南井三鷹の文藝✖︎上等

Home > ブログ > 【評論】芸術疎外論 > 芸術疎外論【その4】前編

芸術疎外論【その4】前編

「他者」を否定するオタクたち

前回はヘーゲル『精神現象学』の「自己意識」の章に出てくる「不幸な意識」を中心に見ていきました。
不幸な意識ではキリスト教の精神が描かれていたのですが、
そこでは理念と現実、彼岸と此岸に分裂した意識を統一することが課題でした。
分裂した両者は「媒語」によって、いったん推論的に結合されて、次のステージである「理性」へと至ります。
「理性」の章は割愛しますが、その後には「精神」へと段階的に発展していくことになります。
『精神現象学』で疎外が語られるのは、「精神」の段階になってからです。


理性が精神となるのは、「いっさいの実在性である」とする確信が真理ヴアールハイトまで高められたときである。つまりその場合の理性は、じぶん自身をみずからにとっての世界として、また世界をじぶん自身として意識することになる。(ヘーゲル『精神現象学【下】熊野純彦訳)

長谷川宏は『ヘーゲルを読む』(1995年)で、ヘーゲルの「精神」を人間が集まって作る共同性だとして、
「精神はそういう共同の生活や共同の世界のうちにやどる」と述べています。
フレドリック・ジェイムソンも『ヘーゲル変奏』(2010年)で、ヘーゲルの「精神」には「集合性の含意がつねに込められてい」るとしています。
「精神」とは民族精神などのように、集合的・共同的なものを言うのです。
つまり引用文にある、自分が世界であり、世界が自分であると意識する、という内容は、
個々の人が個人でありながら、他の人々と共にある共同存在でもあるさまを表しています。
ここでヘーゲルは共同体論に踏み込んでいくわけです。


このようなヘーゲルの共同体論を取り扱う場合、その前提となる共同体と個人の関係が、
そもそも西洋と日本とでは全然違う、ということを考えておく必要があります。
それを無視してしまうと、個と共同性の統一のあり方について、誤ったヘーゲル理解に陥る危険が出てきます。
たとえば自分と世界が一体である、というアイデアを日本の現代思想の関心で考えると、
ライトノベルやマンガ・アニメで展開された「セカイ系」の作品群が思い起こされます。
「セカイ系」に分類される作品は、基本的に主人公とヒロインとの二者関係だけで展開します。
少女マンガに必須の「恋敵」のような存在がいないのが特徴です。
その世界設定の多くはSF的なものになっています。
たいていヒロインが世界の命運を握る戦闘美少女という設定になっていて、
私的な恋愛がそのまま黙示録的な世界へと接続されるのです。
(それをマイルドにして一般にウケたのが新海誠の諸作品ですが、この源流には村上春樹の作品世界があると言えます)
「セカイ系」は萌え的な自意識を世界へと接続する直接性に特徴があり、
中間的な媒介性による反省を重視するヘーゲルとは、世界や共同体との関係の仕方が異なります。
しかし、僕は「セカイ系」の自意識劇とヘーゲルの「精神」を比較することに意味があると考えます。
「セカイ系」は東浩紀以後のサブカル評論の言葉であり、当然ながら〈俗流フランス現代思想〉と深い関係があります。
どうして〈フランス現代思想〉が日本で俗流化(=商品化・オタク化)し、
そのようなサブカル的自意識として流通したのかを考えるためにも、ヘーゲル思想との対比が重要になるのです。


村上春樹や〈俗流フランス現代思想〉(東浩紀)などの象徴である「セカイ系」の欲望は、
サブカル以上のものでなく、文学や思想と呼ぶことは妥当ではありません。
なぜなら「セカイ系」における直接性は、実は日本的な「家」制度を前提としたものでしかなく、
自分にとって不都合な「他者」を抹消する欲望を隠し持っているからです。
自己都合で「他者」を同定し排除するサブカル=オタク的な欲望こそが、
現在進行形の現象のみを価値として、「いま、ここ」に対する批判をタブー視し、
正当な批評までを抹殺することになった原因だと僕は思っています。
強調しておきたいのは、現代においてオタク批判をしない批評は、真の意味で批評とは呼べないということです。


オタクの定義は難しいところですが、まず挙げたいのは絶対的に内輪原理に貫かれているということです。
サブカル作品にありがちなのは、いつも同じメンバーが仲間を構成し、その人脈的安定性を基盤として流動的な「敵」と戦うという設定です。
それは家族共同体に近似するものです。
そもそもオタクという語は、彼らが相手を「お宅は〜」という二人称で呼び合うことから来ています。
少し考えればわかることですが、オタクとは「家」のことです。
個人と個人の結婚が、ナンチャラ家とナンチャラ家の結婚式になる「家」制度の国を前提とした呼称であることには不思議なほど注意が払われてきませんでした。
「家」を単位とした共同存在は近代的個人ではありません。
つまり、オタクとは「家」制度に依拠した「世間」的存在なのです。
当然ながら精神性だけを取り出せば、その内実はポストモダンの現実ではなく、虚構のプレモダンにロマン的に憧れる存在でしかありません。


ただ、オタクが「家」制度の住人であることがわかりにくいのは、その「家」が昔ながらの家族共同体ではなく、
市場を価値とした趣味的共同体であるということです。
しかし、オタクにとってそうして成立する趣味的共同体が、「家」の代替物でしかないことが問題なのです。
それが「家」の代替物であることはニュアンスでしか伝えられませんが、
趣味対象を領域的・場所的に捉えて、その「想像の共同体」に所属しメンバーに認知されることを重視する傾向を挙げることができます。
家族的な居心地の良さを求めるために、批判に対してアレルギー的に反応することがよくあります。
(そのため批判に対してのリアクションは論理的ではなく、認知や承認をめぐる言説ばかりになります)
僕はオタクの趣味的共同体を「家」制度の延長にあるものと考えています。
彼らが市場原理に依存した消費行為によって趣味の「家」を形成していることは、無視できない要素です。


家族共同体と言えば、高度経済成長に見られる冷戦体制依存の日本経済の成功を受けて、
終身雇用・年功序列を基盤とした日本的経営が家族主義的な成功モデルとしてもてはやされました。
終身雇用は帰属共同体の固定化を、年功序列は封建的な上下関係をもたらしたわけですが、そこに家族共同体らしさが強く現れていたように思います。
しかし、バブル崩壊以後、現在にかけて企業の雇用は非正規の比率が高まり、
企業を家族のアナロジーで語ることはもはや不可能になっています。
「家」制度は僕が「天皇制」と呼ぶ日本型統治システムの重要な基盤です。
バブル崩壊後、日本の経済衰退を表す「失われた20年」がいつの間にか「30年」に延長しても、一向に経済が上向く気配はありません。
なぜなら、経済衰退は戦後日本社会の「天皇制」統治システムとの対決によってしか解決できないからです。
今やGAFAに代表される世界的企業は国家共同体を凌ぐ力を持っています。
そのような経済情勢によって「天皇制」の基盤が崩壊しつつあることを、日本人自身が受け容れられないうちは、状況は何も変わらないでしょう。


僕は天皇の原型が、外的圧力を内的に象徴化するシャーマン的存在だと考えています。
つまり、死や大陸という「外部」を内面化する働き(ある種の翻訳行為とも言えます)を担っています。
その象徴化(=形式化)によって、外部を内部化して処理すると同時に、内部事情によって外部性を水面下で排除することをも可能にするのです。
その意味で、「天皇制の精神構造」には、内部原理である「本音」と外部を形式化した「建前」の使い分けが備わっています。
明治以後、近代日本は西洋文化を積極的に摂取してきたように見えますが、
「和魂洋才」という言葉があるように、もっぱら西洋文化を技術面や様式面において取り入れてきました。
カタカナ外来語を用いる動機も同じですが、「外部」の影響を技術的表層面に押しとどめることで、
精神面では日本の伝統的なあり方を本音として保存し、日本型統治構造とそれによって形成される日本型精神構造をできるかぎり維持してきました。
(とりわけ意味不明瞭なカタカナ語は、支配者層の示威かつ責任回避に用いられています)
しかし、満州事変以後の十五年戦争の敗戦によって、アメリカ左派由来の民主教育が行われることとなり、
精神面においても日本型精神構造の基盤が不安定になっていったのです。
しかし、その不安定さはすぐに露見することはありませんでした。
日本型企業経営の成功によって、「家」制度的な支配構造が保存され、日本型精神構造も企業倫理のかたちで生き残ったからです。
これにトドメを刺したのが第二の敗戦とでも言うべきバブル崩壊に象徴される経済敗戦です。
経済衰退は企業に支えられた「家」制度の支配構造の衰退を意味します。
こうして「家」制度を封建国家の復活によって立て直そうという勢力が、憲法改正を掲げるようになったのです。
しかし、現代日本の本質的な課題は、明治以降の「和魂洋才」スタイルはもう通用しないということにあるのです。


日本の経済敗戦はだいたい1991年から1993年くらいだと考えられます。
ソビエトを中心とした社会主義支配が崩壊した時期とほぼ一致します。
前述しましたが、日本の右肩上がりの経済成長は冷戦体制の恩恵において成立していたので、
社会主義陣営が敗北したことで、皮肉にも日本経済も敗戦を迎えることとなったのです。
当然ながら、この事態から立ち直るためには、戦後的な日本的経営(業界内の閉鎖的馴れ合いによる横並び談合経済)と決別する必要があるのですが、
過去の成功を客観的に分析できない日本人は、自らに奢り、自らを慰撫し、
「和魂洋才」の天皇制システムへと逃げ込むようになりました。
表層でグローバルスタンダードを受容しながら、精神的には「家」的な内輪の閉鎖性による甘え構造(居心地の良さ)をどこまでも拡大するようになったのです。
〈俗流フランス現代思想〉とサブカル的オタク文化は、このような腐敗した現代的状況の完全な写し鏡となっています。


たとえば政府の公共事業という枠内世界に参加して利益を得よう、という経営スタイルを思い浮かべてください。
ここで利潤を獲得するには、何より最初に枠の中の一員になることが肝要です。
政府が想定する内的世界の一員になることが、商売の鍵を握るのです。
たとえば国家から補助金をもらっている大学を考えてください。
日本では国公立はもちろんですが、私立大学の大半も国家から補助金(私学助成金)を交付されているのですが、
この金によって大学が文科省の管理に従わざるをえない状況になっているのは想像に難くありません(参考記事)。
マスメディアで商売している作家たちも、すぐれた内容の本を書くよりも、メディアが仕事を依頼する「著名人」の一員になることが最重要課題になっています。
このように、日本の各種業界は内輪人脈の閉鎖性に支えられている面が強いので、
内輪世界の一員として承認を受けることが、商売の才覚よりずっと重要になってしまうのです。
そして、その一員から外れてしまうと、存在の維持が困難になるのです。
(新型コロナで不況に喘ぐ事業者を救う「GoToキャンペーン」を考えてみればわかることですが、
キャンペーン対象の事業者として政府に承認されるか否かの差は、死活問題になりかねません)


オタク文化にも同様の構造があります。
オタクは自分の趣味を個人的に楽しんでいるように見えますが、実際はその趣味領域の市場で話題になっているものを絶えず気にしています。
なぜなら、他者の存在しない自分の「個室」で居心地の良さを確保したいわりに、孤独を自覚することに耐えられないからです。
そのため彼らの趣味的な関心は、「個室」の外にいる同様の関心を持つ仲間と共有されていなければならず、
「個室」にいる分、気づかないうちに取り残される不安が強いので、仲間の関心を絶えず確認することにも一生懸命です。
それぞれが「個室」にいるオタクが、同様のオタクの関心をどう確認するかと言えば、少数の仲間内や最近ではネットの口コミなどもあるでしょうが、
最も強い承認をもたらすのは市場における評価(要するに「売れている」ということ)になります。
オタクの欲望は、他者の存在しない居心地の良い内輪感覚を、外部(=市場)に承認してもらうことにあります。
これが母親に強く依存しているがゆえに、その承認を絶えず求めるマザコンの精神構造に近似することから目を逸らしてはいけません。
それがマザコン的であるというのは、労働という父性的で責任の伴う場(社会)からできるだけ逃走し、
家庭という母性的で責任のない趣味的領域にとどまろうとすることにハッキリ現れています。
彼らは社会的な労働の場という「現実」を「建前」として軽蔑し、「異世界」という趣味的領域を生きる自己像だけを「本音」として生きています。
しかし、その最大の目的は社会的責任からの逃避なのです。
生きる基盤が現実性を欠いているため、「異世界」において自己承認を求めることに躍起になります。
その結果、甘えが通用する内輪的なネットワークしか存在しなくなり、居心地の良さを優先するため切磋琢磨もなければ精神的成長もなくなります。


誰もが思い当たるこのような日本の惨状は、「和魂洋才」を旨とする天皇制と「家」制度をあきらめられないことからきているのです。
〈俗流フランス現代思想〉が大陸スタンダード思想の顔をしながら、根源的欲望がオタク的閉鎖性の肯定でしかないことも、
村上春樹の小説がレイモンド・チャンドラーのハードボイルドを好む顔をしながら、どっぷり戦後体制の根源精神である母性への甘え(アメリカへの甘えの置き換え)で満たされた癒し空間であることも、
どちらも日本の二度の敗戦をごまかすための「和魂洋才」構造の焼き直しなのです。
とりわけ彼らに都合が良かったのが、インターネットに代表されるメディア・テクノロジーの発達です。
これによって表層の技術面ではグローバルな発展に歩調を合わせつつ、精神面においては非現実的で自己愛的な本音を垂れ流すことができるようになりました。
スマホなどのネット端末が日本の「和魂洋才」の大義名分化に役立ったのです。
(こう考えると、「家」制度を揺るがす夫婦別姓に反対する保守勢力が、事務処理のデジタル化にだけ前向きなことが理解しやすいと思います)


天皇制の「和魂洋才」システムを理解することができれば、僕が自称保守の右派勢力とポストモダン左派勢力が同根だと主張する意味がわかるのではないでしょうか。
「和魂」と「洋才」のどちらを重視するかに違いがあるだけで、どちらも「和魂洋才」の構造に依拠している点で違いはないのです。
自称保守は日本の経済敗戦を中国や韓国の台頭の仕業であるかのように矮小化し、
日本型精神構造を廃棄(Aufheben)してグローバルスタンダードへと適応することを拒み、
危機に瀕した日本型統治構造や精神構造を保存することを目的としています。
そのため、戦後のアメリカ支配は左派的なものであるという一面的な解釈をし、
中韓と左翼を攻撃すれば時計の針を戻せるかのような愚かな錯覚を生きています。
つまり、保守の左派攻撃は錯覚を事実と思い込むための自己都合で展開されているのであって、
本質的に両者は対立しているわけではないのです。
結局は右も左も建前としてのグローバル経済には批判的であり、本音では閉鎖性に依存した日本型精神構造を肯定しているのです。
だから、どちらの勢力も内輪的であり、「外部」を排除する性質を持っています。


「家」制度という天皇制イデオロギー

僕がこのような話をしたのは、グローバル資本主義の批判をするだけなら誰でもできる、と言っておきたかったからです。
マルクスの『資本論』だけを取り上げて、資本主義システムの批判をしたならば、現状ではグローバル経済の批判に行きつきます。
しかし、日本においてグローバル経済批判は本音において右も左も賛同するものです。
マルクスという名前にアレルギーを感じるであろう保守も、その内容に関してはおそらく強固に反対しないと思います。
逆に、僕のように日本的精神構造を明らかな標的として批判すれば、右からも左からも攻撃を受けるでしょう。
この国で実際に効果のある批判をしたい場合は、資本主義批判と同時に日本型統治構造である天皇制と、
それによって形成された日本型精神構造を同時に批判する必要があります。
僕が見るところ、現在これを本気でやっている人はいません。
例えばマルクス・ガブリエルがGAFAやグローバル経済の批判をしても、日本人は好ましく受け容れるわけです。
なぜなら、彼は戦時ドイツ体制の批判はしても、日本の天皇制構造の問題点についてはど素人であり、そこを批判される心配がないからです。


とりわけ用心したいのは、安直に「家族」や「遺伝子」を持ち出す思想です。
以前、柄谷行人と浅田彰の対談で、天皇制が生物学と親和的であるとされていましたが、
実際は生物学というより、権力の源泉からの「物理的距離の近さ」に根拠を持っていると僕は感じています。
言うまでもなく、規範的な家族というのは同じ家屋に住んでいる存在で、生活において物理的かつ人脈的距離の近さがベースとなる共同存在です。
生物学的に言えば、遺伝子間の距離が近い存在を家族と定義することも可能です。
外の世界に対して内的で閉鎖的な性質を持つ共同体が、家族をモデルとするのはある意味で必然と言えるでしょう。
ちなみに現代において物理的距離が最も近い存在は、スマホなどの携帯端末(でつながる相手)になりつつあります。


天皇制も同様の原理です。
外の巨大な大陸文化に対抗する内的閉鎖的共同体として、最小単位の「封建的家族」を同心円状に拡大して共同体とするのが天皇制統治の特徴です。
(僕は寡聞にして知らないのですが、「首都圏」という言葉を普通に使っている先進国はどのくらいあるのでしょうか。
皇居を中心として同心円状に圏域を拡大する発想がそこにはあります。
その中心には天皇一家という家族がいるのです)
注意しておきたいのは、閉鎖的でありながら同心円状に拡大することができるというメカニズムです。
日本型ファシズムの分析では「部分」と「全体」の一致が指摘されていますが、これは閉鎖性を前提とした共同体である天皇制の基本構造です。
たとえ「部分」であっても閉鎖的な共同体であれば、その中の世界は擬似的な「全体」となります。
そうなれば「部分」と「全体」が一致したとしても何の不思議もありません。
前述の「セカイ系」の構造は、このような天皇制メカニズムによって成立しているのです。
(たとえば新海誠のアニメ映画『君の名は。』では、主人公の男女は「恋愛」関係ではなく、神の配慮で結びつけられた前近代的な「家族」関係にあります。
入れ替わりによって2人の間にプライバシーが消去される設定が、前近代性にルーツがあることを示しています)
この天皇制の構造を、「部分」と「全体」が同じ構造を持つフラクタル構造として描くこともできますが、
重要なのはそれが閉鎖性によって可能になっているという点です。
つまり、天皇制の社会構造や精神構造のコアには閉鎖性があるということです。
この強い閉鎖性への依存が、「家」や「世間」または「国家」という共同体内部に強力な同調圧力をもたらします。
内的閉鎖性への強い希求は、外部の排除への強い衝動と結びついています。
天皇制の構造には本質的に閉鎖性による排除の暴力がついてまわるのです。


僕はもう読まないことにしているのですが、オタク系ポストモダン思想家の東浩紀が『観光客の哲学』(2017年)で「家族の哲学」などというものを書いていたのではなかったかと思います。
僕には彼が家族と言い出すことに全く意外性はありませんでした。
天皇制の基盤は家族的閉鎖性であり、そこにネトウヨとポモオタの結節点があるからです。
だいたいオタク向けサブカル作品には、住居の物理的近さを恋愛へと錯視する設定(つまりは幼馴染や妹萌え)が多すぎますよね。
ここにも「家」に規定された人間関係が確固として見られるわけですが、
「家」が母性的なものと深いつながりを持っていることは想像に難くありません。
ここにマザコンの変奏を恋愛と思い込んでしまう契機があるわけです。
さらにインターネット端末との物理的距離が近い人が、ネットを介して擬似家族を実現することが可能になっているのが厄介です。
ドメスティックな天皇の赤子たちは、建前としてグローバリズムの権威を利用するのは大好きですが、
本音では居心地の良い閉鎖空間を脅かすグローバリズムを拒否したくて仕方ないのです。
これが「和魂洋才」でなくて何なのでしょう。
(観光客というものが表層面でだけグローバルな世界を受容する「和魂洋才」的な二重存在であることを一応指摘しておきます)
僕はそのような人々とは明確に違う立場を取るべきだと思っています。
天皇制による統治構造と精神構造の批判はそのための重要な手段です。


念のためにもう一度整理しておきますが、
グローバル世界の圧力を嫌悪し、妄想で構成された国家の威信に依存する保守のあり方と、
公共労働を嫌悪し、私的な趣味領域(=異世界)に引きこもるオタクのあり方は、相同的なフラクタル構造をしています。
フラクタル構造であれば、より大きな「全体」についての言説の方が強いのは当然で、そのため左は右に勝つことができません。
現在の出版業界が喜んで本にしているのは、21世紀型の「和魂洋才」の構造に依存したものばかりです。
簡単に言えば、どれも閉鎖的な世界で自己満足を貪るものでしかありません。
文学業界などは、作家と編集者が儀礼的な内輪空間を形成し、閉鎖的な利権の囲い込みを平気で行っています。
誤解がないように付け加えておきますが、僕は「家族」的なあり方そのものがいけないと言いたいのではありません。
家族というより「家」の思想が、業界の閉鎖性と人脈の内輪性を肯定し、封建的価値観や権威主義の温床になっていることを問題視しているのです。
(内輪でしか通じない意味不明瞭な造語(ジャーゴン)で語り合っている集団などは、建設的な未来のために唾棄すべきです)
僕は公的領域と私的領域を明確に分離し、公的領域では行為者の成果と責任が明確に評価される社会の実現を望んでいます。
問題行為や暴力行為を行なった企業や人物に説明を求めても、返答ひとつよこさないのが当然のような社会など、衰退した方がいいと思います。


人倫的共同体としての家族

さて、ようやくヘーゲルに話を戻すことができそうです。
『精神現象学』の「精神」の章では、共同性が考察されています。
ヘーゲルが考える共同体を見ていく前に、日本の共同体がどのようなシステムになっているかを見ておく必要があって、
天皇制の統治構造と精神構造に触れることになりました。
ここからはヘーゲルの方にシフトしていきましょう。


ヘーゲルがここで考察している「精神」は、歴史的・共同体的なもので、自己意識が自己を超え出て現実と関係した状態です。
『精神現象学』期のヘーゲルは個と共同体の理想的な調和を、古代ギリシアのポリスに見出して、
その成員を結びつけているものを人倫的実体と呼んでいます。
人倫(Sittlichkeit)という言葉に僕はまだ馴染めないところがあるのですが、慣習(Sitte)に由来する言葉で、共同体的な規範を意味します。
カントが重視した道徳(Moralität)は個人的な倫理を示すので、この点からヘーゲルが共同体の原理を客観的なものとして重視していたと考えることができます。
(ヘーゲルの他の著作では「客観的精神」という呼び方がされていたりします)
後期はそうでもないようなのですが、『精神現象学』の時点では、ヘーゲルが個人の自立的なあり方より共同体の秩序にこだわっていたのは確かです。
しかし、ヘーゲルを反個人主義の国家主義者のように考えるのが妥当でないことは、個人主義のアメリカでヘーゲルの再評価が起こったことでも窺い知ることができます。
じっくりと読んでみればわかることですが、ヘーゲル思想の射程はとてつもなく広大で多面的です。
ヘーゲルが共同体的な精神を重視したのは、それが「現実的」であることを重視したからです。
ヘーゲルにおける共同体的・歴史的なアプローチは、客観的・現実的であることを目指すがゆえである、ということはまず確認されるべきことだと思います。
その意味では、自称保守のようなロマン主義的で非現実的な方向へと向かう反動としての共同体的・歴史的な発想は、
ハイデガー思想とは親近的になりえてもヘーゲル思想の本質とは相容れないものだと言えるでしょう。


ヘーゲルが個別的なもの(個別性)と不変的なもの(普遍性)を統一することを課題にしていたことは、前回詳しく見たところですが、
それがここでは個別性と共同体(民族としてヘーゲルは捉えています)の関係へと描き直されます。
こうしてヘーゲルは彼岸にある神の国の現実的代替物として、人倫的共同体を見出すことになります。
その理想が古代ギリシアのポリスに見出されるわけですが、『精神現象学』ではそこから中世、近世と進行する歴史が、人倫の喪失段階として把握されています。
実は人倫について述べた部分で、ヘーゲルは家族を取り上げているのです。


『精神現象学』でヘーゲルが語る家族共同体は、天皇制が基盤としている家族とはだいぶ違います。
正反対だと考えることもできます。
たとえば自ら「世間学」を提唱している佐藤直樹の『なぜ日本人は世間と寝たがるのか』(2013年)では、
日本の家族と対立するものとして西洋的な「近代家族」を取り上げているのですが、
そこで佐藤が「近代家族」のモデルとしているのがヘーゲルの家族像なのです。
つまり、佐藤はヘーゲル的な「近代家族」と日本の家族を対立させているのですが、これはなかなか面白い指摘だと思いました。
とりわけ佐藤が問題にしているのは、日本の家族には「私的領域と公的領域の分離がなされていない」という点です。
日本の「家」は「世間」の出先機関として家族に介入する、と佐藤は述べます。


「世間」は家族の外部にあって、家族をとり囲んでおり、家族に介入する。「いえ」は、家族にとって、いわば「世間」という中央官庁の指示を忠実につたえる出先機関のような役割をはたしている。(佐藤直樹『なぜ日本人は世間と寝たがるのか』春秋社)

佐藤は家族という私的領域に世間という公的領域が介入してくるため、私的領域と公的領域の分離が不明瞭だとしているのですが、
僕の描く天皇制モデルでは、家族と社会(世間)はフラクタル構造を持つアナロジカルな存在です。
家族を拡大すると社会と一致する同心円状の構造になっているため、家族に公的なもの(世間)が介入するだけでなく、
公的領域も完全に公的ではないため、私的な都合が無制限に流入することを許してしまいます。
国政を司るはずの安倍政権で、能力に乏しい人を自己都合で大臣に起用して騒ぎになったので、これについては誰もが思い当たることだと思います。
私的な人脈主義によって公的な利権を内輪で独占する腐敗構造は、天皇制による公的領域と私的領域の「曖昧化」の弊害と言えます。
佐藤は「世間」を公的領域だと考えているようですが、僕はそう思いません。
家族が公的かつ私的な曖昧領域であるように、世間も公的かつ私的な曖昧領域なのです。
だから、日本人が天皇制のなかで私的な個人であろうとすると、家族からも孤立する「ひきこもり」になってしまうのです。
こう考えれば、「セカイ系」の欲望が何を排除したいのかが理解しやすくなると思います。
家族の形成を避けた異性との関係が、そのまま生きるか死ぬかの黙示録的世界に接合する設定は、
生きるか死ぬかの動物的生存をモデルとした、人間存在に欠かせない社会性そのものの排除にあるということです。
(このような社会性の嫌悪がポストヒューマニティ思想と妙な接合をしているような気がしてなりません)
日本のオタクが、父性的な社会的圧力との葛藤を避け続ける未熟な個体(責任能力に欠けた性的存在)でしかなく、
そのくせ単体で生存競争に勝つような動物的な逞しさも持たないため、
歴史的に天皇が担っていた母性的な社会的権威にどっぷり依存するしか能がないのはそのためです。


つまり、個人と社会の葛藤を乗り越えて自己を形成するヘーゲルの思想は、天皇制に育まれた日本のオタクの欲望とは真逆にあるということです。
反ヘーゲルの立場を取っている〈フランス現代思想〉を利用し、
社会との葛藤面を切り捨てた〈俗流フランス現代思想〉が、オタクの肯定をしただけに終わってしまったのはそのためです。
佐藤はヘーゲル的な「近代家族」が恋愛と密接な関係にあるとして、その「愛情原理」が経済的な市場原理に対抗する基盤になっているとしています。
「近代家族」を支える夫と妻の対等な恋愛関係ではなく、封建的な父子関係や母子関係を基盤とした日本の「家」が、
「世間」の介入を許すだけでなく、市場原理に対して無防備であるという考えは非常に興味深く感じます。
社会や家族を排除したオタクも市場原理の奴隷であるという点で、天皇制の共同体に簡単に包摂されるものでしかありません。


実際に『精神現象学』でヘーゲルが語る家族を見てみましょう。
ヘーゲルは家族共同体と国家共同体をともに人倫的共同体としています。
同じく人倫的ではあるのですが、家族は国家と対立するものとして位置づけられています。


家族は[人倫の]無意識的でヽヽヽヽヽ、なお内的な概念であるかぎりでは、[国家ポリスという]みずからを意識した現実と対立する。つまり民族が現実に存在するヴイルクリツヒカイト境位ヽヽとしては、民族そのものと対立している。いいかえれば直接的なヽヽヽヽ人倫的存在であるかぎりでは、[国家ポリスという]人倫に対立するのだ。後者の人倫の側は、普遍的なもののための労働ヽヽをつうじて、形成され、維持されているのである。(ヘーゲル『精神現象学【下】』熊野純彦訳)

ヘーゲルの対立軸は、家族が無意識的であり、(国家)共同体が意識的であるというところにあります。
すでに確認してきたように、ヘーゲルは否定性を伴う反省を通した間接的なあり方に価値を置いていますので、
家族共同体のような無意識的なあり方は、直接的すぎることが問題なのです。


ここでヘーゲルが言う国家共同体は、古代ギリシアのポリスが念頭に置かれています。
つまり、国家共同体と言っても、相当にエリート的で理念的なものだということです。
ヘーゲルは「精神」を民族と重ねてもいますが、これも生物学的なものというより理念的なものです。
同一性を持つ理念的共同体を現実に着地させたときに、国家や民族が呼び出されたのであって、
そもそも宗教的共同体の代替物であるという印象は消えません。
ここが非常に重要だと思うのですが、
ヘーゲルが宗教的共同体を国家共同体へと描き直す努力には、普遍性を「現実」へと着地させる目的があったということです。
引用文にもあるとおり、ヘーゲルはより普遍的な人倫的共同体を「現実」において実現するには、
「普遍的なもののための労働」を間接的手段とする必要があると考えています。
(ヘーゲルにおける間接的媒介は常に否定性が伴うので、ここで言う「労働」にも自己否定的な意味があります)
ここまで見れば理解しやすいと思いますが、家族共同体と普遍的共同体が対立するのは、
より普遍的なものへと接合しようとする「普遍性への意志」が意識的であるか無意識的かによるのです。


ヘーゲルの考える普遍共同体は、労働によって対象の持つ否定性との葛藤を克服した上に成立するものです。
自己否定的なものを乗り越えるには、大いなる苦痛が生じます。
その苦痛は理性をもってしか乗り越えられません。
そのため、意識的であることが重要になるのです。
普遍性は家族共同体のように無意識によって直接的に成立するものではありません。


共同体ヽヽヽとは上位の法則ゲゼツツであり、陽のもとであきらかに妥当しているゲゼツツである。その共同体ポリスはみずからの現実に生きたはたらきレベンデイツヒカイトを、統治ヽヽにおいて手にしている。統治にあって共同体は個体となるのである。統治とは、精神が自身のヽヽヽうちへヽヽヽ反省的にヽヽヽヽ立ちかヽヽヽえり現ヽヽヽ実とヽヽなったヽヽヽものであり、単純な[自己ヽヽ]を、人倫的実体の全体のもとで形成している。この単純な力であっても、実在ヴェーゼンに対してたしかに、みずからを分肢させて拡散するのを許容する。その結果それぞれの部分が存立し、固有の自立的存在フユールジツヒザインを手にする余地が与えられるのだ。(ヘーゲル『精神現象学【下】』熊野純彦訳)

この部分を読めば、ヘーゲルが普遍共同体の統治に、「反省」という葛藤のプロセスをなぜ導入する必要があったかが理解できます。
反省によって間接的に全体化した共同体は、全体を分解して拡散することを許容し、部分が自立的であることができるからです。
部分が自立を保ちながら全体と一致するためには、否定性との葛藤という苦痛を伴う反省的なあり方が欠かせない、というのがヘーゲルの達見なのです。
(個々への分裂をつなぎとめるために、共同体が祖国防衛の戦争を持ち出すという指摘も興味深いところです)


このようなヘーゲル思想と対比すると、天皇制国家の問題点というものがハッキリします。
天皇制のような家族共同体をできるかぎり同心円状に拡大する普遍性のあり方は、
家族的な人倫的共同体の巨大化でもあるため、西洋人が失われた古代ギリシアの姿をここに発見することにもなりえるのですが、
自然的で直接的であろうとするあまりに、極度に葛藤を避ける傾向(和を以て貴しと為す)があります。
葛藤の克服プロセスが理性的であることを鍛えるため、無意識を基盤とした家族的共同体では平気で非理性的なことが行われます。
〈フランス現代思想〉の無意識信仰に基づく理性批判が、いかに天皇制にとって都合の良いものであるかがおわかりになるでしょうか。
〈俗流フランス現代思想〉が擬似家族共同体を想像的に取り戻すオタク文化のポモオタを育てる結果になったのは、このような理由です。
当然ながら、想像的だったものが現実化すれば天皇制国家になりますので、ポモオタの進化形がネトウヨになるわけです。


また、天皇制では非理性的で封建的な要素を根強く残すため、部分の自立性は曖昧なまま全体に侵され、簡単に踏み躙られることになります。
大東亜共栄圏とか八紘一宇とか口では多様性の共存のようなことを言っていても、天皇制国家が認める多様性は封建的家族共同体が維持できる範疇を出ることはありません。
(八紘一宇は世界を一つの「家」にすることを意味します)
部分の自立性を認めない国家に、真の三権分立など機能するはずがないのです。
『なぜ日本人は世間と寝たがるのか』を書いた佐藤直樹は、日本には近代的な意味での個人が存在しないと言い切っていますが、
佐藤のような近代主義者に反発する意見は、当然ながらこれまでにも数多く存在します。
マーケットに生息する欲望主体でしかないものを「個人」と主張することもできるわけですが、
柄谷行人に倣って「単独」という概念で考えれば、世間と対立しうる孤独な個人など、日本にはほとんど存在しない(もしくは存在したら排除される)と言えるでしょう。
世間との葛藤を避けて、個室や個人メディアを使って趣味に興じる「個体」にとっては、近代性など批判された方が助かるのです。
彼らは共同体の持つ閉鎖性に依存しながら普遍性を志向するため、外部をうまく翻訳して取り込むことには非常に長けていますが、
そのようなマイルドなものしか享受してこなかったため、強い刺激に対してはすぐにあきらめて屈服してしまいます。


僕がここで弁証法の普遍共同体と天皇制国家を比較したのは、
この違いについて理解しておかないと、マルクスの疎外論を天皇制的な文脈で受容することになってしまう可能性があるからです。
つまり、否定性との葛藤から「逃走」して、直接的に普遍と一致しようとする「セカイ系」の欲望が、後述する疎外の克服のように見えてしまうのです。
家族を君と僕の二者に極小化し、社会的な葛藤要因を排除して、国家や世界と一体化してしまえば、
社会によって疎外される実感を持たなくてすみます。
しかし、それはグレートマザーと一体化する天皇制ファシズムの欲望に近接するものでしかありません。
(戦時国体では男は世界最終戦争を戦う戦士として、命を担保として大東亜帝国の欲望と一体化していったのですが、
「セカイ系」の主人公は世界最終戦争を女=母=アメリカに戦わせて、自分は傍観的位置にとどまろうとする、無力なフリをしたとんでもない卑怯者であるという違いはありますが)


集団(業界=家)と同一化した人々は、コミュニケーション不要な内的同一化でネットワークを形成しているため、
集団(業界=家)を批判する人をコミュニケーションの余地のない存在として暴力的に排撃します。
(こういう連中がことさらに「論理的(意味的)コミュニケーション」を否定しようとすることに注意してください)
内的原理に適応することを拒否し、葛藤を生み出す危険分子は、存在してもらっては困るのです。
共同体が衰退し存続が危険な状況になると、天皇制国家の部分たる「業界」全体を相手取った革命的な批評を書く人は、
誹謗中傷をする危険分子(テロリスト)として排除するというのが、閉鎖性を前提とする「家」制度共同体の「伝統的」なやり方なのです


0 Comment

Comment Form

  • お名前name
  • タイトルtitle
  • メールアドレスmail address
  • URLurl
  • コメントcomment
  • パスワードpassword