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ソシュール言語学は西洋中心主義でしかない

〈フランス現代思想〉の入口を問い直す

構造主義、ポスト構造主義に代表される〈フランス現代思想〉は、その言語的なアプローチから「言語論的転回」と言われたりしますが、
その始まりはF・ソシュールの言語学にあります。
僕は前々からソシュール言語学に疑問を抱かない日本人は思考停止をしていると見なしているのですが、
ソシュール的な記号論や〈フランス現代思想〉を権威として疑わない人の多さに嫌気がさします。
ハッキリ言えば、オマエたちは西洋人ではないんだぞ、ということなのですが、
日本には西洋人に憧れる「ワナビー西洋人」が多いせいなのか、そのことを否認し続ける「自己逃避」を延々と続けています。
〈フランス現代思想〉はそのような「ワナビー西洋人」のさもしい自意識を満たすために日本で流通したので、
実際の〈フランス現代思想〉とは似ても似つかない〈俗流フランス現代思想〉となってしまいました。
〈俗流フランス現代思想〉はヨーロッパ近代を批判のターゲットとすることで、
その外部にある日本を相対的に持ち上げ、自分たちが「西洋から評価される日本」であるという幻想を振りまくことになりました。
(実際は日本も帝国主義に加担したので「ヨーロッパ近代」の外部にはいないのですが、
インチキ学者はこのことに触れずに自己欺瞞を貪っています)


最近は伝統文学である俳句の「若手」にも、西洋の現代詩に憧れる「ワナビー西洋人」が前衛ヅラをして〈俗流フランス現代思想〉を持ち出しているくらいなので、
その闇の深さは相当なものだと感じています。


ソシュールの理論を日本人が無批判に受容する問題の最たるものが、
「言語の恣意性」というソシュール言語学の核心とも言える部分にあります。
「言語の恣意性」と言われるものを少し説明しますと、
言語の音声記号面であるシニフィアンと意味内容にあたるシニフィエとの間には必然的な関係はなく、
恣意的に成立したものでしかないというものです。
つまり、「dog」というシニフィアンは「犬」というシニフィエを表すわけですが、
別に「dog」という音声記号でなくてもよく、「zog」でも「cat」でも良かったというのです。
「犬」が「dog」で表されることの意味は、他のもの(たとえばwolfやpig)との違いを示すことにあり、
「~でない」という他との否定的な差異を示す役割だと考えるべきだということなのです。


ソシュール言語学の隆盛によって、言葉と意味内容に必然的な結びつきはないということになりました。
「恣意性」という語の解釈が難しいところですが、とりたてて必然性はなくたまたま慣用的にそう用いられてそうなった、ということのようです。
このような「言語の恣意性」がその後の〈フランス現代思想〉(もしくはポストモダン思想)に大きな影響を与えました。
丸山圭三郎は『ソシュールを読む』で、このような「恣意性」を「自然性のアンチ」つまり「文化的」と解釈し、
歴史や社会や人為を非自然的で乗り越え可能なものとして、次のように述べています。


つまり、文化の構造が恣意的分節から成っているからこそ、その必然性、拘束性は自然法則的絶対性ではないことがつきとめられ、新たな截ち直し、再布置化の可能性が存在するのも人間が自ら作り出した関係であるからにほかならず、シーニュの意味は、相対的・示差的・否定的な恣意的価値に依存するが故に、このラングの価値自体をパロール活動の側からゆさぶり変革していくことが出来るという認識にほかならない。

社会制度の多くは自然法則から切り離されてフェティッシュに成立した「恣意性」に基づく文化であるから、
いくらでも変革できるという理屈です。
このような発想から過剰なジェンダー批判などが生まれる余地があったわけですが、
しかし、ソシュールの言う「言語の恣意性」というのは本当に正しいことなのでしょうか。


漢字にそのまま適用できないソシュール言語学 

僕は前々から「言語の恣意性」というソシュールの主張は象形文字である漢字には適用しきれないと思ってきました。
「山」という漢字は山の形態を図示したものですから、山という意味内容を表すことに必然性があります。
山という意味内容を表すのにmountainという語である必然性はない、とソシュールは言うことができても、
「山」という漢字が用いられる必然性はなく「恣意性」に基づいているとは言えるはずもないのです。
つまり、漢字においては文字と事物との間に自然的関係を想定することができるわけで、
だからこそ日本にも「言霊信仰」というものが存在したのだと思います。


問題なのは、このようなソシュールの主張(弟子が編纂したソシュールの主張とされているもの)の限界を、
漢字圏文化に馴染んでいる日本人の研究者が真剣に考えようとしないことです。
ここで僕が疑問に思うようなことは、他の方でも疑問と感じていると思いますし、そこに触れている文献も見たことがあります。
ただ、僕が見たものは国文学系の人ばかりで、西洋思想の学者の書いたものでは漢字と「言語の恣意性」について触れたものは皆無でした。
今回も丸山圭三郎の著書や松澤和宏編の『21世紀のソシュール』などに目を通しましたが、
このことに触れた箇所を探し当てることはできませんでした。


このことからもわかる通り、西洋思想の研究者は漢字圏である東洋や日本で齟齬が出るような理論を、
あたかも普遍的なものとして語ってしまう「ワナビー西洋人」の心性に根深く侵されています。
僕は一神教圏は聖俗二元論をとり、東アジア圏は聖俗一元論をとると考えていますが、
ソシュール言語学が自然事物と言語構成物の二元論をとることの根底にキリスト教の存在を感じてしまいます。
丸山圭三郎は『ソシュールを読む』で「指向対象はコトバ以前に存在しない」として、
「山」というものは「山」という言葉による分節以前には存在として認識されていないことを強調しました。
このような発想が創造主の「光あれ」という言葉によって光が生み出されたという教えに近接するのも偶然ではありません。
『21世紀のソシュール』所収の松澤和宏「ソシュール的恣意性の深淵とラングの言語学」という論考にも同様の考察を見つけました。


言語が無定形な混沌を一挙に分節化された世界に変じる『講義』(南井注:ソシュール『一般言語学講義』)の図を見て,ゆくりなくも思い起こすのは,旧約聖書の劈頭を飾る創世記の冒頭の一節である。

丸山は「語の価値は関係のみによって生ずる」として言語を貨幣と同じような価値創出的な機能を持つものと考えるのですが、
このような言語と貨幣を似たものとして捉える発想自体が、いかにユダヤ・キリスト的なものであるかがハッキリすると思います。


以上のことから、僕はソシュール言語学というものが西洋中心主義の最たるものだと考えます。
このことに疑問も持たずにただ〈フランス現代思想〉的な文化構成主義をありがたがっている人は、
自らの経験に照らして考えることをしない権威主義者であり、心まで西洋に植民化された憐れな人でしかありません。
「自分の頭で考える」ということもできずに思想など意味があるのでしょうか。


前衛的モダニズムの不毛

和歌や漢詩の伝統の中には、当然漢字文化が依拠する「言語の必然性」が備わっていたはずです。
それは現在の日本人にも無縁だとは言い切れないでしょう。
伝統詩型を用いながら「言語の恣意性」に寄りかかった言語遊戯に何か意義があると考えるのは、
「現代」という非歴史的な表層だけを見ている「ワナビー的病理」でしかないと感じます。


前出の松澤の論考で、松澤は言語によってはじめて事象が認識されるという丸山のソシュール読解を「言語決定論」と呼び、
「1960年から70年代にかけてフランスで猖獗を極めたものである」と書いています。
松澤は言語決定論は言語道具論はともに認知と言語の相互関係を一方的な因果関係に還元した点でコインの裏表だとしています。
(これは僕自身の見解とまったく同じ考えでした)


興味深いのは、松澤が象徴秩序であるラングを揺り動かすことに、前衛的な詩的表現など必要ないと述べていることです。
詩的固定観念を打ち破る発想がおもしろいので引用しておきたいと思います。


言語決定論は,日常の平凡な言葉を,手垢のついた言語の惰性態と見なしてしまうがゆえに,そこから脱出する方途として,既成の言語表現からの差異自体に価値付与し,差異化を自己目的的に追求せざるを得なくなる。それはまた文学・芸術における前衛的モダニズムの辿る宿命でもある。しかし恣意性の認識に立って惰性態を打破する〈差異化〉なる実践を持ちだすまでもなく,ラングのパラレリズムは,日々の暮らしのなかで交わされる常套句の孕む無限の豊かさによってつねにすでに動揺を被っているのではないだろうか。

伝統詩型との差異化を自己目的として追求する前衛的モダニズムの試みなどは、
日常的なコミュニケーションの広がりにおいてすでに実現しているというのです。
それこそ「前衛」という固定観念を打ち破るなかなかの慧眼だと思いました。
東洋的な歴史性を否定するなら否定するで、よく勉強し、それと格闘すべきであって、
安直に本質的に縁のない西洋思想を持ち込んでも、田舎者のファッション自慢程度のものにしかならないことでしょう。
〈フランス現代思想〉は文学的な意匠のせいで、クリエイター的な自意識を持つ人の支持を得ているようですが、
その入口からして日本にとって大きな疑問符がつくものであることもわからないのは知的堕落としか言いようがないと思います。


7 Comment

キソさんへの返答

キソさん、コメントありがとうございます。

言語の恣意性にこだわっていらっしゃるようですが、
僕自身はその考えを支持する気はありません。
言語の恣意性という発想は近代的イデオロギーだと僕は思っています。
簡単に言えば、言語から根を奪うことで、その流通範囲を拡大するための思想であり、
そのようなグローバルな流通本位の発想を時枝誠記は言語の貨幣化と言ったのだと思います。

山のことを「やま」と呼ぶことが支配的になった要因があるならば、
それは「やま」という音がいかにも山を表していると多くの人が感じたからだと思います。
これは他の語との差異があれば何でもよかったという恣意性では説明できません。
むしろ、恣意的であると言うならば、それが「やま」という語として成立してしまったことの意義を重視すべきなのではないでしょうか。

最も抵抗を感じるのは、恣意性を信頼しすぎると、言語の呪術性というものが成立する余地がなくなることです。
その意味で詩人や文学人は言語の恣意性など認めてはいけないと僕は思っています。

無題

南井さん

返信ありがとうございます。ご指摘参考になりました。共時的という考えが自分の中ですっぽりと抜け落ちていましたし、言語の、ラングとしての視点もかけていたと思います。
しかし食い下がるようですが笑、通時というか、遡及していって、山のことを「やま」と呼ぶルールが誕生した瞬間(しこの瞬間をどう定義するか、社会契約のような仮想でしかないのでは、という点は別として)、即ち文字が誕生する以前においては、西洋と同じく東アジアでも恣意的であったと想定することはできると思いますし、それをスタートラインとして考えを進めて行くことは一つの方法論として可能ではないか、とも思えます。
シニフィアンとシニフィエの影響力の理由は、普遍な時点まで遡り、基礎的な設計が可能な点にある、とも言えるのでは?
無論、我々漢字文化圏の特異性を相対化する意味で言ってるわけではありませんし、そのように受け止められないでいただけたら幸いです。

キソさんへの返答

はじめまして、南井三鷹です。
キソさん、読んでいただいた上に、コメントもいただいて感謝しています。

「山」という文字が「やま」という音声をも表していると私たちは思っています。
その上で「山」という言葉には山一般を抽象した意味があります。
「やま」という音声だけで山という意味を理解しているかというと、多くの人はそうではないように思います。

僕の理解ではシニフィアンは音声だけでなく、それを示す記号も含まれるはずです。
シニフィエとシニフィアンはくっきり分けられるものではない、とソシュールは言っていたと思いますし、
音声だけを取り出すということはないように思います。

中国語には音声記号としてピンインがありますが、
「山」を“Shan”と書いてシニフィアンと言えるのか、というと、
やはり違うのだろうと想像します。
ソシュールは言語の共時態を重視していたというのが僕の印象で、
人々の間で実態的に用いられていたもの全体をラングとしていたように思うからです。
(もちろんラングから通時的なものを排除するのは不可能ですが)

このように、漢字に関してはソシュールの適用に限界が存在します。

漢字=シニフィアンなのか?

はじめまして。キソと申します。ブログ記事面白く読ませていただきました
ただ、ソシュールの指すシニフィアンとは、あくまで発音のことでしかないのでは?、と思います。
たしかに「山」という漢字は象形的ですが、やはり「やま」という発音それ自体は恣意的な可能性が高いですし。

返答ありがとうございます

こんばんは。
まず、私は決して「博識」でもなく、また、現代思想について系統的な専門教育を受けているわけでもありません。
(俗流)フランス現代思想に対する南井さんの評価、そして批評のスタンスは承知しているつもりです。評価そのものは、南井さんと私とではやや乖離があるように思うのですが、批評のスタンスに関しては大いに賛同する者です。
物事をより柔軟に捉えるツールとしての思想に関心があり、それ故に、南井さんの私とは異なる評価の根拠(と言うと大げさですが)を知ることができれば新たな気づきを得られるのでは?そのことで、思考ツールとしてパワーアップが図れはしまいかと個人的に期待しているのです(笑)
これからも楽しく拝見させていただきます。そして、時にコメントさせていただくかも知れませんが、少なくとも悪意を持ち込むつもりは一切ありませんので、よろしくお願いします。

追伸。インド哲学、難しそうですね。キーワードらしきものを体系整理するだけでも、手に余りそうですが、南井さんが整理してくれたのを読む分にはとても楽しい(笑)


tukinamiさんのコメントへの返答

どうも、南井三鷹と申します。
tukinamiさん、コメントをいただき感謝しています。

漢字にソシュール言語学が適用できないという指摘は僕も目にしたことはあると書いた通り、
特に目新しいと思って書いたわけではありません。
(むしろ、本ブログでは古典に戻りたいと思っています)
tukinamiさんのような博識の方に物足りない内容なのは力不足で申し訳ないのですが、
僕はソシュール言語学を批判したいというより、
身近で漢字を用いている国が、たいした疑問もなくソシュール言語学を自明視し、
文化構成主義や貨幣的発想を普遍的真理であるように扱うことが、西洋権威主義によることを確認しておきたかったのです。

さらに言えば、帝大の井上哲次郎的な伝統というべきなのか、
日本の近現代アカデミズムはキリスト教そのものを嫌って受容しないくせに、
キリスト教を基礎とした西洋の学論だけはありがたがるという矛盾をいつまでも続けています。
キリスト教を無視したキリスト教ベースの学論などに、どんな内容があるのでしょうか。
流行西洋思想がファッションにしかならない日本の悪しき伝統を、僕は問題にしたいのです。

ソシュール批判

新ブログの立ち上げ、おめでとうございます。楽しみに読ませていただきます。
さて、今回のソシュール批判についてですが、漢字の特殊性に立脚した論点については、目新しいものではなく、音声中心主義的視点からのソシュール批判として既に今日のソシュール言語学においては内在化されていると考えています。
もう少し違った視点からの批判を期待しています。

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