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なぜ日本でポストモダンは「保守」になったのか【中編】

『動物化するポストモダン』を読み直す

2000年を過ぎて、現代思想は「ポストモダン」となり、左翼的な批判思想から同質性に依拠する保守的なオタクの消費物へと変化しました。
支配的なシステムを擾乱する思想が、サブカル領域へと移行して、システムを保守する思想になってしまいました。
このような保守化の流れを確認するために、いま一度東浩紀の『動物化するポストモダン』を丁寧に読み直してみようと思います。


『動物化するポストモダン』で東が描いたオタク像は、体裁上は客観的立場からの分析のように書かれていますが、
取り上げるアニメやゲームの作品やキャラクターの選択などに、あきらかに東自身の趣味的なバイアスが露骨に出ています。
自分の感覚をそのまま持ち込んでオタク分析をしているということは、東自身がオタクだということです。
彼の趣味をよく知る人なら誰も反論しないと思いますが、僕は東がオタクであるという前提で話を進めます。
重要なのは、この本が学問的手法による客観的な「ポストモダン(=オタク)」分析ではないということです。
東浩紀というオタクによる「自分語り」であり、つまるところ社会的承認の獲得を目的としています。
東が哲学を捨てて、オタクという社会現象を語るようになったのは、
学問的達成より自己の趣味嗜好の理解を求める態度だったのですが、
これから『動物化するポストモダン』を詳しく読み直すことで、そのことが納得できると思います。


その前に確認しておくべきことがあります。
趣味で承認を求める東のサブカル的転回は、80年代以降の落ちぶれた近代文学の系譜に位置づけられるべきものです。
現代の文学シーンを知る人ならわかるでしょうが、村上春樹以来、日本の文学は「自分の趣味で満たされた世界観を描きたい」という書き手の欲望によって駆動されています。
経済的成功によって満たされた社会では、社会そのものが関心の対象にならず、私的な趣味と「傷つきやすさ」ばかりがクローズアップされるようになりました。
そのため、文学は精神的な葛藤や成長を描かず、「傷つきやすい私のための趣味的な世界」を作り上げるだけになりました。
この不条理な世界をどう生きるか、ではなく、傷つかない世界を消費によって体験できるよ、という「テーマパーク化」が文学の正しい道になりました。
本物のテーマパークと比べると見劣りしますが、手軽なことと、他の客と出くわさないことが利点です。
「ポストモダン」文学は、そんな逃避的な精神を出版ジャーナリズムという「業界」が守るヽヽことで成立しています。
村上春樹を見てもわかるとおり、「業界」に守られた作家の精神にはほとんど成長が見られず、いつまでも趣味的な消費世界の中に引きこもっています。
(政治的な問題意識のある作家と見られたくて、村上春樹が安全な場所からメタファーで逃げ腰の政治的発言をしたことを、僕は心底から軽蔑しています)
つまり今の文学シーンの内実は、出版社が作家の生み出す「テーマパーク的世界(=消費プラットフォームの世界)」を売っているだけなのです。


「ポストモダン思想」の趣味的な展開も、出版ジャーナリズムに守られているために同様の結果をたどりました。
秋葉原というテーマパークに生息するオタクを、「ポストモダン」として盛り上げることが、オタクの購買力をあてにするメディア業界(さらには国家)に歓迎されました。
東が文学賞の選考委員だったことが、オタクの消費環境(消費プラットフォーム)依存の方向性と文学シーンの欲望とが重なっていたことを示しています。
(東のサブカル転向を「文学批判」だと書いた佐々木敦には、批評センスがからっきしありません)
「ポストモダン」思想が下火になって、その関係者が主に文芸誌で仕事をするようになっているのは、商業文学の場なら思想的内実のない趣味的な世界を描くだけで通用するからです。
ゲイとしての自分の社会承認を求める千葉雅也が、自らを切り売りする私小説作家でしかなくなっているのは、
「ポストモダン思想」の正体が思想ではなく、堕落した近代文学でしかなかったことの証明です。


ちなみに東には『テーマパーク化する地球』(2019年)という著書があります。
どうやらテーマパーク化がゆゆしき問題であるという認識はあるようなのですが、
自分がそれに乗っかって商売をしていることには無頓着です。
これは「ポストモダン」的傾向と言えるのですが、
東や千葉、それに斎藤幸平もそうですが、出版ジャーナリズムで人気の書き手は、
いかにもインテリ的もしくは左翼的な態度でメタ的に現状分析をしているのですが、
その問題意識を自分自身の大衆的かつ保守的な振る舞いにはちっとも適用しないのです。
つまり、ポーズだけはインテリ的(左翼的)なのですが、やっていることは大衆的(保守的)なのです。
左翼思想の保守化は、こうした「口だけインテリ(左翼)で実は大衆(保守)」という無責任な態度によって完成を見ました。
自分だけは枠外に置いて、他の人々を大衆扱いして批判をしていればいいのですから、卑怯な人間であれば誰にでもできる態度です。
彼らにとことん欠けているのは、自己反省です。


ついでに言いますが、東や千葉がTwitterでブロック機能を多用していることは有名です。
要するにプラットフォームが提供する機能に依存し、他者を遠ざけて自己保存をしているわけです。
自らの精神を鍛えるより、楽をしてシステムの機能に依存する人が、システムそのものに批判的な視座など持てるわけがないのです。
メディア・システムの技術的機能を使って、自分を相手より優位な位置に置きたがる逃避的な姿勢が、東にも千葉にも見られます。
こういうメンタルの弱い人たちを、日本では「思想」や「文学」をやっている人と見なしてきたのです。


ちょうどいいので言っておきますが、オタクの特徴はここにあります。
孤立状況に耐える力がないオタクは、「安心」を担保する同質的なコミュニケーションの中に居続けているので、異質な意見や態度を示されることを極度に嫌います。
藤田省三はこれを〈安楽の全体主義〉と呼んでいました。
〈安楽の全体主義〉の中で自足する人が、単独で異質な「他者」と向き合えるはずがありません。
集団で「他者」を否定するか、権威を頼って「他者」を排除するか、技術的に「他者」が存在しない空間を作るかするようになります。
オタク化とは、端的に一人一人の精神の衰弱なのですが、これは全体主義の温床となっているので深刻に受け止める必要があります。
もう一回言いましょう。
同質性しか受け入れられない「ポストモダン」(=オタク)の貧弱な精神は、全体主義の温床です。


サブカル化とナルシシズム

さて、東の『動物化するポストモダン』を実際に見ていきますが、20年経った今になって読み直すのは、
今であれば東が何を書いて何を書かなかったのかがハッキリさせられると思うからです。
東が論じようとしなかったものを明らかにすることが、彼が「隠蔽」したかったものが何だったのかを照らし出すことになります。
社会的承認を求めるオタクは、自分の負の欲望ヽヽヽヽを隠したがる人たちです。
だからこそ、彼らが語ったことより、決して語ろうとしなかったことの方に、彼らの真の欲望があると考えるべきなのです。


『動物化するポストモダン』の第一章は、「オタクたちの擬似日本」となっています。
東はオタク文化によって成立した日本が、アメリカから輸入された材料で作り上げられた擬似的な日本だと述べています。


オタク系文化の日本への執着は、伝統のうえに成立したものではなく、むしろその伝統が消滅したあとに成立している。言い換えれば、オタク系文化の存在の背後には、敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失ってしまったという残酷な事実が隠れている。(東浩紀『動物化するポストモダン』)

オタクが擬似日本を作り上げたという指摘には、僕も異論はありません。
しかし、それが伝統を失った「敗戦という心的外傷」によって成立している、という主張には素直に頷く気にはなりません。
まず、実際に敗戦によって日本が伝統を失ったかといえば、そんなことは全然言えないと思います。
そもそも天皇制が保存されています。
日本はむしろ戦前と戦後の間で決定的な断絶を回避しているのです。
このあたりは僕は東と同い年なのでよくわかりますが、僕の世代はすでに「敗戦という心的外傷」などを直接的に感じる機会がほとんどありませんでした。
自分を被害者の位置に置きたがるのも、オタクに目立った特徴なのですが、
いくらなんでも40年以上も経って起こった現象を、敗戦被害に還元するのは無理があります。
オタク文化を分析する上で重要なのは、敗戦という契機ではありません。
高度経済成長からバブル経済に突入する80年代のナルシシズムです。
実際、東もそのことにはきちんと触れています。


オタク系文化の存在は、一方で、敗戦の経験と結びついており、私たちのアイデンティティの脆弱さを見せつけるおぞましいものである。というのも、オタクたちが生み出した「日本的」な表現や主題は、じつはすべてアメリカ産の材料で作られた二次的で奇形的なものだからだ。しかしその存在は、他方で、八〇年代のナルシシズムと結びつき、世界の最先端に立つ日本という幻想を与えてくれるフェティッシュでもある。(同上)

オタク系文化とは要するにサブカルのことですが、サブカル的なものがナルシシズムと結びついている、というのはそもそも東浩紀が主張していることなのです。
つまりオタクとは、他の国のアイデアで作った二次的で奇形なサブカル文化で、自分は最先端だというナルシシズムに満足している存在なのです。
このようなナルシシズムが実は管理されたものだということを、ボードリヤールが『象徴交換と死』(1976年)で書いていますが、
この議論に踏み込むと僕の論が難しくなりすぎるので、いずれ別の場所で書いてみたいと思います。


最近の俳句界はいまだにこういうものを最先端だと称しているイタい業界です。
アニメや現代詩やニューウェーブ短歌やJ-POPなどの材料で作った二次的で奇形なサブカル俳句で、ナルシシズムを満足させている若手俳人たちが、新潮流として出版ジャーナリズムに取り上げられています。
そして、この動きは千葉雅也と結びついていました。
それこそ思い出すだけでおぞましいのですが、僕がそういうサブカル俳人の句集をナルシシズムとの関係で批評したところ、
千葉が「何でもナルシシズムと断罪すれば批判できると思ってる」と文句をツイートし、当のサブカル俳人たちが嬉々としてリツイートしたことがありました。
しかし、サブカル文化とナルシシズムとの関係については、その千葉の兄貴分である東がすでに書いていたことなのです。
本当に千葉は愚鈍もいいところなのですが、不勉強なまま他人の文句ばかり言う人を、文学業界が率先して起用していることは、後世のために記録されるべきだと思います。
(今や文学業界は社会的に通用しない落ちこぼれのセーフティネットになってしまいました)


もう一度言っておきますが、オタク的なサブカル文化が80年代的なナルシシズムの反映であることは、僕だけでなく東浩紀がとっくに書いていることです。
言説の内容を理解する力のない人は、どんな人が言ったかで態度を変えるので、
これからはオタク的サブカル文化がナルシシズムの産物であることについて、いちいち東浩紀の名前を出して言うことにしようと思います。


後ろ暗い性欲を隠蔽する「思想色」

第二章は「データベース的動物」です。
『動物化するポストモダン』の中で最も取り上げられるのが、ここで主張された「データベース消費」というポストモダン的主体のあり方です。
「データベース消費」がどういうものであるかは、ビュッフェ形式の食事でイメージしてもらうとわかりやすいと思います。
飾り棚ビュッフェ」にフラットに並んでいる料理を、自分の好みに応じて、どれでも自由に選べる「消費的自由」を基盤としたあり方です。
要するに、情報データの貯蔵庫のことをデータベースと促えて、そこから消費者が自由に好きなデータを選び取ることを言っています。
この現象を制作サイドの視点で言うと、広大なデータから自由にサンプリングをする「サンプリング文化」となるわけです。


東はこのような消費文化の一般的な発展を、オタク文化の現象として描きました。
とりわけアニメオタクの「萌え」という欲望のあり方に注目し、それを中心にポストモダン論を展開していきます。


かつては作品の背後に物語があった。しかしその重要性が低下するとともに、オタク系文化ではキャラクターの重要性が増し、さらに今度はそのキャラクターを生み出す「萌え要素」のデータベースが整備されるようになった。(同上)

東がアニメのキャラクターを構成するデザイン要素を、「萌え要素」と名づけたのは有名です。
物語からキャラクター、さらにキャラクターのデザイン要素への分解、という断片化の流れを、東は「大きな物語」が終焉した「ポストモダン」現象として説明します。
こうして東は、分解した要素を重視するオタクの「キャラ萌え」を、「大きな物語」を「必要としない」消費行為だとしました。
要するに、物語への欲望を持たないキャラ中心の消費行動が「ポストモダン」的だという主張なのですが、
今やこの主張が明らかな間違いであったことがハッキリしています。
その後、オタク文化が「クールジャパン」などと呼ばれて、国家事業という「大きな物語」にやすやすと組み込まれたのは誰でも知っていることです。
そもそも「擬似日本」を作り上げるオタクの欲望は、「大きな物語」の擬似的な補填でしかないわけですから、東の主張そのものに矛盾があると言えます。


そもそも、「大きな物語」というのは、科学など社会的な規範を正当化するイデオロギーのことです。
東は大塚英志にならって「大きな物語」を「物語の表面には現れない「設定」や「世界観」を意味する」としているのですが、アニメに当てはめるにしても雑な把握だと思います。
東の発想だと、アニメ作品を正当化するイデオロギーが、「設定」や「世界観」だということになるからです。
しかし、「設定」や「世界観」がアニメにとってそんなに重要だったでしょうか。
『ルパン三世』(1971年〜)の主人公がルパンの孫でIQが300とか峰不二子のスリーサイズB99.9・W55.5・H88.8などの「設定」や、60年代アウトロー的なクールでスタイリッシュな「世界観」が、作品の正当化にどれほど役立っているでしょうか。
どうも東はコンピュータ・ゲームを基盤として理論を組み立てているきらいがあります。
それを無理にアニメにも当てはめるからおかしなことになるのです。


それよりも本来的な意味で「大きな物語」という概念を考えるならば、
秋葉原に象徴されるオタク市場の成長を背景にして、オタクの消費のあり方を「現代思想」というイデオロギーを用いて正当化する『動物化するポストモダン』こそが、
皮肉にも「大きな物語」の役割を果たしているということになるはずです。
当時の東の「現代思想」理解では、そういうことがわかっている様子は見られませんが、20年経った今の東は理解ができているのでしょうか。
日本では「ポストモダン思想」が、サブカル的共同体を正当化するための「大きな物語」だったと言うべきです。


このように東の論には多くの欺瞞があり、すでに僕も別のところで書いています。
そこでも指摘しているのですが、重要なのは、オタクが「萌え」ているキャラクターデザインの構成要素の集積は、一般市場のデータベースと違って非常に閉鎖的だということです。
「萌え要素」はデータベース以前に、アニメという趣味の共同性を基盤として成立しています。
特定の趣味嗜好を基盤としたものを、データベースと称するのは理論として間違っています。
それから、東が声優によるキャラクターの「音声」を「萌え要素」から意図的に外して、キャラデザインに限定していることも問題です。
現在の声優市場の拡大を考えると、アニメオタクについて語るときに声優を無視するというのは消費理論の欠陥と言えます。
おそらく、自分の出自である音声中心主義批判をしたデリダ思想との整合性を図るためか、東自身が声優に興味がない真性二次元オタクであったかのどちらかでしょう。


この本はオタク文化の評論部分に限っても、客観的なリサーチが足りず、東の個人的実感で書いていると思われる部分が目立ちます。
僕がどうしても指摘しておきたいのは、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)びいきの東が、『機動戦士ガンダム』(1979年)については、かなり無知であるということです。
東は『ガンダム』を「大きな物語」として位置づけ、『エヴァンゲリオン』をキャラクターへの関心へと位置づけるのですが、
これはあまりに杜撰でリサーチ不足としか言いようがない低レベルな図式化だと言えます。


『ガンダム』のファンは「宇宙世紀」の年表の整合性やメカニックのリアリティに異常に固執することで知られている。それに対して、『エヴァンゲリオン』のファンの多くは、主人公の設定に感情移入したり、ヒロインのエロティックなイラストを描いたり、巨大ロボットのフィギュアを作ったりすることだけのために細々とした設定を必要としていたのであり、そのかぎりでパラノイアックな関心は示すが、それ以上に作品世界に没入することは少なかったのである。(同上)

上記の文章は間違いだらけなのですが、なぜ一般書籍として通用したのかが不思議です。
そもそも『ガンダム』のファンの大部分は最初の作品のファンですし、続編の『機動戦士Zガンダム』(1985年)の登場より前にすでに大ブレイクしています。
初代『ガンダム』の舞台は「一年戦争」であり、たった1年の出来事なので、「年表」など気にするファンはいなかったはずなのです。
東は僕と同い年なので、ガンダムブームのど真ん中世代です。
僕は最初の放送から見ていたのですが、再放送でブレイクしたのはちょうど小学5年生の頃だったはずです。
その頃のブームをよく知らない東は、この時期にアニメをあまり見ていなかったのだと推測します。
お受験勉強をしていたのか知りませんが、彼が同時代の少年文化の体験を欠いていた「後発のオタク」だったのは、非常に興味深いことでした。
当時の子供なら誰でも知っていることですが、『ガンダム』ブームを牽引していたのはプラモデルの存在でした。
なぜか東は「ガンプラ」について一言も触れようとしません。
そのくせ『エヴァンゲリオン』の方には「巨大ロボットのフィギュアを作ったり」とか書いているのですが、
エヴァのフィギュアを作った人など、ガンダムのプラモデルを作った人の数に比べたらどれだけ少ないことでしょうか。
僕には彼が同時代に少年時代を過ごした人だとは到底信じられないのです。


これも誰でも知っていることですが、『ガンダム』のキャラクターにファンが執着していなかったかというと、全くそんなことはありません。
むしろ多彩なキャラクターが人気を博したアニメだったと言えるでしょう。
中でもアムロとシャアは伝説級の存在で、いまだ『名探偵コナン』に安室透と赤井秀一として声優ともどもオマージュ出演しているくらいです。
こういうアニメファンの「常識」を東浩紀はすべて無視して、ポストモダンの図式に無理やり当てはめているのです。
(ちなみに、年表の整合性を重視するという話は、大塚英志が『ファイブスター物語』(1986年〜)を取り上げて語っていたことがありますが、そういう妥当な作品セレクションをするべきです)


『ガンダム』と『エヴァ』のその後の比較に至っては、もう完全な間違いとして証明されています。
そこも念の為に引用しておきましょう。


『ガンダム』は、七九年に放映された最初のTVシリーズ以降、つぎつぎと続編が作られたことでも有名な作品である。そしてそのほとんどは、総監督である富野由悠季の監修のもと、ひとつの架空の歴史に沿って展開されている。対して『エヴァンゲリオン』には続編が作られていないし、また作られる予定もない。(同上)

歴史に沿っているかどうかはともかく、『エヴァ』も長きにわたって映画で続編を続けて、やっと最近完結しましたね。
あと、『エヴァ』の「年表」を作っている人がいないか検索してみたところ、やっぱり出てきますよ。
当時の東がそれを予想できなかったにしても、彼の分析が間違っていたことは動きません。
『ガンダム』に興味がないにしても、『ガンダム』ファンが「設定」と「世界観」に「異常に固執することで知られている」とか事実でないことを書いてしまうのは、いくらなんでもやりすぎです。
それに対応して、東は『エヴァ』のファンが「大きな非物語」を共有していた、と主張するのですが、これも事実ではなく、
他人を自分の実のない理論に強引に従わせる、東の「坊やだからさ」的な態度でしかなかったように思います。


では、どうして東はこのような誰でもわかるような嘘を書いてしまったのでしょうか。
それは「ポストモダン」の欲望が「都合のいい嘘」を求めているからです。
僕は前にオタクは自分の負の欲望ヽヽヽヽを隠す存在だと言いました。
それは彼らが(マザコン的な)甘えによる社会承認を求めているためなのですが、
それは必然的に「不都合な現実」を隠す結果を導きます。
「不都合な現実」は必ず「都合のいい嘘」の裏側に存在しているので、
東が「ポストモダン」の図式を用いて、オタクの何を隠そうとしたのかを探れば、それを表面化させることは可能です。


東が隠したがっているオタクたちの「不都合な現実」は、上記の引用文から嘘を差し引いて残った部分に示されています。
『エヴァンゲリオン』では「ヒロインのエロティックなイラストを描いたり」したという部分です。
『ガンダム』と『エヴァ』の最大の違いは、ヒロインがどれだけ性的に消費される目的で描かれているかにあります。
『エヴァ』のヒロインの綾波レイも惣流アスカ・ラングレーも、アニメならではの少女的ボディラインを誇るエロティックなキャラクターです。
(『エヴァ』人気が高まった数年後、「モーニング娘。」の後藤真希が、彼女たちに近いボディラインを持つリアル少女として大ブレイクすることになります)
実は『ガンダム』の女性キャラにも入浴シーンがあるのですが、さすがに子供向けが前提になっているので、『エヴァ』のように性的な欲望をかきたてるような描写にはなっていません。
両者のキャラクターは「萌え」で表される「エロティック」な要素において差がついているのです。
おそらく、東が「ガンプラ」ブームに触れなかったのは、『ガンダム』の消費がメカに向かっていたのに対し、『エヴァ』の消費がエロと強く結びついていたことを意識したくなかったのでしょう。


「萌え」というのは、遠慮なく言えば、ロリコン系の性的衝動を示す表現です。
『動物化するポストモダン』での東の説明は次のとおりです。


「萌え」とはそもそも、80年代末に生まれた言葉で、コミック、アニメ、ゲームなどのキャラクター、あるいはアイドルなどに向けられた虚構的な欲望を意味していたと言われる。(同上)

いやいや、「虚構的な欲望」って何でしょうね。
この不可解な表現が、何かを隠蔽するために使われていることは言うまでもありません。
「萌え」がとりわけ男性の性欲に関わっていることは明らかです。
欲情する対象が虚構物であろうと、性欲は性欲です。
東はとにかく「萌え」の根底に男性の性欲があることを明言しません。
本気で隠したいのなら「萌え」など扱わなければいいのですから、自分では明確にしたくないことを、明確にしないまま承認してほしい、という「甘え」が読み取れます。
このような逃避的なコミュニケーションが、同質的な共同体志向を持つのは明らかです。


「萌え」という言葉のルーツは諸説あってよくわかっていませんが、子役アイドルの応援サイトで「萌え」という言葉が使われていたことは知っています。
アニメとアイドルのどちらが先かについて証拠は持っていないのですが、「萌え」という言葉が二次元だけでなく生身のアイドルにも使われたのは事実です。
しかし、どちらにしても「萌える」対象が、少女や少女性に絞られることは否定できないでしょう。


余談ですが、僕はアニメの世界でロリコン的キャラクターが広く「萌え」的に受容される先駆けとなったのは、『機動戦士ガンダムZZ』(1986年)のエルピー・プルではないかと思っています。
今検索してみたら、YouTubeに「萌えアニメの元祖」と銘打った動画がアップされているので、同じように考えている人はいるようです。


なぜ「萌え」の対象が少女になるのかというと、それは自らのオヤジ的な露骨なヽヽヽ性的欲望と向き合わなくてすむからです。
色気ムンムンの美女に欲情して、マグリット風に「これは性欲ではない」と言ったとしても、誰も信用してはくれません。
しかし、清純な少女に見惚れたり、入れ込んだりしても、「これは性欲ではなく、審美的な態度なのだ」と逃げ切ることができます。
性欲に見えなければ、社会でオープンにしても問題ありませんし、その対象を商品として共有することに遠慮する必要もありません。
つまり、「萌え」とは不都合な性欲を審美的な態度へと「偽装」することで、共同体の同志との「共有コモン」をめざしたものだと僕は考えます。


では、なぜそんな偽装が必要なのでしょうか。
その理由は後に詳しく書きますが、オタクたちがコミュニズムへの欲望を「去勢」されているからです。
一つはアメリカ資本主義による左翼的な政治的主体性の去勢、
もう一つは父不在の家庭環境の中で、母の強い支配下に置かれた性的主体性の去勢、
この二重の去勢によって、オタクたちは「萌え」の根底が性欲であることを隠蔽しつつ、それによって成立した文化左翼的な趣味的共同体をオープンに共有したがるようになったのです。
「萌え」とは現実において「去勢された性欲」を示す表現です。
つまり、「萌え」によるオタクの共同体とは、性的に去勢された者たちの性的共同体への欲望だと言えるのです。
これを「男性補完計画」と呼んであげてもいいかもしれません。


東は次のようにも書いています。


オタクたちの萌えの感覚は、つねにキャラクターの水準と萌え要素の水準のあいだで二重化されており、だからこそ、彼らは萌えの対象をつぎつぎと変えることができる。もし萌え要素の水準がなく、彼らが単にそれぞれの趣味でキャラクターを選んでいるだけならば、特定のキャラクターに特定のファンがつくだけで終わっていただろう。しかしそれでは、九〇年代に華開いたキャラクター・ビジネスはとても成立しなかったはずだ。(同上)

東はオタクの萌えが二重化されている、と言います。
キャラクターの水準と、それを構成する情報データの水準です。
オタクはキャラクターを愛しながら、それを断片的な要素データへと分解し、データベースの中でシニカルに相対化するのだと言うのです。


しかし、それは本当でしょうか。
僕は全く信じることができません。
東は『デ・ジ・キャラット』というアニメのキャラクターを例にとって、キャラクターを萌え要素へと分解してみせるのですが、
そういう時だけカリカチュア度が高く、性的要素が見えにくいマイナーなキャラを持ち出すのは、ちょっとおかしいのではないでしょうか。
いや、それなら『エヴァ』の綾波やアスカでやってくれよ、というところです。
だいたい、どうして一般向けの新書で説明される萌えキャラの典型例が『デ・ジ・キャラット』(知ってる?)なのでしょうか。
これは「萌え」キャラの中でも、ディズニー的な雰囲気に近いキャラを紹介して、「萌え」が実際は性的欲望であることを隠蔽する「去勢」工作だったと僕は考えています。


オタクがキャラクターを、デザインの構成要素ごとに分解して把握しているという東の主張を、僕は信じていません。
そういう視点は作り手にはあるかもしれませんが、受け手はそんなことを考えません。
たしかに「萌え」は二重化されていたと思いますが、それは東が主張するシミュラークルとデータベースの二重化ではなく、違うものの二重化です。
一つは個人的な性的欲望の次元であり、もう一つは趣味的共同体の次元という二重化が正しい把握だと思います。


つまりはこういうことです。
これはグループアイドルで考えた方がわかりやすいので、坂道グループで考えてみましょう。
たとえば「病院坂46」というアイドルグループがあったとして、あるオタクがその中のメンバーである「黒猫あゆら」を推したくなったとします。
そのオタクは「黒猫あゆら」に「萌える」ことで、彼女をキャラクターとして愛し、時には欲情するわけですが、
その時には、彼は同時に「病院坂46」というメンバーと運営とファンを含めた共同体を支持し、そこに従属することになります。
そもそも、東が二重化のモデルとしているのは、同人誌などの二次創作です。
二次創作の作品群が一次的な作品に共同的に属したものであることは明らかです。
たとえば『エヴァ』の同人誌が数多くあったとして、それはすべて『エヴァ』というオリジナル作品を共同的な居場所にして成立しているものです。
(単体のオリジナル作品に依存しなくても、同人誌がアニメという虚構的な共同性コモンに依存していることは明らかです)
そこには趣味的(虚構的)な共同性コモンがオタク相互の絆として存在しています。
決して、データベースのような色のつかない倉庫ではないのです。


これがオタクの「萌え」の二重化の真実の姿です。
キャラ萌えの背後にあるのはデータベースではありません。
オタクの消費によって利益を得ようとする営利会社によって立ち上げられた虚構的な共同体こそが背後に存在しているのです。
K-POPでは、アイドルグループが自らのファンに特別な呼び名をつける(BTSならARMY、BLACKPINKならBLINKなど)のですが、これは確信犯的に虚構的な共同体を作るやり方です。
問題なのは、オタクの依拠する共同体が、自主的に立ち上がったものではなく、商業的なエンタメ作品に依存したものでしかないことです。
東も自分で「キャラクター・ビジネス」と言っていますが、そのビジネスは別に無色透明なデータベースが提供しているわけではありません。
ハッキリとした金儲けの意図を持った、営利企業が提供するプラットフォームでしかないのです。
東浩紀が隠蔽しているのは、「去勢された性欲」を抱えたオタクを消費へと駆動する消費的プラットフォームの存在です。
こういう嘘だらけの本を高く評価した日本の言論業界ヽヽヽヽの知性に、若き日の僕が絶望したことを、理解していただけるでしょうか。


『動物化するポストモダン』の第三章では『YU−NO』という「ギャルゲー」が取り上げられています。
東の記述には「ギャルゲー」とは何かという説明が見当たらないのですが、
脇が甘いので、ある作品の説明で「ギャルゲーの目的がエロティックな満足にあるという前提」とうっかり書いています。
ギャルゲーの前提は「エロティックな満足にある」のです。
どんなに隠蔽しようと、東が紹介するオタク文化の中心に性欲があるのは間違いないのです。


つまるところ、東の目的は、二次元アニメ系のキャラに性的衝動を抱き、消費に駆り立てられている「去勢」されたオタクたちを、
ポストモダン思想やウェブのメカニズムによって説明し、「現代の一般的現象」と思わせることにあったのだと思います。
オタク世代の後ろ暗い欲望を、「現代思想色」で色づけし、「ポストモダン」だと言うことで、世間様に受け容れてもらおう、という努力です。
「現実逃避」と言うと後ろ暗いので、それを「虚構重視」と言い換えるようなセコい自己弁護のために、労力が費やされているのです。
彼らが「意味」を否定したがるのは、「意味」の次元で判断されたら、彼らのやっている「色づけ」の多くが、
虚無的な「言い換え」(換喩的!)でしかないことが暴露されるからなのです。


バカバカしいのは、こういう20年も前の空疎な試みを、俳句業界が現在進行形で進めているということです。
世間で年配の趣味でダサいと思われている俳句を、一般的な詩やアートとして承認させたいと願う俳人たちが、
こぞって現代思想を持ち出したり、イデアだ何だ(詩でイデアと言う意味がわかっていない)とか言って、
「意味」がない俳句こそが詩的なのだ(笑)と内輪言説で熱心に主張しています。
「思想色」に依存して、後ろ暗い自分の社会承認を求めるレトロなやり方を、東世代くらいのオジサンやオバサンが現在形でやっているのは痛々しいとしか言いようがありません。


こうして、左翼思想であったはずの現代思想は、性的な「去勢」を隠蔽するための「小細工」としての役割しか持たなくなりました。
「去勢」の隠蔽になぜ左翼思想が必要とされるのかについては後述しますが、
オタクの虚構的な共同体が左翼コミュニズムの代替物であることと関係しています。
現代思想はオタクたちの趣味的で虚構的な共同体に社会的承認を与える試みであったわけですが、
それを後押しした「業界」の狙いは、オタクの消費的な自慰行為によって一稼ぎしようというものでした。
東浩紀について言えば、オタク向けの消費市場で儲けようと考えていた人たちによって、神輿を担がれていたわけです。
(ラノべも俳句もニコニコ動画も、KADOKAWAがプラットフォーム利権を保持するジャンルであることは考慮されるべきです)
東程度の自己弁護的なインチキ論でも、利用したい「業界」がバックについてくれれば、すぐれた論考扱いをしてもらえます。
僕はこの本がチヤホヤされた時に、「正しいこと」よりも「都合のいい嘘」を書く人をありがたがる出版マスコミの体質がよくわかって、彼らを絶対に信用しないと心に誓ったものです。


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