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『くたばれインターネット』(ele-king books)ジャレット・コベック 著/浅倉 卓弥 訳

私はインターネットが嫌い

書店で手にとって中をパラパラしてみると、最初のページに「役に立つ小説」というコベック本人の署名入りの一文が目に入りました。
ついで真偽の定かではない本書についての書評が載せられています。
混乱したままページをめくると、「閲覧注意」の囲い文があり、
「本書は以下の内容を含みます。購読の際はご注意下さい」と書かれたその下には、
「資本主義、男どものすげえ臭い体臭、歴史上登場した懐古主義、殺すぞとの脅し、暴力、人々の絆、流行り廃り、絶望、際限ない金持ちへの嘲笑(以下略)」と続きます。
まるで一昔前の怪しげなサイトに接続するような注意書きですが、筆者のコベックはそういう文化に親しんでいたのでしょう。
実際に読み終えると、たしかに挙げられているような内容が書かれていたのですが、
閲覧注意というほどの刺激があるわけではないのでご安心を。


本書の原題は『I hate the internet』です。
原題を見て気になるのは、「私はインターネットが嫌いだ」の「私」とは誰なのか、ということです。
この小説は主にアデレーンというサブカル女子のネット炎上事件を中心に展開するのですが、
実はアデレーン当人はそれほどインターネット嫌悪を露わにしているようには見えないのです。
むしろ息子や友人が彼女にツイッター上での反論をやめてくれと頼んでいるにもかかわらず、彼女はネット活動を続行し続けます。
物語の主人公がインターネット嫌いでないのならば、誰がインターネットを嫌っている「私」なのでしょうか。
おそらく、それは作者であるジャレット・コベックだということになるでしょう。
つまり、本書の題名は作者自身の宣言のようなものになっているのです。


翻訳者の浅倉卓弥によると、作者のコベックはトルコ系の在米移民の子孫であり、
作品に登場するジェイ・カレセヘネムという作家が彼のモデルだということです。
(カレセヘネムはトルコ語で「黒い地獄」という意味だと作中で強調されています)
作品の舞台はサンフランシスコなのですが、コベックも実際にサンフランシスコに住んでいたようです。
ラスト近くでジェイ・カレセヘネムはサンフランシスコに嫌気がさして、ロサンゼルスへと引っ越すのですが、
そのときに絶景で有名なツインピークスに立ったジェイ・カレセヘネムが演説を始める場面があります。
「サンフランシスコよ」と呼びかけたジェイ・カレセヘネムは次のようなことを届かない相手に向けて語ります。


そなたが守ろうとしている相手は考えられ得る限り最悪の者どもだ。うざったくてたまらない種類のオタクどもを、数に限りのある、選ばれたセレブの席へと押し上げてしまったのだ。あのマーク・ザッカーバーグのすさまじき猛攻の前に我々はもはや息絶え絶えだ。

こうして彼は「異形の者」にとって生きづらい「金持ちたちのためのディズニーランドと化した」サンフランシスコを糾弾します。
そしてサンフランシスコ批判は、インターネット批判へと重ねられていきます。


しかも最後に残っていた善き物事さえそなたは捨て去った。それはインターネットが垣間見せていたユートピアの幻だ。全世界が繋がるという夢はねじ曲げられ、最早それはただ、広告機会を提供する以外の目的を持たないような領国同士が複雑に絡み合った魔窟さながらの様相ともなった。よく聞くのだ、サンフランシスコよ。私もかつてはそなたの住人だったのだ。だから私は、連中が金儲けに使い始める前のインターネットというものがどういうものだったかもよく知っている。

この演説ではサンフランシスコとインターネットが奇妙に同一のもののように語られているのですが、
おそらく、これはインターネットを牽引するシリコンバレーがサンフランシスコにあることを念頭に置いているのだと思います。
コベック自身を投影したジェイ・カレセヘネムが、草創期のインターネットにノスタルジーを抱いていることは、
このあたりを読むとよくわかると思います。
オタクが金儲けに利用し、商品広告に奉仕するだけの世界となったインターネットへの嘆き節とでも言うべきでしょうか。


コベックは本書を自分で立ち上げた出版社から出しています。
というより、この小説を売るために出版社を自前で作ったみたいなのです。
それが英米でベストセラーになったため、こうして邦訳もめでたく出版されることになったのですから、
諧謔味だけでなく、非常に信念のある人だと感じさせられました。
「インターネットが嫌い」というのは僕もくりかえし書いてきたことなので、自分も最後は出版社を興すしかないのか、と考えるようになりました。
しかし、そういう弱小出版社の本が売れるというのは、日本に住んでいると実感としてよく理解できないところはあります。
根本的な文化環境が違うのではないかと思わないこともありません。


人種と階級とインターネットの歴史

本書はインターネットの炎上事件を題材にしながら、アメリカの人種差別と階級問題を取り扱っています。
そもそもアデレーンの起こした炎上事件が人種と階級の問題に深く関わっているのです。
コベックはアフリカ系アメリカ人のことを露骨に表現することを避けて、皮膚組織の基底細胞層に真性メラニンが存在する、という表現を好んで用いています。
例のジェイ・カレセヘネムの演説でも、当然ながら人種と階級の問題が標的にされています。


サンフランシスコよ、そなたの為さんとしている少数移民の一掃などクソ食らえだ。そなたがすでにどれほど多くのアフリカ系アメリカ人を排除してきたことか。階級浄化ジェントリフィケーションクソ食らえ! それからそなたに住まう労働者階級たちもだ。彼らにしても、消費者主義だかいう目も眩むバッタ物に惑わされ、声を上げることすら結局は遅きに失してしまっただけだ。

階級浄化とは、ある都市の居住者が上位階層に置き換わる現象のことです。
中間富裕層が都市に流入したことで、その地域の地価が上がり、もともと住んでいた労働者階級や高齢者、芸術家が転出させられる事態になりました。
日本の過去30年の地価推移マップを見ると、
バブル崩壊以後に一気に下落した地価が、近年になって都市部でだけ上昇に転じていることがわかります。
だとすれば、実質賃金が上昇していない日本でも同様の現象がいずれ起こる可能性はあります。
人種問題については日本で暮らしているとアメリカほど目立たないのですが、
僕自身、以前より多国籍な人と触れ合う機会が増えましたし、嫌韓や反中などを喧伝する人たちを見ると、
日本でも人種問題は対岸の火事とは言えなくなってくると思います。
(以前は楊逸やシリン・ネザマフィなどの日本語以外をルーツにする方が文学賞を受賞した時期がわずかにあったのですが、
今や文壇はあからさまに既得権に媚びるだけになってしまいましたね)


この演説でスカッとするのは、労働者階級が消費文化に飼い慣らされて抗議の声を上げない、と指摘していることです。
このような真実を書いた日本の小説があるでしょうか?
いや、むしろ階級闘争を引き起こさないための現実逃避、消費的享楽に協力している小説ばかりが出版されています。
コベックはこの小説でインターネットを標的としていますが、日本においてはテレビや出版などの大手メディアについても大いに当てはまるように思います。
今や大手メディアが用いる文学という名詞は、出版業界の自己宣伝のためにあるだけのものになっています。


コベックというかジェイ・カレセヘネムが無力な演説によって指摘している、
インターネットが格差の拡大を生み出していることについては、なぜか日本人の書く本ではあまり強調されていないように思えます。
アンドリュー・キーンの『ネット階級社会』(原題:THE INTERNET IS NOT THE ANSWER:2015年)にはしっかりとこう書いてあります。


現代のデジタルネットワークをわれわれが利用すればするほど、それによって生まれる経済価値はいっそう小さくなる。デジタルネットワークは、経済の公平性をうながすどころか、格差拡大やミドルクラス消失のおもな理由になっている。ネットワーク経済の分配資本主義は、われわれを富ますどころか、われわれの大半を貧しくしている。(キーン『ネット階級社会』中島由華訳)

キーンはインターネットが「トップダウン型のシステム」であり、GAFAと呼ばれる一部企業に富を集中させている、と述べます。
それというのも、インターネットはそもそも勝者総取りの収益システムとして発展したからなのです。
その歴史を『ネット階級社会』を参照しつつまとめてみましょう。


冷戦期にアメリカが通信ネットワークの脆弱性を解消するために、パケット交換による分散型ネットワークを構想したのが1960年代のことです。
1969年にコンピュータ科学者のボブ・テイラーが4つの大学をつなぐネットワークを構築しました。
これがARPANETです。
最初のコンピュータ・ネットワークは軍事的研究資金をもとに学術利用のために構築されたのです。
しかし、異なるネットワーク同士をつないで世界規模のネットワークにするには、システムが複雑すぎました。
これを解消するべく1982年に導入されたのが、ロバート(ボブ)・カーンとヴィント・サーフが構想したTCPとIPという2つのプロトコルでした。
そしてティム・バーナーズ=リーが、ウェブに書き込むコンピュータ言語であるHTMLや、ウェブに特定の番地を与えるURLによって、
ワールドワイドウェブ(WWW)を生み出したのが1990年です。
彼はこの完全な分散型のシステムを誰でも無償で利用できるものとするために努力しました。


このように学術利用を前提として誕生したインターネットが、新たな商業技術として発展したのは、
1990年前後に起こった冷戦構造の崩壊と無関係ではありません。
もともとARPANETは国防総省の管理にありましたし、
それを受け継ぐことになる全米科学財団ネットワーク(NSFNET)も全米科学財団が政府機関であるだけに、商業活動での使用を禁じていました。
インターネットの商業化の道がひらけたのは、ちょうど冷戦崩壊の時期と重なります。
1991年にCIX(商用インターネット協会)が発足し、インターネットへの接続業務を利益にするプロバイダーが登場しました。
(1995年にNSFNETは閉鎖されます)


こうしてインターネットが未開のフロンティア(商業用の新大陸)として出現することになったのですが、
このオンラインの一等地を手に入れたIT企業が、アメリカの新たな特権階級に成り上がりました。
『ネット階級社会』の著書キーンは、非営利のインターネットが勝者総取り経済に変貌した責任を、マーク・アンドリーセンに負わせています。
アンドリーセンは1993年にジム・クラークとモザイクコミュニケーションズを設立し、ネットスケープナビゲーターを開発した人物です。
このナビゲイターによってウェブ利用者が爆発的に増えることになりました。
僕の弟が初めて我が家にイーサネットのケーブルを持ち込んだ時に、彼のパソコンに搭載されていたのがネットスケープナビゲイターでした。
(しかし、アンドリーセンは僕とほぼ同い年なのですね)
1995年にクラークはモザイク改めネットスケープコミュニケーションズ社の株式公開(IPO)を決めます。
マイクロソフト社を恐れていたから、とキーンは書いていますが、これが大成功し、彼らは大富豪になりました。
24歳のマーク・アンドリーセンは、2年前の時給6ドル85セントから一気に5800万ドル(円高の当時で48億円)の収入を得ることになったのです。


「ネットスケープの成功によって、インターネットの商用利用がぐんと増えた」とキーンは述べています。
それから5年の間にAmazonやYahooを含むIT系のベンチャー企業が乱立するようになりました。
その後、ネットスケープはご存知マイクロソフト社のWindowsに搭載されたインターネットエクスプローラの前に敗北するのですが、
インターネットは一企業による市場独占という夢を演出し続けています。
その結果どういうことが起こるかを、キーンはジェフ・ベゾスのAmazonを例にして示していきます。
Amazonの利用者が拡大するにつれ、書店の実店舗が半減した上に、
価格決定と請求書支払について厳しい要求をされた小規模な出版社が虐げられることになりました。
Amazonは本だけを取り扱うわけではないので、各種小売業の雇用も大幅に奪われる結果になりました。
さらに労働組合のないAmazonでは、従業員を徹底監視して厳しい環境で働かせています。
ペンシルバニア州のAmazonの倉庫は高温になるため、熱中症になった従業員用の救急車を会社が待機させているのです。
このように市場を独占した企業は、自らの市場支配力を用いて暴君のように振る舞うようになります。
それもこれも、上位1%をめぐる独占戦争には大きな犠牲が欠かせないからなのです。


だが、リバタリアニズム時代の今日、ウェブと資本主義の類似点は構造のみにとどまらない。シリコンヴァレーは新しいウォール街になっている。それは、バーナーズ=リーの発明を媒体として二一世紀のネットワーク化された資本主義モデルが生まれ、勝者総取り企業の経営者にとんでもなく高額な報酬がもたらされたからである。(『ネット階級社会』)

軍事部門で産み落とされたインターネットは、幼児期に非営利的で分散的であるべく教育を受けて育ちました。
この前引っ張り出してみた今井賢一『情報ネットワーク社会』(1984年)を読み直してみると、そのことが実感できてノスタルジーを感じてしまいました。
今井は情報ネットワーク社会の発展には非営利組織の役割がきわめて重要だとして、
「かりに情報通信ネットワークに独占支配が成立するようなことがあれば、それは情報ネットワーク社会の死滅を意味する」
などと書いていました。
インターネットは青年期にさしかかっていますが、今や収益化の夢に踊らされて「社会」を死滅させようとする唯我独尊の姿へと変わっています。
彼をちゃんとした大人へと教育できる人は出てくるのでしょうか。


インターネットと名声

さて、そろそろ本書『くたばれインターネット』に戻って、主人公のアデレーンが引き起こした炎上事件について書いていきましょう。
アデレーンは90年代に『トリル』というマンガを、友人のジェレミー・ウィンターブロスと共作しました。
キャラ化した猫が他の動物キャラと戦闘を繰り広げる内容なのですが、これが映画化されるまでに成功し、アデレーンは有名人になりました。
この物語はちょっとした有名人になったアデレーンの身に降りかかった炎上事件を中心に展開します。


時は2013年、すでに40代半ばになっていたアデレーンは、イベントで知り合った作家ケヴィン・キリアン(この人は実在する)に、
彼が担当するカリフォルニア芸術大学の授業で講演をしてほしいと頼まれます。
彼女は自費出版の現実について話を始めたのち、話題をアラブの春やネット上の著作権侵害へと跳躍させていきます。
そこでアデレーンはその講演を聞いている生徒の一人がスマホでその模様を録画しているとも知らずに、
「二十一世紀初頭において決して許されない唯一の大罪」を犯してしまうのです。
コベックは小説冒頭からこんなドデカい前置きをして物語を進めるので、「唯一の大罪」とは何なのか、読み終えた後でも自分の把握が正しいのか分からなくなるのですが、
アデレーンがこの講演でビヨンセリアーナとそのファンを批判したことが発端になっています。
アデレーンはこんなことを語りました。


あなたたちはね、ビヨンセやらリアーナには彼女たちだけの特別な意味があるという振りをし続けて人生を送るのよ。あの人たちのプロとしての成功が、それは単にあなたたちがお金と注目とを差し出したからそうなったということでしかないってのに、女性たちに勇気を与えてくれたんだという振りをし続けてるのよ。そんなのまったくのナンセンス。おバカな話。

僕にはこのセリフが少しわかりにくかったのですが、おそらくアデレーンが言いたかったのは、
ビヨンセやリアーナが特別な人間なのではなく、ファンが注目して彼女に金を払ったから特別になっただけのことだ、ということでしょうか。
これについては語り手であるコベック自身が別の部分で述べている部分を参考にした方が理解しやすいように思います。


「今や時代は二十一世紀だった。今や時代はインターネットだった。名声こそがすべてだった」と語るコベックは、
ビヨンセやリアーナが「ポップスター」であり、誰でも知っている有名人であると強調します。
「名声がすべてとなったのは伝統的な金というものが地位を失ったからだ」とするコベックは、「もう買えるようなものは何もない」として、
名声こそ全世界が価値を認める唯一の通貨だとまで書いています。
「もう買えるものは何もない」という記述は何を意味するのでしょうか。
前後の文脈も乏しく、この一文だけが投げ出されているので、コベックの意図は測りかねます。
問題は彼がインターネットを前提とした世界について語っているということです。


インターネットは電気情報によって成立しています。
ここで交換されるものに物質性はありません。
ひたすら情報という「観念化されたもの」に奉仕するのがインターネットなのです。
インターネットでは観念化が存在の条件になりますので、観念が現実的なものや物質的なものに裏付けを求める必要は必ずしもありません。
(これがフェイクニュースなどが飛び交う原因になっています)


つまり、インターネットの世界において物質というものは二次的なものでしかないのです。
写真や動画であろうがそれは物質ではないのです。
たとえウェブ上で商品購入をしたとしても、物質である商品が手元に届くまでには時差があります。
その商品をまずは観念的に購入し、それから物質が手元に存在するようになるのであって、その逆になることはありません。
このような世界では商品と交換される貨幣は「遅い」メディアでしかないことになります。
インターネット社会が電子決済へと移行するのは、メディアにスピードを求めた結果なのですが、
これによって商品交換は従来の同時性の前提を逸脱して、支払いだけが先行するケースが増えていきます。
電子決済によって商品が現前しないまま、決済だけが先行することが当然になると、
実質的には広告に金を払っているのと同じことになります。
ジェイ・カレセヘネムの演説で、インターネットは「最早それはただ、広告機会を提供する以外の目的を持たない」と言われているのは、
その意味では本質的な指摘だと言えるでしょう。


金の価値を名声が上回るとしたら、このような電子的な背景があると考えるとわかりやすいのではないでしょうか。
名声に物質性がないことは言うまでもありません。
物質性に依拠しない名声は、世界規模で瞬時に拡大することだって可能です。
インターネットとの相性という点からすると、名声の方が金よりも優位にあると考えるのは自然なことに思えます。
それだけではありません。
僕はインターネット上の存在が物質性や現実性に依拠しないと言いましたが、
それにも関わらず、現実世界の延長としてある種のリアリティを保つとすれば、
多くの人に支持されているという「信頼性」に依るほかありません。
名声は、それだけ人々に支持されている、信頼されていることの証です。
この「メディア上の信頼性」こそがインターネット社会における現実であり権力となるのです。


ちなみに、ネット通販で商品到着より決済を先行する場合も、販売者に対する信頼というものが欠かせません。
将来の成長を信頼して株式投資をする感覚が、インターネットによってどんどんと日常化していることが実感できると思います。
「信頼性」と言うと聞こえがいいのですが、別の言葉で言えば「格付け」です。
融資に関する「個人の格付け」は中国で広まったのですが、
2017年9月には、みずほ銀行とソフトバンクが、共同でJ.Scoreという個人信用スコア事業を始めました。
今のところ個人の信用スコアは融資のために使われているようですが、
インターネット上で個人レベルの小取引が活発化するようになれば、
いずれは自らの個人信用スコアを名札のようにぶら下げて商品売買をする時代が来るかもしれません。


『くたばれインターネット』のアデレーンはビヨンセやリアーナなどのポップスターの名声が、
スター崇拝を必要とするファンの献身によって生み出されたものだということを、辛辣に語ってしまったのです。


あらゆるポップスターがそうであるように、ビヨンセにせよリアーナにせよ、彼女たちの名声というものは結局、自身のファンたちと共有されるこうした幻影の上に存在できている。ファンというのはお客さんではない。ファンというのは生涯を通じて一緒に旅を続けていく仲間なのだ。

こう語るコベックもおそらくアデレーンに同意しているように見えます。
アデレーンは無力な大衆の神に唾を吐いた、とまで書いています。
彼は別の箇所でもレディー・ガガを持ち出して、Twitterのフォロワー数がいかに影響力を持つかを力説しています。


アメリカのマスコミは道義的にはすでにずいぶんと前に破綻しており、発想も枯渇していた。この結果ツイッター上でのフォロワー数が影響力の一つの尺度として採用されることとなった。

僕自身、Twitterのフォロワー数を誇る著名人に数の暴力で踏み潰された経験があるので、コベックの言うことはよくわかります。
日本ではこういう影響力を一般人相手にまで行使する著名人が目立つのはどういうことなのでしょう。
著名人本人ならまだしも、その信者や仲間がその人に成り代わってわざわざ文句をつけにくることも少なくありません。


アデレーンがビヨンセやリアーナとそのファンを批判した映像がYouTubeにアップされると、
ほどなく無名の人々からの反撃が怒涛のように押し寄せたのです。


インターネット以外のものにも物申す

自分のビデオが炎上したことで、自分は間違ったことをしていないと確信しているアデレーンは、周囲の反対を押し切ってTwitterでの発信を始めます。
彼女は『トリル』の作者としてそれなりの有名人だったので、デビューから1週間で約3000人のフォロワーがつきました。
しかし、黒人を侮蔑的に呼ぶ言葉をツイートしてしまったために、より多くのネットユーザーの反感を買うことになってしまうのです。
「二十一世紀においては決して許されない唯一の大罪」というのは、どうやらこの書き込みのことだったようです。


本書の筋書きはざっとこんなものなのですが、実際に読んでみるとストーリーはあまり重要ではないように思えます。
とにかく脱線が多く、アデレーンの周囲の人物について書かれた章や、そもそもアデレーンとは無関係な人物についての章まで挟まれています。
第五章でコベックは物語に登場しないのだが、と断りつつ、「ジャック・カービーは本書のいわば中枢に位置する存在である」と書いたりします。
ジャック・カービーは、アメリカンコミックの影の重鎮とも言える存在です。
彼はマーベルの映画で活躍する人気キャラクターたち、たとえばX−MENやファンタスティック・フォーやキャプテン・アメリカなどを生み出すことに関わったのですが、
彼は自らの知的所有物の法的な権利を持てず、不当な扱いをされたまま世を去りました。
「彼は搾取されたのだ」とコベックは書いています。
アデレーンが共著でコミックを出しているのも、作画が担当であるのも、カービーと同様の設定になっているといえばそう言えなくもありません。
ただ、読者がアデレーンにカービーの姿を重ね見るようには描かれていません。
コベックにはそういう意図はなかったと思います。
つまり、コベックの書いていることはどこか支離滅裂で、読者にすんなりと理解できるようにはなっていませんし、
そもそも一貫性など持たせる気がないのかもしれません。
コベックはインターネットについての小説を書く心得を、ご丁寧に作品中でこのように語っています。


インターネットに近づく唯一の方法は、中心人物が作中に登場しないようなひどい小説を書くことである。様々な媒体に憑かれてしまったようなコンピューターネットワークの姿を真似たひどい小説を書くしかない。無関係なごわごわとした手触りの悪い中身が次から次へと現れてくるコンピューターネットワークの姿を真似たひどい小説を書くしかないのである。

インターネットの合わせ鏡のような小説を書くことがコベックの意図であるとすれば、
翻訳者の浅倉は「それは見事に達成されているといっていい」と本気なのかリップサービスなのかわからないことを言っていますが、
個人的にはあまり成功していないように思います。
というのも、この小説は誰が見ても理解できる「筆者の意図」によって駆動しているのが明らかすぎるくらい明らかだからです。
その意図とは、階層化を生み出す資本主義とその走狗であるインターネットに対する抗議にほかなりません。
そのため、本書の書評を意味のあるものにするのならば、本書に散見されるインターネット批判について考察するしかありません。
どうしても引用が増えることになるのですが、お付き合いをお願いします。


インターネット批判の前に、コベックが出版界を皮肉っていることに触れましょう。
僕にはかなり興味深かったのですが、コベックは出版界の裏にCIAの存在があることを暴露していきます。


本書の著者は “善い小説” を書くことなどはなから諦めている。何故なら、まあこれは本人の思い込みでしかないのかも知れないが、 “善い小説” というのは基本中央CI報局Aによって作られるものだと気づいてしまったからである。冗談などではない。真実だ。信じる者は救われる。

本気か冗談かわからない書き方ですが、過去においてはCIAの関与が事実であったことが知られています。
コベックはこう続けます。


文芸誌の『パリス・レビュー』はそもそもCIAの創設に拠る。またCIAはアイオワの作家研修会にも出資している。一九五八年のノーベル文学賞を裏で画策したのも同組織である。

「パリス・レビュー」のウィキペディアを見ると、創設者の中に確かにCIAのエージェントがいます。
日本では岸信介にCIAの資金が流れていたことも指摘されていることですが、
実は日本のマスコミにもCIAが入り込んでいるという話を、某大手新聞記者から直接聞いたことがあるので、こういうことがあってもさほど驚きません。
これは共産主義が健在だった時代に目立ったことではあるのですが、
文学が何かしらの組織の宣伝手段として有効だと考えられていた、ということを認識するのは今でも有効だと思います。
人気芸人の受賞以降、某文学賞の選考は作品ではなく作者が属している組織や業界への忖度で行われているのですが、
権威を疑う習慣のない日本人にとって、こういう話は前澤友作の月旅行の話題より現実的ではないのでしょう。
ある意味、信じる者は救われるわけです。


二十一世紀がインターネットの時代であることがいよいよ明らかになってきた頃までには、多くの作家たちに許された生き残るための戦略とは、コンピューターネットワークを宣伝の手段とすることだけとなっていた。

インターネットは隅っこの方でやっている人を除いて、自分自身もしくは自分に利益を誘導するものを宣伝するためのメディアとして成長しています。
僕が利用しているブログサービスでは、宣伝を表示しないために定期料金が必要なのですが、
他人の宣伝を表示すれば無料になるということがこのシステムの本質を表しています。
大昔、作家は良い作品を書くために奮闘していました。
その作品を世に届ける役割をしていたのは出版業界でした。
しかし、コベックが言うように、今や自作の宣伝をすることが作家の役割になってしまいました。
個人の持つ時間は限られているので、自己宣伝に時間を使っている作家が、作品を書くことだけに奮闘した過去の作家を超えることは不可能です。


コベックは実在する政治家についてもいろいろ暴露めいたことを書いているのですが、
真実と確信できないことには載せにくい話題なので、それは本書を読むお楽しみとしておきます。
また、コベックは大学についても本質をついた皮肉を面白く書いています。


大学というのはまあ、うちの教育方針ならば学生たちが高尚になりますよとかいった謳い文句を掲げた信用詐欺みたいなものである。大学なる組織が実際にやっていることは極めて単純だ。来たるべき未来の戦争に使用すべく、より進んだ武器を作ろうという研究機関なのである。

これがアメリカの工科大学に限ったことだと思う人は、日本のことを知らなすぎると言えるでしょう。
安倍政権下では防衛費だけでなく軍事研究費が前例のない水準での拡大を見せ、
これまでタブーだった大学での軍事研究を進めたいという意図がはっきりしています。
岸信介の孫はどこまでもアメリカと一体化することを求めています。
コベックは大学が武器を開発していることを、人間性という言葉で取り繕っていると言います。
「人間性なるものは金にならない」という彼の言葉が現在の大学の姿を表しています。
このような状況下で、出版社と一体となって商売人と化している大学人などを信用する人たちが僕には理解できません。


インターネットという隷属システム

ちっともインターネットの批判が出てきませんでしたが、そろそろコベックのインターネット批判を書きます。
「ネットとは思慮に欠ける男たちによって産み落とされた粗悪な思想である」とコベックは述べています。
これは、技術というものがその「開発者の主義信条を、何らかの形でどこかに反映している」という彼の考えからきています。
前述のインターネットの開発の歴史を振りかえればわかることですが、
インターネットは男性たちの手で、冷戦期において共産主義に対抗する必要から開発されたものです。
ここでコベックは、インターネットが既得権を持つ資産家たちのためのテクノロジーであることを示そうとしています。


そもそもがネットというのは連邦政府の防衛省が開発したものなのだ。根本からしてソ連を仮想敵国として想定した兵器だったのである。

つまりネットはある種の「兵器」だということです。
これはエドワード・スノーデンについて語っている部分の記述なのですが、
そもそもが兵器なのだから、ネットを国民監視に使うのは当然だという文脈です。
コベックはスノーデンを批判しているわけではありません。
そんなこともわからないでネットを利用している人々を批判しているのです。


このシステム(注:インターネット)はただただ、人々がパソコンなり携帯電話なりに打ち込んだ戯言ブルシットを最大限に拡散することのみを目的としている。利用者が多ければそれだけ利益も莫大になるからだ。つまりこいつは、既存のブランドに奉仕することを意図したある種の封建制度であり、人類をして、その最悪の振る舞いに耽るべく誘惑することを決して止めない存在なのである。

インターネットが数量に基づいた権威主義を蔓延させることは僕も以前に書いていますが、
コベックははっきりと「既存のブランド」に奉仕する「封建制度」だと書いています。
GAFAという独占的な支配者が君臨するインターネットが封建的な世界と似てくるのはその通りだと思います。
前出した『ネット階級社会』でも「上位一パーセントによる支配」として取り上げられています。


ウェブ2.0は、メディアを民主化し、発言権を持たない一般の人びとに力を与えると考えられていた。そう、たしかにいまや誰もがツイッター、タンブル、ピンタレストで自分の考えていることを発信できる。(中略)そのほとんどの部分がギフト経済であって、利益を得られるのは独占性をますます強めるほんの少数のIT企業のみなのだ。(『ネット階級社会』)

コベックはサンフランシスコの階級浄化の象徴として、シリコンバレーの会社へと通勤の足を提供する贅沢で真っ白いバスを描いています。
「グーグルバス」と呼ばれる通勤バスについて、ジェイ・カレセヘネムはJ・G・バラードの『スーパーカンヌ』の世界と重ね合わせたりします。
グーグルに祈りを捧げるという奇妙な信仰を持つクリスティーンという登場人物は、こんなことを語っています。


「何よりもまず肝心なのはグーグルという存在をちゃんと理解することよ」
 クリスティーンは語り始めた。
「つまりあそこは嘘つきの集まりなの。事業そのものが嘘をつくことによって成り立っている。広告こそ嘘が芸術の域にまで達したその結果なのよ。だって皆嘘だってわかっているのに誰もそれを責めたりしないのよ。お金で嘘をつく場を買ってさえいるんだから。そんなこと皆知ってるの。
 だからね、このベイエリアがなんでこんなになっちゃったかというと実はすごく単純なことなの。アップルを除けばあの界隈のほかのすべての会社が利益を上げている手段というのは広告なのよ。ネットそれ自身からお金を稼ぎ出す方法というのは広告以外には存在しないの。だからあたしたちは今、史上一度として類を見なかったような広告経済とでもいうべき世界に生きている訳。誰も認めようとはしないけどね」

コベックは執拗にインターネットには広告しかないと語るのですが、
クリスティーンの言う通り、誰もそんなことを「認めようとしない」のです。
このことは僕も何度か発言してきたのでよくわかります。
インターネットへの接続過剰を批判するかのような顔でデビューしておきながら、自らネットに依存しつつネット民に支持されている存在であり、
権威に対抗するはずのドゥルーズ思想の研究者という肩書きで、ソフトな権威主義という父権性を推進する某大学の准教授が、
栃木の広告屋の息子であるという出自はもっと重視されるべきだと僕は思っています。
〈フランス現代思想〉が東浩紀を経由してインターネットの世界と「同一化」した結果、誰が得をすることになったかを示す好例だと思うからです。
(彼は個人的な嫌悪だと思い込みたいようですが、僕は論理をベースにした問題意識からこのような「社会状況」の批判をしています)
本書『くたばれインターネット』を出版しているのが日本の大手出版社ではないことも非常に象徴的に思えます。


ネットがこの世界を良い方向に変えるというのは幻想だとコベックは言います。
人々をネット使用に駆り立てることで、実際にはごく少数のIT長者を生み出すだけに終わります。
この主人と奴隷の関係はずっと変わることはありません。
たとえば僕が書いているこの文章も、閲覧されることで銀行家や投資家の利益になっているというわけです。
コベックはグーグル傘下にあるソーシャルメディアは「どこもが自称知性派だったり革新派だったりする人々の溜まり場」だと揶揄し、
彼らが何を語り合おうと、父なるグーグルのために金を稼ぎ出すことにしかならないと述べます。
アデレーンの書き込んだ差別用語によるネット炎上も、そのインフラを提供する企業の懐を温めるだけに終わるのです。


コベックが自分の創造したキャラクターの所有権を奪われたジャック・カービーにこだわったのは、
現在インターネット上に流通する文章の多くがカービーと同じく「知的所有物の略奪」に遭っているからです。
自らのアイデアでツイートし、それがどれだけバズったとしても、「ツイッターはクリエイターに何も支払わない」のです。


現実にはツイッターにおいて “言論の自由なり表現の自由なりを実践” している人々のやっていることというのは、頼まれてもいなければ自分はそこに対し何ら影響力も持っていない会社のためにコンテンツを提供しているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
つまり実質的に、あのジャック・カービーのように職務著作に従事しているだけなのだ。

今日ネット上には知的所有物と言える多量の書き文字が、書いた本人にはなんのコントロールも効かない状態で流通している。誰かにフェイスブック経由でメッセージを送ればその瞬間から永劫にそのメッセージはフェイスブックの所有物となり、彼らはそれを広告の機会を提供する格好の口実として使用し始める。

SNSの所有権はユーザーのものと認められていたりするようなので、必ずしもプラットフォームの所有物と言えるのか詳しいことはわからないのですが、
ユーザーの表現行為に支払いがないことは間違いありません。
大袈裟に言えば知的所有物の略奪と言うこともできるかもしれません。
表現行為の大部分がプラットフォーム企業に奉仕するだけとなる問題については、大塚英志も『メディアミックス化する日本』(イースト新書:2014年)で書いています。


どちらにせよ、一定の金額をキックバックしていたのでは、このシステムは成り立たず、Web企業は、あくまでユーザーには「遊び場」「自由な表現の場所」というファンタジーを与えることによって、彼らの投稿が企業に貢献するシステムを設計していく方向にあります。
これは二次創作サイトに限ったことではなくて、Facebook、Twitterも含めて言えることです。多くのソーシャルサイトが投稿サイトであり、あたかも自分が自由な表現をしているつもりでも、サイトにアクセスすること自体が、広告媒体としてのサイトの価値を高めることになっているわけです。(大塚英志『メディアミックス化する日本』)

つまり、自己表現のために企業が提供するプラットフォームを利用することは、そのサイトの広告価値を高める結果になるだけでなく、
投稿者に「無償でコンテンツを創らせる」ことを意味するのです。
大塚は表現という行為が企業のコンテンツとして利用されていることを語ったあと、
企業が自らのコンテンツを自分に都合のいいように管理する結果になると述べます。
「Webサイトの運営者、つまり企業の側に、創作や発言が管理されていくという問題」があると言うのです。
これを「隷属システム」と大塚は呼んでいます。


これについては実体験があります。
僕がAmazonに無償で提供していた200以上のレビューは、著者クレームによって予告なく全消去されてしまいました。
一方的に応答も打ち切られ、目に見えて奴隷のような扱いでした。
レビューがAmazonに帰属することは知っていたのですが、
いったんは審査にかけて認可したレビューを、クレーム後に再度調査したら問題がありました、とかご都合主義が丸見えでした。


ノスタルジーを超えて

さて、インターネットに関しては完全にニヒリズムに侵されているコベックですが、
僕自身の感想を言えば、彼の言い分の多くに納得はできるのですが、根本的な疑問があります。
インターネットで何をやっても広告に奉仕し金持ちを喜ばせるだけだとして、それは消費資本主義社会すべてに言えることなのではないでしょうか。
資本主義打倒のためにマルクスの本を購入しても、出版社や本屋に貢献することになりますし、
デモに参加するために国会前に行っても、鉄道会社には貢献することになります。
誰も儲けさせずに物事を行うというのは、社会体制がこうである以上、難しいのではないでしょうか。
どうしてコベックはインターネットだけが例外だと思えたのでしょう。


はじめの方でコベック自身がモデルだと言われるジェイ・カレセヘネムの演説を引用しましたが、
そのときに彼が草創期のインターネットに対してノスタルジーを抱いていることを僕は指摘しました。
インターネットはユートピアを垣間見せたのに、それが幻でしかなかったという嘆きです。
「かつてインターネットは我が血肉でもあった」とも語るジェイ・カレセヘネムは、
インターネットがオルタナティヴの夢を失ったという失望感を抱えているのです。
ただ、僕はインターネットには草創期から現在まで一度として期待したことがなかったので、彼の嘆きが正直あまりわかりません。


インターネットで失われた夢を彼がどこに見出すかというと、本という旧メディアでした。
本を読む人だけがネットに抵抗し、反論できる、と言うのです。
しかし「そのはずだった」とジェイ・カレセヘネムは掌を返します。
ここでも彼は期待を裏切られたわけです。
出版業界はインターネットに抵抗するどころか、媚を売るようになったのです。
「出版業界は適応を余儀なくされ、整理統合のうえ内側から腐っていった」
ここを読んで、僕はアメリカも日本もそう変わらないんだな、と感じました。
結局、ジェイ・カレセヘネムはシャーロット・ブロンテ、つまりは古典を讃えることになります。
そう、もう古典に帰るしかないのです。
古典について語るのならば、それはノスタルジーではありません。


この小説は喜劇のような悲劇のような、小説のような小説でもないような作品ですが、
批評性と反骨心に富んでいると言えるでしょう。
また、コベックはインターネットとリバタリアニズムの親近性を意識しているのか、
アイン・ランドへの敵意を隠さないのですが、この問題については今回は割愛します。
アデレーンと共に『トリル』を作り上げたジェレミー・ウィンターブロスのセリフにも自然とうなずくようなものがありました。


近頃どうにも耐えられないなと思うのはさ、なんだか世界が自分が十五の頃夢中になっていたような一切に支配されつつあるように見えてしまうことなんだ。要はマンガ本だよ。オタクの領分だ。だがそれが今や本流になってしまっている。

僕も似たような実感を持っています。
アメリカ大統領選挙の有力候補が元気な70代ばかりなのを見ても、時が止まっている感じがあります。
コベックが言うように、インターネットが冷戦期の最後に生まれたテクノロジー兵器であるならば、
インターネットは資本主義の敵を倒し続けることになるのかもしれません。
しかし、ゲリラ的な抵抗は敵の武器を使うことから始まるものだと僕は信じています。
それがインターネットに一瞬として期待を持ったことがない僕が、現在インターネットを使っている唯一の理由です。


2 Comment

雨蛙さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
雨蛙さん、コメントありがとうございます。

インターネットというシステムを利用しながら、システム自体に揺さぶりをかけるのはハッカー的なあり方でしょうね。
そういう戦いには憧れるのですが、技術的な知識でエンジニアに太刀打ちできるとは思いませんので、あきらめます。

それより僕はインターネットを通じて、インターネット利用者の理性に働きかけたいと思っています。
これは残念ながら雨蛙さんの言うようなカッコいい戦いにはなりそうもないですね。
理性vs欲望という戦いになるのではないでしょうか。
まあ、死を意識しない世界では理性の力はなかなか発揮されにくい気がするのですが。

無題

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