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『カントの「悪」論』(講談社学術文庫)中島 義道 著【その1】

カント倫理学の真髄は自己愛の排除にある

本書の原本は2011年に勁草書房から出版された『悪への自由』です。
カントが道徳的な善を「形式」に求めたために、倫理が「形式」にあるかのように解釈する俗説(ラカンの読みがこれにあたる)があるのですが、
これに対して中島はカント倫理学には「形式」の名のもとに「誠実性の原理」という実質が潜んでいることを明らかにしています。
専門的な哲学研究にとどまらない活躍をしている中島の書いたものだけあって、解説は平易な文で読みやすく書かれています。
(それでも第三章の議論は難しく、僕には追いかけるので精一杯でしたが)


中島は「形式」だけで倫理学が成り立つはずがない、と言います。
表面的には「形式」を強調する姿勢をとっていても、それを支えるのはカントの信念というべきもので、これを中島は「誠実性」という言葉で説明します。
カント倫理学を裏で支えているのは「誠実性の原理」なのです。
カントは「誠実性の原理」が生命や安全や快適などを求める「幸福の原理」よりも重要だと考えました。
この誠実性を支えているものが快や幸福ではなく、理性であるということが非常に重要です。


さらに強調しておきたいのは、カントに「誠実性の実現のためには自己愛を徹底的に粉砕しなければならないという信念」があるとするところです。


巧妙に隠された自己愛、善良な行為の陰にとぐろを巻いている自己愛に対する嫌悪こそ、カント倫理学の骨格を形成している。

中島はカントにおいて理性が自己愛と真っ向から対立するものであることを明らかにしています。
本書は第三章、第四章とカントの自由に関する考察が続いていくのですが、前半部で語られた自己愛と理性の対立関係と定言命法についての部分が僕には非常におもしろく感じました。
理性が自己愛の排除を強く求めることを示している部分を引用しましょう。


理性に起源を有する感情は「知的軽蔑(intellektuelle Verachtung)」、すなわちあらゆる自己愛に基づく動機を軽蔑して排除するという知的感情である。道徳法則に対する尊敬という感情は、この知的軽蔑のいわば反射形態にすぎない。

ここで中島が強調しているのは、尊敬という感情が起こるのは道徳法則という「そと」にあるものに対してではなく、あくまで自己愛を排除する理性の「うち」に対してであるということなのですが、ここで議論は少々複雑になってきます。
理性自体は自分の「うち」にあるのですが、その対象である道徳法則は自分の「そと」にあるからです。 これを中島は「道徳法則は可想的性格として自分の「うち」にあるが、さしあたり常に経験的性格として自分の「そと」にある」と説明します。


理性によるヌーメノンとしての「実在」

理性的存在者である人間が共有している可想的性格は可想界にあり、これが行為の原因として可感界(現象界)に現象すると、各個人に固有の現れ方をする経験的性格となります。
ここには二世界論があると中島は指摘しますが、その優劣はハッキリしていて、理性的な可想界こそが「実在」的であるわけです。

幸福の原理は人間の生理につながっているため、自然の要請に従順だとも言えます。
しかし、カントは本来優先せざるをえない自然的な欲求より、理性の方を上位に位置づけようとしているのです。
中島はこのようなカントの態度を「理性信仰」と述べています。
ここには自然欲求に従うことが動物的であり、それに反する理性による「不自然な」あり方こそが人間的であるという、かつては誰も疑わなかったであろう懐かしい価値観が見られます。

ここで確認しておきたいのは、 ドイツ観念論を批判することがアイデンティティと化した〈フランス現代思想〉がいかに反動的な思想であるかということです。
カントの重視した理性や人間の主体的意志や倫理、そして人間中心主義を〈フランス現代思想〉がことごとく批判していることは、思想をかじったことがある人ならすぐに思い当たるのではないでしょうか。
カントが「理性信仰」であるならば、ドゥルーズ=ガタリは反理性主義的な「欲動信仰」だと言うことができますし、
日本ではポストモダンを「動物化」だと称揚した人もいて、それのどこがすばらしいのか理解不能だった人もいると思いますが、これもドイツ的な人間中心主義が近代的な悪だという前提が共有されているからこそ成り立つ発想であったのです。


そして肝心なのは、このような理性より欲動、主体性より受動性(中動態!)、人間より動物(けものフレンズ!)、倫理より享楽を求めるあり方というものが、
日本人に何の努力も求めずにただ自己肯定を高めるだけの結果にしかならなかったということです。
僕は現代日本の堕落状況と〈フランス現代思想〉が無関係だったということはありえないと思っています。
両者が相互補完的に絡み合っていたことは確実です。
その意味で、柄谷行人が『トランスクリティーク』でカントを取り上げたことは、遅きに失したとはいえ、正しい判断だったと思います。
(僕は彼が〈フランス現代思想〉を援用していた時期からこの思想には批判的でした)


中島がわかりやすくまとめているように、理性による自己愛の排除を求めるカント思想が、 自己愛を決定的な支えにしている日本人の本源的なあり方(マザコン体質)に批判的にはたらくことは間違いありません。
日本において本気でカント思想を「実践」することは、それだけで革命的な生き方であると言ってもいいと思います。
何の努力もしたくない人は、ドゥルーズとかスピノザとか〈フランス現代思想〉とかいつまでも言っていればいいのです。
しかし、それは日本においては「自然」でしかなく、良し悪しを切り分ける「クリティーク」にはなりえません。


ちなみに「新しい実在論」を提唱しているマルクス・ガブリエルが10代の時に最初に読んだ哲学書がカントの『純粋理性批判』です。
彼はドイツ人なので特に驚くことはないのですが、シェリングの研究者であるガブリエルがドイツ観念論に全面的に否定的であるとは考えられません。
カントは『実践理性批判』で道徳法則に客観的実在性を演繹的にもたらそうと試みています。
ガブリエルが「実在」と言うときに、このようなカント的な意味での理性的実在を考えておく必要があると思います。
しかし、日本では不幸にも現代思想といえば〈フランス現代思想〉という頭しかないために、
ドイツ観念論もほとんどわかっていない〈フランス現代思想〉学者や批評家にガブリエルの思想が好き勝手に批判されたりしています。
ドイツ系の哲学研究者たちは既得権を振り回したいだけで学問への尊敬もないフランス風寄生虫を徹底的に批判すべきだと思います。


けっこう逸脱したので、中島の著書にもう一度話を戻しますが、 中島の主張はカントが道徳的な善を「形式」に求めたとだけ解釈するのは誤りで、その背後にある「誠実性の原理」という「実質」があるということです。
そこには「幸福の原理」を中心とした自己愛の排除が欠かせないということです。
中島が二世界論というように、カントは人間の行為を現象界に属するフェノメノンな性格と叡智界に属するヌーメノンな性格の両方の視点から考察できることを示すのですが、
現象界では自然法則に従うだけに見える人間が、叡智界にも属しているために超越的な自由を持ち、これまでとは全く違う新しい行為をすることができるのです。
このような自由という能力に関わる「自律」の概念を、カントは『道徳形而上学の基礎づけ』あたりから語るようになります。
つまり、カントは倫理を理性による「自律」という概念に求めたのですが、「自律」について書くのはなかなかタフなので、いったん次回に回そうと思います。
逃げずに【その2】を書くのでお待ちください。


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