なノスタルジー」の感覚に支配されている、と表現しています。
このことを説明するのに、フィッシャーは2005年のアークティック・モンキーズの「I Bet You Look Good On The Dancefloor」のMVを例に出しています。
フィッシャーはMVを見たときに、これが1980年ごろに製作されたものだと「本気でそう信じた」と言います。
MVに登場するすべてが80年当時のものと言われても全く違和感がないのです。
このように自覚的に演じられたアナクロニズムには、なにかしら「時間を超越した」落ち着かないものがある、とフィッシャーは言います。
この現象をフィッシャーはフレドリック・ジェイムソンの「ノスタルジー・モード」という用語で説明します。
ノスタルジー・モードとは、心理学的なノスタルジーではなく、「過去の技法や定石にたいする形式的な傾倒」として現れるものです。
この語においてジェイムソンが指摘する欲望は、古い形式に対する憧れです。
古い形式の反復でしかないものが、テクノロジーによって新しいもののように「偽装」されるのです。
未来を窺わせる新しさを過去の反復で代用すると、実際には未来が奪われているのに、「未来の不在」がうまく隠蔽されてしまうのです。
ジェイムソンが挙げた例には映画『スター・ウォーズ』があります。
『スター・ウォーズ』は時代遅れの冒険物語の形式を最新のテクノロジーによって新しく見せたもので、内容に新しさはないとするのです。
最新のテクノロジーによって新しさが「偽装」されているだけで、実際は歴史を脱ぎ捨てた古い形式をくり返すポストモダンのあり方を、
ジェイムソンはノスタルジー・モードと呼んだのです。
そこにフィッシャーは「緩やかな未来の消去」を見ています。
ノスタルジックに過去の形式をくり返すだけの資本主義リアリズムの中で、未来はすでに死に絶えています。
最新のテクノロジーがそのような未来の不在を隠蔽しているのです。
量的な支持を求める消費資本主義
消費資本主義でノスタルジー・モードがどうしてこんなにも広がってしまうのか、その理由をジェイムソンは明確にしていないようです。
その代わりに、フィッシャーがその理由を考察しています。
ひとつは後期資本主義があまりに流動性に富んだ不安定なものであるため、
その埋め合わせとして文化には慣れ親しんだもの、不動のものが求められたのではないか、というもの。
もうひとつはアーティストが文化的な生産に没頭するための金銭的、時間的な余裕が失われたことを挙げています。
それに加えて、次のことを問題にしています。
だがおそらく、そうしたものが最終的危機的状況へと至ったのは、デジタル・コミュニケーション資本主義の到来とともにであろう。(中略)新しいものを生みだすことは、ある種の撤退──に関係する事柄なわけだが、目下支配的なものとなっているソーシャル・ネットワーク的なサイバースペースは、ミクロな接触のための無際限な機会によって、あるいはユーチューブのリンクの洪水によって、そうした撤退をかつてないほど困難なものとしている。(『わが人生の幽霊たち』)
アーティストには社会的な「撤退」が必要だというフィッシャーの考えには僕も同意します。
「撤退」とは現代社会の価値観に内在することなく、そこから距離をとることを言っているのですが、もっと厳しく言うならば、
アーティストはメディアによって作品を流通させることに労をかけるべきではない、ということです。
いい作品を創作するためにかけるべき時間を、作品流通のための下働き(売文、宣伝、人脈作り)に費やすのは問題外です。
(僕は20年以上自分の書いたものを社会に出さないできたので、そう言う権利があると思っています)
フィッシャーは資本主義が文化をビジネスとして扱うことについてはなぜか踏み込まないのですが、問題の本質はそこにあるとしか僕には思えないのです。
ここからは少し僕自身の考察を書いてみることにします。
消費資本主義では「多くの人に買わせる」つまりは「売れる」ことが最大目的となります。
多くの人の支持を受けるものを作ってヒットさせることが、商売で成功するために必要だからです。
そうなると、「売れる商品」であるためには、多くの人がその価値を実感できなくてはなりません。
実用的なものであればそこまで問題はないのですが、クリエイティヴな文化においては確実に弊害が出てきます。
本気で「新しい」ものを提示しても、現在の社会に属す多数の人の感覚に訴えることは不可能であるからです。
それよりは、新しくは見えるけれど、どこかで見たことがあるノスタルジックな様式である方が、
受け手がすでに扱い方を知っているため、敷居が低くなり、多くの受け手に共感を持たれやすくなるのです。
このように時代遅れのものを新しいかのように「偽装」することについては、
今の日本の状況にもよく当てはまるように思います。
政治の季節が終わって80年代の消費の季節に入ると、文化は大きな停滞感に支配されるようになりました。
日本の現代思想というジャンルは、いつまでたっても「68年の思想」と言われるドゥルーズ、フーコー、デリダ、ラカンあたりのポストモダン思想を扱うばかりです。
文学もサブカル化した村上春樹を出版マスコミが大家として祭りあげたため、それ以後はサブカル的な反リアリズム小説ばかりが書店に並んでいます。
俳句の若手も今さらサブカル化した句を作り、それが新しい流れであるかのように受け止められています。
アイドル業界もいまだ秋元康という「80年代の遺物」に頼り続けていますし、
ゲームも映画もドラマもシリーズ化されてバージョンを加えていくばかりです。
今の日本のアニメは『新世紀エヴァンゲリオン』の影響下に強く置かれているのですが、
制作の中心にいた庵野秀明は『シン・ゴジラ』など実写(特撮)の方面で活躍し、アニメから離脱していこうとしていることです。
その穴を埋めるかのように、『エヴァ』に強い影響を受けた新海誠が薄味のコラージュアニメで活躍している有様です。
『シン・ゴジラ』は実写ではありますが、内容は『エヴァ』からそれほど進歩しているようには感じません。
庵野は意図的に「萌え」の要素から逃れたくて実写をやっているのかもしれませんが、
それと原発に対するわずかな批評性が加わっただけで、政府や国際関係の描き方にはリアリティが乏しく、オタク的感覚の人の映画という域を出ていないと感じました。
しかし、彼らは例外なく「売れている」のです。
ハッキリ言えば、今の時代に「売れる」ためには、現在の消費社会とは異なる価値を強く押し出してはいけないのです。
ファッション業界が果てしないリバイバルを仕掛け続けているように、すでに見たことがあるものしか、市場には必要ではないのです。
なぜなら、そんな新しいものは多数の人に「関係がない」からなのです。
「わからない」だけなら、一部の鋭い人がそれを理解して、その人たちが騒げば感覚の鈍い人も後追いをしてきます。
しかし、消費資本主義の世界に満足し、オルタナティヴな世界も期待していない人にとって、
この世界に位置を持たない価値を表現したものなど、人生に「関係ない」ものでしかありません。
売れているもの、多数から評価されているものはすばらしい、と作品の価値判断を量的なものに委ねて疑わない人は多いでしょうが、
流通して間もなく多数が価値を認識できるものが、本当に新しいものなのでしょうか。
創作というものの存在意義を考えれば、これまでになかったもの(もしくは長らく忘れられているもの)を生み出すのが本当です。
しかし、現代では「創作」をしたいのではなく、何らかの表現によって自らを売り出したい欲望があるだけです。
芥川賞作家が小説ではなくテレビに出ることで自分を売り出したがったり、
自称哲学者が雑文で自分を売り出したがっても、
特に幻滅されることもなく、一定の支持者を獲得してしまうのは、
人々が「創作」を求めなくなり、ただ自分を売り出すための「表現」に成功した人間への暗い憧れを抱いているからなのです。
商業的成功を求めるならば、受け手が理解に苦しむことがない既視感のあるものを、
ファッション的な変化やテクノロジー的な進歩によってアレンジして、新しさを「偽装」するのが効果的です。
商業ランキング以外に価値観を持たないマスコミが、そういう凡庸なものにしか反応を示さなくなったため、
もはやそれが「偽装」された価値であることすら気づけない人間ばかりになってしまいました。
これが常態化すると、いろいろな人の気を引く要素を寄せ集めてコラージュすれば多数にウケるという発想になり、
どこかで見たものが寄せ集められている『君の名は。』のような大ヒット作が名作として扱われてしまうのです。
表面的な反資本主義は資本主義を強化する
実際にはジジェクの指摘に端を発しているのですが、『資本主義リアリズム』を読んで重要だと思ったことは、
資本主義においては反資本主義的な言説も体制強化に貢献するという指摘です。
社会主義崩壊以後に顕著になったのは、反資本主義や資本主義のオルタナティヴの「可能性」が頻繁に語られるわりに、
そのような言説が実際には資本主義を後押しすることに役立っているという事態です。
日本でバブル期のマーケティング思想として繁栄した〈フランス現代思想〉を用いて資本主義批判を口にするのはこの典型でしかありません。
(ちなみにジジェクは〈フランス現代思想〉の軸にあるスピノザ思想には、後期資本主義のイデオロギーと一致する部分があると主張しています)
本質的に資本主義の価値観に属しているのに、口では資本主義批判をしてみせる、
そういう「魂なき資本主義批判」に僕は心底ウンザリしているのですが、このことをちゃんと指摘できている日本人は見た記憶がありません。
徹底的にオタク的価値観に根ざした作品でありながら、現実社会への回帰を訴えてみせる作品も同様です。
たしかに表面的な反資本主義的言説に共感することは、自己や社会への疑問を感じないよりはマシではあるのですが、
そこには体制への不満をガス抜きする要素しかなく、社会変革へのエネルギーを生み出す気配はほとんどありません。
このことについてフィッシャーは次のように書いています。
事実、資本主義リアリズムにおいて一種の反・資本主義は決して予め除外されるわけではないのだ。なにしろ、ジジェクの挑発的な指摘によれば、反・資本主義は資本主義リアリズムの内部で広く散布している。ハリウッド映画の悪役を演じるのがたびたび「悪の企業」であるように。しかし、このような身振りとしての反・資本主義は、資本主義リアリズムに打撃を与えるというよりも、実はそれを補強してしまうのだ。(『資本主義リアリズム』)
フィッシャーはこの構造について、資本主義におけるイデオロギーの役割について、ジジェクを引用しながら説明をするのですが、
非常にあっさりとした記述でわかりにくいので、僕なりに了解した解釈を書いておきます。
資本主義は「資本主義は最高だ」という明示的なプロパガンダを必要としません。
なぜなら、資本は人間の主観的信念とは無関係に機能するものだからです。
そのため、私たちは心の底では「資本に対して自分は主体的に関与していない」と思っています。
多くの人が心の中ではどこか金儲けを軽蔑しながら、「しぶしぶと」金儲けに身を捧げているのです。
「貨幣なんて本当はたいして価値がないのだ」という、貨幣価値に対するアイロニーを心の中では誰もが持っています。
(僕が消費資本主義においてアイロニーという表現形態が凡庸だと断言するのはこのような理由です)
私たちは日常的に、貨幣には本質的な価値はなく、ただの代用品だと頭では了解しつつ、貨幣自体に高い価値があるかのように「ふるまっている」のです。
そこでは「ふるまっている」という事実だけが問題になるのです。
頭で考えた反資本主義をどんなに表明したところで、
資本の論理に従うかのごとく「ふるまっている」かぎりは、資本にとって敵とは見なされるはずもないのです。
そういう口先だけで反体制やオルタナティヴを語る詐欺師が、僕のように「ふるまい」の上でも言説による商業的な活動を禁じている人間を恐れるのは当然かもしれません。
(そして、そういう人間が窮すると体制的・資本的な暴力を用いるのもまた必然と言えるでしょう)
真の政治的主体を取り戻すとはまず、欲望のレベルにおいて資本という容赦なき肉挽きマシンによって翻弄されている私たちの関与のあり方を認めることから始まる。悪や無知を幻影的な「他者」へと振り払うことで否認されるのは、私たち自身の、地球規模にわたる圧制のネットワークへの加担である。(『資本主義リアリズム』)
資本主義という「圧政のネットワーク」に自分自身が加担していることを認めろ、とフィッシャーは言います。
それは正論ではあるのですが、その「圧政のネットワーク」の中で私たちの日々の生活が営まれていることもまた事実です。
生活維持のために不本意な仕事をしている場合もあるでしょう。
そこで自己正当化をしたくなるのが人間というものなので、なかなか酷な注文にも思えます。
しかし、政治的な「主体」というものが反資本主義の足がかりとして欠かせないことを考えると、
自分にとって不都合なことを認識するのはもちろん、
メタ化による主体批判や主体抹消を促すものには、疑いの目を向ける必要があるのではないでしょうか。
憑在論とは何か?
資本主義リアリズムの猛威によって、資本主義以外には選択肢がない、というあきらめの境地に達してしまったイギリスの若者は、
政治的に無関心になり、「鬱病的快楽主義」に陥っているとフィッシャー は述べています。
(他に任せられる人がいない、として安倍首相を支持する日本の政治状況と似ているのは偶然でしょうか)
通常、鬱病は非快楽の状態が特徴とされますが、「鬱病的快楽主義」とフィッシャーが呼ぶものは、
快楽を求めることしかできない状態──何らかの欠如感を快楽充足においてしか解決できない状態を言っています。
これは藤田省三が主張した〈日本安楽主義〉にも通じるものに思えます。
『わが人生の幽霊たち』においてフィッシャーは、「憑在論的なメランコリー」を資本主義リアリズムに対抗するものと考えています。
「憑在論」という用語は、デリダが『マルクスの亡霊たち』(1993年)の中で用いたものです。
フィッシャーによる説明を引用してみます。
憑在論は、痕跡や差延といった先立つ概念の後継となるものであり、そうした初期の概念同様、その概念のなかでは、どのようなものであれ純粋に実定的な実在を享受することはない。あらゆるものは、それに先立ち、それを囲んでいる、一連の不在の総体という基礎においてのみ実在することが可能となっている。実在するあらゆるものは、こうした一連の不在の総体があればこそ、一貫性や理解可能性をもつことができているのである。(『わが人生の幽霊たち』)
憑在論とは「潜勢的なものの働き」であって、「実在しないままに作用するなにか」だとフィッシャーは考えています。
「一連の不在の総体」という言葉だけを取り上げるなら、戦死した兵士を総体化することにも当てはまるように思えて、
取り扱いに細心の注意が必要に思えるのですが、
おそらくデリダの頭にも死者たちへの思いがあったのではないかと思います。
(そういえばデリダ研究者の高橋哲哉が『靖国問題』という本を書いていました。
読んでいないので憑在論が影響しているのかはわからないのですが)
それをフィッシャーはエレクトロニクス・ミュージックなどの音楽文化の世界において考えようとしています。
フィッシャーは実在性を失った音楽の「録音」に、現前性との差異を見出そうとします。
LPレコードが発するクラックル・ノイズが「蝶番からはずれた時間」に触れていることを意識させ、
現在という幻想の中に陥ることを許さない、ということを彼は例として挙げています。
配信されたデジタル音源を聴いていると録音物という意識すら失われていくのですが、
フィッシャーはLPやCDによって物質化された記憶が、幽霊となって何度も訪れることを強調します。
重要なことは、ここでデリダの音声中心主義批判が享受の同時性批判へと発展していることです。
たとえエクリチュールであろうと、書き手と読み手に同時性が寄与していれば、それはデリダが批判したものでしかないのですが、
日本では同時性批判の視点を発展させることが全くできていません。
それどころかインターネットの同時性に依存した東浩紀が、日本で一番有名なデリダ論者であったりするのですから、
日本のデリダ読解のレベルにはあきれるほかありません。
フィッシャーは音楽における憑在論が、先鋭的なモダニズムと深い関係にあったポピュラー・モダニズムという希望が、
完全に消え失せてしまうことへの拒絶を示していると言います。
もはや実在しなくなった左派的なオルタナティヴが、実在の基礎となる不在の幽霊となり、
それが音楽文化を通してくり返し実在に働きかけることで、資本主義リアリズムを揺さぶり続けるのです。
これをフィッシャーは「憑在論的なメランコリー」と言っています。
このような彼の論の展開で非常にわかりにくいのは、
資本主義リアリズムの特徴であるノスタルジー・モードに対抗するものとして、フィッシャーがメランコリーを持ち出していることです。
どちらも過去志向を伴うという点ではあまり変わりがないように思えてしまうので、そこに注意が必要なのですが、
その点の説明はフィッシャーの著書でも明晰とはいいにくいところがあります。
現在を到達点として絶対化するノスタルジー
メランコリーとは「憂鬱」のことで、フィッシャーの自殺の原因と思われる鬱病にも関わるものですが、
フロイトによれば、メランコリーは愛する対象が失われてしまったのに、対象への愛だけは失われずにいる状態です。
そのため自我を失われた対象と同一化してしまおうとすることもあります。
そこでは現実への興味が失われ、行動が抑制され、自我が退行します。
一方、ノスタルジー(ノスタルジア)についてはウィキペディアでこう説明されています。
人が現在いるところから、時間的に遡って過去の特定の時期、あるいは空間的に離れた場所を想像し、その特定の時間や空間を対象として、「懐かしい」という感情で価値づけることをいう。
両者の区別において本質的なのは、現在と過去のどちらに主導権があるかということです。
メランコリーが失われた対象への接近によって、現在が過去へと飲み込まれるかのようであるのに対し、
ノスタルジーは現在という確固とした基盤の上で、接近することのない「隔たり」をもって過去を懐かしむのです。
メランコリーが現在の喪失に力点があるとすれば、ノスタルジーは現在という拠点を手放さないのです。
この違いが、メランコリーに見られる自殺の危機がノスタルジーに見られないことの原因だと僕は思います。
そして、ノスタルジーがいかに自らの身体が固定されたまま遠くに接続するインターネットというメディアと親和的であるかもよくわかるのではないでしょうか。
ジェイムソンの言うノスタルジー・モードが現在の資本主義体制を強化する仕組みについては、
現在の状態を基盤化するノスタルジーの性質について考えないと理解が難しくなります。
現在を最大の到達点と考える現在至上主義が蔓延すると、そこから先の未来には関心がなくなるので、
到達点である現在から過去を懐かしむノスタルジーしか存在しなくなります。
これは僕個人の考えですが、このような発想は人間を進化の頂点に置いて、そこから生物の進化系統図を描く進化論の発想と重なってくるように思います。
後期資本主義のイデオロギーが社会ダーウィニズムという進化論的発想と結びつくのは、自らが到達点にあるというメタ的な視点の絶対化にあるように思えるのです。
本来、健全な資本主義は到達点を先送りするシステムです。
現在は未来によって必然的に乗り越えられるため、現在はいつも暫定的なものでしかなく確固とした基盤にはなりえません。
ポストモダン的な相対性やパラダイム的な歴史認識は、このような健全な資本主義システムによって成立していました。
だから、『鉄腕アトム』や『ドラえもん』の描く未来は現在の影がほとんど残っていない世界でした。
しかし、そのような前提とされていた生活面での進歩が期待できなくなり、ただ資本が資本を増殖するために人間を搾取するだけの未来が明らかになると、
むしろ未来はディストピアとしてしか描かれなくなり、現在に引きこもることが賢明であるかのようになりました。
僕は社会が資本の蓄積において合理的であるような方向を目指すのではなく、人間の生活において豊かであるような方向を目指すべきだと思っています。
しかし、今や非経済的な人間の豊かさと結びついていた文学や思想が、資本主義の犬のような連中の食い物にされるようになってしまいました。
僕はそんな社会から「撤退」することを選んだのですが、ある時から幽霊のように彼らを脅かす存在である必要を感じてレビューを書いてきました。
資本増殖に最適化した社会は決して到達点ではなく、もっと別の「本来あるべき人間のための社会」があるという信念を持っています。
僕は音楽文化にそのような余韻を感じ取ることは残念ながらできないのですが、
フィッシャーの憑在論的なメランコリーに同様の信念があることを感じることはできます。
実はフィッシャーの憑在論は過去へと向かっているわけではありません。
彼はこう述べています。
われわれがみずからに取り憑かせるべきものは、現実に実在していた社会民主主義というもはやないものなどではなく、ポピュラー・モダニズムが期待させつつ、しかしいまだ一度も実現されてはいない未来のなかにある、いまだないものである。こうした亡霊たち、失われた未来の亡霊たちは、資本主義リアリズム的な世界が生みだす形式的なノスタルジーをたえず非難する。(『わが人生の幽霊たち』)
フィッシャーは資本主義リアリズムによって失われた未来を、憑在論によって実在しないかたちで生き続けさせ、ノスタルジー・モードを攻撃させることを企てているのです。
ただ、僕はメランコリーという体制批判の潜勢力の重要性については同意を惜しみませんが、メランコリーによる現体制への反撃という思想にはそれほど共感することはできません。
実在を果たせなかった未生のものが、実在から脱落したものと同じようにメランコリーの対象になりうるとしたら、
それはその未生の夢が強く実在性を持ってその人に印象づけられていたからではないかと思います。
その意味で、フィッシャーの議論はある世代以上の人にしか響かない面を持っているように思います。
つまり、フィッシャーの思想自体がノスタルジーの対象に堕してしまう危険があるのです。
(僕は彼の本を読みながらずっとそのことが頭から離れませんでした)
さらに言えば憑在論が前提とする「一連の不在の総体」にも、安直な現前化への回路を引き寄せる懸念が消えません。
フィッシャーが言うようにメランコリーによって奪われた未来が反復的に訪れたとしても、
それを取り上げて現実変革の力へ変えるには、また別の力が必要になると思います。
憑在論的なメランコリーからフィッシャーが自分の未来を消去する結果になったことも無視することはできません。
とりあえずは彼の思考に深入りしすぎず、資本主義リアリズムに対する考察について参考にしていくのがいいように思いました。
最後に僕は彼がこのように書いている一文に力づけられたことを書いておこうと思います。
ブログには、サイバースペースの外にある社会領域に関連性を持たない、新たな言説のネットワークを生み出す可能性がある。従来型メディアがますますPRの支配下におかれ、そして消費者情報が批評的エッセイを押し退けていくなかで、サイバースペースの特定の領域では、それ以外の場では情けないほどまん延している「批評性の圧迫」に対して抵抗の場が提供されるのだ。(『資本主義リアリズム』)
ここでフィッシャーが語っていることは、僕が普段から言っていることとほとんど変わりがありません。
なるほど僕の書いたAmazonレビューは「消費者情報」として不適切な「批評的エッセイ」だったので全消去されたのだとわかりました。
その全消去を促した通報者が、最近になって資本主義批判を口にしはじめたことでも、日本における資本主義リアリズムがアカデミズムの領域にまで浸透していることがよくわかると思います。
フィッシャーのおかげで、このブログを「批評性の圧迫」に対する抵抗の場にしていかなければならないと決意を新たにしました。
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11 Comment
無題
- 南海さん
- (2019/05/26 22:50)
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「社会の抑圧を回避する自我モデル」というのは興味深いですね。一般的には「近代的自我の未確立」として処理されそうな現象を、特異な自我モデルとして捉え直すという感じでしょうか。この場合の「社会」の内実も問題になる気がします(「社会」が会社や業界といった狭い世間のレベルに留まっているのではないか)。
南海さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2019/05/25 23:41)
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私小説による「日本近代文学的なもの」を僕が問題視していることについて、
ここに書いてみようとしたのですが、
やってみると複雑で、記事として書いた方がいいと思い至りました。
気が進まない仕事ですが、いつかやらなければと思っています。
軽く触れてみると、
日本の近代的自我は、社会と葛藤しながら自己の有り様を探りつつ、経験的に獲得されるものではなく、
社会が用意したロールモデルに進んで従うことによって、社会との葛藤を避けていくものだと僕は思っています。
煎じ詰めれば社会の抑圧を回避する自我モデルであり、不利な状況になるとその逃避的な本質が露出するのです。
それが国際社会(西洋列強)の圧力から逃避し、国際連盟から脱退し、
勝てもしない戦争に多くの国民が「同一化」する結果を導く一因になったのではないでしょうか。
社会や主体からの逃避を肯定する〈フランス現代思想〉が、日本的な近代自我と結びつくのはそういう理由だと僕は考えています。
無題
- 南海さん
- (2019/05/24 12:29)
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思想や学問としての実質が無く、思想や学問を追究する「自分」の演出だけが過剰にあるというのは、言われてみればまさに私小説ですね。東浩紀は典型的です。そういう書き手はフランス現代思想以外の分野にもちらばっていて、実質の有無を判定できない未熟な読者が引っ掛かってしまうのだと思います。私も十代の頃いくらか時間を無駄にしました。学習したおかげで千葉雅也の本は最初の数行でパスできましたが笑
80年代アタマで終わったはずの日本近代文学的なものが、思想や学問の分野に逃げ込んでみっともない姿をさらしつつ延命し、商業的には成功してきたというのが、平成の日本ということでしょうか。みんなどんだけ私小説が好きなんだ笑
クロさんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2019/05/24 10:22)
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クロさん、コメントありがとうございます。
ネットで読むことを前提とした批評文にするために、意図的に知的なレトリックを犠牲にしてきたので、
筆力とか言っていただけるのはありがたいことです。
クロさんの千葉雅也に対する分析が的確で驚きました。
僕は〈俗流フランス現代思想〉が日本近代文学の系譜の上にあると主張しています。
(その堕落の系譜をいつか論考にしたいと思っているのですが)
その意味で千葉が「私小説家のようなタイプ」というクロさんの考察は、我が意を得たりという気持ちになりました。
ダメ男の自意識がメディアで容認されて多くの男の癒しになる、という図式は、私小説作家的だといえば説明しやすいですね。
千葉が文学的素養もないのに文学の領域に顔を出したがるのも、自分のルーツを本能的に察しているからでしょう。
正直に言って、僕はこういう「日本近代文学的なもの」には心底飽き飽きしています。
「売れ筋」への依存もそうなのですが、もはや勝負する気力がない、というのもノスタルジー・モードの原因と言えるでしょう。
受験エリートは失点を恐れて、すでに用意された解答を選んできた人種です。
彼らは正解がどこかにあって、それをたどる作業しかしたことがないので、先行する権威なくして生きられません。
クリエイティヴな分野で日本が競争に負け続けるのは当然だと思います。
西洋のものを後から追いかければアジアで勝てる、という時代はとっくに終わっているのですが、
日本人は過去の成功体験に固執し続ける人たちなんですよね。
あと、目についた本を乱読するのは重要だと思いますよ。
ブログで扱うものはさすがに選びますが、読むだけなら僕もかなりいろいろ手を出しています。
ある程度カオスな読書はオタク化を避ける力になるので続けていただくのが良いと思います。
無題
- クロさん
- (2019/05/24 08:09)
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アカデミシャンを除いたら、率直に言って、これだけの実力を持った書き手は、片手に収めるすれば南井さんの他には読書猿さんぐらいしか知りません。
ヒエラルキー的に言うと他の書き手は(僕の中では)ヨリ下のレベルに位置付けられます。
千葉雅也氏について南井さんは、散々、彼の思想の浅さを指摘されていましたね。
「大した業績もないのにスター扱い」されていること、資本主義を批判しているようでその中に飼い慣らされているお粗末さ、そして他を排斥してまで守り抜こうとする強烈な自己愛。
もちろん、人間性はその能力を担保してくれはしないのですが、彼は自分語りが学術的業績とイコールで結ばれるまるで私小説家のようなタイプ。それだけで彼の学術的な評価に結びつくのも宜なるかなです。
今回の論考読ませていただいて、消費資本主義についてよく理解することができました。いつの間にか誕生していた新思潮についても。
>「多くの人に買わせる」つまりは「売れる」ことが最大目的
だとするならば、「売り方」「魅せ方」を駆使してステレオタイプなモノを量産しているだけ…なのでしょうか。
サブカルの例が出ていましたが、00年代の作品をリバイバルしているのもつまるところ「売れ筋」に依存しているからなのですね。
南井さんを見習って、図書館で目を引いたものを片っ端から読んでいうという読み方から脱却したいです。
皆様のコメントへの返答
- 南井三鷹さん
- (2019/05/23 22:42)
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洛書さん、心作さん、南海さん、コメントありがとうございます。
どうやら洛書さんは批判的なことを言って相手の気を惹きたい人のようですね。
千葉と対決するなら、千葉の著書は日本語ですからフランス語は必要ないと思いますが(笑)
心作さん、自分も鬱病的快楽主義に当てはまると疑うことは大切だと思います。
実際にそれを逃れるのは難しいことです。
フィッシャーもまずは自覚をもとめていますよね。
南海さん、フィッシャーの著作をすでにお読みでしたか。
たしかにフィッシャーには知識人の高みからモノを言う姿勢は感じませんね。
「群像」とか、もう何年も読んでいません。
新人賞は実質まだ非商業的文筆活動だからいいですけど、出版社に飼われればすぐ堕落するのではないかと心配です。
無題
- 南海さん
- (2019/05/23 21:58)
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私も3月にこの本を読んで、イギリスの状況が平成の日本と重なってあまりにリアルなのに驚きました。個人的にはフィッシャーが教師として学生に接するなかで考えたことを書いている部分や、学校での不合理な労働のあり方に対する闘争を呼びかける部分が興味深かったです。知識人としての妙な高みから物を言うのではなく、自分が働きかける確かなフィールドを持っている人の強み、みたいなものでしょうか。
まったく別の話で恐縮ですが、今回の群像新人賞は小説も評論も興味深かったです。南井さんは大手出版社に批判的なようなので読まれていないかもしれませんが、文学もひとつの潮目かなあという気がします。
無題
- 名乗る程の者ではないさん
- (2019/05/23 17:51)
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オリジナル
でも、それほど、千葉さんの作業が劣悪だと主張されるなら、なぜ、あなたは、フランスの思想を、フランス語のオリジナルで取り組んで、千葉さんと対決されないのですか。
わたしは、千葉さんと対決するつもりはないですが、ベルクソンも、フーコーも、ちゃんと、フランス語のオリジナルに取り組んでいます。いずれは、クロード・ベルナールもフランス語のオリジナルで読み通すつもりです。
フランス語のオリジナルに取り組む立場の者として、私は、千葉さんを、それほど劣悪な研究者だとは思っていません。あなた様の千葉さんについて意見を同じくする仲間の中で、千葉さんの著作について本格的に批判的に取り組んだ人が何人いるのですか。
ご気分をひどく害されたと思いますが、世の中には、こういう意見の持ち主もおります。このコメントを、表示したくなかったら、表示していただかないで結構です。
花田心作さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2019/05/22 09:42)
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心作さん、ニュー・オーダーの情報をありがとうございます。
フィッシャーはクラフトワークを高く評価していましたよ。
ジョイ・ディヴィジョンの「UNKNOWN PLEASURES」は陰鬱なアルバムでしたが、世界観が完成されてました。
「Closer」はそれに比べて聴きやすくはありますが、散漫な感じを受けました。
「ブルーマンデー」も聴いてみようと思います。
デリダやラカンは一読しておいてもいいですよね。
ドゥルーズ=ガタリは読むだけムダだと思いますが。
無題
- 名乗る程の者ではないさん
- (2019/05/20 21:56)
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