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『カントの「悪」論』(講談社学術文庫)中島 義道 著【その2】

定言命法と仮言命法

中島義道のカント読解の続きです。
前回はカント倫理学が「誠実性の原理」という理性のはたらきによって成立しているという中島の主張を確認しました。
しかし、自己愛に基づく「幸福の原理」の声の大きさの前に、理性の声はかき消されがちだとカントは言います。
カントは自己愛と理性を比べたときに、易きに流れる人間が自己愛という「悪」へと傾くことをよく自覚していました。
理性信仰に基づく倫理学をカント自身が「危うい立場」と語り、脆いものとして捉えているのはそのためなのですが、
中島は「カント倫理学の真価は、まさに倫理学の危うさ、道徳的善さの危うさ、人間存在の危うさをしっかり見据えているところにある」と言います。


さて、理性の声に従って道徳的な善を実践するには、自分の意志から行う主観的な行為に客観的な普遍妥当性がなくてはなりません。
主観的な行為を普遍的なものへと格上げしていくことが、カント哲学の中核と言ってもいいのではないかと思います。
この昇格の手続きをカントは「定言命法」というかたちで成立させようとします。


定言命法と比較されるものに「仮言命法」というものがあります。
仮言命法は「約束を守る」などの格律を「嫌われたくないから」などの別の目的のために遂行するあり方を言います。
しかし、定言命法はそのような条件なしに「約束を守る」という格律を遂行するというもので、ただ理性に従ってすべきことを行うというところに特徴があります。


カントが仮言命法を認めないのは、ここに普遍妥当性が成立しないと考えているからです。
ある目的のために、という条件をつけると、それ以外の時に妥当しないことになってしまいます。
このことを中島はこう説明しています。


定言命法が格律を普遍化する能力を持っているのは、それが「意志の自律(Autonomie)を原理とするからであり、あらゆる仮言命法がその能力を持っていないのは、それが「意志の他律(Heteronomie)を原理とするからである。 道徳性の原理は「意志の自律」にあり、これを表現する命法が定言命法である。


道徳的な善はあくまで意志自身のうちになくてはいけない、というのがカントが定言命法にこだわる理由です。
意志以外のものである神などの権威に寄りかかって道徳法則を導くことは「そと」から与えられたものであって、自らの「うち」から生じたものではありません。
このように理性以外のものに拠ることなく道徳法則を導くために、カントは形式的な手続きを重要視したのです。

カントの覚悟が猛烈だと感じたのは、カントは愛からの行為にも道徳的な善を認めていないというところです。
たとえば愛する人の身を守るために嘘をつくことも「嘘をつくな」という定言命法の前では許されないのです。
カントは今でこそ哲学的権威のように思われていますが、キリスト教の影響力が強い時代の人だったわけですから、キリスト教倫理学と相容れない主張をすること自体が権威への挑戦という面を持ったはずです。
中島は「カント哲学はあらゆる種類の愛より真実性=誠実性を優先するのである」と述べたあと、次のように述べています。


悪意からではなく、むしろ善意から、すなわち友情、性愛、夫婦愛、親子愛、郷土愛、祖国愛、他人に対する同情、自他の幸福を守るために等々の「受動的愛」から、人類はおびただしい悪行(非適法的行為のみならず不誠実な行為)を重ねてきた。

ここには単なるカント思想の弁護ではなく、深い洞察があると考えるべきでしょう。
普遍妥当性を持つ倫理を実現するためには、狭い内輪の世界における愛に囚われていてはいけないのです。
内輪において「いい人」であろうとすることが、普遍性を取り逃がすことになりうるのです。


いつでも「悪」は存在する

中島は第四章で本書の題名にもなっている「悪」について考察しています。
カントが考える悪とは、共同体を震え上がらせるような悪魔的悪行ではありません。
「幸福の原理」を優先して、それを損なわない範囲で「誠実性の原理」を実行する態度のことを悪と見なしています。


カントが安全・快適を求める自然欲求ともいうべき「幸福の原理」より、理性的な「誠実性の原理」を優先したことが、ある意味で人間に無理を要求するものであることはすでに述べましたが、
中島もそのことは重々承知していて、「誠実性の原理」を第一にして「幸福の原理」を第二にして生きようとすれば、「いかなる共同体の中でも生きていけないであろう」と書いています。
つまり、カントは我々に「無理」をさせようとしているのです。


ただ、ややこしいのは現象界においては人間の行為は自然法則に従っているということです。
なので、理性が命じる倫理は、努力すれば可能である、という範囲に限られてきます。
はじめから善を行うように何かに決められているのならば、その存在は自由とは言えません。
人間が自由であるためには、「悪い行為を実現できる」状況でなくてはならないと中島は言います。


われわれ人間が自由であるとは、善へ向かう自由に悪へ向かう自由がぴったり張り付いているということである。われわれは悪への自由があるからこそ、善への自由がある。われわれは悪を自由に選びうるからこそ、善を自由に選びうるのだ。

このように書くと、善と悪のどちらを選択するのかが五分五分のように見えますが、実際は善を選択する方が圧倒的に困難なのです。
カントは人間というものをそのまま放っておくと自己愛に屈して悪へと転落する存在だと考えています。
理性の声に従うということは、私たちに自身の性癖に逆らう不断の努力を要請することになるはずです。
行為が生起するときに、人間は毎度毎度自身との対決に迫られるのですから、カントの倫理を実現することは簡単なことではありません。


自由であるとは自らが自らを律すること

このように見てみると、「誠実性の原理」においてカント倫理学が目指している地点というものが見えてきます。
本書で中島はあまり自律について多くを語っている印象はないのですが、「理性信仰」とまで表現されるカントの信念が何のためにあるのかは語らないわけにはいきません。
それは自由ということになるはずです。


人間は自分自身の主観的な意志の力によって打ち立てた定言命法に、自ら従うことによって自律を達成します。
こうすることで義務が外的な強制によるものではなく、内的に選び取られたものとなるのです。
これがいかに大変なことかは誰でも想像ができるのではないでしょうか。 外的強制力である「お上」に多くを任せて、そのお目こぼしで閉鎖的で野放図に解放的な自由を貪ることを自由と考える日本では、
いつまでも「引きこもり」の欲望から逃れることはできません。


〈フランス現代思想〉研究者がポストモダンの価値観として「逃走」を称揚した結果、
日本では「引きこもり」によるメタ的自意識(要するにネット民にありがちな自意識)ばかりが巨大化して、実社会ではかえって不自由な強制を甘んじて受け入れるだけになってしまいました。
しかし、カント的な自由は普遍性へと開かれているため、実現さえできれば実社会をも従わせる状況を生み出す可能性を持つことでしょう。


自律の実現によってこれまでとは異なる新しい行為が生み出される、というカントの目論見は、
想像を絶する困難が伴うために、一縷の望みにかける「大穴狙いの賭け」のように思えて穴党の僕を興奮させます。
その意味ではカントをただ批判するだけなら、それはしごく簡単なことだということです。
ぶっちゃけて言えば、カントは変態なんだろうと思います。
一見緻密な哲学にも見えるのですが、カントはある種の文学として理解した方がその魅力がよくわかるのではないかと思ってしまいました。


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