- 2021/06/13
- Category : 南井三鷹の【評論】
千葉雅也に見るポストモダンの権力構造【付録】
ポロリ必至の「放言だらけの大座談会」
さて、ここからは特別コーナーです。
ポストモダン的主体についてはだいたい総括できたので、その代表たる売文研究者と癒着した「現代思想」という雑誌の「放言だらけの大座談会」を楽しむことにしましょう。
(そこのお父さん、不用意な発言がポロリすることもありますよ!)
ポストモダンの相対主義が、たった一つの現実や真実をいたずらに複数化し、真実の価値を貶める「ポスト・トゥルース」状況を生み出したことは、
利権から自由な知性を持つ人なら誰でも思い当たる事実です。
この事実を認められないのは、ポストモダン思想を生業にしているポストモダン研究者やポストモダン作家だけなのですが、
青土社はわざわざそのような「抵抗勢力」を集めて、放言だらけの居酒屋談義レベルの座談会を一般商業誌に掲載しています。
全体的に読む価値がない特集なのですが、今回は千葉雅也が参加した「現代思想」2021年6月号の座談会を取り上げて、
僕が定義したポストモダン的主体の有り様を実践的に確認してみようと思います。
(※真実を提示することを「ゲス」だと感じるセンシティブな方は、この先を絶対に読まないでください)
巻頭の座談会は「フラット化する時代に思考する」という題名になっています。
僕はもうこの時点で脱力してしまったことを告白します。
「フラット化する」ってあまりに懐かしい言い回しではありませんか?
すぐさまトーマス・フリードマンの『フラット化する世界』(2006年)という本が思い出されたのですが、
その本が出版された2006年当時でさえ「今さら言う?」と思った覚えがあります。
新型コロナがあっという間に世界中に拡散する今となっては、「とっくにフラット化した時代」でしかないはずなのですが、
まだ「フラット化する」と進行中の出来事扱いになっている時点で、この企画に現実との大幅な「ズレ」があることを示しています。
冒頭から宮﨑裕助が「ポストモダン」という言葉を自分は使わない、というようなことを話しています。
「現状ではポストモダンはポストモダンと言われているものが何かを問わないための言葉です」とか意味不明なことを言うのですが、
「ポストモダン」という言葉で特集を考えたのはこの雑誌なので、その言葉にイチャモンをつけられても読者は困るだけです。
そんなに「ポストモダン」という言葉に問題があるのなら、
そういう言葉で特集を組む無分別な雑誌で仕事をしなければいいのです。
このいかにもポストモダン的な言い回しを受けた千葉雅也の発言がなかなか笑えます。
千葉 僕も自分がやっていることをポストモダン思想とは言いませんね。ポスト構造主義というある程度中立的なくくり方をしています。
ポスト構造主義だと何が「中立的」なのでしょうね。
千葉は「いまなぜポストモダンか」という特集の巻頭座談会の仕事をホイホイ引き受けておいて、
僕はポストモダン思想をやっていません、とか言うわけですが、
このようにポストモダン的主体は、自分にとって都合の良い部分の利益は享受して、都合の悪い部分だけ抹消しようとします。
それがどれだけ矛盾した行為であろうが、誰にも指摘されなければ問題ありませんし、指摘する人間はその内輪世界から排除されます。
実は以前に蓮實重彦もどこかの講演で、「ポストモダン」という表現に文句を言っていたことがあります。
しかし、「ポストモダン」の語が好意的に用いられていた時には文句一つ言わなかったのに、批判に用いられたら文句を言うというのは理性的な態度なのでしょうか。
要するに彼らの手口は、ポストモダンという文化現象に対する批判を、「ポストモダン」という言葉の問題にすり替えることにあります。
「ポストモダンという言葉を使う人はポストモダンを理解していない!」とか「僕はポストモダンじゃない! ポスト構造主義だ!」とか、
批判から逃げたい気持ちはわかりますが、あまりに稚拙すぎると思います。
ポストモダンとポストモダニズムの違い、という主張もくだらない方便です。
そもそも〈フランス現代思想〉自体がアカデミズムの領域より、大衆メディアで流通したものですから、厳密な用語の共有が望めない領域です。
「ポスト構造主義」のことを語るにしても、一般に知られている言い方ではないので、「ポストモダン」という名称を用いているだけのことです。
(いずれにしても、彼らを〈俗流フランス現代思想〉と言って批判している僕には全く通用しない言い訳です)
それから宮﨑は「ポモ」という略語を批判していますが、実は僕がその略語を知ったのは千葉雅也のツイートからでした。
彼は「佐野波布一」がポモ嫌いであることを「ポモフォビア」と名づけて喜んでいましたね。
なので、僕はこの宮﨑の発言には腹を抱えて笑いました。
おいおい、宮﨑さん、その略語はあなたの目の前にいる千葉雅也が広めていたんですよ!
この「放言だらけの大座談会」には、宮﨑裕助と千葉雅也の他に大橋完太郎という人が参加しています。
この大橋完太郎について僕はほとんど知らないのですが、カンタン・メイヤスー『有限性の後で』(2016年)を千葉と一緒に翻訳した人でした。
つまり、この座談会のメンバーは全員〈フランス現代思想〉の出版利権に関わる人たちです。
これでは読む前からポストモダンを批判する人間が一方的に悪いことになるのは誰でも想像がつきます。
もう雑誌の人選自体がフィルターバブルを形成しているわけです。
たとえば、千葉は上の「ポスト構造主義」発言に続けて、こんなことを言います。
ポストモダン批判を考えるときにまず確認しておきたいのは、基本的にわら人形論法だということです。そのわら人形がいったい何でできているのか、そしてどこからやってきたのかということが問題になると思います。
「わら人形論法」とは何でしょうか?
寡聞にして知らないので、ネットで調べてみると、ストローマンというのがヒットしました。
どうやら、相手の主張を歪めて引用して、それに対して反論するやり方のようなのですが、
実は自分に対する批判を「わら人形論法」だと文句を言うのが、千葉のいつもの手なのです。
千葉は自分の書いたものが批判されると、必ず「読めていない」と相手に文句を言います。
要するに、自分の意図をしっかり読者が汲み取れば、批判などというものはありえないという「自分絶対正義」の世界に彼は生きているのです。
(もちろんツリー型権力構造で、彼と同等か上位に位置する人からの批判については尊重するフリをしますけどね)
もちろん、自身の無謬性を前提としている態度は学問的態度ではありません。
いちいち貼り付けませんが、彼はTwitterで自分の発言が炎上したときに、
自分の全著作に目を通さないと批判してはいけない、とか、自身のTwitterを「3年ロムれ」とツイートしたりしていました。
どうやら千葉の主張については、彼のパパママ気分で「雅也の無成長記録」をたどってから批判しないといけないらしいのです。
(僕は彼の著作をほとんど読んで批判したのですが、そうしたら別のイチャモンをつけてきましたね)
このように千葉雅也はポストモダンを批判する人が「基本」間違って読んでいると言うのですが、
では、自分の無謬性を前提としているこの男は、きちんとポモ思想を理解しているのでしょうか。
笑えることに、その千葉本人がドゥルーズの誤読をしている、と鹿野祐嗣が『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究』(2020年)の中で書いています。
『意味の論理学』でドゥルーズは存在論的な枠組みとして、「第一次領域」「第二次組織」「第三次整序」という3つの次元を設けているのですが、
鹿野は千葉雅也と檜垣立哉の「第三次整序」の位置付けについて次のように述べています。
『意味の論理学』の体系は、狂気の経験から超越論的な場へ進み、次に超越論的な場から日常的な経験へと進む二重の発生の過程を描いていると言える。
この区分に関して、千葉雅也と檜垣立哉は、それぞれ異なる仕方で第三次整序を深層ではなく高所に位置づけているが、われわれはそうした見解が端的に誤っていると指摘しておかなければならない。(中略)よって、千葉と檜垣の見解の誤りは、『意味の論理学』の提示する存在論的な枠組みそのものを捉え損ねているだけに、致命的なものだと言わざるをえない。
(鹿野祐嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究』)
これを書かれた千葉が発行元の岩波書店に圧力をかけたらしい、とミシェル・セールの研究者である清水高志がツイートをしていましたが、
僕は千葉に言論弾圧をされた当事者なので、そういうことが実際にあっても不思議はないと思っています。
アカデミックな学問実績の少ない千葉教授には、同等の立場で正々堂々と議論をぶつけ合うという学者としてのマナーが身についていないのです。
まあ、鹿野の指摘が正しいかどうかは僕が判断することではありませんが、
『意味の論理学』に対して600ページにも及ぶ「注釈」という、テクストに密着するスタイルを選んだ若い研究者が、
自分の解釈が間違っていた場合に訂正なしで済ませられるとは、僕には思えないのです。
訂正がないということは、おそらく千葉が誤読をしていたのでしょう。
そんな人がポストモダン批判は「わら人形論法」とか決めつけて言っても全く説得力がありません。
学問なのですから、間違いがあったらそれを認めて修正すればいいだけのことだと思うのですが、
ツリー型権力構造の中で利権を貪っている人間にはそれができないので、彼らの存在は端的に学問発展の害になっていると言えると思います。
ちなみに、僕は本家ドゥルーズ思想に大いに疑問を持っているので、鹿野を支持することはありません。
それでも鹿野はなかなかいいことを書いているので、ついでにここで紹介しておきます。
次から次へと矢継ぎ早に生まれるドゥルーズの「新しい解釈」、「創造的誤読」、「発展的継承」、あるいは「ポスト・ドゥルーズ哲学」待望論といったものの大半は、実際のところ、かつての「現代思想」的な消費への郷愁に過ぎないか、あるいはむしろ強迫的な市場原理への従属の結果に過ぎないのではないだろうか。重要なのは、一見するとドゥルーズ哲学の定言命法に似ていなくもない(絶えず新しいものを創造せよ)という命法が、「新しさ」や「創造性」の概念それ自体に向けた批判的考察そのものを巧みに回避したうえで成立しているということである。
(鹿野祐嗣『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究』)
商品化した現代思想が消費資本主義と歩調を合わせて、次々に新製品を出すことに努めてきたことが批判的に語られています。
日本の〈俗流フランス現代思想〉がいかに消費資本主義の新製品原理を批判しないようにしていたか、
いや、批判どころかそれと一体化していたことに対して、鹿野が問題意識を持っていることには好感が持てます。
ちなみにこのような批判に「現代思想」の座談会のメンバーが触れることはありません。
ただ、自分たちには全く問題がない顔で、批判者をグチグチ悪く言うだけです。
批判者の悪口を垂れ流す下品な思想雑誌
では、座談会に戻りましょう。
千葉の「わら人形論法」という決めつけを受けて、大橋完太郎はこう応じます。
大橋 ポストモダンを揶揄する人たちは最近でも少なからずいると思いますが、そういう人たちがみんなド・マンの記事やソーカルの論文を読んでいるとはまったく思えません。
いつの間にかポストモダンを批判する人が、「揶揄する人」になってしまったのですが、
大橋のこういうサイレント言い換えに、ポストモダン的主体の「自分を被害者の位置に置く」というやり口が出ています。
僕はもちろんですが、魂を込めて正々堂々と批判している人は大勢いると思います。
自分たちが旧メディア権力を握った位置にいるくせに、「揶揄」されイジメられている被害者ぶるのは本当にセコい態度です。
批判者が「少なからずいる」という言い方も、絶滅危惧種のような扱いですが、
そんな絶滅危惧種の批判のために、彼らは雑誌でグチグチ文句を言う特集をやらせてもらっている、ということになりますね。
これって客観性に欠けたポスト・トゥルースな言い分だと思うんですけど。
また、ド・マンとソーカルを読んだから何なのでしょうか?
その影響は海外に限ったもので、日本のポストモダン利権の連中はソーカル事件以後も現代思想の代表として影響力を維持し続けています。
ソーカルの批判など日本のポストモダン信奉者にとって何の意味も持たなかったのですから、
そもそも日本におけるポストモダン批判とド・マンやソーカル事件には全く因果関係はありません。
関係がないから言及がないのであって、それを読んでいないことで批判者に文句を言うのは、「ポストモダンの批判者には学がない」と印象づけるための恣意的なイチャモンと言えます。
(そもそもソーカル事件に言及した人たちに対しても、権力化したポストモダン信奉者は開き直って「ソーカルを持ち出す奴はバカ」というような態度をしていましたけどね)
百歩譲って仮にソーカルを読むことに意味があったとしても、どうしてポストモダンを「揶揄する人たち」が「みんな」ソーカルを読んでいなければいけないのでしょうか?
先程の千葉の「3年ロムれ」もそうなのですが、なぜ彼らの批判をするのにある種の「資格」がいるのでしょうか。
もうおわかりだと思いますが、それらを読んでいれば彼らは別の「資格」を持ち出して文句を言うだけなのです。
ここでわかることは、千葉にしても大橋にしても、自分が優位な立場にいるという権力者然とした振る舞いを平気で行うということです。
ポストモダン的主体はツリー型権力構造の上で成立しているので、余裕がなくなるとむき出しの権力意識が顔を出します。
大学の授業という場なら、教授や准教授として偉そうな顔をするのはまだわかりますが、
大衆メディアで仕事をしているのですから、大衆からの批判に対しても真摯な態度であるべきではないでしょうか。
「間違って読んでいるバカだから批判をする」とか「外国の論考も読めないバカだから揶揄する」とか、
ポストモダン批判を歪めて解釈し、それに低レベルの反論をしているという点で、彼らこそが「わら人形論法」を駆使しているのは明らかです。
頭の悪い人は、相手の批判をしているつもりで己のことを語ってしまうものですが、千葉や大橋の態度はそれと似ているように思えてなりません。
この後、千葉は構造主義からポスト構造主義の流れが、二項対立と別の次元を導入したことが重要だと語ります。
いやあ、いつの話なんだろう、というくらい「時を戻そう」的な言い分ですよね。
そもそもポストモダン思想の二項対立の乗り越えとは、資本主義と社会主義のイデオロギー対立に対する対処法としてあったものです。
つまり冷戦構造を前提にした思想であり、だからこそポストモダンは80年代の思想であったのです。
僕もとうの昔に指摘したことですが、90年代以降の社会主義陣営の崩壊によってその思想的意義はほとんどなくなりました。
それを今更今更今更今更今更持ち出してくるあたり、千葉雅也の歴史意識の欠如はそれこそポストモダン的な病理の中にいまだにあることがよくわかります。
時代はとっくに二項対立より資本主義の一元的支配の弊害の方を問題にしているのですが、
この人たちはいつまで冷戦的イデオロギーを批判しているフリをして、消費資本主義の利権を貪り続ける気なのでしょうか。
それに続く大橋の発言はこうです。
大橋 同じようなことを、僕はポップなものの哲学という言葉で考えたいと最近思っています。カルチュラルスタディーズや批評理論に対する批判で言われるような、ポピュラーカルチャー分析の理論的負荷を高める側面がポストモダンのひとつの結果として槍玉にあげられていた時期もあったかと思います。
読んでいて、彼が何を話しているのか理解に苦しみました。
そもそも千葉が二項対立の脱構築を語ったことを受けて、それと「同じようなこと」として「ポップなものの哲学」が出てくる意味がわかりません。
どうして二項対立の脱構築とポップが同じ線上に置かれるのでしょうか。
この後を読むと、大橋はポップを二項対立の脱構築として位置づける発言があるのですが、そんなの牽強付会もいいところです。
ポップという消費資本主義的な価値観が依拠するグローバル市場の一元化という社会状況を、二項対立を解体するポップの力として語っているつもりなのでしょうか。
(それならポップにこだわるより、「スターバックスの哲学」でもやった方がウケると思いますよ)
ほとんど詐欺に近い主張ですし、可哀想になるくらい批評的知性がなさすぎます。
それ以上に意味がわからなかったのが、この人が「ポップなものの哲学」としてドゥルーズ&ガタリを出しておきながら、それを「最近」の現象として語っていることです。
だいたい、「ポップ」という語で何かを語るという発想がすでに古いですよ。
ドゥルーズ&ガタリを紹介した浅田彰のニューアカ現象は、すでに哲学のポップ化だったのですが、
まるで哲学がポップであることが現在形の現象であるかのように語っています。
「ポピュラーカルチャー分析の理論的負荷を高める側面」という表現に関しては、大橋の言語力に同情を禁じえないのですが、これって単に「サブカル批評理論の隆盛」ということですよね。
大橋の歴史意識によると、ポストモダン的なサブカル批評理論への批判が「槍玉にあげられていた時期もあった」とすでに過去のものにされているのに対し、
「ポップなものの哲学」が「最近」考えられているものであるらしいのです。
どう考えてもポストモダンのサブカル移行は、東浩紀以降のことです。
それに対する批判が過去に終了していて、ニューアカ現象が彼にとっては現在形なのです。
これは歴史修正主義としか言いようがありません。
真剣に思うのですが、自分が生きてきた時代の歴史的順序もあやふやな人に、ポストモダン批判を理解することができるとは思えません。
しかし、「ポップなものの哲学」とは現実逃避もはなはだしいと感じました。
消費資本主義による「趣味の全般化」というオタク現象をなぞっただけのことを、哲学している顔で語るのはアホらしすぎます。
サブカル的趣味意識を哲学で掘り下げるなんて、端的に労働から解放された上位階層のヒマ人のすることです。
つまり、無用でしかない「アリバイ哲学」に大学が金を出してくれるからやれるだけのことでしかありません。
趣味追求の大学教員などアカデミズムの寄生虫みたいなもので、デヴィッド・グレーバーの言う「ブルシット・ジョブ現象」と見做すべきでしょう。
消費文化を哲学によって意味づけるということは、実際には消費文化にしがみついて哲学を延命させるだけのことでしかありません。
まあ、せいぜい哲学がポップなものの「広告」として利用価値があると思われるようにがんばってくださいな。
この大橋の発言の最後は千葉雅也に媚びた幇間発言で結ばれています。
彼らのツリー的権力構造への依存を端的に示しているので、是非ともここに引用しておきたいと思います。
ですから、消費文化の諸形態においてさえ、単純な消費的なレベルではない次元で文化が駆動しているわけで、そこに「知」の運動を見出すことが「ポストモダン」的な眼差しのひとつのあり方なのではないでしょうか。千葉さんが小説家になるというのは、そう考えると正しい「ポップ」の道だなあと思います(笑)
千葉さんは正しい「ポップ」の道だなああああ。
正しいポッププッ。
いや、勘弁してください。
それにしても大橋という幇間の「開き直り」はなかなかのものです。
彼はもうポストモダン思想が消費文化と一体化していることに葛藤すらないのです。
消費文化の中にありながら「消費のレベルではない次元(笑)」を見出すのがポストモダンの「知(?)」だと言うのです。
もう言葉もないですね。
商売の邪魔にならないところで哲学をさせてもらっています、ってか。
そんな程度の「趣味的な知(?)」で大学から給料もらえていいですよね。
厳密な定義がないのは承知していますが、千葉を「小説家」とあられもなくヨイショする態度もあまり感心しません。
小説家は小説だけで勝負をして、初めて小説家なのです。
ただ小説を書いただけで小説家であるなら、多くの人が小説家になれます。
又吉直樹やNEWSのメンバーは千葉よりずっと小説を売っていますが、彼らが小説家だとわれわれは思いません。
明らかに他のジャンルでの「知名度」で小説を売ったからです。
千葉の小説が文芸誌に掲載されるようになった事情について、僕はすでに前に書きましたが、
小説の力で世に出たわけでもなく、メディア権力に担がれているだけの存在を「小説家」などとヨイショするから、彼らが人脈で仕事を得ていることがバレてしまうのです。
大橋完太郎はリー・マッキンタイアの『ポスト・トゥルース』(2020年)という本も翻訳しているのですが、
こういう内輪原理で真実を軽視するポスト・トゥルース人間が、社会問題としてのポスト・トゥルースに関する本を翻訳しているのが日本という国なのです。
ポストモダン的主体のコンプレックスの無化
この大橋のヨイショに対する千葉の応答はアホらしいので無視するとして、その後に千葉がまた不用意な自己正当化を行っているので、それを見ることにしましょう。
この千葉の発言はポストモダン的主体の非常に本質的な部分が出ているので、少し丁寧に検証したいと思います。
僕が重要だと思うのは、現代思想はディベート的ではないということです。単純化した話になりますが、分析哲学はディベート的ですね。(中略)他の立場と優劣を競うというやり方です。僕はそういうの哲学のやり方を少年漫画みたいで嫌だなと思っているけど、それに比べると現代思想はもっと大人なわけです(笑)。対戦カードゲームみたいなやり方ではなく、もっと総合的にアプローチして、一つのイズムで押し切るのではなく、問題の割り切れなさを重視している。
言ったそばから矛盾が炸裂しているのが相変わらずですね。
千葉は「他の立場と優劣を競う」やり方が「少年漫画みたいで嫌」と言っていますが、
そう言いながら、分析哲学より現代思想の方が「大人」だとかいきなり優劣をつけちゃいます。
(ポストモダンが二項対立と別の仕方だとか言っていたのは誰だったのでしょう)
千葉雅也は自分の発言を自分自身への行動にフィードバックすることが決してない人間です。
むしろ、彼の発言のほとんどが不都合な現実を隠蔽するための嘘になっています。
自己矛盾に気がつくこともできない知的レベルの人が、ディベートに向いていないことはよくわかります。
現代思想がディベート的でない、という発言の意図(モノローグ的だってこと?)がイマイチわからないのですが、こういう「雰囲気発言」はどうにかなりませんかね。
千葉のツイートを「3年ロムれ」ば即座に理解できるのでしょうね、きっと。
現代思想がディベート的でない思想スタイルだということかもしれませんが、現代思想の思想家にディベートの態度がないわけではありません。
デリダはサールと論争をしていましたし、バディウやメイヤスーのドゥルーズ批判も論争的態度でしょう。
デリダがドゥルーズを批判していたり、大陸の現代思想においても論争は存在します。
ディベートを明らかに避けているのは、日本の現代思想利権に関与する研究者です。
つまり、現代思想の性質以上に、彼らにディベートができないことの方が問題です。
ディベートができない人が、相手の批判とまともに向き合えるとは思えないからです。
この発言も、ディベートが不得意な千葉自身の自己弁護(自分はディベートができない→現代思想はディベート的でない)として語られたものでしかないと感じます。
また、千葉のように分析哲学を「少年漫画」とか「対戦カードゲーム」とか不当に低い扱いをするやり方こそが、「わら人形論法」というものではないのでしょうか。
彼の分析哲学に対する物言いはだいぶ不正確で侮蔑的だと思います。
僕の認識では、分析哲学は別に自説の優越を互いに競い合うものではありません。
権力的な言説を嫌い、論理科学的な概念の共通基盤を形成し、命題を精密化する算術的なやり方です。
論理のフィールドがオープンなので確かにディベートには適していますが、それが1対1の「対戦カードゲーム」つまりバトル目的として喩えられていることは杜撰に思えます。
むしろ、対戦も共闘もありうる端末参加型のオンラインゲームに近いのではないでしょうか。
千葉の考えでは、科学が諸説をぶつけ合って真実を検証していく行為まで「対戦カードゲーム」になってしまいます。
このような歪んだ理解をする人の方が、子供じみているのは明らかです。
触れるのを忘れていましたが、ポストモダン的主体は「競争」の排除を好みます。
「競争」のない安泰世界で、内輪の仲間と責任のない趣味ライフをするのが望みです。
少し考えればわかることですが、たとえば千葉雅也の地位などは受験の競争によって手に入れたものです。
本気で「競争」を否定するならば、受験による価値づけも否定しないと筋が通りません。
しかし、彼らは絶対にそんなことを言わないと僕は知っています。
なぜなら、彼らの「競争」嫌悪は、自分の地位が確定したことからくる保守的心性だからです。
上位階層の地位を安定させたい人間が、それ以上の競争を排除したがるのは当然ではないでしょうか。
これはネトウヨ的保守勢力が、安倍政権の長期安定化を望んで政権交代という競争を嫌ったのと同じ原理です。
もう言い飽きましたが、ポストモダン思想を好む日本人はもれなく保守です。
(まあ、あまり言うと「保守で何が悪い」と開き直るに違いないのですが)
ここからが肝心なのですが、千葉が分析哲学を「子供の遊び」に喩えて現代思想を「大人」としているのは、むしろ真実が逆であることを示しています。
ポストモダン的主体の典型である千葉は、先に相手を侮辱した加害者であっても反論されると被害者ぶる人間であり、
自らが被害者であるとアピールしながら相手の言論を暴力的に弾圧する人間です。
つまり、彼の主張と正反対のところに真実があると考えればいいのです。
僕はこれまでポストモダン思想の批判をしてきましたが、そこで何度も彼らの幼児性を問題にしてきました。
つまり、日本の〈俗流フランス現代思想〉は「おぼっちゃま」の遊戯であったわけです。
それは今回の記事を読むだけでも確認できることだと思います。
だいたい批判に耳を傾けることができず、批判者を不当にバカにするやり方が、「大人」の態度と言えるでしょうか。
やりたい放題お子ちゃまっぷりを露わにしておきながら、自分は「大人」だとか、(笑)をつければごまかせるというものではありません。
もう指摘するのもアホらしいのですが、「一つのイズムで押し切る」ことをしているのが〈俗流フランス現代思想〉の人々なのは明らかです。
なにしろポストモダンが「絶対正義」なのですから。
本当に現代思想が「問題の割り切れなさを重視している」のなら、批判者を「基本アホ」などと簡単に切り捨てる研究者がスター扱いされることはないはずです。
反省回路を持たないといくらでも嘘が言えて便利ですが、こういう人に憧れても高い確率で幸せにはなれないので気をつけてください。
一応書いておきますが、千葉雅也がポストモダン的主体の代表の地位におさまっているのは、彼が他の人より明らかに「すごい能力」を持っているからです。
何がすごいかというと、普通の人は実態と正反対のことを言おうと思っても、無意識で抵抗がはたらいてうまくやれないものなのですが、
千葉には自意識を管理する理性的な要素が抜け落ちているので、現実に反する嘘を平気で真理であるかのように語れてしまうのです。
有象無象のポストモダン的主体は、千葉の「嘘を嘘と思わせない確信めいた態度」に魅了されているのです。
戦時中に「日本は神の国だ」と疑い一つない態度で言い切る軍人に、妙に魅了されてしまった日本人が大勢いたことは想像に難くありません。
この「すごい能力」はほとんど病気だと思いますが、自分が語れば全ては真実だ、みたいな人に学者という肩書きを与えている大学や出版マスコミがいかに腐敗しているかは言うまでもないことでしょう。
当然ながら、このような人物はどこまでも体制とともにありますし、たとえ体制が没落しても反省をすることはありません。
ここで整理しておきます。
ポストモダン的主体は自分自身が抱えるコンプレックスを仮想敵へと投影し、それを批判することで自分にはそんなコンプレックスは存在しない、と他人に思わせようとします。
それに他人が騙されて承認を得ることができれば、コンプレックスの消去は完了です。
近代においてはコンプレックスと格闘して人間的な成長が求められたわけですが、
ポストモダンにおいてはコンプレックスをメディア上の嘘の流通によって無化することで解決するのです。
ポストモダン的主体に人間的成長がないのは当然で、正直言って「少年漫画」や「対戦カードゲーム」の方が成長の機会が存在するため、
千葉雅也の子宮的「自己慰安」の世界は、それ以下のものとしか僕には思えません。
さらに大放言大会は続きます。
太鼓持ちの大橋は自分の宣伝と千葉の論考の宣伝を組み込みながら、次のように千葉に応じています。
当然ながら、ディベート不在のマーケティング文化である日本の〈俗流フランス現代思想〉では、
相手の発言を批判するような人が内輪の座談会に呼ばれることはありません。
大橋 おっしゃる通りネット上は、とくにディベート的な仕方で勝ち負けをつけようとする態度が盛んですし、多くの場合それは特定の立場、イズムに結びついています。たとえば僕がさっき言ったポップなものについての思考は、(中略)勝敗を競うこととはまったく異なる感受性に訴えるものではないでしょうか。
千葉さんは(中略)未決定だと言われようともとりあえずそれを引き受けるという仕方を提示していると読みました。そのあり方が、勝った負けたで騒ぐような趨勢からは理解されにくいという不幸があると思うし、自分もその「不幸」の側にいるのかなとも思います。
キタキター!
自分は「不幸」です発言!
これですよ、ポストモダン的主体の典型的なやり口と僕が言っているものは。
自分を被害者側に置くというやつです。
大学で雇用されている上に、こんな利権雑誌で好き勝手言える立場にいて、「理解されにくいという不幸」とか自分で言っちゃうんですね。
しかし、「勝った負けたで騒ぐような趨勢」とは何のことを言っているのでしょう。
右左の政治的言説のことを言っているのでしょうか。
彼らは批判している対象をいつもぼやかすのですが、これは「自分が被害者顔をする」ための「仮想敵の捏造」だと考えるほかありません。
実際には現実として存在していないから、曖昧な言い方しかできないのです。
曖昧な言い方をして、読者に都合良く想像してもらう態度に、学問的姿勢は全く感じられません。
ポストモダンのあり方が理解されにくい、と大橋は言いますが、〈フランス現代思想〉はどう見ても「体制派」の思想です。
長らく出版業界とアカデミズムで支配力をふるっていましたし、今でも旧メディアに支えられたマジョリティ勢力です。
大橋は文学系の思想と言えば、誰も彼もが〈フランス現代思想〉一色だった時代に大学に入った世代です。
勝敗を競う必要のないフランス思想「一人勝ち」状態が前提になっているために、少し批判されただけで不幸とか言い出すのです。
批判なき子宮(フィルターバブル)でしか暮らせない哀れな人を、同情を込めて大橋甘太郎と呼んであげようと思います。
(ちなみに僕は自分のポストモダン批判言説が理解されないことを、我が身の不幸だと思ったことはありません。
ただ、理解できない人々の不幸について考えることはあります)
ネット上ではディベート的に勝ち負けをつける態度が盛んだというのも、どこの国の話かと思いました。
僕はディベート的な態度でいろいろな人に挑んだところ、ほとんどの人からブロックやら一方的な応答拒否やらで応じてもらえませんでしたね。
だいたいフィルターバブルを形成するインターネットは、ディベートに向いているメディアではありませんし、むしろポップなものを扱っている方が圧倒的に多いメディアです。
そもそも日本の教育にはディベートなど存在していませんし、権力の言うことにおとなしく従うツリー型権力構造を、教育で浸透させてきました。
もっと言えば、ディベート的なことを嫌悪する人が「学者」であることは間違っているのではないかと言わざるをえません。
千葉はともかく、甘太郎も自分で自分に学者の適性がないことを、よくも平気で口にするものだと感心します。
結局、ディベートを排除する彼らにとって、唯一重要なのは日本型の上位階層から下位階層へのツリー型権力構造なのです。
タテ社会に帰結する〈フランス現代思想〉
この二人の与太話に加わらない宮﨑はまだ理性があるようですが、彼は「ポストモダン」という言葉についてこだわっています。
思うのですが、日本のポストモダン現象に対する批判と、海外のポストモダン思想に対する批判を一緒にするのはセコすぎます。
海外ではポストモダン思想はもう過去のものですので、今さらそれに対する批判について現在形で語られることはありません。
今回「現代思想」が取り上げたフレドリック・ジェイムソンのポストモダン批判だって、80年代や90年代にすでに書かれていました。
それがようやく今になって取り上げられたことが、日本独特のポストモダン利権構造が邪魔をしていたからであることを僕はよく知っています。
本場について語るまやかしをやめて、2020年まで生き残っている日本のポストモダン利権について話をするべきです。
なぜこの国では今さらリオタールか、という話をしてもらいたいのです。
この調子で見ていくと、ツッコミどころが多すぎてページが途方もなく増えてしまうので、いったんまとめることにします。
とりあえず、ここまで読んだだけでも、だいたい千葉、大橋、宮﨑の放言の傾向はだいたい整理できます。
① ポストモダン思想がどのような批判を受けているかについては絶対語らない
② ポストモダンの批判者は思想をちゃんと読めない低脳扱い
③ ポストモダンはその用語を含めて誤解されているだけで、内容には一切問題がない
④ とにかく新メディアであるネットやSNSが悪い
もう少しだけ彼らの身勝手な放言を載せます。
僕が今回の座談会で最もあきれたのが次の千葉の発言です。
しかし今日Twitterなどを見ていると──これは大学人批判になりますが──本来そういった現代思想に親しんでいるはずの人たちが容易に排除の判断を下す風潮に靡いてしまって、いかがなものかというものをギリギリまで擁護しようとする人はすごく減っていると思います。
一瞬、我が目を疑う発言でした。
「現代思想に親しんでいるはずの人たちが容易に排除の判断を下す」というのは、どう考えても言論弾圧を行った千葉雅也自身のこととしか思えなかったからです。
千葉は批判的なレビューを自らAmazonに通報し、Twitter等で誹謗中傷という風評をたてて、批判言論の弾圧(パワハラ的全削除)をしました。
批判者の個人ブログのURLをツイートして、ファンに遠回しに嫌がらせをするようにけしかけたりもしました。
ここまで無名の一般人を「容易に排除」しようとした大学人は、おそらく千葉雅也以外にいないと思います。
本当に「不都合な事実」を脳内から抹消する力がズバ抜けています。
千葉は実際に自分自身が「加害者」として手を染めた悪事を、メディア上では他人のことのように批判するのですが、
考えてみれば、これこそがポストモダン的主体のいつもの手口なので、驚くこともなかったのです。
千葉は「悪事を批判する自分」をメディアで流通させることで、現実の「加害者としての千葉雅也」を抹消しようとしているのです。
あまりに薄汚れた責任回避の仕方ではありませんか。
(クラスにこういう人いませんでした? 自分もやっているのに、◯◯くんが悪事をはたらいてます、とか先生に言う人)
彼らポストモダン的主体は、メディアの権威付けさえあれば、自身の現実的行為に反することをいくら言ってもいいと思っています。
ここで問われるのは「真実」に奉仕すべきマスメディアの側の良識ではないでしょうか。
大橋 付言するならば、SNSで言いがかりをつけてくる人は、今日のプラットフォームでは匿名ないしは偽名としての発信者が大多数ではないでしょうか。
このような「匿名=悪」という発想が、いかに上位階層にいる人の発想であるかはすでに書きました。
(この人たちはきっとバンクシーも嫌いでしょうね)
だいたい「言いがかり」以前に、SNSは総体として匿名の利用者が多いのですから、どんな発言であろうと匿名や偽名が多くなるのは当然です。
では、本名の人が「言いがかり」をつけないかと言うと、千葉雅也を見ればわかる通り、別にそんなこともないわけです。
つまり、この甘太郎の発言は客観的には全く意味のない発言です。
僕は甘太郎のように自分の名前を売ってナンボの人が、匿名や偽名(これってペンネームの人もダメということですよね)の人の事情を全く考えることなく、偉そうに自己都合を正義化するのにウンザリします。
だいたい、海外では本名でネット活動をする人がわりといるのに、なぜ日本では少ないのかという事情について、甘太郎は考えたことがあるのでしょうか。
まあ、あるわけないですよね。
頭を使わない、想像力もない、ただ自己中心的な価値観を絶対化する。
こういう思想を学ぶ意味のない人が、大学教員の地位にいる国はもう救いようがないと僕は思います。
日本に匿名利用者が多い理由は、千葉雅也のように権力を私的に濫用する人の横暴に対して、正義や真実を武器にして一個人が戦える社会でないからですよ。
匿名による意見が散弾銃のようにやって来て、普通に議論をすること自体がストップしてしまうという状況が生じるのは、プラットフォームに大きな問題があります。
甘太郎はこんな発言もしているのですが、さっきこの人は「ネット上は、とくにディベート的な仕方で勝ち負けをつけようとする態度が盛んです」と言っていたのですが、
やっぱりSNSは普通に「議論」ができるプラットフォームではないんですよね。
ネットはディベート的なのか、議論ができないプラットフォームなのか、
だからコロコロ言うことを変えるあなた方こそが、ポスト・トゥルースだと言うのです。
『ポスト・トゥルース』という本を翻訳している人がこれですから、大学は教員に対して定期的に専門の資格試験でも実施した方がいいと思います。
座談会を読んでいたらSNSの悪口のオンパレードで、そんなに言うならあんたらSNSを使うなよ、と言いたくなりました。
自分は新メディアを都合良く宣伝に利用しておいて、旧メディアに出てくると新メディアの悪口を散々言う、これぞポストモダン的主体の自己欺瞞です。
これは一般人より立場が優位である旧メディアの発信者だからこそできる破廉恥な態度です。
「千葉さんは折々に儀礼の重要性を説いています」という甘太郎の幇間発言のあと、千葉がマナーを訴えているという話をするのですが、
圧倒的にマナー無用の振る舞いが目立つ人が、マナーを訴えても効果があるわけありません。
まずは自分がマナーを守ってから言え、というだけのことです。
このようにポストモダン的主体は「口先だけなら何とでも言える」というだけの人たちなので、彼らからメディアの発信力を奪ったら何も残りません。
現実の彼らは空疎な人間です。
人生としての説得力を持たないために、なおさらメディア上で「粉飾自己」を作り上げるしかなくなります。
そのため、「メディアでそう発言している」という「口先だけ」の話ばかりで終わり、ちっとも社会的実践の話がありません。
彼らには「現実」や「実践」が抜け落ちています。
もしくはメディア上の利権だけが、彼らの「現実」なのかもしれません。
彼らポストモダン的主体の「知(?)」は現実的な実践につながることのないものですので、哲学で言うプラクシスとは言えません。
しかし、実践(プラクシス)のできないドゥルーズ研究者などエセ学者もいいところではないでしょうか。
たとえば、千葉はこんなことを言っています。
千葉 マナーAを採用する人とマナーBを採用する人との戦いでは、彼らはマナーを守りません。だからメタマナーをちゃんと守りましょうと僕は言っています。メタマナーとは、他の価値観があることを認めた上で相手を殲滅しようとしないということです。
僕には思い当たらないのですが、千葉雅也が他の価値観を認めた上で応答したことなどありましたかね?
彼はTwitterで俳句や短歌の定型は、根源的羞恥から身を守る鎧だと発言し、
多くの俳人から批判を受けたのですが、
彼は異なる考えを認めるどころか、批判者を罵倒したりブロックしたりするだけでした。
(あげく國分功一郎との対談で「詩には人間がいない」と言っておきながら、
「詩歌は人間性の砦だと思っていた」と平気で矛盾したツイートをして、被害者ぶる始末でした)
千葉雅也が自分の価値観と違うものを認めることなどできない人間だと、僕は断言できます。
千葉の大嘘はこれにとどまりません。
「佐野波布一」という批判者を「殲滅」へと追い込んだ当人が、「相手を殲滅しないこと」を「メタマナー」として語るのですから。
メタマナーとして語っている内容を全然守っていない人が、そのメタマナーを守りましょうと説く意味はあるのでしょうか?
自分が守らない流儀を大衆に強要しようとする人間とは、端的にメタ位置を確保する「権力者」でしかありません。
今や「権力者」の剥き出しの権力意識を肯定するのが、〈フランス現代思想〉でありポストモダンでありアカデミズムなのです。
千葉は自分の不適切発言が炎上したら、炎上させた人が悪い、と居直って侮辱発言を繰り返し、大学に抗議をされるとピタッと黙るような人間です。
そういえば、彼は以前、自分に献本をしてきた相手が自分の批判をしたことにTwitterで憤り、それを無礼だとか言っていたことがあるのですが、
このような千葉の「マナー」の感覚は、どう考えても日本伝統の「上の人間に逆らうな」でしかありません。
おそらく千葉が権力者側にいたら、フランス革命もマナーに合わない行為になっていたことでしょう。
〈フランス現代思想〉は千葉雅也の世代になって、完全に西洋思想ではなく、保守的な「日本的タテ社会」の価値観を垂れ流すことに帰結しました。
目上の人間には媚びへつらい、目下の人間には平気で横暴をはたらく、
このような人間像が、出版業界やアカデミズムが長らく売り出してきたものなのです。
多くの日本人には西洋思想などわかりません。
口先ばかりの西洋思想の実態が、実は日本の抑圧的なツリー型タテ社会でしかなかったということが、まさにポストモダンの「通俗化」であり「悪用」だったのです。
ちなみに、アカデミズムはタテ社会の最たるものなので、別に「アカデミズムの外」で悪用されてこうなったわけでないことは、少し考えればわかることだと思います。
所詮、日本は日本でしかないのです。
「放言だらけの大座談会」をもう読み続けるのが苦痛になったので、ここで打ち切ることにします。
本当はまだ指摘すべきところがあるのですが、バカバカしさに負けて僕の気持ちが維持しきれませんでした。
たとえば、千葉はメイヤスーがポストモダン批判をしていても、本人の意図とは逆に、メイヤスーがポストモダンの徹底だと強弁したり、
ポストモダン批判をしているマルクス・ガブリエルもポストモダンの徹底だと話しています。
千葉にとっては何でもかんでも、ポストモダン批判までもポストモダンの徹底なのです。
彼が「自分絶対正義」の世界に生きている、ということが誰にでもわかる発言なのではないでしょうか。
こんな人に学問は全く必要ないし、こんな人が代表している学問は社会的に有害だと念を押しておきます。
それから、この座談会メンバーはガブリエルの思想をパースペクティブに基づく相対主義だと解釈していますが、全然間違っています。
彼らはガブリエルが重視する「意味の場」を完全に無視して発言しています。
かつて「ニュクス」5号(2018年)の対談で、千葉はガブリエルに同じ解釈をぶつけたことがあるのですが、
ガブリエルが「意味の場」はパースペクティブではない、と「意味の場」の重要性を示したにもかかわらず、
千葉がそのことを全く理解していない(もしくは理解する気がない)ことが、今回の彼の発言からよくわかりました。
ハッキリ言って、この人は全然勉強しないですよね。
気に入らない人の学説だからと、平気で間違った理解を垂れ流して悪く言うのは誹謗中傷と変わりません。
そのくせガブリエルの著書に「千葉雅也推薦!!」の帯文を書いているのですから、マナーも何もあったものではありません。
ポストモダンについての特集のはずが、批判者に対する文句のオンパレードになっただけの放言大会でした。
(ポストモダン思想がポスト・トゥルースに影響したとしても、ポストモダン思想の責任ではない、とかアホみたいな言い逃れに関してはもう読む気が起きませんでした)
しかし、ポストモダン的主体のこれ以上ないサンプルの提示にはなったと思います。
彼らは思想など置いてけぼりで、「自分たちの思想は誤解されている!」という被害者意識を垂れ流していました。
結局、ポストモダンに対する具体的な批判事例を一つも挙げることはありません。
対等の場であるSNSではすぐ反論をブロックする人間が、権力化したメディアという優位な立場から一方的に批判者を悪く言うのはどう見ても卑怯です。
このように上位階層であるポストモダン的主体は、「メディア上の自己」を現実の自己より上位に置いて権力化していきます。
これは上位階層の余剰資金を反映する株価が、現実の実体経済より遥か上位の経済的価値を示しているのと同様の現象であることに気づく必要があります。
当然ながら、その先に待っているのは〈現実への墜落〉です。
ポストモダン的主体がメディア上で当たり前のようにポスト・トゥルース発言をする時代には、
メディア上の発言を当人がどれだけ現実世界で実行できているか検証する必要があるということです。
匿名に問題があるとすれば、その検証が難しいからにほかなりません。
逆に言えば、実名であっても、メディア上の発言と実生活の行動が全く一致していない人物は、匿名で嘘を吐いている人間と何も変わらないということです。
実名で活動する著名人が、平気で実像と違うことをアピールして利益を得ているのに、
匿名や無名の人にだけ真実の重視を訴えて効果があるでしょうか。
座談会で千葉雅也は、ポストモダンが単純な二項対立の批判だと言っていました。
しかし、当の座談会では実名は正義で匿名は悪とか、旧メディアは正義でネットやSNSは悪とか、
ポストモダンは深遠で、批判する人は安直とか、あまりにわかりやすい二項対立図式に依存して話が進められていました。
つまりポストモダン思想の研究者が、ちっともポストモダン思想の思考法を身につけていないのです。
そんな人がメディア上で「ポストモダンの批判者はポストモダンを理解していない」と文句を言うのですが、
「理解」を「実践」と切り離した場合、何を根拠に他人の「理解」が正しいかどうかを判別できるのでしょうか。
彼らはおそらく研究職にあるという「肩書」が、「理解」の根拠になると思っているのでしょう。
そうなると、結局は研究職のプロに在野のアマが文句を言うな、という社会階層による「差別」があるだけになります。
彼を知る人なら誰も反論しないと思いますが、千葉雅也は間違いなくこのような「差別意識」を持っています。
性的マイノリティで「売名」している教授が、肩書による「差別」を行なっても日本人は誰も差別だとは言いません。
日本人は本質的に差別を問題視などしていないのです。
ただ、性的マイノリティの議論が多くの人の関心を集めるトレンドだから、要するにメディア上で話題として「売れる」から、可視化されているだけなのです。
日本のマスメディアは、単に売れ筋の商品に涎を垂らすだけの「パブロフの犬」でしかありません。
僕は出版社の良識には全く期待していません。
おそらく、彼らが良識に目覚めるより先に、業界全体が経営難に陥ることでしょう。
旧メディアの価値を高めて生き残る道を模索するのではなく、新メディアの低コンテンツとほとんど変わらない放言などを載せているようでは、
自分で自分の価値を貶めているだけでしかありません。
ポストモダン的主体はメディアに依存していますが、別に旧メディアでなくても構わないのです。
新メディアの「実力主義」より旧メディアの「縁故主義」の方がいい思いができるから、旧メディアを選んでいるだけなのです。
こういう新メディアに移行した時に確実に評価を下げる人たちをあてにするだけでは、旧メディアの来るべき運命は変えられないでしょう。
最後にもう一度言いますが、ポストモダンとはメディアによって成立したタテ社会の権力構造です。
これからは「ポストモダンとは腐敗した権力構造である」という真実が、人々に共有される時代が来るでしょう。
さようなら、思想なき現代思想。
さようなら、腐敗したジャーナリズムとアカデミズム。
さようなら、すべての千葉雅也たち。
Tweet
2 Comment
芋村さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2021/07/08 08:29)
- [コメントを編集する]
芋村さん、コメントありがとうございます。
批評する対象と癒着関係にある青木亮人の書いたものに読む価値があるとは思えません。
ポモ俳人と彼は運命共同体みたいなものですからね。
「時代」とか言えば「先祖返り」だろうが「時代遅れのポモ」であろうが、何でも肯定できると思っているのですよ。
内容を読まないと詳しいことはわかりませんが、
彼はいつだって僕の批評に乗っかって、それをただ肯定へとひっくり返すパクリ野郎ですから。
鴇田の部分の引用を見るだけで、「現実に体験した臨場感」とか「実感」に依拠したと言いつつ、「第三者的な主体」とか言って、
すでに矛盾したことが書いてありましたね。
その「認識の変容」がメディア体験でしかないことを、僕はすでに書いているんですけど、
そこは都合が悪いのでパクらないんでしょうね。
しかしアホらしいのは、俳句ではそもそも「「私」という確固とした存念」など表現できない、ということが俳人に共有されていないことです。
これは誰々の句がどうこうという話ではなく、俳句とはそういうものだということですよ。
こういう自明のことを改めて言う人が、よく俳句の論者のような顔をしているものだと呆れますね。
高橋睦郎にでも聞いてみれば、そんなの当たり前だと答えると思いますよ。
青木氏の論
- 芋村さん
- (2021/07/07 23:57)
- [コメントを編集する]
https://fragie.exblog.jp/32349987/