南井三鷹の文藝✖︎上等

Home > ブログ > 【評論】芸術疎外論 > 芸術疎外論【その4】後編

芸術疎外論【その4】後編

敵対性を前提とする一神教思想

ヘーゲルの共同体において、否定性を介した「反省」というプロセスが重要であることはすでに確認したとおりですが、
この否定性の導入のことをヘーゲルは「疎外(Entfremdung)」や「外化(Entäußerung)」という言葉で示しています。
法律用語のEntäußerungは財産などの「譲渡」を意味する語です。
ここから個人の意志を権力へと「委譲」する意味で用いられることもあるようです。


疎外の概念が登場するのは、古代ギリシア的な人倫共同体が没落して、ローマ帝国になぞらえられる「法支配」が成立するようになってからです。
そのプロセスに軽く触れておきます。
共同体は他の共同体を排除して独立を保ちます。
その戦いに備えて、共同体は自らの内部をワンチームにしようと「個体が個別化することを抑圧する」ことになります。
なぜなら、ポリス的な人倫共同体にも共同性と個別性の葛藤は存在するからです。
ヘーゲルがそれを男性原理と女性原理、年配者と若者の葛藤として描いたりするのも興味深いのですが、
祖国防衛戦争に突入すると、共同性の原理が強まって個別性を否定していく結果になります。
しかし、それが皮肉な結果を導きます。
祖国を守るのは若い個別の兵士たちです。
共同体の維持という仕事が、命を賭けた若い兵士の個別性をかえって輝かせることになってしまうのです。
こうして生き生きとした人倫的な共同性は没落し、個別的な個体が生き生きとする普遍的な共同体が成立します。
これを『精神現象学』では「法支配」の状態と呼んでいます。


「法状態」は普遍的な共同体とは言うものの、人倫から没落した状態とされているので、あまり評価される状態ではありません。
自然に規定された民族的統一体が、バラバラの点へと分解されてしまうことで、
形式的な普遍性が外部から統括するだけの「精神を欠いた共同体」になっているからです。


普遍的なものはアトムという絶対的に数多の個体へと分散し、この死せる精神が一箇の同等性ヽヽヽ平等さグライヒハイト]となって、そのうちではあらゆるヽヽヽヽひとびとヽヽヽヽおのおヽヽヽのの者ヽヽヽとして、つまり人格ヽヽとして通用するゲルテンのだ。(ヘーゲル『精神現象学【下】』熊野純彦訳)

バラバラになって原子化した個体は、個別的な「私」としてあるために人格的な承認を望むだけの存在となります。
「或る個体を人格ヽヽとしるしづけるとすれば、それは軽蔑の表現である」とヘーゲルが述べているように、
法状態にあって人格とは空虚な「一」とされています。
現代では自己承認が至上の価値となっていますので、人格的承認を没落した状態と捉えるヘーゲルの価値観が理解しがたいものに思えても不思議はありません。
ヘーゲルにとっては普遍とつながりえない個体は、神に見放された人と同じく、空虚な存在として捉えられているのです。


この後、ヘーゲルは「世界の主人」たる人格、すなわち皇帝について語ります。
個体はバラバラな原子(アトム)として存在することになりましたが、共同体に依拠する存在であることに変わりはありません。
そうなると、そのアトムを集約する1点が出現するようになります。


内容の自由な威力が規定されるのは、絶対的な数多性ヽヽヽへの分散が人格的な諸アトムにかんして生起しながら、その分散が当の規定性の本性によって同時に、唯一のヽヽヽ、もろもろのアトムにとって疎遠で、しかし同様に精神を欠いた点へと集中するにいたる、というかたちにおいてのことである。(中略)この唯一の点が「世界の主人」であり、その主人こそがこのようにしておのずと絶対的な人格、同時にすべての現存在をみずからのうちに掌握している人格であって、その人格の意識に対してはそれより高次のいかなる精神も現実に存在しない。(ヘーゲル『精神現象学【下】』熊野純彦訳)

法支配のモデルがローマ帝国であるということは、ここで語られている「世界の主人」はローマ皇帝のことになります。
「世界の主人」が多数の人々から疎遠な「唯一の点」へと集中されることになるのは、キリスト教を念頭に置いたモデルだからです。
法支配はあくまで一神教の世界として描かれています。
そのため、これをそのまま天皇制に適用することはできません。
天皇制は家族共同体の同心円的な拡大で成立しているので、世界の中心にはどうしても父と母(もしくは兄と妹)の2点が存在します。
伊弉諾イザナギ伊奘冉イザナミはその原型であり、将軍と天皇、アメリカ政府と日本政府という二重統治のスタイルがどこまでもつきまとうのです。
吉田孝『歴史のなかの天皇』(2006年)では、兄が王を務めて祭祀を妹が担う政祭の分化した王権を「複式王権」と呼び、
日本史にはこの構造が何度も現れるとしています。
興味深いのは、複式王権の伝統は王族の内婚化と関係しているという指摘です。
古代の天皇制では、異母兄弟と姉妹の結婚という内婚が珍しくありませんでした。


大王一族は、内婚化によって、豪族層の介入をしりぞけていく。王族の内婚化は古代エジプトにもあり、ひろく分布するが、中国の漢族のように氏族外婚性(clan exogamy)の社会ではありえない。漢族では「同姓不婚」(同じ父系一族の男性と女性は結婚できない)という社会規範が成立しており、王族の一族内の内婚は不可能であった。(吉田孝『歴史のなかの天皇』岩波新書)

内婚化とは、外部の血を排除して家族的血縁を純粋化するメカニズムだと言えます。
そう考えると、「同姓不婚」のような外部に向かってネットワークを拡大する志向は乏しいと考えられます。
複式王権はネットワークの拡大より、閉鎖的な安定性を優先する共同体システムなのです。


西洋の一神教モデルをお手本にして、日本的な二重統治の総合を目指したのが近代天皇制です。
天照アマテラスであり素戔嗚スサノヲである両性具有の存在が、広大な慈悲と統帥権を持つ近代天皇の理想像であったのです。
複式王権を単式へと変容させたことが、日本近代の領地拡大志向と関係している確信はありませんが、
近代天皇制の問題を考えるときに、このような権力の二重性の統合という要素は無視できないと思います。
日本型ファシズムの欲望をこのような兄と妹の一体化の面から考えることはあまりなされていないと想像しますが、
大衆レベルでは、この欲望が母子一体状態への回帰へと変奏されるようになったと僕は見ています。
「セカイ系」のルーツとも言われる『新世紀エヴァンゲリオン』が典型ですが、
サブカル作品には、オタクを母子一体状態への回帰へと誘い込みつつ、ラストでそれを拒否する倫理を示して踏みとどまるものが多くあります。
もちろん、オタクが魅せられているのはラストの倫理ではなく、それまでの母子一体幻想の方です。
このようなサブカルの「裏欲望」が、戦時天皇制へのノスタルジーへと接続することの論理的必然性は、天皇制という家族内複式権力システムを理解していないとわかりません。
繰り返しますが、ネトウヨとポモオタは表裏一体の関係にあります。
このような議論がなされないのは、今の知識人が「和魂洋才」の「洋才(表層)」を対象とした社会構築論しか視野にないために、
天皇制という本質論を侵すべからざる神域へと保存してきたからです。
ポストモダン的な社会構築主義は、永遠に表層上で展開される運命にあります。
(とりわけ本場の〈フランス現代思想〉が、無意識を善とする「性善説」であることには注意しておく必要があります)


さて、「世界の主人」の話に戻りましょう。


世界の主人が有する現実的な意識は、じぶんがなんであるかについてのものである。つまり世界の主人は、現実にかかわる普遍的な威力マハトについての意識を手にしているのであり、その意識がなりたつのは破壊的な暴力ゲヴァルトをふるうことにおいてであって、その暴力を主人は、みずからに対抗してくる臣下たちの「自己」に抗して行使するのだ。主人の威力とは[人倫的世界とはことなり]精神の一致ヽヽにあるのではないからである。(ヘーゲル『精神現象学【下】』熊野純彦訳)

ヘーゲルの描く「世界の主人」は臣下たちと敵対的関係にあります。
このあたりは確かに天皇制とは異なります。
ここでは精神の一致ではなく、暴力が優先されています。
『精神現象学』でヘーゲルは、矛盾や対立を統一する弁証法を繰り返し描き続けていますが、
めざす統一よりも、敵対的対立の状態を論理的かつ明晰に描くことに優れています。
これは葛藤を隠蔽する天皇制が圧倒的に苦手とすることでもあります。
ヘーゲル的弁証法に影響を受けた京都学派の思想を考えると、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一にしても田辺元の種の論理にしても、
否定性や敵対性がちっともリアルに捉えられていないために、統一が予定調和に終わっています。
ヘーゲルの「世界の主人」は、臣民が直接的に同一化できる天皇のような甘いものではありません。
「世界の主人」は人格ではありますが、現実に影響を及ぼす威力を持つ孤独な人格として、全ての人々と対立しています。
この対立関係から疎外という問題が生まれてくると言っても過言ではありません。
一神教の世界観は、この敵対的な対立を本質的な基盤としているのです。
(つまり、主人と臣下の間に本質的な対立を想定しない日本には、これまで真の意味での疎外という問題はなかったのです)
一神教の性質にまで考察を進めると大変なので、それは別の機会に譲ろうと思いますが、
その成立については、徹底された厭世観と来世におけるユートピア願望が影響していると僕は考えています。
このあたりは前回触れたヘーゲルのストア主義から不幸な意識に至る過程に対応します。
現世を徹底的に嫌悪し、そこに内在することを拒否する精神は、その外部である来世において現世をリセットしようと企てるはずです。
そうして成立した神は、人間世界のあらゆる問題をリセットできる威力を持つ超越性を体現するものでなくてはなりません。
神が人間世界と対立する独立した存在として現れるからこそ、彼岸において現世をリセットできるのです。


そう考えれば、あの世とこの世とを地続きのものと考える祖先崇拝などは、現世を否定する力を生み出しません。
言ってしまえばヌルい社会なのです。
祖先崇拝においては死は本当の意味で死ではありません。
別のフェイズに移行するようなものです。
天皇が依拠する外部というのも祖霊的なものです。
だから海の向こうの大陸という別のフェイズと接続し、それを象徴的に示す存在となっているのです。
外部が本質的には内部の延長だからこそ、天皇制では部分と全体が一致するのです。
だから部分の欲望と一体である天皇などは、破壊的な威力を持つ「世界の主人」の神的暴力に比べれば、民主的な存在でしかありません。
キリスト教とその大衆的形態である資本主義が、絶え間ない発展と成長によって自然的世界を神の国へと近づけていく欲望を持っているのは、
神が現世の生活を非本質的な状態として敵視しているからにほかなりません。
(だから一神教は安寧のない居心地の悪い世界なのだ、という主張も成り立つと思います)


少し話を発展させます。
西洋のポストモダン思想はキリスト教の本質からくる現世の書き換え(アップデート)を、
「近代」という時代やナチスの問題にすり替えて、本質的な自己批判(キリスト教的世界観の根本的批判)を避けています。
これに影響を受けた日本では、発展志向の「近代」を天皇制における「父」の面と重ねて、父殺しをすれば批判的な文学になると思い込んできました。
代表は中上健次ですが、村上春樹も父殺しを書けば文学だと思っていた節があります。
僕は前々からこのような日本文学の欺瞞に飽き飽きしていました。
前述したように、日本の封建的支配体制を支えているのは家族共同体の構造です。
中心は父と母の2点であり、より根源的なのは母の方です。
日本で本当に批判的な文学を書くのなら、母殺しを描かなければ有効ではありません。
特に、高度経済成長以降、日本では家庭から父の存在感は乏しくなり、母子一体化が進みました。
そのような流れの中で父殺しなど描いても、世の流れに棹さすだけのことでしかありません。
僕が村上春樹にこれっぽっちも文学性を感じないのは、彼が何とも戦っていないからです。
この国で対立や抗争から引きこもって、母性(=利権業界)に抱かれて満足している作家は、本質的に西洋文学がわかっていないと断じていいと思います。
(むしろ西洋的な文学を書こうとすると、この国で良い評価を受けるのは難しいでしょう。
表面だけ西洋風ファッションであることが大衆の欲望にかなうのです)
こうして現世共同体の根本的な批判ができない日本の俗流ポストモダン思想は、
母子一体化を背景としたナルシシズム丸出しのマザコン(場合によってファザコン)オタクを大量に生み出すことになったのです。


芸術作品という脱自的な自己

だいぶ時間がかかりましたが、ようやく疎外の話ができそうです。
『精神現象学』で自己の疎外が起こるのは、此岸と彼岸の対立構図を引き継いで、
自己意識と普遍世界が対立するものとして存在していることが原因です。
自己と世界が対立しているので、自己意識にとって現実的な世界がよそよそしく疎遠なものとして現れるのです。


我々の目の前に実在するこの世界は、個々の人の「労働」の成果によって成り立っています。
(ヘーゲルがこの「労働」を自己否定的なものとして捉えていることには注意が必要です)
そうなると、実在するものは個々の製作者と関係することで成立しているわけですから、世界は現実存在と個々の意識が相互に浸透している状態と捉えることができます。
それは自己意識と現にある実在の統一状態と言えるのですが、
労働によって生まれた対象物は、生み出した個人と切り離してもそれだけで実在する現実存在でもあります。
その事実の前に、自己意識は現実から弾き出されてしまい、自己自身を疎遠なものとして認識するようになってしまいます。
こうして自己意識は現実的な実在世界を、外的で疎遠なものと感じます。
実際にヘーゲルの文章を引用しておきましょう。


このばあい世界がそこで有する規定は、外的なもの、つまり自己意識を否定するものであるというものである。とはいえそのような世界であっても精神的な実在であるかぎり、それ自体としてアン・ジツヒは、そこで存在と個体性とが相互に浸透している。世界がこのように現に存在することダーザインが、[一方では]自己意識によってなされた仕事ヽヽなのである。とはいえ他方では世界がそのように存在することは、やはり直接的なかたちで目のまえにあり、自己意識にとっては疎遠なフレムト現実である。その現実は固有な存在を手にしているわけだから、その現実のなかに自己意識がみずからを認識するわけにはいかない。現実はそこで外的な実在であって、法にぞくする自由な内容となる。(ヘーゲル『精神現象学【下】熊野純彦訳)

おそらく『精神現象学』の狙いは、彼岸にある神の国を此岸である現世で実現することにあります。
そのため、彼岸(神の国)と此岸(人の国)の対立は本質的なものとして存在します。
ユダヤ教に顕著なように、道徳的立法は一神教の神を起源とすることで個人の内面を強く束縛します。
つまり、道徳が強く機能するには、神と人との敵対的対立という強い緊張関係を必要とするのです。
ヘーゲルはその対立を人間の世界の内部で実現しようと考えます。
此岸をリセットすることで彼岸へと至るように、個体性は自らと疎遠になることで普遍性へと至り、自己意識は自らと疎遠になることによって現実的な精神へと至るのです。
自らと疎遠であるということが、ここでは敵対的な対立として示されているのです。
ヘーゲルが「疎外」と呼んでいるものは、このように自らと疎遠になることであり、
自らを共同的な普遍性もしくは現実へと「外化」していくことです。
弁証法のメカニズムを考えればおわかりでしょうが、疎外とは否定性の導入にほかなりません。
ここでは自己意識が自らを疎外し外化することで、現実的な威力を手にしようとする力強いプロセスが描かれているのです。
(敵対性こそが強い道徳を機能させるため、「法」支配と呼ばれるのです)


長谷川宏は『精神現象学』には「自己形成」の道が示されている、と『ヘーゲルを読む』に書いています。
疎外を意識した主体が、現実にはたらきかける存在へと成長していくプロセスが「自己形成」です。
世界に対して疎外感を抱くことは、疎外を克服する契機であり、その道は「信仰」と「自己形成(Bildung)」だとまとめています。
Bildungの語は「形成」のほかに、「教養」「陶冶」などの意味を持ちます。
僕が引用文に用いている熊野純彦訳のほか樫山欽四郎訳でも、疎外された精神を「教養」と訳しています。
「教養」とは人間を「形成」するものだという考えが、この言葉には含まれているのです。
自己意識が自らと疎遠になり、共同的知性である教養へと脱自的に至ることで、
自らが「外化」され、その反省によって自己形成が行われる、というのが疎外の肯定的イメージです。
長谷川は次のようにまとめています。


現実に妥協するのでもなく、随順するのでもなく、さりとて現実から逃避するのでもなくして、現実と自分との距離を明晰に認識しつつ、的確に現実に働きかけ、そのなかで自分もまた精神的に成長していく。それがヘーゲルの構想する自己形成(Bildung)過程であり、疎外された近代人がふたたび共同性を獲得するための、それが本道であった。その過程を、ヘーゲルは疎外の疎外とも名づけているが、眼目は、現実が強制してくる疎外を主体的に疎外しかえすというところにあった。(長谷川宏『ヘーゲルを読む』河出書房新社)

僕が読んだ印象でも、ヘーゲル思想には健全で合理的な面が強いと感じました。
ヘーゲルがプラグマティズムと接合するのも特に不思議はありませんし、フランス人に合わないのもわかる気がします。
消費資本主義は精神的な成長と縁がありませんし、その意味で反ヘーゲルの〈フランス現代思想〉が消費資本主義と相性がいいのも当然に思えます。


ここまではヘーゲルの意図にそって説明してきましたが、自己を疎外することで現実へと外化するあり方は、
ヘーゲルが言うほど脱自的で共同性に開かれたものなのでしょうか。
長谷川は疎外の克服によって共同性を獲得する過程を、「疎外の疎外」と表現していましたが、
疎外の疎外によって精神が発展する過程を、『ヘーゲル用語辞典』では次のような例で示しています。


たとえば、芸術家は自分の外部の作品のなかに自分を移し入れ、自分を表現し、そこに自分を確証する。作品が彼の意図したものと一致するとは限らないが、作品と自分との矛盾を直視し、これを克服することによって彼は真の芸術家となる。(『へーゲル用語辞典』)

個人の意識が芸術作品の制作という労働によって、自己自身を否定する現実的存在へと対象化されます。
誕生した作品は共同的な世界で対象となった自己を示します。
そうして共同性の刻印された自己を、反省を通じて自己自身へとフィードバックすることが「自己形成」をもたらす、とするのです。


このように疎外のプロセスを芸術制作によって語ることは、ヘーゲル思想の本質を捉えていると思います。
疎外の克服の方法は「自己形成」と「信仰」の2つでしたが、
『精神現象学』では「精神」の章の次に「宗教」の章が配置され、そこで「芸術宗教」が語られているからです。


ヘーゲルが言う「労働」は、他者と共にある共同性へと関係する「実践」という面が強く、
自己利益だけの狭い自己を否定して成長する「自己形成」の契機になっています。
このプロセスは世界を二重化することになります。
一神教というものを考えると、世界の二重化は本質的なものです。
もう何度も確認してきたことですが、世界は此岸と彼岸という二重のかたちになっています。
この二重化が『精神現象学』では、世界が疎外によって成り立つ現実の世界と、それに対立する純粋精神の世界に置き換えられています。
自己意識の疎外が現実の世界であって、それと対立するのが純粋精神の世界だということは、
自己意識の疎外をさらに疎外したのが純粋精神であって、それは「疎外の疎外」となるため、結局は自己意識に戻っていくということになります。
家から飛び出して冒険に出たが、最終的には成長して家に帰るという成長物語の典型図式が採用されているのです。
この自己還流性については、マクダウェルが主奴論を自己内の対立として解釈したことともつながりますが、
ヘーゲル思想が観念論としてマルクスから批判されるポイントでもあります。


マルクスのヘーゲル批判

重要になるかもしれないので強調しておきますが、ヘーゲルが想定する芸術作品はパトス(受苦)的なものです。
パトスとは、簡単に言えば強い感情や情念のことですが、僕は快楽より痛みに寄ったものと理解しています。
ヘーゲルは純粋概念が現実化したものを作品と捉え、それを「痛みの器」と述べています。
ヘーゲルがキリストの受難を普遍性の基盤として考えていることが窺われるわけですが、
「宗教」の章にある「芸術宗教」の項で叙事詩、悲劇、喜劇が取り上げられていくように、そこには「痛み」という身体性が前提とされているように感じます。
詩と演劇は代表的なパトスの芸術だと思われるからです。
同様にヘーゲルが「精神」と言うときにも、地上的な「痛み」を伴う身体性をどこに感じ取るかが問題になってきます。


この点は、文学や芸術と認識されるものと単なるエンターテイメントとの分岐点でもあります。
文学作品はそんなに楽しいことが書いてあるわけではありません。
むしろ、苦しいこと悲しいことが示されているのが普通です。
なぜかと言えば、そこにはパトスがあるからです。
芸術の基礎にパトスがあるというのは特に強調するまでもないことに思えますが、
現代の日本人は暮らしが豊かになったせいで、エンターテイメントに脳髄まで侵食されてしまったのか、
パトスへの無理解を恥じることなく、平気で文学や芸術を語ったりするので油断できません。
小説はバカが起こすトラブルを書いているので、魂のステージが低いとか言っていた大学教授の書いた処女小説が、いきなり文学新人賞をもらえる時代です。
そんな人の近くで、「意思疏通ができない」ことを詩的だと偽って、自己弁護に利用する気の毒な俳人も知っています。
彼らは恵まれた時代に不自由なく育ったお坊ちゃんなので、根本的にパトスというものがわかっていないのです。


ヘーゲルは特に悲劇にパトスを見出しています。
悲劇では、登場人物たちの内的な本質から生じるパトスが、
特殊なあり方にとどまらず普遍的な個体としてのあり方で、決然と言明されているからです。
ヘーゲルは芸術の中でもギリシア的な「古典的芸術」を最高のものと評価し、それ以後のキリスト教的な「ロマン的芸術」については精神的な面に偏りすぎているとしています。
つまり、内的な魂と肉体との統一が芸術の到達点であって、そこでは理念(魂)と形態(肉体)の一致が重要になります。
ヘーゲルがギリシア悲劇に見ているものは、行為を通じて内面を表現するという芸術的理想です。
具体的な状況の制約の中にある人間が、それを引き受けた行為をすることで、内面的なパトスが表現されていくのです。


こうしてヘーゲルの芸術論について書いていると、1970年の三島由紀夫の割腹自殺のことがどうしても頭に浮かびます。
三島の死は一般に謎として様々に考察されていると思うのですが、ギリシア的な芸術の理想形を侍の切腹行為に見出していたのではないか、
という推察を書きたくなってしまうほど、ヘーゲルの考える行為とパトスの芸術論に対する「模範解答」に思えるのです。
切腹という「痛み」を伴う身体表現が、精神的には民族的共同性とエリート性を刻印し、美へと結実するならば、それは一つの芸術かもしれません。
たしかに三島の死のあと、文学から身体性は徹底的に失われていきました。
その意味で彼の美的直観は、歴史を見通していたと言えるのかもしれません。
僕はもう一度、ヘーゲル思想とパトスの話をするような気がしています。
(先の構想を持たずにライブ的に書いているので確かではありませんが)
お付き合いいただける方は、芸術とパトスと普遍性の関係について記憶に残しておいてください。


さて、ヘーゲルの疎外に話を戻しましょう。
自己意識が疎遠な対象へと「外化」され、そうして成立した対象を自己へと再統合することで純粋精神へと至るわけですが、
そこで重要になるのは、自己を疎外したものをさらに自己が取り返すことになるということです。
そこではいったん脱自的なプロセスを経てはいても、自己であり続けているわけです。
それが「観念的思考の幻想」だと批判を展開したのがマルクスです。
マルクスの『経済学・哲学草稿』の第三草稿には、「ヘーゲルの弁証法と哲学一般の批判」という章があります。
そこでマルクスはヘーゲル弁証法の自己還流性を主な批判対象としています。


自己意識が自己を対象として疎外し、その対象性を破棄することで「自己形成」を行うのが、
疎外の疎外という対象を介した自己還流的なあり方でした。
それが正しければ、そのプロセスを通して確固とした自己が保たれているわけです。
しかし、対象という疎遠なもの、他なる存在のもとでも、自己意識が自己を失っていないとするのは幻想だ、とマルクスは言います。
そこにはインチキがある、と批判するのです。


意識がこの外化と対象性を破棄し、自分のうちへと還ってきているという要素、したがって、他なる存在のもとにあっても自己を失ってはいないという要素が、そこにふくまれる、と。
 このような説明のうちに観念的思考の幻想がすべて露出している。(マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳)

マルクスはヘーゲル疎外論の自己還流性を観念的な幻想として批判します。
ここでマルクスが批判しているのは、自己疎外によって成立した「他なる存在」なのですが、
これがヘーゲルの弁証法においては宗教であり哲学に当たります。
マルクスがこの章に「哲学一般の批判」と記しているように、マルクスのヘーゲル批判とは宗教批判であり哲学批判なのです。
多くの日本人は「マルクスって哲学者なんでしょ」と思っているのでしょうが、そう単純ではないのです。
そもそもマルクスは学者ではありません。
ウィキペディアを参照する程度でもわかることですが、マルクスは学位取得後に大学で職を得ることを断念しました。
マルクスの立場は無神論だったので、それが政府の言論統制の対象になっていたのです。
その後は「ライン新聞」で編集長をしていますので、肩書きとしてはジャーナリストでしょう。
それから共産主義者としての活動へと転じていくのです。
マルクスは父も母もユダヤ教のラビ(指導者)の家系で、父のハインリヒはユダヤ教徒だったのですが、のちにプロテスタントに改宗しています。
その影響があったのか、マルクスは無神論へと傾き、宗教とそれを基礎とする哲学への批判を展開するようになったのです。
つまりマルクスは形而上学批判の急先鋒であり、真の意味でのポストモダン思想の元祖のような存在です。
本場の〈フランス現代思想〉がマルクス唯物論の影響を強く受けて成立していることは、他のレビューですでに書いたことですが、
日本のオタク御用達の〈俗流フランス現代思想〉は、哲学批判どころか「哲学」の語を売り文句に使うようなペテン師をメディアの寵児にしていました。
天皇制国家では、学問は封建的関係を維持する肩書としてしか尊重されていません。
なぜなら、家族的共同体には知性などそれほど重要ではないからです。


話を戻すと、ヘーゲルにとって疎外とは、自己を「他なる存在」──宗教や哲学などの精神的で一般的な世界──へと外化し、
それを真なる自己として認めることになるのですが、
そうやって他者となったものを再び自己が取り戻すということは、自己は他者となっていても自己を失わないということになる、とマルクスは指摘します。
これをマルクスはこう表現しています。


つまり、理性は非理性そのものに陥りながら、自己を失っていないというわけだ。(マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳)

この文章を読んだときに、僕は一つの謎が解けました。
このマルクスのヘーゲル批判は、僕が日本の〈俗流フランス現代思想〉の学者たちに抱いてきた疑問と同じものだったのです。
〈フランス現代思想〉が大きく主体批判、理性批判の文脈を持っていることは、すでに何度も書いてきたと思います。
僕が彼らの論考を読んでいつも疑問だったのは、「理性批判をしているこの論考を司る理性はいったい何なのか?」ということです。
主体についても同じことが言えます。
そして、最も重要なことは、この手のポストモダン学者が誰一人として、このような疑問を持ったことがない、ということです。
(なぜなら、一度もこの問いに触れた文章を見たことがないからです)
理性批判をしているのはあなたの理性ではないのか?
無意識を語っているのはあなたの意識ではないのか?
おそらく彼らは思考することが得意ではないので、そういう疑問が湧かないのでしょう。
外国で評価を受けている人をマネするのが正解だ、と親や先生から教わって育ったのが日本のお受験哲学研究者です。
狭い業界が世界全体と一致するアカデミズム階層ファミリーの一員でいられれば満足なのです。
彼らに葛藤が見られないことから、さっきの問いの答えは次のようなものになると推測されます。
自己の理性が処理できる範囲で理性批判をしている。
つまりは批判は見せかけであって理性の自己確認である。
もしくは、理性や主体が自分たちにとって否定的にはたらく可能性を、理性的に指摘することで自らに取り戻そうとしている。
おそらくこのどちらかではないでしょうか。
しかし、このような自己欺瞞的なやり方に現実的な意味があるでしょうか。
理性が理性であるために理性を否定してみせるわけですから。
僕は〈フランス現代思想〉がこのような操作を必要としている理由が、
キリスト教の価値観に深く依拠していながら、それを否定しているフリをしていることにあると思っています。
マルクスもヘーゲルの疎外論について、似たようなことを書いています。


ヘーゲルにおける否定の否定は、見せかけの存在を否定することによって真の存在を確証するというものではなく、見せかけの存在を否定しつつ、同じ存在や疎外された存在を確証するか、それとも人間の外に位置する、人間から独立した対象的存在としての見せかけを否定し、それを主体へと転化するかのいずれかである。
 だから、そこでは「揚棄」という語が──否定と保存(肯定)とが結びついた「揚棄」という語が──独自の働きかたをする。(マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳)

引用してみたものの、正直なところわかりにくい文章です。
(もとのテキストに途中から後で書き加えられた文があるようです)
要するに、「否定の否定」とは、否定の身振りで実際はそれを確証したり、主体へと転化している、ということです。
わかりやすく言えば、否定はポーズでしかなく、実際は否定していない、ということになります。
だから、「揚棄」という言葉が否定と肯定を同時に表している、とマルクスは言うのです。


とらえかたが形式的・抽象的であるために、外化の廃棄が外化の確証になってしまう。いいかえれば、ヘーゲルにとって、自己外化ないし自己疎外としての自己産出ないし自己対象化の運動が、自己を目的とし、自己のうちに安らいだ、自己の核心にとどいた、絶対的かつ最終的な人間の生命発現となっているのだ。(マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳)

ここがマルクスのヘーゲル批判の最大のポイントです。
ヘーゲルの弁証法では疎外の捉え方が形式的で抽象的であるために、
外化や疎外が実際には否定的な効果をもたらさず、逆にそれを確かなものにしてしまうのです。
つまり、ヘーゲルの疎外論では、「疎外の疎外」が抽象観念という絵に描いた餅になっています。
むしろ、否定されるべき疎外された状態の方が人間にとって本質的になっている、というのがマルクスの批判なのです。
とりわけマルクスが問題視しているのは、ヘーゲルの疎外が意識上で行われる抽象思考であるために、
「内容ゆたかな、生き生きとした、感覚的で、具体的な」対象が失われてしまうということです。
マルクスが考える共同性は、人々が生き生きとした状態で他の人と共にある状態です。
ヘーゲルの弁証法ではそれが実現できません。


さらに重要なのは、疎外されたものを疎外し返す作業が抽象的で形式的でしかないと、
疎外によって成立した現実を司る共同体は「保存(肯定)」されるということです。
マルクスはヘーゲルが「揚棄」をくりかえして、私法→道徳→家族→市民社会→国家→世界史と精神のステージを上げていっても、
そのすべてが現実に保存され存在し続けていると指摘します。
否定というわりには保存されて残っているのです。
それらは廃棄されて成長するのではなく、互いに解体したり産出したりと影響を与え合う要素としてあるのです。


このようなヘーゲルの「否定の否定」による形式的な疎外の克服は、次のような皮肉な結果をもたらします。


そして、結果としてあらわれる、自己を絶対的自己意識として知る主体は、神であり、絶対精神であり、自己を知って動く理念である。現実の人間と現実の自然は、この隠れた非現実的な人間と非現実的な自然のたんなる述語とされ、記号とされてしまう。主語と述語がまったく入れかわって、神秘的な主体・客体とか、客体を抑えこんだ主体性とか、過程としての絶対的主体とかが主語の位置に来る。この主体は自分を外化し、また、外化から自分へと還ってくるが、同時に、外化を内部に取りもどす主体でもあって、この過程がすなわち主体である。内部に純粋な、休みない円環が生じているのだ。(マルクス『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳)

疎外を否定するはずだった主体が、逆に疎外に囚われる事態を、「主語と述語がまったく入れかわ」るとマルクスは表現しています。
『精神現象学』の最終到達点は「絶対知」となっているのですが、
神やその代替物である絶対精神という非現実的なものが、主語として支配の座につき、
現実の人間や自然を従属する述語の位置に置いて支配します。
勘のいい読者ならお気づきかもしれませんが、ここから資本家とプロレタリアートの階級闘争までは一直線につながっています。
そうです、ヘーゲルが観念上にとどめた弁証法を、マルクスは現実社会において「行為」として実践しようとしたのです。
つまり、マルクスが行ったヘーゲルの観念論や宗教思想に対する批判は、資本主義社会に対する批判へと置き換えられるべきなのです。


ここまで論証すれば、僕が消費資本主義的な「主体」であるメタ的なあり方を、批判し続けてきた意義を理解していただけるのではないでしょうか。
村上春樹の小説世界に代表されるような、現実の自己をメタ的自意識が否定するあり方こそが、ヘーゲルが描いた観念的な疎外の現場なのです。
皮肉なことに、ヘーゲルを批判していたはずの〈フランス現代思想〉を好むオタクたちが、
現実を軽視する消費社会でヘーゲルの観念的な疎外を生きているのですが、
そのことを確認するためには、消費資本主義に現れる主体つまり「消費的主体」のメタ的なあり方が、どのようなものなのか考察する必要があります。
僕が「消費的主体」と言うのは、ショッピングをすることで自己であるような現存在のことです。
市場(マーケット)という世界に被投された(市場を前提とした状況に生きている)存在なので、〈市場-内-存在〉と名づけてもいいのですが、記述が面倒なので「消費的主体」と呼ぶことにします。


本当はここから新たなパラグラフを作ったのですが、これを書き始めるとまた長々と続くことに気づきました。
いったん本稿はここで閉じることにします。
疎外を克服するかに見えて、実際は疎外を常態化している「消費的主体」と「メディア的自己」については、次回の【その5】で書くことにします。
ネタバレ的な感じですが、僕が忘れないように先の展開を書いておきます。


前回の【その3】で、ヘーゲルの不幸な意識を考えるとき、フーコーの司祭型権力との関係について書きました。
さっきのマルクスの引用文の最後にある、「自分を外化し、また、外化から自分へと還ってくる」ことで、
「外化を内部に取りもどす主体」という部分は、マルクスによる主体批判として展開可能です。
これはフーコーの語る、近代的主体(Subject)とは共同体の権力に従属する「臣民」の意味だ、という主体批判と重なります。
主体であるはずのものが従属する臣民と化すのは、マルクスが批判する主語と述語が入れかわる形式的な疎外によるものです。
〈フランス現代思想〉が決定的に批判理論になりえないと僕が感じているのは、
人々の生き生きとした生を疎外している権力を、国家権力やそれによる全体主義として語らせてしまい、
本質にあるマルクスの資本主義批判をちっとも展開できていないことにあります。
次回に詳しく書きますが、ぶっちゃけて言えば、〈フランス現代思想〉が批判する権力は、
「場所性」と「物質」に基盤を置く共同性(国家)だけでしかありません。
だから、場所や物質から「逃走」をすれば(インターネットを語っていれば)、権力に包摂されずに済むような幻想が生まれたのです。
しかしGAFAを考えればわかるように、資本というものには場所性など全く関係がないのです。
つまり、ネット時代において主体批判をするのであれば、消費文化とメディア(と、それに依存するオタク)の批判が避けて通れません。
「場所」に依拠する生活を廃棄して、資本の用意したディズニーランド的な「異世界」に移住すれば近代を超えられるわけではありません。
ハッキリ言いましょう。
オタクとは資本に徹底的に去勢された「家畜」です。
さらに言えば、オタク相手に商売している連中は、「家畜」の管理をしていると思っている「番犬」です。
どちらも主人ではありません。
僕の展開する批判理論が、〈フランス現代思想〉で己を慰撫している「家畜」化された元ヒューマン(ポスト・ヒューマニティ!)から、
徹底的な攻撃を受ける(もしくは黙殺される)のは、必然だと思っています。


読者の皆様をお待たせしているうちに、不甲斐なく年を越してしまいました。
取り扱うテーマが難解になっているので、更新ペースはあまり早くならないでしょうが、今年もよろしくご愛顧をお願いします。


0 Comment

Comment Form

  • お名前name
  • タイトルtitle
  • メールアドレスmail address
  • URLurl
  • コメントcomment
  • パスワードpassword