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『柄谷行人浅田彰全対話』(講談社文芸文庫)柄谷 行人 浅田 彰 著

対談という日本的な文化

本書は1985年から1998年にかけて行われた、柄谷行人と浅田彰の対話を6回分収録しています。
対談というのは良くも悪くも日本的な文化だと思います。
日本のジャーナリズムでは大人気企画で、2人だと「対談」、複数だと「座談会」と呼ばれたりするのですが、
座談会は菊池寛が「文藝春秋」誌上で初めて企画したと言われています。
これらはあまり欧米では行われていないもののようです。
欧米ではインタビューの形で話し手と聞き手をある程度しっかり分けて、
話し手の考えを読者にわかるように伝える、というジャーナリスティックな目的で行われているように思います。
しかし、対談や座談会では共通の「場」に複数の人が参入し、ある話題について意見を交換するというかたちで進みます。


ただ、この対談や座談会の有効性についてはあまり考察されてきたようには思えません。
たとえば日本で最も考察された座談会といえば、1942年に「文学界」の特集として13人が参加した「近代の超克」が挙げられると思います。
いろいろな人たちがこの座談会について書いているのですが、たいていは座談会そのものの内容は低調だったとしています。
しかし、13人も参加した座談会に低調でないものなどあるものでしょうか。
人数を絞って対談にしたところで、やはり読むべきほどの内容が得られることは少ないと思います。
なぜなら、最終的にはある程度「場」がまとまる必要があるので、
参加者が互いに暗黙の了解を共有したり、相手の考えについての理解を持っていたりすることになるからです。
結局は「場」の共有を前提とした「内輪の話」以上のものにはならないのです。
その意味で、対談する2人は関係が近すぎても遠すぎても面白味が出ません。
俳句の二物衝撃のように、近すぎず遠すぎずがいい塩梅ということになるわけです。


しかし、実際は内輪感バリバリの近い人同士の対談が目立ちます。
近すぎず遠すぎずの関係は読者にとっては面白いのですが、やる側にとって楽ではないからです。
こうなると対談や座談会という企画が、いかに編集する側にとっての都合であるかが想像できるのではないでしょうか。


では、なぜ日本ではこの手の企画が人気なのでしょう。
それはおそらく、彼らの語った内容を知ること以上に、彼らの「場」に自分も参与することに読者の関心があるからだと思います。
他人の発言を参考にして勉強したり触発されたりする勤勉な読者もいるはずですが、
あまりそういう人が多いような気はしません。
なぜなら実際には信用に足りない低レベルの発言をする人の対談を平気で何度も掲載している雑誌が少なくないからです。
そこから推測するに、読者は論考の読解という負荷のかかる作業より、
手軽に一流の知識人の発言を「拝借」して、自分がその「場」に参与している気分になることを重視しているのでしょう。
つまり、対談や座談会はそこで前提とされる知的な「場」への憧れで駆動されているのです。
これが日本独特のワイドショーなどのコメンテイター文化を構成するようになり、
ジャーナリズムで活躍する「マスコミ御用達」のエセ知識人がアイドル化する原因となっています。
(東浩紀が立ち上げたゲンロンカフェが、出演者を「ゲンロンカフェ四天王」と呼び、地下アイドル化に励んでいたことには苦笑するしかありませんでした)


さて、本書は左派思想のアイドルとも言える柄谷行人と浅田彰の対話を集めたものですが、この2人が近すぎる関係であることは疑いありません。
雑誌「批評空間」を一緒に編集してきた仲だからです。
(僕はこの雑誌を一度も読んだことがありませんが、「ゲンロン」の東浩紀はこの雑誌から出てきてアイドル化したのでしたね)
本書の最後に柄谷が浅田との関係について書いた文があるのですが、
「漫才でいえば、私はボケで、彼はツッコミである」と表現されているのは言い得て妙でした。
その意味で、2人の対話は対談というよりもコンビ芸に近いものがあります。
柄谷の尖ったアイデアをすぐさま浅田が適切に整理する、ベテランの餅つきのような手つきには何度も驚嘆しました。


西田思想と皇室

ただ所詮は対談ですので、気心の知れた2人の「通じすぎる話」という面が強いのですが、
もう30年近く前の対話の中に現代の課題が発掘できるあたり、彼らの問題意識がちっとも社会的に共有されてこなかったことがわかります。
ここでは個人的に重要だと思った点を取り上げてみたいと思います。
本書の2つ目の対話は1989年の「文学界」2月号に掲載されていたものです。
昭和天皇の崩御直前の時期であったため、天皇制について考察するような内容になっています。


浅田がハイデガーと京都学派の違いについて話し始めるところは興味深く読みました。
ハイデガーが「主体どうしがぶつかりあう中から歴史の弁証法が展開していく」というヘーゲル主義で、
「空間的な闘争」を前提とする「時間の弁証法」であるのに対し、
京都学派は皇室が「無の場所」として時間を貫いて存在し、「その中で各々が所を得て空間的に共存できる」ように包み込むので、
歴史を超えた「トランスヒストリカル」となっている、と浅田は言います。
非常にわかりやすい図式的整理で感動すら覚えますが、
ハイデガーと京都学派についての知識がない人には何のことやらさっぱりということになるのかもしれません。
皇室を「無の場所」とするというのは西田幾多郎の『日本文化の問題』(1940)を頭においた発言だと思います。
ただ、『日本文化の問題』では「無の場所」という直接的な言い方が見られないので注意が必要です。


『日本文化の問題』は太平洋戦争開戦の翌年に出版されたもので、戦時体制が強く影を落としている文章だと言えます。
それまでの西田思想を乱暴にまとめてしまいますが、
主語的な存在となる単一なものと述語的な存在である多なるものを合一させる、いわゆる「絶対矛盾的自己同一」をめざしたものとすることができます。
主語的なものを特殊、述語的なものを一般と考えていいようです。
多なる述語的な「一般者」を包摂する、つまりすべて包み込むものが「無の場所」です。
西田は無が「自己限定」することで意識上に存在する有となって現れると考えていたように見えます。
(この「自己限定」という言葉は、西田的には意志的な自覚を意味しているようなのですが、
僕は井筒俊彦の言う言語の自己分節に近づけて理解することにしています)


『日本文化の問題』では、西田は対立する物と物が一つになっていくことを時間的と述べ、
「時とは何處までも相對立するものの統一の形式」だとします。
しかし、瞬間に極小化された現在という視点で捉えるならば、時というものは空間的に考えられなければいけない、と西田は言います。
「すべてが一つの時に於てあると考へられるかぎり、眞に物と物との對立と云ふことはない」
こうして西田は世界を時間的でありつつ空間的である、一と多の矛盾的自己同一とするのです。
時間的な全体的一は西田にとって主体的なものに当たります。
空間的な個物的多は環境的なものに当たり、これを有機的生命として把握していきます。
これが主語的な「一」を主体的、述語的な「多」を環境的とそれぞれ変奏したものだと考えていいと思います。


この矛盾する両者の合一を西田は有機的生命のモデルとして把握しようとします。
個物的多を細胞とし、全体的一を個体的な身体とするのです。
日本の戦時体制が批判されるときに、部分と全体の一致という価値観が挙げられるのですが、
このような生物学的な把握に戦時体制のイデオロギーとの同調を感じ取る必要があります。
個物的多という細胞である我々は、歴史的なものに参入することによって全体的一となるのですが、
国家の歴史的聖戦に動員されることを後押しする思想だ、と受け取られても文句は言えないでしょう。


〈フランス現代思想〉研究者には西田の思想をポストモダン的な生命思想として評価する輩が何人かいるのですが、
彼らが西田思想と戦時体制との関わりについて、しっかりと総括できていたためしはありません。
ベルクソンやウィリアム・ジェイムズの影響が読み取れる都合の良い部分だけを取り上げて、負の面に向き合っているとは思えないのです。
結局は、日本にも世界に通用する哲学者がいた、という「オラが村の誇り」によって自分自身の現実的零落をごまかす心性を助長するだけでした。
そういう国際的な承認を手に入れたがる田舎者精神が、日本ラグビーの「歴史的」躍進とかいう空虚な言説(ハッキリ言って地元開催アドバンテージで実力以上の結果を演出しただけ)で熱狂できるショボい社会を生み出すことになったのです。


話を戻します。
せっかくなので、西田の『日本文化の問題』について確認しておきましょう。
西田にとって主体性は否定されるべきものでしかありません。
「最も戒むべきは、日本を主體化することでなければならない」とも述べています。


私は日本文化の特色と云ふのは、主體から環境へと云ふ方向に於て、何處までも自己自身を否定して物となる、物となつて見、物となつて行ふと云ふにあるのではないかと思ふ。(西田幾多郎『日本文化の問題』)

主体から環境へという方向は、主語的な「一」を否定し述語的な「多」にとっての「場」を重視する考えを導きます。
主体性を否定することによって「場」としての世界との同一化を図ろうとする試みとも言えるでしょうか。
これを仏教的もしくは文学的に考えるかぎりは問題はないのかもしれません。
問題はこの思想が国家もしくは皇室、さらには日本人という「種」を射程としていることなのです。
西田は歴史的世界が自己自身を形成する場合、それが「種的形成的」だと言います。
「種が何處までも種でありながら、自己自身を越えて世界的形成的なる時、文化的である」と述べているのは、
種という部分でありながら、歴史的世界という全体と合一することをめざしているからです。
西田は種としての日本を超えて世界と同一化し、「世界として他の主體を包むこと」を語るのですが、
帝国主義を慎むべき主体化と批判しておきながら、主体性の否定によって種を世界へと拡大することは肯定してしまうのです。
これが八紘一宇の肯定へとつながっています。
結果は同じ帝国主義なのですが、違いがどこにあるかというと、主体的であるか主体を否定して「場」に包まれるかということでしかないのです。


〈フランス現代思想〉は執拗に主体批判をしているのですが、この点においても西田と立場が共通することは明らかです。
ちなみに西田が日本精神の真髄と呼んでいる「元來そこには我も人もなかつた所に於て一となると云ふこと」とか、自己自身を否定して物となる、とかいうことをポストヒューマニティと結びつけることも可能です。
ハイデガー思想が詩的精神としては悪くなくても、政治的には問題であったように、
西田思想も文学的精神としては悪くなくても、政治化することの危険性を考えなくてはいけないのです。
西田は自分の思想を仏教哲学(華厳経の事事無礙や親鸞の自然法爾)と結びつけているのですが、
それが民族性や皇室と接続してしまうことが問題です。


人間活動の中心を創造に置くこと、具體的な人間的存在を歴史的創造に求めると云ふことは、民族を無視すると云ふことではない。民族と云ふものなくして何等の歴史的形成と云ふものもなく、創造と云ふものもないのである。(西田幾多郎『日本文化の問題』)

西田はこのあと過去と未来とが現在で一つになり、「永遠の今の自己限定」として物を創造するのが伝統だと語ります。
過去も未来もない現在だけの時間にどうして伝統が生じるのでしょうか。
それは「永遠の今」が民族に支えられたものだからです。
その民族の現在の姿には民族の歴史が刻み込まれていて、その民族性を自覚することが伝統における創造と同じことになるのです。


僕の印象ですが、西田思想というものは責任を司るような主語的もしくは主体的な意識を極小化して、
多様な欲望を包み込む「場」(市場)を肯定するという点で、
消費資本主義的な私生活主義と通じているように思います。
その意味でサブカル的な欲望に簡単に接続するポストモダン的な思想だと考えることもできます。
中国文化や古来日本に対する知識が乏しく、批判の対象であるはずの西洋思想の知識ばかりで構成された『日本文化の問題』の根底にも、
コラージュ的な要素を強く感じてしまいます。


そういえば肝心の『日本文化の問題』における皇室の位置づけについて書いていませんでした。
西田は蘇我氏や藤原氏、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府を主体的なるものと位置づけ、
その背後に環境つまりは包み込む場所としての皇室があったとしています。


我國の歴史に於ては、如何なる時代に於ても、社會の背後に皇室があつた。(中略)我國の歴史に於て皇室は何處までも無の有であつた、矛盾的自己同一であつた。(西田幾多郎『日本文化の問題』)

主体的なものが環境に適さない、つまりは行き詰まりを見せた時、他の国では革命が起こるのですが、
日本では維新がすなわち復古であるため、背後にあった皇室が前景化する、と西田は言います。
前者が更新をくりかえすシステムであれば、後者はいつも同じものへと包摂されるシステムだと言えるでしょう。
日本で新しいと思われて出現したものが、結局は体制に吸収されていく運命にあるのは、こういう包摂システムと関係があるのかもしれません。


話が長くなりましたが、浅田の発言に戻ろうと思います。
浅田は京都学派もしくは西田思想が超歴史的なものであり、「生物学的持続」に基づくものである、と述べています。
この「生物学的」という浅田の指摘が非常に重要なのですが、これについては少しあとに触れます。
西田の思想がポストモダンの中で復活していることを、浅田はこの時点(1989年)で指摘しています。
浅田は「全体と個がそれぞれ所を得て、エコロジカルあるいはバイオホロニックな調和を奏でることができる」のが「無の場所」であり、
それがアジア全体を包み込む思想としてあったことを指摘したあと、次のように述べます。


この思想は、戦後一時的には隠蔽されたというか忘却されたわけですけれども、じつは全然清算されないまま残っていて、近代主義が去り、反近代主義が去ったときに、ポストモダンと言われているような状況の中で再現されつつある。しかも、その背後には「大東亜共栄圏」を経済的に実現してしまった日本の経済進出がある。(『柄谷行人浅田彰全対話』)

経済的に実現した「大東亜共栄圏」も、今や中国マネーの台頭によって敗戦目前に追い詰められたという状況ですので、
ポストモダン思想もだいぶ下火になってきたように個人的には感じているのですが、
1989年時点での柄谷や浅田の批判を出版界やアカデミズムが無視してきたことについては、きちんとした反省がなされるべきでしょう。


主体性の弱さと天皇制

この浅田の発言を受けて、柄谷は西田が主体性を無化してしまうことを問題視します。
西田が主体的であることを慎むべきだと書いていたことはすでに確認しましたが、
主体性批判を我が物顔で語る〈フランス現代思想〉の日本俗流化が、保守思想を強めることになった原因であることも重ねて強調しておきたいと思います。
日本で主体による自己否定を唱えることは、皇室のような「自然的な」保守原理、つまりは既存の権威が、
他の主体を「包むこと」へとつながることになるのです。
これは戦後思想を通過した後の知識人であれば、専門が何であろうと知らなければならないことだと思います。
しかし、〈フランス現代思想〉オタクの研究者たちは狭い範囲の教養と、田舎者の西洋崇拝ワナビー精神で、
不勉強のまま売文などのマスコミ露出ばかりに励んだのです。
(もちろん柄谷や浅田にも責任の一部はあるわけで、その反省を彼らがきちんとやったかと言えば、そうではないと僕は思っています)
その部分の柄谷の発言を引用します。


柄谷 西田の場合は逆で、文化をねんの中にとりこもうとしているというのかな。個体性とか主体性を無化してしまう。たとえば、歴史を元号で考えるとき、ぼくらは天皇の生命=自然に依拠しているわけです。こちら側が主体的に築いたという実感を持てないでしょう。天皇制が良くない理由は、いろいろあるとしても、根本のところで「文化」としての自立性・主体性を持てないというところにあるんじゃないか、とぼくは思ってるんです。三島由紀夫のいう「文化防衛」なんて文化じゃない。集団としてはすぐれていても、どうもみんな個々人として弱いんです、天皇制の中に生きている者は。(『柄谷行人浅田彰全対話』)

ここで柄谷は天皇制の問題点を「自立性・主体性を持てない」ことに焦点化しています。
この点をつきつめると、日本文化は外国文化を取り入れた雑種性こそが本質であるという開き直った論が出てきてしまうのですが、
おそらく柄谷の批判はそういう起源論にではなく、文化に関わる者の態度が「弱い」という点にあると思います。
僕の関わった身近な事例で言いますと、「無頼」を自称している俳人が、無頼とは頼ることだと開き直り、
自分を批判する個人に対して、仲間や関係者などが集団で間接的に嫌がらせをさせておくケースなどがありました。
日本では出版マスコミがこういう個の力の弱い、ワンワンメンタルの連中とつるんで、自分たちが文化を発信している顔をしています。
こういうことが通用してしまうのは、日本という国そのものに主体性の「弱さ」(つまりは「甘え」)を肯定する面があるからです。
もちろん、個々人の主体性の「弱さ」が日本の権力機構にとって都合がいいことは言うまでもありません。
〈フランス現代思想〉とポストモダンが肯定してきたものは、このような主体性なき「甘え」(つまりは無責任)であったわけです。
このあたりは責任意識のかけらもない現政権の態度を見てもよくわかるところですが、
こういうことの背後に天皇制があるという発想は、非常に大事です。


この天皇制という言い方はわかりにくいのかもしれない、と最近僕は思っています。
天皇を廃位せよ、という主張だと思われるかもしれないからです。
僕は人権という観点から天皇もなくした方がいいと思っていますが、
天皇制という言葉は天皇を中心とした国家体制という意味ではありません。
自らの主体的判断を外の権威に依存するかたちで受け渡しておきながら、
その依存的決定を自らの判断であると思い込む詐術を成り立たせている心理規制のことを僕は天皇制と呼んでいます。
精神的には閉鎖的な権威主義や周囲の意見への追従として現れますが、振る舞いとしては解放的、自己中心的であることが特徴です。
依存する外的権威をある強者だけに絞ることで、それ以外の外部を排斥して内輪空間を形成し、その中で好き勝手振る舞うあり方です。
天皇制については別の記事でもおいおい考察していきたいと思っています。


日本の言説は生物学的

浅田は西欧の人為の論理に東洋が自然の論理で対抗したと語ります。
これが結局は生物学になる、と言うのですが、
たしかに「無の場所」に働くような包摂の原理というのは、自然環境に包み込まれているという感覚がないと、直観として捉えるのは難しいでしょう。
実際、浅田も西田の思想モデルを森に見立てています。
森は個々の木々や草がバラバラにあるわけでも、森全体があるだけでもなく、
「その間の生態学的な連関の総体こそが森にほかならない」からです。


柄谷は昭和天皇が1975年の訪米帰国後の記者会見で戦争責任について問われたときに、
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりません」と答えたことを取り上げ、
責任という問題を文学的な幻想として扱う態度は生物学になる、と指摘して次のように言います。


事実、日本の言説は、ほとんど生物学的、つまりシステム論的ではないかと思う。今日それがとくに目立ちはじめた。文学もいわば生物学的ですよ。(『柄谷行人浅田彰全対話』)

柄谷が生物学をシステム論とイコールで捉えているのはなるほどと思いました。
生物学は生物を生体システムとして捉え、その構造や機能を解明する学問と考えることができるわけですから。
ここで浅田が語っている生物学は西田的な生命思想を含んでいるため、論理になりきらない曖昧さを持っているわけですが、
柄谷の言う生物学はシステム論なのです。
ここは2人の話が通じているようで微妙に捉え方がズレている気がするので、読む側も注意をする必要があると思います。


またも話がそれるのですが、
柄谷の文学もシステム論的だという発言を読んで、個人的に思い当たることがありました。
僕にはある一部の俳人が最近やたらと俳句をシステム論で語ろうとしているように見えています。
そもそも文法というのも後付けのシステムであって、その法則性は絶対であるはずもないのですが、
どこぞの俳壇選者が、俳句の「切字」は文法や先人の言説を参照しても明確にシステム化できない、
だから俳句の「切れ」は虚妄なのだ、とかつまらないことを口吻激しく書いたりしています。
若手の俳人も日常の消費社会に満足している精神の現れなのか、
俳句のシステムの中で、ある言葉や先行句とのネットワークから自意識に叶うイメージを生み出す、ということばかり考えているようなのです。
彼らにとって俳句とは、意味不在のまま言語による触発だけで作品化する確固としたシステムとして存在しているようなのですが、
こういうシステムをゴールとする発想が僕にはオタク的で堕落したものにしか思えませんし、
当然ながら、こういう人の作品を読んでも、訴えかけられるものがなく退屈でしかありません。


また話を戻します。
ここで浅田の方は京都学派の思想へとダイレクトに斬り込んでいきます。
浅田は主語の論理には責任が生じるが、西田的な述語の論理だと「なるようになった」としか言えなくなる、と述べます。
この「なるようになった」という事後適応的な無責任さは、戦後に丸山眞男などが強く批判した日本的な無責任の体系に当たります。
僕は〈俗流フランス現代思想〉がこのような無責任さの上に成立していることをさんざん指摘してきました。
(そのわかりやすい例が「生態学的転回」とか言って主体の分散を生命の肯定とし、その「無責任性」を語った檜垣立哉というドゥルーズ学者です)
主体性嫌悪は日本の古層から脈々と受け継がれた根源的欲望だけに、それこそ「つぎつぎとなりゆくいきほひ」という感じで大量に発生してきます。
僕は日本人の主体性嫌悪は責任回避を動機としていると思っています。
つまり、責任回避の方がより本質的な欲望だと疑っています。
そしてそうなった原因は責任が確定された人への集団的な攻撃に見られる社会のイジメ体質にあるのではないかと推測しています。
(僕は主体的な態度で批判をするために何度もそういう目に遭っています)
要するに、日本人の多くは自分自身の抱える不満を孤独の中で解消する「成熟」した人格を育てられず、
それを適当な他人にぶつけて解消しようとする「甘えた連中」だということです。


このように日本的な無責任性を生物学との関連で捉えたことは浅田の慧眼だと思います。
生物としての本能には逆らえないから仕方ないよね、という共感にまみれたグダグダな社会が日本という国の実態なのです。
女性への性犯罪に関しても、男性とは欲情する生物なのだから、その気にさせた女性が悪い、という意見がまかり通るところがあります。
(従軍慰安婦のことが国家権力と密接に関わる大きなイシューとなるのも、ある意味日本的な特徴なのかもしれません)
続く浅田の発言を引用します。


浅田 簡単にいうと、全体ヽヽはだめで、中間のがいいんだ、と。全体と個というのは、いいかえると国家と個人ですが、種は対とか家族、つまりは性的・生物学的な再生産の場所ですね。それは日本の思想の中で伝統的に必ずプラスとされるわけです。全体と個がいかなる矛盾と葛藤を演じようとも、その中間の種に戻れば、生の論理(非論理?)によってそういうものはすべてなしくずしに解消されるはずだ、ということになっている。(『柄谷行人浅田彰全対話』)

ここで浅田は今西錦司「種社会の論理」や田辺元「種の論理」を挙げ、種を重視する日本の伝統的な価値が、
戦前の京都学派から戦後の新京都学派まで変わらず受け継がれていると言います。
僕が取り上げた『日本文化の問題』で、西田が「種的形成的」と言っていたことも思い出してください。
浅田はこの中間的な「種」を対や家族としていますが、
僕はこの「種」というものが媒介的な存在であることから、「萌え」オタクが依拠する消費的共同体としても成立しうると思っています。
オタク共同体は生物学的ではないですよ、という反応はあるかもしれませんが、
浅田の発言の中で「性的・生物学的な再生産」とされていることに注目してください。
「性的」なものが自然に属すると捉えられれば、立派に日本的な生物学的世界になってしまうのです。
「萌え」と自然的な字を当てて主体を否認することで、個人の性的興奮は非人称化します。
「萌え」における非人称的な共同体意識とは、自らの「自然」において共同体意識を持つこととそうそう変わりがないと僕は考えます。
だからこそ「萌え」は日本文化なのです。
こう考えると、ジェンダーやLGBTQなどの性に関わる問題が、
政治意識の低い日本人の関心をそこそこ集めることの理由がわかるのではないでしょうか。


浅田は「フェミニズムが戦争協力をする、仏教が戦争協力をする。そういうのは一見受動的なので、気づかれずにすんじゃうわけですよね」とも言っています。
主体的な行為でなければ責任が曖昧になり、協力をしたことも気づかれにくくなるということなのですが、
問題あるツイートをリツイートしたことでそれに加担するということにも、そういう受動的な免罪が適用されているような気がします。
特にネット時代においては意図的であろうがなかろうが問題行為というものは起こりえるので、
主体性に原因を帰すのではなく、主体的でなかろうが場合によっては自己管理責任が問われるという考えが共有されていくべきだと思います。
その意味でも主体性批判などはとっくに時代遅れとなった問題意識だと言うべきです。


システム論という保守思想

前に柄谷が生物学をシステムとして捉えている話をしましたが、
先を読むと、柄谷がシステム論について語り出す部分が出てきます。
システム論というのはシステムを維持することが目的なので、保守的にしかなりえない、
結論はそれが必要だということにしかならない、とした上でこう続けます。


柄谷 システム論の発想というのは、疾風怒濤の後の構造的な時代、二〇世紀では戦後の安定期の特徴だと思うんです。個人とか、主体がさほど意味を持ちえない、構造しか働いていない、あるいは、言語的構造しか生きてないような時代です。(『柄谷行人浅田彰全対話』)

このように柄谷はシステム論や言語構造しかない発想は安定期にふさわしいと言うわけですが、これには僕も同感です。
構造主義やポスト構造主義といった〈フランス現代思想〉は、バブル時代に頂点を迎えた思想です。
この先に必ず訪れる変革期には、非主体的な構造論などお払い箱になることでしょう。
(その意味では先ほど触れた若い俳人などは、爺むさい価値観でやってるな、という感想しか出てきません)


それから柄谷は「構造論的な時代に生きてるということは、退屈なことですよ」と言って情熱の不在を嘆くキルケゴールを持ち出します。
経済的に拡大していく時にインテレクチュアルは無力だという柄谷の話を受けて、
浅田は知識人はもともとそういうものだ、と応じ、次のように続けます。


たかが知識人なんだから、誰ひとり読んでくれるはずがないという前提の上で、またそれだからこそ、できるかぎり気どらず明快に書いていけばいいではないか。(『柄谷行人浅田彰全対話』)

浅田は「メディア芸人になっても仕方がない」とも言っています。
読者を獲得するために書くなどというのは、知識人の態度ではないのです。
そういうことは浅田が帯文を書いてあげた人に言ってあげたらいいのではないか、と思わないこともないですが、
その発言内容には共感します。
誰も同調してくれない、という意識があれば、明快に書かないわけにはいかなくなるものです。


批判は強さであるがゆえに嫌われる

本書には他にも書くべき内容はいくつかあるのですが、
すでに書いたことほど重要に思えないので見送ります。
2人の対話を読んで思ったことは、本質的な日本批判というものは時間を超えて生き続けるものだということです。
それにしても日本批判というものの居場所がなくなったものだと感じます。


60年代から批評が鈍くなったのは、外部の意識が消えたからだという柄谷の話も興味深く読みました。
文学に外部との緊張関係がなくなって、リアルなものが喪失し、「閉じたイマジナリーな空間」が成立した、と浅田が言うと、
柄谷は昭和40年代に戦後近代文学が完成すると、内面のない閉じれられた内部化が進んだ、とします。
これを浅田は「主体の不在と散乱が、即、内部化であるような状況」と整理します。
ここで高橋源一郎や吉本ばななが「内輪のお座敷芸や共感ごっこ」だという話になります。


柄谷 文壇以外の人に、どんなものを読んだらいいんでしょうって訊かれても、あれは売れてますから読んでみたら、と言うしかない。やっぱりこれは日本的な「自然」についてるわけでしょう。売れてるのが勝ちということになりますから、「文化」ではない。
浅田 村上春樹から俵万智にいたるまで、みんなそういうことなんですよ。そこはかとないチープな共感を売る商売ですね。それは文学とは何の関係もない。(『柄谷行人浅田彰全対話』)

浅田は商品に徹するならマンガの方がマーケティングも読者からのフィードバックもきちんとしている、と述べます。
このあたりを読んで、基本的な状況はこの当時から何も変わっていないんだな、という感慨をまたも抱きました。
日本的な共感もしくは時代的な共感の上に成立した作品が売れるのは当然で、その点で言えば、浅田が「チープ」と言うようなある程度の凡庸さというものが欠かせません。
マンガの方がプロフェッショナルなシステムで成立していると僕も前々から思っていました。
実際、マンガやアニメの受け手の方が、文学や思想より圧倒的に目が肥えています。


これとは別の時の対話「「ホンネ」の共同体を超えて」(1993年)の発言なのですが、柄谷はこんなことを言っています。
僕には自明のことではあるのですが、僕以外の人の意見として紹介しておくことも重要だと思って引用します。


いまの文壇というのは、純文学でも何でもなくて、単に文学賞の分配機構でしかありません。松山で坊っちゃん文学賞、金沢で泉鏡花賞といったぐあいに、地方でも文学賞をやたらとつくってカネをばらまいている。これは、地方自治体に対するカネのばらまき(贈与)によって成り立っているわけです。しかも、これもごく近年の現象であって、それはまさに今日純文学なんてものはないということのあらわれにほかならない。(『柄谷行人浅田彰全対話』)

柄谷が地方文学賞の話しかしないのは個人的に不満ですが、
出版社が主催している文学賞にいたっては、内情はさらにひどくなっていると言えます。
自らが文学賞の分配機構であることを利用して、他のジャンルの有名人に小説の執筆を持ちかけ、
編集者と相談しながら書き上げられた小説を発表させて、賞を与えているわけですから。
そりゃあマンガの方がどれだけ健全なことでしょうか。
こうなると文壇などは社会主義国の腐敗しきった官僚機構みたいなもので、
市場原理を適用した方がマシという結論になるだけのことです。
これでは資本主義批判など遠い遠い夢でしかありません。


ちなみに柄谷はこの対話で、「本質的に「象牙の塔」をつくるほどのアカデミズムは日本にはない」と言い切り、
「大学の教師だから知識人だなどと思ってもらっちゃ困る」とも発言しています。
アカデミズムもそれほどのレベルにはない、という彼らの見解にも非常に同意します。
実際、日本の中で比べても以前よりどんどん大学のレベルは下がっていますし、世界の大学ランキングを参照すれば客観的データとしても把握できます。


この対話では理念的なタテマエが批判され、露悪趣味的なホンネが共有される日本の姿が取り上げられています。
これも非常に重要な指摘なので、最後にほんのちょっと触れておこうと思います。


浅田 とくに、日本の場合、非常に問題だと思うのは、理念はタテマエにすぎず、恥ずかしくて人には言えないはずのホンネを正直に共有することで、民主主義的な、いや、それ以前の共同体をつくってきたということです。(中略)右翼が現実主義的と称するホンネを唱えると、そちらのほうが多少とも魅力的に見えてしまう。(『柄谷行人浅田彰全対話』)

あらゆる理念が崩壊したために、ホンネに居直るような傾向が世界的になっている、と2人は語り合います。
「偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている」と柄谷が述べると、
浅田は「むしろ、善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する」ようになっていると指摘します。
今で言えばポリティカル・コレクトネスに対する反発などがこれです。
優等生的なことを言わずにホンネで行こうぜ、というヤンキー的なあり方に近いでしょうか。
実はそれは「露悪趣味的な共同体」という日本の伝統的なあり方であり、マスメディアがそれを煽っている、と浅田は述べます。


彼らが話す「ダメな自分をさらしてみんなで安心し合う共同体」というのは、古くは私小説という近代文学によって担われたものです。
自虐というか露悪的に自分の「弱さ」を見せて、そういうホンネを見せられることが強さなのだと開き直るようなあり方です。
以前から僕もこういうものが嫌いでした。
日本がすべてを「弱さ」の中に取り込んでいく場所のように思えて、ウンザリさせられたものです。
このような「弱さ」を正義とする発想は伝統的なイデオロギーでもあるため、ネット上で今でもよく見かけます。
そういう「弱さ」を批判された人の反撃のかたちというのも決まっています。
「おまえだってそうじゃないか」という指摘によって、強制的に相手を「弱さ」の共有に持ち込むやり方です。
僕は三島由紀夫が「私の遍歴時代」(1964年)に書いている太宰治を訪ねたときのエピソードがけっこう気に入っています。
日頃から太宰批判をしていた三島が、太宰のいる酒席を訪ねて、太宰本人に「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と言ったところ、
太宰は、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と返答したという話です。
批判をすると、実は好きなんだろ、とか、嫉妬してるのか、とか言って他者性を抹消しようとするのが、
いかにも日本人的な反応で、よくできたエピソードだと思います。


しかし、今や事態はさらに悪くなっていると思います。
今はそんな弱さの共有を突破して、むしろ「イケてる自分を都合よく編集して承認し合う共同体」という段階に来ています。
ここでは相手のマイナス面を指摘するのはご法度です。
たとえば、しっかり読んだ本に低評価のレビューを書くことすら「ヘイト」などと言われてしまいます。
日本人向けに日本人を褒める番組を作ったり、互いに相手の活躍や作品を褒め合ったり、
一見すると微笑ましい風景ですが、この直接的かつ間接的な自己承認が麻薬みたいに働いて、
こうなってしまうともうリアルを見つめることが不可能になっていきます。
当時の柄谷と浅田はまさか事態がここまで悪くなるとは想像もしていない様子で、
ここに関しては、僕は時の流れを感慨深く感じることになりました。


こうして柄谷と浅田の発言を取り上げてみると、なかなか辛辣な日本批判を展開しているものだと感心しますが、
それが日本的な対談という「場」で行われていることについては、気にならないわけではありません。
2人にはもっと直接的に日本批判や天皇制批判を主題化した文章を残してほしいものです。
柄谷は「物書きにとって、大衆から孤立するというのは、単純なことで、売れないということなんです」と本書で述べています。
自らを知識人とする彼らが、大衆から孤立することを恐れずに、自費出版でもネットでもいいので、
対談で語ったような日本批判を文章としてまとめてくれたなら、それを読んでみたいと強く感じました。


16 Comment

南海さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
南海さん、コメントと情報ありがとうございます。

柄谷が公式ウェブサイトを持っていることすら知らず、
「丸山真男とアソシエーショニズム」も初めて読みました。
柄谷が丸山に言及したことはあまり印象にないので、非常に興味深く読みました。
ネット嫌いで情報弱者の僕には教えてもらえなかったら永遠に気づけなかったでしょうね。

柄谷が批評について、ドミナントなものに反対するために立場を変える、と言っているのは、
ポストモダンの一翼を担った過去に対する反省と言えるでしょうね。
柄谷の近代的主体批判は日本においてはやはり悪い流れを生み出しました。

徳川体制の支配がヨーロッパの絶対主義に比べて不徹底であったことが日本の近代化にとってマイナスだったことは、
藤田省三も書いていたような気がします。

丸山が、日本には「国家に対抗する自主的集団というものはほとんどなく」「画一化が、非常に早く進行しえた」と言うのは僕の問題意識とも重なります。
僕は結社や集団以前に、日本人の多くが持っている、国家を一元的な依存対象として自明視する精神が気に入りません。
(ガブリエルの「一元的世界は存在しない」は日本においては相当にクリティカルですよ)
自己の所属集団に対して自立的であることの意義(契約的、相対的な所属のあり方)が、そもそもわかっていない人が多すぎます。
妙に所属集団に対する感覚が「所与的=家族的」なのです。
柄谷は日本に階級移動が多いと捉えていますが、養子は「家」の存続上必要なものです。
個人の階級や家柄は移動しても、「家」という単位の絶対性は揺らぎません。
「家」という所属先が個人に与える属性は、学歴がいつまでも個人について回るように、
個人の資質以上に重視されているようにも感じます。
柄谷の文章にコソッと「家」が出てきますが、ここはもっと考察されるべきテーマだと思いました。

無題

コメント欄盛り上がってますね。妙なのも湧いてますが。

以前話題にした柄谷と戦後思想の関係ですが、柄谷の公式サイトに「丸山真男とアソシエーショニズム」というエッセーがありました。私は初めて読んだのですが、ポストモダンを批判するなかで批評家としての丸山を発見してどうのこうのという内容で、近代的主体を批判していた昔の自分への微妙な反省も入っていて、なかなか面白かったです。もし未読でしたらおすすめです。
どうも柄谷の中では日本資本主義論争以来の丸山の問題意識を、『世界史の構造』によって引き継いだことになっているらしいです。

ご忠告

ありがとうございます。
ツイッターの文なんてどうでもいいので気にしてませんでした。
老婆心から忠告しますが、
ハンドルネームだろうが人の批判をするのに実在の他人の名前を騙るのは最低です。

ツイッターの英文

ツイッターで英語で発信するのをおやめになるべきです。

間違いだらけでみっともないですよ。どこがどうではなく、根本的に英語への理解ができていません。

老婆心から忠告します。

あなたは、たぶん、俳句研究に専念したほうが良いですよ。そちらにはとても大きな才能が有ります。

タルミチさんへの返答

筆労をおかけしていますが、
タルミチさんは西田批判に抵抗がおありのように見受けられます。
天皇制批判の文脈をホーリズムや全体主義としてドイツやイタリアなどと一括りにしていくのは、
僕にとっては日本人の考えるべき「当事者性」の相対化にしかなりません。
(そもそもファシズムと言っても日本と他の国の内実が全然違うことは丸山眞男などの戦後思想がハッキリ示しています)

そのような「当事者性」を脇に置いてしまうあり方が、客観性を標榜する学問的態度として歓迎すべきことであるにしても、
批評的態度とは言えないのではないか、というのが僕が言いたかったことの一つです。
たとえ戦前知識人の問題点をあぶりだしても、それを引き受ける意志がなければ、
その意義は大きなものになるとは思えません。

僕にとって批評とは自らの生き方に関わる主体的なものであり、当事者性を曖昧にして成立するものではありません。
西田が日本人であることが前提だというのはそういう意味です。

無題

南井さんお返事ありがとうございます。
「批評的視座」が含む意味についてどのような範囲のことを扱っているかは存じ上げないので、触れないでおこうと思います。
ただ、西田幾多郎批判を扱うことについていくつか述べてみたいと思います。

「天皇制の「現在」を語る批評的視座」として「西田思想を取り上げる」のはわかるのですが、「日本人が生物学を思想的に展開するときに「天皇制」と無意識的に関係を持つことは無視してはいけない」という問題へと展開するのであれば批評だけに留まることはかえって危険なのではないでしょうか。
と、いうのもこれとは異なる事例もまた多くあるからです。
「皇室と言った瞬間、それは学問の世界的潮流では説明できないもの」とされていますが、ホ―リズムと全体主義的国家体制という文脈であればドイツ、イタリア、ソ連などとは一定の比較は可能でしょう。
残りの皇室と知識人(戦時体制の要人を含む)との係わりにしても、昭和研究会や国民精神文化研究所といった体制寄りの組織や、長谷川如是閑・河合栄治郎・南原繁らも無視できないでしょう。

何がいいたいのかといいますと「同様の時間軸を前提」にしないのは構わないと思います。ただ、実際に西田幾多郎をキーマンとすることで、戦前の把握においてこぼれ落ちていることが数多くあるのではないかということです。先の文章で橋田邦彦を挙げたのもそのためです。
「西田思想の負の面や天皇制を戴く日本人の精神構造を免責する結果になってはいけない」のはその通りです。ただ、この二つの問題の要点を浮き彫りにするならば、こと戦間期を扱う場合、飛躍しすぎるのは危険であり、詳細な分析が必要だと思われます。
批評における「西田思想の負の面=天皇制を戴く日本人の精神構造」という構図が前提になってしまい、問題の解明と混同されていないでしょうか。

もちろん、これは私が感じたことなので、南井さんの批評的実践と異なるようでしたら無視していただけばいいと思います。
私は個人的にも戦前期知識人の問題点は炙り出さねばならないと思いますし、実際やっている所です。だからこそ、西田の在り様を相対化するつもりはありません。問題点は問題点として全て明らかにする必要があると思います。
あれこれ申し上げてすみません。

タルミチさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
はじめましてタルミチさん、思慮深いコメントをありがとうございます。

生物学に基づくホールデーン哲学というものを僕は初めて知りました。
確かに西田への影響もありそうで、非常に勉強になります。

1930年代に生の哲学というべきものが一大ブームだったことは、
僕も知っています。
柄谷や浅田(それに僕)が当時の世界的ブームという思想の「時代性」でしかないものを、
戦時日本の「政治体制」の問題へとズラして批判していると考えれば、
タルミチさんが違和感を持つのも当然かもしれません。
誤解なく伝えられるか自信がないのですが、
学問的な把握と批評的な視座というものは必ずしも同様の時間軸を前提としていません。
極端にわかりやすく言えば、柄谷や浅田の西田思想への批判は、西田が日本人であり、戦時体制の要人であることが前提です。
僕が西田の『日本文化の問題』を下敷きとして持ち出したのは、それが単なる「時代性」の産物ではなく、
日本人の「無意識」と言うべきものであることを示したかったからです。
西田が当時の日本人でなければ、皇室など安直に語らなかったはずですし、
皇室と言った瞬間、それは学問の世界的潮流では説明できないものとなります。
その意味で彼らが西田思想を取り上げるのは、天皇制の「現在」を語る批評的視座として妥当だと僕は思っています。

僕は哲学と生物学の結びつけにもあまり賛同できないのですが、
そこを抜きにしても、日本人が生物学を思想的に展開するときに「天皇制」と無意識的に関係を持つことは無視してはいけないと思います。
安定期はそれが表に出ないのが逆に厄介です。
だから、戦時期にそれを不用意に言語化してしまった西田の思想を、
極めて厳しく見る必要があるのです。
申し訳ないのですが、この点に対する批評的な試みにおいては、
学問的な認識と別次元の話になるということがあると思っています。

タルミチさんの指摘は学問的には妥当に思えますし、多角的な視野として一考する必要があることは間違いありませんが、
それによって西田思想の負の面や天皇制を戴く日本人の精神構造を免責する結果になってはいけないと思います。

無題

はじめまして。
水野さんにこちらのブログを紹介され、お邪魔させていただきました。
『柄谷行人浅田彰全対話』は発売された当初気にはなったものの、手に取ることが出来ずにいたこともあり興味深く読ませていただきました。
特に私自身が、現在戦前期の知識人の動向を調べているので、戦間期の思想と西田哲学に関する内容はいろいろ考えさせられるものでした。
私は今現在ジェイムズ『純粋経験の哲学』やフッサール『イデーン』を読んでいる状態で、未だ西田哲学に辿り着いてはいません。ただそれでも柄谷と浅田による生物学やシステムの認識には違和感がありました。
西田幾多郎の「有機的生命のモデル」の導入は、時期的にホールデーンの哲学への接近を指していると考えられます。ホールデーン哲学の肝は人体を宇宙に見立てた全体として、内部構造を個として扱うことにあります。金森修・編『昭和前期の科学思想史』に西田幾多郎・田辺元が生物学的思想をどのように受容し、読み換えたのかについて書かれた論文があったと記憶しています。
西田や田辺の生物学への接近や、戦後の今西錦司の思想を読むと新旧京都学派と生物学の親和性を感じますが、生物学的な思想の影響はそもそも京都学派に限ったものではありません。代表的なのは生理学者で後に一高校長や文部大臣を歴任し、敗戦によって自殺した橋田邦彦でしょうか。彼はホールデーン以前に物議を醸したドリーシュの思想から着想を得て全機性なる思想を展開しています(橋田の思想は金森『自然主義の臨界』に詳しいです)。
とにかく1930年代ごろは生物学だけでなく自然科学全体で有機体論的な思想が蔓延していたということです。皆、それを観念論的ではなく理論的に分析する方法を模索していたんですね。1940年代にベルタランフィの一般システム理論や、ウィナーのサイバネティックスがあらわれますが、私は有機体論からシステム理論への過渡期だと考えています(ベルタランフィについては戦前日本にも紹介されていたようです)。
これは逆をいえば、全体主義的国家体制に取り込まれやすい要素を知識人が最先端の研究から入手してしまったという悲劇をも示しています。知識人の中には、帝国日本の全体主義の内部から問題点を排除した理想の全体主義国家を作ろうとした人々もいました(昭和研究会等)。
以上を踏まえると柄谷が「生物学をシステム論」と捉えるのは当時の状況をそのまま説明したものといえる一方、安定期の産物といえるかは怪しいと思います。また浅田彰が指摘する「日本的な無責任性を生物学との関連で捉えたこと」が戦前から連綿と続いた日本の問題を指しているのであれば、少なくとも戦前に関して言えば間違っているのではないかと考えられます。
どうにも2人はこと戦間期の思想にかんしては西田哲学に注目しすぎているようにも感じました。
戦後と知識人の在り様については詳しくありません。ただ「気どらず明快」に書くという発想は大宅壮一の軽評論を思い起こします。その意味では柄谷と浅田が話していることは戦前も戦後も多くの知識人がやってきたことなのではないか。大雑把にいえば書いても行動しても多くの問題が残ってきたわけです。ですので、知識人の在り様に関しては戦前も含めた知識人の営みを広い視野で反省して、書くだけでない行動が必要だと私は考えています。

長々と書いてしまい申し訳ありません。南井様の文章に非常に刺激を受け、自分のこれまでを振り返りながら様々なことを考える機会を得ることが出来ました。
ありがとうございます。

水野洸也さんへの返答

どうも、南井三鷹です。
洸也さん、以前からツイッターや小説を拝見していましたので、直接のやりとりが初めてなのも不思議ですね。
コメントを非常にうれしく思っています。

洸也さんは「文字化」された対談を、成立過程を持った小説のように読むのですね。
洸也さんの指摘は対談や座談会が実際の「場」を離れて成立する要素があることを示していると言えますが、
対談を小説のような自律し得る「テクスト」と捉えるのは、「書かれたもの」を信頼しすぎていると僕は感じます。
事後的にどう手を加えても共同作業で成立することは動きませんし、前提している話題への共同参与も動きません。
制約の中に収まろうとする意識と、制約から逸脱しようとする要請は正反対とも言えます。

「萌え」やサブカル的な感覚に関しては、議論の前提が色々あるかもしれませんが、
結論を先に言うと、厳密な線引きは無理だと承知しています。
僕自身、サブカル嫌いでもなく、好んで享受していることはおそらく洸也さんもお気づきでしょう。
ひとつ思いつくことは、「共同体意識」こそが僕が問題にするところであるということです。
個人的享受をベースとするかぎりは問題は少ないと思います。
つまり、あくまで主体的である、というのがポイントで、
だからこそ「非人称的」であることが批判されているということです。
水野洸也が萌えているかぎりは特に問題ではない、と思います。

ただ、サブカルというのは主体の意識をスルーさせるものです。
村上春樹が『羊をめぐる冒険』で、女性キャラへの「甘え」による主体性のスルーという手法を確立し、サブカル小説と化したのが象徴的です。
(簡単に言うと、主人公が主体的に発言すべき内容を、代わりに女性キャラが「語ってくれる」という委託的・風俗的なあり方です)
これが大きな共同体(アメリカ)に主体を差し出すこと(日本売り)でナルシシズムの充足を得る反政治的政治システムです。
サブカル「オタク」というのも多かれ少なかれこういう面があるように思います。

非常に刺激的なコメントで楽しませてもらいました。
僕はツイッターにウンザリしているので、ぜひまたコメントをお願いします。

無題

こちらでは初めましてになります、水野洸也と申します。以前から文章を拝読し、今回ようやくコメントを残そうという決意をしました。よろしくお願いします。

対談もしくは座談会の模様を収録した書物は私の好むところで、『柄谷行人浅田彰全対話』はまだ読んでいませんが、『柄谷行人蓮實重彦全対話』なんかはけっこう影響を受けた対談集です。他にも『唇さむし 文学と芸について』という里見弴を中心にした対談集、『魂の唯物論的な擁護のために』『饗宴』など蓮實重彦を中心にした対談集、『小林秀雄 対話集』、三島由紀夫と中村光夫の『人間と文学』。小説家同士のものだと『文学の淵を渡る』(大江健三郎と古井由吉)、『ウォーク・ドント・ラン』(村上春樹と村上龍)など読んだことがあります。インタビュー形式のものだと『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011』は何度も読んでいますし、『声のきめ インタビュー集1962-1980』(ロラン・バルト)は最近手に取りました。
対話を収録した書物という、バルトの言葉を借りれば「転写されたパロール」の面白いところは、実際の会話を文字化することでできあがったという成立過程にあると思っています。もちろん実際に発した言葉をそのまま文章にすることはできませんから、対談の内容はある程度「文学化」されます。登場人物のそれぞれの発言は、他と区別できるよう、語調の統一などの特徴化を施されなければなりません。いっぽうでそうした操作は、それぞれの会話を文章として頭の中で黙読しつつ行なわれるべきものであって、そのときに操作者が耳にする黙読の声は、かつての対話で聞こえていた声とはおそらく違っています。文学化の操作は、多くの場合当の発言者がするのだとは思いますが、彼が語調を調えたりする際に耳にする声は、果たしてどのように聞こえているのか。私はそのあたりが気になって仕方がないので対談集を好んでいるわけです。
読んでいる者がその場に居合わせているような感覚をもたらしてくれるのであれば、それは小説の一つとして読まれるべきでしょうし、対談集を読むという行為に限られるものではないように思えます。

「サブカル的な欲望に簡単に接続するポストモダン的な思想」という言葉が本作にありますが、私が『吾輩は猫である』を読む時の面白さとVTuberというコンテンツを視聴する時の面白さを同一視するさい、上記の言葉の射程に含まれてしまうのでしょうか。私がツイッターなどでいわゆる「萌え」を喚起するイラストを「いいね」した場合、水野洸也という人格は「非人称的な共同体意識」に取り囲まれ、果ては私自身が水野洸也という主体を否認しているのでしょうか。
最近は「萌え」という文章表現になりかわって、「すき」「かわいい」(どちらもひらがなであることが重要)「尊い」などの表現が台頭し、性的興奮を喚起するものに対しては「センシティブ」「えっちだ・・・w」「エッッッッ」、凝ったものだと「エッチコンロ点火! エチチチチ\勃ッ/」など、いろいろとカオスな様相を呈していますが、私自身はそうした光景を楽しんでいる感が強くあります(単にそうしたやりとりを風景の一部として眺めているだけで、私自身が「えっちだ・・・w」と文字を打つことはありませんが)。
こうしたサブカル的な感覚に身をゆだねたまま、たとえば南井さんのプロフィールを眺めてみると、「趣味:入浴剤で入浴」のところで、私はある種の「かわいい」感覚をこの文字列に付与したくなってしまうのです。この運動はあらゆるものを「アート」という言葉に取り込もうとする運動と同じものとして考えられるかもしれません。

とりとめのないコメント失礼しました。

クロさんへの返答

岩波書店と池内恵のどちらを支持するかは僕にとって難しい問題ですが、
クロさんの疑念は当然だと思いますよ。
落ち目の時代に流行するものはダメなものばかりです。

日本に限らず、世界的な資本主義の行き詰まりで利権と癒着が横行しています。
経済成長が量的緩和による「演出」になっているので、健全な資本主義的な競争が成立しないのです。
そのため苦難に耐えて乗り越える道を避けて、「演出」を本気と取り違える束の間の夢を選んでいます。

The 1975 初めて聴きましたが良かったです。
ジャック・ジョンソンの妙にノンストレスな雰囲気は苦手です。

社会風刺はもちろん重要ですし、社会と闘わない思想や文学なんてインチキですよ。

無題

南井さんお返事ありがとうございます。
こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。
たいへんお手数おかけします。

早川書房は僕が好きな出版社の一つです。良質なノンフィクションがいっぱい。海外の書籍もリスクを買って精力的に翻訳していますよね。
一方で老舗の岩波はそのあくどさが池内恵さんによって暴露されていました。

サブカル化・キャラ化は僕がもっとも嫌だった文化です。
先取りしていたのはテレビ業界でしたね(特に田中耕一さんなどは被害が大きかった)。
流行り物嫌いの頑迷固陋な自分が悪いとずっと自責の念が強かったのですが、僕の疑念は正しかったのだと確信しました。

日本は、利権と癒着で薄汚れています。甘ったれた邦楽はずいぶん前から嫌いでした。サブカル作品でいうと学園モノ・青春モノ・異世界モノなどの作品はノータッチを決め込んでいます。

愛国ソングが流行り、プロテストソングが廃れました。
英米でも音楽に癒しを求める傾向があったそうです。
the 1975 はその風潮に反旗を翻していました。
https://youtu.be/EKdPxXWm7Jg

フロントマンのマシューヒーリーはこう述べていました。
「・・・俺の言っていることわかる? 何が言いたいんだよって思ってしまう。現実逃避以外に意味があるのだとしたら、教えてもらいたいね。現代社会は、政治的抗議のメッセージを含む歌を避けているんだ」
9.11アメリカ同時多発テロについて言及して、「アメリカにとってつらい事件のあと、人々はジャック・ジョンソンやノラ・ジョーンズを聴いていたんだ。誰も現実と向き合いたくなかったんだよ」
https://front-row.jp/_ct/17285516

社会風刺は、芸術による批評だと僕は彼に同意した次第です。

クロさんへの返答

どうも、南井三鷹です。
クロさん、本年もコメントありがとうございます。

ツイッターはクロさんのアカウントという確信がなく、フラついていたのですが、フォローさせていただきました。

90年代を対象にしているこの本で現在の日本も語れてしまうくらい、日本人は問題から「逃走」し続けているんですよね。
東日本大震災の危機によって、決定的に「逃走」が肯定されてしまいました。
こうなると現実は廃棄される運命なので、知性など障壁でしかありません。
残念ながら外圧による「敗戦」を迎えるまでは、この状態が続くでしょう。
そうなれば今流行している文化などすべて「戦時体制のダメ文化」として処理されることになります。

本が売れて読まれることはいいことですが、問題は何が売れて読まれるかですよね。
僕が日本の大手出版社(早川書房は除く)を信用していないのは、彼らが会社のサステイナブルのためなら、これまでの出版文化を蔑ろにすることを厭わないことがハッキリしているからです。
市場原理に任せれば、売れない文芸は体力のある出版社が出すだけとなり、
体力のある出版社はマンガを売っている大手が多いため、
文芸のサブカル化や作家のキャラ化が進むことになるのです。
(むしろ、マンガを売っていない出版社の方が、マンガ以外の書物をマンガに近接させて売ろうとしているのかもしれません)
広義のサブカル(ネトウヨ含む)による知的退廃は、出版社の収益事情から起こったと僕は思っています。

無題

お久しぶりです。
ツイッターでリフォロー頂いていたのに、今日に限って普段以上にバタバタしており、メンションしようかなどと考えあぐねて迷っているうちに流れてしまいました。せっかくのご好意を…申し訳ありません。

前々回の「未来への大分岐」がウェブを扱っていましたが、今回は文壇。
しかし、ウェブも文壇もつまるところテクストをリリースして何かしらの企てがある潜む点で、コンテクストがかわっただけで本質は同じなのではと論考を読んでいて思いました。

>出版社が主催している文学賞にいたっては、内情はさらにひどくなっていると言えます。
このくだりは首肯しました。賞を複数受賞している作家が大したことない作品を書いている時点で察しがつきます(東浩紀も多くの賞を受賞していましたね)。

>「イケてる自分を都合よく編集して承認し合う共同体」
確かにその側面が非常に強くて、我関せずで我を貫く剣豪のような者は少ない印象です。むしろ、伝えたい内容(中身)よりも伝えている自分(権威)をデザインしようとしているとも取れました。

批評は肝心だと僕は思いますし、商業主義も怪訝な面持ちで見ています。欲望に飲まれて、「満足の文化」「資本主義社会の神話と構造」「有閑階級の理論」で分析済みのお粗末なムーブを辿っているので何も成長が見られていない面に関しては、記事で触れられているように日本の大学が弱体化していることを見れば火を見るより明らかですね。

知は軽視されているな、と僕は思うようになりましたが、一方で、だからこそ一人でも多くの人に本が売れること読まれることも必要だと思いました。もちろん悪書・駄本は排撃するべきことを踏まえてです。
何をよしとするかについて僕自身に判別できるとは思ってませんから、今僕に出来るのは、先達の知恵を借りて、巨人の肩の上に乗り、下駄を履かせるのみです。
こうした南井さんの論考は、浄化に一石を投じていると僕は思います。
又吉の「火花」よりも、同じテーマなら「赤めだか」がいいよ、と言われたことがありますが、きっとそういう目利きが必要なのだと僕は思いました。

南海さんへのコメント

どうも、南井三鷹です。
南海さん、本年もコメントありがとうございます。

天皇制批判という観点で捉えれば、柄谷や浅田は戦後の左派思想を引き継いでいたと言うこともできるかもしれません。
ただ、柄谷や浅田は驚くほど丸山眞男には触れないですよね。
近代の超克や京都学派の批判はしても、僕のように戦時体制との関係をダイレクトに語ろうとはしませんね。
彼らはどこか政治的文脈を避けていると思いますし、
その意味で現代思想のオタク化に貢献した人たちだと言わざるをえません。

南海さんが浅田に「お前が言うな」と感じたのは本質をついていると思いますよ。
浅田が偉そうに思想を語るには、自分が関わったニューアカブームを自己批判する必要があるわけですが、
ずっと逃げ続けていますからね。
あげくその模倣者の売り出しに協力したりしているわけですし。
僕は内心で彼らが天皇制批判を主題化した本など書けるわけがないと思っています。
著作と商売が直接的に結びついている人に期待はできませんよ。

無題

明けましておめでとうございます。
 この本、アクチュアリティのある論点が多くて驚きました。80年代後半はニューアカでポストモダンというイメージに収まらない対談になっていると思います。天皇制批判でスタートした戦後思想が昭和の終わりという局面で力を失っていたようなのは残念ですが、さすがに浅田・柄谷は戦後思想の(常識的な)文脈を引き継いでいたのだと思います。南井様も書いている通り、二人が対談で論じられている内容を本格的な論考にまで高めなかったのが残念です。
 本は柄谷目当てで買ったのですが、浅田彰の整理能力や「ツッコミ」の的確さが目立ちました。浅田は対談では鋭いしネットに書いているジャーナリスティックな文章は勉強になるんですが、どうもビブリオグラフィーが貧しいですね。秀才でも後世に残る一冊が無いというタイプだと思います。同時代を知らない人間としては浅田=ニューアカ芸人という固定観念があるので、「たかが知識人なんだから、誰ひとり読んでくれるはずがないという前提の上で…」とか言われてもお前が言うなと思ってしまいますが。

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