- 2021/06/13
- Category : 南井三鷹の【評論】
千葉雅也に見るポストモダンの権力構造
権力化した旧メディアの落日
2021年の現在、東京オリンピックの開催が迫る中で、新型コロナ(COVID-19)の感染状況の悪化が続いています。
思うような経済活動ができない人も多く、失業も増えていますが、日経平均株価は近年にない高値をつけています。
つまり、実体経済の現場は不況に苦しんでいるのに、金融経済だけはバブルの好景気にあるのです。
このような状況を端的に表現するならば、「階層分断」ということになると思います。
新型コロナの猛威は、日本社会で広がりつつあった経済格差の問題を、階層分断にまで高めつつあると思います。
しかし、この階層分断は単純な経済格差にとどまりません。
生活の現場である「現実」と人々の社会ネットワーク上の〈思念現実〉との分断が進んでいるのです。
このような「人間の生活現場」と「資本のネットワーク」の階層分断は、あらゆる場面でヴァリエーションを変えつつ再生産されていくことになります。
たとえば世代間格差です。
とりわけ人間を相手にする接客業は新型コロナの影響をもろに受けていますが、接客業で働く人たちは主に若い世代です。
それに対して「資本のネットワーク」に属するテレワーク世代は中堅世代が多く、さらに年金世代になれば大部分ステイホームが実現できるわけです。
それが旧メディアと新メディアとの分断を後押ししています。
テレビなどのステイホームメディアは高齢者ばかりが見るようになり、出社する世代はモバイル端末を見ることになります。
テレビや出版などの大手マスメディアは、もう10代20代の人たちにとって価値基準になる重要な情報源ではなくなってきています。
このままでは旧メディアは将来的に消滅することになるでしょう。
旧メディアは既存のお客さんをとどめる以外に手段がないので、旧世代の人々にウケるものを提供していきます。
その結果、旧メディアは「大本営発表」と「ノスタルジー」という商品しか提供できなくなってしまいました。
思想や文学のジャンルで、出版業界がいまだにカビの生えたポストモダンを取り上げるのにはこのような背景があります。
旧メディアに金を使ってくれる世代をターゲットにすると、必然的にポストモダン世代に媚びることにならざるをえないのです。
そこにあるのは「既得権の保守」であり、年寄りの「ノスタルジー」でしかありません。
今やメディア上では右も左も「保守」しか存在しないのが日本です。
上位階層が「ノスタルジー保守」であり、下位階層が「生活的保守」であるという違いがあるだけのことです。
これがそのまま「メタ的趣味オタク(ネトウヨを含む)」と「現実的労働者」へと対応し、これが一人の人間の中で「趣味」と「仕事」の分裂へと置き換えられたりしているのです。
これらの分裂は「既得権の保守」において弁証法的に統合されます。
つまり、今の日本は「既得権の保守」を掲げるファシズムが成立しやすい環境にあるということです。
今の日本を改革するとしたら、必要なことはハッキリしています。
縮小するばかりの既得権にしがみつくことをあきらめて、都合の悪い現実と向き合い、必要な「実力」を高める努力をするということです。
当然ですが、「実力」を基準にする社会では、自分への批判は弾圧するものではなく自己の成長に必要なものになるでしょう。
実際、「実力」を基準とするプロスポーツの世界で、選手への批判を弾圧するという話は聞いたことがありません。
日本で唯一国際的に通用しているのがスポーツの世界であるのは、スポーツ界が昔から実力主義であったからです。
しかし、出版やアカデミズムの世界では、批判をする人が権力によって簡単に弾圧されます。
そのため、批判は必ず権力メカニズムの上位にいる人間が、下位にいる人間に対して行うものになっています。
これでは軍隊とほとんど変わりがありません。
最近SNSの誹謗中傷が問題にされることがありますが、これも同じです。
有名人に対する誹謗中傷ばかりが問題として取り上げられ、有名人や議員などが一般人を誹謗中傷した例に関しては全く取り上げられることがありません。
そのため、匿名であることが問題だという間違った議論まで存在します。
よく観察すれば、階層下位から階層上位への批判ばかりを誹謗中傷と言っているのですが、
日本人には自分で考える力がないので、すぐにこのようなファシズムを準備する情報操作に騙されてしまうのです。
日本人は本質的に権威や権力に対して依存的です。
強いものに依存する性向があるので、権威と権力にはひたすら従順です。
天皇という権威的存在がいつまでも持続したのがその決定的な証拠です。
この国に生きていると、社会階層上位から下位への暴力について憤りすら感じなくなってしまいます。
日本人は権力に従順である、ということを無視して、思想も文学もないと僕は思っていますが、
このような問題意識を持って思想や文学をやっている人は、当然ながら上位階層の居場所となった旧メディアには存在しません。
上位階層が自分たちにとって有利な社会構造を問題だと考えるわけがないからです。
では、下位階層はどうでしょうか。
彼らは抑圧的な上位階層への敵意を持っているでしょうか。
いいえ、全くありません。
なぜなら、彼らは本質的に権力に対して従順な日本人だからです。
日本社会に構造変革があるとしたら、外圧しかありません。
その意味でこの国はスピノザ的な世界にあるわけですが、結果が同じだけで中身は全然スピノザではありません。
さて、今回はポストモダン社会が生み出した典型的人物として千葉雅也を取り上げます。
僕とこの人物に関する因縁について改めて説明するのは気が進みませんが、
僕が千葉の著書に批判的なAmazonレビューを書いたことで、Twitterでさんざん悪口を言われ、最後には不当な言論削除を強いられたことがあるのは事実です。
このあとで検証することになりますが、ハッキリ言って千葉雅也の言うことは嘘だらけです。
ほとんどドナルド・トランプと変わらないポスト・トゥルース人間だと言えます。
千葉は一度僕のAmazonレビューを「誹謗中傷」だとして、弁護士に相談しているとかコメントをしてきたことがあるのですが、
「誹謗中傷」にあたる箇所を明示するように千葉に返答しても、明示することなく「誹謗中傷」という決めつけだけを垂れ流しました。
「誹謗中傷」とか「ヘイト」とか騒ぐわりに、僕の個人ブログに掲載されている同じ内容の文章については何一つ文句を言ってきませんでした。
(ブログ上の文章は全く抗議されることもなく、今も掲載されています)
Amazonで「誹謗中傷」とされたものと全く同じ文章であっても、個人ブログなら「誹謗中傷」に当たらないのです。
このような千葉の態度から、文章の内容そのものが問題ではないことは証明されています。
(本当に内容が「誹謗中傷」や「ヘイト」ならば、個人ブログであっても許せないはずですからね)
彼にとっては、ただ「Amazonに発表した」ことが問題であったのです。
Amazonレビューだと商品購入を考える人に、批判の存在が可視化されることとなります。
つまり、批判の内容が妥当であるかどうかは問題ではなく、ただそこに批判が可視的な存在としてあることが、千葉にとっては許せなかったのです。
(妥当な批判であっても、千葉が決して自分の落ち度を認めず、批判者を罵倒するだけなのは、彼のTwitterを見た人なら誰でも知っていることです)
今さら千葉雅也という人の身勝手さと幼稚さについて確認するのもバカバカしいのですが、必要な説明にしぼって書かせていただきます。
当時のAmazonレビューは、一定の支持を受けなければすぐに上位の順番で表示されなくなるシステムでした。
つまり、僕のAmazonレビューが商品検索の機会に目に入る順位にあったのは、それだけ好意的な投票で支持をする人の比率が高かったからなのです。
(そもそも僕はトップ1000レビュアーでした)
彼はそのような事実を無視して、レビューを書いた僕が「誹謗中傷」をしているかのような嘘をTwitterで垂れ流しました。
もし僕のレビューが「誹謗中傷」や「ヘイト」なら、僕のレビューに好意的な投票をした人たちがみんな「誹謗中傷」の加担者になってしまうのですが、
千葉はとにかく有効な批判を書いた人が憎いだけの幼稚な人物なので、そういうことに考えが及ばないのです。
僕は著者や出版人に嫌われていたので、Amazonの管理下に置かれていました。
千葉が通報したレビューは、Amazonが2週間以上かけて審査して掲載したものでした。
つまり、レビューの掲載はAmazonがガイドラインに抵触していないという判断の上で行われたのですが、
Amazonの判断を無視してレビュアーだけを個人攻撃するのは、典型的な「弱いものいじめ」だと言えるでしょう。
僕の文章が著書の本文参照に基づく批判でしかないことは、現在残っているレビューを読めば明らかです。
それを「誹謗中傷」などとTwitterで喧伝して、書き手の評判を傷つける方が、実際には誹謗中傷行為なのではないかと疑います。
(画面が汚れるので、当時の千葉のツイートの提示は割愛します)
このように、千葉雅也という人間は自分の本の売り上げの邪魔になる批判言説に対して、
言いがかりをつけたり、弁護士を持ち出して脅迫したり、著者権力によって通報したりして弾圧した人物です。
どう擁護しようと彼が言論弾圧者であることは紛れもない事実なのですが、
なぜか言論を扱うマスコミや出版業界は千葉をやたらに取り上げ、あろうことか小説を書かせた上に、文学賞を次々と与えています。
僕が今まであまり千葉とのことを書いてこなかったのは、千葉に弾圧された「佐野波布一」はすでに故人でもありますし、個人的なことだと思ったからです。
しかし、現状を見ると、反省という回路を持たない千葉雅也はともかく、
そんな「魂のステージが低い」人物の保護をしている業界の社会病理については、何か書いておいた方がいいと思いました。
千葉雅也を保護している業界とは、出版業界とアカデミズムです。
彼らは要するに出版資本という「既得権の保守」しか考えていないのだと思います。
(大学の中には出版業をやっているところがあることを忘れてはいけません)
出版業界とアカデミズムは、インターネットの一般化によって権威が失われる旧メディア依存度が高い業界です。
(最近はYouTube大学を名乗るチャンネルもあるので、アカデミズムの教育力が問題にされる日も近いと思います)
出版という旧メディアや大学教員は、情報の一方的な発信者として優位な立場が約束されているため、双方向通信を前提とする社会では「実力」がなければ己の権威が維持できません。
そのため、「実力」に欠ける教員ほど、優位性を保持した一方向の発信にこだわることになります。
自分を批判する人物がエゴサーチで目に留まると、絡まれもしないのにブロックしていく千葉雅也はその典型ですが、
自分は好き勝手言いたい放題なのに、相手からの批判は機能的に消去する、という人間は、普通に考えれば、ファシズム体制を批判する資格のない人間です。
こういう行為をどう思うのか、〈フランス現代思想〉を研究しているフランス人に聞いてみたらいいと思います。
(権威を頼りたくて日本の落日大学にしがみついている文系アカデミシャンには聞くだけムダです)
発信側が優位な立場を確保できる旧メディアのピークが、80年代であったことは疑いようのない事実です。
テレビや雑誌を中心に日本が回っていたと言っても過言ではありません。
つまり、この時期の旧メディアは政治権力を凌ぐほどの権力であったのです。
しかし、インターネットの台頭によって、旧メディアという王国は視聴者や購読者だけでなく、収入源である高い広告料も失いました。
旧メディアとアカデミズムの結託に関しては、
大手の旧メディア──大手新聞社やテレビ局、大手出版社──に就職する人たちが、高学歴エリートばかりであることも考えないわけにはいきません。
旧メディアとインターネットが階層対立化する原因には、旧メディアの担い手に屈折したエリート意識があるということです。
日本のテレビ局が、バブル崩壊以後になってやたらタレントの学歴を声高に言うようになったのは、
「落ち目のメディア」となった現実を否認するために、学歴でプライドを支えたがる業界人が増えたからではないでしょうか。
いつまでたっても出身大学などで価値判断をする社会というのはお笑いでしかありません。
たとえばイチローがドラフト4位で入団したことを、今バカにする人がいたらどう思われるでしょうか。
実力主義に耐えられない人たちが学歴という「過去」に執着するのです。
スポーツのことを考えれば、それがよくわかると思います。
出版業界が担いでいる東大卒のエリート哲学者が、正体不明のインターネット言論人より頭が悪いことが露呈すると、旧メディアの権威が崩壊することになってしまいます。
千葉雅也の言論弾圧が旧メディアに問題として受け止められていないのは、彼の弾圧行為が旧メディア自身の欲望を代行したものでしかなかったからです。
ここには上位階層と下位階層の分断の問題が隠されています。
80年代に権力化した旧メディアが、既得権の保守のためにインターネット言説を弾圧するという構図です。
出版資本が上位階層であり、インターネットなどは言説としての価値がないと言いたいのです。
前述しましたが、「テラスハウス」の出演者への中傷が問題になったのも、
テレビという旧メディアのコンテンツに、新メディアのSNSが強い力を発揮したということが背景にあると思います。
(なぜなら、SNSでのいじめなど昔からいくらでもあったし、自殺者もたくさん出ていたのに、旧権力の維持と無関係な事態は問題にされなかったからです)
しかし、言説の価値は表明されたメディアによって決まるものなのでしょうか。
インターネットだとダメ、SNSだとダメ、だけど大手マスメディアならOK。
無名や匿名だとダメで、麻生太郎だったら失礼なことを言ってもOK。
そこにはむき出しの階層的な権力構造しかありません。
旧メディアの権力的「ツリー」構造こそが、日本型ポストモダンの特徴です。
日本では〈フランス現代思想〉が、アカデミックな「ツリー」構造に吸収されたものであることを無視してはいけません。
日本のポストモダン思想は、常に資本や権力と結託して存在していました。
ポストモダンを象徴するものが「広告」であるのは、それがメディア権力の命運を握っているからです。
ポストモダンとはメディアが権力化する時代のことであり、そのルーツはナチスドイツにあります。
(ちなみにオリンピックの聖火リレーは、ナチスドイツの宣伝大臣ゲッペルスが演出した「広告」として始まったものです)
その意味で、僕は日本のポストモダン現象を支えた〈俗流フランス現代思想〉が、ファシズムに抵抗するものだと思ったことは一度もありません。
しかし、現代思想はともかく、いつから文学が上位階層の宣伝をするものでしかなくなったのでしょう。
カネもヒマもある大学教授が、編集者と相談して書いた小説に文学賞が与えられるのですから。
今の文学賞に選ばれることが才能や実力と何の関係もないことはハッキリしています。
才能や実力があるなら編集者と相談する必要もありませんし、売れた名前を隠して作品だけで勝負できるはずだからです。
要するに、旧メディアの後押しがあれば、才能などなくても活躍できることを示して、旧メディアの「権力」を宣伝したいだけなのです。
我に跪いて媚びよ、さすれば汝の書くものは救われよう。
ポストモダンにかぶれた人間が、「書く」ことを取り上げて勿体ぶったことをグダグダ言っていても、真剣に聞いてはいけません。
彼らにとって「書く」ことは問題ではないのです。
「書かれたもの」をメディア権力によって流通させることだけが問題なのです。
ただ、流通こそが大事だ、などと本当のことを言うと、要するに商売なのだということがバレてしまうので、
高尚に見えるように「書く」ことがどうこうと言って、素朴な人を騙しているのです。
しかし、注意して見れば、彼らが口にする「書く」こととは、メディア上の流通が前提になっているはずです。
エミリー・ディキンソンの誰に見せるわけでもなく書かれた詩篇の価値などは、ママやパパに見てもらうことでしか行動できない彼らの脳には、一ミリたりとて存在しないのです。
日本のポストモダン思想は、メディア権力に対する依存によって成立しています。
そのため、ポストモダン思想が広まることは、メディア権力にとって自らに従順な人々を増やすことにつながります。
なぜポストモダン文化人がやたらにメディアに露出するのか、不思議に思ったことはありませんか?
メディアとの癒着こそがポストモダンの正体だからなのです。
80年代的な古いメディア権力構造は、アカデミックなポストモダン思想によって支えられてきた面があるのです。
僕はそのようなメディアと癒着したアカデミズムのツリー型権力構造の象徴が千葉雅也だと考えています。
(つまり、この文章で僕が千葉雅也という固有名で示すものは、千葉雅也という一個の人格ではなく、彼を必要とする旧来の日本「タテ社会」の象徴だということです)
千葉雅也を調べると、アカデミズムにおける論文などの実績が驚くほど乏しく、商業雑誌に執筆したものばかりが出てきます。
そんな実績で教授になれる今のアカデミズムのメディア癒着にも驚くのですが、彼がポストモダンの象徴だというのはこのような雑誌メディアへの依存にあります。
彼は上司に取り入るのが得意であるらしく、タテ社会のツリー的権威構造を擁護する発言(「ソフトな権威主義」とか)を数多くしています。
ドゥルーズ研究者がツリー構造に依存している時点で意味不明なのですが、こういう矛盾を矛盾と思わずにいられるのが日本人なのです。
いや、本当にすごいですよ、日本的スノビズムというものは。
まだなぜポストモダンか
雑誌「現代思想」の最新号(2021年6月号)の特集は「いまなぜポストモダンか」でした。
ここの巻頭座談会に千葉雅也が出ています。
その内容を見ていくのは【付録】に譲るとして、この「いまなぜポストモダンか」という見出しが失笑を誘います。
ポストモダンという言葉は1980年代に「流行」として口にされるようになった言葉なのですが、
東浩紀が『動物化するポストモダン』(2001年)を出版したことで、ポストモダンがオタクの自己規定となり、ゼロ年代の同時性のように思われたことで、延命していった面はあると思います。
しかし、2001年から考えても20年経っています。
ポストモダン思想はとっくに時代遅れであるのですが、その時代遅れのポストモダン思想に最後までしがみついているのがこの雑誌であることは間違いありません。
「現代思想」はいつでも思想の「最新事情」という特集を組んで、〈フランス現代思想〉のマンネリ研究者を起用し続けてきました。
表題には「新展開」とか「新展望」とかいう文字が踊っていても、いつも執筆陣がほとんど変わらないという二枚舌雑誌であったのです。
参考までに、ここに青土社のホームページにある最新号の紹介文を載せておきましょう。
現代思想といえばポストモダンだった時代があった
かつての最先端の思想が時とともに通俗化し、アカデミズムの外で詭弁の道具として悪用されるようになった。意図しなかった帰結を前にポストモダンとは何だったのかがあらためて問われている。
単なる批判に終始するのではなく、私たちはポストモダンに未知の可能性を見出しうるのだろうか。
ここにあるように、とうとう「現代思想」も「ポストモダン」が完全に過去の思想だと認めています。
それも当然なのです。
実は20年も前の2001年11月号の「現代思想」では、「ポストモダンとは何だったのか」という特集をしていたのです。
「何だったのか」という問いが過去のものに対する考察であるのは言うまでもないことです。
それが20年前のことなのです。
ここでは「ポストモダンとは何だったのか 80年代論」と書かれていて、ポストモダン=80年代ということが示されています。
ポストモダンがバブル時代をルーツにしていることは、20年前には普通に流通していた考えだったのです。
日本のポストモダン思想やポストモダン現象には、どうしてもバブル時代へのノスタルジーが刻印されています。
とりわけ40代以上の初老の世代がポストモダンなどと言っている場合は、失われた若さへのノスタルジーを読み取るべきでしょう。
では、なぜ「悪用されるようになった」ポストモダンを「現代思想」編集部は取り上げるのでしょうか。
理由は簡単で、そこには出版社の癒着構造があるのです。
「現代思想」が〈フランス現代思想〉を扱うときには、執筆する面々がだいたい決まっています。
最近はいつも巻頭の座談会が千葉雅也です。
これをAmazonレビューで癒着だと書いたのが僕なので、僕はこの界隈の人たちに敵視されているのですが、実はただの一度もこれが癒着ではないと反論してきた人はいません。
「たとえそうであっても表立って言うな」というのがこの国のあり方でしかないのです。
みんなわかっているが言わないようにしている、
だからお前も言うな、
というこの国でよくよく見かける無言の圧力です。
先ほど「既得権の保守」と言いましたが、「現代思想」という雑誌は〈フランス現代思想〉関連の特定のアカデミシャンと深い関わりを持っています。
だいたい、今やほとんど思想関係の特集をしなくなったこの雑誌が、
毎年1月号と6月号に定期的に思想の特集を組むという事実が、背後に官僚的な癒着構造があることを雄弁に語っています。
出版事情に詳しい人なら、その月だけは定期的なスポンサーが雑誌の紙面を買っているということを想像するのではないでしょうか。
(そしてそのスポンサーが千葉雅也を売り込みたがっているということです)
つまり、日本のポストモダンなどは旧メディアの既得権益の維持のための道具にすぎないのですが、
自分で思想書を読む力のないライトな読者は、何もわからずにポストモダンが現代思想であるかのように勘違いしています。
あまりハッキリ言うと嫌われるので言いたくはありませんが、
村上春樹のファンの多くが硬派な世界文学をほとんど読まない人であるのと同じように、
〈フランス現代思想〉信奉者には独力で哲学書を読み通せないただの権威主義者が数多くいます。
なぜまだポストモダンなのか、の最大の理由は、日本のポストモダン思想や〈フランス現代思想〉はそもそも思想ではないからです。
思想のフリをした「メディア的現象」でしかないのです。
インパクトのない博論以外に、まともな「思想書」を書いてもいない千葉雅也が、メディアの「売り出し」だけでその中心に居座っていることでもそれはハッキリしています。
趣味的な感覚でしかないものをメディアを通じて「思想」としてドーピングする、知性の整形手術みたいなものです。
メディアによるマーケティングのコントロール下にある現象なので、思想を読んだこともなければ読む力もない、メディアが出す情報を後追いするだけの人が本を買ってくれます。
それで通常の思想書より断然売れるのです。
(そして、単なる趣味感覚を「思想」だと思い込んでいるのです)
いまだにポストモダン思想がメディア上で流通しているのは、端的に思想の敗北でしかありません。
「現代思想」はポストモダンが「アカデミズムの外で詭弁の道具として悪用されるようになった」と書いていますが、
研究実績の乏しい千葉のような人間をスター化して、「アカデミズムの外」で「詭弁」を弄する機会を与えてきたのが、彼ら「現代思想」や癒着出版社であることにはどう答えるのでしょうか。
このように自身の悪事を被害者顔で語るのが、ポストモダンの「悪用」の最たるものです。
日本のポストモダン現象はフランス思想に偏った東大アカデミズムに牽引されたものです。
「悪用」が「アカデミズムの外」の現象であるかのように書いている「現代思想」の「詭弁」を見れば、誰を擁護したくて嘘を書いているかがよくわかるというものです。
まあ、スポンサーの顔色をうかがっているだけの雑誌ですからね。
ならば千葉雅也を積極的に売り出している文芸誌「新潮」はどうなのでしょうか。
新潮社が千葉雅也を持ち上げたがるのには、会社の内輪事情があります。
みなさんは「新潮45」という雑誌が休刊に追い込まれた事件をおぼえていますか?
2018年の「新潮45」8月号と10月号の記事が性的マイノリティ(LGBT)に対して差別的だと批判が集まり、
著名な文筆家の中には、新潮社とは仕事をしないと宣言する人まで出てくる大騒動がありました。
文芸誌「新潮」がLGBT差別の汚名を晴らすべく、ゲイを公言する大学人に小説の執筆を打診したというのが、作家千葉雅也誕生の裏事情というところです。
自分以外の人への想像力を持たないナルシストの書く小説は、自身に取材したものしかありえないので、彼に小説を依頼すればLGBTネタになるのはごく自然な流れでしょう。
「新潮」の編集長の矢野優と〈フランス現代思想〉関係の売文家たちに個人的な人脈があることは知る人なら知っています。
要するに、新潮社の「性的マイノリティを差別してないよアピール」のために優遇されているだけのことなのですが、
出版社が文学賞を買い取って己の保身に利用することには、世も末という印象を禁じえません。
もちろん、これもある種の癒着であることは言うまでもないことです。
このように、旧メディアたる出版社の腐敗はひどいものですが、例によって「現代思想」はマーケティングに有利な同一ラインの人物ばかりを起用しますよね。
仲山ひふみもよく見る名前ですが、人脈以外に起用される理由が全くわかりません。
(この人って何をしている人なんですか?)
宮﨑裕助のデリダ論も読みましたが、だいぶ内容がお粗末だったので、すぐに古本屋に売ってしまいました。
「実力」だけなら鹿野祐嗣の方が断然上だと思いますが、彼は「現代思想」的な商売を批判しているので、嫌われているでしょうね。
こういうホモソーシャルの内輪人脈で固めたラインナップでは、知的な読者を相手にしていないのがバレバレです。
どう見ても多様性不在のオタク向け雑誌でしかありません。
〈フランス現代思想〉を権威づけに利用してはいますが、実際はポストモダン=オタクというのが実態なので、こうなってしまうのです。
マイノリティ意識の権力化
「現代思想」のいつもの顔ぶれにポストモダンの批判などできるはずもないので、記事を読む必要は感じません。
権力や資本の批判ができない彼らの代わりに、今回は日本ポストモダンの正体を僕が定義しましょう。
日本のポストモダン現象とは、一言で言えばオタクによる「マイノリティ意識の権力化」と定義できます。
ほとんどこれがすべてです。
マイノリティという自意識を持つ「オタク」が、メディアと癒着して権力化し、自分の「加害責任」を無化する〈被害者意識の天国〉を生み出す権力構造のことです。
ポストモダンに潜む権力意識を指摘できないポストモダン考察など、全く意味がありません。
「マイノリティ意識の権力化」とはどういうことかというと、
「自分は少数派に属している」と思い込んでいたり、強調していたりするオタク的な人が、実際には権力と結びついていくということです。
このマイノリティの定義は当人の「自意識」によって行われるため、現実に本当にそうであるか、ということとは無関係に成立します。
自分がマイノリティだと思えば、誰でもマイノリティなのです。
(ポストモダン的主体が、客観的トゥルースより自意識を重視していることが、ポスト・トゥルース状況を招いた原因です)
彼らは自分をマイノリティだと定義したがります。
なぜなら、そうすることで、「自分は多数派とは違う」というオタク的ナルシシズムを持つことができる上に、
多数派が支配する社会から迫害を受けている「被害者」として、自らの「加害責任」を免除されることになり、他人を一方的に批判する優位な立場を手にすることができるからです。
これが社会的に無力な存在であるオタクのナルシシズムを高める効果をもたらしたのです。
今回ポストモダンの象徴として取り上げる千葉雅也は、ポストモダン的主体の典型だと言えます。
彼は性的マイノリティであることを公言していて、それが彼自身にマイノリティ意識を持たせていることは間違いありません。
僕は個人的に性的マイノリティを特別だと思ったことはありませんし、むしろいろいろな人がいるのが普通だと思っているのですが、
世の人々はそういう「ネタ」が大好きらしく、千葉にやたらセクシュアリティの話をさせることを好みます。
彼が書いた小説も、すべて「ゲイである僕」について書かれたものでしかありません。
このような「私はマイノリティなんだ」という被害者意識が、ポストモダン的主体同士の間で「交換」され、共感されることで、権力として機能していくのです。
ここで非常に重要なことを指摘します。
千葉雅也というキャラクターが巧妙なのは、公的メディアで性的マイノリティだと自己宣伝することで、自らがオタク的マイノリティを代表した存在であることを隠蔽できるという点にあります。
現代思想というオタク領域において、千葉はほとんど性的マイノリティを正面から扱うような仕事はしてきませんでした。
彼のファンもほとんどがLGBTとは無関係なオタクばかりです。
しかし、彼は新聞などの一般メディアに登場するときになると、性的マイノリティとしての自分を押し出します。
朝日新聞も日本経済新聞もこういう千葉の巧妙な手口にまんまと騙されていました。
(安倍内閣の総括を千葉雅也などに取材する朝日新聞の愚かさと言ったら!)
つまり、千葉は外部には性的マイノリティの顔、内輪にはオタク的マイノリティの顔を使い分けているのです。
これが千葉雅也のメディア戦略です。
わかりやすくまとめてみましょう。
① 一般マスメディアで自身のマイノリティとしての社会的イメージを流通させ、人々に認知させる
② 社会的マイノリティであることを言い訳にできるため、多数派の規範に縛られずに私的領域を無限に拡大する
(千葉がPCやリベラル、道徳に対して好き勝手批判できるのはこの成果だと言えるでしょう)
③ 私的領域の無限拡大はオタクの夢であり、オタクからの支持により権力化する
④ 公的な認知によって私的領域を無限拡大しているため、私的な感情で権力を濫用した言論弾圧さえ平気で行う
マイノリティだと認知されれば、多数派の作った公的規範を守らなくていい、というポストモダン的逆転の権力構造がここにはあります。
(東アジアのマイノリティと化した日本は、もう連合国=アメリカの作った憲法を守る必要がない、という発想と同じ構図です)
このような戦略に騙されずに、千葉雅也の本質が東浩紀の系譜に連なった社会逃避型ポストモダンオタクの代表であることを認識する必要があります。
それ以外の社会的場面で、千葉雅也がマイノリティであるとは思えません。
彼はどう見ても権力の近くにいることを好んでいますし、たいした実績もないのに大学教授にしてもらえるくらいに社会的に優遇されています。
前述したように、旧メディアの権力を盾にして、インターネットの言論を弾圧してもいます。
彼が専攻しているドゥルーズなどは、〈フランス現代思想〉のメジャー中のメジャーで流行「ど真ん中」でしたし、
それを批判する僕の方が圧倒的に真のマイノリティなのは誰にでもわかる事実です。
社会人としての千葉雅也全体におけるマイノリティ度合は10%くらいのものでしょう。
90%は多数派や権力志向のマジョリティ的な性質しか見当たりません。
しかし、彼は殊更に自分の中の10%をメディア上で「宣伝」して、自分がマイノリティであると人々に認知させているのです。
これがポストモダン的主体の典型的な戦略であり、彼は「マイノリティ意識を持つマジョリティ=オタク」たちの代表権力なのです。
千葉雅也の友人に北大路翼という俳人がいるのですが、
新宿歌舞伎町を根城にする彼は、「アウトロー」と自称して活動していました。
しかし、北大路翼は短歌・俳句界に強い影響力を持つ角川書店の編集者であり、アウトローどころか権力近傍の業界インサイダーであるという事実を隠していたのです。
こういう現実を都合良く切り離した「自称マイノリティ」現象とは、実際は権力の近くにいながら権力と離れている顔をする、ポストモダン的な主体の権力構造を示したものでしかありません。
たしかに「マイノリティ」をヒーロー化する欲望は、サブカルによくある設定ですので、憧れるのはわかります。
しかし、よく観察すると、現実のポストモダン的主体は全然マイノリティではないのです。
彼らは皆一様にメディアに取り上げられ、メディア権力に後押しされた「自称マイノリティというメディア権力」の代表でしかありません。
このような「マイノリティ戦略」が〈フランス現代思想〉と大きく関係していることは無視できません。
おおかた「自分はマイノリティだ」という劣等意識をメディア権力によって逆転したがる人が、ポストモダン思想つまり〈フランス現代思想〉に接近することになるのです。
通常 「自分はマイノリティだ」→劣等感
↓
ポモ 「自分はマイノリティだ」→「マジョリティの大衆とは違うイケてる存在なのだ」→優越感
という逆転がそこでは求められているのです。
柄谷行人はポストモダンを下位と上位の逆転として定義しています。
商品があって、その広告があるのではなく、広告があることで、その商品が売れるという広告優位のあり方が例に挙げられます。
広告優位とは、言ってみればメディアの権力化と結びついた現象です。
このようなポストモダン現象を出版業に当てはめれば、執筆者よりそれをメディアに掲載する編集者の方が上位であり、
さらに編集者を従わせるスポンサーの方がより上位である、ということになります。
これでは結局、ポストモダンとは資本を握っている者が強いという資本主義の権力構造でしかありません。
僕が常々批判しているのは、〈フランス現代思想〉が日本では消費資本主義の応援団でしかなかったということです。
デリダが対面的な音声コミュニケーションを「現前」として批判し、エクリチュールを根源化したことは的外れだったと僕は思っています。
彼の思想はオリジナル(現実)を無視したコピー(メディア)の権力化に利用されました。
デリダはユダヤ人ですが、〈フランス現代思想〉は全体傾向として、ギリシア的ロゴス中心主義をユダヤ系思想によって批判したものと整理できます。
ユダヤ人とフランス人はナチスドイツの被害者ですし、ユダヤ人は欧州におけるマイノリティです。
〈フランス現代思想〉が「ナチスの被害者」だという事実やマイノリティ意識と結びついているのは、間違いありません。
(僕は〈ネットワーク型権力〉の記事で、フーコーの権力論が人間の自発的な権力への隷属欲求を無視した、被害意識で構成されたものであることを指摘しています)
つまり、〈フランス現代思想〉を中心としたポストモダンの価値観に依拠するためには、自らが被害者でありマイノリティであることを「宣伝」する必要が出てくるのです。
僕が言いたいのは、ナチスへの被害者意識を強く持つユダヤ人が作ったイスラエルというポストモダン国家が、
アメリカの後ろ盾を得てパレスチナで何をしているか、ということです。
〈被害者意識の天国〉で行われた虐殺・追放行為について、なぜ日本人はあまり批判しないのでしょうか。
イスラエルについて〈フランス現代思想〉研究者が問題にしたことがあったでしょうか。
彼らは都合の悪い事実については知らん顔をし、すでに敗北したナチスのことばかり批判しているのです。
僕はイスラエルについて無関心でいられる知識人は信用しないことにしています。
千葉雅也の嘘にも自分を被害者だと偽るパターンが非常に多くあります。
彼は自分からレビュアーに文句をつけておきながら、相手に反論されると自分がヘイトの被害を受けている、と言い出したり、
低評価のレビューを書く人は「基本アホ」と先に侮辱しておきながら、それを取り上げて責められると、自分が侮辱されたと被害者顔で騒ぎ立てたりしました。
先に相手を攻撃して、自分が反論されるとメディアで被害を「宣伝」するというやり口は最低です。
著作を引用した批判に対して、反論ではなく文句を言うだけなのは、そもそも彼に学者の適性がないことを示しています。
論理を操れずメディアで嘘を垂れ流す人でも、東大がバックにいればエリート哲学者扱いするのが、現在の腐敗した出版ジャーナリズムなのです。
もう一度言いますが、ポストモダン的主体は、自分をマイノリティの位置に置いてメディア権力と一体化することで自らをメタ化し、
自分が抱えるコンプレックスを、優越感へと逆転させることを欲望しています。
つまるところ、彼らの目的はメディア権力の近傍で優越感を得ることでしかありません。
そのためには自分がマイノリティであることを、メディアを通じてマジョリティに承認してもらう必要があります。
これがポストモダン的主体にまつわる矛盾です。
自分をマイノリティに位置づけながらも、実際にはマジョリティの支持を必要としているのです。
つまり、ポストモダン的主体という自称マイノリティは、メディア権力に動かされるマジョリティに支えられた「権力」なのです。
メディア権力に動かされるマジョリティとは、腐敗した雑誌などを信じてしまうメディアの臣民=主体のことです。
ポストモダン的主体の最終目的はメディアによって、その臣民たるマジョリティの支持を取りつけることであり、端的に「売れる」「バズる」ということにあります。
この矛盾を成立させるのが権力化したメディアであり、メディアという「権力」なくして成立しえないのがポストモダン的主体なのです。
マイノリティがマジョリティに支持される方法は「共感」や「同情」しかありません。
こうしてポストモダン的主体は、自分が多数派によって迫害を受けているという「被害者物語」をでっちあけることに労力をかけるようになります。
その結果、どう見てもメディア権力と癒着した体制派でしかない人が、「自分は迫害されているマイノリティ」であり、「多数派の圧力に抵抗している」という神話を語ることになるのです。
(選挙で大統領になったトランプが、自分が負けると大統領選挙は不正だと被害者ぶったのは、まさにポストモダン的なやり口と言えます)
自分が加害者であるという事実を抹消して、被害者意識を前面に立てる自意識の構造が、ネトウヨに代表される保守の精神構造とほとんど変わらないことに注意が必要です。
何度も指摘していることですが、ネトウヨ的保守とポストモダン的主体の精神構造は変わりがありません。
保守勢力は実際には政権与党の総理大臣と一体化していたのに、自分たちが中国や韓国、もしくは国内のヘナチョコ左翼勢力に脅かされたマイノリティだと言いたがります。
そうすることで、自分たちの国が戦争加害国であるという劣等意識を、優越感へと転じる心理操作をしているのです。
もう一度まとめておきましょう。
ポストモダン的主体は、メディア権力によって可視化された「自称マイノリティ」であり、本当のマイノリティではありません。
それを支持するのが、ただコミュニケーションに後ろ向きで孤立感を感じているだけの「大衆」です。
マイノリティ気分の「大衆」は、これらメディア上の「自称マイノリティ」から、自分を代表してくれる人を選択し、その人を応援して「権力」を持たせます。
おわかりでしょうか。
これは民主的な選挙のシステムと何ら変わらないのです。
つまり、メディア上のポストモダン的主体は、選挙で当選した政治家のような存在です。
日本の政治家の多くが世襲であったり、元エリート官僚であったり、資本家やタレントであるように、
「自称マイノリティ」のポストモダン的主体も権力の近くにいる人間ばかりなのです。
「責任」を追求されない被害者的(=メタ的)な位置で権力を行使するために、マイノリティを自称する作為的構造とも言えます。
大衆のネガティブ感情の代表でしかないポストモダン的主体は、己の醜い出自を隠すために、アートだとか詩だとか思想だとか言って高尚ぶりたがるのです。
メディア上で可視化されたものへの「信仰」
ポストモダン的主体というものを考える場合、右と左の違いなど全く本質的ではありません。
政治家に右と左の人がいるように、ポストモダン的主体にも両側の人がいるからです。
問題は両者がともに現実や事実よりも、自分にとって都合良く形成された自意識の方に価値を置いている、ということにあります。
こういう人にとっては、たとえ事実であっても、自分の自意識にとって受け入れ難いものは「誹謗中傷」となるのが道理です。
千葉雅也が不都合な言説をブロックして不可視化するのは、自分に都合のいい可視的メディア世界(フィルターバブル)に安住したいという欲望を表しているのですが、
都合のいい情報に満たされたフィルターバブルとは、さながら「子宮」のようではありませんか。
「権力メディアが可視化した都合のいい情報」だけが、ポストモダン的主体にとっての真実なのです。
ここでポストモダン的主体の特徴について整理しておきましょう。
① 〈加害者-権力者-マジョリティ〉としての自己を否認し、自分を〈被害者-反抗者-マイノリティ〉の位置に置く(必要ならば嘘の迫害者を作り出す)
② 大衆のネガティブ感情を代表して、メディア権力に支持された発信者の位置を得て権力化する
③ 権力としてのメディアを駆使して、メタ的な位置から不都合な現実(多数派的規範)を消去し、自己都合の嘘を可視化し拡大する(私的領域の無限拡大)
④ 可視化された自己都合世界の全体主義(〈可視的表層主義〉信仰)
⑤ 被害者意識と他者(=不都合な現実)の消去に依存した「責任」回避の子宮型ナルシシズム
このようなポストモダン的主体が、厳しい批評を弾圧し、自己の過剰宣伝を流通=布教させたがるのは道理です。
ここで詳しく話すのはやめておきますが、
大きな視野で見たポストモダンとは、現世に「神の国」を実現するキリスト教の欲望の上にあります。
自分に都合の良いメディア上の世界こそが、ポストモダン的主体を現世の苦悩から救済してくれる「神の国」なのです。
メディアに依存したポストモダン中毒患者のふるまいが宗教人じみているのはこういう理由です。
彼らが欲望のままに抑圧し弾圧するものとは、「リアルな現実」そのものなのです。
こう考えると、千葉雅也がAmazonレビューにだけ激しく文句をつけて、僕の個人ブログには全く関心がなかったことも理解できると思います。
Amazonは多数の人が参照し、可視化する権力として機能するメディアなので、そこで支持を受けた批判はポストモダン的主体には真実同然に機能します。
ポストモダン的主体にとっては閲覧者の少ないメディアなどは存在しないも同然ですので、何が書かれていようが気にもならないのです。
ポストモダン的主体はメディア権力に依存しているので、権力への反抗などは全く存在しない、徹底去勢された存在です。
逆に言えば、自分にメディア権力での発言権が保証されていれば、他のどんな権力にも対抗することができます。
千葉雅也で言うなら、大手出版業のお偉方と、アカデミズムのお偉方には絶対に逆らうことができないのです。
彼は口では偉そうなことを言っていますが、僕が徹底交戦している出版業界とアカデミズムという権力には逆らうことができません。
だから立命館大学に正当な抗議をすれば、いつ注意をされたのかがわかるくらいピタッと悪口を言わなくなります。
千葉をよく観察してみれば、出版業界とアカデミズムのお偉方に対しては、ひたすらご機嫌を取って媚びまくっていることがわかります。
(彼が不遜な態度を取る相手は、決まって権力を持たない一般人です)
ポストモダン的主体に隠されたツリー型権力構造がわかってしまえば、
彼らの「抵抗の素振り」が、いかにメディアの可視的権力性に依存した「抵抗のフリ」であるかは明らかです。
出版業界は実力のある人間を歓迎するのではなく、ただ自分たちメディア権力に依存している人間をありがたがっているのです。
これが旧メディア側の保守性の現れであることは言うまでもありません。
ドナルド・トランプというポストモダン的主体が覇権国家のトップになるように、今やポストモダン的な権力構造は近代国家の中心部をも支配しています。
お題目的なポストモダン思想は〈フランス現代思想〉を含めて「近代」と「国家」を批判してきましたが、
今や国家権力のあり方もポストモダン的な権力構造になっています。
トランプはメキシコとの国境に壁を作ると公約して選挙に勝ちましたが、この分離壁という発想に「イスラエル的なもの」を見る必要があります。
最近のニュースを例に挙げると、霞ヶ関の省庁でテレワークの実施調査をする人を事前通知し、その日だけテレワークで人流がガクンと減ったことが暴露されました。
新型コロナ感染対策として、政府は民間企業にテレワークを7割にすることを求めていたので、範を示す必要があったのですが、
調査日だけテレワークをする人を増やして、現実と乖離した都合の良い数値を可視化することにしたわけです。
現実と異なる都合の良い「作為」を真実として流通させる力が、ポストモダン的な「権力」なのです。
かつて丸山眞男は近代的「作為」とプレモダン的「自然」を対比しましたが、ポストモダンにおいては自意識的「自然」はメディア的「作為」と一体化しているのです。
重要なのは、「作為的虚構」は上位階層のために存在し、下位階層に残されたものは「不都合な現実」だけだということです。
下位階層が現実逃避をしているかぎり、上位階層の権力的地位は安泰なのです。
メディア上の「広告」を限りなく「社会的真実」として広めようとするポストモダン的主体にとって、
「不都合な真実」の暴露つまり真のジャーナリズムはタブーとして認定されます。
総理大臣のスキャンダルにまつわる真実がいつまでも隠蔽され続けているのを見れば、この国に真っ当なジャーナリズムが機能していないのは明らかです。
こうしてジャーナリズムは真実の暴露を目指さなくなり、権力者に都合の良い「大本営発表」を垂れ流して信用を無くしていきました。
ジャーナリズムが真実の暴露をゲスな行為として嫌ったために、「週刊文春」のようなゲスな暴露雑誌の方が、政治権力に打撃を与える硬派なジャーナリズムを展開している始末です。
これはポストモダン的な逆転現象の番外編と言うべきでしょうか。
要するに、マジョリティに承認されたマイノリティであるポストモダン的主体は、社会的規範や責任から逃れる「特権」を得るために、
自分にとって都合の良いことだけを可視化して、不都合な現実を視界から消していくのです。
都合の良い部分だけを他人に見せて、その部分だけで他人から承認を受けたいのです。
こういう人が増えれば、自分のすべてを他人にさらけ出すことなどできなくなるので、他人との同居生活や作為のない対面的コミュニケーションを嫌うオタク的な人が続出するでしょう。
そうやって孤立感を深めることで、さらに自分がマイノリティだという自意識を育てていくのです。
彼らは「神の国」の消費生活に塩漬けにされている間に、自分たちが何を奪われたのかにさえ気づくことができません。
しかし、巨大化した自意識を「メディア的作為」によって救済したからといって、現実を失った彼らに生きている意味などあるのでしょうか。
最後に重要なことを指摘しておきます。
ポストモダン現象がバブル崩壊後も廃れずに継続し続けた理由についてです。
ポストモダン思想は80年台に消費社会と知の大衆化を背景に広まりましたが、ゼロ年代になってサブカル化=オタク化へと舵を切ることで延命していきました。
(浅田彰から東浩紀へのバトンタッチという感じですね)
ゼロ年代は『新世紀エヴァンゲリオン』の大衆的波及などを受けて、市場でオタクたちの消費力が「発見」された時期です。
東浩紀の『動物化するポストモダン』(2001年)や『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年)は、オタクの市場価値を背景にして書かれた本です。
つまり、バブル崩壊以後、日本の文化産業はオタクをターゲットにして縮小する市場を「保守」する道を模索するようになったのです。
(韓国が外の市場へと打って出たのとは対照的で、その差は今やハッキリとついています)
こうして〈フランス現代思想〉がサブカル化する各文化領域で、バイブルのように用いられるようになりました。
雑誌「現代思想」は誰がポストモダン思想を「通俗化」して「悪用」したのかをハッキリさせていませんが、
それは明らかに既得権を持っていた旧文化産業であり、旧メディアであったのです。
(東浩紀はそういう経済的思惑に乗せられて仕事をしていただけなのに、思想をやっていると思い込んでいたピエロでしかありません)
しかし、オタク市場も昔に比べてすっかり縮小してしまいました。
それでも既得権のSDGsのために、今日も「現代思想」や旧メディアは、いまだにポストモダンに執着しているのです。
以上、ポストモダン的主体とその権力構造についてだいたい書き残せたと思います。
日本のポストモダンはメディアの操作によって被害者意識を権力化したものです。
それによって自らの加害意識や「責任」から逃走するのが目的です。
官僚の公文書書き換えから池袋暴走事故(私は車の故障による被害者と言わんばかり)まで、最近の上位階層の無責任化は、
〈フランス現代思想〉以後のポストモダンの価値観が、権力構造として成立した結果を示しています。
ポストモダンが排除したがる「加害性」に、日本の戦争責任が含まれるのは偶然ではありません。
(いつになったら日本の知識人はポストモダンとネトウヨが同根であるという真理を受け入れる勇気を持つのでしょうか)
ポストモダンが思想ではなく、既得権益を持つ上位階層の「無責任型」の権力構造でしかないことがおわかりになったでしょうか。
上位階層でない人たちは、もう旧メディアなど相手にせず、来るべき実力の世界に備えた方がいいと思います。
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4 Comment
HOHさんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2021/06/16 23:11)
- [コメントを編集する]
HOHさん、毎度コメントありがとうございます。
そうなんですよ、ポストモダン現象は「私的領域の無限拡大」だと言えば、ほぼ終わります。
そこでは社会性や公的なものが空白化するので、その空白を趣味的メディアで埋められると思っているのがポモ、
国家権力に依存するのがネトウヨ保守ということです。
どちらも真の意味で公共的なものが不在です。
そのため、公的な場面でも私的人脈が優先されて、閉塞感ばかりが強まっていくのです。
自分と仲間の私的な基準が正義だと思っている人たちを、
公的な視点から批判すると、彼らは剥き出しの権力意識で弾圧をしてきます。
利権という私的目的で動いているだけのメディア権力が、彼らの味方をするわけです。
私的なものの横暴には、無私に支えられた公的な理念で対抗するほかないと僕は思っています。
無題
- HOHさん
- (2021/06/15 22:31)
- [コメントを編集する]
千葉雅也氏をはじめポストモダニストを自称する人たちって、何か私室を拡大しようとしているように見えるんですよね。
自分の好きなものばかりに彩られた部屋を拡げていって、そこに「お友達」を呼んで、家具を褒めさせ壁紙を褒めさせ挙句の果てに自分のポエム紛いの思索ノートをひけらかし……。
しかしどんなに広くても私室は私室。ドアを開けて外に出ない限り彼らはいくつになっても文字通り「オタク」のままなのでしょうね。
とても気持ちが悪いです。
雨蛙さんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2021/06/14 11:54)
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雨蛙さん、コメントありがとうございます。
俳人は少数派=優秀とまで単純に考えてはいないかもしれませんが、
少数派=先端くらいは思っているように見えますね。
もちろん「メディアに取り上げられた少数派」に限りますけどね。
考えてみれば、多数派を宣伝してもメディアの力を示すことにはなりませんね。
少数派をメディアが宣伝して、「未来の多数派(売れ筋商品)」へと格上げするから、メディアが「権力」としての実効性を持つのです。
つまり、メディアは己を「権力」化するために、「未来の多数派」になりそうなマイノリティを取り上げる必要があるのです。
となると、堕落した人間がメディアで頻繁に取り上げられるということは、
この国の「未来の多数派」が堕落することを示しているのかもしれませんね。
無題
- 名乗る程の者ではないさん
- (2021/06/13 22:46)
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