- 2019/05/04
- Category : 【逸脱書評】文学・小説
『ポイント・オメガ』(水声社) ドン・デリーロ 著/都甲 幸治 訳
映像時代の作家
僕は文学より思想や社会関係の本を読むことを優先しています。
そのため、新作が出ると必ずチェックしたいと思う現代作家は、もうミシェル・ウエルベックとドン・デリーロとエリザベス・ストラウトと青来有一の4人だけになりました。
あまり共通する傾向がないように思えるのですが、僕の興味がスキゾかつパラノであるのはいつものことなので、あまり気にしていません。
そういえば、他の3人は佐野波布一時代のレビューで取り上げたことがあるのですが、デリーロには初めて触れるような気がします。
ドン・デリーロはイタリア系の移民を父に持つニューヨーク生まれの作家です。
ノーベル賞候補という声もある作家ですが、作品の難解さのためか過去の代表作はほとんど絶版になっています。
出世作の『ホワイト・ノイズ』の新訳が刊行予定らしいので、再評価されることを望んでいます。
ポール・オースターが『リヴァイアサン』を出版したときにデリーロへの献辞を書き、
デリーロが『コズモポリス』でオースターへの献辞を書いたため、二人の親交もよく知られています。
オースターはユダヤ系移民の子孫ですが、二人には移民という出自と映像時代の作家という共通点があるように思います。
『ポイント・オメガ』は150ページとそう長くない小説なのですが、筋を説明して小説の魅力が伝わるとは思えない困った作品です。
とにかく無駄な部分があるように思えないのです。
その作品構成を説明すると、
冒頭に「匿名の人物 Ⅰ」という短いパートが置かれています。
続いてメインストーリーが4章に分かれていて、これがメインパートになっています。
最後に「匿名の人物 Ⅱ」という冒頭と呼応する短いパートで締められます。
要するに、2つのバンズでメインディッシュを挟み込むハンバーガーのような構造になっているのです。
細部までデリーロの思索の跡を宿したこの小品は、すべての場面を説明したくなる小説であり、何一つ説明できない気にさせられる小説です。
今回、意を決してこの作品について数行書き始めたあとにも、苦戦が続いて、すでに2回読み直しました。
何度読んでも解決できない部分が大きく残される作品で、下手にまとめると陳腐なことを言いそうなのですが、挑んでいこうと思います。
引き延ばされた時間
冒頭は映像芸術作品に見入る「匿名の人物」の視点で小説が展開します。
デリーロはアートや映画への関心が強い作家なので、作品の端々に映画の影響を強く意識させる描写があるのですが、
この小説はいきなりスクリーンそのものの存在から始まります。
最初の文を引用します。
北側の壁の前に男が立っていた。姿はほとんど見えなかった。人々は二、三人ずつ入ってきて、暗闇のなかに立ち、スクリーンを見て出ていった。入口からほとんどなかに入ってこなかったり、もっと大人数でぶらぶら入ってきたり、観光客がぼうっとしたりした。彼らはスクリーンを見て、体重を一方の脚からもう一方へ移動させると、出ていった。
このスクリーンではニューヨーク美術館の展示作品《24時間サイコ》が上映されています。
この映像作品はアルフレッド・ヒッチコック監督が1960年に制作したサスペンス映画『サイコ』をもとにして、
本来の上映時間109分をスロー再生して24時間に引き延ばしたものです。
《24時間サイコ》はダグラス・ゴードンのビデオアートで、調べてみると日本でも2001年に東京オペラシティで展示されていたようです。
作品に興味のある方はオペラシティのサイトで説明を読んでみてください。
映像作品は実際に見てみないとわからない面があるのですが、僕はその時期にオペラシティに足を運んでいながら、展示に気づきませんでした。
しかし、作品においてはデリーロが描き出す体験が重要であるはずなので、それを受けとめていきます。
カメラがほんの少し動くだけで、時間と空間がとても大きく変化した。しかし、いまやカメラは止まっていた。アンソニー・パーキンスが振り返っている。それはまさしく整数といえた。アンソニー・パーキンスの徐々に振り返る動きを、見ている人は数えることができた。アンソニー・パーキンスの動きは一続きのものというより、五つの動作の連なりだった。矢や鳥の飛行とは違って、まるで壁のレンガのように、見ている人はそれをはっきりと数えることができた。いや、何かに似ているとか似ていないとは言えなかった。アンソニー・パーキンスの細い首の上で頭がゆっくり旋回していた。
1秒間に24コマのところを約2コマにしているようなので、動きは12倍の超スローになっているはずです。
1コマがほとんど静止画のように見る人の印象に刻まれていきます。
デリーロはそのような明晰すぎる認識を、数えることができる「整数」と表現しています。
連続していないためにいちいち数えることが可能だということは、デジタル的だということです。
ここでは瞬間瞬間の認識がデジタル的な明晰さに達しているため、
瞬時に流れ去っていくものをひとつひとつ記憶に刻むことが可能になっているのです。
続いてデリーロは「時間の流れを感じること」が重要だと述べます。
「ある意味で、彼が見ているのは歴史だった」という文も見つけられます。
「彼が見ていたのは純粋な映画、純粋な時間だった」と述べたあと、「匿名の人物」が映画の時間の流れに一体化する欲望を抱いていることを示します。
時間の遅延によって個々の事物の認識が明晰になったにもかかわらず、彼が見ているのは「時間」だとされているのです。
矛盾しているようにも感じるのですが、瞬時に過ぎ去るものをゆっくりと見ることが、「過ぎ去ること」をより明晰に感じさせるのかもしれません。
ここでは時間を見るということが、意識しないうちに「過ぎ去るもの」を感覚することとして述べられているように思います。
本川達雄『象の時間 ネズミの時間』が提出している説によると、生物はその身体サイズによって実感する時間の速さが違います。
象のような大きいサイズの動物に流れる時間は、ネズミのような小型生物よりずっと遅くなり、そのため長生きするというのです。
まあ、確認することは難しい説ではありますが、仮にこの説が正しいとするなら、
《24時間サイコ》に流れる時間は、普段よりずっと遅いわけですから、超巨大生物が実感している時間に近いと考えることができます。
そうであるならば、この映像を何時間も見続けている「匿名の人物」は、人間を超えた巨大生物もしくは地球規模の時間を実感していたと言えるのかもしれません。
そこではすべてのものが「儚いもの」でしかありません。
このような普段の認識からすり抜けていく「時間」について、デリーロ自身は次のように書いていきます。
彼はあるものともう一つのものとの関係について考えはじめた。この映画と元の映画との関係は、元の映画と現実の人々の経験との関係と同じだ。これは離脱からの離脱なのだ。元の映画は作り事だが、これは現実だ。
これには意味が存在しない。彼は思った。でももしかしたら、そうではないのかもしれない。
この一連の記述から、「匿名の人物」がこのビデオアートの映像をどう捉えているかがわかります。
現実から離脱するための映画、その映画を引き延ばしてさらなる離脱をはかったビデオアート。
その「離脱からの離脱」が一周回って「現実」と感じられるのです。
たしかに、現実からの離脱に対して真に離脱を果たせるなら、それは現実と等しくなるはずです。
人間の外部にあるものを「現実」と捉える発想は、僕にはユダヤ教に近いものがあるように感じるのですが、
デリーロの意図は少し異なる方向にあるようです。
ここで確認しておきたいことは「匿名の人物」が長々とビデオアートを見続けているときに、
展示室に入ってくる女性と雑談をすることを密かに望んでいるということです。
「匿名の人物」のこうした日常的な欲望が『ポイント・オメガ』という作品全体に関わる重要な要素であることを、のちに確認することになるでしょう。
文明に対する隔たり
たった15ページしかないビデオアートの場面が終わると、『ポイント・オメガ』のメインストーリーが始まります。
主人公は映画製作をしている30代のジム・フィンリーという男です。
彼はリチャード・エルスターという学者のインタビュー映画を撮るために、エルスターが住むサンディエゴ郊外の砂漠の中にある邸宅に滞在します。
本作は「匿名の人物」のビデオアートの場面以外は、ほとんどがこの邸宅を舞台にしています。
エルスターという人物は、イラクが大量破壊兵器を保持しているという未確認情報によって引き起こされたイラク戦争(2003年)のとき、
ペンタゴン(アメリカ国防総省)の特別調査委員会に招かれたメンバーの一人です。
彼はよそ者だった。一定の支持率を持つ学者だったが、政府での仕事の経験はなかった。戦略立案者や軍事専門家とともに、安全な会議室でテーブルについた。彼の言葉をそのまま引用すれば、彼は物事を概念化するためにそこにいた。
エルスターは安全な場所からイラク戦争に関わっていたメタ的な人物として描かれています。
多くの人が死んでいく戦争というものを概念化し、遠く離れたメタな位置から関わっていたのです。
その意味でエルスターにとって本質的なのは「隔たり」の存在です。
彼が砂漠に居を構えているのも、隔たりを重視したためだと考えるべきでしょう。
ここは都市や散在する街から隔たった砂漠だった。彼はここで食べ、眠り、汗をかく。何もせず、座り、考える。家があり、あとは隔たりしかなかった。
エルスターは73歳で、古生物学者だった前妻の家に住んでいます。
砂漠の中に家を持つ女性というのも不思議な気はしますが、デリーロはすでに『アンダーワールド』で砂漠の中にアート工房を持つ女性を登場させていました。
そこでは砂漠が文明を忘れさせてくれる場所、つまりは文明からの「隔たり」を実現する場所として捉えられていました。
本書『ポイント・オメガ』でも砂漠が意味するものはそう変わりがないように感じました。
ただ、文明からの隔たりが時間的に捉えられているところが少し違っています。
こういったこと全部を彼は空間や時間と交換した。そうしたものを毛穴から吸収しているようだった。風景のすべての特質を隔たりが包み込んでいた。そして地質学的な時間の力があった。
こう書かれているように、砂漠は空間的な隔たりを示すだけでなく、時間的な隔たりをも呼び寄せるのです。
それは舞台となる家が古生物学者の持ち物であったことに加えて、次のようなジムの実感においても示されています。
彼は自分がどこにいるかわかっている、と私は考えた。彼は椅子に座ったまま、原始世界がそこにあることに気づいていた。一千万年前の海や暗礁だ。彼は目を閉じ、その後起こった生命の絶滅がどんなものだったかを静かに見抜いていた。
エルスターは2003年当時は文明の中心地で遠く隔たった砂漠での戦争の計画に参加していたのですが、
2006年の今では文明から場所的にも時間的にも隔たった砂漠で、原始世界を感知しながらひっそりと人類の絶滅について考えているのです。
この場所で過ごすことをエルスターは「精神的な隠遁」と表現しています。
ここにいると時間の流れがゆっくりになる。時間の流れがわからなくなる。私は風景を見るというより感じる。今日が何月何日かなんて全然わからない。一分経ったのか一時間経ったのか、全然わからない。私はここでは歳を取らないんだ
こう話すエルスターは、もはや人間から遠く隔たったメタ的な場所に「精神」として存在しているかのようです。
文明とも時間の流れとも無縁なメタ的な存在とは、まるで砂漠で生まれた一神教の父なる神のような存在を思い起こさせないでしょうか。
俳句のような戦争
エルスターは国防の専門家としてイラク戦争の準備に関わったのですが、
彼はそこで新たな現実を作り出そうとして、キャッチフレーズを生み出したと話します。
そこでエルスターの口から出た言葉が「俳句」だったのです。
ついに彼は言った。「俳句だよ」
私は思慮深く、馬鹿みたいにうなずいた。そういうふうにゆっくりと動くことで、彼の言葉を私が完全に理解していることを示そうとした。
「俳句には表現されたこと以外なにもない。夏の池。風に吹かれた葉。俳句とは自然のなかに置かれた人間の意識だ。定められた行数、決まった音節数で語られる、すべてへの答えだよ。私は俳句のような戦争を欲していた」彼は言った。「私は三行で表現できる戦争を欲していた。これは戦力や兵站とは関係がない。私が欲していたのは、儚いものに関係づけられた一連の思考だった。これが俳句の魂だ。すべてを剝ぎ取り、はっきりと見えるようにする。そこにあるものを見てごらん。戦争のなかのものは儚い。そこにあるものを見て、それはいずれ消え去るのだと心の準備をすることだ」
エルスターが俳句について語っている部分はこれですべてです。
『堕ちていく男』でもデリーロは、松尾芭蕉の「京にても京なつかしやほととぎす」を肉親の死との関連で取り上げているので、
俳句への関心が強い作家だと思います。
しかし、俳句と戦争がどう結びつくのかは曖昧です。
言葉を拾って考えると、「いずれ消え去る」「儚いもの」を「はっきり見えるようにする」ことと考えられているようにも思えます。
これだけの記述から確かなことは言えないので、エルスターの思考にあまり深入りしすぎるのに躊躇があるのですが、
戦争において消え去っていくものを定型化する、もしくは完全に可視化することで、「儚いもの」の本質が強く印象づけられるとでも言いたげです。
(解釈を始めるとどうしてもハイデガーの危険性から逃れられなくなるような気がするのですが)
エルスターにとって俳句とは、何かを隠すバリアなどではなく、 不意に消え去ってしまうものを明瞭に示すものなのかもしれません。
「ポイント・オメガ」とは何か?
中心部のストーリーをざっと語っておきましょう。
エルスターの映画を撮りたいジムが砂漠で彼と奇妙な同居生活をするうちに、
別れた妻と暮らしていたエルスターの娘のジェシーが、男性関係のトラブルから身を隠すようにして屋敷へとやってきます。
疑似家族のような3人の生活がしばらく経つと、ある日ジェシーの姿が見えなくなります。
まともな交通手段がない砂漠の家からの失踪は、自殺や犯罪との関連を十分に疑わせるものでした。
砂漠に血のついていないナイフが発見されたほかは、手がかりが何もないまま、
ジムが疲れきったエルスターを前妻の元に連れて行くところでいったん物語が閉じます。
結局、映画が撮られることはありませんでした。
こうしてあらすじを説明すると、遠くから戦争に関与していた男が、自宅で娘の行方不明に苦しむ、という皮肉を描いた作品と言うこともできるのですが、
それでは最初と最後に位置するビデオアートの場面との関連がよくわかりません。
ちなみに《24時間サイコ》は本編にも登場します。
ジムがエルスターを《24時間サイコ》に連れていくと、エルスターはその映像を嫌悪した様子でした。
「七十億年かけて世界が死んでいくのを眺めてるみたいだった」というのがエルスターが娘にもらした感想です。
エルスターの支配的な言説を拒絶するものとして、《24時間サイコ》があったことが示されています。
本書のテーマに迫るためにも、ここで作品名である「ポイント・オメガ」とは何なのかを考察する必要があります。
作品の中では最初にエルスターが「オメガ・ポイント」という語を口にします。
エルスターが「意識の重荷」について話したときのことです。
「物質とは自意識を失いたがるものだ」と口にした彼は、人間には無機物へと還る欲望があるという自説を語ります。
我々は元の無機物に還りたいんだ。我々は物質の進化における最後の十億分の一秒なんだよ。
過激な思想を探していたエルスターは、イエズス会の神父であるテイヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間』(1955年)で語られているポイント・オメガ(終局の点)に影響を受けています。
テイヤール・ド・シャルダンの説では、無機物から始まった宇宙の進化は生物の多様性を実現したのち、
次の段階において「ヌースフェア(精神圏)」という精神領域の進化へと集中し、思考の集積へと向かいます。
その究極にあるオメガ・ポイントへと到達することで、人類と万物は宇宙的な救済を手にできるというのです。
エルスターの言葉を引いてみましょう。
「我々は群衆、群れだ。我々は複数で考え、集団で旅をする。集団は自己破壊の遺伝子を持っている。一発の爆弾じゃ全く足りない。技術の霞のなか、そこに指導者たちは戦争を仕掛ける。今や内向が起こるからだよ。テイヤール神父はこれを知っていた。オメガ・ポイントさ。我々は生物学の領域から飛び出すんだ。自分に問いかけてみたらいい。我々は永遠に人類じゃなきゃならないのかって。意識なんてもう干上がってしまった。今や無機物に還るんだ。我々はそうしたいのさ。野原の石ころになりたいんだ」
このような事物と人間の融合という視点は、人間へのこだわりが薄くないとなかなか受け入れるのは難しいでしょう。
しかし、エルスターのように超越的な立ち位置から一切を概念化し続ける「メタ的存在」にとっては、
人間という意識を捨て去ることは特別なことではないのかもしれません。
戦争を人類の自己破壊と捉えて、無機物への進化へとつなげていくエルスターにとっては、
たとえ人類の絶滅であっても進化の過程であって、単なる絶望を意味するわけではないのです。
進化論から人類絶滅論へ
テイヤール・ド・シャルダンに影響されたエルスターの思想は、日本で最新の現代思想とされているポスト・ヒューマニティーズの思想と似ています。
エルスターは人間が絶滅して無機物へと還ることを考えていますが、
ポスト・ヒューマニティーズの思想は哲学的主体から人間を排除することによって、
人間の意識を超越した、より普遍的な世界を人間不在の世界に夢見ています。
今年の1月号で「ポスト・ヒューマニティーズ特集」を組んだ「現代思想」という雑誌では、すでに2015年9月号で「絶滅」という特集を組んでいます。
副題は「人間不在の世界」となっていて、啓蒙的な人文学を司る理性に敵対する脱人間中心主義の思想を取り上げています。
ポスト・ヒューマニティーズは反理性、反人間中心主義という〈フランス現代思想〉の規定路線を過激化・極端化した思想と言えます。
この思想を細かく分ければ思弁的実在論とかオブジェクト指向存在論とか加速主義とかいろいろあるのですが、
どれも人間の生とは別の次元に哲学的テーマを置こうとする動きだと言っていいのではないでしょうか。
僕自身はポスト・ヒューマニティーズの思想というのは、人間と資本との同一化を示す現象と考えています。
消費を介したコミュニケーションに骨までしゃぶり尽くされたサブカル的な想像力と言ってもいいと思います。
資本が自己増殖(要するに金儲け)するのに、商品が物であろうが人間(労働力)であろうが本質的に違いはありません。
無機物が支配する世界の中に人間を配置する発想とは、マーケット上のみを世界と認知する資本の視点を内面化したものでしかないからです。
これらの思想の特徴は、世界を物質化する代わりに哲学的思惟を精神として純粋化することにあるように感じます。
この欲望がテイヤール・ド・シャルダンと重なって見えるのです。
『ポイント・オメガ』には資本主義との関連を意識したようなところは見当たらず、
デリーロの関心は精神だけが肥大化し、身体を捨て去ってしまった「人間の断片化」に注がれているように感じました。
(『コズモポリス』では金融資本を正面から取り扱っていましたが)
科学、ユダヤ・キリスト教、超越性(メタ)が結託した精神の一極支配が目指すポイント・オメガという無時間の永遠。
そこで破壊される自己とは身体でなくて何なのでしょうか。
ジェシーの失踪、残されたナイフ
エルスター邸の生活に彼の娘のジェシーが加わり、3人の生活が続くのですが、
ジムとジェシーの隔たりが取り除かれ、手を取り合った翌日、買い物から戻ったジムとエルスターは家にジェシーの姿がないことに気づきます。
ジェシーがエルスターの家へと預けられたのは、執拗に男性に付きまとわれていたことが原因だったため、
犯罪に巻き込まれたことを疑った2人は警察へと届けます。
捜査の過程で砂漠に血のついていないナイフが発見されますが、それ以上の手がかりはなく、
絶望感に包まれたエルスターが急速に老け込んで物語に幕が下ります。
エルスターの娘ジェシーは20代半ばの青白く細い女性で、
「彼女は自分の内から来る言葉を聞いているんだ」と父に評される、少々内向的な性質です。
一つ屋根の下に若い女性がいるのですから、妻と別居中のジムがジェシーを異性として意識していることは間違いないのですが、
2人の接近が「手を取る」という身体的接触だけで示されていることから、性的な関係というより、身体による人と人との温もりのある交流という面をクローズアップした方がいいように思います。
ジェシーにはどこか存在感が希薄なところがあります。
彼女が自分の内面に関わることをほとんど口にしないことが影響しているのだと思いますが、
実はデリーロがジェシーをすぐに消え去ってしまう儚い存在として印象づけていることが大きいと思います。
ジェシーが自分の腕や顔に触れていないと自己の存在を確認できない、とエルスターは言います。
「自分で触るまで自分の体は存在しないのさ」とされるジェシーの存在は、自らの身体へと強く結びつけられ、それがゆえに何時でも不確かなものになってしまうのです。
「空中に消える──ジェシーはそんな運命にあったし、そんなふうに生まれてきたように思えた」
というジムの語りの中でも、ジェシーという存在の不確かさが示されています。
そのジェシーが姿を消して、砂漠で血のついていないナイフだけが発見されます。
普通に読めば、ジェシーの身の危険を暗示するような展開です。
ジムも警察もジェシーにつきまとっていたというデニスという男が関与したことを疑うのですが、
捜査に進展はなく、エルスターは失意の中で急速に老いを深めていくことになります。
彼らは唐突に犯罪被害者の家族のようになってしまい、最後はこれまで1度としてジムに車の運転をさせなかったエルスターが、
ジムの運転する車でジェシーの母親のところへと運ばれていくシーンでメインパートが終わります。
(ここで擬似息子ジムが擬似父エルスターと役割を交換することで、デリーロは父の老化そして退場という状況を印象づけています)
助手席にエルスターを乗せて車を運転するジムの頭に去来したのは、今やポイント・オメガが遥か遠くへと隔たってしまったということでした。
我々は黙ったまま、小型トラックに引かれたモーターボートの後ろを走った。私は物や存在に関する彼の意見について考えていた。デッキでのあの長い夜、半ば酔いながら、彼と私は話した。超越、発作、人間の意識の終わりについて。今となればそれは、死んだ木霊のようだった。ポイント・オメガ。百万年先だ。オメガ・ポイントは今ここで縮小し、体に突き刺さるナイフの先端になる。人類の巨大な主題は小さくなり、この場の悲しみ、一つの体となり、どこかにある、あるいはない。
人間の意識の終わりであるポイント・オメガなど「百万年先だ」とジムは考えます。
そんな「巨大な主題」などは「この場の悲しみ」の前ではどこかへと消え去ってしまうようにジムは感じます。
人類の救済をめぐる地球規模の思想、エルスターがイラク戦争の中に見出した壮大なテーマは、
娘の悲劇的運命の予感からもたらされる、個人的な、あまりに個人的な「一つの体」の存在がもたらす痛みに及ばないのです。
どれだけ宇宙規模に普遍化された思想を持ち出しても、人間の身体から逃げ出すことはできないということです。
そしてジェシーが個人として本当に存在していたのか、それとも存在していなかったのか、もはや証立てる手段はなく、
ただ残された人間たちに記憶されるしかないのです。
つまり、普遍化しすぎてしまった思想はどうあっても個としての文学に勝つことができない、ということを、
デリーロは証明したかったのだと僕は思います。
身体不在の永遠の生命
人間を超克して無機物へと同化するメタ思想とは、
死を超克して神の国において永遠の生を求める信仰の代替物でしかないと僕は思います。
その意味で宗教原理主義とポスト・ヒューマニティーズの思想は双子の兄弟のようなものではないでしょうか。
ジェシーの姿が消えてナイフだけが残された状況とは、考えようによってはジェシーがポイント・オメガに到達して無機物へと変化したように受け止めることもできなくはありません。
しかし、砂漠とナイフという組み合わせから、我々が思い浮かべてしまうのはIS(通称:イスラム国)の処刑シーンです。
オレンジの衣服を着せられた人質が、ナイフで首を切断され無機物へと変化するあの場面です。
デリーロの想像力はイスラム原理主義のテロリストと資本主義の中心部を表裏一体のものとして結びつけるのです。
ペンタゴンの司令部とイラクの戦場とは、どちらも日常生活と遠く隔たっているという共通点によって、図らずも互いの似姿となってしまうのです。
この点については、本作『ポイント・オメガ』よりも、
2001年のニューヨーク同時多発テロを扱った前作『堕ちてゆく男』を読んだ方が実感できると思います。
『堕ちてゆく男』では、テロの標的となったニューヨークの貿易センタービルで働くキースを中心に物語が進むのですが、
その合間に、航空機をハイジャックしたテロリストのハマドの物語が断片的に挟み込まれる構成になっています。
最後「ハドソン回廊」と名づけられた章では、
航空機でビルに突入していくハマドの意識から、突入されたビルにいたキースの意識へと、
突入の瞬間に語りが切り替わる精神のリレーが展開していくのですが、
加害者と被害者であるはずの両者の意識がひっくり返って繋がっていく一連の筆致は、デリーロ渾身のものと言えると思います。
(僕はこの本を原書で読んだのですが、どんな映像よりも衝撃を受けたイメージ体験でした)
デリーロが二人の精神を結びつけられたのは、そこにある種の同質性を感じ取ったからにほかなりません。
これから数秒間のうちに、おまえと永遠の生命とのあいだには隔たりがなくなる。
おまえはずっと死を望んできて、それはこれからの数秒間のうちに手に入る。(『堕ちてゆく男』上岡伸雄訳)
テロリストのハマドがビルに突入する直前の意識です。
奇しくもデリーロは「隔たりがなくなる」という表現で永遠への扉を開かせようとするのです。
人間と無機物の隔たりがなくなり、精神が純化して「永遠の生命」を手に入れることができた時、身体はこの世のどこにも無くなってしまうのです。
資本の国の住人も砂漠の神の国の住人も、身体の不在という点で結びついていることを、デリーロはよくわかっていたのです。
亡き母へのレクイエム
ジムとエルスターの話が終わったあと、再びニューヨーク美術館の「匿名の人物」が再登場します。
彼は6日間通して《24時間サイコ》を見続けて、とうとう最終日になっています。
冒頭パートで「匿名の人物」がここで女性と話すことを待ち望んでいたことはすでに書きましたが、
最終パートでは「匿名の人物」が期待通りに女性に話しかけられます。
ビデオアートのブースという薄暗い場所で、見知らぬ男に話しかける女がいるものなのか、大いに疑問はあるのですが、
「匿名の人物」は二言三言会話を交わしたあと、美術館を出た女を追いかけて首尾よく電話番号を聞き出します。
そのあと、閉館直前にもかかわらず、彼は入場料を支払って再び《24時間サイコ》のブースに戻ります。
スクリーンでは殺人者ノーマン・ベイツがゆっくりゆっくりと階段を上っています。
その先の寝室には死んだまま横たわっている母親がいます。
この場所で「匿名の人物」は自分の母親を思い出すのです。
『ポイント・オメガ』のラストに母親という存在が強く関わっていることは間違いないと思います。
映画『サイコ』のノーマン・ベイツは母親に執着する青年で、母親に愛人ができた時に2人を殺害します。
しかし、母親の死を認められない彼は、自ら母親に変装し、母親に成り代わることで彼女の生存を偽装しようとするのです。
ノーマン・ベイツは母へと同化することを願う男の姿であり、それを見る「匿名の人物」もまたノーマン・ベイツと同化することを願います。
『ポイント・オメガ』のラストはこのようになっています。
その男は壁から身を引き離し、自分が毛穴一つずつ同化していくのを待っている。自分が溶けてノーマン・ベイツの姿になるのを待っているのだ。ノーマン・ベイツは家のなかに入ってきて、意識下の速度、一秒あたり二コマで階段を上がっていき、母親の部屋のほうを向くだろう。
ときに彼は彼女のベッドのそばに座り、彼女に何かを言い、答えを待つだろう。
ときに彼はただ彼女を見ているだろう。
ときに雨の前に風が吹き、窓を横切って飛ぶ鳥たちを連れてくる。魂の鳥たちは夜を渡っていく。夢よりも不思議な夜を。
味わい深いラストですが、「魂の鳥たち」や「夢よりも不思議な夜」などと解釈の難しい詩的な言葉がちりばめられています。
昔から多くの国の神話などに霊魂と鳥を結びつけて考える事例があります。
(日本でもヤマトタケルの魂が白鳥になったという伝説がありますね)
「魂の鳥たち」はそれを踏まえた表現だと考えられます。
「夢よりも不思議な夜」は、現実からの離脱を夢とすれば、そこからの離脱はより深い現実のことを意図するはずだと思います。
真の人生を生きる魂が現実の深みに触れていく、というのが最後の文の意味ではないかと僕は解釈しています。
「匿名の人物」が《24時間サイコ》を見ながら、最後に自分の母親を思い出すのはこの直前です。
母親という存在が最後になって思い起こされるのは、本筋の方でも同じです。
メインストーリーのラストで、娘の失踪によって老け込んだエルスターが連れていかれるのはジェシーの母親のところですし、
その場面で車を運転するジムの脳裏に去来するのもまた母親のことだったのです。
私は高速道路を運転するのが大嫌いだった。交通量が増え、車は素早く車線を変えていた。私は路面を見続けた。彼を見たくなかったし、質問も考えも聞きたくなかった。同時に六つのことを考えていた。母親。彼女は眠っているとき彼の名前を思い出した。私は誰かが電話を返してくれたのかなと考えた。
この文章もよくわからないところがありすぎるのです。
これまで一度もジムが口にしたこともない「母親」の存在が急に出てきて、「彼女は眠っているとき彼の名前を思い出した」というよくわからない文が続きます。
僕が読んだかぎり、ジムが自分の母親について語った場面はなかったと思います。
なぜここで母親が出てくるのか謎だったのですが、「匿名の人物」もノーマン・ベイツも母親へと思いを馳せていくだけに、
ここにはデリーロの強いメッセージがあるに違いないと考えます。
エルスターは人間が無機物へと「還りたいんだ」と表現していました。
無機物から生まれた生命である人間が、母なる無機物へと還っていく。
進化の始点である無機物へと還ることが「ポイント・オメガ」であるならば、死というものは母へと還ることではないのか、という疑いが生まれます。
デリーロが極と極とを結びつける思考の持ち主であることはすでに確認しましたが、
ここでも始原と絶滅、死に至ることと母へと還ることの両極が、重ね合わされて捉えられているように感じます。
母が自然と思い出されるということは、彼らが死へと近づいていることを暗示しているのではないでしょうか。
人間は母との同化の瞬間を超低速に引き伸ばして、日常を生きていく存在なのかもしれません。
日常の発見
ジムが砂漠でエルスターと暮らし始めてから22日目のことです。
この部分の記述はどうしても落とせないと思うので最後に書いておきます。
私は携帯電話を使ってはいなかったし、ノートパソコンにもほとんど触れていなかった。そうしたものは弱々しく見えはじめていた。どんなに速くても、どんなに遠くと繋がることができても、電子機器は風景に圧倒されてしまっていた。ジェシーはSFを読もうとしたが、自分が今まで読んだ本でこの惑星での日常生活に釣り合うものは一冊もない、と言った。日常生活こそが完全に想像を絶していたから。
ジェシーが「日常生活」をどんな書物より価値のあるものとしているのは印象的です。
それこそ日本の小説を読むと日常がこれでもかと描かれるわけですが、それに比べればデリーロは日常を描くことに興味がある作家には見えません。
おそらく、デリーロの考える日常生活というのは、日記に書かれるような出来事のことではないのだと思います。
日々の人生を人生として形作るもの、そのリアリティの在り処のことを言っているのでしょう。
実はメインストーリーの最初は、エルスターのこんな語りで始まっています。
真の人生は、書かれ、話される言葉では表現できない。誰も、決して。真の人生が体験できるのは一人きりで、考え、感じ、思い出に浸り、まるで夢のなかでのように自分を意識しているとき、顕微鏡では捉えられないほど微小な瞬間においてだ。
エルスターはこれを何通りにも何度も言った、とジムは述べます。
人生が体験できる「顕微鏡では捉えられないほど微小な瞬間」と言われると、《24時間サイコ》の超低速な世界が思い出されます。
この文がストーリーの最初にあったため、僕は再読するまで気づかなかったのですが、
ここはデリーロがテーマとして伝えたいこととそう変わりがないように思いました。
日常生活、そこで過ごされる人生、我々が何気なく過ごしている時間の中に、真の人生が隠れているのです。
我々はひたすら加速し続ける資本主義の時間なき時間の中で、真の人生であるはずの「微小な瞬間」を見逃しています。
つまり、デリーロにとって真の人生とは、気がつくと見逃されてしまうような「儚いもの」だということです。
一度見逃してしまうと、気づいた時にはジェシーはもういなくなってしまうのです。
後には老いさらばえ、他人の世話になるだけの自分の姿が残されるだけです。
エルスターは加速する資本主義の石油利権に踊らされ、メタな位置から遠い戦争と関わっているうちに、
超低速な時間でしか明晰にならない「儚いもの」、それこそが真の人生であるはずの「微小な瞬間」を見失ってしまったのだと思います。
いや、誰でも見失ってから気がつくものなのかもしれません。
次のエルスターの言葉はそれを裏づけているように感じました。
失われた瞬間すべてが人生だ。その瞬間は我々自身にしか知りえない。そして誰にとっても、口では言い表すことのできない強さで蘇る。
なんとか書き続けてきましたが、僕の力量ではここまでが精一杯です。
デリーロは巨大な作家だと思います。
僕の思考でむやみに作品を小さくしないように気をつけたつもりですが、そのためにうまくまとめられたか不安です。
短い小説ですので、ぜひ興味を持たれた方はご自身で一読していただくのが良いと思います。
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4 Comment
HOHさんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2019/05/21 22:10)
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そうですね。
「母親」はジェシーの母親のことと考えるのが妥当ですかね。
そこは原書を読みたかった部分ですが、
おそらく原書でも漠然と書かれているのだろうと想像しています。
デリーロは一般的な「母親というもの」に拡大できるように書いているのでは、とも思いました。
「六つのこと」を含めて、なにをどう読むかが読者に任されている小説ですよね。
ありがとうございます
- HOHさん
- (2019/05/21 15:22)
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すみませんが一点だけ。
メインストーリーのラストでジムが車を運転しながら「母親」のことを考えるシーンですが、
この「母親」というのはジムのではなくジェシーの母親のことではないでしょうか。
「彼女は眠っているとき彼の名前を思い出した」というのは、
p112でジェシーの母親がジェシーの恋人、デニスの名前を思い出した時のことを言っているのではないかと。
それにしても謎めいた小説ですね。
ジムが同時に考えた「六つのこと」とは何なのか?
「24時間サイコ」の回転する六つのリングと関係あるのか?
などいろいろ考察してしまいます。
HOHさんへの返答
- 南井三鷹さん
- (2019/05/21 07:58)
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HOHさん、コメントありがとうございます。
『ポイント・オメガ』読んで下さったんですね!
ジェシーが「儚いもの」を象徴しているというご意見はその通りだと感じます。
人生とは儚く、捉える前にはもう終わっている。
そんな感じのある小説なので、この小説自体が捉えどころのないものとして存在しているのは、
作品として成功しているように思います。
僕の文章をキッカケに作品に触れていただけるのは喜びです。
また良い機会を提供できればと思います。
ポイント・オメガ
- HOHさん
- (2019/05/19 11:52)
- [コメントを編集する]
ドン・デリーロという作家を今回初めて知り、読んでみたのですが
これはかなり噛み応えのある小説ですね。
一度読んだだけではとうてい歯が立たない感じがするのですが、頭の中だけで作り上げられたペシミズムが
現実によって打ち砕かれる、という構図から私はチェーホフの「ともしび」を思い浮かべました。
メインストーリーの最初でエルスターが口にする真の人生云々というセリフは真理なのかもしれませんが、
その真理をエルスターはジェシーを失うまで真の意味で理解できない、というのも皮肉ですね。
エルスターは俳句のことを「儚いものに関係づけられた一連の思考」と言っていますが、この思考をエルスターは
ジェシーという具体的な他者と関係づけることができなかった。
だからこそ彼はジェシーを失うことになってしまった、という風に私は解釈しています。
ジェシーという存在感の薄い女性はこの物語において、儚いもの=かけがえのない日常の
象徴だったのかもしれません。
とても質のいい小説を読ませていただきました。紹介して下さった南井さんに感謝です!