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芸術疎外論【その3】

ストア主義という格差対策

前回はヘーゲルの疎外論に入る前段階として、疎外の問題が書かれている『精神現象学』が、普遍と個別の問題を取り扱った本であることを見ていきました。
今回は前回扱った主人と奴隷の論以後の展開から始めようと思います。
「自分だけで存在する」という個別的なあり方を追求した自己意識は、主人と奴隷へと分裂することとなり、
労働によって「現にあるもの」と関係する奴隷の方が、主人より自立的な存在として自らを直観する契機を持っています。
前回紹介したマクダウェルは、「統覚的自我と経験的自己」の中で、
ヘーゲルの主奴論が、共同体内部に存在する2人の別々の個人の関係を描いたものではなく、
ひとりの個人の中で分裂した意識を統合しようとするものだと主張しています。
どうもメジャーな解釈ではないようなのですが、実際にヘーゲル自身がそのような読み方を許容する書き方をしています。
主人と奴隷の章に続く「ストア主義→懐疑主義→不幸な意識」という展開では、
自己意識が不変の理念と個別的な現実に分裂することがテーマになっているからです。
この分裂はのちに疎外にも関係してくる部分ですので、少し丁寧に見ていきたいと思います。


ストア主義は、ゼノンに始まる古代ヘレニズム哲学の学派のひとつで、
ストイックという言葉との関連で、禁欲主義的な態度だと受け止められています。
『精神現象学』では、ストア主義は主人と奴隷の対立を引き受けるものとして登場します。
そこでは主人も奴隷も「思考の純粋な運動」の中に引き入れられていきます。
皇帝(マルクス・アウレリウス)でも奴隷(エピクテトス)でも、
個別的な現存在(ダーザイン)としてのあり方から普遍的な思考(教養)へと超え出ることができるのです。


つまりアパテイア(Leblosigkeit)をたもつことで、たえず現にあるものダーザインの運動から身を退き、「はたらくこと」からも「はたらきかけること」からも身を引いて、思想のヽヽヽ単純にヽヽヽ実在的なヽヽヽヽありかたヽヽヽヽへと退隠ヽヽヽヽしてゆくヽヽヽヽことである。我がままもひとつの自由であるけれども、それは個別的ありかたに固着して、奴隷であることクネヒトシャット内部にヽヽヽとどまるものである。(ヘーゲル『精神現象学【上】』熊野純彦訳)

「アパテイア」とは、ストア主義が理想とする境地で、情感に煩わされない不動心のことです。
目の前にある現実がどんなに過酷であっても、それに対して心を動かされることなく、現実への無関心を貫くのがストア主義です。
現実に関係するものから自身を遠ざけることで、教養という思想の普遍的なあり方へと到達しようとします。
要するに、現実への無関心を貫くことで、メタ的な抽象的思想の立場に立つようなあり方です。


しかし、このような現実から離脱し抽象化した思想は、思想として純粋ではあるのですが、「生の充実が欠落している」とヘーゲルは述べます。
純粋な思想は形式として抽象化されすぎてしまい、現実的な内容を失ってしまうからです。
ストア主義で実現される「自由」は、「ただ自由の概念であるにすぎず、生き生きとした自由そのものではない」のです。
思想としては純粋であっても、現実と関与する内容を持たない思想は、
「事物の自立性から離脱して、じぶんのうちに引きこもってしま」うことになります。
そこでは抽象としての概念がそれ以上のものにならず、ただ概念上で語られて終わってしまうことになります。
ストア主義では概念が内容を有していない、とヘーゲルが言うのは、「生の充実」を切り離してしまったことによるのです。


僕にはヘーゲルのストア主義についての考察が、現代においても非常に示唆に富むものに思えました。
主人と奴隷という自己意識の形態は、マルクスへの影響が指摘されるように、現実社会の経済格差を示していると考えてよいでしょう。
興味深いことにヘーゲルは、ストア主義を「普遍的な恐怖と隷属の時代」の産物だと見なしています。
現代日本にストア主義と似たようなメタ志向が蔓延しているのは、現代の日本が「隷属の時代」にあることを示しているのかもしれません。
現実社会において去勢された無力な人々は、ストア主義的な精神の鍛錬ではなく、
メディア・テクノロジーに依存したやり方によって、現実への無関心を手にするのに懸命になっています。
現実に無関心であろうとするメタ精神が、自立性を持った現実的な事物から離脱し、
抽象的な形式への依存を強めている姿は、今の日本の思想や文学の分野でもよく見られるものです。


たとえば自然への関心を強く持ってきた俳句の世界では、
植物などの自然事象を詠んでいても、現実的な内容が欠落するか、生き生きとした姿が失われた抽象言語となっていて、
言葉の持つパトスの乏しさを定型という形式によってすくい上げるだけの言語遊戯的な作品が増えています。
そんな個別的対象を見失った抽象的(=言語的)自然を、「イデア」だ何だとか言って批評した気分になっているのです。
このような形で「隷属の時代」という現実をごまかすことが文学だとしたら、非常に情けないことです。
(ちなみに、上のヘーゲルの引用文で、「我がまま」による自由が奴隷であることにとどまっている、というヘーゲルの記述は、
どこぞの似非ドゥルーズ研究者に「勉強」していただきたい部分なのでわざわざ書いておきました)


不変的理念と個別的現実の分裂

ストア主義の限界を示したヘーゲルは、続いて懐疑主義の考察へと移ります。
抽象化へ向かうストア主義とは逆に、懐疑主義は個別的で多様なものを意識の対象としています。
懐疑主義を細かく見ればいろいろあるのですが、一般化して言えば、
基本原理の普遍性や客観性に疑問をさしはさみ、確かな根拠のない独断を認めない態度です。
これを徹底すると、すべてが疑わしく不確実になります。
すべてが不確実だということは、最終的な決定から引き離されているということです。
最終的に何も決定することができない私たちには、真理を把握する能力がないということになります。
ヘーゲルは真の哲学体系には懐疑主義の側面があると「懐疑主義と哲学の関係」(1802年)で書いていますが、
日本でポストモダンと言われる相対主義的な立場は、一種の懐疑主義に分類してもいいように思います。
(懐疑主義の心理メカニズムが、普遍到達点を永遠に先送りする資本主義のシステムと類似していることには注意が必要です)


懐疑主義がストア主義より進んだ状態とされているのは、意識が自分自身と矛盾し分裂していることに気づくからです。
古代懐疑論では、判断を中止エポケーすることで心の平静アタラクシアを得ることを求めたのですが、
そうなると、ある主張が正しいという判断をすることができなくなるので、その反対の主張も正しいのではないかと疑い続ける必要が出てきます。
こうして意識は、Aという立場とそれを疑うBという反対の立場の両方に関わることになります。
ヘーゲルが「当の意識そのものが、二重の矛盾した意識にとらわれて」いると述べるのはそういうことです。
意識は矛盾した二つの立場それぞれに関係しながら、その矛盾から距離をとります。
そうして意識は自分自身を「純粋に否定的な運動一般のうちにいるかのようにふるまう」のです。
要するに、矛盾した双方の立場を俯瞰するメタな立場を構築するのが懐疑主義なのです。


懐疑主義が弁証法と強い関わりを持つことは理解がしやすいと思います。
矛盾した双方の立場を俯瞰するメタ視点というものが、第一項とそれを否定する第二項を媒介として上位の第三項へと統一される弁証法の準備段階にあるからです。
実際、『精神現象学』でも「弁証法的なもの」として懐疑主義が語り出されています。


懐疑主義というかたちで意識が経験するにいたるのは、ほんとうのところ、じぶんがじぶん自身のなかで矛盾している意識であるということである。この経験にもとづいて生まれてくるあらヽヽたなヽヽ形態ヽヽは、ふたつの思想を統合するものであって、そのふたつを懐疑主義が分離してしまっていたのである。(ヘーゲル『精神現象学【上】』熊野純彦訳)

こうして意識は一つでありながら二つの様式で存在することになります。
矛盾した両者が一つであるということを、ヘーゲルは二重化された状態としています。
矛盾したものを二重化した状態へと変換する発想は、最初に統一ありきの考え方なのではないかと疑うむきもあるかもしれません。
たしかにヘーゲルに限らず、ドイツ観念論は統一が前提とされた思想だと言えるところがあります。
弁証法によって解決される対立には、あらかじめ対立する両者の中に同一性が想定されているという指摘もあります。
そこに反発して分裂に重点をシフトしたのが〈フランス現代思想〉と考えることもできますが、あえて単純化すれば、
それは「無意識」において同一性が担保できる地域であるか否か(統一国家としての先進性)の差でしかありません。
つまり、同一性という前提を理性ではなく無意識領域に追いやったのが〈フランス現代思想〉であり、
統一という課題から解放されているという「余裕」において成立したものだと言うこともできるのです。
(日本も同一性が無意識的な前提になっている国なので、〈フランス現代思想〉への共感が得やすかったのだと思います)
このような思想はマクロ的には、ドイツ観念論を無意識(精神分析やシュールレアリスム)と結合させて成立したものと考えることができます。
よくよく考えれば、統一という前提は〈フランス現代思想〉でも維持されているわけです。
彼らは統一を不可視な領域(無意識)で確保しておき、その安心感において表層上の分裂や多方向性の新しさを称揚しました。
それが「一億総中流」という消費市場の無意識的同一性に依存した多様性を擁護する役割を担ってきたのです。
しかし、現代のように経済格差などによる「分断」を多くの人が意識している状況では、
その無意識的な前提が確かなものではなくなっています。
それに依拠した思想にも説得力が失われてくるのも当然のことではないでしょうか。


ヘーゲルは対立し合うものを、法則に支えられた古典力学として考えています。
「法則とは、たとえば引力と斥力、陰電気と陽電気、空間と時間といったように、
互いに対立した二つの契機をつねにふくんでいるとヘーゲルは考えるのです」
金子武蔵は『ヘーゲルの精神現象学』でそう書いています。
弁証法はこのような力学的な法則を背景にしているのですが、そのためヘーゲルにとって内的な本質にもそれを支える力が存在し、
その力が外へと発現していくことで作用を生み出すことになります。
自己意識においてもこのような力学が働くため、作用に対する反作用として、
一方の意識には必ずもう一方の意識が入り込んでしまうということが、ここでのポイントだろうと僕は思います。
つまり、意識における表と裏、もしくは図と地のような関係がここでは問題にされているわけです。
この二重化した自己意識の双方を意識するのが次の段階となる「不幸な意識」です。


この不幸なヽヽヽ意識は、じぶんのヽヽヽヽなかでヽヽヽふたつにヽヽヽヽ分裂したヽヽヽヽ意識である。そのような意識はしたがって、みずからの本質ヴェーゼンがそのように矛盾していることがじぶんにとってひとつのヽヽヽヽ意識として存在しているのだから、一方の意識のなかでつねにまた他方の意識をもつものとならざるをえない。(ヘーゲル『精神現象学【上】』熊野純彦訳)

不幸な意識において二重化した意識は、「不変的なもの」と「可変的なもの」として位置づけられています。
不変的なものは自分自身であり続ける主人のような意識であり、可変的なものは混乱に身を置く奴隷のような意識ですが、
この言葉ではイメージしにくい場合は、少し乱暴ですが、不変的なものを理念的思考、可変的なものを現前的実践として考えてみてください。
ヘーゲルにとっては永遠に存在し続ける不変的な理念が実在です。
それに対して現前する事物は一時的なものでしかなく、非本質的な非実在と見なされます。
現前的で有限なものが非本質的であり、不変的で理念的なものが「実在」であるという考えは、
プラトン形而上学にも通じますが、現代人にはあまり馴染みがない発想だと思います。
その意味で、私たちには形而上学的な「前提」は共有されていません。
ヘーゲル批判に関しても、この点を踏まえておかないと、現実を超越できない人たちの単なる自己慰撫に終わってしまうことになります。


理念こそが本質的な実在であるからには、非本質的とされる今ここの現実は最終的に廃棄されなくてはなりません。
不変的なものと可変的で個別的なもの、「その関係を意識は、絶対的に「一」となるところまで高めなければならない」とヘーゲルは述べています。
しかし両方を二重化したまま存在させている不幸な意識にとっては、その両方ともが本質的であるため、統合を絶対的に実現することができません。
いつまでも両者の相互作用の中にとどまり続けることになるのです。
その結果、不変的なものは個別性において現れ、個別的なものは不変的な実在にかなうように生成することになります。
要するに本質が二重化した状態にあるのが不幸な意識なのです。


この不幸な意識の部分はヘーゲルがキリスト教について書いたものと解釈するのが普通です。
神という無限存在が有限で個別的な生とどう関係するか、ということがテーマになっているからです。
たとえば不変的なものが個別性において現れる、という記述がキリストの受肉を意図している、という感じです。
では、不幸とまで言われるこの意識の問題点はどこにあるのでしょうか。


不変的なものと個別的なものが「ひとつ」であるという認識に達している点で、
対立する二つのものが、不幸な意識によって統一されていると言うことができます。
しかしヘーゲルがこの統一を「不幸」として評価しないのは、両者の統一が不完全であるからです。
不変的な神が個別的なイエスという人間の姿で現れるキリストの受肉では、
不変的なものが個別的なものへと「形態化」することになるのですが、
このような統一では、個別的意識が自分自身の中に不変的なものを見出すにしても、それが自分と対立する疎遠なものであるという意識から逃れられません。
つまり、自らの中に不変的なものへと至る契機を見出したとしても、それは個別性が関わる「現実」と対立し続ける「彼岸」にあることを知ることになるのです。
「不変的なものとひとつになるという希望は、希望にとどまるほかない」とヘーゲルが述べるのは、
統一の希望は「彼岸」にとどまり続けていて、現実には「充たされることも現在することもない」からなのです。


欲望し労働する非本質状態

キリスト教的な不幸な意識では、二つのものへの分裂が絶対的であるために、不変的なものと個別的なものがついに対立を乗り越えることはありません。
対立を維持しながら強引に統一を求めてしまうと、自分自身を否定して相手に同一化するしかなくなります。
不変的なものと個別的なものがともに自分を否定することで統一を得たとしても、その統一は図と地が反転するように分裂へと引き裂かれてしまうのです。


不変的な意識がその形態を断念しヽヽヽ、それを犠牲ヽヽとしてヽヽヽ与えヽヽ、この件に対して個別的意識が感謝ヽヽするヽヽ。これはつまり、みずからの自立性ヽヽヽの意識に満足することをじぶんで断念ヽヽしてヽヽ、はたらきかけの本質ヴェーゼンをじぶんから切りはなして「彼岸」にあるとすることだ。この双方の契機、つまり両方の部分が相互にヽヽヽみずかヽヽヽらをヽヽ放棄ヽヽしてヽヽ与えるヽヽヽという契機をつうじて、かくてまたたしかに意識にとっては不変的なものとじぶんヽヽヽとのヽヽ統一が生じている。けれども同時にこの統一も分離によって触発されて、みずからのうちでふたたび引き裂かれており、かくしてその統一から、普遍的なものと個別的なものとの対立がまたしても立ちあらわれてくるのだ。(ヘーゲル『精神現象学【上】』熊野純彦訳)

不変的な意識が「犠牲」として形態を断念し、それを個別的意識が「感謝」することで、自分の本質が「彼岸」にあると意識する、
と述べられている部分については少し説明が必要だと思います。
ヘーゲルは個別的意識であっても心情的には満足を得ることができると言います。
その満足は欲望と労働と享受によってもたらされます。
個別的意識は自然に存在する自立的な事物を労働によって加工し、それを廃棄することで内的確信を得ることができるのです。
注意しておきたいのは、ここでヘーゲルが描く労働が、否定性を備えたものであるということです。
労働が媒介的なものとして捉えられているようにも思えるのです。
(『精神現象学』には労働を中間項を示す「媒語」と呼ぶところもあります)
ヘーゲルは商品交換については触れていませんが、媒介的なものとしての労働は、商品交換へと置き換えることができるのではないでしょうか。
それならば、不幸な意識の個別的意識のあり方は、現代の消費社会的な自己と重なるところがあります。
欲望したものを労働を介して享受することで、享楽的に自己確信を得ていく意識のあり方だからです。
ひとり自分の満足を得るようなあり方を、ヘーゲルは「じぶんに対する存在フユールジッヒザイン」と呼んでいます。


このようにヘーゲルは労働が個別的意識にとって重要な行為だと考えているのですが、
それが欲望と享受をつなぐものとして現れていることは無視できません。
欲望と労働と享受はセットとなっているのです。
そのため、労働にとりわけ高い価値を与えているのかどうかは確定しきれないように思えます。
もちろん、主人と奴隷の弁証法で考えれば、欲望を享受するのが主人であり、労働は奴隷の役割になるので、
奴隷を上位に位置づけたヘーゲルは労働により高い意義を見出していると言うこともできます。
おそらく、マルクス主義系のヘーゲル読解ではそう思われているのではないかと想像します。
なにしろ、マルクス当人が『経済学・哲学草稿』でこう書いているのです。


ヘーゲルは労働を人間の本質として、人間がみずからの存在を実証する本質としてとらえるが、労働の肯定面を見るだけで、否定面は見ない。労働とは、人間が外化という条件下で外化された人間として自分に向き合うことだが、ヘーゲルの認識し承認する労働は、もっぱら抽象的な精神的労働なのだ。(マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳:光文社文庫)

このように、ヘーゲルが労働を人間の本質としてとらえた、とマルクスは言っています。
しかし、僕が『精神現象学』を読んだ印象では、そう言い切れるような書き方をしているようには思えませんでした。
そもそも同書のその先で、マルクスは「人間の本質とは、ヘーゲルにとっては、自己意識に等しい」と書いていますし、
こちらの評価の方がマルクスの意図と独立した客観的なものに思えます。
不幸な意識においては、欲望と労働と享受はセットで語られていますし、
それらは非本質的なものとして「実体」である彼岸において廃棄されるべきものとされています。
ヘーゲルは欲望したものを享受する、現代的に言えば消費的な精神を、受動的なものとみなして、それ自体で存在しているものとは認めません。
ただ欲望し労働する存在としてしか自分を意識できない、言わば「頽落」した非本質的な状態でしかありません。
そのため、彼岸に位置する不変的なものとの分裂を生きるほかないのです。


ちなみに〈フランス現代思想〉に大きな影響を与えたと言われるコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』(1947年)にも、主奴論と労働についての重点的な記述が目立ちます。
とりわけ労働の意義をこう強調しています。


ヘーゲルによれば、語本来の意味の「労働」(Arbeit)とは、他者への奉仕において遂行される行動だけであり、これのみが本質的に人間的な行動であり、人間を人間たらしめる行動である。(コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』上妻精/今野雅方訳:国文社)

ヘーゲルが他者への奉仕労働が唯一人間らしい行為だと言っている、とコジェーヴは述べています。
僕にはその真偽まではわからないのですが、ヘーゲルが労働を重視したにしてもここまで言っているのかは疑問です。
コジェーヴもヘーゲルを初期マルクスと絡めて研究した人なので、ヘーゲルにおける労働の意義を意図的に拡大しているように感じました。
ちなみにコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』は、1933年から39年の間に行われた彼の『精神現象学』講義の筆記ノート(コジェーヴ自身が校閲済み)ですが、
この講義には錚々たるメンバーが出席していたようです。
バタイユ、ラカン、メルロ=ポンティ、カイヨワ、サルトル、クロソウスキー、クノーなどなど。
コジェーヴのヘーゲル読解が〈フランス現代思想〉に強い影響を与えたと言われるのも頷けます。


コジェーヴの講義では『精神現象学』の到達点を、フランス革命からナポレオン帝国の形成という実際の歴史と重ねていくという独自な解釈に貫かれています。
もちろん、ヘーゲル自身はそんなことは書いていませんし、研究者間の通説ですらありませんので、コジェーヴ独特の思想が入り込んでいると考えてよいでしょう。
日本では東浩紀が『動物化するポストモダン』(2001年)で、消費的生活の享楽に特化したオタクを「動物化」というコジェーヴ由来の概念でポジティブに示しました。
コジェーヴは弁証法的対立の消失した普遍的な等質国家(一億総中流!)の確立を「歴史の終わり」と考え、
それが「人間の消滅」をもたらして「動物化」を実現すると言っています。
『ヘーゲル読解入門』の脚注で、その「動物化」の現実的な例として「アメリカ的な生活様式」が挙げられています。


アメリカ的生活様式ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ(American way of life)はポスト歴史の時代に固有の生活様式であり、合衆国が現実に世界に現前していることは、人類全体の「永遠に現在する」未来を予示するものであるとの結論に導かれていった。このようなわけで、人間が動物性に戻ることはもはや来たるべき将来の可能性ではなく、すでに現前する確実性としてあらわれたのだった。(コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』上妻精/今野雅方訳)

要するに「動物化」とは消費者のことでしかないのです。
消費生活をコジェーヴが動物に喩えるのは、動物が自然と調和して本能的に自己のニーズを満たすように、
人間が資本主義社会と対立することなく、自らのニーズをただ満たすだけの消費生活を行う存在となるからです。
(誤解してはいけないのは、東は「動物化」にさほど批判的な意味を込めていないということです)


〈フランス現代思想〉が日本では消費資本主義と歩調を合わせただけの思想でしかないことは、
東浩紀や千葉雅也が浅田彰の後継者のように扱われたことでもハッキリしています。
いまだ日本の現代思想界隈ではポストヒューマニティとか言って、「人間の消滅」を語りたがっているので、
いかにコジェーヴ経由でヘーゲルの影響を受けている学者が多いかがわかるというものです。
ヘーゲルの形而上学的な概念論を批判するマルクスに影響を受けたはずの〈フランス現代思想〉が、
形而上学を無意識へと反転させて、似非科学(ソーカル事件)による宗教批判(脱魔術化)を意図しているうちに、
欲望と享受の消費資本主義へと取り込まれてしまっているのは、
それがヘーゲルから超越性を抜き取っただけの思想に成り下がってしまったからなのです。
それなのに日本のポストモダン思想売文家はヘーゲルとフランス現代思想の越境的な関係をほとんど語ることもできず、
フランス製タコツボ利権のために〈フランス現代思想〉のファッション化に明け暮れていました。
いまだ〈フランス現代思想〉にはオタクの自己肯定思想としての需要が残っているので、
細々と延命を続けていくことでしょうが、それは一億総中流という「等質国家」の幻想に踊った80年代バブルへのノスタルジーを超えることはできないでしょう。


媒介となる中間存在(メディア)の誕生

話をヘーゲルに戻しますが、不幸な意識においては、
欲望と労働と享受の消費生活によって意識が現実に満足しても、それはあくまで個別的で非本質的なあり方でしかありません。
もう一方の不変的な彼岸への意識こそが実在であり、個別的な意識は不変的なものの自己犠牲によって成り立つものです。
つまり、労働を介した消費生活の私生活的充実は、自分の個別性と対立する普遍的な彼岸によって可能になっているということです。
これを現代の消費資本主義に当てはめれば、自分が欲望する特定の商品を買うためには、その商品が一定の普遍的評価──「売れる」こと──が必要だということです。
どんなに自分が満足できる作品を享受したとしても、それをみんなが評価するようになることを望まざるをえないのです。
個別的な欲望が普遍性への志向から逃れられないのが不幸な意識です。
この点を指摘するだけで、いかに消費資本主義が「動物化」でも何でもないことがわかるはずです。
東は動物化したオタクを「趣味よりも薬物依存に似ている」と書いていますが、
そういう部分があるにしても、何やかんやオタクは売れているもの、つまり多くの支持を集めているものへの欲望に敏感だという点で、
ただ自己のニーズを満たす動物のようにはなれないわけです。
資本主義はこのような普遍化への欲望を利用して勢力を拡大してきました。
その意味で、消費資本主義における消費者という存在は、いまだ不幸な意識の別ヴァージョンにとどまるものでしかないと僕は考えます。


前の引用文に示されているように、不幸な意識においては不変的なものと個別的なものは互いに自身を断念することになります。
そのプロセスをざっと説明すれば、不変的なものは自身の無限性を断念して、有限で個別的なものによって自らを示し、
個別的なものは享受の「感謝」によって、意志による自発性を断念して、本質を彼岸へと捧げることになります。
これを消費資本主義に対応させると、普遍形態である資本が自己を断念して個別的な商品として現れ、
それを購入する消費者はそれが「売れる」ことによって自らの個別的選好を断念することになるはずです。
現代に置き換えてみると、この対立的かつ統一的な関係には中間的な媒介存在が欠かせないということがわかりやすくなります。


商品経済では個別的な商品が「売れる」ことで人々に一般化されていくのに、商品と消費者をつなぐ売る人(商人)が必要です。
とりわけ現代のような大規模な市場で商品が一般化をめざすなら、大規模なマーケティングを司る「広告媒体」が大きな役割を果たします。
(Amazonなどのインターネット通販のプラットフォームも広告システムの発展形と見なすべきでしょう)
ヘーゲルは不幸な意識が中間的な「媒語」によって間接的に結びつけられると述べています。
そもそも不幸な意識が不幸と呼ばれているのは、個別的意識が不変的なものとの関係が本質的だと思いながら、
現実の個別性にとどまっていることをみじめで不幸なことだと感じるからでした。
そこで欲望し労働する存在は、彼岸にある神の思し召しに「感謝」をもって従うことで自らに本質的なものを取り戻そうとします。
しかし、彼岸は労働する者にとって対立する位置(否定的な他者)にあるので、
第三項となる中間にある媒介(教会と司祭)を通じて神の意志に近づくことになります。


このような媒介を経た〔間接的な〕関係は、かくて一箇の推論シュルスである。個別的なありかたアインツエルハイトははじめ、自体ヽヽ的なヽヽものヽヽ〔不変的なもの〕に対して対立するかたちで固定されていた。当の推論のなかで、その個別性アインツエルハイトが他方の〔自体的なものという〕極と、第三項を介してのみ推理的に連結ツザメンシユリーセンされているのである。この媒語〔中間〕ミツテをつうじて、不変的な意識という極が非本質的な意識に対して存在している。(ヘーゲル『精神現象学【上】』熊野純彦訳)

こうして個別的なものと不変的なものは中間にある「媒語」(Mitte)によって「推理的に連結」されます。
この文を読んで僕は狐につままれたような気分になりました。
まず、この「媒語」って何だよ、という疑問がすぐさま起きるわけですが、
一般的には「媒語」は媒辞とも言われ、アリストテレスの三段論法で大概念と小概念を媒介する中間概念を言葉で表したものであるようです。
ヘーゲルは媒語が意識を意識として媒介するものなので、「意識をそなえた存在者ヴェーゼン」だとしています。
熊野純彦の訳書ではここでの媒語がカトリックの司祭を示しているという補足があります。
しかし、のちに見ていく疎外について書かれた部分では、媒語が言葉のことを指すようになっています。
労働について「否定的な媒語」と述べた箇所もあるので、媒語の意味を考えるのではなく、
区別された両極を媒介して統一をもたらす中間的なもの、つまりはメディアとして異質な両者をつなぐものだと考えればいいのではないでしょうか。


不変の神と個別信者の間を媒介する意識を持つ存在といえば、確かに司祭のことが思い浮かびます。
(預言者という考え方もありえる気もしますが)
これを教養の世界に転じれば、普遍的な学問と個々の人々とを媒介する役割は教師ということになります。
実際、コジェーヴは『ヘーゲル読解入門』で、哲学者を不変と個別を統一する「賢者」としています。
これを消費資本主義の世界に持ち込むと、前述したように売れ筋商品と消費者を媒介するマーケターや広告代理店になります。
著者と読者を媒介するのは書籍や雑誌であり、その生殺与奪の権を握る出版社ということになるでしょうか。
とりわけネット上のプラットフォームにおいては、おすすめ商品やおすすめ動画などをユーザーのビッグデータによってAIが割り出し、
目に見えないかたちで選択肢を狭められて選ばされる事態になっています。
AIがメディアの位置を奪い取ることで、消費者は普遍性へと接続する機会を奪われ、
鏡に映る自分自身へと固着し続ける「メディア奴隷デジタル・ナルシス」の状態へと「頽落」させられているのです。
このあたりのことは、また疎外論の考察を終えたときに触れることになると思います。


このように見ていくと、主人と奴隷の「弁証法」という呼び方は、あまり適切と言えないことに気づくことになります。
弁証法による対立の統一には、どうしても第三項となるメディア的存在が必要になるのです。
主人と奴隷にはそのような統一の契機がありません。
(だからこそ階級闘争との類似が取り沙汰されるのです)
統一の契機となる第三項が現れるのは不幸の意識においてなのです。
ヘーゲルによれば、キリスト教の意識によって初めてメディア的存在が力を持つことになり、
暴力による大衆支配に代わる、個別性に依拠した大衆の自発的な隷属を引き出すことを可能にしたのです。
ジュディス・バトラーは博士論文を基にした『欲望の主体』(1987年)でヘーゲルを扱っていますが、
そこで日本の〈フランス現代思想〉学者が誰一人疑わない、フーコーの「主体とはSubjectの謂であって、権力に服従する主体である」という発想が、
ヘーゲルの不幸な意識から発していることをそれとなく示しています。


主人と奴隷の章の一見解放的に見える結論を称える人々は、たいてい不幸な意識の章を顧みようとはしない。不幸な意識でヘーゲルは、ある主体の構造を提示している。それは、主体化/隷属化subjectionが一つの心的な現実リアリティとなり、抑圧それ自体が心的な手段によって明確化され固定化されているような主体の構造である。(ジュディス・バトラー『欲望の主体』大河内泰樹ほか訳:堀之内出版)

〈フランス現代思想〉のヘーゲル受容にコジェーヴが大きな役割を果たしたことはすでに述べましたが、
もう一人、忘れてはいけないのがフランス語版『精神現象学』の翻訳者だったジャン・イポリットです。
イポリットが主催していたヘーゲルの授業に時々参加していたのがフーコーでした。
フーコーは「服従する主体」について司祭への告白という行為を取り上げ、司祭型権力(牧人権力)というモデルを提示したのですが、
このモデルのルーツが『精神現象学』の不幸な意識にあることは想像に難くありません。


前述したように、司祭というものは数あるメディア的存在の一つの姿です。
〈フランス現代思想〉の影響下にあって、主体を司祭型権力に「服従する主体」として批判する人たちは、
西洋の流行思想への媒介者の顔でメディアに登場したり、ネット上に数多く存在するオタクたちのインフルエンサーを気取ったりして、
現代の司祭を演じている方々はもちろん、そういう人々の著作を喜んで購入して「服従する主体」=消費者についても批判したらどうなのでしょう?
もちろんそんな人は見たことがありません。
むしろ自分が「著者」=司祭という権力者であることを誇り、おごりを隠すこともなくSNS等で権力を持たない批判者=異端からの被害を訴えて、自らに「服従する主体」の支持を集めたりして司祭型権力を貪っています。
フーコーの司祭型権力とは、つまるところメディアとは権力なのだという話なのです。
日本でメディア露出に節操なく励んで、〈フランス現代思想〉を援用して主体批判をしている学者や批評家のほとんどは、
表層的な知識しか持たないインチキだと僕は思っています。


推論が構成するネットワーク

先程の『精神現象学』の引用文で、媒語の存在とともに注目しておきたいことに、「推論」による推理的な連結があります。
疎外とはあまり関係がないと思うのですが、この部分がヘーゲルの論理学的アプローチと関係していることにも触れておきたいと思います。
ヘーゲルが推理について正面から取り上げているものに、『大論理学』の第3巻「概念論」にある推理の章を挙げることができます。
ここでヘーゲルは個別と普遍に分裂した概念を、媒語(媒辞)を介した推理によって統一し回復することについて語っています。
主語=個別で述語=普遍、それをつなぐ繋辞(コプラ)は媒語として置き換えることができます。
そこでヘーゲルは「すべての理性的なものは一つの推理である」と述べています。
推理とは理性的なあり方なのです。
実際、『精神現象学』でも媒語による推理的な連結が語られたところで自己意識の章が終わり、そこから理性の章へと接合していきます。
推理が示す媒介構造は、個別が特殊を介して普遍へと結びつくモデルで示されていますが、
このモデルはおそらく田辺元の「種の論理」にも影響したと思われます。


推論というテーマに注目するなら、ヘーゲルを再評価したロバート・ブランダムについて書いておくべきかもしれません。
マクダウェルとともにピッツバーグ学派として知られるブランダムは、
リチャード・ローティの弟子にあたり、アメリカのネオ・プラグマティズムの思想家の一人として数えられています。
ローティは多彩な思想家ですが、彼の思想の特徴には反表象主義があります。
ローティの言う「表象主義」とは、デカルトからカントに至る哲学的な偏見のことで、
人間の精神(言語など)が「自然の鏡」として、世界をそのままの姿で映し出す(表象する)という考え方です。
彼の表象主義批判はデカルトからカントに至る認識論だけでなく、
分析哲学の論理実証主義的な言語分析にまで及んでいる点で、広い視野を持っています。
個人的に興味深いのは、ローティがウィルフリド・セラーズを参照しながら、
科学によって表象された客観的な世界像を神の世界創造の模倣だとして、科学が神の死後の空座を埋めるものになっていると指摘していることです。
こうしてローティは科学が文学の一ジャンルでしかないと主張するのです。


ブランダムもローティと同じく表象主義には批判的です。
そこで彼は表象主義のパラダイムに代わるものとして推論主義という立場を提示します。
ブランダムは『推論主義序説』(2000年)で、ヘーゲルの理論を「合理主義的なプラグマティズム」だとし、
「ヘーゲルは、何ごとかを述べ、何ごとかをなすことがいかなることであるのかを理解しようとする際、理由ヽヽの文脈ヽヽヽに最高の地位を与えたのである」と述べています。
ここでブランダムが言う「理由の文脈」は、セラーズの「理由の空間」を踏まえたものです。
(ブランダムは自らを「左翼セラーズ主義」と呼んでいたようです)
セラーズは個々人の認識というものが集合的に属している社会的領域において、
その認識が正しいか否かという規範的な判定をする「理由の空間」を想定しました。
彼らが問題にしているのは、
表象主義(とその延長にある科学的客観性)では、認識の正当性を確保できないということです。
認識の正当性は、それが属している「概念のネットワーク」を規範として参照することで確認されるのです。
ブランダムは言語使用において推論的に形成された信念が、対話によって交換され承認される「理由づけの言語ゲーム」を構想しました。
この話も面白いのですが、ネオ・プラグマティズムについては稿を改めて書くべきものでしょう。
ここではヘーゲルとブランダムの関連について、伊藤邦武『プラグマティズム入門』(2016年)からの引用を示すにとどめたいと思います。


われわれの発話や言表の客観性や真理性を支えているのは、アプリオリな形式的原理であるよりも、複数の間の人間、「私と汝関係の下での実践」である。真理が社会的実践から生まれるというのは、カントの超越論主義を批判したヘーゲルの根本的着眼点である。それゆえ、形式的原理を実践的規範の明示化と見るブランダムの真理論は、ヘーゲル的な真理論であるというわけである。(伊藤邦武『プラグマティズム入門』ちくま新書)

ブランダムは真理をトップダウンではなく、語用論的な言語実践からボトムアップで成立するものだとしています。
主張の理由づけゲームという合理的な実践を支えるものが、『精神現象学』でヘーゲルが行った個の感覚的確信から絶対知へと至るボトムアップの哲学だったのです。
現代思想の中でも、フランスとアメリカではヘーゲル受容に大きな差があるのですが、
日本では現代思想=〈フランス現代思想〉という出版マスコミ主導の商業主義が横行したために、それを知る人はあまり多くないように思います。


ようやくこれからヘーゲルが疎外について書いた部分へと入ることができそうです。
しかし、残りの紙幅を考えると中途半端になるので、次回の【その4】に回そうと思います。
気がつくとマルクスについて書こうと思って始めたのに、ヘーゲルについて予定をはるかに超過して書いていることを意外に思います。
しかし、重要でないことは書いていないと思いますので、読者の皆様にはまた次回までしばらくお待ちいただけると幸いです。


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