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芸術疎外論【その2】

ヘーゲルあってのマルクス

前回の記事では、マルクスの疎外論の評価がどのように移り変わっていったかを見ていきました。
そこで多少は疎外論の輪郭は示したのですが、疎外論そのものについての本格的な考察を後回しにしてしまいました。
これから芸術創作にとって疎外論が持つ意味を探求したいと思いますが、
マルクスの『経済学・哲学草稿』を読んでいく前に、どうしてもヘーゲルの疎外論を見ていかないわけにはいきません。
『経済学・哲学草稿』の第三草稿には「ヘーゲルの弁証法と哲学一般への批判」という章があるのですが、
マルクスの疎外論にはヘーゲル哲学の批判もしくは継承という面が強く出ています。
ものすごく簡単に整理すれば、
まずヘーゲルの疎外論があって、それを批判するフォイエルバッハの疎外論があり、それを受けてマルクスが自分の疎外論を発展させた、という流れがあります。
つまり、マルクスの疎外論には、ヘーゲルの影響とフォイエルバッハの影響とが見られるのです。


マルクスが自立した思想家になったのは、ヘーゲル左派(フォイエルバッハ)の影響から抜け出した後である、という立場が、
疎外論を未熟な時期の思想として軽視する見方を生み出したことには前回触れました。
僕もフォイエルバッハの影響に関しては、のちのマルクス思想に重要な役割を果たしたとはあまり思わないのですが、
ヘーゲルとなると話は別です。


ヘーゲルの疎外論なくしてマルクスの疎外論はありえません。
そのため、マルクス思想からヘーゲルの影響を抹消する場合には、マルクス思想から疎外論を切り離すことになります。
とりわけ反ヘーゲル的な立場にあった〈フランス現代思想〉では、その傾向は顕著でした。
だとしたら、その逆もまた真理だということです。
マルクスの疎外論を再評価する場合、ヘーゲルを読むことが避けられないはずなのです。


疎外についてヘーゲルの著作を当たるならば、『精神現象学』を読まなくてはなりません。
『精神現象学』の「Ⅳ 精神」には「B じぶんにとって疎遠となった精神 教養」という章があり、
そこで疎外について触れられているからです。
実はヘーゲルにとって疎外という言葉はそれほど悪い意味を持っていません。
むしろ重要なものであると言ってもいいでしょう。
それがフォイエルバッハによって批判的な意味で扱われるようになっていきます。
マルクスにとっての疎外もフォイエルバッハの延長にあり、やはり批判されるべきものとして捉えられています。
ヘーゲルからマルクスへと至る過程で、疎外がなぜ良いものから悪いものになっていったのか、ということは考えておきたいところです。


それから、前回にも述べましたが、僕は疎外論を承認の問題と絡めて考えたいと思っています。
『精神現象学』の「B 自己意識」には、主人と奴隷の弁証法という有名な話があるのですが、
いろいろな本に目を通してみると、この部分の解釈が確定的ではないことに驚きます。
一般的には承認論として考えるのが常識的なようなので、僕の発想はオーソドックスなものだと思います。
主人と奴隷の弁証法はコジェーヴの解釈などを通じて、マルクスの階級闘争へと結びつけられたりもするので、
疎外論と結びつけて考えるのはとりわけおかしなことではないでしょう。
ヘーゲルには体系的哲学者というイメージがありますが、『精神現象学』は読んでみると多方向に話が飛んでいるので、全体を扱うのは到底無理です。
そういうこともあって、疎外に触れた部分と主人と奴隷の弁証法を中心に取り上げる予定です。


『精神現象学』の狙い

まず、ヘーゲルの『精神現象学』がどんな本なのかを軽く説明します。
ヘーゲルはドイツ観念論の完成者ともいうべき大哲学者ですが、実は主著と呼べるものは多くありません。
『精神現象学』と『論理学』の2つだけです。
(『法哲学』と『エンチクロペディー』は講義用の教科書でした)
これだけでも『精神現象学』の重要性がわかるというものですが、
ヘーゲルは難解で知られるこの著書を、長い構想時間を経て完成させたわけではなく、
意外にも1805〜1807年の1、2年足らずの期間で一気に書き上げているのです。
もともとは体系的著書の序文として書き始めたものだったのですが、そこから方向転換して急遽成立したものなのです。
『精神現象学』が大著のわりに自由に語られていて、イマイチまとまりが足りないように感じるのはそのためかもしれません。
しかし、急ぎで書いた本がこれだけの古典的名著として残ったのですから、ヘーゲルの広大な思考力には驚かされます。


そんな『精神現象学』の内容をざっとまとめて語るのは荷が重い作業なので、他の人の仕事に頼ろうと思います。
ロバート・ブランダムとともにアメリカでヘーゲル再評価の機運を作ったジョン・マクダウェルは、
「思想」(岩波書店)の2019年1月号に掲載された「統覚的自我と経験的自己」(2006年)で、『精神現象学』についてこうまとめています。


ヘーゲルの『精神現象学』は、意識が学び成長し絶対知の立場へといたる過程を辿っている。(意識としての)意識にとって、その対象は自分とは異なる他のものである。目標は、この他性が止揚されること、すなわち、その最初の見かけのたんなる他性としては廃棄されるが、高次のレベルでは、より包括的な理解の「契機」として維持されることである。(マクダウェル「統覚的自我と経験的自己」村井忠康訳)

マクダウェルは『精神現象学』を意識の成長過程を示したものと捉えています。
そこでは知というものが「概念」の自由な自己展開として捉えられています。
概念が自ら展開するなんて、まるで概念が意志でも持っているかのような書きようですが、
特別マクダウェルが画期的な解釈をしているわけではありません。
ヘーゲルは事物に内在して、それを主体的に動かしている原理を概念として把握しているのです。
つまり、ヘーゲルは概念論ではあるのですが、その概念は形式的な単なる抽象物ではなく、自ら運動するもの(具体的普遍)とされています。
形式論理学が扱う抽象的普遍は運動することがありません。
しかし、ヘーゲルは事物の内面的な本質という目に見えないものを、観念的(精神的)なものと見なし、それが自分で運動するとしました。
そうなると、ヘーゲル思想にとっては生命も「概念」としての本性を持つことになります。


概念が自己展開していく上で問題になるのは、意識にとっての他者である「対象」をどう統合するかという課題です。
マクダウェルの文章の中に「止揚」という語が登場していますが、この言葉はヘーゲル思想が依拠する「弁証法」を象徴するものです。
弁証法とは、分離・対立するふたつのものを理性的にさらなる高い次元で総合して、具体的全体へと統一する方法です。
一般的には〈正-反-合〉という三段階で説明されますが、『ヘーゲル用語辞典』(1991年:未来社)では、この考えが折衷という安易な理解を招くとして注意を促しています。


三段階的弁証法のポイントは第二項が第一項の否定であるとともに、第三項への媒介(橋渡し)をすることであり、また第三項が第一項へのなんらかの復帰──したがって円環を描く──になっていることである。(『ヘーゲル用語辞典』)

これを読むと弁証法が高次の統合を導くポイントが第二項にあることがわかります。
この第二項が「否定性」であることは、『精神現象学』を読むだけでも確認できる箇所が多くあります。
ヘーゲルにとって(内在的な)否定性は、より高次へとステップアップするための契機なのです。
止揚(Aufheben)という語が弁証法を象徴すると僕が書いたのは、
このドイツ語が「廃棄する」という意味の他に「保存する」という真逆の意味を持っていて、
ヘーゲルがそれを両面的な意味で独自に用いているからです。
(僕が読んだ熊野純彦訳の『精神現象学』(2018年:ちくま学芸文庫)では、Aufhebenには「廃棄する」という訳語を当てているようでした)


重要なのは、弁証法で第二項の位置にあるものが、第一項とより高次の第三項を媒介する役割にあるということです。
媒介の役割にあるものが両義性をもつのは必然です。
ヘーゲルにとって否定性がただネガティブなものではなく、より高次なものに成長するための否定的媒介(橋渡し)であることは、
ぜひとも強調しておきたいところです。
『精神現象学』では意識が絶対知にまで成長していくのですが、
その成長の過程が、意識が自らの否定性とぶつかって乗り越える「反省」によって成立していることが大きな特色です。


このあたりについては金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』(1973年)に明晰に書かれています。
金子はヘーゲル哲学の根本的な命題を「実体は主体である」ということだと述べています。
実体の基本は「物」です。
物が主体であるなら、それが対象として存在するだけでなく、実は主体であることを示さなくてはなりません。
さっきヘーゲルが事物の内面的な本質を概念として捉えたことを書きましたが、
それはこの命題が柱となって導かれているのです。


『精神現象学』の本論の最初の章「A 意識」では、当然ながら意識について語られているのですが、
対象の感覚の話から始まって、物の知覚へと移り、実体は主体である、実体は概念である、という悟性の段階へと至ります。
金子は感覚、知覚、悟性の三段階がそれぞれ個別性、特殊性、普遍性に対応するとしています。
ここで物における矛盾、すなわち個別と普遍、もしくは一と多、自と他という問題が現れます。
本稿「芸術疎外論」において問題になるのは個別と普遍の矛盾になるわけですが、
僕が『精神現象学』を読んだ印象では、ヘーゲル自身が意識的にテーマとして考えていたのも個別と普遍をめぐる問題に思えました。


ヘーゲルの反ロマン主義的な同一性

ヘーゲルの時代はルネッサンスから啓蒙に至る時代です。
絶対的、普遍的な「彼岸」から個別的、有限な「此岸」へと興味が移っていき、現世での人間生活が主要な問題となっていきました。
神という普遍的な存在の前で、全体として存在していた人間が、有限的な現世の生活において個別性を獲得していったのです。
そこには信仰の世界から個人が自立していく近代の萌芽が見られます。


ヘーゲルとキリスト教の関係が強いことは誰もが認めることではありますが、
権左武志は『ヘーゲルとその時代』(2013年:岩波新書)で、ヘーゲルのキリスト教やロマン主義に対する態度の変遷を見ると、そう簡単ではない気がしました。
権左によると、若きヘーゲルは1798〜1799年に書いた草稿「キリスト教の精神とその運命」の後半部分で、キリスト教の根本的欠陥を論じているのです。


キリスト教の欠陥として第一に挙げられるのは、教団が、イエスという特定個人への依存状態を共有する「依存の共同体」に陥った点である。というのも、愛の感情を対象化しようとする宗教への欲求が、自分自身の主体的活動によるのでなく、特定個人への依存の絆により充たされるからである。(権左武志『ヘーゲルとその時代』)

特定の個人に依存する「依存の共同体」と言うならば、キリスト教に限らず、
ヘーゲルの批判は戦時天皇制やナチスの第三帝国にまで対象を広げることも可能です。
権左は触れていませんが、実は、特定の個人に依存する共同体というのは、すでにメカニズムの中に共同性の否定を含んでいます。
超個人とでも言うべき者との「人間関係」の中に共同的なあり方を吸収してしまうからです。
そこでは私的なものが公的な顔でまかり通るようになるのですが、
この問題を突きつめると深いところに至ってしまうので、また別の機会に触れたいと思います。
私的な関係による共同性の否定は、必然的に現世からの逃避へと結びつきます。


キリスト教の第二の欠陥として挙げられるのは、教団が、現世における神の国の実現を断念し、神の国を彼岸の彼方へ追いやった点である。私有財産や権利関係を拒否し、現世から逃避するキリスト教徒たちは、現世の国家に関わらず、受動的に服従するだけの私人と化し、国家と教会への忠誠の分裂を生み出した。(権左武志『ヘーゲルとその時代』)

ヘーゲルの批判は必ずしも間違っているわけではないのですが、全体主義の歴史的経験を持つ我々は、
むしろ神の国という理想の地など彼岸へと追放した方がマシであることを知っています。
神の国や擬似神の国を現世で実現してしまうと、独裁者が現れたり、周辺諸国と揉め事を引き起こしたりすることになるのです。
僕は第2の欠陥に関しては、「現世から逃避する」人たちが「受動的に服従するだけの私人と化し」てしまうという批判に注目したいと思います。
特定の個人を崇拝する、真の共同性なき「依存の共同体」に属するキリスト教徒は、
現世から逃避し、受動的に服従するだけの「私人」なのだ、とヘーゲルは批判しました。
これがそのまま消費社会において私生活を謳歌する消費者の姿と重なるのは、もちろん偶然ではありません。


さて、権左はこのようなヘーゲルのキリスト教批判を、ロマン主義的「合一」に対する反省として捉えています。
というのも、ヘーゲルはそれ以前にヘルダーリンに代表されるロマン主義的な「合一哲学」に魅了された時期があったからです。
何と何が合一するかといえば、主体と客体です。
自己と対象という言い方をしてもいいでしょう。
主客の合一が大きな哲学的な課題なのは言うまでもありませんが、
その合一が「知的直観」によって直接的になされるのか、主体と客体の分離をもたらす反省によって間接的になされるのかが問題です。


権左は『ヘーゲルとその時代』で、合一哲学の思想的源泉を大きく2つに分けています。
1つ目は、対立し合う力を美的能力で合一するシラーの思想です。
シラーは主客に根ざす対立を「遊戯衝動」によって美的に統一すると考えていました。
遊戯衝動に従うことで、道徳の強制からも、自然の強制からも解放され、理性と感性が完全に調和した状態を実現できるというのがシラーの考えです。
これをヘルダーリンが継承した、と権左は述べます。
アドルノがシラーを主観的、ヘルダーリンを客観的と評価したように、両者の違いに注目する見方もありますが、
知的直観によって美の客観性を追い求めた点では両者はたしかに共通するものがあります。


もうひとつの源泉は、ヤコービ独自のスピノザ解釈です。
ヤコービはあらゆる人間存在の中にスピノザ的な「実体」が存在し、それを信仰によって直接的に把握可能だとしていました。
ヘルダーリンが自我に先立つ存在を知的直観で把握できると考えるようになったのには、ヤコービの考え方が影響しています。
美的偏重の遊戯性と非反省な直観性というロマン主義の発想が、現代の〈俗流フランス現代思想〉にも見られることには注意が必要です。


主体と客体を合一するヘルダーリンの合一哲学は、彼の小説『ヒュペーリオン』に示されています。


総てと合して一となる、それは神の生活である。それは人間の天国である。
生きとし生けるもの総てと合一し、幸いなる忘我のままに自然の一切の中へ帰りゆく、それは思索と喜びとの頂上である。(ヘルデルリーン『ヒュペーリオン』岩波文庫:渡辺格司訳、原文は旧かな旧漢字)

ここは権左も引用している箇所なのですが、合一についてあらわに語られている部分と言えるでしょう。
『ヒュペーリオン』の主人公ヒュペーリオンはギリシアの青年です。
いろいろな挫折を経て、ラストでは祖国ギリシアの自然に神を見出すようになります。


自然はまた神の如きものであるに違いない。君達は是を破壊してもかまわぬ。それでも矢張り自然は老いず、美しきものは、君達に拘らず、いつまでも美しい──(ヘルデルリーン『ヒュペーリオン』渡辺格司訳)

権左はドイツ観念論の精神史的背景に、反プロテスタント神学と古代ギリシアの発見(必ずしも実像ではない)を挙げています。
それが美的な投影であることがロマン主義の特徴です。
キリスト教をギリシア精神の視点で読み替えるヘレニズム的なあり方は、遅れてきたドイツ版のルネッサンスと言えます。
「ヘルダーリンやシラーによれば、古代のギリシア人こそ、自分を世界と結びつける美の能力を備えていたという」と権左は述べます。
ここで発見された古代ギリシア人はセカイ系のヒロインを思い起こさせます。
アニメキャラを美的に消費して作品世界との一体化をはかることは、「小さな物語」におけるロマン主義的態度と言えるかもしれません。


しかしヘーゲルは「キリスト教の精神とその運命」という草稿で、キリスト教の欠陥を指摘して、
愛の感情をベースとする合一哲学が、国家と教会(此岸と彼岸)の二元論を超えられないと考えるようになりました。
そうして主客の合一に主客の分離を取り込むような合一を構想したのが、ヘーゲルの弁証法なのです。


こうしてヘーゲルは、対立を取り入れた再合一を要求し、生を「結合と非結合の結合」として捉える。つまり、合一か分離かという合一哲学に特有な二者択一を取らず、分離を取り入れた再合一、すなわち「合一と分離の合一」が生の本質をなすと考える。(権左武志『ヘーゲルとその時代』)

ヘーゲル弁証法の核にある、否定性が重要な媒介になるというメカニズムは、
このようなロマン主義的とも言うべき直接的な合一に対する批判から生まれたのです。
ここでどうしても触れておきたいのは、このようなヘーゲル思想とシェリングの同一哲学との違いです。


書き忘れましたが、ヘーゲルとヘルダーリンはともに1770年生まれで、テュービンゲン大学の寮生として親しく交流していました。
5歳年下なのに特例で入学したシェリングも寮生で、ヘーゲルやヘルダーリンと同室だったというのですから驚きです。
シェリングの方が年齢が下なのですが、ドイツ観念論の系譜をたどると、カント→フィヒテ→シェリング→ヘーゲルと並べられたりします。
村岡晋一『ドイツ観念論』(2012年)はまさにこの順番で章立てされていました。
年下のシェリングがヘーゲルより先に置かれるのは、彼が早熟の天才だったからにほかなりません。


シェリングは主観と客観の絶対的同一性を原理とする「同一哲学」を構想しました。
「同一哲学」は「私の哲学体系の叙述」(1801年)と「哲学体系の詳述」(1802年)で示されていくのですが、
「私の哲学体系の叙述」はユークリッド幾何学のように「定義」をしていく書き方になっているので、スピノザの『エチカ』に似ています。
実際、シェリング自身がスピノザを模範とした、と述べています。
シェリングが絶対的同一性を原理にしたということは、対立する二つのものが根源的に同一であるという前提に立っているということです。
主観と客観は潜在的には同一であり、どちらにもなりうるとするのです。
ヘーゲルにおいても対立の根底には同一性が前提されていると把握できるのですが、
シェリングが依拠する原初的な同一性は、意識によって主体的に把握することができないとされています。
シェリングはこの意識に上ることのない根源的な同一性のありかを「無意識の夜」と喩えています。
そうなると、主体と客体が無差別なものとして認識されるには、主体的な意識を捨て去る直観に頼らざるをえなくなります。
主体と客体を直観的に合一するという点で、シェリングの合一哲学もロマン主義と考えられるのです。


『精神現象学』の序文には、盟友であったはずのシェリングの同一哲学に対する批判があります。


絶対的なもののなかでは、いっさいがひとしい。このただひとつの知をもって、区別をともなって充実した認識、あるいは充実をもとめ、それを要求する認識に対抗している。ことばをかえれば、じぶんがいうところの絶対的ヽヽヽなものヽヽは、そう語られるのがつねであるように、すべての牛を黒くする夜であるなどと公言されている。(ヘーゲル『精神現象学【上】』熊野純彦訳)

ちくま学芸文庫版では、翻訳者の熊野がこの箇所がシェリングに対する批判だと本文に書き込んでいます。
シェリングの「無意識の夜」による統合が、「すべての牛を黒くする夜」だと批判しているのです。
『精神現象学』では、個体と全体の関係が考察されているのですが、
シェリングの同一哲学では「区別をともなって充実した認識」つまり個体の認識が危うくなって、
それぞれの牛の模様が判別できない、すべての牛が黒いだけの、個体識別が不能な夜になってしまうとヘーゲルは言うのです。


このシェリング批判の直後には、ヤコービに対する批判が続いています。
権左武志はここにヘーゲルのロマン主義克服を見ているわけですが、
ヘーゲル自身としてはスピノザ主義者への批判を意図していたと思います。
20世紀後半になって、ヘーゲル思想にナチスの影を投影した〈フランス現代思想〉が反ヘーゲルの意図で再度スピノザを持ち出し、
その後にアメリカでピッツバーグ学派のマクダウェルやブランダムによるヘーゲル再評価が起こったのは興味深いことです。
近代以後の西洋哲学はスピノザとヘーゲルの綱引きのような面があると言えるでしょう。


ヘーゲルの『精神現象学』が実体を主体として捉えることを意図していたことはすでに書きましたが、
ヘーゲルがスピノザを批判するのは、まさに主体の抹消と関わっています。


生き生きとした実体とは、さらにいうなら、存在でありながら、その真のありかたヴァールハイトにおいては主体ヽヽであるものである。あるいはおなじことであるが、その存在が真にイン・ヴァールハイト現実的であるのは、ただ実体が自己自身を定立する運動であるかぎりにおいてにすぎない。いいかえれば、みずから他のものとなってゆくことでじぶん自身と媒介するかぎりにあってのことなのである。生き生きとした実体は、主体であるがゆえに純粋ヽヽかつ否定的ヽヽヽなあヽヽりかたヽヽヽをともなっており、まさにその消息をつうじて単純なものでありながら、ふたつに分化していることであり、あるいはふたつのものへと二重化して対立しつつ、当の二重化がふたたび、このたがいに無関心な相違とその対立とを否定するはたらきなのだ。このように[他のものから]みずからを恢復しヽヽヽてゆくヽヽヽ[自己]同等性であり、いいかえるならば、他であることのうちでじぶん自身へと反省的に立ちかえること──つまり、根源的にヽヽヽヽもともと統一されたありかたアインハイトをしているのではなく、あるいはもともと直接的なヽヽヽヽ統一性アインハイトであるわけでもないということ──、これこそが真なるものである。(ヘーゲル『精神現象学【上】』熊野純彦訳)

へ-ゲルは対立を統一する同一性を、「他なるもの」を介した反省によって成立させます。
これほどまでにヘーゲルが直接性を批判するのは、すべての牛の模様を区別すること、個別的なものを個別のまま自立させることにこだわっているからだと思います。
ヘーゲルは個別的なものが全体に吸収されて、その区別がなくなるような知的直観という方法よりも、
個別は個別として自立しながら、全体へと自己展開していく反省的なあり方を求めたのです。
ヘーゲルのキリスト教批判を思い出してください。
そこでは超越的個人との関係によって、地上の共同性をスキップして形成される「依存の共同体」が、
人々を「私人」として受動的に服従させることが問題にされていました。
「反省の媒介を通ずることによって実体は主体となりますが、
じつは実体を主体に転換させることこそ現象学の目的なのです」と金子武蔵が言うように、
ヘーゲル思想は、超越的なものにただ服従する生ではなく、地上で主体として能動的に運動していく近代的な生き方を示しているのです。


〈フランス現代思想〉は近代的主体や同一性を批判しているので、ヘーゲルに対しては批判的な立場にあります。
しかし、よくよくヘーゲルを読むと、〈フランス現代思想〉はだいぶヘーゲル(やその延長にあるハイデガー)に依拠していると感じます。
〈フランス現代思想〉はなぜドイツ観念論からの影響を否定しようとするのでしょうか。
ひとつにはカトリックとプロテスタントの対立を背景にした両国の文化的相克が影響していることが想像できます。
影響を受けそれを利用するにしても、「脱構築」とか言ってズラしつつ、批判的に継承せずにはいられないところがあります。
そのため、すでに近代的主体の恩恵を受けていることはそのままに、近代の問題点ばかりを批判するという都合のいい思想をポストモダン思想として展開しています。
出版マスコミに担がれている日本の〈俗流フランス現代思想〉の書き手は、
ドイツ観念論に対する理解も乏しく、思想史的な教養もないので、ポストモダン思想の欠陥を認識する力がちっともありません。
カトリックでもなく、ナチスドイツに敗北したわけでもない日本が、なぜ〈フランス現代思想〉にこれほど入れ込んだのかと想像すると、
日本が敗戦国であり、戦時中にナチスの同盟国であったという「後ろめたさ」にあるように思います。
とりわけ東大がドイツ思想に冷たくフランス思想に偏重しているのは、連合国体制への忖度が影響しているのではないでしょうか。
(もちろん、そんなことを指摘している人は見たことがありませんが)


もうひとつ、今回この文章を書いていて気づいたのは、
ヘーゲルが批判したキリスト教共同体のあり方が、戦後日本の支配体制とシステム的に酷似しているということです。
戦後日本に対して超越的な「彼岸」の位置にあるのがアメリカです。
天皇という特定の個人に依存する共同体のかたちを残しつつ、実質の父なる神がいるのは「彼岸」であるアメリカです。
日本国民は天皇(に相当する個人)という「イエス」を介してアメリカという「父なる神」に受動的に服従するだけの「私人」であり、
それが信仰の形態だとも知らずに消費的な私生活主義を謳歌しているのです。
主体性批判に勤しむロマン主義的な〈俗流フランス現代思想〉は、そうしたアメリカ絶対服従の主体性なき私人としての生を肯定します。
だから、近代以前のプレモダン的な内面性から前に進むことができないのです。
いつまでも浮世絵、いつまでも滑稽本、いつまでも家柄階層社会、いつまでも官僚政治、いつまでも年功序列の儒教支配、いつまでも田舎者のムラ社会なのです。
〈俗流フランス現代思想〉は見かけはオシャレに見えるかもしれませんが、
実質的には日本的なプレモダンな服従心を保存します。
この手の人たちが自ら大衆に媚びた商売をしていながら、大衆を平気で侮蔑する態度を取ったりするのは、
いまだ「近代」を知らない封建社会の価値観を生きているからです。
自分も大衆の一員であるという意識をどこかに飛ばしてしまって、自らをメタな位置(要するにアメリカ支配層の位置)と同一化した気分でいるのです。
アメリカ思想でヘーゲルの再評価が進んでも、日本の出版ジャーナリズムやアカデミズムが変わらず時代遅れの〈フランス現代思想〉から前に進めないは、
それが戦後体制を弁護する役割(戦後体制の支配者気分を味わせる役割)を果たしているからではないかと僕は思います。


主人と奴隷の相互承認

だいぶ前置きが長くなりましたが、ヘーゲル弁証法の確認が終わったので、ようやく主人と奴隷の弁証法に入ろうと思います。
お忘れの方もいるかもしれませんが、この文章はマルクスの疎外論を現代的に考察する目的で書かれています。
ヘーゲルの『精神現象学』にこれだけ紙幅を割いているのも、疎外論を自己承認の視点から考えてみたいからでした。
ヘーゲルで承認の問題を扱う場合、『精神現象学』の主人と奴隷の弁証法を避けて通るわけにはいきません。
この部分は非常に有名なところなのですが、解釈があまりに多様で不明瞭なので、扱いが非常に厄介です。
とりわけマルクスから入ってヘーゲルを読むと、マルクス主義的な解釈に引っ張られてしまいます。
なるべく『精神現象学』全体の思考にそって、ヘーゲルの意図を考えていきたいと思っています。


そもそも主人と奴隷の弁証法とは何だ、というところから始めますが、
これはヘーゲルが自己意識の過程について示したモデルです。
ヘーゲルにとって「何かである」ことは、「他なるもの」との弁証法によって成立することはすでに見てきました。
自己意識の成立にも同様の原理が適用されます。
つまり、自己意識も「他なるもの」つまり他の自己意識との関係において成立します。
ヘーゲルにおける否定性(他なるもの)は同一性へと至る契機です。
他者でありながら自己と同一の次元にあるものでなければなりません。
自己は他者をもうひとつの自己として捉え、他者の否定が自己の否定となるとき、自己は他者を認知せざるをえなくなります。
自己と他者はそれぞれが区別される個体でありながら、同一の普遍を実現するものとなるのです。


つまり精神とは絶対的な実体であって、その実体においては、みずからがふくんでいる対立、すなわちあいことなった、それぞれにフユール・ジッヒ存在する自己意識という対立が存在し、おのおのがかんぜんな自由と自立性をもちながらも、その対立が統一されている。絶対的な実体である精神とはすなわち、「私たちヽヽヽである〈〉であり、〈〉である私たちヽヽヽ」なのである。(ヘーゲル『精神現象学【上】』熊野純彦訳)

個として自立した実体が普遍でもある、という二重化したあり方は、
自己意識が他の自己意識を認めることで統一されます。
「他なるもの」とはもうひとつの自己意識でしたので、自己が対象に向かってする行為は対象の自立性に支えられています。
「じぶんだけではなにごともなしえない」この状況では、自己から対象への行為は対象から自己への行為ともなるため、二重の意味を持つことになります。
自分からも相手からも二重に認められる行為は、相互承認によって成立していると考えることができます。


そうした自己意識同士の相互承認の原初的モデルとして、ヘーゲルが取り出したのが、主人と奴隷の関係です。
隣人同士の対等な関係ではなく、明らかに社会的な階層区別がハッキリしている関係を扱っています。
ヘーゲルが相互承認を、主人と奴隷という非対称的な社会関係として捉え、
キリスト教的な隣人愛として描き出さなかったことは注目したいところです。
ヘーゲルが相互承認のモデルをなぜ主人と奴隷の関係として描いたのか、ということについては、イマイチ明快な説明に出会えていません。
アクセル・ホネットは若きヘーゲルがイェーナ草稿で構想した間主観的な相互承認を評価するあまり、
『精神現象学』で主人と奴隷の関係にしてしまったことを批判しています。
(ホネットのコンフリクト論に関しては、岩波「思想」2019年1月号に斎藤幸平の興味深い反論が載っています)
しかし、ヘーゲルがなぜ相互承認の問題を主人と奴隷の両極で考えるようになったかの方が重要なのではないでしょうか。


主人と奴隷の弁証法は、双方が「他者の死をめざさざるをえない」という命懸けの闘争から始まります。
この闘争の結果、主人と奴隷の両極が誕生するわけですが、そのプロセスを『ヘーゲル用語辞典』ではこう説明しています。


承認の闘争は生死をかけた闘争へと先鋭化される。この過程で死の恐怖にたじろぎ、相手への従属を受け入れることによって自分の生命の保持をはかろうとする個人(自己意識)は、奴となる。これにたいして、生死を賭けた闘争において死の恐怖をものともせず、自分の栄誉や尊厳といった精神的価値のために生きようとする個人は、主となる。(『ヘーゲル用語辞典』)

死を賭けた闘争で死を恐れて降参した方が奴隷となり、死の恐怖を乗り越えた方が主人となった、という説明です。
ヘーゲルはこの主人と奴隷の関係を古代ギリシアの奴隷制をベースに考えていたようなので、
戦いに敗れて命を保持しようとした者が奴隷になった、という発想は理解できます。
ただ、『精神現象学』にはそうは書いてありません。


主人と奴隷の弁証法でヘーゲルが標的にしているのは、自分だけで自立的に存在しているという直接的なあり方です。
ここでは自己意識ともうひとつの自己意識が、ともに「自分自身だけで存在している」と確信を持っている状態が前提とされています。
自分自身だけで存在しているという自信があれば、他の自己意識など邪魔でしかありません。
そうなると、対立する自己意識に対しては存在そのものの抹消──つまりはその命を奪うこと──にまで行きつきます。
邪魔な相手の存在を自分の存在を賭けて打ち消そうとするのです。
どうしたって命のやりとりになっていきます。
しかし、そうなるとそもそもの動機(自分自身だけで存在する)に矛盾することが起こります。
自らの命を危険にさらす闘争は、自分自身だけで存在していることを証明するどころか、自分の存在そのものを失う可能性をもたらすからです。


ここでヘーゲルがこだわっているのは、「自分自身だけで存在する」という個体的な原則です。
命懸けの闘争をする両者が、相手を抹消することなく、統一の契機を保持して存在する場合、
自己意識は両極へと分かれるとヘーゲルは言います。
おそらく、ここでヘーゲルが問題にしたいのは、個を全体へと解消しないあり方です。
隣人愛において両者を統合すると、直接的な合一思想となり、個は全体へと解消されてしまいます。
個が個として「自分自身だけで存在する」ことを原理としているから、ヘーゲルにとって闘争から承認へと向かう両者の関係を、
主人と奴隷に設定する必要があったのだと僕は考えます。


承認と労働、主人と奴隷の逆転

これまで僕は「主人と奴隷の弁証法」と書いてきましたが、これは一般的によく言われる名称であって、
ヘーゲル自身がそう書いているわけではありません。
ヘーゲルが弁証法的と言っているのは、主人と奴隷の後に触れられる懐疑主義についてです。


では、なぜ「弁証法」と言われているのかというと、ヘーゲルの「主奴論」の展開が、主人と奴隷の立場の逆転として一般的に解釈されているからです。
たとえば金子武蔵の説明がその典型です。


このことを理論的にいいますと、主人は精神的無限性ないし普遍性を実現し、奴は欲望にとらわれて個別性にとどまっているといえるのですが、じつは主人も支配される方の奴の個別性に依存しているともいえるのです。そこで奴が主に依存すると同様、主もかえって奴に依存していることになります。いいかえると、主は奴になり、奴は主になるというわけです。かかる理由から、自由をむしろ奴の方からヘーゲルは説こうとしています。(金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』)

この説明は、「奴が主となり、つまり、主奴の関係は逆転するのです」と締めくくられています。
熊野純彦は『ヘーゲル〈他なるもの〉をめぐる思考』で、「まさにこの労働の契機が主奴の立場を逆転させる」とあっさり書いています。
『ヘーゲル用語辞典』も似たような感じです。


このように、じっさいには主は非自立的であって、真の自立化の可能性は奴の側に開かれるのであり、主と奴の関係は逆転される。(『ヘーゲル用語辞典』)

ここで個別性とか自立的とか言われているのは、
僕がさっき述べた「自分自身だけで存在する」状態のことで、ヘーゲルがこのような個別的である状態を重視して、主人と奴隷の弁証法を書いたことは誰もが認めているのです。


主と奴の「逆転」という解釈に噛み付いているのが岡崎裕一朗です。
岡崎は『ヘーゲルと現代思想の臨界』(2009年)という著書で、「主人と奴隷の逆転」という解釈が神話だとして批判しています。
そうした神話は主にコジェーヴやサルトルなどの解釈が生み出したものだと言います。
彼はヘーゲルの疎外論もマルクス主義者(ルカーチ)が作り出した虚構だと主張しているので、
全体としてマルクス主義者のヘーゲル読解を神話だ虚構だと批判しているような印象です。
たとえば岡崎はヘーゲルの主人と奴隷の弁証法が、マルクスに影響を与えた、という説に対して、
マルクスの引用文を示して、マルクスが『精神現象学』について書いているのは結論としての絶対知についてであり、
主奴論についてではない、と言っています。
まあ、マルクスの書いていることを額面通り受け取ればそう読めるのですが、
マルクスが言及していないから影響されていないと言うのはどうなのでしょうか。
僕はマルクス主義にほとんど共感を持っていませんが、『精神現象学』がマルクスに限らず多くの思想家に影響を与えたのは間違いないと思いますし、
『精神現象学』を熱心に読んでいながら、絶対知というあまりに短い結論部分だけにしか影響を受けていない、と言い張るのはあまりに無理があると思います。


ここで不思議に思うのは、どうして主人と奴隷の弁証法がマルクスに影響を与えてはいけないのか、ということでしょう。
無理にでも否定する人がいるのは、自然に読むと両者の影響関係が想像できてしまうからです。
奴隷と主人の立場が自立的なあり方において逆転する、としてしまうと、
労働者が資本家を逆転するマルクス主義の革命思想に簡単に接続してしまうのです。
実際、ルネ・セローは『ヘーゲル哲学』(1973年)の中で、主人と奴隷の弁証法をマルクスが利用したと書いています。


この弁証法は、ヘーゲル哲学のなかでも、現代思想によって最も多く保留された点の一つである。マルクスは、彼の理論の観点からブルジョワジーとプロレタリアートとの諸関係を解釈するために、すでにそれを利用していた。(セロー『ヘーゲル哲学』高橋允昭訳)

こうハッキリ書く人は珍しいのですが、主奴論がマルクスに影響していないと考える方が難しいのは、
『精神現象学』のこの箇所でヘーゲルが唐突に労働について語っているからです。
マルクスがヘーゲルの労働論を無視するはずはありません。
労働論に関心があれば主奴論を読み込むのは自然なことです。
マルクスが主奴論から影響受けたと言えない、という主張にはちょっと無理があると思います。


では、主人と奴隷が「逆転」してはいない、「逆転」というのは神話だ、という主張の方はどうでしょうか。
岡崎は主人が奴隷へと「移行」するとは書かれているが、「逆転」とは書かれていないと言います。
これについては『精神現象学』のテクストを読んで検証した方がいいかもしれません。
ついでに主人と奴隷の弁証法に労働がどのように関わるのかも見ていきたいと思います。


自己意識は他者をめざす

ヘーゲルの定義する主人とは、自分だけで存在する自己意識を表しています。
直接的に自己と関係する意識でありながら、同時に他者(奴隷)を媒介して間接的に自己と関係しています。
意識が自己と関係するやり方には直接ルートと間接ルートの2つがあって、それが二重化していることをまずは確認しておきましょう。
一方の奴隷は主人に服従しているため、自立的な主人という存在を必要とする非自立的な存在にとどまります。
主人は奴隷を介して事物と間接的に関係し、事物を享受することでこれを否定するのに対し、
奴隷は事物と直接的に関係する労働によって、それを加工することはできるのですが、
それを享受するのは主人ですから、否定作用を徹底しきれずに事物を自立的なものとして受け入れることになります。


こうしてヘーゲルの記述にあたっていくと、
主人と奴隷の相互承認という説明では腑に落ちないところが出てきます。
明らかに第三項として事物という存在が出てくるからです。
主人は奴隷の労働によって加工された事物をただ消費する存在であり、奴隷は消費できない代わりに加工労働を通じて事物と直接に関係するのです。
直接的な自己関係を求めた主人は、事物と間接的に関係する存在へと転落し、
主人を通じて間接的に自己と関係するしかない奴隷の方が、労働によって事物と直接的に関係する存在へと上昇するのです。
ここには確かに逆転があります。
しかし、それは事物との関係から主人と奴隷を眺めるという視点の逆転によって導かれたものなのです。


では、主人と奴隷の逆転というのはどうなってしまうのでしょうか。
それは『精神現象学』のその先に書かれています。
ここで問題になってくるのが「承認」なのです。


この双方の契機にあって主人に対して生じているのは、他方の意識によってみずからが承認された存在であるということである。この他方の意識はそのいずれの契機においても、非本質的なものとして定立されているからだ。つまり、一方では事物を加工することにあって、他方では一定の現存在ダーザインに依存していることにおいて、ということである。(ヘーゲル『精神現象学【上】』熊野純彦訳)

ここで「承認」という観点が導入されます。
承認という観点から、主人と奴隷がともに依存的な存在であることが示されるのです。
自己意識が対象である他者を発見することが、承認によって語られていると言ってもいいでしょう。
承認という観点から、自己意識が対象である他者によって規定されるようになると、
主人は「自分だけで存在する」というあり方にそぐわない、非自立的な奴隷という対象しか見出すことができません。
また、その奴隷の行為(労働)は、主人のための行為でしかありません。
つまり、奴隷の行為は自分にとって非本質的なものです。
「主人にとって真のありかたヴァールハイトはむしろ非本質的意識であり、その意識の非本質的行為なのである」
主人の「自分だけで存在する」というあり方は、社会的存在としての承認の前で挫折し、非本質的な意識へと転落してしまうのです。


ヘーゲルはそんな主人のあり方より奴隷の方を評価しているように見えます。
「自立的意識の真のありかたヽヽヽヽヽは、したがって奴隷のヽヽヽ意識ヽヽである」
と書かれていることからもそれはハッキリしています。
奴隷はそれ自身で存在する主人という自立的な意識に依存している上に、
「死の恐怖」を感じた意識であるという点で、真のあり方ヴァールハイトを自分自身として経験している、とヘーゲルは述べています。


その意識は死の恐怖を感じたのであって、死とは絶対的な主人だからである。奴隷の意識はこの恐怖を感じることで、内的に解体されており、じぶん自身のすみずみにいたるまで震撼させられて、いっさいの固定されたものがみずからのうちで揺りうごかされている。このような純粋で普遍的な運動とは、すべての存立するものを絶対的に流動化することである。このことがしかも自己意識の単純な本質ヴェーゼンであり、絶対的な否定性、純粋なヽヽヽじぶんヽヽヽだけのヽヽヽ存在ヽヽであって、そのような存在がかくていまや、奴隷の意識にそくしてヽヽヽヽ存在することになる。(ヘーゲル『精神現象学【上】』熊野純彦訳)

奴隷という現存在ダーザインが、「死」という絶対的な主人に属する者である、という件は、
どうしてもハイデガーの死の本来性を思い起こします。
ヘーゲルは死の覚悟こそが、固定されたものを流動化するための感受性であり、それが自立した事物を労働によって加工する根拠としています。
気をつけておきたいのは、ここでヘーゲルが言っている労働とは、主に精神的な営みのことだということです。


これを読んで僕が感じたのは、奴隷の意識を最もわかりやすく体現した存在が批評家だということです。
たとえば本の著者にはここでの主人のように、自分自身だけで存在することを目指している人がいます。
自分自身だけで存在していることを承認されたくて、自分への賛辞ばかりを集めて、自分を批判する相手を否定し葬ろうとします。
批評家は他人の著書(自己意識)に依存した非自立的な存在であり、自分自身だけで存在していると自負する著者(という自己意識)からは侮られています。
批評家は著者という上位の立場に挑むことで、死を覚悟しなければいけない場面もあるのですが、そこにしか本気の批評は生まれません。
死という否定性において事物を流動化し、確固たる読みを絶えず更新していくような存在が批評家です。
その意味で、批評家というのは典型的な近代的精神のあり方だと言えるのではないでしょうか。
(ポストモダン精神の批評家というものが紛い物でしかないのは、そのためかもしれません)


ヘーゲルは労働における「奉仕と服従」の重要さを強調します。
とりわけ服従というのは、絶対的な恐怖を感じていることを示しています。


意識が絶対的な恐怖に耐えぬいたのではなく、ただいくばくかの不安を堪えたにすぎなかった、としてみよう。その場合には、否定的な実在は意識にとって一箇の外的なものにとどまっており、意識の実体がこの否定的な実在ヴェーゼンによってすみずみまで染めあげられることはない。(ヘーゲル『精神現象学【上】』熊野純彦訳)

ここでは奴隷が「否定的な実在」をすみずみまで意識していることが強調されています。
ヘーゲルが自己意識の片側に奴隷というモデルを置いたのは、
絶対的恐怖による「否定的な実在」を自己意識としている存在のわかりやすい例として、奴隷がふさわしいからだと思います。
そうなると、ここで語られる労働も、我々が一般的に想像するような労働とは異なっていると考える方が自然です。
単なる不安ではなく、死の絶対的恐怖を意識して行われる労働ということを考えると、
やはり、人間存在の本質に関わるような芸術的な仕事として理解した方が納得しやすいからです。
ヘーゲルの労働は人間が精神的自立を達成するためのものなので、
一般に精神的労働と解釈されるのですが、僕はクリエイティブな行為と捉えて疎外論へとつなげていきたいと思っています。


『精神現象学』の記述のままに読んでいくと、
たしかに主人のあり方より奴隷の方が本質的であるように思えるのですが、結果としてはどちらもダメという書き方をしています。
その意味で主人と奴隷がそれぞれ逆の立場へと転じることはあっても、その力関係が逆転して奴隷が主人の上に立つわけではありません。
このあと主と奴の関係はストア主義と懐疑主義へと引き継がれ、不幸な意識というものが現れるのですが、
そこをたどっていくのは本稿の目的ではないので、ここでやめておきます。


ここまでの内容を僕なりにまとめておきましょう。
主人と奴隷へと分かれた自己意識は、それぞれ自分だけで存在することを確信できず、
他者である互いの承認を必要としていく事態になります。
主人は非自立的な奴隷からの承認しか得られず、事物との関係も間接的でしかありません。
それに対し、奴隷は自立的な主人が承認の対象であり、事物とも労働によって直接的に関係します。
奴隷自身は主人の代わりに労働をするため、労働は本来的な行為とはなりえないのですが、
その労働自体は主人がやるべきことを実際にやっているという点で、主人が得るはずの、それだけで存在する真のあり方を実際に経験していることになるのです。
つまり、奴隷の労働そのものは本質的で自立的な行為なのですが、奴隷の意識の上では奉仕でしかないため、非本質的なものにとどまります。
従属的な奉仕の行為と主体的な自己意識の分裂が、奴隷の労働にとって問題となるわけです。
このあとヘーゲルの疎外論について読んでいきたいと思いますが、
紙幅が足りなくなってしまったので、次回の【その3】で書きたいと思います。


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