南井三鷹の文藝✖︎上等

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現代アートへのレクイエム【その3】

芸術を定義する哲学的欲望

前回の考察では、現代アートは「アートらしくないもの」というアートの「外部」を、
これはアートであると「命名」してシステム内部に取り込む、資本主義同様の運動によって成り立っていることを確認しました。
そこでアート作品は、これまでのアートを乗り越えたことの「痕跡」として、
アート自体が依拠している超越性の顕現を先送りする役目を負っています。


柄谷行人の『トランスクリティーク』(2001年)には、デュシャンの《泉》にカント的な超越論的還元が見られると述べた箇所があります。
柄谷はカントの美学が主観的であることに注意を促し、その主観性は「超越的な括弧入れを行う「意志」」である点で、ちっとも古びていない、と言います。


たとえば、デュシャンが「泉」と題して便器を美術展に提示したとき、彼は芸術を芸術たらしめるものが何であるかをあらためて問うたのだが、それはまさにカントが提起したポイントの一つであった。すなわち、物をそれに対する日常的諸関心を括弧に入れて見ること。もう一つのポイントは、美的判断には普遍性が要求されるにもかかわらずそれがありえないということ、われわれが普遍的と見なすものは歴史的に形成された「共通感覚」にもとづいているということである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

柄谷が「日常的諸関心を括弧に入れて」と述べているところが、超越論的還元にあたります。
前回の記事でデュシャンがレディメイドによって「趣味的無関心」による還元を意図していたことを紹介しましたが、
ある種の関心を「括弧入れ」することが、デュシャンのみならず現代アート(や近現代思想)においていかに本質的なものであるかがわかると思います。
柄谷は近代科学も「道徳的・美的な判断を括弧に入れるところに成立する」としています。
デュシャンがテクノロジーに強い関心を持っていたことはすでに指摘しました。



現代アートへのレクイエム【その2】

 デュシャンのレディメイド

前回は小崎哲哉の『現代アートとは何か』を参照しながら、現代アートを資本主義との関係の面から概観しましたが、
今回はその芸術性のありかを内容の面に踏み込んで見ていきたいと思っています。


現代アートを語る上でどうしても避けて通れないのがマルセル・デュシャンのレディメイドです。
僕が参照した現代アート関連の本で、デュシャンに触れていないものはありませんでした。
英国のアート専門家500人を対象にした「最も強い影響力を持った20世紀のアート作品」という2004年のアンケートで、
最重要作品に選ばれたのがデュシャンの《泉》です。
専門家が20世紀を代表するアート作品とするくらいですから、その意義の大きさは折り紙付きだと言えます。
しかし、《泉》という作品が登場した経緯を詳しく知ると、その作品としての実態が不確かなものだったことに驚きました。


《泉》は1917年にニューヨークの公募展にデュシャンが出品したものです。
結局は展示拒否という結果になったのですが、
それというのも、《泉》はデュシャンが買ってきた磁器性の男性用小便器に「R. MUTT 1917」というサインをしただけの作品だったのです。
有名な作品なのでご存知の方も多いでしょうが、便器をアートだと主張するのは、常識的な美意識からすれば反発を招く行為です。
この公募展はニューヨークの独立芸術家協会が主催していたのですが、
その理事であったデュシャンと仲間2人が、協会の主流派を非難する意図で仕掛けた作品だと言われています。
《泉》は架空の芸術家リチャード・マットの作品として出品されたのですが、最初から展示拒否をされる目論見で用意されたものだったのです。


このような事情を知ると、《泉》は単なる内輪揉めによるスキャンダル狙いの作品だったと考えることができます。
作品そのものに芸術的な意図がどれほどあったのかも疑問です。
仲間がいたわけですからデュシャンの単独犯でもありません。
それどころか、驚くことに《泉》はデュシャンの作品ではないという説もあるくらいです。
というのも、展示拒否となった《泉》は、作品が確固たるオブジェとして存在する機会を得ることもなく、
ただ事後的に写真が残っているだけの「幻の作品」だったのです。


それが後々に20世紀を代表する重要な作品と評価されて、今ではデュシャンは「現代アートの父」とされています。
この作品を分水嶺として、アートは新たなステージに入ったという評価は多くの本でなされています。
『マルセル・デュシャンとアメリカ』(2016年)で研究者の平芳幸浩は、
ネオ・ダダイズムやコンセプチュアル・アートなどの戦後アメリカ美術の中でデュシャンがどう受容されたかを丁寧に追っています。
戦後アメリカ美術の変遷において、デュシャンは何度も元祖のような存在として呼び出されています。
《泉》が20世紀に最も影響を与えた作品に輝いたのは、平芳が示した通り、その後のアメリカ美術との強い関わりによるものだと思います。


その平芳がキュレーションをした「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展が開催されたのは2004年でした。
僕は実際にこの展覧会に足を運んだことがあるのですが、
そのカタログで平芳は、デュシャンが1950年代後半に「発見」されたと記しています。
30代後半以降にほとんど作品を発表しなくなり、忘れられた存在となっていたデュシャンの評価はわりと最近になって確立されたのです。
それが工業化によって消費資本主義が浸透する時期と重なっているのは偶然ではないと思います。


自らの技量で作品を制作するのではなく、既製品を用いてオブジェに仕立てた作品のことを「レディメイド」とデュシャンは名付けました。
オーダーメイドと対比してこの言葉が用いられたようです。
デュシャンは《泉》以前の1913年にレディメイド作品を発表していました。
それ以前には絵画を描いていたのですが、デュシャンは目の快楽に貢献するだけの絵画を「網膜的」として退けました。
1913年に台所用スツールに自転車の車輪を取り付けて回転させるオブジェを制作しました。
制作とは言っても、既製品を組み合わせただけではあるので、広い意味でこれはレディメイドと解釈されています。
デュシャンは1915年に雪かき用のシャベルを購入して、《In Advance of the Broken Arm(腕が折れる前に)》と命名しました。
1950年代以降のネオ・ダダイズムやポップ・アート、ミニマル・アートやコンセプチュアル・アートの源流を振り返った時、
デュシャンのレディメイドにそれらの要素が存在していたため、これが現代アートの先駆的作品として評価されるようになったのです。



現代アートへのレクイエム【その1】

「現代」ということの意味

「現代アート」や「現代思想」、「現代音楽」や「現代詩」など、「現代」を冠したものはいくつもあるのですが、
この「現代」というものはいったい何なのでしょうか。
「現代」という接頭辞は英語ではcontemporaryに当たると思いますが、contemporaryには「同時代の」という意味があります。
伝統的な古臭さにとらわれずに、同時代性に応える「新しさ」を備えたものこそが「現代〇〇」ということになるのでしょうが、
僕にはこれら「現代」を冠する文化が軒並み限界にぶつかっているように感じられて仕方がありません。
今回は現代アートを例にして考えてみたいと思っています。


何であれ、「ジャンル」というものは、伝統や歴史性を踏まえて発展していきます。
伝統や歴史性の理解を前提とした上での発展であるため、ある種の狭量さや排他性が存在するものです。
そこでは目的意識の集中によって強力な切磋琢磨がもたらされ、非常に高度なものが出現してくるメリットがある一方で、
伝統や歴史性に縛られると、狭い中でそのジャンルが煮詰まってしまうデメリットも目立つようになります。
また、伝統を前提としてしまうと、歴史性において利のある地域がどうしても優位に立ってしまいがちです。
さらに、その文化的な歴史性が国家権力に利用される結果になってしまうこともあったのです。
このような歴史や伝統、その上に成立した近代的な国家権力から自由であることを求めて「現代〇〇」というものが登場したように思います。