南井三鷹の文藝✖︎上等

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俳句の終わりを考える【後編】

河東碧梧桐という「詩人」の亡霊

俳句はクリエイティブでもなければ、アートでもない、と僕は言いましたが、
何も俳句をけなしているわけではありません。
そんなものがなくても俳句は立派に文学として存在できます。
俳句には俳句の道があるのですが、なぜか最近の俳人は俳句にコンプレックス(隠キャ!)があるらしく、
俳句でありながら俳句でないものとして見られたい、という青臭い我儘に膠着してどんどん作品の質を下げています。
俳句として見られたくないなら、俳句雑誌や俳句番組になど出て来なければいいと思うのですが、
前述したように、彼らは本質的に業界のインフラに依存しないで売り上げを稼ぐことができない新フレーバー製品なので、旧製品の販売ラインから外れることができないのです。
このような試みが何か生産的な結果を生むはずもないのですが、クリエイティビティと無縁な俳人は本質的な業界批判ができない人ばかりなので、
出版メディアの没落に付き合って、文学としての俳句文化も没落させてしまうことになりそうです。
まあ、本当に没落するまで僕の言うことなどわからないのでしょうし、僕自身は不愉快な目に遭わされた業界なので、勝手にすればいいと思うようになりました。



俳句の終わりを考える【前編】

ジャーナリズムと一体化した文学

僕は俳句を作ることはありませんが、ある不愉快な事件から俳句を学ぶようになりました。
「週刊俳句」というサイトで生齧りの現代思想を身勝手に用いる某俳人を批判したら、当人が応じることを避けるだけでなく、代わりに仲間が不愉快なコメントをしてきたのです。
彼らは自分たちが現代思想をきちんと学ばずに適当なことを書いているくせに、
その批判をした僕に「俳句をやらないなら謙虚でいろ」などと言ってきました。
そんなに偉そうに言うなら、彼らの土俵で論戦してやろうと思って俳句を学んだのですが、
その結果わかったことは、彼らは現代思想どころか俳句についても生半可な知識しか持っていなかったということでした。
俳人の多くはアーティスト気分で俳句を作ることには一生懸命なのですが、案外俳句や俳句史をたいして勉強していないのです。
そのため俳人は自分のアラがバレないように、互いに批判をすることがタブーになっています。
批判は裏アカウントやエアリプで行われ、それほどでもない句であっても表面上は過剰に褒め合う「挨拶」が客観評価として流通する有様です。
批判をする人間は非礼であり悪である、という通念が俳句の世界にはあるのです。
それだけではありません。
当時の「週刊俳句」周辺にいた俳人は、俳句をやっていない人間を差別しておきながら、今や俳句の勉強が必要ない「わからない」俳句を褒めることに執心しているのです。
しかし、こういう連中を出版やマスコミなどのジャーナリズムがありがたがって起用しているのも事実です。
どうしてこんな事態になってしまったのでしょうか?